1945年 9月7日 『第32軍の降伏』

第32軍の降伏文書調印式

琉球列島の「降伏」 ⑧

降伏調印式は9月7日午前11時20分から嘉手納の第10軍司令部前広場で行われる運びになった。広場の前にはシャーマン戦車、パーシング戦車、自動推進の155ミリ大砲が威容を誇り、陸軍と海兵隊の射撃部隊が整列した。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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琉球列島の降伏調印式に集まった記者団。(1945年9月7日撮影)

Press group at signing of Jap surrender at Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前10時30分物見高い兵士の群れがつめかけ、見物に都合の良い場所に席をとった。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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沖縄本島での降伏調印式。見物人が丘の上で調印式を眺めている。(1945年9月7日撮影)

Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Spectators on the hill watch the ceremony.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前11時、陸軍バンド部隊が〝オールド・グレイ・マーチ〟を奏でながら登場し、数分間広場で演奏を続けた。そうそうたる招待客が登場してきた。第8航空隊のドゥリトル中将、第95機動部隊のオリンドーフ提督、第1海兵師団のペック少将、陸軍サービスコマンド24のチーズ少将らが貴賓席に座った。

11時20分、ラーセン大佐が日本側将校の一行を率いて登場した。納見将軍を先頭に、代表団は直ちに中央のテーブルの後ろの椅子に座り、その背後に補佐官が一列に並んだ。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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スティルウェル大将に対して琉球列島の降伏調印をするため、沖縄本島の第10軍司令部に到着した日本軍将兵(1945年9月7日撮影)

Japs arriving at the 10th Army Headquarters at Okinawa to surrender Ryukyus to Gen. Joseph Stillwell.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球列島の日本軍降伏を受け入れるため、降伏調印式に到着したスティルウェル大将沖縄本島の第10軍司令部にて。(1945年9月7日撮影)

Gen. Joseph Stillwell arrives at the surrender table at 10th Army Headquarters, Okinawa for the surrendering of the Ryukyus by the Japs.

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11時30分スティルウェル将軍、続いてメリル将軍と二世通訳のロバート・オダ軍曹が登場した。射撃部隊は捧げ銃の姿勢をとり、広場の全体が敬礼を捧げた。第10軍司令官スティルウェル将軍は厳かに敗軍の将に向かって宣言した。「諸君は私の指示をそれぞれが責任をもって実行せねばならない」。オダ軍曹がそれを日本語で伝えた。最初に納見将軍が6通の降伏文書に署名した。高田将軍、加藤提督と続いて署名した。』(233-234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233-234頁より》

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。先島群島の司令官(指令部は宮古島にある)納見敏郎中将 (第1調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Lt. Gen. Toshiro Nomi signs for surrender of Sakishima Gunto, Miyako Shima (1st signer).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。奄美群島の司令官(司令部は徳之島にある)高田利貞少将 (第2調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Maj. Gen. Toshisada Takada (Army Force Comdr.) signs surrender of Amami Gunto, Tokuno Shima (2nd signer).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 最後にスティルウェル将軍がテーブルに歩み寄り、文書に署名して、「降伏」を受諾した。将軍は日本側代表団の正面に戻り、代表団に告げた。「以上だ。諸君は宿舎に戻ってよろしい」。降伏文書のコピーが3人の署名者に渡され、日本の将軍たちは去って行った。スティルウェル将軍はその後ろを見ながら言った。「太平洋のサムライたちが去っていくんだ。戦争は終わったんだ」。』(234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 234頁より》

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。降伏文書に調印しているスティルウェル大将。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Gen. Joseph Stillwell signs surrender papers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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『第10軍司令部

1945年9月7日

降 伏

下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より

北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より

北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将

先島群島日本軍司令官

高田利貞少将

奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将

奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル
米国陸軍大将』

アイスバーグ作戦 – 沖縄県公文書館

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沖縄本島での降伏調印式。沖縄本島にて。降伏調印式の遠景。 頭上には航空機が飛んでいる(1945年9月7日撮影)

Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Long shot of ceremony with planes over head.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄市民平和の日 | 沖縄市役所

『こうして、儀式は正式に完了し、南西諸島琉球諸島の支配はアメリカ合衆国に移された。九州から台湾に及ぶ琉球列島は1879年以来日本の領土になっていた。午後12時30分、日本側代表団は読谷飛行場から北と南へ飛び立っていった。』(234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 234頁より》

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降伏調印式は基地の中 | 琉球放送

 

 

第32軍の敗残兵

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

住民にスパイ容疑をかけて、久米島で4件もの虐殺事件を起こした鹿山隊も降伏した。

9月7日久米島守備軍鹿山曹長以下41人の日本兵が山を下りて、北原郊外の降伏調印式場へやってきた。軍政府代表としてウィルソン隊長以下モーク少佐、ラシター中尉、ホプキンソン大尉らが列席した。その後、日本兵捕虜41人は本島に送還された。

…降伏調印式が終了すると、鹿山は久米島で死んだアメリカ兵の遺体を引き渡したい、と言った。その話では、4月1日アメリカ軍航空機が久米島の海岸線に墜落し、パイロットは死亡したとのことだった。鹿山はその遺品であるという拳銃を差し出した。拳銃の皮ケースには D・R・デニングとバン・モーストラルの2つの名前が刻まれていた。』(321頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 321頁より》

9月7日、身を潜めていたはずの鹿山隊30余人が銃を肩に掛け、仲地の集落を堂々と行進していた目指すは米軍が待つ広場。降伏式に向かうところだった。鹿山は顔見知りの住民を見掛けると、「元気か?」と声を掛けて余裕を見せた。…鹿山が米軍幹部に銃を渡し、その部下たちも次々に武装を解除した沖縄戦の組織的戦闘の終結から2カ月余。久米島の住民は虐殺の恐怖からようやく解放されたのだった。』(121頁)

『米軍はこの日、久米島から鹿山隊を移送した。鹿山隊は米軍が配給した服に着替えさせられた。背中には捕虜を表す「PW」の2文字が白いペンキで大きく記されていた。食料などを詰めたとみられる箱を持たされ、行進してきた道を引き返した。降伏式前の行進していた姿とは一転し、鹿山を含めた全員がうなだれていた。「人間はこうも変わるものか」。島民らはその光景を見詰め、ただ惨めだと感じた。』(122頁)

《「奔流の彼方へ 戦後70年沖縄秘史」(島袋貞治 著・琉球新報社 編/新報新書) 122頁より》

 

恩納(おんな): 第4遊撃隊

恩納岳に潜み、いつの日か遊撃戦を展開するはずだった敗残兵たちは、前日の6日、既に捕虜となっていた日本兵の呼びかけに応じ、投降することを決めた。

『翌朝早く、小寺少尉はニコニコしながら約束どおり、私たちを山に迎えにきてくれた。持っている武器は全部捨てさせられた。

私は戦友の肩につかまり、かすかな気力をかきたてながらヨロヨロと、指定された谷茶部落の投降地への一歩一歩を踏みだした。

いちどでいいから昼間、大手を振って歩いてみたい」と思った、米軍への恐怖の小径を今日は昼間、しかも小寺少尉ひとりを信じて投降してゆく気持ちには、まだ不安がないでもなかった。

アメリカ兵は自動小銃こそ持っていたが、私たちのトラックを待たせ、チューインガムをかみながら、これまで敵であったという態度をすこしもみせなかった。

かんたんな身体検査を受けた後、私たちはトラックに乗せられた。そのとき、反対側からジープが1台疾走してきて停まり、中から半ズボン、開襟シャツに防暑帽をかむった恰幅のよい老齢の日系二世らしいひとりが降り立ってから「いよう、まだいたんだな・・・」と微笑しながら、サングラスをはずして車上の私たちを眺め廻した。その顔に私は、「どこかでみた顔だ」と、胸がつかれる思いに頭をひねってやっと思い当った。米軍協力の特別功労者として、ジープまであてがわれているその人こそは、つい4カ月前の恩納岳戦のおりに、「地理案内は私たちがいたします」といって、岩波大尉に決起をうながしたことのある白髪が頭に霜をおく恩納村村長の古山氏その人ではないか。私は瞬間、まるでハンマーか斧で頭の脳天を力いっぱい殴られたような衝撃をおぼえ、目の前が真暗になるようだった

トラックはやがて私たちの思い出の地、谷茶を離れ、仲泊を左折して島の最狭部を縦貫している東西横断道路を走って、東海岸に出た。眼下は金武湾だ。さまざまな船やヨットが浮かんでいるのが見える。左手には石川部落があってトラックはそこに立ち寄ったから、米軍保護下の住民区を垣間見ることができた。小寺少尉の説明でいまここは「沖縄の首都」になっているそうだ。屋根のとんでしまった家には米軍のテントをかけて、何万人も住んでいた。』(259-260頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 259-260頁より》

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金武湾上陸地点。/ Chimu Wan Landing Beach, Okinawa.

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『土のようだった住民の顔は、男も女ももう生色をとりかえしていた。…やがてトラック上の異様な風態をしている私たちを見ようとして、子供たちや娘さんたちが大ぜいゲートのところまで出てきた。…嘉手納飛行場の通信任務として、沖縄の大ぜいの人たちから顔を知られている私は、命ながらえた恥ずかしさに私は顔をおおっていた

私は戦闘中に悲惨であった避難民たちの面影を浮かべ、こんなにあたたかい保護がくわえられるのなら、なぜもっとはやく・・と心がくもる思いがした。そして、荒廃した島の人たちに幸あれと祈らずにおれなかった

トラックは金武湾岸を北上してゆく。

…遂に「屋嘉」にきたのだ。

どの顔も土のよう、おちくぼんだ目だけが、狼のようにけわしく光っている。鼻をつくウミのにおいに、ゴム手袋をして身体検査をするMPは思わず鼻を押え、目をそむけた。

素裸にされてDDTをかけられたあと、PW(戦争捕虜)と墨書された服に着かえされ、私たちは一人ひとり写真を撮られたうえ、調書に署名させられた

収容所はみどりの山々を背にして、海岸よりのやや開けた砂地にあった。周囲には二重に鉄条網が張りめぐらされて、正面と周囲、四カ所に監視哨がそびえている。

この鉄条網のなかに整然と天幕がならび、高級参謀の八原博道大佐以下、7千名の同胞が収容されていると聞いて、私はおどろいた。10万人あまりの軍隊から、たった7千名、あとは戦死を遂げてしまったか、斬り込み自殺、敗走中での死亡、海上での溺死、あるいは地方民への変装潜行、日本軍10万壊滅というわけだ。それにしてもよくも7千人の者が捕虜になったものだ。沖縄玉砕劇もこれで幕がおりた。この7千人はたしかに幸運なものたちであったが、私はいろいろと考え、複雑な感情におそわれた。

その人たちが、みな安心しきった表情でいるのが不思議でたまらなかった。私たちは敗戦の虚脱感の中でこの日から米軍の寛大な保護のもとに、この同胞たちの仲間入りをした。』(260-261頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 260-261頁より》

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沖縄本島石川の地元民。トラックを待つ2000名の人。各々が様々な部隊の地に向かうことになっていた。

Natives at Ishikawa, Okinawa. About 2000 people waiting for trucks to various units on island.

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1945年 9月6日 『ご苦労さまでした』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ⑦

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月4日、日本側の代表者らが読谷飛行場に到着。降伏に関する詳細な指示が書かれた文書などを受け取り、翌5日には一旦部隊へと戻った。

9月6日、降伏文書に公式署名をする日本側指揮官と将校を招へいする取り決めが完了した。G2情報部のラーセン大佐はC-47輸送機で宮古島に向かい、納見中将の一行を迎えた。その構成員は、納見敏郎中将(陸海軍総司令官)、村尾繁二海軍大佐、一瀬壽(ひさし)大佐、杉本一夫中佐、通訳の小坂、高村であった。納見中将の一行は6日午後3時に読谷飛行場に到着し、直ちに特別尋問センターに向かった。

一方、G2情報部のコナー少佐とフラグラー中尉はC-47機で徳之島に向かい、高田陸軍少将と加藤海軍少将の一行を迎えた。徳之島構成員は高田利貞陸軍少将と中溝中佐、奄美構成員は加藤雄海軍少将、佐藤貞雄海軍中佐、坂田朝太郎海軍大佐であった。高田将軍の一行は6日午後6時に読谷飛行場に着き、納見将軍の一行に加わった。

その夜、日本側一行に「無条件降伏文書」のコピーが渡され、誤解のないように文面を検討することになった。その文書は次のようになっていた。

-----降伏------下記の日本軍指揮官は1945年9月2日、日本帝国政府が横浜で受諾した全面降伏に準拠して、ここに正式にか領域内の琉球諸島無条件譲渡する。北緯30度東経126度、北緯24度東経122度、北緯24度東経133度、北緯29度東経131度、北緯30度東経131度30分を結ぶ領域-----

(ここで読者は降伏と無条件譲渡という言葉に注意していただきたい。英語では降伏も譲渡も surrender となっている。軍隊の降伏も領土譲渡も英語では同じ言葉だが、日本語では全く違う。「領土を降伏するという日本語はない。降伏を譲渡と訳すると完璧な領土譲渡文書となる。これはただの降伏文書ではなかったのだ。)』(229-233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 229-233頁より》

 

 

第32軍の敗残兵

恩納(おんな): 第4遊撃隊

9月6日の朝だった。絶望のなかでじっと林の奥に潜伏している私たちの山塞に、下方の谷間の入口あたりから熊笹がざわざわ鳴って、何者かが近づいてくる気配がした。

「スワッ敵襲」とばかり緊張したところ、

日本兵はおるか。44飛行場大隊の者はいないか」

と、突然、四方の静寂をやぶって大声がした。

私たちが断崖上からオドオドしながら、谷間の声の主をたしかめてみると、米軍の服こそ着て腕に腕章を巻いているが、なんと、まぎれもない、わが部隊の小寺主計少尉と、中折帽子をかむっている4人の島の人たちではないか。

やっと安心した私たちは、ふらつくように小寺少尉の前に姿を現した。小寺…少尉…は、

「私は恥ずかしいしだいながら、6月に本部半島で捕虜になり、目下、米軍の保護下にある・・・みなさん、おどろいてはいけない・・・」

と前おきして、

じつは8月15日に戦争は終わった。みなさんの生命は連合軍によってジュネーブ条約により保証されている」と一気にいうと、

ご苦労さまでした。諸君は立派に任務を果たされたのである・・・」

とつづけた。まさに青天の霹靂---私たちはただ呆然となってしまった。とてもすぐに信ずることはできなかった。いろいろなことをたしかめてゆかなければ・・・しかし、何をたしかめるのか? 胸のなかにワーッと感動の波が起って、整理がつかなかった。

とてつもなく重大な出来ごとは、まったくただ感動のうちにすぎてしまうものだ。しばらくして気がつく。「そうだったのか・・・」張りつめていた気持ちがグラグラっとすると、私は無言のうちに6発残った拳銃弾のすべてを抜きとってシダの林のなかに投げすてていた

祖国は敗れた! ・・・歴史的のこの一瞬! だが私も戦友もだれも涙を流さなかった。出る涙はもう、戦争中にぜんぶ出しつくしていた、というのが真実であろう。

その晩、私たちは早速、下方の谷間にいる海軍兵2名に連絡をとってやった。彼等は私たちよりも1日おくれて投降することに決った。

小寺少尉がマッカーサーは9月2日に伊江島に立寄ってから、厚木基地に飛び立ったという話をして、岡本上等兵が、「そういえばそのころ伊江島の方が爆音で騒々しかった」といった。

私たちは小寺少尉から贈られた缶詰と、たくわえてあった食糧ぜんぶを開けて、一晩中戦友たちと語り合った。(257-258頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 257-258頁より》

(投稿者註: マッカーサーが沖縄に滞在したのは、文中にある9月2日ではなく、8月29日〜30日である。)

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沖縄で自決するよりも降伏を選んだ大勢の日本兵。身なりはみすぼらしくひどく衰弱しているが、投降する日本人の数は彼らがようやく正気を取り戻してきていることを表しているといえる。

One batch of the large number of Japs who chose to surrender rather than be killed or commit hara kiri on Okinawa. Those who surrendered were a poorly garbed, emaciated lot--but the number surrendering indicated that the japs finally were coming to their senses.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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降伏した300人の捕虜。沖縄。/ 300 POW' s surrender. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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日本軍が連合軍の降伏条項を受諾したと聞き、丘の隠れ場から出てきた二人の日本兵とその彼らに質問する陸軍翻訳官。沖縄。

An army interpreter questions two Japs who came out of hiding in Okinawa's hills following announcement that Japan had accepted Allied surrender terms.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年9月6日(木)

1945年 9月5日 『祖国という観念』

米軍の動向

戦利品

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オーウェン・ランディ(右)のとっておきは、長さ30フィートになった、記念の署名入りの紙幣70枚である。(1945年9月5日撮影)

Prized possession of Owen Landy (right) is this 70-piece, 30-foot long short-snorter bill.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

降伏文書調印式までの動向 

琉球列島の「降伏」 ⑥

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月4日、日本側の代表者らが読谷飛行場に到着、降伏に関する詳細な指示が書かれた文書などを受け取った。

『…9月5日の朝、彼らは第10軍参謀長フランク・メリル少将に面会し、降伏指示文書の不明確な点について質問を許された

日本側代表団は午後1時、読谷飛行場から離陸した。宮古島代表団は旧式の爆撃機を利用し、徳之島代表団はC-47輸送機で送られた。』(229頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 229頁より》

 

 

第32軍の敗残兵 

美里野戦病院

『入院して4日目に、前回と同じように4度目の熱が出たあと、マラリアの症状は止まった。しかし、この頃からアメーバ赤痢の症状が出てきた。血便とも粘便ともつかぬものが、暇にまかせて数えたところでは1日53回にも及んだ。こうした状態では食欲は全くなく、Kレーションの中から角砂糖だけを抜き取って、舌の上でとろけさせるだけの日が続いた。私の枕許にはレーションの箱が煉瓦のように積まれた。

隣に寝ている住民の患者が、遠慮がちに

このレーション、食べないなら私にくれませんか。」

といった。私は〝角砂糖のほかは、みな持って行ってくれ〟と言うと、喜んで1日おきくらいにくる身内の者に、それを渡していた

便の始末は、最初のうちは便器を用いてテントの外で足し、50メートルほど離れた仮設便所まで捨てに行っていたが、その途中でも何回か使用せねばならぬようになり、やむなく便器を1個ベッドの下に借用しておいた。ところが、このテントの牢名主のような顔をして、他の者に大声で文句を言っていた兵隊が、

「手めえ、便器を独り占めにするない。使ったら洗って外にかけておけ」

と私に向かってどなった。私もそれはわかっているのだが、動くとすぐ尻の方がいかれてしまう状態なので、もはや方法もないと諦めて、腰にバスタオルを巻き、毛布で身体を包んでたれ流しの状態になった。

これが2日も続くと、牢名主もさすがに同情したのか、または私に気合を入れ過ぎたのを気がとがめたのか、衛生兵に、

あそこの若いのが、あぶないようだから何とかしてやってくれ

と私を指して言った。ようやく米人の軍医と衛生兵、それに前とは違う元気のいい若い日本人の軍医が来たが、日本人の軍医は入って来て私を見るなり、顔をしかめただけで手をかけようともしなかった。』(225-226頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 225-226頁》

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コザ付近にある軍政病院。北向き。

Military Government Hospital area located near Koza, looking north.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『この頃は、皆が眼を覚める時刻になっても、一向に動こうとしない者がボツボツとあって、ほとんど夜中のうちに便をたれ流しにしたまま息絶えており、隣りの者も気付かないことが多かった。そうなるとすぐテントの外に出し、収容所から来る捕虜の作業員達が近くの藷畑に埋めてしまうのである。何日かに一人は確実に発生するそうした者を見ていると、〝やっと阿嘉島生き延びて来たのに、俺もここで終わるかもしれない〟と、いささか心細い日日での連続で、他の者の目にも私の状態がもうそれに近いものに映っていたようであった。

こうした身心共に病み衰えて、ズルズルと絶望状態になりかけているのを、ようやく食い止めることが出来たのは、19歳という肉体のもつ復元力であった

熱の一週間とそれに続く下痢の一週間で、瘠せることの限度まで来た時に、ようやく僅かながら食欲が出て来た。

やっと立上れるようになった頃、このキャンプに看護婦兼雑役のために来ている沖縄の娘が、放置されたままの私に同情して、洗たく場からたらいを持って来て水浴させ、便で鼻もちならぬタオルなども洗ってくれた

私は感謝の意を表すために、積み重ねてあったレーションを渡した。そして、もし出来るなら米と梅干と味噌を見つけてもらいたいと頼んだ。米はとにかくとして、この戦場のあとの沖縄の地では、味噌や梅干はとうてい不可能な望みと思っていたのだが、どこでどうやって見つけたのか、2、3日すると少量ながら米と味噌を持って来てくれた

一方私のあとを追うように、これも赤痢の疑いで送られて来た渡辺が、偶然隣りのテントに入ってきたので、彼に粥を作ってくれるように頼んで、子供のころから変わった好物としていた、粥に味噌を入れて掻き廻したものを、少量ながら口にすることができた。これが回復のきっかけとなったようで、下旬になってようやく、ふらつかずに歩けるようになった。』(226-227頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 226-227頁》

 

 

そのとき、住民は・・・

 米軍野戦病院: 久志村

『日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストが出ると誰かが歌った

そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。』(121頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》

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仮設病院施設。沖縄にて。/ Okinawa. Temporary hospital facilities.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

1945年9月、…私が、かつて経験したことのない世界---戦後の沖縄がそこに始まっていた。…配給所前の国旗掲揚のポールにはためいている星条旗に気がついた。喜屋武の海岸に追い落とされたとき、米艦艇のマストにひるがえっている星条旗を間近に見たときの恐怖がよみがえったが、それはすぐに消え、雑踏の匂いに包まれた。

…久志へ来て間もなく、市長、市会議員の選挙があった。…久志は、久志、ミヤランシン、辺野古、大浦崎の4つの「区」を持つ市であった。ところが、「メイヤー」と呼ばれるもうひとりの権力者がいた。彼は久志市の中心久志区の区長であるべきであるが、この区長のメイヤーは市長選挙よりも前、米軍の久志占領と共に任命されたらしく、食糧配給の実権を握る実力者であった。民意によって選ばれた市長は、戦後処理の第一歩たる住民の出身市町村への移動事務が主たる仕事であった。

だから、市長選挙があったとしても「区長のメイヤー」の存在に変わりはなかった。彼の事務所には米大統領トルーマンの肖像が掲げられ、メイン・ポールにひるがえる星条旗とともに、新時代の到来を謳歌しているようであった。戯画ではない。本当のことだ。』(121-124頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121-124頁より》

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軍政府施設の上ではためく米国旗。沖縄本島の久志にて。

The American flag flying over the Military Government center at Kushi, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『アメリカ・ナイズされたメイヤーさんに対して、「アメリカーになったつもりでいる」と、陰で非難をする者はいたが、面と向かって「大和魂を忘れたか!」と怒鳴る者はいなかった。〝大和魂〟は戦争で吹き飛ばされ、米兵との交歓風景があちこちで見られた。米琉親善という言葉はまだ無かったが、〝民主主義〟という言葉がそろそろオールマイティーになりつつあった。』(124頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 124頁より》

 

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読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

1945年 9月4日 『こんな国のために死ぬもんか』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ⑤

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。

9月4日午後2時宮古飛行場から飛び立った日本軍航空機は宮古上空でアメリカ軍護送機と落ち合い、ともに午後3時5分読谷飛行場に到着した。そこにはアメリカ兵が出迎えていた。それから第10軍本部のSIC特別尋問センターへ案内された。徳之島の飛行場は砲弾で破壊され日本軍航空機の残骸が散乱していたものの、徳之島の代表団を迎えるアメリカ軍航空機は予定どおり着陸した。

コナー少佐とボッグズ中佐らの第10軍代表団を乗せた2機のL-5機が緊急修繕された徳之島飛行場に着陸した。そこにはコリンズ少佐とマカドウ少尉の2人の捕虜が待っていた。2人は待ちに待った釈放の日を喜んだアメリカ製煙草とチューインガムを口に運んで、自由を味わった

アメリカの水はうまいなあ」と差し出された水筒の水を飲んだ。他の地域で保護されたアメリカ人捕虜と比べると、待遇は良好だったらしい。L-5機のパイロットが日本人と一緒に飛行場の滑走路を点検し、C-47輸送機が無事着陸した。

コリンズ少佐とマカドウ少尉が輸送機に乗り込み、徳之島代表団がそれに続いた。中溝中佐と佐藤海軍中佐のどちらかが英語を話せるということだった。輸送機は無事、飛行を続け、午後4時読谷飛行場に着陸した。午後7時半、日本側代表団は全員、参謀長室に向かった。指揮官あての詳細な指示が手渡され、その夜、日本側代表団はその文書の検討に追われた。』(228-229頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 228-229頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/417464.jpg

読谷飛行場に着いた、先島群島多賀俊郎少将の全権と民間人通訳竹村氏。(1945年9月4日撮影)

Japanese Envoya from Sakashima Gunto Maj. Gen. Toshiro Taga and civilian interpreter Wert Takamura arrive at Yontan Airfield.

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第32軍の沖縄観

『アメリカ軍を中心とする連合軍の猛攻が日本本土の方に迫りつつあった1944年初めごろ、日本側としてはサイパンを含むマリアナ諸島を先端とする日本の国防圏を維持するための後方航空基地が必要となっていた。そのため、日本軍は沖縄諸島を含む南西諸島に注目した

太平洋戦争では、大艦巨砲主義から航空主力主義に戦略が転換されていたのだが、日本軍はこの流れに乗り遅れ、航空機と搭乗員、そして航空母艦が決定的に不足していた。その航空母艦の代役として日本軍が選んだのが、沖縄諸島奄美大島も含む)だった。沖縄諸島に航空基地を建設し、これらの〝不沈空母〟から特攻機を発進させる構想が泥縄式に浮上したのだった。

1944年3月22日、大本営は切迫した戦局に対応するため、沖縄守備軍(第32軍)を新設し、同年5月ごろから、伊江島から石垣島にいたる全県下で中飛行場(嘉手納)、小禄飛行場(那覇)など15カ所の飛行場建設を始めた。そして、この建設作業や、それに付属する軍の陣地構築に、沖縄住民は根こそぎ駆り出された。現地徴兵、防衛招集、労務徴用、勤労奉仕作業などといった名目の、有無を言わせぬ総動員だった。』(3-4頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 3-4頁より》

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1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force;(2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄に渡った日本兵らは、生活様式や言葉など文化の違いに戸惑った日本語とは違う言語を話す人々が、米ではなく芋を主食にし、裸足で生活していたため、沖縄出身の兵隊たちは、本土の兵士に馬鹿にされ人一倍辛酸を嘗めた。

沖縄の人は日本人以上に日本人であろうとした」。沖縄戦を経験した元日本兵の1人はそう語る。戦時中は特に、日本軍への協力姿勢を示さなければ、「非国民扱い」「スパイ扱い」されるという恐怖心が沖縄住民に浸透しており、また、本土から蔑視されないように皇民化教育を徹底しようともがいていた。「沖縄の人は私ら兵隊以上、日本人以上に一所懸命やって、日本人だということを認めてもらおうとしているのが痛いほど分かった」と、元日本兵は、当時を振り返った。(33-34頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 33-34頁より抜粋、一部要約》

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写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『毎晩のように執り行う陰鬱な初年兵〝教育〟があった。沖縄本土に駐留した球12517部隊独立高射砲第27大隊に所属した男性は、糞尿の汲み取り作業の際に軍靴についてしまった人糞を上等兵に見咎められた。「舐めろ天皇陛下からお預かりしたものを汚すとは何事だ。舐めて食ってしまえ」。言葉に表せない屈辱だった。両目から「稲妻が飛び出るほど」殴られた。執拗なしごきでほとんどの初年兵が軍人精神に凝り固まっていくなか、男性の胸中には「こんな国のために死ぬもんか」との思いが増幅していった。』(30-31頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 30-31頁より。証言者らを「男性」と書き換える》

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小禄: カメラを向けると顔を伏せる3人の日本兵捕虜。側に座っている他の捕虜は興味なさそうに見ている。これら日本陸軍、海軍、沖縄防衛隊の兵士らは、沖縄戦終結までの最後の24時間で第6海兵師団が捕らえたこれまで例のないの306人という捕虜の一部だ。

OKUKU, OKINAWA: Three Jap prisoners duck heads before camera while the others sit disinterestedly watching. These jap soldiers, sailors and Okinawan home guardsmen were among the unprecedented 306 who filtered through Sixth Marine Division front lines during final 24 hours of Okinawa battle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『石部隊独立歩兵第12大隊所属の男性は、…「軍というところは真空地帯」と表現する。一般世間の常識は通らない。上官、先輩から殴られて半殺しの目に遭わないよう、理性や感情、判断力を働かさずに、言われたことを機械的に遂行する。』

男性は、部隊が中国大陸にいた頃には、『「(日本軍部隊の)普通の中隊だと、生きた捕虜を連れてきて〝度胸試し〟と称して初年兵に突き殺させるんですわ」』と語る。(37頁)

沖縄守備軍の兵士の大半は中国の戦場から沖縄に転戦している。日本軍将兵が沖縄に行ってみると、便所で豚を飼うなど、習慣や言葉が本土のそれとは大きく異なることを知り、「沖縄の人は本土の人間と違う」という感情が多くの兵士たちの間で湧いた。

その結果、日本兵らは「同じ中隊の戦友であっても、沖縄出身の人は馬鹿にされていた」、「中国人に対する差別感と同じような見方をしていた」、「対中国の優越感。それと似たような、見下す感情を沖縄住民にも抱く風潮はあった」と話す。

『日本本土とはまったく異なる沖縄の文化に、もともとは中国の冊封国だったという「琉球」の歴史背景も加わり、日本兵たちは沖縄の人を中国人と同一視、あるいは中国人に対するのと似た感情を抱いたのだった。戦時中、敵国だった中国の人々に対して、日本人は「優越感を持って」(証言者のほぼ全員)おり、なかには「チャンコロ(中国人の蔑称)は人間じゃない」と上官や先輩兵から叩き込まれた」という証言者もいる。中国人と「沖縄人」の両者に対する差別感情ーー。多くの日本軍将兵は中国で培った兵隊としての感覚を、沖縄に持ち込んだ。』(113-114頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 37、113-114頁より抜粋、一部要約。証言者らを「男性」と書き換える》

 

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1945年 9月3日 『次々と降伏する日本軍部隊』

米軍の動向

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飛行中隊の司令部にて行われた対日戦勝記念式(1945年9月3日撮影)

VJ Day ceremonies held by Hq. Squadron.

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鹵獲した日本地図を見ながら日本陸軍の代表者と協議する海兵隊の将校。沖縄北端の日本兵の配置を調べるオーリアン中尉(ワシントンDC出身)日本兵将校、ハーバ−大尉オハイオ州出身)。降伏した日本帝国陸軍のホンダ大尉は、この地域の全ての日本兵を統率していた。(1945年9月3日撮影)

Marine officers confer with a representative of the Jap Army over a capurtured Japansese map. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S.E., Washington, D.C.; the Jap official, and Capt. Theodore H. Harbaugh, 35 Rirchhead Place, Toledo, Ohio; study the map where the Jap soldiers are located on the northern end of Okinawa. Capt. Honda of the Imperial Japansese Army, who is shown surrendering in these pictures, contorols all the Japansese soldiers in this area.
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沖縄本島本部半島で行われる日本軍降伏の正式な儀式に備え、翻訳官ブラウン海兵隊中尉が日本海軍司令官白石大尉に対し、最後の指示を与える。東京湾での平和協定調印のあと、彼の指揮していた183人の海軍軍人らは投降した。刀を手にしているのが白石大尉。(1945年9月3日撮影)

Preminary to the formal surrender of Jap forces on Motobu Peninsula, Okinawa, Marine Lt. Robert L. Brown of Drew Forest, Madison, N.J., an interpreter, gives final instructions to the Jap commander, Navy Lt. Shiraisha of Tokyo. He commanded the force of 183 navy personnel that surrendered to the 7th Marines one day after the signing of the peace treaty in Tokyo Bay. Shiraisha is shown with sword he later surrendered.

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第32軍の敗残兵

捕虜となった日本兵

降伏式: 国頭村謝敷(くにがみそん・じゃしき)

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北部の東シナ海に面する小さな村、謝敷(?)のすぐそばで日本兵と向かい合う海兵隊員。(1945年9月3日撮影)

Marines meet the Japanese soldiers just outside of Zasiki, a small village on the China Sea Coast of Northern Okinawa.

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ハーバー大尉(オハイオ州出身)サムライ刀を差し出す日本帝国陸軍のホンダ大尉。降伏の印として日本軍大尉の刀を受け取る海兵隊将校、オーリアン中尉(ワシントンDC出身、ハーバー大尉の右)とチャンドラー中尉(ペンシルバニア州出身、大尉の左)(1945年9月3日撮影)

Capt. Honda of the Japanese Imperial Army presents his Samurai Saber to Marine Captain Theodore H. Harbaugh, 35 Birckhead Place, Toledo, Ohio. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S. E., Washington, D. C.; on Capt. Harbaugh's right and 1st Lt. James B. Chandler, 264 Hathaway Lane, Wynnewood, Penns., on his left are the Marine officers who receive the Jap Captain's saber in surrender.

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降伏式: 本部(もとぶ)半島

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降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する、本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって刀が手渡されるのを見届けようと待つ。前列に士官、後列に兵士が並び、トムソン式小型自動機関銃と銃剣を持った海兵隊員が監視する。(1945年9月3日撮影)

Smartly dresses and militarily correct even in surrender, the 183 Japs of Motobu peninsula line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword. Marines with tommy guns and fixed bayonets stranding guard.

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降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって剣が手渡されるのを見届けようと待つ。前列は士官、後列は兵士。(1945年9月3日撮影)

Smartly dresses and militarily correct even in surrender the 183 Japs of Motobu peninsula, line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword.

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本部半島での183人の日本兵降伏の儀式において白石大尉から刀を受け取るウィッコフ海兵隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)。「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡され、その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈されることになっている。(1945年9月3日撮影)

A marine Captain, Don P. Wyckoff, veteran of line fighting a Peleliu and Okinawa, accepts the sword of Lt. Shiraisha in formalities related to the surrender of 183 Jap officers and men on Motobu Peninsula. “In the name of the Government of the United States, I accept your surrender“, Captain Wyckoff told Shiraisha who stood at attention before the men he commanded. The Samurai sword was handed by Capt. Wyckoff (whose wife, Dorothy, lives at the Fort Shelby Hotel, Detroit, Mich) to Col. Edward W. Snedeker of Washington, D.C., commanding officer of the Seventh Marines. Colonel Snedeker will later present it to Maj. Gen. Dewitt Peck, Commanding General of the 1st Mar. Div.

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投降した183人の日本軍将校や兵士(大半は海軍軍人)に対し戦時禁制品の所持検査を行う海兵隊員。沖縄。(1945年9月3日撮影)

Marines search Jap prisoners for contraband after the surrender of 183 officers and men, the majority naval personnel.

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捕虜収容所行きのトラックに乗り込む日本軍将校ら。沖縄。(1945年9月3日撮影)

Jap officers climb into trucks for transportation to prison camp.

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美里野戦病院

屋嘉収容所にいた日本兵捕虜にマラリアに症状がみられたため、前日から米軍の野戦病院に入院となった。

『第88野戦病院は、現在の沖縄市の北方、美里村の台地にあった。

私の入ったテントは、東か西の端なのか思い出せないが、とにかくテント群の一番端にあり、伝染性の病気でもあるマラリア赤痢、皮膚病などの患者だけが収容されていた

簡単な検査があり、米軍の衛生兵にそのテントの一番入口に近い寝台を〝ここだ〟と指されると、すぐ横になった。

ホスピタルと名はついていても、ところどころ藷の葉などが生え繁っている赤土の台地に、大型のテントが幾つか張られてあるだけのものであった。その一つの中に3、40人が米軍の野戦用の折りたたみのベッドに、頭を通路に向けて何列か並んでいるのだった。

間もなく、日本人の軍医と米人の軍医と、そして米軍の衛生兵が来て脈をとり、注射器で採血したあと、軍医は蚊帳を張るように衛生兵に指示した。ベッドの四隅に70センチ程の棒を立て、これに吊るして蚊帳が張られた。そして衛生兵は数粒のキニーネと、緩和剤と思われる白い錠剤をひと握りも私の手に乗せ、全部一回でのむようにいい、私が時間をかけながらそれをのみ終わるまで、近くで見ていた。』(224-225頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 224-225頁》

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米軍政府病院近くの畑でイモを掘る沖縄人特別班。沖縄。

A detail of Okinawans digs potatoes in a field near the American Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年9月3日(月)

1945年 9月2日 『日本が降伏した日』

日本降伏の日

降伏文書調印式

昭和20年9月2日降伏調印の日がきた

東京、横浜地方は未明に小雨が降った。夜が明けてからも重い雲が空を覆っていた。

…海は鉛色であった。式場の戦艦「ミズリー」は、横須賀沖18マイル錨地に停泊している。横須賀沖といっても、浦賀水道を南下し館山または城ヶ島の沖合に近い洋上である。横浜港からは優に30キロ以上の距離があった。

「海軍の旗艦ミズリー号を調印の場所となしたことは、太平洋戦争に大いなる犠牲を払った海軍の感情を尊重したものと認められた。軍艦の名前のとられたミズリー州はトルーマン大統領の出身州である」重光葵著作集1『昭和の動乱』原書房刊)』(313頁)

『4万5000トンの戦艦ミズリーは、周囲に停泊する艦隊のなかでも、ひときわ威容を誇っていた。マストには星条旗がはためいている。舷側の手すりに沿って白い制服の水兵が隙間なく整列していた。

…やがて軍楽隊の演奏にのって、ニミッツ、ハルゼー、服装ですぐにわかるソビエト代表テレビャンコ中国代表徐永昌たちが式場に姿を現した。総勢4、50人、…連合軍代表はテーブルを半月型に囲んで立ち話をしていた。』(320頁)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 313、320頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/USS_Missouri_Japanes_surrender_Marine_guard_company_and_Navy_band.jpg

The surrender ceremony between Japan and the United States aboard USS Missouri (BB-63). Date 2 September 1945
Source National Archives photograph SC#210628, from the Army Signal Corps Collection

File:USS Missouri Japanes surrender Marine guard company and Navy band.jpg - Wikimedia Commons

日本側全権委員一行は、午前9時すこし前にミズリー艦上に現れた。駆逐艦から艦載艇に移り、戦艦のタラップを昇ったのである。一行は直ちに甲板上の式場に導かれ、連合国各代表と相対する位置に整列して開始を待った。』

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg/1920px-Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg

降伏文書調印式に派遣された日本代表団

Japanese representatives aboard the USS Missouri at the surrender of Japan on September 2, 1945

Victory over Japan Day - Wikipedia

定刻9時マッカーサーが姿を現し、中央のマイクの前に立った。約2分間の演説である。その後降伏文書の調印が始まる。日本側は調印に先立って、全権に対する天皇陛下の委任状2通と9月2日付けで公布する詔書マッカーサーに提出した。』

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 頁より》

http://en.academic.ru/pictures/enwiki/80/Perry_flag_1945.jpg

写真左上の星条旗は、日本の開国を迫ったペリー提督が掲げていた旗であり、降伏文書調印式のために取り寄せた。

Commodore Perry's flag (upper left corner) was flown from Annapolis to Tokyo for display at the surrender ceremonies which officially ended World War II

Matthew C. Perry

『調印式に先だって、マッカーサー格調高い演説をした。

「・・この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の威厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の熱望するところであり、また全人類の願いである・・」

降伏文書への署名は、日本国代表の重光外相から行われた。午前9時4分だった。

これで戦争は正式に終わった。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e5/Shigemitsu-signs-surrender.jpg

1945年9月2日、USSミズーリ艦上でリチャード・サザランド中将が見守る中、降伏文書に署名する重光葵外務大臣、右随行の加瀬俊一

日本の降伏 - Wikipedia

『続いて日本軍を代表して参謀総長梅津美治郎大将が署名し、マッカーサー連合国軍最高司令官として)、ニミッツ(米国を代表して)と署名し、連合国軍の各国代表が次々署名した。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

https://www.archives.gov/files/research/military/ww2/photos/images/ww2-198.jpg

" Gen. Douglas MacArthur signs as Supreme Allied Commander during formal surrender ceremonies on the USS MISSOURI in Tokyo Bay. Behind Gen. MacArthur are Lt. Gen. Jonathan Wainwright and Lt. Gen. A. E. Percival." Lt. C. F. Wheeler, September 2, 1945. 80-G-348366. National Archives Identifier: 520694

World War II Photos | National Archives 

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000094986.jpg

『上段から重光葵外務大臣梅津美治郎参謀総長の両全権、続いてマッカーサー司令官はじめアメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド各国代表が署名しました。』

外務省外交史料館 戦後70年企画 「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示 | 外務省

『いつの間にか雲が切れて、甲板に陽光がさしはじめていた。その雲の切れ間から爆音が聞こえてきた。400機のB29爆撃機と、第3艦隊の艦上機1500機による一大ページェントだった。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fa/USS_Missouri_%28BB-63%29_flyover%2C_Tokyo_Bay%2C_2_September_1945_%28520775%29.jpg/1920px-USS_Missouri_%28BB-63%29_flyover%2C_Tokyo_Bay%2C_2_September_1945_%28520775%29.jpg

祝賀飛行する米軍機編隊 / U.S. Navy photo 80-G-421130

ミズーリ (戦艦) - Wikipedia

調印式の最後を飾る空のショーが終わると、マッカーサーは米国民向けのラジオ放送を行なった。

「わが同胞諸君、今日、大砲は沈黙している一大悲劇は終わった。大勝利がかち得られた。空はもはや死を降らさない。海洋はただ通商のみに使用され、人々は、太陽の下をいずこに於いても闊歩できる。全世界は全く穏やかな平和に包まれた。神聖なる使命は完成された・・」

このマッカーサーの寛大さに感動した日本代表団の加瀬俊一随員の報告書をもとに、重光はその日のうちに昭和天皇に調印式の報告を行った天皇は「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野」に感動したと伝えられる。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

youtu.be

Japanese Surrender in Color (1945) - YouTube

『…ミズーリー号上での降伏調印式が終わると、東南アジア各地の日本軍の降伏が始まった。9月3日にはフィリピンの日本軍が降伏調印、9月9日には朝鮮の日本軍が降伏調印、9月12日にはシンガポールの日本軍が降伏調印した。またマリアナ諸島、キャロライン諸島のアメリカ軍が上陸を回避したロタ、トラック、パラオなどの島々でも日本軍の降伏調印が行われた。』(225頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 225頁より》

  

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ④

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。

9月2日、高田将軍は本人が副官を伴って第10軍司令部に赴きたいと連絡してきた。これに対して、高田将軍本人が赴くまでもなく、捕虜2人を回収する航空機に代表を載せれば十分であると連絡した。その日、納見将軍は多賀大佐を代表として、村尾海軍大佐、一瀬大佐、杉本中佐、通訳2人、飛行士5人を派遣したいと連絡してきた。その97式重爆撃機には緑十字と赤い流しを付け、9月4日午後2時宮古北端の上空でアメリカ軍護送機と落ち合いたいということだった。

奄美群島海軍司令官加藤唯雄提督は9月2日になって初めて連絡してきた。無線技師が足りないことと英語を話せる者がいないので、今後の連絡には航空機からメッセージを落としてくれ、ということだった。そこで、その日航空機を飛び立たせて、他の指揮官同様、代表を航空機で派遣せよとのメッセージを落とした。加藤提督は航空機がないので、その代表を高田将軍の代表と共に沖縄に向かわせたいと連絡してきた。

日本側の代表は9月3日に沖縄に来てもらう予定だったが、その日、台湾北西の台風のため宮古からの代表者派遣は不可能となり、徳之島へのC-47機派遣も無理となった。』(228頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 228頁より》

 

 

米軍の動向

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-21-4.jpg

第308爆撃航空団の叙勲式。ハッチンソン准将から勲功章を受け取るために7人のうち最初に歩み寄るヘリング中佐。航空団の他の団員らは整列して受勲者を讃える。沖縄。(1945年9月2日撮影)

Decoration ceremony at the 308th Bomb Wing. Lt. Colonel Herring is advancing to be presented with the Legion of Merit from Brig. Gen. Hutchinson while six other members await their turn to be presented with their award. Members of the Wing are in formation honoring those who are receiving the awards.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

屋嘉収容所: 阿嘉島の海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

『…私は阿嘉島で味わった悪感がまた出てきた。一枚しかない毛布を巻きつけて、手足をちぢめて耐えた。翌日になるとそれはに変わり、汗が出たがそれを拭うものもなかった。2、3人先に寝転んでいる先輩の捕虜が、

「お前、汗臭くてたまらんぞ、水で体を洗ってこい」と、大声で私に言った。

2度目の震えと熱が引いた時、私はよろめきながら本部の衛生兵のところに行った。テントの奥の方に米人の軍医がいて、通訳の言葉に私の顔をじっと見ていたが、紙片にマラリアと読める字を書き、日本人の衛生兵に〝ハスピタ〟といった。最初は何といったのかわからなかったが、通訳が、

君をすぐ病院に送る」といったので、〝ホスピタル〟と理解できた。

こうした寄せ集めの中で、今までの仲間と離されて一人になることは、この先どうなるか、また、全く未知の連中との共同生活に入れられるかと思うと、非常に不安ではあったが、伝染病のマラリアと診断された以上この収容所には居られなかった。すぐテントに引き返すと、毛布と水筒を持ち、

「俺は病院に行く、すぐ帰れると思うが」と渡辺にいった。

こうして9月2日、もう1人の見知らぬ捕虜とジープに乗せられ、野戦病院に送られた。』(223-224頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 223-224頁》

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病院へ向かうジープで日本人傷病兵に質問する海兵隊第1師団第7連隊ストゥープス中尉。

Lt. Charles W. Stoops (MC) USNR, attached to the Seventh Regiment of the 1st Mar. Div. Examines wounded Jap prisoner in ambulance jeep before his removal to a hospital.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年9月2日(日)

 

toyokeizai.net

kokkiken.or.jp

ussmissouri.org

1945年 9月1日 『朝鮮から「商売」に来ている』

米軍の動向

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/95-28-4.jpg

散り散りになった日本軍の部隊がまだ隠れている木が生い茂った山中に、日本語のビラを貼るシャウツ伍長(ペンシルバニア州出身)。ビラは投降の方法を指示し、戦争が終わったことを知らせている(1945年9月1日撮影)

Corporal John L. Schautz, Jr., 20, whose parents live at 848 Quiney Ave., Seranton, Penn., posts a Jap language leaflet in the wooded mountains of Okinawa where scattered Jap units were in hiding. Leaflets give direction for their surrender and tell of war's end.

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朝鮮人の犠牲

慰安婦

『日本軍が「慰安所」システムを考え出したのは、中国戦線からであった。食料の収奪はもちろん、若い女性を拉致しての集団暴行と虐殺事件が繰り返された中国では、激しい反日感情が爆発し、日本軍にとってそれは「想定外」の激しいものであった。そのため中国戦線での作戦変更まで強いられた日本軍は、1938年(昭和13)反日感情の原因が「強かん」事件であることを認めざるを得なかった。

そして、「軍人個人ノ行為ヲ厳重取締」るとともに、強かんを隠蔽する装置として、「速ニ性的慰安ノ施設」設置に至ることとなった。組織的に「慰安所」が増強されるにつれ、朝鮮では「処女供出」「処女狩り」と呼ばれた未婚女性の強制連行が進められた。南京大虐殺直後から本格的に強制連行が始まり、1943年から45年にかけて戦場が拡大すると、井戸端で、田畑で、道で、工場で、そして家の中まで軍靴のまま乱入し、14歳から20歳までの女たちを暴力的に連れ去った

こうして強制動員された朝鮮の女性たちは、アジア太平洋戦争の間、日本軍が占領した各地に設置された「慰安所」で「性奴隷」としての生活を強制され、敗戦に近づくと、現地で捨てられたり、置き去りにされたり、連合軍の空爆があるとだまされて壕の中で爆殺された。植民地朝鮮の女たちは、天皇が日本軍に与えた慈悲の「贈り物」であり「性病」予防にふさわしい存在にすぎなかったのである。

第32軍は、中国戦線での虐殺の延長線上で、アジア蔑視の経験と女性の体をもの扱いする「慰安所」を持ったまま沖縄にやってきた。…「慰安婦」が最初に送られてきたのは1941年(昭和16)で、南大東島での飛行場設営のための人夫と「慰安婦」7人が連行されてきた。そして「慰安婦」の多くが連行されたのは、主力部隊が沖縄に配置される1944年(昭和19)であった。』(84-85頁)

《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 84-85頁より》

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『ソウル市とソウル大学人権センターが 米国立文書記録管理庁で見つける 1944年、中国雲南省のある民家で 7人の裸足の女性を撮影』

公開された朝鮮人慰安婦を撮影した映像のキャプチャー//ハンギョレ新聞社

[映像]朝鮮人「慰安婦」被害者を撮影した動画を発見 : 政治 : ハンギョレ

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上海にあった慰安所(1937年)

Military Comfort Station, Shanghai, c. 1937.

Comfort Women | Spring 2016 | Washington State University

沖縄に連行された『600人とも800人ともいわれる朝鮮人慰安婦は、慰安婦にさせられるとは思ってもみず、だまされて連れてこられた者が多かった。沖縄で確認されている慰安所は115カ所にのぼっている。もともと慰安所は外地に置かれるもので、兵員35人に1人という〝決まり〟もあったということだ。

沖縄守備軍は10万人だから、3,000人規模の慰安婦が必要だったが、そこまで揃えるのははばかられたのであろう。そのうえ、沖縄は〝外地〟ではなく〝内地〟(日本帝国の法律が例外なく適用される範囲)であり、小禄に集中していた海軍部隊はその理由から慰安所設置を拒否したという。しかし、結局は設置されたそうである。』(132頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 132頁より抜粋》

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沖縄の収容所に入った慰安婦たち(1945年)

Japanese comfort women in an Okinawa prison camp in 1945.

Comfort Women | Spring 2016 | Washington State University

昭和19年7月頃から朝鮮人女性が那覇に姿を見せ始める

昭和19年末頃、那覇市松山小学校の隣、県立第二高女の側の検事正官舎が慰安所となり、数十人の朝鮮人慰安婦が入った。

十・十空襲後、那覇港に上陸して来た慰安婦たちは住む家もなく、焼け跡の波上宮近くの辻原に三角兵舎風の茅葺きの掘っ建て小屋を建て『軍慰所』の看板を掲げ、一人で一日数十人をこなしていた。泊港に上陸した慰安婦たちは泊北岸にテント小屋を設け兵隊たちを相手にした。70~80メートルの長い天幕に4つの入り口が作られ、兵隊たちが列をなした。このテントには40~50人の朝鮮ピーがいた。また、山形屋百貨店の裏にもバラックが建ち、十数人の朝鮮人慰安婦が日本軍相手に昼間から肉体をひさいでいた。海岸に近い若狭にも4~5人の慰安婦がいたという。台ノ瀬病院にも30人の朝鮮人慰安婦がいた。』

慰安所規則

 一、本慰安所は陸軍軍人、軍属(軍夫を除く)の他入場を許さず。入場者は慰安所外出証を所持する事。

 一、入場者は必ず料金を支払い、引き換えに入場券、サック1個を受け取る事。

 一、料金は左の如し。下士官、兵、軍属、金3円。

 一、入場券の効力は当日限り。

 一、指定された番号の室に入る事。但し時間は30分とする。

 一、室内において飲酒を禁ず。

 一、サック使用せざる者は接婦を禁ず。』

沖縄二高女看護隊・チーコの青春 創作ノート22 「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦」より

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国立日帝強制動員歴史館が所蔵している日本のサック(コンドーム)の包装紙に「突撃一番」と書かれている。この包み紙は実物を模したもの=国立日帝強制動員歴史館提供//ハンギョレ新聞社

 

『1937~40年、日本で「ハート美人」という商品名のコンドームが発売されていた当時、日本人たちはコンドームをサックと呼んだ。1941年太平洋戦争が始まる前、日本の軍部が兵士たちに女性と性的関係を持つ時に使用すると軍需品として支給した。この時コンドームの名前は「突撃一番」だった。突撃一番は当時、日帝が戦争に動員される兵士に植えた思想で、弱者である女性を人格的に待遇せずに欲求を解決する対象に見ていた日本軍の認識を窺うことができる。

サックの「突撃一番」の文句は、日本軍が太平洋戦争期間に朝鮮人女性などを強制的に連れて行き性奴隷にした慰安所を、組織的に運営した事実を裏付けている。日中戦争に参加した日本軍の武藤アキイチ(1915-2006)が作成した従軍日誌(日記帳)に「慰安所に強制動員された朝鮮・台湾女性と性的関係を持った後、朝鮮と台湾を征服した」と記録した内容とも一致している。太平洋戦争に参加した日本軍医官が記録した戦場報告書をもとに日本で発刊された「軍医官の戦場報告意見集」にもサックが登場する。』

慰安婦の存在証明する「日本軍コンドーム」、釜山へ : 政治 : ハンギョレ 

「日曜日にもなると東花城の門まで兵隊が並んでいたという。使い捨てられたサック(避妊具)を付近の子どもたちが膨らませて風船遊びをしていたため、字の役員がかけあってサックの処理をきちっとさせたこともあった」南風原町沖縄戦戦災調査(88年)の報告書「津嘉山が語る沖縄戦」より)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-23/2013062314_01_1b.jpg

(写真)沖縄県南風原町の沖縄守備隊第32軍津嘉山司令部壕跡などの施設から出土した「避妊具南風原文化センター提供

社会リポート/沖縄 旧日本軍司令部など地下壕跡/大量の避妊具出土/周辺に軍専用の「慰安所」

沖縄の「慰安所」は民家を接収する場合も多く、住民の多くが「慰安所」の存在を知り、または、自分の家の近くに存在する「慰安所」の「慰安婦」と交流するケースもあった。沖縄で朝鮮人慰安婦」は、主に「朝鮮ピー」と呼ばれた。「ピー」とは中国戦線で使われた隠語で女性の性器を意味する。

住民にとって、朝鮮人慰安婦」は「風紀を紊乱」する「ピー」のような存在として見られ、日本軍の「慰安所」設置を反対したり、「強かん」を防ぐための「必要悪」として受け入れていったりした。しかし、一方、沖縄本土とは異なり、米軍の上陸がなかった離島、宮古島の住民にとって「慰安婦」は、「美しい(アパラギーミドォン(美しい女)」として見られ、親密な交流をしたケースもあった。』(29頁)

沖縄本島中部の慰安所にいた朝鮮人慰安婦は、嘉手納大通り近くの大山医院で定期的に性病検査を受けさせられていた。当時、看護婦として働いていた女性によると、10人から15人ぐらいの女性たちが、1か月に1回から2週間に1回の割合で憲兵に強制的に連れてこられた。その扱われ方は、まるで動物を追い立てているようなやり方だった。

朝鮮人慰安婦はみな美しい娘たちで、色白ですらりとしており、年齢は16、17歳に見えた。来院時の衣服は着物ではなく、ブラウスにスカートを着ていた。看護婦らは、「自分で望んで朝鮮から商売に来ている」と憲兵から説明されていたが、彼女たちの多くが暗い表情でうな垂れていたり、ある者はあからさまな反抗を示していたことから、腑に落ちないでいた。

特に薬も手に入らない時代だったため、大山医院では、性病が見つかっても患部を洗浄し、塗り薬をつけるくらいの治療を施す程度だった。そんな大山医院も1945年(昭和20)3月には解散となり、ある1人の看護婦は島尻に行くことになる。戦争が終わってから初めて、元看護婦は女性たちが強制的に慰安婦にさせられたことを知り、苦しい思いをしたのかな、あの地上戦のなか、皆、何処に逃げたのかな…と、考えるようになった。

実家のすぐ近くに「慰安所」の兵舎があったと語る女性は、そこに10名位ずつ朝鮮人が来て、一日中兵隊に遊ばれていたと証言する。「今考えて一番可哀想だったのは朝鮮人ですよ。私たちは朝鮮ピーと呼んでいましたがね、…若くてきれいな子ばかりでした。…その人たちは、きれいなシナ服を着て、私たちから見ればとってもきれい。だけど、兵隊相手だということを子供ながらに分かっていて、あれたちが通ると、朝鮮ピー、朝鮮ピーといって、何回もあれたちに追われました。…わざわざ日本兵を相手に沢山朝鮮から連れて来られて、本当に可哀想でした。殆ど死んだんじゃないですかね」(200-207頁)

《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 29、200-207頁より抜粋、一部要約》

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戦場のうた / 元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史 - Dailymotion動画

 

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