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1945年 4月29日 『それぞれの天長節』

南進する米軍

 

前田(まえだ)

4月29日の未明から朝にかけて、日本軍は、第96師団前線の全面にかけて総反撃に出た。午前5時15分、第383連隊の第2大隊は、榴弾や槍をもった日本軍の強襲をうけ、G中隊の一小隊などは、この戦闘で30名から9名になってしまった。とはいえ、第383連隊では2回にわたる日本軍への猛反撃で、およそ265名の日本兵を倒し、またその日の午後の戦闘では、戦車隊や火炎砲装甲車を先頭に、200名以上の日本軍をやっつけたのである。』(291頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p277a.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

4月29日、師団左翼では怒濤のように進撃して、首里に近い突出した岩山を攻略しようと、軍団前線のどの部隊よりも先のほうに出た。138高地の峰は、ふたたび血なまぐさい肉弾戦ののち、第383連隊のL中隊の手中にはいった。この戦闘でシャペー1等兵は、あたかも日本軍の〝バンザイ突撃〟を地でいくような行動に出た。手に手榴弾1個を握り、峰上の機関銃陣地めがけてまっしぐらに突進すると、5名の日本兵のまん中にとびこんで、わが身もろとも爆破して相手を殺し、機関銃陣地を破壊したのである。戦車隊は高地の頂上ちかくを攻撃し、ここで47ミリ対戦車砲と砲火をまじえた。沖縄戦がはじまって1カ月、1キロ半ほどしか離れていない日本軍の首里に、ようやく直撃をあびせることができた。』(291頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p277b.jpg

TANK-INFANTRY ATTACKS marked the battle for the escarpment. An armored flame thrower of the 713th Tank Battalion, protected by infantry against enemy satchel-charge attacks, sprays flame over a knob on the crest of the escarpment.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

『第307連隊が、4月29日、浦添丘陵分水嶺に達してみて驚いたことは、ニードル・ロックのてっぺんは、幅60センチそこそこの広さしかないということだった。丘陵の南側は削られたように急に落ち、高さは北側ほどではなかったが、日本軍が洞窟を掘り、トンネルを通したのは、まぎれもなくここである。』(292頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 292頁より》

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006243/kiji1Img.jpg?uid=20170429212706

石柱のような「為朝岩」(米軍名「ニードルロック」)

前田高地 | たびらい

『4月29日に、第77師団の第307歩兵連隊は、第381連隊の作戦区域内の丘陵をとり、つぎの朝、第306連隊は、第96師団の左翼で、第383連隊と交替した。』(291頁)

『米軍は、4月29日に前線を交替するまでに、第381連隊は戦闘能力40パーセントに激減し、損害じつに1201名にのぼった。そのうちの536名は、前田丘陵における4日間の戦闘でなくしたものであった。また、小隊の中には、わずか5名ないし6名しか残らないところもあった。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、彼らは、そこまで兵器を携えていく気力さえも失っていた。』(292頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291、292頁より》

前田丘陵に、はげしい争奪戦がくりひろげられた。いくたびか攻め、いくたびか攻められた。手榴弾が飛びかい、洞窟やタコ壺壕には弾薬が投げ込まれ、夜は夜で、双方とも敵のいつくるともしれぬ夜襲におびえていた。

米軍は地上軍に加えて、空からも応援をたのみ、爆弾やナパーム弾が毎日のように投下された。戦車と装甲車は南東の方向から猛烈に攻め立てたが、丘の頂はいまなお頑強な日本軍の手中にあって、兵隊の言葉をかりていえば、「ありったけの地獄を一つにまとめた」ようなものであった。』(293頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 293頁より》

 

幸地(こうち): 第17連隊

激しい日本軍の攻撃をうけ続け、前進を阻まれていたことから前日28日に撤退。損害が激しく、29日の前進、攻撃も中止に追い込まれた。

『米軍はついに4月29日まで攻撃を中止せざるを得なくなった。どの地域でも、わずかの進撃を試みても、日本軍は12門から18門の迫撃砲で集中砲撃を加え、米軍の進出を許さなかった。そればかりか、味方の150ミリ野砲が12発とも照準をあやまって幸地丘陵東側のG中隊の真中におちるという事件がおきて、1小隊で5名が戦死、18名が負傷、近くにいた他の小隊が12名しか残らないという悲劇を演じた。この死傷者に加えて18名が、脳震盪やショックをうけるというしまつで、いまやG中隊の小銃小隊にはわずか27名しか残っていなかった。』(283頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 283頁より》

 

 

第32軍の動向

4月29日日本軍は、第一線で天長節を迎えた。前線の兵士たちは、おそらくこの天長節を期して、敵の息の根を止める航空攻撃が行われるだろうと、首をながくしていたが、沖縄の兵士たちの前には、そのような多数の味方機は現れなかった。』(238頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》

再び攻勢へ

軍司令部

4月末の苦戦により第32軍司令部のなかに動揺がおきた。このまま持久戦を続けるよりも余力のあるうちに攻勢に出ようという意見がにわかに台頭してきた。中心は参謀長の長勇中将である。彼は若ころ桜会急進派で10月事件(1931年のクーデター計画)に関与し、また南京攻略戦の際は捕虜殺害の命令をくだすなど、気性の激しい猪突猛進型の軍人であった。長参謀長は作戦主任八原大佐の反対をおさえ、まだ無傷に近い第24師団の全力を投入して東部戦線(中街道以東)で攻勢に出ることを決定した。第32軍司令官牛島満中将も参謀長の意見に賛成した。牛島は1937年12月、大虐殺をひきおこした南京包囲戦に第36旅団長(熊本の第6師団所属)として参加して、猛烈な追撃戦を指導した人物である。彼も「死中に活を求める」派手な作戦の誘惑にまけた。』(83頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83頁より》

http://www.generals.dk/content/portraits/Ushijima_Mitsuru.jpg

第32軍司令官 牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5

『敵の砲爆撃もじかに司令部壕に迫り、坑道内に硝煙が侵入し壕内の将兵が「ガス攻撃だ!」と防毒面をつける事態も見られるようになった。戦局の緊迫化が、壕内の将兵にこのまま受身に立って敗北と死を待つのは耐えきれぬ、という思いをいだかせた。しかも「攻勢は最良の防禦」という日頃からの攻勢至上の訓練も影響して攻勢に出れば勝利を物にし、「玉砕」を免れうると判断せしめるにいたった。しかし、こうした動きは八原作戦参謀にいわしめると、一種の悲観論か「呪うべき盲目的主観に基づく迷妄な結論」でしかなかった。

だが、大勢は攻勢案を支持し、その急先鋒たる長参謀長は、4月29日の早朝、洗面中の八原作戦参謀の手をとり「一緒に死のう」と言って涙を流しながら攻勢案への同意を求めた。』(119頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 119頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/Cho_Isamu.jpg

第32軍参謀長 長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

八原高級参謀の回顧:

4月29日朝まだき、わずかばかりの水で洗面をすました私の前に、参謀長が突如として姿を現された。思い詰めた態度で私の手を握り、真に熱烈な口調で、「八原君!君と僕とは常に難局にばかり指し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう。どうか今度の攻勢には、心よく同意してくれ」と申され、はらはらと落涙された。あまりの突然さに、私はぎょっとしたが、握った将軍の手の温みが伝ってくるとともに、私もまた心動かずにはおられなかった

私は司令部内唯一人、大勢を押し切って、曲りなりにも過去一か月、軍を戦略持久の線に引っ張ってきた。私もまた人の子である。今や、ともすれば心弱くなり、もはやこれ以上、周囲の力に抗し難いと思う折から、参謀長が至誠を披瀝して自らの部下である私に攻勢を懇請されたのだ。攻勢の失敗はあまりにも明瞭であるが、私は感動し、心弱くなるまま、参謀長に「承知しました」と答えたのである。』(265-266頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 265-266頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

 

北部戦線

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

4月中旬に八重岳の陣地から退却、多野岳を目指して山中を移動した約千人の兵隊や学徒らは、幾度も米軍の攻撃を受けながらも、団体で行動していた。攻撃を受けるたびに多くの死傷者を出すも、それらに対応することはなく置き去りにして再び新たな拠点を求めて行ったり来たりしていた。とうとう、将兵の中から別案が出される事態になっても、宇土大佐は計画変更を渋っていた。

29日、部隊は辺土名を目指して落ちて行った。多野岳まできた時、山本中尉は悲痛な声で「安和海岸には、食糧を積んだ日本の機帆船が着いたそうですから、急いで自分がいって、食糧の補給を講じます」と云い残して、姿を晦ました。彼は再び帰って来なかった。真部山の陣地構築の時、構築作業が進まぬといって、出動した労務者達を牛馬のようにこき使った激しい気性の彼は、宇土大佐の煮え切らぬ態度に居た堪らず、独りで自由な行動を決したのである。

野岳には、米軍の使ったいろいろな遺棄品が転がっていた。数日前まで、米軍が駐屯した証拠であった。これを発見して、米軍部隊が近くにいる、と察した宇土の将兵達は、前進を諦め、福地又にまたも引返した。ここでは、弱り切った宇土大佐が、とうとう山本中尉の主張した「分散行動」を採用したので、一班を約25人ずつで構成し、今後は全部隊将兵が、山中に自治を求めてあてどもなく分散することになった。宇土大佐は、宮城、上地両兵長を含む地理に明るい沖縄人の兵隊を本部にまとめた。「時機到来までは、できるだけゲリラ戦で敵に当り時給自足しよう」と敗残の将兵達は、島の北端久志大宜味の各村山中へ移動を開始した。(316-317頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 316-317頁より》

 

中南部戦線

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

4月29日、天長節。この日は朝から雲ひとつない晴天だった。…9時頃、伊東が大隊本部の監視口から見ていると、敵戦車の群れが砂塵をあげて東の海岸道を南下し、右前方の小波津集落に入ってくる。ここからは2000メートルほど離れているが、手に取るように見えた。1両、2両・・・すでに7両が集落に入り、あとにも続いている。やがて集落の西端に先頭の戦車が姿を現し始めた。友軍砲兵の弾丸が伊東の頭上をかすめ、先頭戦車の傍らで破裂する。…ついに友軍の砲弾が先頭戦車に命中した。

…砲弾が次々と戦車に命中し、1両ずつ草地へ打ちのめしていく。そのうち地雷に引っかかる戦車も出てきて、敵戦車群の前進は阻止された。…今度は左手の翁長集落から数両の敵戦車が現れた。大山隊長によると、昨日配置した三好隊(聨隊砲中隊)の肉攻手(肉薄攻撃兵)が飛び込んで行ったという。5人が突っ込んだとみるや2人が退避、そしてそこには擱座した2両の戦車が横たわっていた。しかし5人とも帰還しなかった。退避した2人は、随伴する敵歩兵か後続の戦車にやられたようだった。

なおも敵戦車2両が陣地直前まで侵入したが、擲弾筒の射撃に慌てて逃げて行った。この日、敵の集中砲火はなかった。歩兵の攻撃もなかった。…敵は今日、一転して多量の戦車を投入し戦況の打開を試みた。しかしそれも失敗に終わり、戦車群の攻撃は完全に大山隊の陣前で破砕された。この日、大山隊の損害は無きに等しかった。…陣地がない中で、大砲、擲弾筒、煙幕、地雷と、使えるものはすべて使った。それによって、第1線は頑強に持ちこたえたのだ。』(145-146頁)

夕刻、師団司令部から命令がきた。「首里北側に転進せよ。2400を期し、任務を歩兵第89聨隊第1大隊に引き続くべし」師団の態勢整理の必要からだった。』(147頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 145-146、147頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p270b.jpg

翁長を通り幸地へと前進する途中で攻撃を受け擱座した米戦車(4月29日)

Attempting to reach Kochi through Onaga, south of Skyline Ridge, these tanks were lost 29 April when the American lead tank blocked the road forward.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

 

そのとき、住民は・・・

4月29日天長節の佳節に当たり、日本軍が何らかの行動に出ると噂されてい待望の日である。からりと晴れ上がった上天気の日であった。われわれの手持食糧はぎりぎりのところまで来ており、いくらきり詰めても後一週間あるかなしかのところだった。とに角、海岸線に出るまでの食糧があればよい、後は途々藷を掘って食べよう。こう話が決ったので、出発することになった。戦争の終局が目前に迫っていることを、固く信じ切ったわれわれには、も早、飢じさも米軍の斥候も問題ではなく、一気に頂上の林道に出た。

喜如嘉山のあたりで、米軍の架設した電話線を発見した。米軍陣地に踏み込んだのではないかと不安に駈られ、大急ぎで通り越そうとあせったが、その樹々に架けられた不気味な数条の電話線は、高く低く、われわれの向う先々、どこまでも続いているかに見られた。

三叉路のところで、われわれは思わず立ちすくんで了った。すぐ目の前に真赤な血を含んだ止血帯が捨てられてある。血の色合からして使用後間もないらしい。そこから約十間位行くと、そこに小銃の薬莢が散乱していた。緊張の裡に更に二十間位進んだとき、われわれはそこに恐るべきものを目撃した。

路のすぐ側に、1人の兵隊が戦死していた。俯伏せの姿勢で両脚をきちんとつけて真直に伸し、右手を斜下に置き、左手を頭の上にかざし、頭の周辺の叢にはどす黒い血潮がかかっていた。

初めて見る戦死者の姿である。こんな森林の中にたった独りで死ぬなんてー』(361-362頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 361-362頁より》

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月29日

1945年 4月28日 『米軍の部隊交替』

南進する米軍

『4月の末までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第96師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損害をこうむっていた。そのためどうしても休養が必要であり、また他部隊と入れ替わる時間も必要だった。これに反して、第77師団のほうは、慶良間列島伊江島で戦ってきたとはいえ、比較的フレッシュであった。また第27師団のほうは、もともとは沖縄戦に使うつもりはなかったが、第7師団と第96師団だけでは首里防衛戦を突破することはむずかしいことがわかったので、臨時として第24軍団に配属されていたのだ。』(276頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 276頁より》

屋富祖(やふそ)

『西海岸のほう、第27師団の作戦区域では、アイテム・ポケットの戦闘は、事実上は4月27日に終わっていた。そのため第165連隊は、その後は小湾方面を偵察していた。また師団左翼のほうでは、第105連隊が浦添丘陵の戦闘後、部隊を再編して、4月26日には仲間の南端まで進撃して散兵線をしき、5月1日に交替するまでそこで頑張った。師団中央線では第106連隊の第2大隊が前線を確保するため、屋富祖周辺で4月27日から28日にかけて猛烈な戦闘に従事していた。だが、米軍はあまりにもその兵線を広げすぎ、兵も疲れきっていたので、4月末ごろの戦闘では大した攻撃もできなかった。』(277頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 277頁より》

 

前田(まえだ)

4月28日、第381歩兵連隊のK中隊は、浦添丘陵の日本軍の抵抗を弱めようと、第27師団の作戦地区を西方に進み、仲間村落を通って南西を攻撃し、校舎のほうに進んでいった。この校舎は、大きなコンクリートづくりで兵舎として使用されていたもので、日本軍の本部があり、仲間村落と前田村落の中間、丘陵の南側にあった。そこで半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害をうけて撃退され、生き残った兵は、煙幕のもとに退却せざるを得なかった。中隊で使えるものは、いまではわずか24名になってしまった。第381連隊では、K中隊、I中隊とも、多数の死傷者を出したので、ついに両中隊を合併して兵員70名、重機関銃4梃からなる、協力な1個中隊をつくった。』(290-291頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290-291頁より》

 

幸地(こうち)

4月28日、まだ夜が明けきらぬうちに、第17連隊の第3大隊は、幸地丘陵西側で第1大隊と交替し、リー・ウォレス中佐の指揮のもとに攻撃を開始した。ウォレス中佐は兵を丘陵とゼブラ高地のあいだの切り通しに入れるのが得策だと考え、背後から幸地丘陵の防衛線を攻撃しようと思った。

まずL中隊が西側丘腹づたいに南進している間に、K中隊を切り通しにひきいれることには成功した。しかし、中隊がひとたび切り通しにはいると、たちまち日本軍の機関銃弾をあびて4名が戦死し、8名が負傷した。その後もたてつづけに機関銃の攻撃をうけて、ついに撤退せざるを得なくなった。一方、L中隊のほうは峰に着くことさえできなかった。』(282-283頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282-283頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線 

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

沖縄本島北部の山中には、本部半島を占領されて退却した宇土大佐率いる国頭支隊の敗残兵や途中から合流した日本兵や学徒らがいた。米軍の攻撃を受けるたびに、北上したり来た道を引き返したりした際に、東村福地付近で米軍の攻撃をうけ、死傷者が続出した。

沖縄県立二中生の証言:

『「米軍は本部半島にも上陸した模様で、4月15日真部山が攻撃され、宇土部隊が潰滅的な打撃を受け、宇土部隊長も引き揚げてきた。本部半島はほぼ敵の包囲下にあるとの判断で16日撤収をはじめた。銃器、弾薬、毛布などをかついで、敵の機銃掃射をさけるため日中は山林にもぐり、日没後行動を起こした。17日朝、名護市呉我山に到着、昼間はじっとかくれていた。兵隊と二中生約20人がいたが、一番上が上等兵では指揮もできず、ウロウロと一週間がかりで22、3日ごろ多野岳まで逃げのびた。…ここでも敵の迫撃砲、艦砲の攻撃を受け、夜間に行動を開始、沖縄本島東海岸の有銘の民家に避難した。26日か27日の午後、銃声が聞こえるので歩哨を立てた」

「敵の斥候4人が通ったので撃つと1人が倒れた。1人は山手に行ったが、またひきかえしてきたので撃ったが当たらなかった。他の2人は手榴弾におどろいて逃げた。危険だというので夜間出発して、27日か28日に東村福地に着いた。28日か29日に福地川の谷間に避難した。対岸の炭焼ガマに入っていた農林学校の尚健少尉らは、米兵4、50人の馬乗り攻撃を受けて戦死した。馬乗りというのは壕や墓などに入っている友軍の上に米兵が馬乗りのような形で上がり、火炎放射機や爆薬などの攻撃をすることをいう。とにかく宇土部隊と行動を共にしていてはダメだというので、29日か30日に東村高江へ、5月1日か2日かに新川へ移り牛肉を食べた。」』(60-61頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 60-61頁より》

 

沖縄県立第二中学校

www.youtube.com

 

 

中南部戦線

27日、28日の戦闘は、日本軍は体勢が悪いながらも、猛烈なファイトでこれを補って善戦した。24師団の歩兵32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)や第2大隊(大隊長・志村常雄大尉)が勇名を馳せたのも、この戦いであった。前田仲間と連なるこの浦添高地帯の特徴は、ここから見ると首里方面の日本軍陣地が見おろせる上に、これを失うと、この稜線から北の米軍の様子が全く見えなくなることであった。飛行機を一機ももたぬ32軍としては、これからの作戦指導のために、どうしても手離せない要地であった。』(238頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『…28日、敵の集中砲火は昨日よりも早めに開始された。第1線の銃声も、9時には聞こえてきた。「戦車が小橋川方面より大山隊方面に前進中!」監視兵が叫ぶ。続けて、情報係の曹長が監視所から走ってきた。「戦車をやっつけた2台、大きなのをやっつけた!」彼らと一緒にいた樫木副官も引きあげてきて、声を弾ませながら報告した。

…大山大隊の陣地からは盛んな銃声が続いている。伊東は第1、第3中隊に命じて、擲弾筒各々1個分隊を大山隊の両側に出して支援させた。まもなく、西北方の翁長集落から出現した戦車を擲弾筒で撃退したとの報告があった。…しかし、陣地設備が不十分なため、猛烈な集中砲火を受けて損害を出すことになった。』(137-138頁)

『大隊本部の監視口から確認しただけでも、米軍は20両のトラックで死傷者を次々と後送していた。大山隊の報告によれば、肉薄攻撃により戦車2両を擱座させたという。』(141頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 137-138、141頁より》

  

前田(まえだ)

前田高地にいた兵士の証言:
『…途中で負傷兵ができて、それを、野戦病院に届けるように、小隊長から命令を受けて。その間、4~5日ぐらい遅れて行ったものですから、その間に、ほとんどやられてました800名から百何十名ぐらいに。ちょうど一線に出て行く途中で、アケラという一等兵が、朝、用を済まして、ヒエ畑で。帰るときに、艦砲の破片で股をえぐられましてね。それで小隊長が「それを病院に届けてくれ」と。「君は沖縄出身だから、それを届けてから、追ってこい」と。だから、防衛隊2人と私と3名で、その人を病院に届けて。軍病院に。それから、防衛隊連れて。1人はアケラ一等兵をそのまま残すわけにはいかんから、1人看護に残して。1人を連れて2人で島尻から前田(高地)までたどって行ったんですよ。

それから行ったら、もうみんな120~130人になっていました。前田高地の争奪戦で。前田高地を取ったり、取られたり、何回か繰り返すうちにほとんど、逝っちゃった。私が行った時期、その状況を聞いたら、もう戦友の誰々がいないよという話聞いてね。戦闘とはこんなもんだなと。』

www2.nhk.or.jp

 

南風原陸軍病院(沖縄陸軍病院南風原壕)

 http://www.city.naha.okinawa.jp/cms/kakuka/heiwadanjyo/stuff/morio.jpg

『1944年5月に陸軍病院は開設され、10.10空襲後現在の南風原小学校に移動する。小学校の近くにある黄金森に米軍上陸にそなえて壕も掘られた。この周辺には南風原陸軍病院の本部壕、第一、第二、第三 外科壕があった。』

『1945年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになる。麻酔等はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われた。手術の間、患者が暴れないよう押さえること、切断した手足や死体の処分等も ひめゆり学徒の仕事であった。

ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成されていた。彼女らは15歳~19歳であり、法的根拠もなく動員された。』

http://www.city.naha.okinawa.jp/cms/kakuka/heiwadanjyo/stuff/kuti.jpg

『これが壕の入り口、黄金森の反対側にある。ここの壕は摩文仁近くの鍾乳洞などの自然壕とは異なり人力で掘られた物である。ひめゆり学徒が配置されたとき壕は出来上がっておらず 壕を掘りながらの看護作業であった。』

http://www.city.naha.okinawa.jp/cms/kakuka/heiwadanjyo/stuff/kuyik.jpg

『壕内は縦横2M程の巾で掘られている、奥行きは2~30M程だろうか。直角に枝壕が掘られている。自然壕ほど通気が良くなく息苦しい。当時はここに二段ベットが作られており、その焼けた残った支柱が今も残る。…壕は浅く天井から木の根などが出ている 箇所がある。』

南風原陸軍病院 | 那覇市 Naha City

ひめゆり学徒の証言:

『戦争は日一日と激しさをまし、壕と壕との往来が次第に危険になってきました。…そのうち、第1線から移送されてくる患者が次第にふえ、生徒独自の壕もなくなり、生徒たちは患者の壕に割り当てられました。

…動ける患者は壕の入口近くにいて、奥にいくほど重傷患者がいました。壕に入ると、血や膿小便や大便、さらに汗臭い垢だらけのからだの臭いなど、さまざまな臭気がまざって壕内に漂い、気分が悪くなりました。

…肩から指先まで添え木を当てて包帯を巻いた兵隊、気管をやられて、たえず「ピー、ピー」とのどをならしている兵隊、火炎放射器で顔を焼かれ、目鼻と口だけを残して顔に包帯をぐるぐる巻いた兵隊、胸部を貫通され呼吸するたびに背中の傷穴から「ジュー、ジュー」と泡を出している兵隊、脳症をおこした兵隊などです。』(86-87頁)

《「私のひめゆり戦記」(宮良ルリ/ニライ社) 86-87頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

前田(まえだ)高地周辺

youtu.be

RBC 琉球放送】戦後70年の地平から「前田高地の戦い」

前田高地の戦い | 琉球放送

 

 

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www.qab.co.jp

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 旧南風原陸軍病院壕 当時の「臭気」再現

1945年 4月27日 『戦場の市町村会議』

南進する米軍

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

4月27日、ポケット陣地の南へ着いた戦車隊の最初の2輌は、47ミリ対戦車砲に撃たれて簡単にやられた。そこで戦車隊のほうでは、歩兵と緊密に連携を保って残った日本軍陣地の攻撃に出た。

4月27日の午後4時37分、ついにアイテム・ポケットは陥落した。だが、その後もたくさんの日本軍の残兵がおり、何週間かのちまで、まだ深い洞窟やトンネルの奥から出没してくるのだった。』(234頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 234頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p216.jpg

アイテム・ポケットの中央部(城間丘陵より北方を撮影)

HEART OF ITEM POCKET, looking north from Gusukuma Ridge.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

前田(まえだ)

浦添丘陵の左のほうで、山なみが急に南西に曲がっているところがあり、ここで、第381歩兵連隊の第1大隊と、第383連隊の一部は、4月27日、第763戦車大隊と第713火炎砲装甲車隊の支援を得て、150高地と152高地のあいだのくぼ地を進撃していった。…装甲車や戦車の火炎砲が火を吐いて、前面から陣地を攻撃し、幾百の日本兵が、逃げようと壕から出るところを、歩兵や戦車が機関銃でやっつけた。
戦車と歩兵軍は、さらに、前田南端に進入したが、ここでは猛烈な反撃にあって、進撃できなくなってしまった。丘のうえにトーチカがあったのだ。…このトーチカの乗っ奪りに、米軍は集中攻撃を加えた。だが、この試みも失敗におわった。もちろん日本軍は、多数の犠牲者を出したが、それでもこの日、米軍としては、150高地と152高地ちかくの前田で、わずかばかり進撃した以外は、一つの土地さえも長時間、占領しているというわけにはいかなかった。』(290頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290頁より》

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米陸軍第24軍団の前進状況(1945年4月18-30日)

Chapter 07 | Our World War II Veterans

 

 

第32軍の動向

北部戦線

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

本部半島を米軍に占領され、布陣していた八重岳一帯から多野岳へと退却した国頭支隊。その多野岳でも米軍の攻撃をうけ、さらに北上するために移動を始めた。24日には久志村の三原に到着、その後、源河部落を経由して25日には有銘に入った。

『…27日、福治又山中に入った。その時の宇土大佐らの陣容は、恩納岳から敗走してきた県立農林学校生徒達で固めた約20人の鉄血勤皇隊を指揮する同校配属将校の、尚謙少尉や、海軍の残兵などを合わせて約800人ぐらいだった。』(315-316頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315-316頁より》

県立農林学校学徒の証言:

『「尚謙さんに連れられて野岳から目指したのは東村の内福地というところ。内福地に向かう途中、周辺の集落から話を聞きつけた農林生たちが何人か駆け付けてきてくれたので全部で14、5人にはなっていたでしょうか。戦争前に田舎に疎開したり、避難していた連中でしたが、積極的に仲間に入れたほしいと申し出てきたわけです」』

[66 農林鉄血勤皇隊(7)]距離20メートルの戦闘 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

『…その日の昼頃、ちょうど谷川べりで、飯を炊こうとした時だった。…突然パシッと、立木の幹を裂いた一弾が飛び込んだ。次には、ドドドドドという音に変わっていた。機銃弾が、不意打ちに飛び込んできたのだ。…硝煙が渦まき、迫撃砲が破裂した。…静かな光景が、一瞬にして、地獄と化した。』(316頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 316頁より》

『内福地の川を臨む丘の斜面の木の上で体を休めていた農林生たちは音のした方向を見下ろした。武装した米兵が2、30人。間もなく激しい戦闘となった。』

『その丘の一帯は草木がおい茂っており、米軍の兵たちも銃の照準が定まらない様子。』

尚謙少尉は戦死。隊長を失った農林勤皇隊はこの日から解散状態となってしまった。』

県立農林学校学徒の証言:

『「敵との距離はほんの20メートルくらい。武器は向こうの連射銃に対し、こちらは手投げ弾がたったの2個。結果は知れていました。投げた手投げ弾が近くの木に当たってはね返り、自爆した形で死んだ仲間もいます。とても歯が立たないと思い、敵に背を向けて夢中で丘を駆け上がりました」』

[66 農林鉄血勤皇隊(7)]距離20メートルの戦闘 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

肉体が、死体となって散乱した。他の処では擲弾筒で応戦したが、間に合わなかった。この騒ぎをよそに宇土大佐は山奥へ一人で逃げ込んだ。米兵の攻撃が止み、暮色が迫ると、山中では将校達が集まって会議を開いた。作戦主任の山本中尉は、「こうなっては、戦闘のしようもない」と力説したが、宇土大佐はその説を斥けた。』(315-316頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315-316頁より》

 

県立農林学校

m.youtube.com

 

中南部戦線

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

4月27日、陽が昇ると、いよいよ伊東大隊の陣前にも、敵が集中砲火を浴びせるようになった。狙っているのは大山隊のいる小波津西側の陣地である。砲火は熾烈を極め、大隊本部の位置からは、陣地は土煙に包まれて全く見えなかった。砲声が響き渡っていたのがパタリとやみ、今度は銃声が聞こえてきた。 敵の歩兵が前進してきたのに対し、大山隊が応戦しているのだ。

…一日中、激しい戦闘が続いた。夕刻には敵が小波津集落に侵入したが、大山隊はこれを撃退した。この日は陣地を確保したまま暮れた。(137頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 137頁より》

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沖縄戦 二十四歳の大隊長: 陸軍大尉 伊東孝一の戦い - 笹幸恵 - Google ブックス

  

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)

島田知事は、米軍に占領されていない地域の市町村長を集めて緊急市町村長会を開くことにし、招集状を配らせていた。

『招集状に接した市町村長はおのおの、居村の壕から、弾の中を突破しつつ、続々繁多川の壕に集まって来た。4月27日午前1時、糸満署長上原敬和警部が、糸満真壁摩文仁の各村長一行7、8人と共に、繁多川の小さい流れを挟み、緩やかに上部へ拡がる谷間の低地をかけ上って、まっさきに到着した。谷間には、決死行の人々を犒うための、県庁女子職員の炊出用の水を汲む姿が群がっていた。あけがた、斜面を上ってくる人々の姿が点々と、上空の照明弾に照らし出された。…鉄兜と巻脚絆で身を固めた、真和志小禄、真壁、摩文仁喜屋武玉城知念那覇首里、各市町村長らが顔を揃えた。

前代未聞の戦場における市町村長会議は、壕の外を、荒れ狂う砲爆撃の喧噪と、狂気の中に、行われたのであった。

島田知事荒井警察部長各課長県庁員、市町村長、その従者、附近住民、無慮100人近い人間がぎっしり詰まる中に、会議は始められた。』(100頁)

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県庁壕の内部

県庁壕(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…軍司令部情報主任益永大尉が立ち上がって、「敵の出血は夥しい数字に上っている。日本軍は毎日挺身斬込みで、物量におごる米の心胆を寒からしめている。だが遺憾なことには、非戦闘員に中には、利敵行為を行うものがおり、軍用電話線の切断を図ったり、壕の入口から戦争は敗けたのだと、叫んだりして士気沮喪を狙うなど、反逆行為が無数にある。諸君においては、かかる非国民を出さぬよう戒心して貰いたい」と警告を与えた

島田知事は、日本本土からの激励電報文を一同に、披露した。

…「住民に満足な壕を与え、必死の戦場食糧増産を図れ」「戦争中を喰いつなぐ戦場食糧はキビに限る」と、農務課長古郷甚作が持論を吐いた。「月夜を利用してイモを植えろ」と口々に意見が出た。壕内の会議場は、大げさな海上戦果を告げる、大本営発表とともに妙に浮きたつ中に、首都那覇市の助役兼島景範を、市長不在のために任命するという、島田知事の臨機な特別処置が、新たな市長に感激を生み、一層沈痛と崇高な空気に満ちみちていた。…午後6時頃、会議は終わった。市町村長らは、壕の出口に固まって、艦砲の薄れるのを見計らって三々五々、各自居村の壕を指して、死の峡谷を降りていった。』(101頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 100、101頁より》

 

 

真実を伝えない日本メディア

沖縄新報

国による「一県一紙」の言論統制方針によって、1940年12月20日、「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」の3紙が統合され「沖縄新報」が創刊された。』

『1941年12月に言論出版集会結社等臨時取締法が成立した。政府への批判的言動を取り締まるだけでなく、報道機関を利用して世論を誘導した。沖縄に配備された第32軍司令部は、参謀部内に報道宣伝協議会を設置して、報道機関を完全に軍の統制下に置いた(15) 。』

『真和志村(現那覇市)繁多川の県庁壕で1945年4月27日に開かれた南部地区市町村長、県、警察署長合同の会議の模様が、4月29日付「沖縄新報」に掲載された。記事は「勝つぞこの意気 弾雨を蹴って市町村長会議」の見出しとともに、「勝利の日まで辛抱を続けよう」という島田叡知事の訓示を紹介した。また「一万八千余を殺傷」という軍発表沖縄戦の戦果を伝えた。』(上書きにさらされる沖縄戦の教訓)

http://gendainoriron.jp/vol.04/images/ph_miyagi02.jpg

沖縄新報』1945年4月29日付

「上書きにさらされる沖縄戦の教訓」琉球新報論説委員・宮城 修 | 特集・戦後70年が問うもの Ⅰ

 

  

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月27日

 

【戦跡と証言】県庁壕(那覇市)

www.nhk.or.jp

1945年 4月26日 『前田高地の激闘始まる』

南進する米軍

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

『アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始してまる一週間たった26日、連隊は第1号線道路の日本軍の砲火力がまだ熾烈なため、戦車も装甲車もないまま戦闘をつづけていた。

攻撃、また攻撃、米軍歩兵は、一つ一つ、日本軍陣地を殲滅して、26日には、やっと城間一帯を掃討できた。』(233-234頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 233-234頁より》

 

前田(まえだ)

4月26日前田高地攻撃が開始された。米軍は、進撃にあたっては、さして困難な目にもあわなかったが、第381連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん、日本軍の攻撃をうけ、ものの2、3分とたたぬあいだに、18名の犠牲者を出してしまった。

前田高地での日本軍の防衛戦術は、完璧そのものだった。丘の前面はまもらず、相手を容易に登らせ、頂上までのぼりつめたところで猛烈な攻撃をあびせる。…もし進もうとするなら、戦いぬく以外にはなかった。

…F中隊は、人間梯子をつくって丘陵の頂に登ろうとしたが、最初の3名が頂上に達するやいなや、一回で機関銃弾にあたって戦死した。陽が落ちてまもなく、まだあたりも暗くならないころ、E中隊は、150高地の南にある前田の小高い丘を奪ろうとした。だが、兵が丘の上に立つと同時に、丘の上は10梃あまりの日本軍の機関銃による掃射をうけ、たちまちにして2名が戦死し、6名が負傷するという事態が発生し、米軍はがむしゃらに81ミリ砲を400発も撃ち込み、煙幕弾を撃ち込んで、どうにか中隊を退却させることができた。』(287-288頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287-288頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-35.jpg

前田高地

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

『…東のほうでは、しばらくはかなり成功しそうなけはいがあった第383連隊の一部は、150高地と152高地の頂に到達したが、そこからは、下方に日本軍がうようよしているのがまる見えだった。おそらく600を数えたろうか。日本兵が群がっているのが、手にとるように見えた。機関銃手、自動小銃手、それに各歩兵にとっては、これは願ってもない絶好の機会だった。その日、米軍は思う存分に撃ちまくり、思う存分に戦いまくった。結果は米軍に利ありで、一自動小銃手は日本兵30名を射殺したりした。

戦車隊や火炎放装甲車隊は、いまや前田高地の端に進出してきた。洞窟にかくれていた日本兵は、火炎放射器で穴から追い出され、逃げるところを撃たれた。』(288-289頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 288-289頁より》

 

幸地(こうち)

『…第1大隊は、幸地丘陵の西側にそって進撃し、第2大隊は東側を進んでいった。この米軍の進撃がはじまると同時に、予期したとおり周囲に待機していた日本軍が丘腹から攻撃を開始し、迫撃砲や機関銃が予想にたがわず火を吐き、下方一帯に弾幕をはった。

米軍は攻撃を中止し、全軍がもとの線にひきさがった。ただし、G中隊だけが、東側の丘腹に不安定な足場をとってがんばっていた。どの大隊み、他の部隊がどう動いているかもわからなかったし、どの部隊も峰の一つさえとれなかった。それぞれ孤立して自分たちのところで戦う以外、すべはなかったのである。

4月26日の夜、第17歩兵連隊は、幸地一帯の日本軍にまともにぶつかっていることがはっきりした。』(282頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282頁より》

 

 

第32軍の動向

軍司令部

『…150高地と152高地での米軍の作戦と、4月26日前田高地への米軍戦車隊の進撃は、日本軍の第32軍に、かなり精神的な打撃となったようだ。

午後4時牛島中将は、つぎのような簡単な命令を出した

「敵は戦車隊につづいて、午後1時ごろより、前田南部ならびに東部に侵入しつつあり。第62師団は地区守備隊を派遣、前田方面に進撃する敵を攻撃、断固これを撃退すべし

これと同時に、日本軍は近くにいた第24師団に、この撃退作戦に協力するよう命令を下した。それから2時間後、牛島中将はさらに、「陸軍は前田付近を突破せる敵軍を撃砕し、第24師団は、今夜、その主力を、首里東部に向けるべし」と命令を下した。』(289頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 289頁より》

 

北部戦線

有銘(あるめ・東村)

『…東村有銘で日本兵が住民2人を殺害したとみられる虐殺事件があった』

目撃者の証言:

『…1945年4月26日ごろ、米軍の斥候兵3人が有銘集落に入り、日本兵と銃撃戦になった。米兵2人が銃で撃たれて死亡。米兵1人は逃げる途中、海岸沿いの避難小屋で生活していた10代半ば中南部出身とみられる避難民の男性2人を人質に取った。
 日本兵、2人を連れて海岸を南へ逃げる米兵を追い、泳いで沖合に回り込んで射殺さらに、2人の避難民を山まで追って殺害したとみられる。』

『その日の夕方、丘の上から有銘方面を見ると、日本兵け飛ばされ、山から下ろされる避難民2人の遺体を目撃した。』

東村有銘で住民2人虐殺 日本兵、米兵を銃殺後 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

中南部戦線

26日午前6時頃仲間、前田、幸地の線で新たに両軍の均衡が破れ、米軍は地上砲火、艦砲射撃で日本軍守備陣地を攻撃した。同10時頃から戦車を伴う有力な歩兵部隊を以って進出戦線の一部は嘉数、我如古の線から、西と南に2、3粁のびて行った。』(421頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 421頁より》  

前田(まえだ)

前田にいた兵士の証言: 独立歩兵第13大隊

『「…1945年(昭和20年)3月、馬車と馬を持って応召した。嘉数に駐屯した独立歩兵第13大隊に入隊です。馬車30台と防衛隊員36人を率いる上等兵の小隊長です。艦砲射撃のさなか、松の木などの資材を陣地構築用に運びました。4月1日に米軍が上陸したので浦添市当山まで後退し、そこを拠点に輸送をつづけました」
「米軍の迫撃砲攻撃がすさまじいのであっけにとられ、作業をやめて数えさせたら、15分間に486発飛んできた。嘉数高地は夜は日本軍、昼は米軍という奪いあいがつづいて、4月26日にわが軍は前田まで撤退しました。前田にはわが軍も迫撃砲60門をすえ、各砲が毎分1発ずつぶっぱなしたときは、すごかった。そのころ、私は弾薬輸送中に左足に貫通銃創、右足も負傷し、南風原の陸軍病院、さらに糸数病院へと送られました」』(87頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 87頁より》

 

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

26日14時頃、警戒隊につけていた無線手2名が大隊本部へ報告に飛んできた。声が上ずり、何を言っているかわからない。兵が興奮して話す内容を総合すると、どうやら警戒隊は側面から攻撃を受け、戦況はきわめて不利とのこと。』(133頁)

『辺りが闇に包まれて間もなく、警戒隊の山田中尉の当番兵が疲れ果てた姿で大隊本部にたどり着いた。「自分は夕方まで隊長殿と一緒におりました。隊長殿はもはやこれまでと死を決意されたのか、お前は帰って最後の状況を報告せよ、と言われました」機関銃は破壊されるまで撃ち続け、ついに肉薄する敵と手榴弾となり、かなりの損害を与えたという。』(134頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 133、134頁より》

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沖縄戦 二十四歳の大隊長: 陸軍大尉 伊東孝一の戦い - 笹幸恵 - Google ブックス

 

城間(ぐすくま)

城間にいた兵士の証言: 独立速射砲第22大隊

4月26日城間陣地は全く包囲の状態となった。この日の朝、敵M4戦車2両が、随伴歩兵を伴って海岸線の方からわが陣地に向かってきた。誰となしに「敵戦車が来たぞ!」と叫ぶ声が壕内にこだました。わが部隊は殺気立った。速射砲の砲門が開き、その威力を発揮するのはこの一戦にあり、と気合いがかっていた。

中隊長は、至近距離を50メートルまで近付けるよう命令した。敵は、わがもの顔で悠々とわが陣地に近付く、命令どおり約50メートルにきたとき、…上等兵射手は発射した。見事、敵戦車キャタピラに命中、続いて2発目は戦車の土手っ腹に命中、その瞬間、敵戦車は炎上擱坐した。中隊長も兵隊も躍り上がって喜び合った。つづいて2両目を撃滅しようとしたが、その途端、2両目の戦車からの銃弾で、わが速射砲についていた「ぼうじゅん」(鉄板)が撃ち抜かれ、その蔭にいた射手の…上等兵は、鉄かぶとをとおして眉間を撃ち抜かれ即死した。

戦車砲弾は、さらにわが方目がけて撃ち込まれてきた。ダイナマイトでもなかなか打ち砕けなかった壕の入り口やその一帯が、こっぱみじんに打ち崩されたのには、みんな肝を潰した。われわれは、命からがら階段式陣地に転がるようにして退った。』(566-567頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 566-567頁より》 

 

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)

米軍上陸の数日前に那覇市楚辺から真和志村繁多川(現・那覇市)の壕へ行政機能を移していた島田知事。しかし、4月24日、繁多川壕は軍が使用すると通告され、明け渡しを求められた。そこで長堂にある軍の壕と交換することを考え、提案を軍の担当部隊に知らせるため、26日午前7時に使者3名を出した。

『目指す城岳の壕には、山兵団戦闘部隊に編入された特設第6連隊第7船舶輸送司令部平賀中佐が指揮する那覇守備隊が、銃眼のある陣地を構えていた。』(99頁)

『わずかに数キロの行程ではあったが、そこは、濃密な砲弾の網が展げられていた。』(99頁)

2時間もかかってかれらは無事目的地の壕に着いた。平賀中佐は「こんな弾の中をどうしてやってきたのか、まあ用件は後だ」と3人の無謀な行動に、目を瞠り、パイ缶をあけて歓待した。用件は解決し、島田知事の発案通りになった。「帰る時は気をつけろ、途中十字路や三叉路は思い切って走れ、ポーン、ポーンと射つ時は、5発目の一発が危ないぞ」と平賀中佐が注意してくれた。その通り細心の注意を払って帰途についた。』(99頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 99頁より》

島田知事は、日本軍から壕の明け渡しを求められた直後に、まだ米軍に占領されていない地域の市町村長を集め、緊急市町村長会を開くことにした。招集状は、警察部員によって市町村長らが避難する居村の壕に配られた。

 

 

そのとき、住民は・・・

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沖縄戦の絵】スパイ容疑をかけられた私 

那覇市天久の壕でのこと。…壕の入り口の1つを開けると「誰だ!」と中から日本兵の声。「避難民です」と言うと「何、避難民か。動いたら撃つぞ」と言われ、出てきた日本兵たちが…上半身を裸にして電話線でうしろ手に縛った。日本兵は「貴様、スパイだな」と言うばかりで、違うと言っても信じてもらえなかった。どうにもできずにいると、3日前別の壕で話をした日本兵がきて「この人のことは私が保証する」と口添えしてくれて、ようやく解放された。直後、同様にスパイの疑いがかけられた沖縄の青年が日本兵に連れられ壕から出るのを見た。10メートルも行かないうちに銃声がし、振り向くと沖縄の青年は死んでいた。…「スパイ容疑をかけられて生きている人はごく少ない。私は幸い生きているし、同じ容疑で人が捕まって殺されるのを目撃しているから話せる。前も後ろも敵だったが、途中からは日本兵の方が怖かった。戦争になったら人間が人間じゃなくなる」』

スパイ容疑をかけられた私 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月26日

1945年 4月25日 『津堅島と北部山中の悲劇』

南進する米軍

幸地(こうち)

西原村にある178高地から真南およそ3キロのところに、ひときわ高くそびえている円錐形の丘があった。日本軍はこの丘から海岸沿いの通路を守っていた。…翁長の西方2キロのところに幸地村落があり、この二つの村落のあいだに高台があって、その北部を米軍は〝馬蹄ガ丘〟と名づけ、また南部の約500メートルほどの長さの丘陵を〝幸地丘陵〟と呼んでいた。…幸地丘陵の南西にある長い、高い丘を〝ゼブラ高地〟と名づけた。…日本軍はこの幸地付近の丘陵地の三方を固め迫撃砲や機関銃をすえて、幸地に攻めよる米軍があれば、いつでもこれを迎え撃つ用意をととのえていた。
米軍第17連隊の第1大隊は、4月25日、予期に反して驚くほどわずかな抵抗しかうけずに第7師団の右翼にまわって、馬蹄ガ丘の丘腹を占領するため、平地をおよそ550メートルほど進撃した。』(280-281頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 280-281頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p270a.jpg

幸地一帯

※ 中央左に翁長、中央右に幸地丘陵

KOCHI AREA, where the 96th and 77th Divisions attacked vital Japanese positions.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

  

城間(ぐすくま) 

25日の朝、砲撃の第一弾で火ぶたが切っておとされると同時に、…2個小隊が死に物狂いで突進して行った。迫撃砲がとどろき機関銃が鳴り、対戦車砲が火を吹いて攻撃部隊を掩護した。米軍は向かいの日本軍陣地の砲火をあびて、ばたばた倒れた。だが、ついに…頂上まで到達することができた。…そこは、まったくカミソリの刃のようにとがり、岩石や穴がいっぱいあり、草は焼け、木は裂けていた。

…するとこんどは日本軍が〝クモの巣のような穴〟やトーチカ洞窟トンネルから、ぞくぞく出はじめた。米兵は、これを覚悟して準備していたので、…20分間にわたる白兵戦の末、ついに35名の日本兵を殺し、ほかの多くを丘陵から駆逐した。

…何回となく米軍は、丘のうえで前進を試みたが、そのたびに兵を失った。午後、陽が西に傾くころには、24名の戦闘能力のある兵が各人ともわずか小銃6回分の弾薬しか残っていなかった。救急品もなく、衛生兵も皆すでに戦死、無線電話はとだえてしまった。これに反して日本軍のほうは、第一回目の攻撃が失敗に終わったので、包囲陣をつくり、しだいにそれをせばめてきつつあった。

…砲兵隊が10分間にわたる砲撃を行なってから、午後4時5分、…峰まで辿りついたが、その間、やはり日本軍の襲撃をうけて5名の戦死者をだした。

午前零時までには、中隊の全員が丘陵に登っていた。峰の上には100名以上の兵が集まった。』(230-232頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 230-231頁より》

 

米軍にいたウチナーンチュ

比嘉太郎さん

「郷土沖縄を救おう」と、ハワイに移住していた沖縄県出身者や二世らに呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を発起した県系二世の比嘉太郎さん。援助物質受け入れのため4月21日に沖縄へと向かった。

『ハワイから戦火の渦巻く沖縄へ飛んできた比嘉太郎一等兵は、4月25日の午後嘉手納飛行場に着いた。彼はそれまでに北アフリカ、ヨーロッパ、南太平洋戦線でじかに目撃した非戦闘員の罹災状況にくらべ、戦場をさまよう沖縄住民の悲惨さは比較を絶するほど苛酷なのにショックを受けた。』(110-111頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110-111頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

本部半島を米軍に占領され、布陣していた八重岳一帯から多野岳へと退却した国頭支隊。その多野岳でも米軍の攻撃をうけ、さらに北上するために移動を始めた。

『…源河部落を経て、25日には有銘の山中まできた。有銘につくと、宇土大佐は、「部隊がやってきたからもう大丈夫だ」と付近の住民に触れ廻らせた。喜んだ付近の農家からは、二頭の豚と、野菜類が本部に供出された。ー淡い希望を燃やして住民はもう、増産を始めていた。米軍は、北部山中に潜む日本軍の残兵掃討を開始したらしく、三原の山にも斥候が入り込み、そのために、何かにつけ住民達と接触しようとする日本軍隊との間に、悲劇がかもされた。三原に入り込んだ3人の米兵が、住民と話しているのを、怒った伝書鳩隊の准将が、てっきり米兵と通じたものと思いこみ、海外近くの小舎に住んでいた那覇から避難してきた親子づれを拳銃で射殺した。』(315頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315頁より》

 

中南部戦線

津堅島(つけんじま): 球師団4152部隊、独立混成第15連隊部隊

津堅島にいた日本軍は、米軍が10日に同島へ上陸、翌11日に島を制圧した後、沖縄本島へ退却した。

『亭島大尉は「五体満足な者は、与那原にある師団本隊に合流する」と命令。サバニ12隻に分乗し、津堅島を脱出していた。後にとり残されたのは、約40人の負傷兵と13人の准看、それに負傷兵の世話をみるためにとどまった数人の兵隊だけだった。』(新川城壕跡・上)

[13 津堅島・新川城跡壕(上)]まだ眠る多くのみ霊 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

その後、 米軍は沖合に停泊する艦艇を拠点とし、数回にわたって島に上陸。敗残兵を掃討するためか、攻撃を繰り返していた。前日24日夜、命を受けて本島から津堅島へと戻った一部の防衛隊員らは、負傷兵を本島に移送する準備をしていた。

『全負傷兵を運び切らないまま、たちまちのうちに午前3時。「たとえ、これから全員を乗せて本島へ向かうにしても、やがて夜が明けて見つかるだけ」との結論となり、懸命の作業も徒労に終わる。せっかく浜まで運んだ負傷兵をまた壕へと連れ帰り入り口に近い2、3階に横たえたが、皮肉なことに、最後の米軍の攻撃が始まったのはその日。みながクタクタになってまどろんでいた時だった。』(新川城壕跡・中)

『前3回、壕前の浜(現在の漁港)から攻撃を仕掛け、多大な出血を強いられた米軍。この時ばかりは島の北に上陸して南へと攻めてきた。…戦闘は長く続かなかった。抵抗しようにも満足な体力の残っている兵隊はわずか。戦車8両ほどを先頭に攻める米軍の砲火の前に銃撃戦はじきに終わり、壕前を取り囲んだ米兵は、壕入り口から「デテコイ、デテキナサイ」としきりに降伏を促した

そのうち、1人の米兵が壕入り口をのぞき込んだのだが、この壕の悲劇の発端だった。近くにいた負傷兵がこの米兵を銃剣で突き刺したのだ。投降勧告もなくなり、米軍は“馬乗り攻撃”を開始。自然壕の無数にあいている小さな穴からもどんどんガソリンを流し込み、火をつけてきた。瞬く間に燃え上がる床や階段の木造部分。次々と破裂する弾薬。壕を支えていた木材の焼失で崩れ落ちる岩石。』(新川城壕跡・下)

准看護士の証言:

『その最後の攻撃の時、私たち准看13人は数人の負傷兵と一緒に一番下の階にいました。米軍が3階部分の入り口から壕にガソリンを注ぎ、火をつけました。幸い私たちの所までガソリンは流れてきませんでしたが、壕内に蓄積してあった弾薬がドカン、ドカーンとさく裂したり、木造のはしごや床が燃えて煙が充満。“もうこれまで”と覚悟を決め、配られていた手りゅう弾の安全ピンを抜き、いつでも信管をたたき自決する用意をしてました」』(新川城壕跡・上)

[13 津堅島・新川城跡壕(上)]まだ眠る多くのみ霊 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[14 津堅島・新川城跡壕(中)]傷を海水で消毒 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[15 津堅島・新川城跡壕(下)]火の海となった壕内 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

民間壕に潜んでいた住民らは、米軍の攻撃が引き揚げた後、塞がれてしまった陣地壕の出口を掘り起こし、壕の一番下の一階部分にいた生存者らを助け出した。

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津堅島の陣地壕(うるま市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)

沖縄県の行政は…沖縄守備軍の配備以来第32軍の支配下にあったも同然で、作戦目的の為に従属させられた状況であった。…米軍の上陸前空襲が激化する中、3月25日には県庁を首里城下の軍司令部壕に移したが、同31日、米軍第420砲兵大隊が神山島に上陸し、大砲二四門を据えて首里那覇を攻撃するに及び、県庁各課を数か所に分散移転し、島田知事は繁多川の那覇警察署壕に移った。』(読谷村史/県庁職員)

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

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島田 叡(あきら) 沖縄県知事 

報道の魂

『4月24日、島田知事は、軍司令部からの新しい命令を受けた。「非戦闘員は首里から即刻立ち退け」というのである。知事は、このことについてはかねてから考えていたことではあり、軍から正式に要請されては、最早一刻も躊躇すべき時ではない。』(99頁)

『島田知事は…一応首里市内の民間壕にはいっていたが、4月25日の夕刻には、おなじく谷間の中腹に、壕を構えている警察部の壕に加わった。』(98頁)

『県庁員全員が、1カ所の壕に無事に顔を揃えたかと思うと、「その壕を明け渡してくれ」という軍の指示が彼らを驚かせた。「軍隊が掘った壕ならともかく、独力で仕上げたこの壕を、そうやすやすと乗っ取られてはたまらぬ」…作戦上止むを得ぬと息まく軍の使いに、知事は一策を案じた。壕を要求した那覇の船舶工兵隊本部へ、正式に使者を出すことだった。使者が持っていく用件は、「壕明け渡しの条件として、県庁本部を、長堂の軍の壕へ移すこと、県庁側が確保して置いた食料は持ち運びが困難だから、繁多川の食糧は、そのまま運ばずに残し、長堂にある軍の食糧を県庁がそのまま使うことを、許して貰いたい」ということであった。』(98頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 98、99頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail16_img.jpg

沖縄戦の絵】壕からの追い出し

『昭和20年4月、米軍が沖縄本島に上陸して戦闘が始まると、…勤め先の同僚たちとともに那覇警察署の警察官たちがいる那覇市繁多川の壕に逃げ込んだ。しばらくそこでの生活が続いたある日、日本軍の兵士がやってきて「この壕は作戦上、軍が使用するので君たちは出ていきなさい」と日本刀をかざして命令した。…同僚たちとともに、壕を出て本島南部へ逃げた。』

壕からの追い出し | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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【戦跡と証言】県警県庁壕保存の課題(那覇市)

www.nhk.or.jp

1945年 4月24日 『津堅島の悲劇・前夜』

 南進する米軍

4月23日の夜から24日にかけて、濃い靄が、やがて深い霧に変わって、沖縄南部をつつんだとき、日本軍砲兵はしだいに砲撃度を増し全前線に対して猛烈な砲火をあびせてきた。夜も明けないうちに米軍前線部隊は、少なくとも1千回の砲撃にさらされたのである。24日の朝が明けるにつれ、日本軍はこの弾幕と、夜のうちに降りてきた濃い霧を利用して、首里第1防衛線から撤退したことが明らかになった。』(273-274頁)

24日、第24軍団長のホッジ少将は、各師団長に対して無線電話で、「本日の戦況は、敵がこれまで死闘をつづけてきた陣地を放棄し、兵を撤退せしめたものと思われる」と連絡し、さらに偵察を強化して日本軍の新たな散兵線をさぐるようにとの命令を下した。その日の午前11時、将軍は各師団長に指示して隊を再編成し、積極的な行動に出て前線のあらゆる地形を利用しつつ、日本軍の前哨地に突進して地の利を得るように命令した。これは、4月26日の午前6時を期して行われる予定の総攻撃の準備である。』(275頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 273-274、275頁より》

 

東部・中央戦線

島の東側では、第7師団は散発的な砲撃を加えることによって、簡単に178高地の頂上まで達することができた。

小銃の音もなく機関銃の砲火もなかった日本兵の死体も2、3しかなく、戦場にはありがちな遺棄死体や武器弾薬の乱雑さもなく、きれいに片付けられていた。明らかに整然たる撤退を意味していた。

第96師団作戦地区前線のなかにいる日本兵といえば、わずかに本隊をはなれてちりぢりになった兵隊や、あるいは前線後方の兵ばかりであった。米軍は棚原高地、その南につづく長さ1500メートルの丘陵棚原村落西原高地、そして、143高地占領したのだ。

他の部隊は、さらに進撃し、谷を越え、宜野湾街道を進み、浦添丘陵の東端ふもとを占領した。といっても、日本軍の反撃がまったくなかったわけではない。各地で出没する日本軍にあい、時おりおこる長距離機関銃砲火にあって幾多の生命を奪われたのである。』(273頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 273頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p233a.jpg

西原高地一帯

NISHIBARU ESCARPMENT AREA

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

嘉数(かかず)

二日前の22日、嘉数陣地の日本軍陣地を一気に攻めるため、第27師団副師団長ブラッドフォード准将の指揮下で、“ブラッドフォード特攻隊”が編成された。

4月24日の朝…13分間にわたる予備砲撃をくわえたのち、ブラッドフォード特攻隊は、午前7時30分、攻撃を開始した。嘉数陣地をかちとらねばやまぬという決意も固く…。しかし、刃向かう敵はいなかった。日本軍は夜のうちに陣地を退いていたのだ。2時間もたたぬうちに米軍の全大隊は目的地に到着した。

…激しい戦闘も終わって、4月24日と25日、嘉数地区を調べることができるようになってから日本軍の死体をかぞえてみたら、600の死体が発見された。』(272頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 272頁より》

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KAKAZU POCKET area (photographed 10 July 1945), looking south.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

 

第32軍の動向

北部戦線

野岳(たのだけ/タニューだけ): 第3遊撃隊、国頭支隊

八重岳から多野岳へと後退した宇土大佐率いる国頭支隊だったが、米軍の攻撃を受けた。多野岳に布陣していた第3遊撃隊などは斬込みを敢行。宇土大佐は、総勢1千人の隊列をさらに北へ移動させることにした。攻撃で戦死した兵隊や、重傷を負って歩けない兵隊は、そのまま多野岳に置き去りにされた。

『濡れた隊列が徐々に動き出すと、地上に倒れた兵隊が、傍らの米袋を指差しながら、榴弾と交換してくれと眼で力なく嘆願した。木の根に転び、立木に頭を打ち、暗黒の斜面を辷り落ちながら、一歩一歩前に進んだ。行進ではなく、谷にうごめき、はいずり廻る、傷ついたけものの彷徨に似ていた。…隊列は久志村の三原の山辺にはいっていた。24日の未明だった、この時、宇土大佐は前夜隊列から離れ、1日先に本部とともに多野岳を発っていた。

三原についた宇土の将兵は、枯枝や、落葉を掻き寄せ、飯を炊き始めた。山が深く、樹々を深く掩われた麓だった。付近には、多数の住民もいた。久しぶりに、日本軍の集団を眼のあたりに見て狂喜した住民部隊の後について行こうと焦り出す者もいた。同日夜、隊列は三原を出発、源河部落を経て、25日には有銘の山中まできた。』(314-315頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 314-315頁より》

 

中南部戦線

津堅島(つけんじま): 球師団4152部隊、独立混成第15連隊部隊

津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた中城湾要塞の重砲陣地として1941(昭和16)年夏から、島民総動員で陣地づくりが行われた。沖縄戦では日本守備軍約160名配備され、それに防衛隊約40名島民女子約30名が加わっている。』(沖縄県平和祈念資料館)

沖縄県平和祈念資料館 | 沖縄戦について

4月10日、米軍は津堅島に上陸し、翌11日に同島を制圧した。津堅島に布陣していた日本軍の部隊は、島が制圧されると沖縄本島に退却。島には負傷して動けない日本兵と看護婦や住民が残された。その後、米軍は掃討作戦のためか、3、4回ほど島に上陸した。沖に停泊する米艦艇を拠点とし、島での作戦が終わると艦艇に戻るということを繰り返した。

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『そのころ、負傷兵30~40人は准看らと一緒に新川城跡の壕で生活。ローソクの灯だけを頼りに暮らしていた。』(新川城跡壕・中)

『平たんな津堅島を一目で見渡せる小高い丘の士族墓を基に、岩山を下に掘り下げた3階建ての構造で、各層を木階段でつなぎ、下部(1階)には出口が造られていた』(新川城跡壕・上)

准看護士2人の証言:

『「米軍の攻撃は都合4度。上陸―戦闘―…艦艇に引き揚げ―のパターンで平均して、3、4日ごとにありました。』(新川城跡壕・上)

『「私たち准看13人は、4人、4人、5人と分かれて配置されたのですが、あれは治療とは言えません。ただ血を止めるだけです。包帯が少ないので、夜になると海に出て潮水で洗い、それをまた巻くのが仕事でした」

「惨めな状態だったが、兵隊はみな優しかった。郷里の自慢話や家族の話など聞かせてくれたが、死が近くなると“水をくれ、早く楽にしてくれ”と叫び、早めに戦死し、皆からねんごろに弔われた戦友をうらやんだりしてました」

「戦前、戦中私たちは、死に臨んだ際“天皇陛下万歳”と言うと聞かされてきたが、皆そうは言わなかった。“お母さん”“アンマー”と叫びながら亡くなっていきましたよ。死んでも死にきれなかったでしょうし、私たちもやりきれなかった」』(新川城跡壕・中)

琉球新報「戦禍を掘る」(津堅島新川城跡壕/上・中) より》

[13 津堅島・新川城跡壕(上)]まだ眠る多くのみ霊 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[14 津堅島・新川城跡壕(中)]傷を海水で消毒 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

日本軍の部隊と共に本島に渡った防衛隊員らは、その後の命令で津堅島に戻る。

『防衛隊員ら10人ほどが負傷兵を助けに、津堅に戻ったのは3回目の戦闘から約1週間後の24日ごろ、米軍に発見されないようにと照明弾が打ち上げられるとサバニを引っくり返し、消えるとまたこぎ出すといった難行だった。』

津堅島にたどりついたのは、午後8時過ぎ。夜陰にまぎれて、壕から500メートルほど北にある砂浜に到着した。急きょ負傷兵の搬出作業が始まった。日本軍のタンカのほかに、米軍が放棄していったタンカがあったが、それでも足りずに木を切り取って、間に合わせのタンカ作りも行われた。元気な者総出で必死の作業だったという。』

防衛隊員男性の証言:
『「亭島大尉らとともに沖縄本島まで行き、その後の命令で、負傷して島に残った戦友の救出にと、島に引き返したことも今考えれば夢のような感じがする。』

琉球新報「戦禍を掘る」(津堅島新川城跡壕・中) より》

[14 津堅島・新川城跡壕(中)]傷を海水で消毒 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

だが、救出、移送の準備作業は困難を極めた。そして翌朝、米軍が島に上陸する。

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津堅島の陣地壕(うるま市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

第1防衛線

『第32軍司令部は、東西の両翼から米軍にまわりこまれることを恐れ、戦線を全面的に後退させることを決めた。23日夜から24日にかけて嘉数高地の守備隊を約1.5キロ後方の浦添高地(仲間ー前田の線)に下げた。また、南部の糸満摩文仁方面にほとんど無傷でいた第24師団を北上させ、中街道以東の戦線(幸地から小波津の線)につけた。第62師団は東海岸道の城間から中街道の前田(浦添高地)の線に戦線を縮小した。第24師団の東部戦線への進出により、この方面からの米軍の浸透は阻止されたが、西半分を守る第62師団はすでに消耗しきっていたので、西海岸道と中街道にそった進撃は止まらなかった。浦添高地は、首里方面の日本軍陣地を見おろせる位置にあるため、米軍はその攻略に力をいれた。(81頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》

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浦添高地のスケッチ

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そのとき、住民は・・・

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沖縄戦の絵】山中を歩く家族と日本兵の死体 

『空襲が激しくなり、家族と親せきそれに近所の人約60人で、いったんは沖縄市の自宅から沖縄本島北部に避難したものの、食糧が底をついて再び沖縄市に戻る時の山中での光景。敵に見つからないよう、歩くのは夜。大人たちは持てるだけの荷物を担いだり頭に乗せたりしていた。』

『子どもたちは足が腫れ、その痛さに泣いた。いちばん怖かったのは、うるま市石川のあたりで見た日本兵と思われる大勢の死体真っ黒く焼けた顔や肌ちぎれた片足など、思い出すと今でもぞっとするという。』

山中を歩く家族と日本兵の死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

 

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1945年 4月23日 『第1防衛線の崩壊』

南進する米軍

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

前日に城間一帯の偵察を強化した米軍は、得た情報をもとに作戦計画をたてた。計画は、日本軍の陣地を攻撃しながら城間南西に位置する牧港飛行場まで進撃するものであり、その作戦を遂行するために特別攻撃部隊を組織した。

『ホワード・ルイス曹長分隊長として12名からなる1分隊がつくられ、ライフル、バズーカ砲、地雷、携帯用火炎放射器などももたせて厳重に装備させた。

23日の朝早く、ルイス曹長分隊をひきつれ、…ふもとの平地に出た。これを、一日本兵が目ざとくみつけ、迫撃砲を撃ちまくった。ルイス曹長は目標をさだめ、そこに兵を走らせた。…岩から岩へ、…丘陵のけわしい先端をよじ登って、日本軍の迫撃砲陣地のおよそ40メートルのところまできた。ここで榴弾が雨あられのように降りだし分隊はもうこれ以上の進撃はできなくなった。…分隊は40メートル離れている友軍の砲兵隊に合図した。

…長距離から日本軍陣地に砲撃を加え、日本軍の機関銃や迫撃砲もこれに応戦した。彼我の砲弾入りみだれ、アイテム・ポケットはいまや炸裂する砲弾、小銃、機関銃でまるで地獄の様相を呈していた。…ルイス曹長は、負傷した兵をつれて引き退がれ、との命令をうけた。』(227-228頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 227-228頁より》 

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米軍が「アイテム・ポケット」と呼んだ城間一帯での行動図

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

伊祖(いそ)

22日に伊祖村落一帯に敷設された地雷を撤去し、伊祖村落への道を進撃することができた第106連隊の第1大隊は、大隊の再編成をした東の第105連隊と相呼応するため550メートルほど後方に退いた。

4月23日、第105連隊の第2大隊と交替した第1大隊の先攻2個中隊は、第2大隊が20日に行ったのと同じ戦法で丘陵頂上に到達し、日本軍に奇襲攻撃を加えた。C中隊は、東の峰の端にある丘陵頂上まで達したが、いつのまにか日本軍のまん中にいることに気づいた。ここで激しい白兵戦が展開され、銃剣や手榴弾だけでなく棍棒まで使用しての肉弾戦となった。

ここでの1時間あまりの戦闘で、日本軍は100名以上が戦死したが、ジョンソン曹長のごときは、1人で30名以上の日本へを倒すという、はなばなしい奮闘ぶりを演じた。ある時は、彼は地面にとび降りたところ、まわりに12名もの日本兵がいるのを発見し、自動小銃で8名をうち倒し、銃床で4名を殴殺するという奮闘ぶりだった。

浦添丘陵の西の峰の戦いは、4月23日の夜、突然、終わった。夜半になるちょうど1時間前、前日まで、昼でも夜でもたびたび合図のラッパを吹いていた日本軍のラッパ手が、集中ラッパを吹くや、30名からなる日本兵が、〝バンザイ〟を叫びながら、壕の中から飛び出し、まっすぐ伊祖の南に塹壕を掘っていた第106歩兵連隊の第1大隊の前線に突貫してきて、この日本軍はついに全滅したのである。』(267-268頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267-268頁より》

  

嘉数(かかず)

22日に米軍は、嘉数陣地の日本軍を一気につぶすための特攻隊を編成した。

『この部隊は、第27師団副師団長ブラッドフォード准将の指揮下におかれた。いわゆるブラッドフォード特攻隊である。23日に作戦準備はすべて完了し、部隊は位置につき、翌日の攻撃にそなえた。』(272頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 272頁より》

 

西原(にしばる)

21日に西原村落の占領を任された部隊が苦戦し兵力が半減したため、米軍は、別の部隊と交替させた。交替で入ってきた部隊は、被害の少なかった部隊と共に22日、中隊2個が西原村落の占領することに成功し、143高地に対面する高台も奪取した。しかし、別の中隊2個は日本軍の猛攻にあい前進できないでいた。

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月23日、装備したブルドーザーがきて谷間を埋めたので、はじめて第763戦車大隊B中隊の中型戦車がここを渡り、丘に登り、棚原丘陵に直弾をあびせることができた。攻撃には火炎放戦車隊装甲車が、かなりの成果を収めたにもかかわらず、歩兵の進撃はあまりかんばしくなかった。高台の日本軍は、頑強に陣地を固守して、米軍の進撃にたいしては、手榴弾爆雷を抱えての、決死的な反撃でのぞんだ

4月23日の夜西原ー棚原戦線は突破できそうだということが明らかとなった。4個大隊がいまや稜線上にあり、高台という高台を全部占領した。あとはただ棚原丘陵と、嘉数の向かいにある西原丘陵最西端だけが残っているだけだった。』(259頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 259頁より》

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岩山を火炎放戦車で攻撃する米軍

ROCKY CRAGS west slope was attacked by flame thrower tanks shortly before capture of the point shown above.

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第32軍の動向

北部戦線

野岳(たのだけ/タニューだけ):第3遊撃隊、国頭支隊

宇土大佐の国頭支隊は、拠点としていた八重岳や本部半島一帯を米軍に占領された4月中旬、ゲリラ戦に特化した第3遊撃隊(別称:第1護郷隊)の拠点、多野岳へと後退し始めた。移動は夜間に行ったとはいえ、総勢1000人の隊列は米軍に察知されており、途中、何度か攻撃されながらも前日の22日、出発から約一週間かけてようやく多野岳に到着した。しかし、米軍がこれを見逃すことはなかった。

『…4月23日頃には、本部半島から撤退した部隊と運天港の海軍部隊がタニュー岳に合流し、混雑をきわめていた。彼らは食糧を持たないで撤退したため、避難民の食糧を奪う事が何度も起こった。

《結成50周年記念「恩納村民の戦時物語」(恩納村遺族會) 112頁より》

23日朝から、トンボが、盛んに多野頂上上空を低く飛び爆撃が繰り返され迫撃砲弾が射ち込まれた

迫撃砲や艦砲が射ち込まれるたびに、山中の樹々は、裂け飛び、散髪されたように、幹や枝を払われ、山腹の陣地小屋は、上空に露出してしまった

第3遊撃隊本部の山小舎は吹っ飛び、残った常鎮(既教育兵をそう呼んだ)が、銃と、手榴弾と、竹槍を携げて斬込みにでかけた。』(312-313頁)

『砲撃の白煙のうず巻く山中に、急に雨が降り出した。灰色によどんだ雨雲が、濃いガスとなって、深い谷間に漂い出した。…遠く南の空が赤く燃え、艦砲の音がドシンドシンときこえた。』(313頁)

多野の頂上には、しだいに米軍の陣地ができ始めた。山中は昼になると、けたたましい銃砲声が轟きわたり、思わぬ近距離から、機銃弾がほとばしった。…この騒ぎの中に、宇土大佐は、多野岳を抜け、もっと北へ退がろうときめていた。各隊からは、「固まらずに、隊別に行動した方がよい」という意見が出たが、宇土大佐はこれを押えた。』(314頁)

頂上では、戦闘が行われ、日本軍は、わずかに、擲弾筒で応じた死傷者が続出した。になると、残余の兵力をまとめて、各隊は整列をおえた。重傷者は、山中に残すことになっていた。宮城兵長は経理部の機密書類を焼き、公金を谷間に埋めた。部隊が整列しようとすると、死体が足に絡まった。死体は、整列の場所をあけるため、抱えて藪の中に投じられた。兵隊達が持ち切れぬために捨てた米が、谷川の底に白くうずまった。谷をふるわせて、手榴弾の炸裂する音がきこえた。「何だ、敵襲かァ」「違います。重傷者が手榴弾で自爆しました」これらの声が密林にうつろに響いた。』(314頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 312-313、313、314頁より》

 

中南部戦線

第1防衛線・中央戦線からの撤退

4月23日までに日本軍の防衛戦はあっちで敗れ、こっちでくずれ、ついに多くの崩壊線を出し、しかも残った陣地の痛手はひどく、まったく使用にたえなくなったため、こういう陣地に永らくたてこもっても不得策だと思って、…撤退した』(274頁)

『前線の日本軍将兵がいかに落胆し、また何に望みを託していたかは、嘉数ー西原戦線で戦った日本軍の一兵隊のつぎの日記によっても明らかにされている。4月23日、米軍が最後の攻撃を試みた日、彼はつぎのように綴っている。

「敵上陸以来、すでに一と月になんなんとするも、熾烈なる戦闘まだ昼夜を分かたず。敵の物量は驚くべきほどなり。わが軍一発撃てば、敵は少なくとも十発をもって報いること必定なり。友軍機ついに一機も機影を見せず。もし飛行機われにあらば、たちまちにして勝利を収めん。ああ飛行機!」』(274頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 274頁より》

 

東部戦線: 第24師団第22連隊

4月23日、日本軍第24師団の第22連隊が首里防衛線の東部を奪還して、第62師団と連絡をとった。それまで三週間にわたって米軍の猛攻をうけていた第62師団にもついに救援がきたのだ。同師団の兵力は減る一方で、残存兵力も少なくなっていたので、第22連隊の進撃はまことに救いの神であった。

日本軍の第24師団と第62師団の境界戦は、いまや第62師団が前線の西半分に集結したので、だいたい首里北方から西原村の幸地と棚原の線までのびていた。第32軍のこの両師団は、だいたい宜野湾街道を境にしてそれぞれ兵を配置した。前線の部隊配置がえ4月23日の午前11時を期して行われた。第24師団の新たな展開を指示した命令は、「とくに幸地近くの第62師団との連絡部隊は強固に守らなければならぬ」と述べてあった。

日本軍の第22連隊の防衛線は、東海岸から北西の方向へ我謝、小波津、翁長、幸地村落を通っていた。第24師団の残りの部隊は予備軍として、首里の北東方や小禄一帯に配属されていた。』(280頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 280頁より》

 

軍司令部

米軍は、沖縄本島南部の知念半島沖から上陸を試みるそぶりを見せる陽動作戦を繰り返していたため、軍司令部は南部一帯に布陣する部隊を前線に配備してこなかった。しかし、第1防衛線での死闘が続き、兵力を補う必要が生じた。米軍が南部から上陸することはないと判断した軍司令部は、4月22日、南部にいた部隊を北上させる命を出した。

『…首里の存亡を賭けて日米両軍の正面からの激突は、まさに始まろうとしていた。ところが、守備軍首脳のあいだでは、全軍を挙げて総反撃に打って出るか、それとも北上させた部隊を「戦略持久」のために第2線に布陣せしめるかをめぐって、意見の対立がおこった。

長参謀長や若手参謀たちは、全軍を投入して総反撃に転じる機は熟したとして極力、攻勢に出ることを主張した。ところが、作戦参謀の八原大佐は「さいごまで持久戦をつづけるべきだ」という持論をのべて譲らず、何度目かの対立をみせた。』(118-119頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 118-119頁より》

 

 

真実を伝えない日本メディア

沖縄本島に無血上陸した米軍。その三週間後には、中北部地域を手中に収めていた。しかし、4月23日に放映されたニュース映画「日本ニュース」は、沖縄戦の状況をつぎのように伝えた。

『敵艦載機、沖縄島に来襲。3月中旬、有力なる敵機動部隊、南西海域に遊弋して、沖縄上陸の企図はいよいよ明らか。

カーチス・ヘルダイバー、はるか慶良間列島を臨む我が飛行場施設を攻撃。

俄然(がぜん)、アメリカはその全艦隊を挙げて、まず慶良間列島に来襲。4月1日、沖縄本島南部地区に、また7日、北部に上陸。1400の敵艦船蝟集(いしゅう)する沖縄の戦局。沖縄こそ、決戦場。ここに全力を傾倒する敵兵力を一挙にたたく神機は来た。南西海域へ、敵機動部隊の撃滅。陸軍特別攻撃隊の若武者たちは、軍神加藤少将の像の前に、敵撃滅を誓って陸続、南海へ進発。

真(まこと)、沖縄こそ決戦場。我が特攻隊の怒りは敵艦隊の頭上に炸裂(さくれつ)する。敵艦船轟沈(ごうちん)、既に数百隻。しかも敵の戦意はなお熾烈(しれつ)。国運を懸ける沖縄決戦に、我が精鋭は敵殲滅(せんめつ)の大攻防戦を展開しつつあり。』(日本ニュース 第250号)

www2.nhk.or.jp

 

 

そのとき、住民は・・・

伊江島の集団自決

一ツ岸ガマ

生存者の証言:

『これはもう上に戦車が待っているわけですよね。アメリカ兵も数十人いたと思いますよ。そこでですね、・・もみな捕虜にとられているわけですよ。21日には。私たちいたところの近辺はまだ捕虜にとられていなわけですよ。こっちは分からなかったのか分からないけど、それでも23日の日に米兵がきてですね、…「民間人は出て来なさい」と言われたわけですよ。そこでですね、出たら大変ということ、出たら日本兵にやられるから、日本兵にまたやられる。だから出ることができないわけですよ。そしてですね、ちょっと割れた穴があるんですけど、こっちから煙弾2個投げられたんですよ。

(親戚が)「いま死ぬから」と言ってですね、後ろに石を積んであるんですけど、この石の中にですね、「こっちに固まりなさい」と言って防衛隊が呼び出したわけですよ。そしてこっちにみんな固まったわけですよね。そして私の父と島袋さんといって、この人は私の門中ではないけど、この方は入らなくて、この24名の中に入らなくて。みんなで26名いたので。この2人はちょっと側で座っていたんですよ。煙弾投げられたものだから、爆雷2つ準備して1つを爆発させたんですよ。』

『そして2つ目を爆発させたらみんな死んでいるわけですよ。私たちも親子はですね、気絶して目が覚めたらですね、だいたい4~5分くらい気絶していたのかこれは分からないけど、目が覚めてみたら周辺が真っ白に、足が痛くて泣き始めたんですよ。泣き始めたらおやじが「安信、生きていたのか」って出てきてですね、この遺体をかき分けて私と母を出したわけですよ。これですね、母はこっちに動けないんですよ。顔もあっちこっちに細かい傷で、耳も聞こえないもんだから。』

『もうみんな死んでいるもんだから、ただ、頭がですね、5個転がっているだけでですね、イエイチさんは当時私より2級先輩だったが、この人の頭だけは顔が分かりよったわけですよ。』

www2.nhk.or.jp

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail41_01_img.jpg

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail41_02_img.jpg

沖縄戦の絵】伊江島「集団自決」

4月23日、壕の外に出てくるよう呼びかける米兵の声が聞こえてきた。しかし「捕虜になればみんな殺される」と聞かされていた壕の中の人たちは、出て行くことができなかった。真ん中に立っている防衛隊員の男性が「皆で一緒に死のう」と呼びかけ、壕の中の人々は男性のもとに集まった(1枚目の絵)。この直後、男性が爆弾を爆発させ、22人が一瞬のうちに命を落とした(2枚目の絵)。母に抱かれ…爆発で崩れた岩に首まで埋まったが一命を取り留め、助け出された。 …「集団自決」の真相を知ってほしいとの思いから、自決直前の壕の中で肩を寄せ合う親せきたち1人1人の様子を絵にした。

伊江島「集団自決」 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月23日