1945年 8月16日 『戦争は終わったのか?』

 〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-06-4.jpg

嘉手納飛行場の第389空軍通信センター。(1945年8月16日撮影)

The 389th Air Service Group message center at Kadena Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

第32軍の敗残兵

恩納(おんな): 第4遊撃隊

『…すでに8月15日もすぎていたと思うが、ある夕暮どき山麓近くの田んぼで穂をつむ戦友を残して、私は大胆にも、あたりはまだ明るいというのに、1人で蟹を捕らえるために海岸への軍用道路を飛びこえた。このとき那覇方面からジープが1台疾走してくるのに出会ってしまった。危い!距離300メートル、しまった!と思ったがもう戻ることは不可能だ。「見つかったら殺される」わたしは突嗟にブルドーザーで海中に横倒しされている松の枝の中に退避した。

どうか見つからないでくれ」祈るような数秒。米兵に対する恐怖の心臓が時計の秒針のように激しくうつ。と、ジープは私の3メートルくらい高い頭上で停った。見つかったのだ。中から自動小銃を手にした大男が出てきた。私は拳銃の引き鉄に手をかけたが、少しでも海中に身をすくめるように観念の眼を閉じた。熱帯疥癬の体に波がザブンと打ちよせては返す。自動小銃をいじくっているような金属音がきこえてくる。絶対絶命、こんどこそ殺されると思った私はだれにも知られず、こんなみじめな姿で死んでゆくいとおしさに、妙に肉親の面影が浮んできた。どれほど時間が経ったかわからない、私の一生でこれほど長い時間はなかったろう。そのうち米兵は用便をすますとジープを始動して名護方面に走り去っていった。

まったく奇蹟的なできごとである。救われたのだ。わたしは死の緊張からグッタリとなった夕闇のその場で、目に見えぬ運命の神、亡き戦友の霊に心から祈らずにはいられなかった。米兵がなぜ私を射殺しなかったかは、いまもって解けぬ謎である。

谷茶の浜に再三出没する日本敗残兵はきっと米軍のリストにも載っていた筈だ。やがてこうした大胆な行動は、みずから敵の掃討戦をまねく結果となった

それから1週間くらい経ったある日の朝、静寂だった谷茶部落の山麓一帯にかけて、自動小銃の音がけたたましく鳴りだした

パパパパーン、ダダダダー

戦場に生きる者にとって銃声は研ぎすましている音だ。私たちは「掃討戦だ」と気がついて緊張した。

その音は山麓から次第に私たちの潜んでいる山上の谷間の方まで近づいてきた。私たちもあわてて世帯道具のナベ、カマ、食糧などを背負い、小屋からぬけだして背後の灌木林や、雑草の生えている稜線に避難路をもとめた。ところが、山の稜線の小径には、萱で結んだ厳重な包囲網が形成されていた。敵はこんな近くまできていたわけである。私たちはその萱で結んである下をかい潜って泳ぐように屋嘉岳の方に逃げた。敵は50メートルくらい高所にいて、追いたてられてくる敗残兵をまるで兎射ちでもするように、樹木の枝葉をふるわせるように機銃を射ちこんできた。みんな黙ってひそんでいると、付近に生えている蘇鉄の幹を銃弾が貫いて、枝葉が2、3枚ばさりと地に落ちた。まったく生きた心持ちもしないような激しい掃討戦であったが、このときも私たちは、敵からわずかばかりの至近距離に潜んでいて助かった。私たちの谷間の避難小屋は無事だった。

だが、この掃討戦で麓の方の谷間にいた敗残兵は全滅した。私たちがいつか月夜の晩に田圃の穂つみで出会ったことのある石部隊の兵隊も全滅をくった。その中で籾干しに小屋を離れた1人だけ奇蹟的に助かった。その晩に、暗がりの中をその兵隊は、私たちの小屋の灯りをたよりに沢の下方からよろめくようにざわざわと登って、助けを求めてきたのである。その兵隊はまるで悪夢から醒めきらぬように、恐怖が抜けきらない表情で黙りこくっていた。(256頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 254-256頁より》

 

阿嘉島(あかじま): 海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐/阿嘉島慶留間島)

渡嘉敷島(とかしきじま): 海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次大尉)

『…阿嘉島では戦闘らしい戦闘はなかったが、野田少佐ら日本兵と多数の住民は投降することなく、飢えと不安の壕生活を続けていた。8月15日が過ぎても沖縄戦が終わったことも、日本が降伏したことも知らず、あるいは認めず、暗黒の世界で暮らしていた。

8月16日

渡嘉敷島では386人の島民が山の洞窟を抜け出し、アメリカ軍に投降した。その話では、渡嘉敷島の赤松部隊は近日中にアメリカ軍に斬り込み攻撃をかけるということだった。戦争は終わったというのに何ということだ。斬り込みを止めさせ、早めに降伏させねばならない。8月1日から全アメリカ軍の指揮を握った陸軍サービス・コマンドのG2将校らは渡嘉敷と阿嘉で投降した日本兵捕虜に相談した。』(27頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 27頁より》

 


そのとき、住民は・・・

米軍野戦病院: 久志村

沖縄本島北部に設けられた米軍の野戦病院に入院していた民間人は、戦争が終わったことを知って泣いていた。

『「日本人としての意識 --- 愛国心 --- 天皇陛下に対して申し訳がないという皇国思想からか」

「実質的に、自分たちは米軍に投降したという罪の意識からか」

「戦争に駆り出された肉親は、今、生きているだろうか? 生きていたとして、これからどうなるか?」

その他の思いが入り交じった複雑な沈黙、そして涙であったと思う。

その日を境に病棟にしんみりした空気が漂うようになった。夜、消灯後、闇が恥とか外聞とかいう余分なものを塗りつぶしていた。

Aさん 「一人息子が入った部隊は全滅という。でも、私は息子が元気でいると信じている」

Bさん 「島尻へ逃げる途中、母とはぐれた。さがしに戻ろうとしたが、迫撃砲の集中射撃で、それができなかった。私は母を捨てたのではない。はぐれてしまったのです

Cさん 「夫が防衛隊で伊江島へ行ったがどうなったか。悪い夢ばかり見ているが、死んでしまったのですかね」

Bさんの話が私の胸に突き刺さった。私も祖母とはぐれた。しかし、さがしにいかなかった。私は意識的に寝返りをうった。それで祖母への思いから身をそらそうとしたのだ。』(116-118頁)

《「狂った季節」(船越義彰/ニライ社) 116-118頁 より、一部要約》

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軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。

Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月16日(木)

1945年 8月15日 『それぞれの〝終戦の日〟』

日本、敗戦

http://i.huffpost.com/gen/3287086/thumbs/o-AUGUST-14-1945-570.jpg

『アメリカ東部時間(東部戦争時間)14日午後7時、トルーマン大統領がホワイトハウスで記者会見し、日本の降伏を正式に発表。8月14日が対日戦勝記念日VJデー」となる。』

President Harry S. Truman reads to newsmen his announcement of the Japanese surrender officially signaling the war's end during a White House, Washington, D.C. ceremony at 7 p.m. August 14, 1945. At the right of the President are Secretary of State James F. Byrnes and Admiral William D. Leahy, Presidential Chief of Staff. (AP Photo)

 

『オーストラリアのハーバート・エバット外相兼司法長官、ラジオ演説で、国際戦争犯罪法廷で昭和天皇戦争犯罪人として訴追すべきだとの意向を明らかにする。「天皇は単なる操り人形だったとは考えられない。裕仁天皇は日本を戦争に導き、慈悲なき戦いを遂行した」と主張。』

  

http://i.huffpost.com/gen/3287454/thumbs/o-JAPAN-SURRENDER-AUGUST-1945-570.jpg

朝鮮半島京城(現・ソウル)では、日本の敗戦に伴い日の丸が降ろされた

The Japanese flag is lowered as Japanese officers and troops formally surrender the United States at the end of World War II, Seoul, Korea, August 1945. The surrender marked the end the decades-long Japanese occupation of Korea. (Photo by PhotoQuest/Getty Images)

【戦後70年】玉音放送へ未明の攻防 1945年8月15日はこんな日だった

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無線ジープの周りに大勢集まって、戦争終結のアナウンスを聴く米海兵第1師団の兵士たち。日本は連合国側の平和条約を受諾。この第1師団は太平洋で最初に攻撃を展開した部隊である。(1945年8月15日撮影)

MARINES GET THE WORD: 1st Div Mar crowd around a radio jeep and listen to the announcement that the war is over. Japan has accepted the Allied peace terms. The 1st Div was the first unit to stage an offensive in the Pacific.

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http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80-12-1.jpg

対日戦争勝利の日、リチャード・W・ワレス中佐を先頭に勝利のVサイン人文字を作る海兵隊第11軍の将校たち。(1945年8月15日撮影)

Officers of the 11th Marines who fought on Oki., form a human V for Victory on V-J Day. In front is Lt. Col Richard W. Wallace, Bn. Comdr, 98 Meridan Ave., Southington, Conn.

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〝沖縄〟という米軍基地

www.dailymotion.com

NHKスペシャル

沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた20160820 - Dailymotion動画

 

  

第32軍の敗残兵

同夜、沖縄本島南部の東風平の壕にいた敗残兵6、7名は、東風平の東に位置する与那原方面の空に、バラバラッ―と、ものすごいサーチライトのような光を見た。特攻隊が来ているのかと思ったのだが、実際は、戦争の勝利を祝う米軍の艦船が祝砲をあげていたのだった。

《 戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2 内の http://www.jvvap.jp/miyahira_seigen02.pdf より抜粋、要約》

捕虜になった敗残兵

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この日本兵捕虜は日本の敗戦を聞いて、1杯のビールと休みを欲しがった。しかし解放する手続きはまだ何もなされていないため、海兵隊の哨兵(右)は彼をそのまま働かせた。(1945年8月15日撮影)

This Jap POW wanted a glass of beer and the day off when he was told of Japan's surrender. But because no work had come thru yet to release him, this Marine guard, right, kept him working.

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そのとき、住民は・・・

終戦」を米兵から聞いた住民たち

『…8月15日、沖縄の各地では、米兵たちが小銃を空へむけて乱射し、「戦争は終わった」といって歓声をあげた。これを見た収容所の難民たちのなかには「日本軍の逆上陸だ!」といって恐怖におののいた人たちもいたという。』

《 読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争 より》

米軍野戦病院: 久志村

『…1945年8月15日。その日の朝、何時ごろだったろうか。看護兵の姿もなかったから、早い時間であったと思う。突然、米軍キャンプの辺りで銃声が響いた。叫び声も起こった。歓声であった。入院患者は顔を見合わせた。今ごろ友軍の斬り込みでもあるまいとは思ったが、今まで例のないことだったので、不審というより不安を感じた。そこへ、ウィットン看護兵が姿を見せた。彼は酔っぱらっていた。何やらしゃべっていた。上機嫌であった。

通訳の新川さんが訳を聞いた。新川さんは俗にいう、〝ハワイ戻り〟で、英語の達者なおばさんであった。新川さんが深刻な顔で話していたが、やがて、手を挙げ注目を促した。

戦争は終わったと言っているよ

新川さんの声に、テント内に緊張が走った。

日本はアメリカに降参して、戦争は終わったと、ウィットンは言っているよ

誰も言葉を発しない。緊張は重苦しい沈黙になり、やがて嗚咽に変わっていった

これまで、人々は、1日も早く戦争が終わるように願っていた。戦争が終わるということは、日本の敗戦を意味していることも承知していた。それが現実になったとき人々は押し黙り、泣いた。』(115-116頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 115-116頁より》

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日本軍が降伏したことを通訳から聞き喜ぶ沖縄の地元民。(1945年8月15日撮影)

Okinawan natives have been told of the Japanese surrender by their interpreter and are cheering.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者註: これは、NHKスペシャル「沖縄 空白の1年 〜 “基地の島” はこうして生まれた」の冒頭で出てくる場面の写真である。群衆は、米軍担当者の指示に従って「喜び」を演出している。)

『日本の敗戦の日8月15日のことです。米軍から「生徒を引率して旧久志国民学校の校庭に集合せよ」という命令がきました。学校へ行ってみると星条旗が上がっています。私たちは、事情をのみこめませんでした。米軍将校は私たちを整列させて

「あなたがたはもう日本人ではないアメリカ人になったのだ星条旗のもとに並びなさい。日本の天皇は8月15日をもって我々に降参した。あなたがたはアメリカ人になったことを自覚しなさい」というのです。

私たち教師は、これを聞いて泣きました。幼稚園の子どもたちは、なんのことかわからないので、キョトンとして先生がたの顔を見つめています。米兵は、さらに言葉をついで

今日は、そのお祝いにお菓子を2つずつあげます。」というのです。米軍の野戦食糧のレーションが配られました。子どもたちは大よろこびです。レーションを2つもかかえて、はしゃぎまわっています。

先生がたは涙を流しながら

ジョーイ ウリンデーカムミ サクンジティ ウッターヤナアメチカーターンカイ コーサンセーンディルムン(こんなものを食べるものか、しゃくにさわる、こんないやなアメリカーに降参したなんて)」といって憤慨しています。

私たちは生徒をつれて海岸に行きレーションを岩にたたきつけて捨ててしまいました

これを見ていた子どもたちは

「シンシーターヤ クサミチョーッサー クワンジミシカンヌーガヤラ ワッター ヒッティカマ(先生がたは怒っているよ、カンズメを好かんのかな、拾ってきて食べようよ)」といっているのです。飢えていた子どもたちの姿と、皇民化教育をになってきた教師たちの姿をまざまざと思いおこします。(74頁)

《「島マスのがんばり人生 基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 73-74頁より》 

『…ある日、生徒の集会所になっていた海岸に、私たち生徒は集合させられた。旧瀬嵩国民学校に駐屯していた米軍部隊から将校が来ていたのである。

めったにないことなので珍しかった。なにやら大変うれしそうに話をした。通訳がいたかどうかは覚えていない。なにを話しているのか分からなかった。

先生の方を見ると泣いておられるようである。米軍将校に気づかれないように、そっとハンカチを取り出して涙をふいている先生も。将校はにこにこしているし、先生は泣いている。このちぐはぐな光景が、印象に残って忘れられなかった。

その日が日本の無条件降伏の日であることを知ったのは、ずっと後になってからであった。

この日の様子は、社会福祉活動家の島マス先生も新聞に書いておられたように思う。マス先生は、私たち瀬嵩の木の下学校の先生でした。』(18-19頁)

《「庶民がつづる 沖縄戦後生活史」(沖縄タイムス社編) 18-19頁より》

 

 玉音放送」を聞いた住民たち

1945年8月15日正午、「終戦の詔」を昭和天皇が読み上げる、いわゆる「玉音放送」がラジオで放送され、当時の国民は戦争に負けたことを知った。』

youtu.be

玉音放送を現代語訳で「耐えられないことにも耐え」【終戦記念日】

『しかし戦禍を潜り抜け着の身着のまま逃げていた多くの沖縄県民は玉音放送の存在すら知らず、かろうじて放送を聞けた人はごくわずかでした。

…戦後、沖縄の人権運動の先頭に立った瀬長亀次郎さんも、疎開していた北部で玉音放送を耳にしました。瀬長さんが記した回想録には、このように記されています。

…「天皇のいわゆる玉音放送を聴いたのもこの野戦病院のベッドの上でだった。『終わったか』とういうのがその時の実感だった」』

《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 玉音放送を耳にして より》

沖縄本島中部の石川市では、米軍政府の諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)」を設立するため、戦前からの政治家や教育者たちが集められて会議が開かれた。沖縄の行政機構を再建しようとの会議の冒頭、軍政府副長官から「正午より天皇終戦放送がある」と告げられ、出席者を代表して後に沖縄民政府の初代知事となる志喜屋孝信ら3人が、軍政本部で玉音放送を聞いた。会議に出席した安谷屋正量(初代琉球工連会長)はこう回想している。「終戦を知らされみんなシュンとなった。しかしそれまで戦火に追われ、生命の危険にさらされショックというショックを味わいつくしただけに、それ以上の動揺はなかった」。

 

久米島の米軍キャンプ近くに住んでいた小学2年生の女児は、米軍から「大切な放送がある」と言われ焼け残った奉安殿にでんと置かれたラジオを聞いた。独特な抑揚の声が聞こえてきたが、漢語の多い文章は少女にとって難解で、何のことか理解できなかった

《 社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]玉音放送 共有されなかった体験 | 社説 | 沖縄タイムス+プラスより抜粋、要約》 

 

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ⑬

1945年(昭和20) 6月30日、台湾に疎開する人々を乗せた船2隻が石垣島を出港した。数日後の7月3日 疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受けた。1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島でサバイバル生活を送ることになった。1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日魚釣島を出発した決死隊の舟は、同月14日石垣島へ到着、助けを求めた。

魚釣島に残されている者が終戦を知るよしもないが、玉音放送のあった8月15日1機の飛行機が魚釣島に現れた。一度、米軍機の空襲を体験している遭難者たちは、爆音が聞こえると一気に岩陰へと走って隠れ、岩陰から島を旋回する飛行機にじっと目をこらした。機体に日の丸が見えると、「友軍機だ」と、だれかが叫んだ。その声を合図にみんな岩陰から飛び出してきた。

絶望のふちに沈んでいた疎開者の顔に涙があふれ出し、「バンザーイ」「バンザーイ」が絶叫された。“決死隊”が成功して連絡してくれた…。やっと外部とつながった喜びは大きかった。台湾から派遣された飛行機は、パラシュートで小包みを落下した。中には乾パンと金平糖が入っていた。乾パンは1人当たり25個が支給され、金平糖は病人に配られた。

しかし、食糧は自分で受け取ることが条件だったので、ある母親は、病気で動けない長女を小屋に残し、重症の末っ子を背中に負いながら長男と四女の手をひいて、小学3年になる二女が五女をおぶって三女の手をひき、一家は配給の列に並んだ。「きつい」「歩けない」とむずかる子どもたちを、なだめすかしながらやっと7人分の食糧を貰った。(尖閣諸島遭難・5 / 八重山の戦争)

《 [73 尖閣諸島遭難(5)]やっと救助船来た - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および 「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) / 217頁より抜粋、一部要約》

 

 

日本軍最後の特攻隊

8月15日の夕方、第五航空艦隊司令長官として、沖縄戦などで海軍の特攻作戦を指揮した宇垣纏(うがき まとめ)海軍中将は、特攻機「彗星」に乗り込んだ玉音放送後、11機の特攻機を準備するよう指示していた宇垣中将は、部下らと共に大分基地から沖縄に特攻出撃した。宇垣中将の特攻機は、伊平屋島の海岸に突っ込んだとされている。これが日本軍最後の特攻隊で、誰一人帰還する者はいなかった。(ハフィントンポスト/QAB)

http://www.qab.co.jp/01nw/images2/10-08-17-1945.jpg

《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月17日(金) および 【戦後70年】玉音放送へ未明の攻防 1945年8月15日はこんな日だった より抜粋、要約》

  

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www.huffingtonpost.jp

 

1945年 8月14日 『宮古の沖縄戦』

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/111-37-4.jpg

沖縄本島馬天港にある海軍作戦基地指令部下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂。(1945年8月14日撮影)

NOB Headquarters at Baten Ko, Okinawa. Enlisted men's quarters, Red Cross hut and chow hall.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-6344.jpg

くず鉄として再利用される大湾製糖工場(1945年8月14日撮影)

Owan sugar mill now being used for scrap, Okinawa 14 Aug.1945

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-6345.jpg

工場を解体するクレーン。(1945年8月14日撮影)

Crane dismantling factory, Okinawa. 14 Aug. 1945

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の動向

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ハト小屋と港務監督所那覇にて。ロリンズ1等兵は、監督所の脇でハトの管理をしている。(1945年8月14日撮影)

Pigeon loft and port director, Naha, Okinawa. 14 Aug. 1945
Herbert A. Rollins, S1/c, is responsible for pigeons by the Port Directors.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-6347.jpg

ハト小屋と港務監督所。那覇にて。(1945年8月14日撮影)

Pigeon loft and port director, Naha, Okinawa. 14 Aug. 1945

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http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/95-24-4.jpg

今度はどこだ?--ついに戦争が終わり、荷物をまとめて出発の準備を整えた第1海兵師団の兵士。3年と1週間前、彼らは太平洋での最初の攻撃を行った。今日、東京への第1陣あるいは帰国第1陣の準備が整った。(1945年8月14日撮影)

WHERE NOW?--Marines of the First Division, now that the war has ended, are packed and ready. Three years and one week ago they made the first offensive in the Pacific war. Today, they're ready to be the first in Tokyo--or the first home.

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http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-6343.jpg

海軍予備役のエリス2等兵曹(掌帆長属)が手作りの洗濯機「フライング・ダッチマン」で洗濯をする様子。(1945年8月14日撮影)

Frank Ellis, BM2, USNR washing clothes with ”flying Dutchman,”home made washing machine. 14 Aug. 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

先島諸島沖縄戦

宮古の日本軍

宮古島には納見敏朗中将を長とする先島集団傘下に第28師団 (兵員約16,000名)のほか、多賀哲四郎少将が率いる独立混成第59旅団 (兵員3,360名)と安藤忠一郎少将指揮下の独立混成第60旅団 (兵員3,320名)、第32軍直轄部隊 (兵員6,700名)、それに村上重二大佐が率いる海軍部隊 (兵員1,714名)の計約27,000名が守備に任じていた。』(230-233頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 230-233頁より》

www.nhk.or.jp

『防衛担当軍の視察で「宮古島は、島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地として最適である」と判断された宮古島には、3カ所の飛行場が建設された。土地の接収は買収の形で半強制的に行われたが、土地代は公債で支払われたり、強制的に貯金させられ、しかもこの公債や貯金は凍結されて地代は空手形であった。飛行場建設には島民の多数の老若男女や児童までも動員され、昼夜を問わない突貫作業が強行された。

昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた。急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。』

 

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/images/okinawa_02_002.jpg

宮古島地区防禦配備図

《 総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県) より》

www.youtube.com

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宮古島への空襲

昭和19(1944)年10月10日午前7時30分宮古島南方上空に見馴れない機影が編隊を組んで現れた。秋晴れの平良町上空でそれは東西に分かれ、飛行場方面と漲水港へ急降下する。間もなくサイレンが鳴り銃撃音、爆撃音がこだまして対空砲が応戦しても、友軍機の演習が実戦さながらに行われていると多くの町民が空を見上げていた。飛行場の方面から黒煙が舞い上がり、"銀翼連ねて"宮古島の空を守るはずの"荒鷲"が燃え上がるのを見て、ようやく本物の空襲であることを知った。45分に及ぶ空襲で、島の3カ所の軍用飛行場からは応戦に飛び立つこともなく9機が撃破された

続いて午後2時5分第2波、延べ19機による空襲で、漲水港沖合に停泊中の広田丸(2,211トン)が撃沈されるのを目の当たりに見せつけられた。この「10・10空襲」を皮切りに宮古島は連日のように米軍機の空襲にさらされ、瓦礫の島へと化していった。

《 総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県) より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail55_img.jpg

沖縄戦の絵】「銃撃を受ける漁船」

宮古島での米軍空襲の様子。港から1キロほど沖合で、宮古の民間漁船が米軍の艦載機から銃撃を受けていた。その後、漁船の乗組員が攻撃で亡くなったと聞いた。』

宮古島 銃撃を受ける漁船 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『昭和20(1945)年になり、3月までの宮古島の空襲は、主に軍事目標が狙われていたが、4月に入ると次第に市街地が狙われていく。時限爆弾や街を焼き尽くす焼夷弾も用いられるようになり、平良の街は廃墟と化した。』

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/images/okinawa_02_001.jpg

爆撃を受ける平良の軍事施設

 

『その後の空襲は、10月13日にあって、年内はほぼ小康を保ち、明けて昭和20(1945)年正月早々から再び始まり3月以降7月までは連日のように繰り返された。4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良のまちはあらかた焼失した。平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。』

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廃墟と化した平良市街

《 総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県) より》

 

宮古島への艦砲射撃

1945年5月4日、『宮古島は、H・ローリング中将の率いる英太平洋艦隊(第57任務部隊)の艦砲射撃を受けた。英軍部隊の太平洋戦線への参加は、これが最初だったが、英艦隊の主な任務は、宮古島石垣島にある六つの飛行場を攻撃し、台湾方面からの日本軍増援部隊の使用を事前に阻止することにあった。英艦隊は、空母4隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦15隻の計26隻から成り、そのうちの戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦11の計18隻が5月4日の午前11時すぎから約40分間砲撃を浴びせたのであった。』(230頁)

宮古島の『海軍部隊は、敵襲にさいしては海上からの特攻攻撃を企図し、約50隻の震洋型特攻艇を城辺町の友利海岸に秘匿していた。英艦隊の来襲にたいしては、日本側航空隊は、約20機の特攻機を出撃させ、英空母を攻撃、11機の艦載機を破砕したほか55名を死傷せしめた。

宮古群島で戦火に倒れた兵員は陸海合わせて2600名ほどいた。しかしそのほとんどがマラリアや栄養失調によるものだった。』(233頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 230、233頁より》

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そのとき、住民は・・・

遭難した疎開民 ⑫ 

1945年(昭和20) 6月30日、台湾に疎開する人々を乗せた船2隻が石垣島を出港した。数日後の7月3日疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受けた。1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島でサバイバル生活を送ることになった。1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日魚釣島を出発した決死隊の舟は、石垣島を目指した。

手作りの小舟を漕ぎ、魚釣島を出発した決死隊。8月14日の午後7時頃、小舟は約170キロの荒波を越えて石垣島の川平地区にある底地(すくじ)の海岸にたどり着いた。上陸すると、決死隊の8人は疲れ切った体をお互いに抱きあい、しばらくの間、ただただ涙を流した

台湾行きの疎開船2隻が石垣島を離れたのは約45日前のこと。台湾に到着する予定の日に米軍機から攻撃を受け、疎開船1隻が炎上し沈没し、多くの死傷者をだした。生存者らは、残る1隻の船で魚釣島に上陸する。その後は、飢えと闘う地獄のような日々が続いた。外部との連絡を取るには、誰かが石垣島に向かう以外に方法はなかった

遭難した疎開者全員に見送られ、小舟で東シナ海を航海した決死隊は、魚釣島を出発して以来の2昼夜クバのシン芽だけで体力を支えていた。航海中、米軍機が低空でやって来たため、3回ほど舟を転覆させ遭難を偽装した

上陸した浜に座り込んだ8人は、もう、体力が尽きて動けない。そのうち1人が近くにあった野生のバンジロウグアバ)をもぎ取り、みんなのところに投げた。それをかじった時、やっと一息つくことができた

決死隊の8人は、川平の群星御嶽(ゆぶしおん)に駐屯していた陸軍部隊に遭難の報告をし、そこからは、独立混成第45旅団へと報告がされた。初めて惨状を知った旅団は、水軍隊に対し直ちに救助に向かうよう命令、また、台湾に駐留する日本軍に対し、飛行機を飛ばして魚釣島に食糧を投下するよう要請した。台湾疎開の船団を編成し、乗組員を出していた水軍隊では、全員が死亡したとして告別式も済ませていただけに、喜びはひとしおであった。島の住民も生存しているとの報に驚いた。(尖閣諸島遭難・4 / 八重山の戦争)

《 「戦禍を掘る 出会いの十字路」目次 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース 「尖閣諸島遭難 (1〜4)」および 「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) / 217頁より抜粋、一部要約》

 

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1945年 8月13日 『八重山の沖縄戦』

先島諸島沖縄戦

八重山の日本軍

八重山群島には、昭和19年に宮古島から配転になった独立混成第45旅団 (旅団長、宮崎武之少将、2,865名)が配置され、ほかに石垣島海軍警備隊約3,000名と地元で編成された特設警備隊(約2,000名)が警備に当たっていた。』(235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 235頁より》

『先島のほとんどの島で、守備軍に提供する食糧の供出や飛行場建設のための労務提供(ただ働き)などで、住民は飢餓状態となった。さらに、守備軍の陣地確保や〝住民は戦闘にとって足手まとい〟との理由から、近くの小さな島へ強制移住させられたり、住民もめったに近寄らない山奥への強制避難が命じられた。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

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戦争マラリア

『…八重山の場合、1945年正月早々に3回目の空襲を受けたが3月以降は、それが1日に十数回に及ぶほど激化した。5月に米潜水艦による初の艦砲射撃があり、そのためもあってか、6月に入ると同群島守備軍は、主島の石垣島の住民をそれぞれの居住地に隣接する山岳地帯や他の島々に強制的に避難、疎開させた

ところが多数の将兵をかかえる部隊の駐屯もわざわいして風土病のマラリアが爆発的に蔓延していたので、住民は薬不足に加えて食糧難から極度の栄養不良に陥り、敵の攻撃を待たずに死亡する者が続出した。皮肉にも沖縄本島で戦闘が終結しつつあった頃、八重山住民は、戦況もまったく知らされないまま逆に受難の道へ踏み出したのであった。

こうして住民の罹病率は、全人口の54パーセントにも達した。ちなみに昭和19年現在の八重山の人口3万4,936名のうち空襲その他による戦没者は、187名だが、マラリアによる死亡者の数は、全人口の1割強の3,647名にも及んだ。その悲惨さは、目を覆わしめるものがあり、戦場のそれと何ら異なるものではなかった。守備軍将兵のばあいも同様で、約8,000名の陣容中、戦没者は約700名だが、その大部分はマラリアが死因であった。(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)』(233-235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233-235頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-27-4.jpg

護衛空母スワニー(CVE-27)所属のTBM機から投下された2つの爆弾が、石垣飛行場を破壊するため音をたてて落下する様子。先島諸島石垣島にて。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度:4000フィート(約1219メートル)。

Two bombs from a TBM plane from USS SUWANNEE (CVE-27) whistle their destructive way toward Ishigaki Airfield on Ishigaki Islands of Sakishima Group. Aerial: T-0930-9 K-20 4000'.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『連日のイギリス空母部隊による空爆がつづいて、有効な反撃の手段もなかった日本軍は、万一のアメリカ軍上陸に備えたつもりだろうが、それが住民にどんな厄災をもたらすかについてはまったく考えなかったといってよい。住民はしかたなく軍の命令に従ったが、その結果、飢餓はいっそうひどくなり、移転先がマラリア病を媒介する蚊の群生地であったりして、多くの住民がマラリアにかかり、つぎつぎに死んでいった。沖縄ではこうして罹病し、死んでいったマラリア戦争マラリアと呼んでいる。

戦争マラリアの典型が西表島強制移住させられた波照間島の住民である。強制移住沖縄本島の戦闘がほぼ終わりつつあったころに実行されたという。戦局の大勢を見ない、独りよがりな守備軍の強制移動命令によって、じつに全人口1,275人のうち98.7パーセントにあたる1,259人がマラリアにかかり、461人(罹病者の36.6%、全人口の36.2%)が死亡したのだった。(石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著・石原昌家監修「もうひとつの沖縄戦」)

波照間島をふくむ八重山諸島石垣島西表島与那国島波照間島、黒島、小浜島竹富島新城島鳩間島など) は人口が3万4,900人あったが、そのうち1万6,884人(48%)がマラリアにかかり、3,676人(罹病者の22%)が死亡した。死亡者の大半が、沖縄戦が収束したあと、1945年(昭和20)の7月8月9月に集中している(「別冊歴史読本」戦記シリーズ18「沖縄 日本軍最期の決戦」の瀬名波栄「強制疎開マラリアの惨禍」による)

この地区ではそれまでは年間で10人弱しかマラリアで死んだ者はいなかったという。死亡者のうち84パーセントにあたる3,075人が、日本軍(八重山地区列島の守備についていた独立混成第45旅団)の命令により、住んだこともない山奥や別の島に強制疎開させられた者だった。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

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そのとき、住民は・・・

遭難した疎開民 ⑪ 

1945年(昭和20) 6月30日沖縄本島における日本軍の組織的な持久戦が終わっていたこの頃、石垣島では、台湾へと疎開する人々がまだいた。出航から数日後の7月3日 、台湾の基隆(キールン)に入港予定だった2隻の疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受け、1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島での生活を送ることになり、毎日、島中を歩きまわって食糧を探すという日々が続いていた。無人島でのサバイバル生活を始めてから1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日、決死隊は遭難者全員に見送られて魚釣島を出発した。

8月13日は風が止まったため、櫂で舟を必死に漕ぐしかなかった。漕いでいる最中にも「はたして八重山にたどりつけるのか」の不安はあった。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。そう確信した決死隊の8人の目は輝き、ひもじさも苦しさも吹き飛んだ。急に元気が出て、漕ぐ腕にも力が入り、力の限り漕いだ。

その頃、魚釣島の隣にある南小島には、6人の男たちがいた。男たちは、決死隊の食料を確保しようと、アホウドリのいる南小島に別の小舟で渡っていたのだ。2、3日もすれば肉や卵を持ち帰り、決死隊の貴重な栄養源となるはずだった。しかし、魚釣島に戻る予定だった日、両島間の潮流が激しくなっていた。

潮流を挟んだ両島の往来はまず南側に向かって力の限り漕ぎ、そこから潮流を斜めに突っ切ってしかいけない。その潮流にそのまま乗ると北小島に流されてしまうか、最悪の場合は、東シナ海を漂流してしまうという危険なものだ。6人の男たちは、潮の流れが緩やかになるまで、南小島に留まらざるをえなかった。(尖閣諸島遭難・4 、6)

《 [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [74 尖閣諸島遭難(6)]6人取り残される - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、一部要約》

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/images/top/img03.gif

尖閣諸島 | 外務省

http://si.wsj.net/public/resources/images/OB-UN172_islesp_F_20120911004424.jpg

南小島(前)、北小島(中)、魚釣島(奥)

The disputed islands in the East China Sea known in Japan as Senkaku and Diaoyu in China. ASSOCIATED PRESS

Writing China: James Manicom, ‘Bridging Troubled Waters’ - China Real Time Report - WSJ

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月13日(月)

 

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1945年 8月12日 『魚釣島からの決死隊』

〝沖縄〟という米軍基地 

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フィリピン諸島ルソン島から読谷飛行場に着いたばかりのコンソリデーテッドB-32の給油の様子。この2機は日本が降伏したといううわさを聞いた後、日本上空で写真偵察中に攻撃を受けた。2機ともひどくやられたが犠牲者はなかった。これらは長距離の任務に使用された最初の2機であった。(1945年8月12日撮影)

Consolidated B-32s that had newly arrived from Luzon, P.I. on Yontan Strip. Shown is a B-32 being refueled shortly after arrival. Two of these planes while on a photo reconnaissance over Japan were attacked after Jap peace rumor. Both planes were badly damaged but not casualties. These were the first planes used in a long range mission. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

事件・事故

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/16-49-4.jpg

読谷飛行場からルソン島へ向けて離陸準備に入っていたコンソリデーテッドB-24(所属は不明)のタイヤがパンクした。旧日本軍の作った防壁に激突し、爆発炎上した。(1945年8月12日撮影)

Consolidated B-24 (outfit unknown) in taking off from Yontan strip on a trip to Luzon blew a tire - crashed into an old Jap revetment, exploded and caught fire. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の動向

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/333197.jpg

碁に興じる第3925通信写真中隊のマンデリン少尉と第27師団副団長であるブラッドフォード将軍の補佐を務めるモーカー中尉。碁は日本の遊戯で第27師団による沖縄本島北部掃討作戦の際にはいくつかの碁の道具が見つけられた(1945年8月12日撮影)

2nd Lt. Lloyd Mandeline, left, Sacramento, Calif., of the 3925th Signal Photo Service Company, and 1st Lt. Herman E. Moecker, Albany, New York, Aide to General Bradford, 27th Division Executive Officer, are playing a game of ”go”. This is a Japanese game and several sets have been found during the mop up of Northern Okinawa by the 27th Division.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/347498.jpg

B型日本脳炎の血清注射をする第27軍の特別医療班。第27軍はホルマリンで殺し塩水に浸けたネズミの脳の浮遊物から作られた血清を最初に手に入れた部署である。二度目の注射に続いて2CCを投薬。注射は8、9月にピークを迎え、冬にはおさまった(1945年8月12日撮影)

The Special Troops Medical Detachment of the 27th Division, give injection of Japanese ”B” encephalitis serum. The Troops of the 27th Division were the first to receive the serum which is made from mouse brain suspension in saline solution, formalin killed. The dose is 2 CC's which is followed by a second injection from three to not more than five days later. The epidemic stage is reached in August and September, and disappears during the winter.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/336198.jpg

地元の馬具を使ったに引かれた馬車。その後は苦痛を与えない馬具に取り替えられた。(1945年8月12日撮影)

This native vehicle is drawn by horse harnessed with native type of harness, since replaced with more humane type.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/347320.jpg

地元民がヤギの死骸から皮を剥ぎ、下拵えするのを監視する軍政府配属のジョンソン氏。この食肉処理場は地元民が不衛生な場所で処理するのを避けるために作られた。(1945年8月12日撮影)

Arthur V. Johnson, right, PHM 3-C, 2555 Fowler Ave., Ogden, Utah, assigned to the Military Government watches Ken Nakasone, a native, complete the skinning and dressing of a goat carcass. Goats, cows, pigs and horse are killed in this abattoir which is set up to prevent the natives from slaughtering their own meat under unsanitary conditions.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

民間人収容所

古知屋収容所

8月12日、朝、起きてみると、は冷たくなっていました。夜中のことで、痛いとも苦しいともなんの知らせもなく、一言の遺言ものこさずにローソクの火が自然に燃えつきるように死んでいきました。27歳の若さでした。

死因は栄養失調だとしか考えられません。もともと肺結核に予後で自宅療養中だったのが、戦争にまきこまれて食うや食わずで3ヵ月も戦場を逃げ回ったのですから、体力を消耗しつくしたのでしょう。せっかく弾の雨の中を生きのびてきたのにここで死ぬなんてほんとに悔しい気持ちがいっぱいで言葉も出ませんでした。

葬式もちゃんと出してやる余裕はありません。収容所の周囲の野原にたくさんの穴が掘ってありました。葬式班の人たちが遺骸を担架で墓地まで運んでいって、穴の中にモノでも捨てるように死体を投げ込んで赤土をかぶせるだけです。沖縄では土葬の習慣はありませんから、まるで犬か猫を始末するようなやり方でほんとに残念でなりませんでした。位牌も仏壇もありません。椎の木で墓標をたててやったのがせめてもの葬式でした。』(163-164頁)

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 163-164頁より》

 

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ⑩

1945年(昭和20) 6月30日沖縄本島における日本軍の組織的な持久戦が終わっていたこの頃、石垣島では、台湾へと疎開する人々がまだいた。出航から数日後の7月3日   、台湾の基隆(キールン)に入港予定だった2隻の疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受け、1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島での生活を送ることになり、毎日、島中を歩きまわって食糧を探すという日々が続いていた。

『島にある青いものはすべて試食され、食べられるものはほとんど食べた。食糧は尽きていく。衰弱はひどくなり、1人、また1人と死んでいった。最初のころは救出する船がやってくることを期待していたが、やがてその希望が薄いことを長い遭難生活の中で知っていった。「ここで死を待つよりない」。そんなあきらめもあった。

遭難から1カ月が過ぎた8月の初めごろ、「“決死隊”を送ろう」ということが決まった。島の裏側に打ち上げられた難破船を利用、その板やクギで舟を造り、連絡のための“決死隊”を送る。百数十人の命をつなぐ小舟を造ろう―助かる道はこれしかなかった。』

幸いにも、遭難者の中に船大工がおり、大工道具も無事に残っていた

 『遭難者たちに希望がわいた。「自分はもうだめだ」と寝ていた人までが、船材を運びに出掛けたという。難破船の板をはがし、クギを抜いて一本一本真っすぐにする。男は解体し材料を運ぶ。女は布を出し合い帆を作った。…長さ5メートルのサバニが完成したのは10日目のことだった。石垣までの170キロの海を乗り越していく舟だ。』

石垣島へ向かう決死隊のメンバーは、疎開船の乗組員を主体とする8人に決まった

『出発の前にツメを切り、遺品として預けた。餓死寸前の疎開者の一るの望みを背負った小舟がみんなに見送られ出発したのは8月12日の午後5時ごろ。“決死隊”の頭には赤いハチ巻きがしめられていた。遭難者の中から「祖母の米寿祝いの縁起のいい着物。成功して全員を救ってほしい」と贈られた着物で作ったハチ巻きだ。』

嘉例(カリー)をあやかり舟が無事に石垣島にたどり着くことを祈ってのものだった。

頭に赤いハチマキをした“決死隊”の8人は、疎開者全員が歌う「かりゆしの歌」に送られながら小舟に乗り、石垣島までの約170キロの航海に出た。

『“決死隊”の成否を握る海図とコンパスは帆柱にしっかりとしばった。舟は順風を得て快調に走った。敵機との出遭いが怖かった飛行機が来るたびに舟をひっくり返し、その陰で通り過ぎるのを待った。』(尖閣諸島遭難・4 / 八重山の戦争)

《 [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および 「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) / 216-217頁より抜粋、一部要約》

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尖閣諸島 | 外務省

  

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1945年 8月11日 『歓喜に沸く連合国』

日本の降伏に世界が歓喜

『日本政府の対外情報発信を担う「同盟通信社」が8月10日、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。翌11日のアメリカ新聞各紙には「日本、降伏受け入れ」の活字が大きく踊った。連合国は歓喜に沸いた

しかしこのニュースは、日本国民には伏せられた。』

 

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日本の降伏受け入れを知り、喜ぶ米兵たち(パリにて)
American troops on leave in Paris (France) wave copies of the extra editions of the Paris Post and Stars and Stripes published August 10, 1945, bearing the news that Japan was prepared to accept the surrender terms decided on by Allies at the Potsdam Conference. (Photo by Photo12/UIG/Getty Images)

 

http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/444776/slide_444776_5902928_compressed.jpg

日本の降伏受け入れを知り、喜ぶ米兵たち(パリにて)

US troops stop the traffic in the Rue Royale in, Paris, after hearing the unofficial news August 10, 1945, that Japan was prepared to accept the Allied terms of the Potsdam ultimatum of July 2O, The Madeleine church may be seen in background. (Photo by Photo12/UIG/Getty Images)

 

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日本降伏のニュースに喜ぶロンドン市民。

VJ Day In London
10th August 1945: Crowds of Londoners gather around Piccadilly Circus to celebrate the news of Japan's surrender. (Photo by Express/Express/Getty Images)

 

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ロンドン市民と共に日本降伏のニュースを喜ぶ中国人ウェイター

Chinese Rejoice.
10th August 1945: Joyful Chinese waiters join Londoners in celebrating the news of Japan's surrender. (Photo by William Vanderson/Fox Photos/Getty Images)

【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった

 

 

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-59-3.jpg

第148陸軍航空路通信施設の一部、ボロ滑走路 [残波岬] に建てられた臨時の管制塔。沖縄。(1945年8月11日撮影)

Temporary tower on completed Bolo Strip, part of the 148th Army Airways Communications System. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-37-1.jpg

ボロ飛行場 [残波岬] に着陸した最初のボーイングB-29スーパーフォートレス「ルック・ホームワード・エンジェル」。グアム駐屯だが、日本への爆撃の際に第4エンジンに損害を受けたため飛来した(対空砲火によってオイルラインを切られ、昇降舵と安定装置もやられた)。(1945年8月11日撮影)

The first Boeing B-29 Superfortress “Look Homeward Angel“ to land on Bolo Strip, Okinawa, Ryukyu Retto. Based at Guam, the plane was returning from a bombing mission over Japan when it was forced down by damage to the #4 engine. (Flak cut the oil line, damaging elevator and stabilizer).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 事件・事故

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/16-50-1.jpg

攻撃任務を終えて戻ってきたダグラスA-20が車輪を出せず、胴体着陸を行った。第3攻撃群第89攻撃中隊。沖縄。(1945年8月11日撮影)

A Douglas A-20 unable to lower its wheels, makes a ”belly” landing after returning from a strike. 89th Attack Squadron, 3rd Attack Group. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ⑦

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。

米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。軍作業当日、現場までの移動中に見た光景は、星条旗が翻り米軍の幕舎が建ち並ぶ様変わりした沖縄島だった。

八原大佐は、その後も数回、軍作業に出た。7月23日夜、八原大佐は、米軍の事務所に出頭するよう命じられたが、これに従わず、翌24日にMPに連行された。そして同月26日ごろ、取調べ中に身分が知られてしまい、越来村の捕虜収容所に収容された。

八原参謀の回想:

『私は心中深く脱走を期しつつ、表面は何食わぬ顔で皆と接触していた。苦しい日々であったが、間もなく驚天動地の大事件が相ついで勃発した。広島、ついで長崎に原爆投下ソ連の参戦、皆機を逸せずアメリカ第10軍の機関紙『バックナー』が報じた。さらに10日同紙は日本が皇位の問題を除いて無条件降伏を申し込んだ旨、大々的に報じた。

ラモット中尉、それに衛兵たちは狂喜した。この夜沖縄全島に亘り銃砲声が鳴り響いた。欣喜雀躍したアメリカ軍が祝砲のつもりでめちゃくちゃに乱射乱撃したのである。「ホームタウン」「故郷の町」の歓声が銃砲声の間に間に絶えなかった。

私は、祖国日本とその指導層が音もなく崩壊するさまを想像した。もう本土決戦に参加する必要はなくなった。』(481頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 481頁より》

 

野戦病院 

『…11日は、病院内は日本が降伏を申し出たという話で持ち切って、いろいろなうわさがとんだ。原子爆弾が広島に落とされた翌々日にソ連が日本に宣戦布告をしたことも病院内では知られていなかった。』(203頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 203頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

軍作業

『米軍の軍作業は、収容所生活の開始とほぼ同時期に始まった。つまり、日米最後の地上戦闘と同時平行的に実施されたのである。したがって、日本軍の敵情視察を目的とする潜伏斥候(米軍占領地の様子に日本兵が忍び込んでいき情報収集する行為)要員の目には、米軍保護下の沖縄住民はまさに “非国民” と写ったのである。そして、特に南部戦線では、沖縄人はみなスパイであるという噂が飛び交い、住民が日本軍にスパイ視されて虐殺される一因にもなった。』(32頁)

《戦後沖縄の社会史ー軍作業・戦果・大密貿易の時代ー(石原昌家/ひるぎ社) 32頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/111-26-1.jpg

沖縄本島で行われた民間人の埋葬。(1945年5月20日撮影)

埋葬された者には親類がいなかったので簡素に行われた。

Civilian burial on Okinawa in Ryukyus.

A simple burial for a civilian with no relatives.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は、捕虜となった日本兵や民間人を様々な作業に起用したが、そのひとつが死体処理だった。死体処理の作業に駆り出された捕虜は、配られた藁縄、DDT、手袋を持って米軍のトラックに乗せられ、目的地まで連れて行かれた。目的地に着くと銃を構える米兵数名の前を歩かされ、一帯を歩き回った。米兵たちは、鼻をくんくんさせて死体を見つけていった。

死体の手足を藁縄で縛り引っ張って運ぼうとすると、その手足がズルッと抜けてしまう。そうなると、捕虜たちは米兵からDDTをまき、手袋をつけて死体を直接手で運ぶように命令された。たくさんの蛆がわいている死体を目の当たりにした捕虜たちに吐き気が襲う。それを見た1人の米兵は、自ら死体を運んでみせたので、その後は、いやでも死体の後片付けをさせられた。

大抵、一ヶ所に穴を掘り、見つけた幾つもの死体を埋めた。しかし、破壊された民家の内外に30体の死体を発見した時などは、一体一体運び出すのは大変な作業となるため、米兵がガソリンをまき、火をつけて一度に火葬した。(沖縄の慟哭)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時 戦後体験記/戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 380-381頁より抜粋、一部要約》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/111-26-2.jpg

沖縄本島で行われた民間人の埋葬。(1945年5月20日撮影)

コザの軍政府病院の職員が、地元の慣習に従って、親類のいる民間人を埋葬しているところ。親類がいない場合には、簡素に行われた。

Civilian burial on Okinawa in Ryukyus.

Military Government hospital personnel at Koza burry civilians according to native customs, if relatives. If not, burials were simple.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月11日(土)

 

www.huffingtonpost.jp

1945年 8月10日 『ジャップ・サレンダー』

御前会議

ポツダム宣言の受諾を決意

『8月9日午後11時50分、皇居内にある御文庫附属庫。約50平方メートルほどの地下の防空壕で、昭和天皇が参席する御前会議が始まった。議題は一つ、ポツダム宣言を条件1つで受け入れるか、それとも4つの条件をつけるか。

前日の最高戦争指導会議で、東郷茂徳外相が主張したのは「天皇の国法上の地位を変更しない」1条件。これに対し阿南惟幾陸軍大臣らは「占領は小範囲で短期間」「武装解除は日本の手で」「戦犯処置は日本の手で」を追加した4条件を主張した。』

『日付が変わり、8月10日午前2時を回ったところで、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の意見を求めた

「まことに異例で畏多いことでございまするが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」

「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である

この瞬間、1条件でのポツダム宣言受諾が決まった。いわゆる「聖断」が下された。』

 

http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/443548/slide_443548_5919706_compressed.jpg

昭和天皇
ポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争における日本の降伏を決断した。

 

午前7時、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使あてに、ポツダム宣言を受諾するとの電報が送られた。両公使によって降伏の意思はアメリカ、中国、イギリス、ソ連に伝達された。

午前11時東郷茂徳外相はソ連のヤコフ・マリク駐日大使と会談した。東郷はマリクからは公式な宣戦布告状を受け取りポツダム宣言受諾の意思を伝えた

午後7時(日本時間)、日本政府の対外情報発信の役割を担っていた「同盟通信社」は、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。しかしこのニュースは、日本国民には伏せられた。』

【戦後70年】午前2時、昭和天皇の「聖断」 1945年8月10日はこんな日だった

 

 

米軍の動向

沖縄戦原子爆弾の使用

『原爆の擁護派は、トルーマン大統領があの潰滅的な決定を下したのは、沖縄におけるアメリカ軍の損害の影響を大いに受けたためであると主張する沖縄戦の苛烈さや予想外に長引いたことを知っていても、トルーマンは、最終的な人員消耗の数値に関する彼の質問に対する答申に愕然として、「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」といった。』(417頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 417頁より》

http://blog.nuclearsecrecy.com/wp-content/uploads/2012/06/1945-08-07-LAT-Atomic-bombing-hour.jpg

ロサンゼルス・タイムズ 風刺画

Los Angeles Times, August 7, 1945

Atomic Editorial Cartoons (August 1945) | Restricted Data

沖縄戦・・・アメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものだった・・・沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは、いうまでもないことである。アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が、激増することに疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、指導者たちは、侵攻の代価は高すぎて払えないことを確信していたのである。 ーイアン・ガウ

日本本土の防衛戦は、他の地域より面積がきわめて広く、人口が非常に多いことから、沖縄防衛の性格を帯びることになるとすると、どこで、いつ、どれだけの代価で戦いは終わるもだろうか。ージェイムズ・ジョーンズ

われわれは日本軍を憎んでいたが、日本へ行って戦いたいと少しでも思っていた者は1人もいなかった。われわれは殺されるということがわかっていたからである。真面目な話、われわれには本当にそのことがわかっていた。しかし、いつもそんなことを考えていたわけではない。…女子供まですべての人々が戦うことになっている国は、いったいどうやって攻撃したらいいのか。もちろん、最後はわれわれが勝つだろうが、日本軍の戦いぶりを実際に見たことがないものには、その戦闘にどれだけの代価がいるのかは予想はできないと、私は思う。ーオースチン・エリア

私はどういうわけか沖縄では生き延びたが、本土の大決戦が控えていた。自分の運はいつまでもつかと思っていた。ところが、原子爆弾の投下で、私の人生には新たな火がともったのである。やっと、帰国できる。そして、私は帰国したのだった!ートマス・ハナハー』(413-414頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 413-414頁より》

http://blog.nuclearsecrecy.com/wp-content/uploads/2012/06/1945-08-09-LAT-All-this-and-Russia-too.jpg

ロサンゼルス・タイムズ 風刺画

Los Angeles Times, August 9, 1945

Atomic Editorial Cartoons (August 1945) | Restricted Data

『…ほぼ無傷でいた者たちは、「いずれは死ぬ身と完全に諦めた気持ちで」次の段階について様々な思いをめぐらせていた。あらゆる島の戦闘で疲れ果てていた強者たちは、これまで生き残れたのは、九州や本州に戦死しにいくためであったのかと、不思議に思った。このようなわけで、沖縄戦終結はアメリカ軍人たちにさしたる感動を起こさなかった---ビールの特配さえ出なかった。ところが、原爆投下のニュースは彼らを有頂天にさせた。もっとも逞しい強者たちの中にさえ、祝杯を挙げる前にほっとして泣き崩れた者がいた。』(416頁)

 

沖縄で戦闘に参加した米兵: 休養地のグアムにて

『「たちまち大騒ぎになった。われわれは狂喜して歓声をあげたり叫んだりして、とっておきのビールを全部飲み干した。空に向けて発砲したり、幕舎の列の間を踊って通ったりした。これで、おそらくわれわれは生きていける。しかも、杖の世話にもならずにすみそうだということになったからだった」』(415頁)

サンフランシスコの海軍病院に入院中だった米兵:

『「私は、腹の底から “神様、原爆のことを感謝いたします!” と叫んだ。なぜかといえば、あれがなかったら、私は、傷が治りしだいもっと激しい戦場へ送られいつかは戦死する身であったからだ。だから、神のご加護に私は狂喜した」』(416頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 415、416頁より》

 

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/350123.jpg

馬天港にある船舶修理基地第1食堂で昼食をとる兵士。(1945年8月10日撮影)

Men at noon chow in the ship repair base mess hall #1 at Baten Ko.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

ある夜の曳光弾

『ある夜、草むらの中で寝転んでいると、突然、島のいたるところから曳光弾が打ち上げられ、全島が花火で囲まれたようになった。近く遠く、いたるところからどよめきと喚声が聞こえてくる。いよいよ掃討大作戦が始まったのかと恐ろしくなり、思わず周りを見まわしたが、だんだんと静かになって元どおりになった。いっときの大歓声は収まり、やがて静かになったので掃討作戦でもなさそうである。いったい、なんだったのだろうか? と気になりながらいつしか眠ってしまった。あとで知ったことだが、この日は8月10日、第二次世界大戦終結を迎えたポツダム宣言受諾の日であった。』(117頁)

《「生還  激戦地・沖縄の生き証人60年の記録」(上根 保/幻冬舎ルネッサンス) 117頁より》

家族と一緒に国頭を目指していた学徒: 8月10日

『中城についた晩、米軍陣地から曳光弾がいっせいに射ちあげられた。何百、何千とも知れぬ小銃や機関銃の曳光弾が夜空に花火のように交叉した。それは全島にひろがったかと思うほど激しく大がかりのものだった。

時ならぬ光のページェントにわれわれはびっくりし、あれは何だとあわてふためいた。長時間つづいたので特攻機の反撃かと思ったが、この対空射撃は日本の降伏を知った米兵たちの歓呼の発砲だったことを捕虜になってから知った。』(343頁)

『恩納岳めざして北上する途中、兵隊にぶつかることがあったが、彼らのほとんどは米軍に発見され引っ返してきた。ピアノ線にひっかかって射殺される者もいた。国頭をめざしていたわれわれは、苦労してよその土地に行って殺されるくらいなら、生まれ故郷で死んだ方がましだと考え、国頭に行くことを思いとどまった。』(344頁)

《「証言 ・沖縄戦 沖縄一中  鉄血勤皇隊の記録(下)」(兼城一・編著者/高文研) 344頁より》

http://cdn.deseretnews.com/images/top/main/28120/28120.jpg?width=853&height=450

Upon hearing the news of Japan's peace bid, U.S. Marines on Okinawa Island celebrated by firing their guns into the air, on August 10, 1945.

Jubilation and devastation: 75 emotional photos from the end of World War II | Deseret News

 

捕虜になった敗残兵

野戦病院

『…8月10日の夜のことであった。幕舎の患者もみな眠しずまっていた。眠れないものは話し相手がなく、あれこれと想いをめぐらせていた。突然、激しい銃声がひびいた。病院の内部での発砲とわかって私たちは冷水をぶっかけられたようにおどろいた。私たちはしばらく銃声を聞いていなかった。

斬り込み隊か。いよいよ、日本軍の銃弾で殺されるか。飛んでもないことだ

私たちはとっさにコットの下に降りた。それで身をかばうことができるわけではない。それは、危なくなると地面に伏せるという人間の反射的な行動であった。付近の山林地帯に潜伏している日本兵たちはときどきアメリカ部隊に夜襲をかけて食糧品を略奪していた。その夜もてっきり日本兵たちの襲撃だと私たちは考えた。私はしばらくコットの下に伏せていたが小銃弾が飛んでくる気配もないし、夜勤の衛生兵もあわてているようでもない。起きあがってコットの横枠に腰をかけてようすをみていたが、そのうちに横になった。

まもなく幕舎担当のコーア・マンが飛び込んできた。

ジャップ・サレンダー

ジョーブン衛生兵が叫んだ。ジャップと呼ぶアメリカ兵の言葉を私ははじめてきいた。アメリカ兵の仲間では「ジャップ」という言葉がひんぱんに口にのぼったにちがいないが、日本兵の捕虜たちの目の前ではコーア・メンたちは「ジャップ」という言葉を使わなかった。日本人をジャップと呼ぶことは侮べつした言葉で、アメリカにいる日本人移民たちが「ジャップ」と侮られたということを私たちは知っていた。

ジョーブンは「日本が降伏した」というよろこびをかくしきれずに、昂奮してしまい、「ジャップ・サレンダー」と叫んだのであった。

日本が降伏すれば戦争は終わる。戦争が終われば家へ帰れる。すべてのアメリカ兵がよろこび、そして昂奮することは当然のことであった。日本が降伏したというので私もとびあがってよろこんだ。きょうか、あすかとこの時を多くのものが待っていたのである。

万歳!

私と東京生まれの堀は思わず叫んだ。2人ともアメリカ兵とおなじく、戦争の終わりと生きて家族に会えるというよろこびで雲に乗ったようなよろこびをおぼえた。日本兵の襲撃と思い込み、生命の危険におびえていたものが、俄然、日本の降伏、終戦、家族との再会これで苦しみはすべて終わった、という気持ちは、気が遠くなるようなよろこびであった。戦争の勝ち負けなどはどうでもよかった。私は敗戦は当然のこと、来るべきものが来たにすぎないと考えていた。私と堀は誰はばかることなく、心の底から「万歳」を叫んでいた。

しかし、私たちの幕舎にいた朝鮮で検事をしていて召集されたという男はちがっていた。

降伏は時期尚早だ。残念だ」』(200-201頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 200-201頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-16-4.jpg

米軍政府病院のテント病棟。研究室と手術室のビルは後方に見える。沖縄。

The wards of the American Military hospital are located in tents on Okinawa, Ryukyu Retto. The laboratory and the surgery buildings are shown in the background.

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『彼は独りごとではあったが、幕舎のものたちが聞きとれるくらいの声で無念がった。あるいは私たちが「万歳」を叫んだことに対する反発の叫びだったのかもしれない。

「何をいうか、この検事め」

私はそう叫びたかった。朝鮮で検事をしていたというこの男は、これまで朝鮮人を散々苦しめてきたにちがいない。そう考えて私はその男が「いやなやつ」だと思われたし、彼が「降伏は時期尚早だ」ということに憎しみをおぼえた

こんな馬鹿気た戦争は早くやめてしまえ、1日早ければ、それだけ命が多く助かるのだ

私は朝鮮検事に聞こえるようにわざと声を高めていった。

私は二本の杖をついて幕舎の出入口までいって空をあおいだ。嘉手納飛行場の方向と思われる夜空一杯に花火があがっていた。病院のコーア・メンたちもカービン銃のありったけを空へ向けてぶっ放していたが、航空隊では曳光弾を一斉に射ちあげていたのである。それが花火のようにみえた。日本降伏となれば、小銃の弾も無用となる。しかし、そんなことを考えてのことではなく、兵隊たちはただ、無性によろこび、弾をぶっ放したのであろう。

歓呼の発砲がしばらくしてやむと、もとの静かな夜に返った。みんな昂奮して眠れないでいた。衛生兵のジョーブンにきくと、東京からジュネーブへの無電を沖縄のアメリカ軍が傍受して、日本の降伏申入れを知ったものらしい。

むろん、それはアメリカ軍の発表ではなく、通信兵たちの盗み聞きであった。通信兵たちはそのよろこびのニュースを上司に報告し、仲間にも伝えたというわけである。

このことも日本の軍隊では考えられないことである。このようなことは「極秘」ということにされ、たとえ「傍受」されても、通信隊の将校と兵隊たちの間だけと、少数の高級将校だけの知るところとなり、一般の兵隊たちは知らされなかったはずである。「歓呼の発砲」などということはとうてい日本軍では許されるはずもなし、考えられもしないことであった。小銃も勝手に使うことの許されない「天皇の兵器」であった。』(202-203頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 202-203頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

軍作業

『1945年4月1日以降米軍の保護下におかれた北谷村(現・北谷町)を中心とした住民が、島袋収容所に移動させられた後、北谷・嘉手納海岸で強制的に軍需物資の陸揚げや北谷の各集落で水瓶割りなどに従事させられたのが、米軍に対する軍作業の始まりと断定してよい。それから越来村(現・沖縄市)胡屋周辺の道路建設工事や米兵の戦死体の埋葬処理などが軍作業の最も早い時期の内容である。その後、女性にも軍服の洗濯作業が割り当てられていった。いずれも、沖縄本島中南部を舞台に日米最後の地上戦闘が本格化しはじめた4月初旬から中旬にかけてのことである。』(31頁)

《戦後沖縄の社会史ー軍作業・戦果・大密貿易の時代ー(石原昌家/ひるぎ社) 31頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/137610.jpg

風通しのよいテントの下で、海兵隊の衣類を洗う沖縄の女性。石鹸と洗いだわしを使って(実際に)試され(有効だと)証明された方法で衣服を洗う。(1945年8月10日撮影)

Under and airy tent, Okinawan women wash clothes for the Marines, using the tried and proven method of soap and scrub brush.

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番号で衣服を分ける地元の少女。ほとんど間違わずに男性らに衣服を手渡す。(1945年8月10日撮影)

Native girls sort clothes by number seldom make mistakes when handing laundry back to the men.

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通訳を介して海兵隊洗濯場で働く女性たちに話し掛ける海兵隊所属従軍記者ブラマン三等軍曹。(1945年8月10日撮影)

With the help of an interpreter, Sgt Don Braman, Marine Corps Combat Correspondent, talks to Okinawan women who working the Marine laundry.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月10日(金)

 

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