1945年 6月25日 『民間人捕虜になる』

掃討作戦

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/96-29-1.jpg

南部では、多くの日本軍のトラックが破壊または鹵獲された。溝にはまって機関銃でハチの巣にされたトラックを調べる憲兵(1945年6月25日撮影)

In Southern Okinawa, many Japanese trucks were destroyed or captured, here MPs are shown inspecting one of the trucks which was run into a ditch and riddled with machine gun fire.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/88-33-1.jpg

沖縄の海岸を攻撃した総勢240人のうち、第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊所属の兵士はたった31人。31人中25人が負傷したが、任務に復帰した。(1945年6月25日撮影)

Only thirty-one men of ”L” Company, third Battalion, twenty-second Regiment, Sixth Marine Division out of a total of 240 who hit the beach at Okinawa. Twenty-five of the thirty-one were wounded but have been returned to duty.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/98-21-1.jpg

投降してきた日本人と沖縄人の負傷兵の集団。(1945年6月25日撮影、場所不明)

A group of wounded Nips and Okinawans that have surrendered.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/1-32-3.jpg

上陸艇LCVPから銃を向けられ投降する日本兵(1945年6月25日撮影、慶良間列島

Japs surrendering under guns of a landing craft LCVP at Kerama Retto, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

将軍らの遺体確認

6月25日、米軍は、捕虜となっていた沖縄憲兵隊副官(階級:中尉)を摩文仁へと連れ出し、自決した第32軍司令官の牛島満陸軍中将と同軍参謀長の長勇陸軍中将の亡骸を確認させた。この憲兵隊副官は、米軍が沖縄に上陸する数ヶ月前、首脳2人の自決を介錯した坂口勝中尉に、介錯の作法を教えていた。副官は、部下を率いて玉城村の壕内にいたが、6月3日に投降し、捕虜になって日本軍将兵に投降を呼びかける「帰順工作」に従事していた。

連れて行かれたのは、海岸側司令部壕から3、40メートル下の場所で、遺体は窪地に並ぶように埋められており、その上には石が積まれていた牛島中将の遺体には首がなく、略章をつけた軍服に白い手袋をしていた。長参謀長の遺体は、敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っており、ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけだった。その肌着には墨で「忠則盡命 盡忠報国 長勇」と書かれていた。これが沖縄戦を指揮してきた軍首脳2人の最期の姿だった。(首里城地下の沖縄戦・4 / 32軍司令部壕・10を要約)

[125 32軍司令部壕(10)]牛島中将の遺体確認 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および

[41 最後の命令]「最後まで敢闘せよ」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 より抜粋、要約》

f:id:neverforget1945:20170625113522j:plain

牛島満司令官及び長勇参謀長とされる遺体

[Photo] Remains of General Mitsuru Ushijima and Lieutenant General Isamu Cho, Okinawa, Japan, 5 Jul 1945 | World War II Database

(投稿者注: リンク先はこの写真の撮影日を1945年年7月5日としている。また、この写真は牛島と長ではない人物の遺体である可能性を指摘する人びともいる。)

『沖縄守備軍首脳は、いかにも武人らしい最期をとげたわけだが、軍命とはいえ無謀としか言いようのない沖縄戦を部下将兵ばかりか、住民まで道連れにして戦ったことへの批判を免れることはできなかった。岡本太郎氏は、個人的な人格がどうであれ、「とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自分らのおかした惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまで虚栄の中に反省もなく〝帝国軍人らしく〟自刃した。その軍部を象徴する暗いエゴイズムに戦慄する」と述べている(「忘れられた日本」)。』(224頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 224頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/128190.jpg

怪我をした民間人を壕から助け出す海兵隊(1945年6月25日撮影)

Marines help wounded civilians out of a cave.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

(投稿者注: 轟の壕にいた民間人救出・2日目の様子と思われる)

 

「民間人捕虜」になる

『「捕虜になったの・・・。6月25日に、ほら、沖縄の戦争が、一応もう敗戦が決まったでしょ。その時に米軍は一斉に総出で各部落をまわってね・・・。住民を皆、連れ出したわけ。日本軍が潜んでるってことでね、米軍はそれを恐れていたのよ。だから、捕虜になったときが6月25日。

わたしは12歳だったけれども、そういうことは皆、脳裏に刻まれているんですね。昭和20年の6月25日に捕虜になって、もう村中のひとが一斉にトラックに乗せられてね」

そこはここ本部の村ですかと尋ねると、…「はい、自分の郷里でですよ。そして、母はもうその頃重体だったから、トラックじゃなくして、特別にジープで迎えにきたんですね。そのジープには2世の通訳がついていたんですよ」

…「やっぱり、米軍としてきている2世のかた、日本語話すかたがついてきていたという米軍の配慮というのがね、わたしとても感心したんですよ。

そして、それからジープに乗せられて、わたしはもう、鍋釜とか味噌とか、お米とか、持っていかなきゃってやっていたところに、その2世のかたがね、なんにもいらない、なんにもいらないって手を振って教えるんですよ。

なんにもいらないっていったって、鍋も釜も持っていかなきゃ何でご飯炊いて食べるんだってね、小さいながらに口答えしたら、その2世が、ほんとになんにもいらない、いらないっていうもんだから・・・。それに、母はもうとっても重体だったから、見込みはないなあと思いながらね」…「山で発病して・・・。それまでは父よりも母のほうが元気だったのにね・・・。急に何の病気だったかわかんないけど、熱も出て・・・。ほんとになんだったのかわからんけれども・・・」』(7-9頁)

《「失われる記憶のルポタージュ 沖縄戦と民間人収容所」(七尾和晃/原書房) 7-9頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-07-4.jpg

米海軍軍政府の収容所内にいる民間人。沖縄本島田井等の村にて。背中に子どもを背負っている母親と娘。原始的な手段で物を運んでいる様子や母と娘の服装の違いに注目。

Japanese civilians in US Navy Military Government compound, village of Taira, Okinawa, Ryukyu Islands. Mother with child strapped on her back and daughter. Note primitive means of transportation and differences in dress between mother and daughter. CL-62#55.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『それまで本部の村から奥に入った山中で避難生活を送っていた…が、沖合からの艦砲射撃の嵐が止み、地上戦も終わった気配伺い、本部の村に帰ってきていた。

「焼け跡に父が、萱の、小さい掘立小屋、ほんとに小さくて3名か4名ぐらいが寝られるぐらいの掘立小屋を作ってくれて、そこに母を寝かせていました。

それで兄などは、もうほら、戦争中だからまだ学徒隊に行っていて帰ってきていなかったし姉達はアメリカに強姦される恐れがあるからといって、まだ山奥に逃げていたから・・・。結局は妹とわたしと父と、3人で母を見ていたんですよ」

そして、捕虜となる日は予告なく訪れた。

「その日、うちの父は山へ行って、物をとってこようと馬を引っ張っていったんですね。ところが、行ったっきり。結局は父は途中で捕虜になっていたわけでね。それで、わたしと妹と母はジープに乗せられて。それから名護の病院に連れて行かれて、そこで米軍の医者がちょっと診察してから羽地に連れて行かれたわけ」

羽地と田井等は隣あった集落であり、同時に、沖縄島と本部半島との首根の細い部分にある。南北をつなぐ北部地域の交通の要衝ともいえる場所だ。羽地ではすでに収容所の構築が始まっていた。そこには病院なども併設され、小さな村は、…同様に次々と送り込まれてくる民間人捕虜であふれていた。

…自身のそのときの境遇をはっきりと、「捕虜」と呼んだ。兵隊に限らず、民間人でさえ、米軍に捕まれば、それは捕虜となることを意味していた。

だが、米軍から見れば、それは、民間人に紛れ込んだ日本軍の戦闘員を選別する意味と、そして、民間人を隔離することで確実に「保護」するためのものであった。

沖縄の住民にとっての「捕虜」生活が、米軍にとっての「保護」という強い信義と建前を孕んでいたことは、しかし今に至るまで、…収容所生活の体験者たちにとっては意識されていない。それは、半世紀を超えてなお続く、沖縄における米軍駐留の在り方の、微かにして、だが決して噛み合わぬ悲劇の芽ばえであったのかもしれなかった。』(9-10頁)

《「失われる記憶のルポタージュ  沖縄戦と民間人収容所」(七尾和晃/原書房) 9-10頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/128197.jpg

10日目でやっと食べ物にありつけた沖縄の少女とその父親(1945年6月25日撮影)

An Okinawan girl and father receive food for the first time in ten days.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月25日(月)

1945年 6月24日 『敵は米軍ではなく友軍だ』

掃討作戦

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/324600.jpg

夜間の敵の反撃を防ぐために日没直前に張り巡らされた有刺鉄線。これが敵の狙撃手の侵入を困難にさせる。(1945年6月24日撮影)

The rolls of barbed wire, strung up shortly before dusk, will help prevent an enemy counterattack during the night. The wire will make it difficult for infiltrating snipers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/324602.jpg

第505高射砲大隊のD中隊の周りに張り巡らされた有刺鉄線の防御システム。後方に見えるのは機関銃。(1945年6月24日撮影)

A barbed wire defense system has been erected around D Battery, 505th AAA Bn. The machine gun is in the background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

そのとき、住民は・・・

轟の壕

沖縄県知事の島田叡と警察部長の荒井退造が6月中旬までいた轟の壕には、まだ多くの避難民と残された県庁や警察職員がいた。そこへ日本兵たちが入ってきた。

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006247/kiji1Img.jpg?uid=20170624132024

轟壕(とどろきごう) | たびらい

『…陸軍の大塚曹長を隊長とする15、6人の日本兵の一団がなだれ込んだ。全員、きちんとした軍服、銃剣などで武装しており、避難民は一瞬、自分たちや壕を守ってくれるのでは・・・と期待したが、それは大いなる錯覚だった

兵らは避難民を全員、川下の湿地帯に追いやり、自分たちは川上の居心地の良い乾燥地帯に陣取った。さらに民間人の居る場所との境に石や木でバリケードを築き、出入口近くに歩哨を立て、だれも壕外へ出ないよう厳重に見張った。民間人が壕を出て米軍の捕虜になった時、軍人が壕内に居ることがわかるのを恐れたのである。避難民の受難が始まった。』(380頁)

県警察部の女性職員の証言:

『「友軍の兵隊が避難民のところへ、食糧あさりに来るのです。住民は皆、虎の子の食糧を小さな包みにして持っていましたが、銃剣で脅して、それを取り上げて行くのです。おまけに住民はイモやサトウキビすら取りに出られなくなり、飢えに苦しみました

糸満のオバア(お婆さんの庶民的な呼び方)が上は7歳、下は4歳ぐらいの2人の男の孫を連れて川下にいました。孫は『ハーメー、サーターカムン(お婆ちゃん、黒砂糖が欲しい)』と言って泣いていました。オバアは手ぬぐいにくるんでいた命の綱の黒砂糖を少しずつ孫に与えていたのですが、食べてしまうと『ナーヒンカムン(もっと欲しい)』と泣くのです。すると、兵隊がやって来て『泣かすなッ。この壕に人が居るのが敵に知られてしまうじゃないか。今度、泣かしたら撃つぞッ』と脅しました。気配を察した子供は、その時だけは黙るのですが、また泣く。兵隊が再びやって来て『いくら言っても分からんのかッ。なぜ泣かすのだッ』と言い、理由がわかるとオバアの黒砂糖を取り上げました。その時、下の子が『これは僕らのだ』と言って兵隊に飛びかかったのです。兵隊はこの子を銃で撃ち殺しました。オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない。回りの人たちも皆、シーンと静まり返っていました」

「それからは赤ちゃんが泣いても、周囲の人たちが『子供を泣かすなッ』と母親をしかるのです。泣かすなと言われても、赤子は泣きます。よく泣いていた赤ちゃんが急に静かになったな、と不思議に思っていたら、『たまりかねた母親が口におしめを押し込んだ』というヒソヒソ話が伝わって来ました。この時から私たちは敵は米軍でなく、友軍だと思うようになりました。県民はありったけの協力をした揚げ句、土壇場で裏切られたのです。私が豊見城の海軍外科壕からこの壕へ向かっていた時、逆に南から北上して来る避難民に会いました。『なぜ敵の居る方へ行くの?』と聞くと『友軍に銃を突きつけられ、わずかな持ち物を取り上げられ、壕を追い出された。ウッター(あいつら)に殺されるより、自分の屋敷で艦砲にでも当たった方がまし』と吐き捨てた言葉が忘れられません」』(380-381頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 380、380-381頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail38_img.jpg

沖縄戦の絵】「赤ちゃんを泣かすな!」

『昭和20年6月、壕の中で目にした光景。壕の中には40~50人の避難住民がじっと身を潜めていた。外から米兵の英語の話し声が聞こえてきた時のこと。すぐ上まで迫る米兵に壕の中が緊迫した。「赤ちゃんを泣かすな」。赤ん坊を抱えた母親に向かって男の人が言った。責められた母親はどうすることもできず、子どもの口を手でふさいだ。』

『赤ちゃんを泣かすな!』 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…島田知事は6月15日に沖縄県庁の活動を停止し、職員の自由行動を許すと決定した。それから3日後の18日から、この轟の壕は米軍の「馬乗り攻撃」をうけることになった。その攻撃をうけることは、もはや夜中であっても壕の外へは出られなくなるということである。4、5百人の避難民の食糧は底をつき、数日後に餓死者が続出し始めた。

…馬乗りして米兵は小銃や小型爆弾で執拗に壕内に向かって攻撃していたが、小川のある北側の壕の入口は岩壁が扇のようになっていたので、初めのうちは弾は壕内に届かなかったが、3日程して入口の岩壁は爆破されて大穴が開いてしまった。

敵の手榴弾等が壕内で炸裂するようになったが、いちばん厄介なのは、ドラム缶の攻撃だった。

ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたのを落とし込む。炸裂と共に点火したガソリンが辺り一面に飛び散る。それを浴びて兵や住民たちが火傷し死傷した。全身焼け爛れた若い兵が痛さに耐えかねて川の中を這い廻り乍ら、『班長殿!班長』と、泣き叫んでいた。川縁には既に幾人かの屍体が転がった儘である。

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 154-156頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)の内容より》

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300100/files/DSC_7891.jpg

轟壕 | 糸満市

『…壕の狭い通路に、6、7歳位の男の子が、丸裸で、顔から体中泥だらけになって立って居た。…盲児らしかった。耳も聞こえないのか、声をかけても返事しない。あるいは気力さえ失っていたのかも知れない。まるで放心したように身動きせずに立っている。其の足許に男の死体が横たわっていた。死体の側から離れようとせぬのは、此の児の父親なのだろうか。泥だらけの顔も、泥にまみれた手で、なきじゃくった為でもあろうか。…其の児も次の日には足許の死体に折り重なるように死んで居た

弱々しい声で泣き続けていた嬰児の声も、何時のまにやら途絶えて居た。ボロに包まれた嬰児の死体が置き去られて、一緒に居たという、若い母親の姿はなかった。乳房の枯れた母親は、飢えて死んだ愛児の側にいたたまれなかったであろう。』(154-156頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 154-156頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)の内容より》

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006247/kiji2Img.jpg?uid=20170624115947

轟壕(とどろきごう) | たびらい

『暗く、じめじめした壕内に閉じ込められた避難民は、食糧もなくなり、餓死する者、に倒れる者が続出した。当初はやかましい程だった子供の泣き声もしなくなり、壕内はシーンと静まりかえった。このままでは全員が死に絶えるのは時間の問題だった。大塚曹長に「女、子供だけでも出して頂きたい」と交渉した。大塚は「出たい奴は出せ。後ろから軽機(関銃)で撃ってやる」と頑として応じず、…「貴様たちは、それでも日本人か」と怒鳴りつけた。…「泥を食ってでも生きろ

馬乗りされてから1週間が過ぎた。…県と警察職員はほかに出口を開けようと決心、…しかし、適当な個所は見つからない、で結局、この計画は実らなかった。』(383頁)

中頭郡地方事務所長の証言:

『いよいよ友軍との持久戦だ。…低いうなり声。水、水をくれ、とかすかな声が暗闇の中から聞こえる。水をのむために、やっと水辺にきてうつぶせになって死んでいる者。水の中に頭を突っ込んでこと切れている者。水をのみにはい出してきて死んだ母親の乳房にすがりついて、ぐったりしている赤ん坊。水中にうつぶせになった女の長い髪の毛が、ゆらゆらと生きもののように水中にゆれていた。壕の中は刻々と腐臭がみなぎっていた。腐肉とウジと血と糞便がどろどろに溶け合った泥水が、岩間を伝って下の方へ流れていた。

その時、パッと強い光が壕内に入りこんで来た。懐中電灯だった。いよいよ米軍がきたのだ。われわれは殺される、と一瞬恐怖におののいた。『私は宮城…だ。みんな壕の外に出なさい。出てもちっとも危険はない。米軍がみなさんを救いにきたのだ』と聞き覚えのある声がした」』(384頁)

『…宮城は青年時代から…空手の達人、夫人はハワイで生まれ育った泳ぎの名手というスポーツマン夫婦であったことが、土壇場の脱出・救出劇で少なからず役に立ったようだ。』(384頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 383、384頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126452.jpg

壕から出てくる地元民であふれる壕入り口の全景。この壕には500人ほどの人が隠れ、日本兵に拘束されていた。頂上付近にいる米海兵隊員は地元民と一緒に出てくる可能性のある日本兵を注意深く見張っている。(1945年6月24日撮影)

Overall view of pit with civilians emerging from cave, where some 500 were found hiding and held by Jap soldiers. Marines around crest keep a watchful eye for Jap Soldiers that might come out also.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

夫婦で轟の壕から脱出に成功した沖特陸浜野部隊の宮城上等曹長の証言:

『「私たちは最初、親しくしていた特高課長の佐藤さんらと一緒に地下2階の壕に居ましたが、米軍の馬乗り攻撃の気配が強まったので地下3階へ降りました。その時、佐藤さんを熱心に誘ったのですが、『島田知事から託された重要書類や機密費数万円(現在の数千万円に相当)を内務省に届ける密命を帯びているので、出やすい地下2階にいる』と頑として応じませんでした。仕方なく私たちは下へ降り、知事や警察部長が居られた所より、うんと川上の方に居ましたが、陸軍の奴らに閉じ込められてしまった。これでは野垂れ死ぬばかりだと、1週間ほど経ったころ、私たちは壕内の川を必死でさかのぼりました。梅雨末期の豪雨で川は水かさが増し、背が立たない。何度も潜って泳いで行ったら、突然といった形で伊敷の共同井戸に出ました」』(384-385頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 384-385頁より》

『「…そこにも米兵がいて、捕まった家内がアチラ語でペラペラやったので、収容所へ連れて行かれた。」』(161頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 161頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)の内容より》

『「妻が手なれた英語で『壕内に何百人もの避難住民が閉じ込められています。助けてやって』と必死に訴えますと、私たちは師団の情報将校ジェイムス・ジェファーソン中尉の前に連れて行かれた。中尉は『あの壕に日本兵が立てこもっているのは分かっている。いまダイナマイトで爆破する準備を進めているが、住民を巻き添えにしては可哀相だ。もし君が壕へ引き返し、連れ出すのなら、待つ』と言ってくれました。…その場で承諾し、決死の覚悟でまた壕へ引き返したのです。陸軍の奴らが撃つなら撃て、の心境でした。1日目は地下1、2階に居た人たちを出し、2日目は地下3階へ入りました。幸い大塚曹長ら陸兵は何処へ行ったのか姿はなかった。出入口付近に近づくなり『海軍上曹・宮城…は死んだ。皆さん、出て来なさい』と叫びました。私は軍人としては死んだも同然だが、一県民として救いに来た、との思いを込めたのです」』(385頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/129453.jpg

壕から安全な場所へ出てくるよう491人の沖縄の民間人に働きかける助けとなった5人の人々。(1945年6月24日撮影)

These five people were instrumental in influencing the 491 Okinawan civilians to come out of cave to safety.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『米軍は6月24日、25日の両日にかけ、避難民約600人を救出した。』(385頁)

後方指導挺身隊・佐敷分遣隊にいた県庁職員の証言:

『「米軍は女、子供から先に出し、衰弱の激しい者はトラックに積んで病院へ運びました。比較的元気な者は、…壕の出入口階段付近に集められました。そこへアメリカの将校がやって来て、片言の日本語で話しかけました。『下ニ日本ノ兵隊イマスカ?』。大勢の年寄りや母親が口々に『たくさんいる、たくさんいる』と答えました。すると、そのアメリカ将校は『日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?』と聞いたのです。『殺せ!殺せ!』が一斉に、すかさず出た答えでした。皆が憎んだのはアメリカ兵より、日本兵だったのです。私も憎かった。しかし、日本人の口から、友軍の兵隊を『殺せ!殺せ!』という言葉が、敵兵に対して放たれる恐ろしさに気付いて、呆然としました」』(386頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385、386頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/129446.jpg

海兵隊に助けられながら傾斜地を登って壕からでてくる沖縄の民間人。沖縄が(米軍に)占領されたとき、491人の民間人は日本軍によって刻み込まれていた米軍に対する恐怖心を捨て、壕からでてきた。多くの人々が病気で、怪我をしていた。(1945年6月24日撮影)

Okinawan civilians being assisted up steep hill from cave by Marines. After Okinawa was secured, 491 civilians abandoned their fright of the Americans impressed upon them by the Japs, and started a march out of this cave. Many were ill and wounded.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

避難民の証言:

『「…殺されるという恐怖のなかでガマを出ました。2週間も暗い洞窟にいたので、外の輝いている太陽のもとに出て頭がクラクラしました。たくさんの避難民がフラフラしながら壕から出るので、ゆっくりしかあがれません。それで、少しは目が慣れました。米兵が私たちを引っぱりあげてくれるのですが、はじめてアメリカ兵を見たとき、これは鬼だと思いました。なにしろ上半身裸で、見たこともないような胸毛がいっぱいで、猿のように手まで毛が生えていたのです。私たちはアメリカ兵を恐怖の目で見ていたはずです。

壕から出る直前、若い女は顔に鍋のススを塗れと誰かが指示しました。すると、綺麗な人は強姦されるという思いから、できるだけたくさん鍋のススを塗っていたのが印象的でした。』(192頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 192頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/125918.jpg

深い壕の中から地元民を連れ出す海兵隊(1945年6月24日撮影)

Marines removed civilians from a deep cave.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/129448.jpg

(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

中頭郡地方事務所長の証言:

『「米兵は、日本兵が壕内に残っておるようだが、爆雷で殺していいかとみんなに諮ったのです。みんなは『いいですよ』と答えました。飲み物や食べ物をあてがわれたあと、われわれは車を3、4台連ねて北へ向かいました。トラックが伊敷から糸満街道におりるとき、ババーンという爆発音が、いま出てきた方向から聞こえました。『やったなぁー」と思いました。でも壕内であれほどいじめられていますから、何とも思わなかったです」』(386-387頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 386-387頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/129451.jpg

隠れ家である大きな壕を出て投降した491人の沖縄の民間人の一部。手前は小さなやかんから水を飲む子供。 (1945年6月24日撮影)

Part of the 491 civilians on Okinawa who surrendered from their hiding place in huge cave. In foreground, small child takes drink from little metal teapot.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…米軍は、轟の壕の内情を宮城…夫妻から聞いていたので、あえて住民に日本軍部隊の扱いについて尋ねたようである。避難民がいっせいに「ころせ、ころせ!」と叫んだ。「クルセー」を標準語に直訳すると「殺せ」になるが、沖縄では普通「痛めつけろ」という意味で日常的に軽く使われている言葉である。したがって、この場合は「ころせ!」をどっちの意味で使用したのか特定はできない。』(194-195頁)

中頭郡地方事務所長の証言:

『「壕内では、親が死んで、子どもがその母親の腹の上で生きているということがあり、米兵がどんどんそれらを運び出し、衰弱の激しい者はすぐトラックに乗せられて行きました。私らは壕から上に上がったら倒れ込んでいたが、それほど弱ってはいませんでした。』(195頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 194-195、195頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/129449.jpg

(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『何百人もの避難民を死に追いやった大塚曹長日本兵の一団は、この爆破で全滅したと思われていたが、ずる賢くも別の出口から脱出して米軍の捕虜になっていた。…石川収容所へ行ったら、大塚は何食わぬ顔で米軍の宣撫班員になりすまし、戦中、大分県別府市から沖縄へ出稼ぎに来ていた芸者と夫婦気取りだったという。』(387頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385頁より》

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

www.qab.co.jp

1945年 6月23日 『第32軍の終焉』

掃討作戦

1945年6月23日、米第10軍は、沖縄南部の日本軍第32軍の敗残兵を殲滅するために、他の軍と提携して、全面的な掃討戦を開始した。この掃討戦では、陸軍第24軍団と第3上陸軍団は、それぞれの作戦地区を担当し、作戦遂行のため、3つの段階にわけることにした。そして、その計画によると、10日かかることになった。

島の南端に第1期作戦区域をきめ、その前線に到着した後、2軍団は、こんどは方向をかえて北に進撃し、2回掃討戦を展開して、那覇ー与那原間の平野に着いた。そこで島を横切るブロック線を確立した。日本兵が北部に入るのを防ぐためである。』(514-515頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 514-515頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80-32-2.jpg

掃討作戦のさなか、丘を下る第6海兵師団第22連隊第1大隊ベーカー中隊のライフル銃手と機関銃班。

Riflemen and machine gun squad of the Baker Company, First Battalon, 22nd Regiment, Sixth Marine Division, move down the side of a Hill in southern Okinawa during mopping up operations.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…いわゆる散兵線を保ちながら、のろのろ北へと戻っていった。埋めなくてはならない敵の死体を、われわれは呪った(埋葬といっても壕を掘るためのシャベルで土をかけるだけだったが)。「きちんと整理する」ために集める「50口径以上」の薬莢もいちいち呪った。戦車隊の援護をこんなにありがたいと思ったこともなかった。戦車の火炎放射砲はとくに、洞窟の厄介な日本兵を焼き払うのに効果的だった。幸い、われわれの側に死傷者はほとんど出なかった。』(459-460頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 頁より》

 

第10軍司令官交替

バックナー陸軍中将が戦死した翌日の6月19日からは、海兵隊のガイガー中将が第10軍司令官を務めたが、スチルウェル陸軍中将と交替した。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/16-56-1.jpg

第163連絡中隊のL-5機で飛び立つ準備をする、現在の第10陸軍司令官ジョセフ・スチルウェル将軍。沖縄。

General Joseph W. Stilwell, present Commanding General of the 10th Arm is shown in an L-5 aircraft of the 163d Liaison Sq. preparatory to an Aerial tour of Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。』(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/85-28-2.jpg

中部太平洋地上部隊指揮官リチャードソン中将と、第3上陸作戦部隊司令部を離任する米海兵隊のガイガー中将。(1945年6月23日撮影)

Lieutenant Generals Ralph C. Richardson, USA, commands ground force Central Pacific and Roy S. Geiger, USMC, of Ⅲ Phibious Corps, leaves Ⅲ Phib., Corps Headquarters on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

各地で進む基地建設

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/370939.jpg

工事の完了した瑞慶覧の北に位置する5号線

Finished roadbed on Route 5 north of Sukiran.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の終焉

牛島・長両将軍のさいご: 自決当日

【投稿者注: 第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する】

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

自決日が1945年6月23日の説

八原高級参謀の回想:

23日3時ごろ、軍司令官の命なりと呼びにきた。服装を正して出かける。牛島将軍は略綬を佩用して、服装を整え、膝組んでおられる。長将軍はキング・オブ・キングスのひょうたん型の壺を前にして、すでに一杯傾けておられる。周囲の顔ぶれは概して昨夜と変わりない。私は両将軍に敬礼したが、今や言うべき言葉はない。参謀長は私にウイスキーをすすめ、さらに自ら剣先にパインアップルの切れを刺し、これは両方とも特等品だぞと自慢しつつ、私の口にもってこられた。私はちょっとぎょっとしたが、子供のするようにあーんをしてちょうだいした。

私を前にして、両将軍の間には、次のような会話が続けられた。

参謀長「閣下はよく休まれましたね。時間が切迫するのに、一向に起きられる様子がないので、実は私ももじもじしていました」

司令官「貴官が鼾声雷の如くやらかすので、なかなか寝つかれなかったからよ」

参謀長「切腹の順序はどうしましょう。私がお先に失礼して、あの世のご案内を致しましょうか」

司令官「わが輩が先だよ」

参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。お先に失礼しても、ご案内はできませんね・・・

参謀長は、「西郷隆盛が城山で自決する直前、碁を打ちながら別府晋助に向かい、『晋助どん!よか時に合い図をしてくれ』と言ったそうだが、俺はキング・オブ・キングスでも飲みながら時を待つかな」と笑われた。周囲の者は西郷隆盛と聞いて、一斉に牛島中将を注視する。将軍は平素部下から西郷さんと呼ばれていたからである。

両将軍は、2、3辞世ともなんともつかぬ和歌や、詩をもって応酬された。私は、はっきり聞きとることができなかった。しかし沖縄を奪取された日本は、帯を解かれた女と同じもんだと、だじゃれを言われたのを記憶する。』(435-436頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 435-436頁より》

http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/photo/20080930115752.jpg

摩文仁の丘

沖縄県平和祈念公園について

いよいよ時間も迫るので、洞窟内に残った者が、皆一列になって次々と将軍に最後の挨拶をする。平素正しいと思ったら、参謀とでも殴り合いをした利かぬ気の大野少佐が、一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、大本営宛て最後の電報を打ち終わった旨報告した。彼は長年参謀本部の暗号班で勤務したこがあるので、一昨夜大本営からきた最後の電報の諸語、「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完成した・・・」の主旨の言葉は、アッツ以来太平洋の島々に玉砕した、すべての部隊に寄せられたものですと、なかば嘲笑的に語った。参謀長と私は互いに顔を見合わせ、きっと唇をかんだ。

最後までよく将兵と苦難をともにした…その他の女性も挨拶をする。参謀長の当番娘が、「閣下のご焼香もすまさないで、洞窟を出て行くのは誠に申しわけありません」と述べたとき、長将軍は微かに苦笑された。彼女たちは他の残存の将兵とともに、夜の明けきらぬうちに断崖の道を降りて海岸の洞窟に行くことになっていた。参謀長当番の中塚は、俺はもう要らぬからと、貴重な水のはいった水筒を女たちに与えた。軍司令官は静かに寝棚から降り立たれ、参謀長は軍衣を脱してそれに従われ、経理部長もまた後に続く。ロウソクの灯を先頭に、粛々として行列は出口に向かう。心も足も重い。

洞窟の外に出ずれば、月未だ南海に没せず、浮雲の流れ迅く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁霧脚麓より静かに谷々を埋めて這い上がり、万象感激に震えるかの如くである。洞窟出口から約10歩のあたり、軍司令官は断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。残存の将兵は出口に起立して大なる瞬間を待つ。

やや前かがみに首を伸ばして座した参謀長の白いワイシャツの背に、「義勇奉公、忠則尽命」と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、暁暗にもはっきりと読める。私を振りかえられた長将軍は、世にも美しい神々しい顔で、静かに、「八原!後学のため予の最期を見よ!」と言われた。剣道5段の坂口が、つと長刀を振りかぶったが、何故か力なくためらって、「まだ暗くて、手もとがきまりません。暫く猶余を願います」と言った。

明るくなれば、海上の敵艦から砲撃される。海岸洞窟に降りるはずの将兵は動揺し始めた。ついに彼らは将軍の許しを得て駆け降り始めた。焦る将兵に阻まれている間に、いちばん出口近くにおられた両将軍が立ち上がられる。私は遅れじと接近しようとするが、奔流の如く駈け出さんとする将兵10数名が、停止を命ぜられ、出口を塞いでしまった。

ようやく彼らをかきわけ、出口に顔を出そうとする一刹那。轟然一発銃声が起こった。騒然たる状況に敵艦からの砲撃かと思ったが、経理部長自決の拳銃声だったのだ。今度は坂口が両将軍着座の瞬間、手練の早業でちゅうちょなく、首をはねたのだ。停止させられていた将兵は、堰を切ったように断崖の道を降りた。

高級副官、坂口大尉、私の3人は出口に転がっているドラムかんに腰を下ろした。坂口は私に「やりました!」と顔色蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。3人は黙ったまま、ぐったりとなって、白々と明けゆく空を眺めていた。立派な最期、無念の死、かくて激闘3か月、わが第32軍は完全に潰え去ったのである。時に昭和20年6月23日午前4時30分!嗚呼!』(436-438頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 436-438頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/A401336.jpg

1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force; (2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, Commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第24師団: (師団長・雨宮巽陸軍中将)

『…6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、

「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。

師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。』(251頁)

『苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。

しばらくして杉森参謀が報告した。「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」

「うむ」雨宮は短く答えた。壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」その夜動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。

仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。

「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。仁位は説得をあきらめた。夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。

「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世話話をしていた。仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった・・・。

…雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。』(252-253頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 251、252-253頁の「第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記」の内容より》

 

 

そのとき、住民は・・・

「生」を選んだ住民たち

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail62_img.jpg

沖縄戦の絵】「タオルを掲げて」

『…沖縄本島中部の中城村から戦火を逃れて南部の糸満市摩文仁まで来たが、逃げ場はなくなりつつあった。6月23日、…父親は家族で中城村に帰ることを決断。捕虜になる覚悟もしていたのか、タオルを木の枝に結んで投降の旗代わりに掲げた父親が歩き出すと逃げ場を失ってたたずんでいた周辺の人たちも後に続き、30人くらいの列になった。真壁で右足に砲弾の破片を受けた…は、兄と妹の肩にすがって歩いたが(絵の最後尾3人の中央)、わずか300メートルほど歩いたところで米軍の捕虜となった。…戦争で姉と弟、それに妹2人のあわせて4人を失い、兄も爆撃で耳が聞こえなくなった。…自身も足にくい込んだ破片がとれずに何十年もたってから痛み出し、数年前に摘出した。』

タオルを掲げて | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail61_img.jpg

沖縄戦の絵】「父の勇気で家族全員が投降」

昭和20年6月23日、…家族が糸満市真栄平の壕を出て米軍の捕虜になった時の様子。いちばん左側に描かれているのが父親、右隣が…自身。米軍が「何もしないから出てこい。あと1時間後には攻撃を始める」と投降を呼びかけた。父親は、家族や近所の女性たちに声をかけ先頭に立って壕を出た。「前を見てごらん。アメリカの兵隊が来るよ。逃げると撃たれるよ」と言って米兵の方へ近づいていった。初めて見る米兵に、…恐怖で震えたが、住民に水や食糧の缶詰が与えられ危害を加えられないことがわかると、子ども心に生き抜いた喜びがわき上がってきた。』

父の勇気で家族全員が投降 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

「死」を選んだ住民たち

『南部で掃討戦を行なっていたアメリカ軍兵士たちも、追い詰められていく沖縄住民たちの姿を鮮明に記憶していた。…6月、南部の戦場に転戦していた。そこで凄惨な光景を目の当たりにしたという。それは、崖の上から身を投げる住民の姿だった。

「ショックでした。最初私は彼らの背中しか見えなかったので身を隠すために草むらにでも降りたのだと思いました。そばに近づいて見ていると、そこは切り立った崖で地面ははるか下でした。何十メートルもの崖の下を良く見ると、そこは死体だらけでした。兵士も民間人も生きている人は一人もいなかった」

そこには幼い子どもの姿もあったという。

「なぜ自ら命を絶ったのでしょうか。投降するチャンスだってあったはずです。私はアメリカに戻って家族に会いたいと思っていたからこそ、必死で戦い生きようとしました。彼らにだって、家族がいるはずです。日本人の信条や主義があったかもしれませんが、やはり私には理解できませんでした」…「多くの涙と祈りに満ちた戦場だった」』(170-171頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 170-171頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail43_img.jpg

沖縄戦の絵】「摩文仁 身を投げる女性」

『日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる昭和20年6月23日糸満市摩文仁で見た光景。…住民たちと壕に逃げ込んでいた。外は激しい艦砲射撃。中では大勢が血を流して倒れていた。まさに阿鼻叫喚だった。投降に応じた住民もいたが、若い女性の中には捕虜になれば辱めを受けると思い、がけから身を投げる人もいた。こうして海に消えてゆく女性を…何人も見た。』

摩文仁身を投げる女性 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月23日(水)

1945年 6月22日 『アメリカ世(ゆ)の始まり』

アメリカ世(ゆ)の始まり

合衆国がこの作戦に傾注された意志力、献身および物量により、また敵の死闘と相俟って…この戦いは戦史の上でもっとも激烈かつ有名な戦いとなりました…われわれは戦いに参加された貴国の全部隊ならびに各級指揮官に対して敬意を表します。

---1945年6月22日ウィンストン・チャーチル首相からハリー・トルーマン大統領へ』(345頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 345頁より》

 米軍統治

6月22日の朝、米第10軍本部では、第10軍の2軍団、各師団の代表が整列、軍楽隊が〝星条旗はひるがえる〟を奏でる中を、軍旗護衛兵がおもむろに沖縄島の上に米国旗かかげた。旗が上がり、ポールのてっぺんまできたとき、突然、一陣の微風が、さっと吹いて、旗はぱっと広がり、静かな青い空を背景にはためいた。』(514頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 514頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-22-3.jpg

1945年6月22日星条旗掲揚式で、琉球列島沖縄は米軍管理下にあることが公式発表された。沖縄。

A flag raising ceremony on 22 June 1945 announced officially that Okinawa, Ryukyu Retto, was under U.S. control.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 『ガイガー将軍は、6月21日の午後、沖縄の確保を宣言した。翌日、ステビンスの第22連隊第2大隊G中隊から出された小さな分遣隊が、最南端の荒崎の立木の枝に旗を掲げた。それは、2ヵ月前に北端に掲げられた同じ旗だった。分遣隊の一員であった衛生兵…は、自分たち分遣隊はLデイ以来83日間生き残ってきたのだから、精鋭だと思っていた。彼は、第10軍の広報部員たちが、アメリカのシンボルのひとつになっていた、硫黄島の有名な国旗掲揚の報道に匹敵する成功をここでも収めようとしているものと信じていた。ところが、アメリカ国民は沖縄の写真をまるで古いニュースのようにしか受け取らなかった。同じような場面を以前見ていたからである。硫黄島の場合と比べて、沖縄戦は全体的に報道不足で、最後まであいまいだった。もちろん写真では、断崖から飛び降りたり、どこへ行くという当てもなく海に入って沖へ泳いでいった日本の軍人や民間人たちの、ときには血まみれになっている衣類が散乱している場面は報道されなかった

銃後のアメリカ国民は、太平洋のどこかでの勝利を当て込んでいたが、殺し合いは続いた。歩兵たちは、こんな危険な地域がなぜ確保の宣言をされたのか不思議だった。もしかしたら、司令部の参謀たちが、必要なのは残敵の掃討だけだと本当に思っていたためかもしれない。ことによったら、司令部の高級将校たちが国民の士気を高揚したかったのか、あるいは「もうひとつ階級章の星が欲しいどこかの将軍」が自己宣伝をしたかったせいかもしれない。』(348-349頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 348-349頁より》

 

掃討作戦

前線にいた米海兵隊の部隊に沖縄作戦の終了が伝えられたが、同時に、敗残兵の掃討、敵兵死体の埋葬、武器等の収集も命じられた。

『82日間に及ぶ戦闘で疲労困憊した部隊にとって、残党掃討というのは気の重い知らせだった。どう前向きに考えても、神経のすり減る仕事だ。われわれの遭遇した敵は、ただでは死なないとんでもなくしぶとい相手だった。「確率論」の網をかいくぐってどうにか生き抜いてきたわれわれは、怖じ気づいた。グロスター岬、ペリリュー島沖縄本島と生き延びてきて、最後の最後で、洞窟に追い詰められた日本兵の生き残りに撃たれてしまうこともあり得るのだ。われわれにとっては受け入れがたい命令だった。だが、受け入れるほかはない。こうして、敵の死体を埋め、戦場の薬莢や装備を拾っていくうち、われわれの士気の低下は決定的になった。

「まったくの話、こいつらをやっつけたおれたちが、なんだって臭い死体の埋葬までやらなくちゃならないんだ? 後方支援のろくでなしどもに一度、この臭いを嗅がせてやりたいよ。やつらは戦わずに済んだんだから」

「クソっ、薬莢拾いか。こんなにあほらしい、くだらん命令は聞いたこともないぜ」

敵と戦うことはわれわれの務めだが、敵の死体を埋めたり、戦場の後片づけをしたりするのは、歩兵部隊のやることではない。われわれはそう思っていた。みんな渋い顔で、不平不満を隠さなかった。こんなにも長く激しい戦いを続け、ついに勝利を収めた男たちの顔に泥を塗るような行為ではないか。われわれは納得できず、憤慨した。実際、仲間の古参兵数人が命令に従うことをきっぱりと拒否した。初めて目にする光景だった。私も含めた仲間たちが彼らを説得して、下士官との激論をやめさせなければ、命令不服従ということで厳罰を受けていたことだろう。』(458-459頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 458-459頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/97-29-1.jpg

日本兵の狙撃で負傷した海兵隊員を前線から後方へ運ぶ海兵隊員。サトウキビ畑と壕に隠れていた10人の日本兵は殺され、海兵隊員はこの1人が負傷しただけだった。(1945年 6月22日撮影)

Marines carry a Marine wounded by a Jap sniper back from the front lines. Ten Japs hiding in cane fields and in caves were killed and only this one Marine wounded.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の崩壊

牛島・長両将軍のさいご: 自決当日

投稿者注: 第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する】

==========

自決日が1945年6月22日の説

『月が登る直前の午前3時、集まっていた将校のほとんどが、生き残っていた司令部の者とともに丘の上の敵と戦って「名誉の戦死」を遂げるため、洞窟から出ていった。彼らは、敵を司令部の丘から追い落とす決意をしていたが、自分たちを包囲しているアメリカ軍の兵力を現実的に評価した結果、最後まで残った自分たちが下の摩文仁の村を奪回するために攻撃するところを見せながら、両将軍に丘の上で死んでもらおうという当初の計画を放棄せざるを得なかった。それから1時間たって4時を過ぎると、両将軍のさらに短時間の出撃の用意が整った。長は「では、牛島司令官閣下、足下が暗いかもしれませんので、私、長が先に立って案内させていただくことにします」と牛島の了解を求めた。すると、牛島はいつものとおり、武人らしく悠揚迫らぬ態度で「どうぞ、そうしてください。暑くなりましたから、私はうちわをもっていくことにしましょう」といった。』(337-338頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337-338頁より》

http://www.generals.dk/content/portraits/Ushijima_Mitsuru.jpg

第32軍司令官 牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5 

『両将軍は立ち上がった。牛島は沖縄うちわを手にとった。その場に八原大佐の姿がないのが目立った。この冷徹な戦略家は、両将軍と最期をともにしたいと願ったが許されなかった。その代わりに、牛島と長は、軍の作戦の担当者であったこの高級参謀に、脱出して本土に帰り、アメリカ軍の戦法と技術について大本営に報告するように命じた。「貴官が死ねば、沖縄戦の実相を知っている者がいなくなる。一時の恥は忍び、それに耐えてもらいたい。これは、軍司令官としての命令だ」。長は、八原と意見が対立したこともあったが、これまでのロマンティシズムに反するような考え方で、若い参謀や参謀部付きの将校に対して、日本のためにその経験を活用するとともに、沖縄におけるゲリラ戦の指導者として活動することができなくならないように、彼らが自決を思いとどまることを切に望んだのである。それでも一部の参謀は軍司令官のもとにとどまったが、参謀部付の者を含む20数名が、すでに長の指示に従ってひそかに司令部の洞窟から脱出していた。』(337-338頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337-338頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/Cho_Isamu.jpg

第32軍参謀長 長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

『頭上のアメリカ軍の注意をそらす試みが行われている間に、2人の将軍は閉ざされていない、海側に面した洞窟の出入口から出た。そこは自然にできた大きな岩の裂け目だった。牛島は落ちついた態度でうちわを使いながら数ヤード歩いて、太平洋を見渡せる狭い岩棚の上に出た。この様子を目撃したある人物は後に、「死に直面していながら、2人の将軍は落ちつきはらっていた。居並ぶ部下の間を通りすぎていく両将軍の姿は、いかにも不滅の人物であるという感じを受けた」と報告している。第32軍で数少ない沖縄出身の高級将校の一人であったある少佐の義妹が、自刃の儀式に必要な白い敷布数枚と下着を用意していた。敷布のうち一枚は、岩棚に敷いた刺し子の布団の上に敷いてあった。司令部の下の方の動きを察したアメリカ軍は、これらの少数のグループの方向に向けてさらに榴弾を低く投げてきた。しかし、牛島と長はまったく意に介することなく、東の空に向かって遥拝した。ジェイムズ&ウィリアム・べローテは、このときの様子について次のように記述している。

「2人は敷布の上に太平洋に面して座った。岩棚には、北方の皇居の方向に向かって礼式を行うだけの広さがなかったからである。彼らは無言のまま、各々自分の軍服の前をくつろげて、腹部を出した。牛島中将の側には、その副官の吉野中尉が、刃の部分の半分を白い布で巻いた短刀二振りを持って立っていた。高級副官の坂口大尉は軍刀を抜いて、牛島の右側に立っていた。吉野がひと振りの短刀を牛島に渡す。すると、牛島は両手でそれを受け取り、気合一声それを腹に突き刺した。その瞬間、作法どおり、坂口の軍刀が牛島の頸部に振り下ろされてこれを切断し、牛島の体が前方に傾いて敷布の上に倒れた。次いで、長中将の番となり、同じ儀式が繰り返された。」』(338-339頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 338-339頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p469b.jpg

牛島および長の両将軍が自決した89高地

The still smoldering reverse slope of Hill 89, where Generals Ushijima and Cho committed suicide.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

 

第32軍の動向

【投稿者注: 第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する。以下の6月22日の出来事に関しても、米軍側の記録では21日の出来事として記録されている内容があり、前日から既に1日の「ズレ」が生じている】

==========

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

22日未明、第24師団司令部からの最後の下士官伝令が飛び込んできた。その報告によれば、師団司令部は、今や東、西、北の三方から近く包囲攻撃を受けているが、付近に陣する15サンチ榴弾砲が、なお活躍を続けているので、まだ当分は大丈夫だとのことである。この下士官に託された杉森参謀の私宛ての手紙は、藁半紙に鉛筆で大きな字で走り書きしたもので、「いよいよ最期も近づいてきました。参謀殿には、長らくご指導お世話になりました。今度は靖国神社でお目にかかります」とあった。…私は軍参謀の動静を簡単に記し、かつ無限の愛着をこめて、訣別の言葉を送った。そして

     砲声もやがて絶えなむ喜屋武    つわものどもの夢をのこして

の駄句をつけ加えた。伝令は22日の日没を持って、再び死地を師団司令部に向かったが、果たして無事帰還したかどうか知る由もない。』(425頁)

22日の夜が明けて間もなく、摩文仁の部落に猛烈な機関銃声が起こり、3時間ばかり続くと、はたと止んだ。松井小隊が全滅したのだ。さらば松井少尉よ!戦車の走る音が、手にとる如く聞こえ、戦車砲がわが洞窟に集中射を浴びせてくる。…正午やや前、参謀部出口で轟然数発の爆声が起こり、爆煙と土砂が身辺に吹き込んできた。出口の近くにいた数名が、どっと私の方に退る。それ!黄燐弾だと皆防毒面を装着する。よく見ると、出口の阻絶は崩れていない。敵兵の足音と、不敬な笑い声が聞こえる。私はきたな!と思ったので、「秋永中尉!ここは大丈夫だ。中央の山頂出口を固めろ!」と叫ぶ。声に応じて、秋永は駆け出した。

私が、随感手記を便所付近に落としたのを探しに行った勝山が息せき切って引き返し、報告した。「ただ今敵に山頂を占領されました。敵の爆雷が垂坑道から洞窟内に落下して爆発、参謀長室のあたりには、死傷者がいっぱい転がっています」

秋永中尉が駆け出してから、まだ10分も経たぬのに、もうやられたか。垂坑道から敵に侵入されたのでは一大事だ。まず参謀長、軍司令官がいちばん危い。そして参謀部と副官部が遮断され、参謀部の者は進退きわまる。私は蛍電灯を手にして、敵を警戒しつつ、垂坑道上り口に歩み寄った。爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、あたり一帯血なま臭い。

電灯の弱い光で点検すると、上り口の付近に10数名の将兵が折り重なって倒れている。頂上からさらに攻撃を加えられそうな気がするので、十分周囲の状況を確かめた後、意を決して死体を乗り越え参謀長室に突進する。まだ絶命していないのか、私に踏まれた兵士が痛い!と叫んだ。

参謀長室は、無残に吹きとばされていた。長将軍は憮然として、隣の牛島将軍の寝台に腰掛けておられる。避退した将兵は、両将軍を囲んで総立ちになり、 まだ衝撃から立ち直れぬ様子である。

…皆の話を総合すると、秋永中尉は山頂に達するや、直ちに数名の部下衛兵とともに榴弾を交えてことごとく殪れ、第2陣を承って駆け上がった池田少尉以下10数名は山頂に達するに先だち死傷して壕底に転落し、さらに手持ちの手榴弾が爆発して、損害を大きくしたようだ。』(427-428頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 425、427-428頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/%E6%91%A9%E6%96%87%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B8%98.JPG/1920px-%E6%91%A9%E6%96%87%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B8%98.JPG

摩文仁の丘

沖縄戦跡国定公園 - Wikipedia

ついに山頂は敵の有となった。敵はいつ垂坑道から侵入するかもしれぬ。唯一の残された副官部出口は、敵に海上から制されており、さらに山頂の敵から手の届くところとなった。容易に自決の日を示されなかった両将軍も、わがことすでに終われりと観ぜられたものか、今夜司令部将兵をもって山頂を奪還し、23日黎明摩文仁部落方向に玉砕突撃を敢行、牛島中将、長参謀長は山頂において自決するに決せられた

…軍司令官、参謀長の広大無辺な取り計らいで本土決戦参加の命は受けたものの、一軍の高級参謀たるものが、恩顧ある両将軍や幾万の戦友を見棄てて本土に走るのは、真に情において忍び難いところだ。…早や6月22日も夕方に近い。

参謀長は、司令部の最期を見届ける必要はない。機を失せぬうちに、早く出撃せよとしきりにすすめられたが、さすがに私もこの言には従い難く、ここに踏み止まっている。夕刻やや過ぎて、司令部衛兵の1人が泥にまみれてやって来た。彼は対戦車肉迫攻撃隊の一員として、今晩摩文仁高地東麓で、敵戦車を待ち伏せして、その2輛を爆破したが、戦友は皆死傷したという。…確報ではないが、混成旅団、軍砲兵隊の両司令部は昨夜総員斬り込みをしたという。第62師団司令部は依然頑張っているだろうか? もとより知る由もない。最後の夕飯は、暗い洞窟のそこここでいつもと変わりなくひそやかに始まっている。泥水で煮た握り飯1つ、飲む水はすでに一滴もない。』(429-430頁)

『…月未だ出ず、暗黒の谷間には濛気漂い、海上には敵哨海艇2隻が眠るが如く浮かんでいる。…攻撃の部署は、垂坑道方面はたんに監視に止め、副官部出口から電光形の道に沿うて断崖を登り山頂の敵を攻撃することに決まった。…私はこれら部隊のここ数日の間の手並みを知っているので、あまり期待はできぬと考えていた。

高級副官の命令一下、先陣を承った工兵分隊が、一名ずつ匍匐前進して闇の中に消える。…山頂に達したと思うころ、数発の銃声が起こる。数発の銃声が起こる。不思議にも、機関銃声も、手榴弾の破裂音も聞こえない。私は、敵がいつもの手を使い、夜間戦闘を避け、山頂から後退しているのではないかと判断した。

…松原少佐から、正面を避け、断崖の中腹を迂回して攻撃する旨の報告がきた。…攻撃の指揮は高級副官に任せて、洞窟内に引き返そうとすると、坂口副官に呼び止められた。彼は長さ30センチ、幅10センチの板にそれぞれ陸軍中将牛島満之墓陸軍中将長勇之墓と墨書した墓標を見せて曰く、「高級参謀殿、私はいかなることがあっても両将軍の遺骸は収容して、この墓標を建てますからご安心下さい。しかし、その他の人は、たとえ高級参謀殿でも戦死したらそのままにします」と、彼の口調はいつもの親しみがあった。

私は参謀長に、残念ながら山頂の攻略は断念のほかなき旨を報告した。将軍はすでに酒の酔いが回っているらしく、なかなかの上機嫌だ。私の報告など歯牙にもかけず、「まあ一杯飲め」と酒を勧められる。「…お前も俺も横紙破りのわがまま者だったので、苦労を重ねたあげく、今日の運命を甘受するに至った。俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言っていたが、今その約束を果たし得てまんぞくだ。お前の敵線突破は必ず成功する。…」と言って、…先だつものは金だからと、百円札5枚を渡された。

夜半過ぎて、山頂奪回は断念し、両将軍は23日未明、副官出口で自決されるに決し、今両将軍ともお休み中との知らせがあった。』(431-434頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 429-430、431-434頁より》

 

日本兵の行動

『日本軍は、すでに敗北の運命も明らかになりながら、最後の防衛線が米軍の手におちるまで、おどろくべきほどみごとに、兵の士気や軍紀を維持していた。だが、それがいったん崩壊しはじめたとなると、あたかも悪疫がひろがるようにひろがっていった。多くの兵は、すでに首里を放棄したときから、〝最後の勝利〟に対するのぞみを失い、大砲の音も、4月の轟くような大音響が、6月12日までには、早くも、消えるような、かすかな音に変わっていた。小銃の数は兵員にも足りなくなった。ある将官は、「もし手榴弾などが戦場に落ちていたら、各自、それを拾って、自分の武器とすべし」という命令さえ出した。

兵も将校も、どうしてよいかわからないほど、混乱していた。ある捕虜の話によると、兵隊が、部隊名も将校の名前も知らずに隊に入ってくることは、ごくありふれたことだったという。また別の捕虜は、医薬品の欠乏がひどく、治療も、しまいには包帯で巻くだけに止まり、いきおい負傷兵の中には、そのまま自決を遂げる者も出てくる始末だったという。

兵の半分はめくら滅法に闘い、いまや生きのびている期間も、残りすくないことがわかると強姦事件もあちこちで発生した。こういう状態は、国吉丘陵や第153高地が米軍の手におちる前にすでにあったのだが、これら両高地が陥落してからというものは、彼らは日本の作戦は、たとえどんなことがあっても、一時的にせよ成功する見込みはない、ということを認識しつつあった。

だが、こういう最悪の状況下で、将校たちは、米軍の捕虜になった死は免れぬ、と兵隊にいいきかすことによって、軍紀を維持していた。それと同時にまた、部下の兵に味方の逆上陸があるのだ空挺隊がいまにやってくる、6月の後半には、総攻撃を行うんだといいつづけていた。

この話を語りあった捕虜たちの話によると、日本軍は、まず第9師団が台湾から来るし、500機の飛行機も帝国海軍の残った艦隊とともに、総攻撃に参加するというのだった。ただこの大作戦の一つの但し書きは、もし沖縄の日本陸軍が、6月20日までに壊滅状態になったら、逆上陸は中止になり、残存部隊だけが総攻撃をはじめる、ということであった。』(503-504頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 503-504頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/98-16-3.jpg

監視のもと、島の南端から列をなして進む捕虜。

POWs being marched under guard from the southern tip of the island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail30_img.jpg

沖縄戦の絵】「家族の悲劇」

『…父、母、妹、弟とともに、西原町から沖縄本島南部へ避難した。砲火をくぐり抜け、やっとの思いで糸満市真栄平までたどり着いた時、1発の砲弾が近くでさく裂。弟は頭に破片を受け即死。父も腹部に破片が刺さり、お腹を押さえて倒れこんだ。母もけがをしたが、幼い弟を抱き上げ「アイエナー、チャースガヤー(どうしよう)」と言って泣きながら取り乱していた。弟のそばには妹が駆け寄り泣きじゃくった。…自身も破片を受け右腕が腫れて感覚が無くなっていたが、苦しむ父にしがみつき「お父ー死なんけー」と呼び続けた。父と弟を何とか近くの家に移し寝かせたが、2人は間もなく息を引き取った。父は死に際に「私に構わず早く逃げなさい。娘たちを頼む」と母に言い残し、母子3人は後ろ髪を引かれながらその場を後にした。3人はその後、糸満市の喜屋武岬付近で米軍の捕虜となった。父と弟が亡くなったのは昭和20年6月22日、日本軍の組織的な戦闘が終わる前日のことであった。』

家族の悲劇 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月22日(金)

1945年 6月21日 『米軍の「沖縄作戦」終わる』

米軍の「沖縄作戦」終わる

沖縄作戦は82日間にわたる戦闘の後、1945年6月21日に終わった。豪雨と困難な地形に加えて、狂信的な敵が複雑な洞窟網に拠って頑強に抵抗したため、この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつとなった。

---「沖縄作戦の主な戦訓」と題する秘密報告』(345頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 345頁より》

摩文仁(まぶに): (米軍呼称: 89高地)

『アメリカ第7師団所属の部隊は、戦闘しながら89高地を登っていった。その著名な高地は、海面からほぼ垂直に200フィート以上の高さまで盛り上がった隆起珊瑚礁の丘である。鋸の歯のような頂上には、一面にごつごつした岩や亀裂が散在しているので、日本の狙撃兵や擲弾筒手、使用可能な機関銃をもっている少数の機関銃分隊にとっては、理想的な陣地となっていた。必死の覚悟で配置についていた彼らは頑強に抵抗した。火炎放射用戦車は、彼らを焼き払うために5千ガロン近くのナパームを使用した。そして、6月21日、ついにその頂上を奪取し、余すところは牛島の司令部を中心とする地域だけとなった。

その洞窟には入口が2ヵ所あった。』(336-337頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336-337頁より》

『地下壕への入口の1つは、およそ長さ500メートルほどもある、この丘陵の頂上の中央にあった。そして、別の入口は、海に面した高さ90メートルほどの断崖絶壁のところに、口をあけていた。

米軍の前線部隊の先頭がこの入口にとどいたのは、6月21日の正午ころだった。』(510頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 510頁より》

http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/photo/20080930115752.jpg

沖縄県平和祈念公園について

『第7師団の第32連隊に捕獲となっていた1人の日本兵が、牛島に最後の降伏勧告を行うことに同意した。彼は陸地に面した入口に接近し、大声で米軍側の言葉を伝えた。すると、内側からの爆破でその入口は閉鎖された。次の爆破は、通風口を発見した米軍側が仕かけたもので、将兵10名の命を奪った。これは、4月1日以来82日間、毎日平均2500名以上の戦死者を出しながら命令を起案していた第32軍の参謀部としての最初の死傷者であった。』(336-337頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336-337頁より》

摩文仁の守備軍洞窟司令部内には、まだ守備軍首脳は健在であったが、すでに摩文仁部落も司令部のある89高地もホッジ陸軍少将指揮下の米第24軍団の手中に陥ち司令部壕の入口は、火焔放射戦車と爆撃班の攻撃を受けて破壊されていた。』(202-203頁)

『…第10軍司令官ガイガー中将が沖縄島は米軍によって確保されたと発表したのは6月21日午後1時5分で、沖縄本島だけに限っていえば82日間の激しい流血の戦いの末であった。』(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202、202-203頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-03-1.jpg

第6海兵師団にとらわれた日本兵。沖縄。(1945年6月21日撮影)

Japs captured by 6th Marine Division, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1945年6月21日午後、われわれはアメリカ軍最高司令部が沖縄作戦の勝利を宣言したことを知った。われわれにはニミッツ提督の賛辞とともに、新鮮なオレンジが2個ずつ与えられた。私はそのオレンジを食べ、パイプ煙草をふかし、美しい紺碧の海を見渡した。陽光が水面で躍っていた。81回もめぐった昼と夜を経て沖縄の戦いがようやく終わったことが、まだ信じられなかった。このままゆったりと夢想に浸りたい気分だった。一刻も早く船に乗って、ハワイで休養と心身のリハビリを・・。

「おいみんな、そういう噂だぜ。ほんとうだ。おれたちハワイに行くんだってよ」。仲間の1人が顔をほころばせて言った。だが、ライフル中隊で日々つらい試練にさらされ、すっかり疑い深くなっていた私は、すぐに信じる気持ちにはなれなかった。そしてその直感の正しかったことが、まもなく証明された。

「荷物をまとめて、武器を点検しろ。散兵線を敷いて北へ戻っていく。まだ降伏していないニップが1人でもいないか、しらみつぶしに調べていくんだ。敵の死体は全部埋めていく。日米両軍の装備類は回収する。50口径以上の薬莢も、すべて回収して、きちんと整理する。出発の用意をせよ。以上」』(457頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 457頁より》

 

 

第32軍の動向

崩壊した防衛線

『日本軍の防衛戦は、包囲された真栄平村落を残して、6月21日の夜までには、ほとんどがくずれ去った。いまや、1万5千から1万8千の兵は、沖縄南部海岸の防壁となっている巨大な絶壁の裂け目や洞窟、壊れた建物、あるいは灌木やみぞ、または岩かげにかくれ、あるものは降服の機を待ち、あるものは米軍を避けて少しでも生き永らえようとしていた。そしてその他の将兵、とくに真栄平村落近くで包囲されていたものは、迫撃砲や機関銃を撃ちまくって、死に物狂いに戦っていた。また沖縄で現地召集された者の多くは、ふたたび家族とめぐりあう日の来るのをまちわびていた。』(502頁)

日本軍の損害は、6月のはじめから月半ばまでは、日に平均1千人であったのが、6月19日には、約2千人にはね上がり、さらにその翌日には3千人、そして21日には4千人以上に達した。日本軍のこの恐るべき戦死者数は、日米の力の均衡が完全に破れたためであった。追いつめられ、傷ついた兵隊の多くは、持っていた手榴弾を腹にあて、自らをこっぱみじんにして死んでいった。』(507-508頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 502、507-508頁より》

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

21日の戦況はいよいよ混沌としてきた。夜が明けるとともに、敵戦車群は、例の稜線を越えて摩文仁部落に侵入、さらに西北進して小渡付近を西面して防御する友軍の背後をも衝くに至った。』(422頁)

『私は摩文仁高地が直接敵の攻撃を受けるのは時間の問題と思い、司令部洞窟の3つの出口のうち、最も弱点である参謀部出口の閉塞を命じた。幸い洞窟内に、爆破した岩石が堆積していたので、これを利用して通信所長の工兵中尉が、衛兵、通信手、当番兵等を動員し、深さ5メートルの阻絶を数時間を出でずして完成した。』(423頁)

『この夜、参謀総長陸軍大臣連盟の訣別電報を入手した。電文は、「第32軍が人格高潔なる牛島将軍の統率の下、勇戦敢闘実に3か月、敵の首将シモン・バックナーを殪し、その麾下8個師団に痛撃を加え・・」に始まり、「貴軍の奮闘により、今や本土の決戦の準備は完整せり。敵もし本土に侵冦せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」と結んである。昨夜の方面軍司令官の感状に引き続き、今夜の電報である。両将軍はもちろん洞窟内将兵ことごとく満足である

アメリカ第10軍司令官バックナー中将の死は、我々にとっては初耳であり、驚愕すべきビッグ・ニュースであった。私は、わが軍司令官の自決に先だち、敵将を討ち取ったことに、無上の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。むろん参謀長は躍り出さんばかりであった。だが、牛島将軍はと見ると、一向に嬉しそうになく、むしろ敵将の死を悼むかの如く、私どもの喜ぶのが当惑そうである。以前我々が将軍の前面で、人の批評をした際、困ったような顔をされるのが常であったが、それと同じである。私は今更ながら、将軍は人間的には偉い人だと、襟を正さずにはおられなかった。』(424-425頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 424-425頁より》

『その晩、生き残っていた軍の参謀と、大きな損害をこうむった歩兵および砲兵の各部隊の長とともに送別の宴が行われている洞窟の上で、アメリカ軍の手榴弾の炸裂する音が続いた。牛島は軍服の正装に威儀を正し、長は白い着物を着ていた。2人は来客一同とともに日本酒で乾杯し、みそ汁、魚肉だんご、缶詰の肉、米飯、キャベツ、ジャガイモ、パイナップルといった料理とお茶で会食した。両将軍はまた、ブラック・アンド・ホワイトの残りも賞味した。これは、依然としてスコッチ好きであった長が、首里から自分でもってきたものである。長い曲がりくねった洞窟のさらに奥の方で、司令部の部員たちが、天皇に命を捧げるという荘重な古歌のひとつで国家のようになっている「海ゆかば」を歌った。』(337頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337頁より》

=========

投稿者注: 第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する】

 

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊)

第5砲兵司令部に配属された学徒の体験談:

『「…19日夜摩文仁で斬込隊に加わった。ある大男が逃げようという。『いまさら何だ』と短剣を抜いて飛びかかった。あやうく上等兵にとめられた」

摩文仁の丘の上に50人が集まった。その中に一中の同級生が3人、一期後輩が7人いた。榴弾を4発持って身構えた。鉄カブトの穴から入る風がヒューヒューと鳴った。跳ね弾がピュンピュンとあがる。右手にかん声があがって斬り込んでゆく」

「明け方、敵の戦車が火焔放射を浴びせかけてきた背中に火がつく。あおむけにひっくりかえって背中を地面にこすりつけて消す。壕に飛び込む。だれかが重傷兵の口に銃口を入れて天皇陛下万歳』をいわせてとどめをさした。いま1人の重傷兵は『アンマヨー』と叫んだ。母親への最後のメッセージだ。米軍の削岩機のひびき。馬乗り攻撃をしかけてきたのだ。私は胸に爆雷の衝撃を受けてのたうちまわった。友軍の兵隊が顔、胸、腹をふんづけて出ていった」

「朝、銃声はない。体じゅうが痛い。やっと頭を上げると米兵が3人、うむをいわさず私を引きずり出した。6月21日だったか、22日だったか。生き残りは私一人だった」』(196頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 196頁より》

 

日本兵による虐殺

『…1945年6月21日未明糸満市真栄平では米軍の猛攻撃で逃げ場を失った日本兵が住民の壕を奪い取ろうとして住民十余人を日本刀で虐殺したという。…2つの壕があった。』(208頁)

住民2人(従兄弟同士)の証言:

『「様子がおかしいので外へ出て見た。そうすると、母たちがいる壕に日本兵3人が手榴弾を投げ込んで、煙がもうもうと立ち上がっていた。壕から人を追い出すつもりだったのだろう。幸い、死者は出なかった」

「静かになったので、壕の中の者は死んだ、と3人の日本兵は思ったらしい。3人は、私たちの壕へやってきた。『アメリカ兵がそこまできている。おれたちを壕に入れろ』という。外にいた私たちも壕の中へ入ろうとすると、彼らは手榴弾を壕の中に投げ込んだ。ひたいにけがしたので、ひっくりかえってバタバタして、そこにあったゴザをかぶって死んだふりをした

「おじ…と弟…は日本兵にひっぱられて、近所ですわらされ、日本刀で斬られた

「三番目の姉とその2人の子は、隣の…ハルさん方の壕にいた。日本兵の声に、ハルさんのお母さんが返事をして顔を出すといきなり首を斬られた。首が姉のところに飛んできたらしい。姉は暗がりで何かコロコロしたものが、と思って外へ出たら、体に血のりを浴びた。ハルさんの弟と妹3人も日本兵に斬り殺された」』(208-209頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 208、208-209頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325723.jpg

軍政府が具志頭に設置した病院でうじのわいた足の傷の手当を待つ少女

(1945年 6月21日撮影)

A native girl with an injured foot crawling with maggots, awaits medical treatment at the hospital set up in Guchican, Okinawa, by the military government. A medic treats the wound.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325935.jpg

第32歩兵連隊の区域で座り込む怪我を負った子供(1945年 6月21日撮影)

The wounded child sits in a sector of the 32nd Inf. Regt.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325934.jpg

前線から負傷した地元の少年を運ぶ第32歩兵連隊ヴァンシー中尉(1945年 6月21日撮影)

1st Lt. Kenneth T. T. Vancie, 2735 Jackson St., Corvallis, Ore., Co. H, 32nd Inf. Regt., carries a wounded Okinawan boy from the front lines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325933.jpg

傷の手当を待つ少女。具志頭では軍医によるこのような治療が多く行われた。(1945年 6月21日撮影)

A young Okinawan girl waits to receive medical treatment. The military government's doctors are treating a number of such cases at Gushikhan.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月21日(木)

1945年 6月20日 『方面軍からの感状』

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/95-19-3.jpg

ピカピカの威容を誇る、丘の上に建つ日本帝国で初の海兵隊売店。営業開店の直前に撮影。この場所に“おやつ”や戦場でのごちそうなどを求めて列をなす海兵隊員の姿がないのは珍しい。(1945年6月20日撮影)

The first Marine Post Exchange in the Japanese Empire stands in pristine glory on an Okinawan hilltop. This photo, taken shortly before the first days business began, shows the place of business in an unusual light; no Marines crowd the waiting line for ”pogey bait” and other in the field delicacies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/328537.jpg

キング通りと1号線の交差点にある米陸軍補給地区1に積まれた交換用部品の箱。(1945年6月20日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍 

6月20日の午後、第32歩兵連隊は(摩文仁岳)の東端を占領した。そして977人の兵を捕虜にしたが、これは太平洋戦争で、いまだかつて例を見ない数であった。

日本軍は組織を破壊され、絶望のどん底にあった。だが、こういう兵隊たちも、3分の1近くは、死を選ぶよりは降服することを選んだのである。さらに捕虜の話によると、ほかにも多数の兵隊が降服したがっていたが、ついにその機会を得なかったという。』(507頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 507頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/12-41-2.jpg

足にけがを負ってサトウキビ畑に隠れているところを海兵隊の一団に発見された日本兵。(彼は片腕を失いながらも縫合してまだなお日本軍で現役であった)(1945年6月20日撮影)

Jap soldier is found hiding in Sugar field, wounded in leg by some Marine outfit (note he lost one of his arms and it was neatly sewed, and he still was used by the Jap army.)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月20日の夜、われわれは海を見下ろす高台に防衛線を張った。私は珊瑚砂の道路近くに迫撃砲の壕を掘り、一帯を照らす照明弾や榴弾を打ち上げた。ほかの班は、中隊の海寄りの区域を受け持った。

夜になると、あちこちに出没する日本兵との銃撃戦が延々と繰り返された。あるとき、何者かが珊瑚の道を踏みながらやってくる音が聞こえた。真っ暗で何も見えないから、新米の補充兵が声のするほうへカービン銃を2度放ち、合言葉を、と叫んだ。笑い声が聞こえ、敵兵数人が走りすぎざま、こちらに銃弾を撃ち込んできた。そのうちの1発が私の体をかすめ、隣の壕のわきに置かれた火炎放射器の水素シリンダーに命中した。穴のあいたシリンダーからシューッと気体のもれる音がする。

「あれがボカンといくことはあるのか?」。私は心配になって訊いた。

「いいや。水素タンクに当たっただけだ。火がつくことはない」と火炎放射兵が請け合った。

走り去る敵兵の靴音はしばらく聞こえていたが、やがて立て続けの銃声とともに、ぴたりと消えた。K中隊の誰かが連中を倒したのだろう。翌朝、死体の装備をあらためてみると、全員、飯盒のなかに炊いた飯を入れていた---何もかも蜂の巣状態になっていたけれども。』(453-454頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 453-454頁より》

 

米兵の行動

残虐な行為と寛大な行為

『住民に対する残虐行為は…痛ましい出来事ではあるが、第10軍がジュネーブ条約を何よりも尊重することを強調し、ほとんどの部隊に対して人々を救うようにしばしば指示し、ある場合はたえず勧告していたことを明記しないで、言及すべきではない。…多くの場合、自分の命の危険を冒しても殺すまいとした。黄燐手榴弾や破砕性の手榴弾の代わりに、煙幕を使ったのも一例である。これは中にいる住民の家族のためにしたことであったが、その中に兵隊が混じっていたら、撃ち返す楽しみを与えたかもしれなかった。

アメリカ兵の多くが、条約の要求をはるかに超えて人間的行動をしたことも、くりかえしいう価値がある。民間人に対する自発的な慈善行為親切な行為の中には、個々の戦闘員が自分の背嚢を空にして子供たちに食べさせたり、部隊で少年を養子にして軍医部のマスコットとして可愛がったり、日本人の負傷者を助けた同じ軍医たちが、きわめて困難な状態のもとで沖縄の数人の赤ん坊の分娩を助けたことなどがあった。兵がキャンディ・バーや煙草や食糧の缶詰を渡している写真は、嘘ではなかった。アメリカの国民は男たちの寛大さを信じて間違いなかったのだ。避けられる時に民間人を撃つなどもってのほかで、たいていのアメリカ人は自分の本能に従い、ありのままに寛大であった。』(323頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 323頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/128800.jpg

捕虜として連れてこられた赤ん坊を抱く海兵隊員。赤ん坊は306人の地元民とともに第6海兵師団によって1日拘束されていた。(1945年6月20日撮影)

Marine holding baby that was taken prisoner with the 306 natives that were corralled in a day by the 6th Division.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…しかし、残虐行為を完全に無視することは、実質的にすべての戦史はそうしているようだが、戦争を評価しすぎており、まやかしの話になってしまう。』(324頁)

『…強姦は残虐行為の資格充分であり、多くの事例があった。民間人の婦人を犯すことは、多くの部隊は認めなかったが、もっとも頻繁に起こる犯罪に含まれていた。ある兵は、「沖縄の婦人に触れた者はその場で処刑する」という将校の警告を充分に承知していたし、そういう脅しを必要としなかった。しかし、その他の個人、グループには違った行動をする者もいた。また、アメリカの戦史は、彼らの犯罪を無視している。』(325頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 325頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-19-4.jpg

顔立ちのよい沖縄女性の髪をくしけずるコンスタンティニディズ1等兵

PFC Criton P. Constantinides of 1035 Rosewood Drive, Atlanta, Ga. is shown combing comely Okinawan girl's hair.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

20日の払暁、砲撃声静かな一時、数十名の避難民摩文仁の部落を三々五々港川方面に落ちて行くのを見る。あまりに長閑な風景に、これが激戦場なのかと気合が抜けてしまう。だがこれはほんの暫しの茶番劇に過ぎない。今日はいよいよ乱戦だ。やがて敵戦車20数輛が、東方のなだらかな稜線を越えて、摩文仁高地に集中射を加えながら徐々に接近して来る。摩文仁東方および北方近く、彼我歩兵の機銃戦が漸次高潮に達する。第24師団方面は、真栄平東北高地、米須、さらに近くは小渡付近にまで敵戦車群が侵入しきたり、彼我戦線は、図上に記入して弁別することができなくなった。摩文仁部落の周辺を、さんざん暴れ回った敵戦車群が、東方稜線の彼方に後退し、姿を消すとともに20日の日も暮れた。日没後間もなく、砂野がやってきた。』(418-419頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 418-419頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126978.jpg

壕を出て北へ向かう地元民の驚くべき光景。(1945年6月20日撮影)

Shots of the terrific civilian situation,  as civilians move north from their caves.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『いよいよさいごの段階も目前に迫った6月20日摩文仁の守備軍司令部壕内では、八原作戦参謀と砲兵隊高級部員の砂野中佐とのあいだでつぎのような会話が交わされた。「沖縄敗るれば、祖国もまた亡ぶ。日本の将来は見すえているのに中央指導者たちは、ほんとに文字どおり滅亡の途をえらぶであろうか。もし降伏するならば、無力化したわが無数の将兵が、未だ全死しない間に降伏して欲しい。否、わが指導者たちは、その本能から自己の地位、名誉、そして生命の一日でも存続を希望してわが将兵の2万や3万を犠牲にしても、意に介しないのであろうか」と。しかし、こうした議論が遅きに失していたことは、あまりにも明白であった。

両参謀は、また、守備軍首脳の自決問題についても話題にした。砂野中佐は「おやじたちは洞窟で自決すると珊瑚岩が固くて埋めることができぬ。それに敵にすぐ発見されるし、さらに腐った死体が残ると無様だ。断崖の上で自決してもらい、遺骸はそのまま東支那海に投じて水葬した方がよい」と言い、八原参謀もこれに賛成、残存の将兵を挙げて摩文仁岳山上から摩文仁部落方向に突撃し、牛島司令官と長参謀長はこれを目撃しながら丘の上で自決するという筋書きの玉砕計画をたてた。』(205頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 205頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p469a.jpg

沖縄における日本軍最後の陣地は89高地であった。米第7師団第32歩兵連隊が占領したのは丘陵の東側。(丘の左側が東方)

LAST JAPANESE COMMAND POST on Okinawa was Hill 89. The 32d Infantry, 7th Division, attacked up lower east end (left).

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

八原高級参謀の回想:

『…2人は大胆に、心ゆくまで語り続けた。…砂野を送り、感慨尽きて独りうつらうつらしていると、電報班長大野少佐が、方面軍から感状がきましたと叫びながら駆けてきた。まだ3分の1ほど翻訳ができておりませんが、と差し出す電報を読んで、私は歓喜した当初から敗れるに定った戦闘、---本土のための戦略持久戦---であり、善戦よく任を尽くしたと確信してはいたが、それにしても心から湧き出る新しい喜びは禁ずることができぬ。

…私は翻訳の終わるのがもどかしいばかりにして参謀長室に急いだ。狭い通路上に、相も変わらず惨めにも折り重なって、充満する将兵たちの顔にも辛苦に報われた歓喜の色が輝いている。

…灯を消して、横臥しておられた参謀長は、すぐ起きあがり、ロウソクに灯を点じて差し出し、貴官読んでくれと言われる。起き直られた司令官も、ここで聞いてるよと申される。副官、当番兵そして数名の女性も、目を光らしてこっちを注視している。

「陸軍中将牛島満統率の下、3月25日以降沖縄島に上陸せる敵に対し、熾烈な砲爆撃下、孤立せる離島に決死勇戦すること三閲月、この間よく部隊の精強を発揮し、随所に敵を撃砕して、これに甚大なる損耗を強要し、もって中外に皇軍の威武を宣揚せり。しかも敵海上勢力を牽制し、わが航空作戦の戦果獲得に寄与せる処また大なり・・」と私は感激を抑えつつ、静かにゆっくりと読んだ。聞き終わられた両将軍は、しばらく瞑目、何事も申されなかったが至極満足そうである。私は参謀長の枕頭にあった通信紙と鉛筆を借り、立ったまま返電を起草した。

「四囲を圧する敵軍に対し、残兵を提げて、最後の突撃を決行せんとするこの劇的瞬間において、茲にわが第32軍に感状を授与せらる。真に感激の至りにして、光栄これに過ぐるものなし。沖縄の島を血に染めて、殪れし幾万の英霊はもって瞑すべく、今なお孤塁に拠りて、血戦を続ける残存将兵も、また感奮を新たにすべし。茲に謹みてお礼申し上ぐるとともに、掉尾の勇を振るいて、敢闘し閣下のご期待に背かざらんことを誓う」

参謀長は横臥したまま、3回ばかりこの電文案を私に繰り返し読ませた後、「・・授与せらる」の次に、「これ方面軍司令閣下、参謀長閣下ならびに閣下各位の懇篤なるご指導ご援助の賜物にして、親父の温情肺肝に徹す」の句を、また「・・敢闘し」の次に、「上聖慮に副い奉り」の句を挿入するよう命ぜられた。感状文は千葉准尉に命じて複写させ、決死伝令をもって隷下諸兵団に伝達した。乱戦の間、遺憾ながら第一線の将兵に徹底したかどうかは確信がない。』(420-422頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》

 

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『ここ数日の混戦・乱戦のうちに麾下の諸隊とは全く連絡が途絶え、…聯隊本部に出した伝令も1人として帰って来る者はいなかった。…後方には第62師団がいる。あと1日、もう1日と思っているうちに、2日間が過ぎた。このたった2日の間に、米軍の主力は南下していき、国吉台への攻撃の手を弛めていた

20日には、まず独立速射砲大隊と連絡が取れた。そして夜を迎えるたびに、諸隊との連絡が回復した。

機関銃中隊と大隊砲小隊を合わせて約40名が、かつての前進陣地だった照屋陣地に集結し、機関銃中隊の一部約10名が依然として国吉台で頑張り、配属の第2大隊約30名も生存していた。しかし兵器は破壊され、わずかな小銃を残すのみで、傷病者だけとなっていた。ちょうどその頃、他部隊の沖縄出身の兵1名が紛れ込んできて言った。

「自分は最南端の山城から昨日逃げてきました。敵はそこにもやって来ています

伊東は耳を疑った。

そんなバカなことが・・・

一昨日まで、多くの敵が国吉台の周辺にいたのだ。南方には第62師団がいる。何を言うかと取り合わなかった。

しかし実際は、軍の右翼を防御していた混成第44旅団は6月10日頃から崩れ出し、第62師団が救援に赴いていて山城にはさしたる兵力がなかった。米軍は伊東たち歩兵第32聯隊が守る陣地を突破してからは、ほとんど抵抗を受けずに一路南下していったのだった。』(249-250頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 249-250頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/CSI/CSI-Okinawa/index_files/113.PNG

1945年6月10日〜19日の戦線、喜屋武半島。

Battle line on the Kiyan Peninsula, 10-19 June 1945

Japan's Battle of Okinawa

 

捕虜になった日本兵

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-02-1.jpg

3体の日本兵の死体を見つめる米海兵隊員と、我でなくてよかったと見つめる日本兵捕虜。写真は沖縄戦最後の日に撮影された。(1945年6月20日撮影)

Marines look over three dead Japs while another Jap prisoner watches and considers himself lucky. Note the photos were taken on the final days of S. Okinawa operations. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-06-3.jpg

1日に306人という記録的な数の捕虜を連行した第6海兵師団とその捕虜のいる収容所の様子。沖縄。(1945年6月20日撮影)

General shot of 6th Marine Division Stockade showing prisoners of a record haul of 306 corralled in a day by the Division. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

ある少年の体験談:

『「20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く見えました。数百メートル先の丘には米兵の列が見えるが、タマは来ない。『戦争は終わりました降服しなさい。男はふんどし1枚、女は着のみ着のまま百名知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えられます』と米軍が放送します。上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさまはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう1人の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動きもできず、声も出ませんでした」

「敵はありとあらゆるタマを撃ち込んできます。迫撃砲弾、榴散弾、機銃弾、火焔放射。絶壁を降ります。岩の角、木の根をつかみながら・・・、しかし海の中へ落ちてしまいました。海岸にたどりついたのは20日の正午ごろでしょう。8人が集まりました。おじは『港川へ突破しよう』といいます。私は『あぶない、行かない』と答えます。おじは『子どものくせに』とカンカンにおこります。私だけは岩の上にすわり込んで動きませんでした」』(189頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 189頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126644.jpg

カムフラージュされた溝で発見された地元民。収容所へ連れて行かれ、治療を受け、食糧の支給を受けた。(1945年6月20日撮影)

Civilians are found in a camoflaged gully. They were sent to the compound where they were given medical attention and food.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『島の南端では、民間人の集団が、あちこち断崖の下の隠れ場や水際から突き出ている丸石の後ろに隠れていた。子供連れの集団は、いつ日本兵が接近してくるかということをとくに気づかっていた。』(366頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 366頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126977.jpg

壕を出て北へ向かう地元民の驚くべき光景(1945年6月20日撮影)

Shots of the terrific civilian situation, as civilians move north from their caves.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

1945年 6月19日 『無敵皇軍参謀たちの最後の姿』

新・第10軍司令官

『バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス・M・フランク『沖縄』)。もっともその後6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。』(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》

http://ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Okinawa/img/USMC-C-Okinawa-p6a.jpg

MajGen Roy S. Geiger

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進する米軍

『アメリカ軍が89高地と称していた牛島の洞窟のある断崖は、摩文仁の南約400ヤードにあった。これは与座岳と八重瀬岳および国吉の大地を結ぶ最後の抵抗線から南に約1マイルの地点にあった。』(335頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 335頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-54.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

最後の追い込み

日本軍の保持している地域はほとんどなくなり、これまでどおり空軍による大量の爆撃や海軍の艦砲支援射撃を集中すれば、友軍に損害を与えるおそれがあったので、陸軍の指揮官たちは海空軍の支援を要請することを躊躇していた。そのため、将兵は疲労していたにもかかわらず、日本軍の最後の抵抗を歩兵の近接戦闘によって排除しなければならなかったのである。ある戦史家は、この時機における戦闘についてこう述べている。「彼らは、火炎放射器や爆破により、あるいは戦車を使用して、抵抗拠点の一部を奪取するか、これをいくつかの小さな陣地に分断し、人が無数の蛇を踏みつぶすように日本兵を一人残らず殲滅するという方法で、これをやってのけた」』(336頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/85-36-2.jpg

日本軍壕を攻撃する火炎放射戦車。この真栄里高地での戦闘で、2つの壕が焼け落ち、少なくとも5人の日本兵が死んだ。(1945年6月19日)

Flame throwing tank operating against Japanese cave. Two caves were burned out with at least five Japanese killed. The action took place on Mezado Ridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米兵の行動

復讐という虐殺 ②

『手を挙げていた者、あるいは、手を挙げようと思っていた者を殺すことは、必ずしも残虐行為ではなかった。アメリカ軍の歩兵で、それまでの本人の道徳的信条がどうであろうと、多少なりとも怪しいところがあると思われた日本兵を射殺しないと自分がやられる、ということに疑問をもっている者はいなかった。彼がアメリカ兵を殺すかもしれなかったからである。このような考え方は、沖縄における仮借のない現実を反映していた。それは、必ずしも人種にもとづく憎悪やその他の憎しみを反映したものではなかった。多くの者はたんに、任務をやり遂げねばならないと承知していただけである。しかしながら、それにもまして、武装していない者や武装していないと思われる者に対して、歩兵が引き金を引いたのは、たいていの者が疲れ果て、恐怖におののき、自分たちの軍の戦死者を悼む気持ちでいっぱいだったからである。』(311頁)

『…第一線にいるほとんどのアメリカ兵の気持ちは、だいたいいつもはっきりしていた。戦友との絆は、彼らを撃った者への憎しみにつながるものだった。日本に対して一般にどのように感じていたにせよ、彼らは個人的に愛していた者を殺した日本人をひどく嫌った。ある者はこう語った。「私は以前は日本人を嫌っていたわけではなかった。いちばん親しい戦友がばらばらにされて横たわっているのを見た瞬間に、憎しみが湧いてきたのだ。毎日一緒にいた男、愛した男が死んだのだ。私はあの畜生どもを憎んだそれは今日まで続いている。私は戦友が殺されるのを見たんだ」』(312頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 311、312頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/97-29-2.jpg

傷病者輸送車から注意深く負傷兵を持ち上げる担架運搬者。兵士は重傷を負っている。赤十字の現地責任者は患者の顔に酸素マスクをあてている。赤十字の人々は負傷兵のためにたくさんのタバコと“コーク”を持っていた。(1945年6月19日撮影)

Stretcher bearers gently lift casualty from ambulance. He is badly hurt. A Red Cross Field Director adjusts an oxygen mask to the patient's face. The Red Cross had plenty of cigarettes and ”cokes” on hand for the wounded.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

真栄里での虐殺

『米第10軍司令官バックナー中将が戦死した翌日の1945年(昭和20年)6月19日午後5時すぎ、…良正さん(当時27歳)は米兵につかまり、射殺されたのち、戦車にじゅうりんされた。場所は同中将戦死の丘から東北約千メートル。』(203頁)

良正さんの妻の証言:

『「19日夕方5時から6時ごろでした。…壕にかくれていたのですが、捕虜になることを決め、夫らといっしょに壕を出ました。夫は防衛隊員でした。具志頭村方面に行っていたのですが、けがをして村に帰ってきていました。戦闘帽をかぶったままでしたので米兵が日本兵扱いをしたらしいのです。米兵はまず日本兵と沖縄の住民を引き離そうとしていたようです。夫はそれに抵抗しようとして鉄砲で撃たれました・・」

撃たれてピクピク動く夫にとりすがった義弟…は、銃剣を構えた米兵に足蹴にされた。そのとき戦車が夫を轢き去って、南の方へ行った。夫はあとかたもありませんでした」』(203頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 203頁より》

国吉での虐殺

『…「そこ、そこ」と指さしながら恐怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。日付は1945年(昭和20年)6月19日と推定される。バックナー米第10軍司令官戦死の翌日であり、国吉は…中将戦死の真栄里とは隣接集落である。

「私は…戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、首里からの退却部隊とごっちゃになり混乱していた。時どき、自宅の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の5人だった。自宅に帰って4、5日目の午後3時ごろ、5人の米兵が屋敷に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男はこれがもとで間もなく亡くなった。5人の米兵は南隣りの屋敷へ入って行った」

「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るようにせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵7、8人が隣の屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とどなる。出てきた男たちは一列に並ばされるパンパン、バタバタ・・・。ひんぷん(屏風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)のかげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタバタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背筋の凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。』(205頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 205頁より》

 

戦利品への執着 ②

土産物狩りの兵は、彼らの収穫を戦場に持ち込んでは規則を破り、時には自分の荷物を軽くするために、装備として必要なものまでも処分して、また規則を破った。戦闘の緊急事態で持ち物を捨てなければならなかった者は、非常に残念がりながら従った。略奪に対する不合理な執念は、ある程度は自分の生存確認のためでもあった。

収集家」は配置換えになっておびえている若い兵だった。目標にしたものは、そこに行ったこと、また恐ろしい日本兵との戦いという地獄からの生還を立証するものであった。それはまた、日本人が完全な人間ではないという見解に由来するものであった。他には何の価値もない土産物が、他の種のもの、他の惑星のものであることに価値があったのだ。』(318-319頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 318-319頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/128868.jpg

拾った日本軍の軍服を着てポーズをとるティロットソン軍曹(1945年6月19日)

Corp. John A. Tillotson, Morristown, New Jersey, poses in a Jap uniform found on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

『牛島は…6月19日に、彼の軍に次のような一般命令を出した。

「全軍将兵の三ヵ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり   然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る   既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり   爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし

この最後の指令は、漠然とした表現が用いられているという点において典型的なものであったが、解釈する必要はなかった。命令の趣旨は「自己を犠牲にせよ」ということである。』(335頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 335頁より》 

鉄血勤皇隊を遊撃戦に投入

前日18日、第32軍は最後の命令を出した。それは、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁の軍司令部壕では、軍服を脱ぎ捨て、民間人になりすまし、偽名や偽の職業なども考えられ、北部を目指すための準備が進んでいた。一方、参謀の中には、沖縄島を脱出し、本土へ渡って戦況を大本営に報告するという任務が与えられた者もいた。

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

19日の夕迫れば、参謀室内は異常の重苦しい空気に包まれる。人々は多くを語らず、ときどき低声私語するのみである。軍司令官、参謀長への申告を終えるや、彼らは出撃の服装にかえた。両将軍の自決に立ち会い、軍司令部の最期を見届けた後、なおもし生あらば、新任務に就くべしと深く決意している私に対し、若い参謀たちは、私の運命を優しく労わる如く、万感罩めてお別れの挨拶をした。そして矢張り両将軍を残して、去り行くのが気に懸かるのか、口を揃えて軍司令官、参謀長のお世話をよろしくお願いします、と言った。私もこの若い人々の、武運長久を心から祈り、そしていかなる危難に遭遇しても、不屈不撓、特に功を急ぐことなく、人知を尽くして任務を遂行するように注意した。

いよいよ出発の時間だ。だが通路両側の寝棚に腰かけて待機したまま、一同は重くロウソクの灯に影を落として容易に動こうとしない。心なしか、今夕は摩文仁高地に、吼え狂って落下する砲弾がとくにひどい。ときどき至近弾に洞窟の側壁が崩れ、灯も消えなんとする。かくてはあらじと思ったのか、いちばん若い長野が、「私が先頭を致します。皆様万歳‼︎」と叫び、決然として、洞窟の外に突進した。これをきっかけに、三宅、薬丸、木村の順序に、数分を間して、次々と死の出撃を了し終わった。』(417-418頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 417-418頁より》

 

鉄血勤皇師範隊: 沖縄師範学校男子部

大田昌秀の体験談:

『私は、増永隊長に報告のため、軍司令部の壕へ駆けつけた。…一歩壕内に入った途端、私が全身で受けとめたものは、まぎれもない「敗戦」の実感であった。

骸骨のように痩せ衰えた将兵が狭い壕の両側にうごめき、嘔吐を催す膿臭と血の匂い。…流通に悪い湿った熱気。そして呻きとも嘆きともつかぬ声が、洞窟の低い天井に重苦しく交響し、…その様は、まさしく地獄絵図だ。その中を通り抜けて、混乱に中をようやく増永隊長を探し当ることができた。私はそれまでの経過を逐一報告した。すると隊長は、伝令のことについては一言も触れず、

お前たちは本日を以って一応解散せよ。そして国頭へ集結して時機を待て。今後はいかなるところにあっても、召集がある時は、ただちにやってこい。万一敵に捕まっても、決して死んではいかん。そして常に敵の背後に出て工作することを忘れるな。いいか、わかったか。よし、帰って皆に伝えろ」というなり、あわただしく壕の奥へ消えた。

解散」一瞬、私はガーンと一撃くらわされたように、めまいがするのを感じた。

…すると、垂直坑道に出る奥の軍司令室の方から、金モールの参謀肩章を肩から胸に吊った第一装の参謀たちが、つぎつぎに姿を現した。…そしてしばらくすると、長身の薬丸情報参謀三宅参謀木村後方参謀が、地元住民の黒い着物に着替えて出てきたのを見て私は唖然とした

参謀たちの透きとおるばかりの白い手や毛脛が、民間人の着物から不恰好にはみ出し、日頃の威風堂々たる風彩とはまるでそぐわない。参謀たちの日常を知る者には、その変装は余りにも哀れであった。

かつては「無敵皇軍」の参謀として羽ぶりがよかった参謀たちの、この最後の姿ほど私を惑乱させ、深刻な衝撃を与えたものはなかった。反面、守備軍参謀の随員として行く学友たちに、私はわけもなく一種の羨望を感じていた。と同時に、私の目には、一行の前途に、この戦争の結末を象徴するかのような不吉な影がどす黒く尾を曳いているように感じられてならなかった。』(157-160頁)

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 157-160頁より》

https://daysjapan.net/wp-content/uploads/2017/06/DSC_00261-1200x800.jpg

摩文仁での激戦中大田さんらが身を寄せていた日本軍管理部の壕。 大田さんら「鉄血勤皇隊」のほか17 〜20歳の女性らも炊事の任務に 当たっていた。2014年5月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 (大田昌秀元沖縄県知事 ) – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

『…日本軍のこの動きは、6月18日から19日にかけての夜に発覚し、前面と後方で、たちまち米軍の機関銃が猛烈に火を吹いた。夕暮れと夜明けには、照明弾が宙に浮かび、機関銃は一晩中、鳴りひびいていた。

日本軍の暗夜の移動は、数日後には最高に達し、第7師団などは502人もの日本兵を殺した。日本兵は攻撃には出なかった。彼らは、自分の身を守るに十分な兵器だけしか、携行していなかったのだ。それにおもな目的は、北部に逃げることであり、また民間人のあいだにひそむことであった。』(500頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 500頁より》

『戦後の調査によれば、三宅は八重瀬岳東麓において、木村は与那原西方において、ともに戦死し、薬丸、長野は脱出後の消息は全然不明である。』(418頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 418頁より》

 

捕虜になった日本兵

 『…沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。』(201頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-08-1.jpg

6月19日午後3時に第22海兵隊第1大隊に捕らえられた日本陸軍第22連隊第1大隊の5人の兵士。一番右の兵士は片言の英語を話す。沖縄。

Five Nip soldiers captured by 1st Battalion, 22nd Marines, 1500 Jun 19th. They are from 1st Battalion 22nd Regiment (Jap Army)—Nip on extreme right spoke broken English.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325931.jpg

第7師団の前線の後方の収容所へ向かう途中、年上の住民にサポートしてもらう足を怪我した少年。(1945年6月19日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

『アメリカ軍は夜襲されるのを警戒して、夜になると照明弾を放って地上を照らし出し、動くものがあると絶え間なく砲弾を浴びせかけてきたという。』(151頁)

糸満の国吉集落付近で避難する住民の列に砲弾が撃ち込まれる様子を目撃した現地召集兵の証言:

『「とにかくひどかったんですよね。人間の肉切れ、手足の切れたものと思われるようなものが、ずーっと散って飛び上がるでしょ。もう本当、いろいろな無残な死体でしょ、バラバラになった。住民は夢遊病者みたいになって歩いていましたね」』(151頁)

逃げ惑う人が砲弾に直撃されたのを目撃した人の証言:

『「砲弾の破片なんか大きいんですよ。手のひらの大きさの鉄板ね。もう熱くて火になっているから。バーンって浮くんですよ、首ね、さーっと切れてね。首と胴体が目の前に落ちよった」』(151頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 151頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail21_img.jpg

沖縄戦の絵】「逃げ場を失った住民たち

『昭和20年6月19日、米軍の攻撃で逃げ場を失った避難住民。…この時、すでに海、空、そして陸上から攻撃を受けて、避難住民たちは袋のねずみとなり、逃げ場を失った状況になった。付近一帯の道路は爆撃などによって負傷者や死体でいっぱいとなり、道の脇では腹をけがした男性が「もう逃げ場がない!」と叫んでいた。』

逃げ場を失った住民たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…19日の朝、私たちは米須まで逃げ延びてきた。どこへ行くのか、わずかばかりの身の回りのものを持って、疲れ切った足どりで歩く民間人や、全く武装もせずただボロボロに破れ汚れた軍服を着た亡霊のような兵隊の群が、この一角で右往左往していた。一帯は文字どおり死の道で、道路の真ん中といわず、傍といわず、至る所に人間が折り重なって息絶えていた。その惨状な情景は、明日に迫るこの島の運命を暗示しているようで、私たち自身が何らかの結末を迫られている思いだった。摩文仁の部分を過ぎる頃、喜屋武岬の方から、あの特徴のある戦車砲の金属音がタンターンと近づいてきた。包囲の網の目は、ジリジリと、そして確実に、狭められてきた。にもかかわらず、指揮系統を失って彷徨する武器なき兵たちや、行く先もない住民たちが、その網目にほころびから脱出しようと最後の空しいあがきを続けた後、空しく瀧のように落下する敵弾の好餌となっていった。死の道はかくしてつぎつぎに作られてゆくのだった。』(156頁)

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 156頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/128528.jpg

(米軍の)護衛なしで前線から離れようと歩く地元民。日中、多くの人々が真栄里の丘陵地南に位置するこの海岸沿いを歩いてきた。(1945年6月19日)

Natives walking back from front without escort. Hundreds came along this beach road South of Mezado Ridge during the day in similar groups.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■