1945年 9月7日 『第32軍の降伏』

第32軍の降伏文書調印式

琉球列島の「降伏」 ⑧

降伏調印式は9月7日午前11時20分から嘉手納の第10軍司令部前広場で行われる運びになった。広場の前にはシャーマン戦車、パーシング戦車、自動推進の155ミリ大砲が威容を誇り、陸軍と海兵隊の射撃部隊が整列した。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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琉球列島の降伏調印式に集まった記者団。(1945年9月7日撮影)

Press group at signing of Jap surrender at Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前10時30分物見高い兵士の群れがつめかけ、見物に都合の良い場所に席をとった。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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沖縄本島での降伏調印式。見物人が丘の上で調印式を眺めている。(1945年9月7日撮影)

Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Spectators on the hill watch the ceremony.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前11時、陸軍バンド部隊が〝オールド・グレイ・マーチ〟を奏でながら登場し、数分間広場で演奏を続けた。そうそうたる招待客が登場してきた。第8航空隊のドゥリトル中将、第95機動部隊のオリンドーフ提督、第1海兵師団のペック少将、陸軍サービスコマンド24のチーズ少将らが貴賓席に座った。

11時20分、ラーセン大佐が日本側将校の一行を率いて登場した。納見将軍を先頭に、代表団は直ちに中央のテーブルの後ろの椅子に座り、その背後に補佐官が一列に並んだ。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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スティルウェル大将に対して琉球列島の降伏調印をするため、沖縄本島の第10軍司令部に到着した日本軍将兵(1945年9月7日撮影)

Japs arriving at the 10th Army Headquarters at Okinawa to surrender Ryukyus to Gen. Joseph Stillwell.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球列島の日本軍降伏を受け入れるため、降伏調印式に到着したスティルウェル大将沖縄本島の第10軍司令部にて。(1945年9月7日撮影)

Gen. Joseph Stillwell arrives at the surrender table at 10th Army Headquarters, Okinawa for the surrendering of the Ryukyus by the Japs.

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11時30分スティルウェル将軍、続いてメリル将軍と二世通訳のロバート・オダ軍曹が登場した。射撃部隊は捧げ銃の姿勢をとり、広場の全体が敬礼を捧げた。第10軍司令官スティルウェル将軍は厳かに敗軍の将に向かって宣言した。「諸君は私の指示をそれぞれが責任をもって実行せねばならない」。オダ軍曹がそれを日本語で伝えた。最初に納見将軍が6通の降伏文書に署名した。高田将軍、加藤提督と続いて署名した。』(233-234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233-234頁より》

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。先島群島の司令官(指令部は宮古島にある)納見敏郎中将 (第1調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Lt. Gen. Toshiro Nomi signs for surrender of Sakishima Gunto, Miyako Shima (1st signer).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。奄美群島の司令官(司令部は徳之島にある)高田利貞少将 (第2調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Maj. Gen. Toshisada Takada (Army Force Comdr.) signs surrender of Amami Gunto, Tokuno Shima (2nd signer).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 最後にスティルウェル将軍がテーブルに歩み寄り、文書に署名して、「降伏」を受諾した。将軍は日本側代表団の正面に戻り、代表団に告げた。「以上だ。諸君は宿舎に戻ってよろしい」。降伏文書のコピーが3人の署名者に渡され、日本の将軍たちは去って行った。スティルウェル将軍はその後ろを見ながら言った。「太平洋のサムライたちが去っていくんだ。戦争は終わったんだ」。』(234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 234頁より》

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。降伏文書に調印しているスティルウェル大将。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Gen. Joseph Stillwell signs surrender papers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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『第10軍司令部

1945年9月7日

降 伏

下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より

北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より

北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将

先島群島日本軍司令官

高田利貞少将

奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将

奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル
米国陸軍大将』

アイスバーグ作戦 – 沖縄県公文書館

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沖縄本島での降伏調印式。沖縄本島にて。降伏調印式の遠景。 頭上には航空機が飛んでいる(1945年9月7日撮影)

Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Long shot of ceremony with planes over head.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄市民平和の日 | 沖縄市役所

『こうして、儀式は正式に完了し、南西諸島琉球諸島の支配はアメリカ合衆国に移された。九州から台湾に及ぶ琉球列島は1879年以来日本の領土になっていた。午後12時30分、日本側代表団は読谷飛行場から北と南へ飛び立っていった。』(234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 234頁より》

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降伏調印式は基地の中 | 琉球放送

 

 

第32軍の敗残兵

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

住民にスパイ容疑をかけて、久米島で4件もの虐殺事件を起こした鹿山隊も降伏した。

9月7日久米島守備軍鹿山曹長以下41人の日本兵が山を下りて、北原郊外の降伏調印式場へやってきた。軍政府代表としてウィルソン隊長以下モーク少佐、ラシター中尉、ホプキンソン大尉らが列席した。その後、日本兵捕虜41人は本島に送還された。

…降伏調印式が終了すると、鹿山は久米島で死んだアメリカ兵の遺体を引き渡したい、と言った。その話では、4月1日アメリカ軍航空機が久米島の海岸線に墜落し、パイロットは死亡したとのことだった。鹿山はその遺品であるという拳銃を差し出した。拳銃の皮ケースには D・R・デニングとバン・モーストラルの2つの名前が刻まれていた。』(321頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 321頁より》

9月7日、身を潜めていたはずの鹿山隊30余人が銃を肩に掛け、仲地の集落を堂々と行進していた目指すは米軍が待つ広場。降伏式に向かうところだった。鹿山は顔見知りの住民を見掛けると、「元気か?」と声を掛けて余裕を見せた。…鹿山が米軍幹部に銃を渡し、その部下たちも次々に武装を解除した沖縄戦の組織的戦闘の終結から2カ月余。久米島の住民は虐殺の恐怖からようやく解放されたのだった。』(121頁)

『米軍はこの日、久米島から鹿山隊を移送した。鹿山隊は米軍が配給した服に着替えさせられた。背中には捕虜を表す「PW」の2文字が白いペンキで大きく記されていた。食料などを詰めたとみられる箱を持たされ、行進してきた道を引き返した。降伏式前の行進していた姿とは一転し、鹿山を含めた全員がうなだれていた。「人間はこうも変わるものか」。島民らはその光景を見詰め、ただ惨めだと感じた。』(122頁)

《「奔流の彼方へ 戦後70年沖縄秘史」(島袋貞治 著・琉球新報社 編/新報新書) 122頁より》

 

恩納(おんな): 第4遊撃隊

恩納岳に潜み、いつの日か遊撃戦を展開するはずだった敗残兵たちは、前日の6日、既に捕虜となっていた日本兵の呼びかけに応じ、投降することを決めた。

『翌朝早く、小寺少尉はニコニコしながら約束どおり、私たちを山に迎えにきてくれた。持っている武器は全部捨てさせられた。

私は戦友の肩につかまり、かすかな気力をかきたてながらヨロヨロと、指定された谷茶部落の投降地への一歩一歩を踏みだした。

いちどでいいから昼間、大手を振って歩いてみたい」と思った、米軍への恐怖の小径を今日は昼間、しかも小寺少尉ひとりを信じて投降してゆく気持ちには、まだ不安がないでもなかった。

アメリカ兵は自動小銃こそ持っていたが、私たちのトラックを待たせ、チューインガムをかみながら、これまで敵であったという態度をすこしもみせなかった。

かんたんな身体検査を受けた後、私たちはトラックに乗せられた。そのとき、反対側からジープが1台疾走してきて停まり、中から半ズボン、開襟シャツに防暑帽をかむった恰幅のよい老齢の日系二世らしいひとりが降り立ってから「いよう、まだいたんだな・・・」と微笑しながら、サングラスをはずして車上の私たちを眺め廻した。その顔に私は、「どこかでみた顔だ」と、胸がつかれる思いに頭をひねってやっと思い当った。米軍協力の特別功労者として、ジープまであてがわれているその人こそは、つい4カ月前の恩納岳戦のおりに、「地理案内は私たちがいたします」といって、岩波大尉に決起をうながしたことのある白髪が頭に霜をおく恩納村村長の古山氏その人ではないか。私は瞬間、まるでハンマーか斧で頭の脳天を力いっぱい殴られたような衝撃をおぼえ、目の前が真暗になるようだった

トラックはやがて私たちの思い出の地、谷茶を離れ、仲泊を左折して島の最狭部を縦貫している東西横断道路を走って、東海岸に出た。眼下は金武湾だ。さまざまな船やヨットが浮かんでいるのが見える。左手には石川部落があってトラックはそこに立ち寄ったから、米軍保護下の住民区を垣間見ることができた。小寺少尉の説明でいまここは「沖縄の首都」になっているそうだ。屋根のとんでしまった家には米軍のテントをかけて、何万人も住んでいた。』(259-260頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 259-260頁より》

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金武湾上陸地点。/ Chimu Wan Landing Beach, Okinawa.

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『土のようだった住民の顔は、男も女ももう生色をとりかえしていた。…やがてトラック上の異様な風態をしている私たちを見ようとして、子供たちや娘さんたちが大ぜいゲートのところまで出てきた。…嘉手納飛行場の通信任務として、沖縄の大ぜいの人たちから顔を知られている私は、命ながらえた恥ずかしさに私は顔をおおっていた

私は戦闘中に悲惨であった避難民たちの面影を浮かべ、こんなにあたたかい保護がくわえられるのなら、なぜもっとはやく・・と心がくもる思いがした。そして、荒廃した島の人たちに幸あれと祈らずにおれなかった

トラックは金武湾岸を北上してゆく。

…遂に「屋嘉」にきたのだ。

どの顔も土のよう、おちくぼんだ目だけが、狼のようにけわしく光っている。鼻をつくウミのにおいに、ゴム手袋をして身体検査をするMPは思わず鼻を押え、目をそむけた。

素裸にされてDDTをかけられたあと、PW(戦争捕虜)と墨書された服に着かえされ、私たちは一人ひとり写真を撮られたうえ、調書に署名させられた

収容所はみどりの山々を背にして、海岸よりのやや開けた砂地にあった。周囲には二重に鉄条網が張りめぐらされて、正面と周囲、四カ所に監視哨がそびえている。

この鉄条網のなかに整然と天幕がならび、高級参謀の八原博道大佐以下、7千名の同胞が収容されていると聞いて、私はおどろいた。10万人あまりの軍隊から、たった7千名、あとは戦死を遂げてしまったか、斬り込み自殺、敗走中での死亡、海上での溺死、あるいは地方民への変装潜行、日本軍10万壊滅というわけだ。それにしてもよくも7千人の者が捕虜になったものだ。沖縄玉砕劇もこれで幕がおりた。この7千人はたしかに幸運なものたちであったが、私はいろいろと考え、複雑な感情におそわれた。

その人たちが、みな安心しきった表情でいるのが不思議でたまらなかった。私たちは敗戦の虚脱感の中でこの日から米軍の寛大な保護のもとに、この同胞たちの仲間入りをした。』(260-261頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 260-261頁より》

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沖縄本島石川の地元民。トラックを待つ2000名の人。各々が様々な部隊の地に向かうことになっていた。

Natives at Ishikawa, Okinawa. About 2000 people waiting for trucks to various units on island.

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1945年 9月6日 『ご苦労さまでした』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ⑦

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月4日、日本側の代表者らが読谷飛行場に到着。降伏に関する詳細な指示が書かれた文書などを受け取り、翌5日には一旦部隊へと戻った。

9月6日、降伏文書に公式署名をする日本側指揮官と将校を招へいする取り決めが完了した。G2情報部のラーセン大佐はC-47輸送機で宮古島に向かい、納見中将の一行を迎えた。その構成員は、納見敏郎中将(陸海軍総司令官)、村尾繁二海軍大佐、一瀬壽(ひさし)大佐、杉本一夫中佐、通訳の小坂、高村であった。納見中将の一行は6日午後3時に読谷飛行場に到着し、直ちに特別尋問センターに向かった。

一方、G2情報部のコナー少佐とフラグラー中尉はC-47機で徳之島に向かい、高田陸軍少将と加藤海軍少将の一行を迎えた。徳之島構成員は高田利貞陸軍少将と中溝中佐、奄美構成員は加藤雄海軍少将、佐藤貞雄海軍中佐、坂田朝太郎海軍大佐であった。高田将軍の一行は6日午後6時に読谷飛行場に着き、納見将軍の一行に加わった。

その夜、日本側一行に「無条件降伏文書」のコピーが渡され、誤解のないように文面を検討することになった。その文書は次のようになっていた。

-----降伏------下記の日本軍指揮官は1945年9月2日、日本帝国政府が横浜で受諾した全面降伏に準拠して、ここに正式にか領域内の琉球諸島無条件譲渡する。北緯30度東経126度、北緯24度東経122度、北緯24度東経133度、北緯29度東経131度、北緯30度東経131度30分を結ぶ領域-----

(ここで読者は降伏と無条件譲渡という言葉に注意していただきたい。英語では降伏も譲渡も surrender となっている。軍隊の降伏も領土譲渡も英語では同じ言葉だが、日本語では全く違う。「領土を降伏するという日本語はない。降伏を譲渡と訳すると完璧な領土譲渡文書となる。これはただの降伏文書ではなかったのだ。)』(229-233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 229-233頁より》

 

 

第32軍の敗残兵

恩納(おんな): 第4遊撃隊

9月6日の朝だった。絶望のなかでじっと林の奥に潜伏している私たちの山塞に、下方の谷間の入口あたりから熊笹がざわざわ鳴って、何者かが近づいてくる気配がした。

「スワッ敵襲」とばかり緊張したところ、

日本兵はおるか。44飛行場大隊の者はいないか」

と、突然、四方の静寂をやぶって大声がした。

私たちが断崖上からオドオドしながら、谷間の声の主をたしかめてみると、米軍の服こそ着て腕に腕章を巻いているが、なんと、まぎれもない、わが部隊の小寺主計少尉と、中折帽子をかむっている4人の島の人たちではないか。

やっと安心した私たちは、ふらつくように小寺少尉の前に姿を現した。小寺…少尉…は、

「私は恥ずかしいしだいながら、6月に本部半島で捕虜になり、目下、米軍の保護下にある・・・みなさん、おどろいてはいけない・・・」

と前おきして、

じつは8月15日に戦争は終わった。みなさんの生命は連合軍によってジュネーブ条約により保証されている」と一気にいうと、

ご苦労さまでした。諸君は立派に任務を果たされたのである・・・」

とつづけた。まさに青天の霹靂---私たちはただ呆然となってしまった。とてもすぐに信ずることはできなかった。いろいろなことをたしかめてゆかなければ・・・しかし、何をたしかめるのか? 胸のなかにワーッと感動の波が起って、整理がつかなかった。

とてつもなく重大な出来ごとは、まったくただ感動のうちにすぎてしまうものだ。しばらくして気がつく。「そうだったのか・・・」張りつめていた気持ちがグラグラっとすると、私は無言のうちに6発残った拳銃弾のすべてを抜きとってシダの林のなかに投げすてていた

祖国は敗れた! ・・・歴史的のこの一瞬! だが私も戦友もだれも涙を流さなかった。出る涙はもう、戦争中にぜんぶ出しつくしていた、というのが真実であろう。

その晩、私たちは早速、下方の谷間にいる海軍兵2名に連絡をとってやった。彼等は私たちよりも1日おくれて投降することに決った。

小寺少尉がマッカーサーは9月2日に伊江島に立寄ってから、厚木基地に飛び立ったという話をして、岡本上等兵が、「そういえばそのころ伊江島の方が爆音で騒々しかった」といった。

私たちは小寺少尉から贈られた缶詰と、たくわえてあった食糧ぜんぶを開けて、一晩中戦友たちと語り合った。(257-258頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 257-258頁より》

(投稿者註: マッカーサーが沖縄に滞在したのは、文中にある9月2日ではなく、8月29日〜30日である。)

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沖縄で自決するよりも降伏を選んだ大勢の日本兵。身なりはみすぼらしくひどく衰弱しているが、投降する日本人の数は彼らがようやく正気を取り戻してきていることを表しているといえる。

One batch of the large number of Japs who chose to surrender rather than be killed or commit hara kiri on Okinawa. Those who surrendered were a poorly garbed, emaciated lot--but the number surrendering indicated that the japs finally were coming to their senses.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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降伏した300人の捕虜。沖縄。/ 300 POW' s surrender. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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日本軍が連合軍の降伏条項を受諾したと聞き、丘の隠れ場から出てきた二人の日本兵とその彼らに質問する陸軍翻訳官。沖縄。

An army interpreter questions two Japs who came out of hiding in Okinawa's hills following announcement that Japan had accepted Allied surrender terms.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年9月6日(木)

1945年 9月5日 『祖国という観念』

米軍の動向

戦利品

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オーウェン・ランディ(右)のとっておきは、長さ30フィートになった、記念の署名入りの紙幣70枚である。(1945年9月5日撮影)

Prized possession of Owen Landy (right) is this 70-piece, 30-foot long short-snorter bill.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

降伏文書調印式までの動向 

琉球列島の「降伏」 ⑥

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月4日、日本側の代表者らが読谷飛行場に到着、降伏に関する詳細な指示が書かれた文書などを受け取った。

『…9月5日の朝、彼らは第10軍参謀長フランク・メリル少将に面会し、降伏指示文書の不明確な点について質問を許された

日本側代表団は午後1時、読谷飛行場から離陸した。宮古島代表団は旧式の爆撃機を利用し、徳之島代表団はC-47輸送機で送られた。』(229頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 229頁より》

 

 

第32軍の敗残兵 

美里野戦病院

『入院して4日目に、前回と同じように4度目の熱が出たあと、マラリアの症状は止まった。しかし、この頃からアメーバ赤痢の症状が出てきた。血便とも粘便ともつかぬものが、暇にまかせて数えたところでは1日53回にも及んだ。こうした状態では食欲は全くなく、Kレーションの中から角砂糖だけを抜き取って、舌の上でとろけさせるだけの日が続いた。私の枕許にはレーションの箱が煉瓦のように積まれた。

隣に寝ている住民の患者が、遠慮がちに

このレーション、食べないなら私にくれませんか。」

といった。私は〝角砂糖のほかは、みな持って行ってくれ〟と言うと、喜んで1日おきくらいにくる身内の者に、それを渡していた

便の始末は、最初のうちは便器を用いてテントの外で足し、50メートルほど離れた仮設便所まで捨てに行っていたが、その途中でも何回か使用せねばならぬようになり、やむなく便器を1個ベッドの下に借用しておいた。ところが、このテントの牢名主のような顔をして、他の者に大声で文句を言っていた兵隊が、

「手めえ、便器を独り占めにするない。使ったら洗って外にかけておけ」

と私に向かってどなった。私もそれはわかっているのだが、動くとすぐ尻の方がいかれてしまう状態なので、もはや方法もないと諦めて、腰にバスタオルを巻き、毛布で身体を包んでたれ流しの状態になった。

これが2日も続くと、牢名主もさすがに同情したのか、または私に気合を入れ過ぎたのを気がとがめたのか、衛生兵に、

あそこの若いのが、あぶないようだから何とかしてやってくれ

と私を指して言った。ようやく米人の軍医と衛生兵、それに前とは違う元気のいい若い日本人の軍医が来たが、日本人の軍医は入って来て私を見るなり、顔をしかめただけで手をかけようともしなかった。』(225-226頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 225-226頁》

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コザ付近にある軍政病院。北向き。

Military Government Hospital area located near Koza, looking north.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『この頃は、皆が眼を覚める時刻になっても、一向に動こうとしない者がボツボツとあって、ほとんど夜中のうちに便をたれ流しにしたまま息絶えており、隣りの者も気付かないことが多かった。そうなるとすぐテントの外に出し、収容所から来る捕虜の作業員達が近くの藷畑に埋めてしまうのである。何日かに一人は確実に発生するそうした者を見ていると、〝やっと阿嘉島生き延びて来たのに、俺もここで終わるかもしれない〟と、いささか心細い日日での連続で、他の者の目にも私の状態がもうそれに近いものに映っていたようであった。

こうした身心共に病み衰えて、ズルズルと絶望状態になりかけているのを、ようやく食い止めることが出来たのは、19歳という肉体のもつ復元力であった

熱の一週間とそれに続く下痢の一週間で、瘠せることの限度まで来た時に、ようやく僅かながら食欲が出て来た。

やっと立上れるようになった頃、このキャンプに看護婦兼雑役のために来ている沖縄の娘が、放置されたままの私に同情して、洗たく場からたらいを持って来て水浴させ、便で鼻もちならぬタオルなども洗ってくれた

私は感謝の意を表すために、積み重ねてあったレーションを渡した。そして、もし出来るなら米と梅干と味噌を見つけてもらいたいと頼んだ。米はとにかくとして、この戦場のあとの沖縄の地では、味噌や梅干はとうてい不可能な望みと思っていたのだが、どこでどうやって見つけたのか、2、3日すると少量ながら米と味噌を持って来てくれた

一方私のあとを追うように、これも赤痢の疑いで送られて来た渡辺が、偶然隣りのテントに入ってきたので、彼に粥を作ってくれるように頼んで、子供のころから変わった好物としていた、粥に味噌を入れて掻き廻したものを、少量ながら口にすることができた。これが回復のきっかけとなったようで、下旬になってようやく、ふらつかずに歩けるようになった。』(226-227頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 226-227頁》

 

 

そのとき、住民は・・・

 米軍野戦病院: 久志村

『日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストが出ると誰かが歌った

そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。』(121頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》

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仮設病院施設。沖縄にて。/ Okinawa. Temporary hospital facilities.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

1945年9月、…私が、かつて経験したことのない世界---戦後の沖縄がそこに始まっていた。…配給所前の国旗掲揚のポールにはためいている星条旗に気がついた。喜屋武の海岸に追い落とされたとき、米艦艇のマストにひるがえっている星条旗を間近に見たときの恐怖がよみがえったが、それはすぐに消え、雑踏の匂いに包まれた。

…久志へ来て間もなく、市長、市会議員の選挙があった。…久志は、久志、ミヤランシン、辺野古、大浦崎の4つの「区」を持つ市であった。ところが、「メイヤー」と呼ばれるもうひとりの権力者がいた。彼は久志市の中心久志区の区長であるべきであるが、この区長のメイヤーは市長選挙よりも前、米軍の久志占領と共に任命されたらしく、食糧配給の実権を握る実力者であった。民意によって選ばれた市長は、戦後処理の第一歩たる住民の出身市町村への移動事務が主たる仕事であった。

だから、市長選挙があったとしても「区長のメイヤー」の存在に変わりはなかった。彼の事務所には米大統領トルーマンの肖像が掲げられ、メイン・ポールにひるがえる星条旗とともに、新時代の到来を謳歌しているようであった。戯画ではない。本当のことだ。』(121-124頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121-124頁より》

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軍政府施設の上ではためく米国旗。沖縄本島の久志にて。

The American flag flying over the Military Government center at Kushi, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『アメリカ・ナイズされたメイヤーさんに対して、「アメリカーになったつもりでいる」と、陰で非難をする者はいたが、面と向かって「大和魂を忘れたか!」と怒鳴る者はいなかった。〝大和魂〟は戦争で吹き飛ばされ、米兵との交歓風景があちこちで見られた。米琉親善という言葉はまだ無かったが、〝民主主義〟という言葉がそろそろオールマイティーになりつつあった。』(124頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 124頁より》

 

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読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所