1945年 7月21日 『生き埋め』

〝沖縄〟という米軍基地

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ペリーマン一等兵。彼は第31海兵隊航空群兵站部で爆弾クレーンを操縦していて、日本に向かう途上、爆発物を飛行機まで運ぼうと、吊り上げて荷車に積み始めた。(1945年7月21日撮影)

Private First Class Harry W. Perryman, of Newark, New Jersey. He operates a bomb crane for the ordnance section of Marine Aircraft Group 31, starting the explosives on their way to Japan by hoisting them on the dollies which carry them to the planes.

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第35戦闘機群ノース・アメリカンP-51マスタングの着陸訓練のため、第149陸軍航空路通信施設隊員によって滑走路のへりから操作される交通制御砲。「正規の」滑走路が事故のため一時的に閉鎖されているため、(九州上空でのコンソリデーテッドB-24リベレーターの援護任務から戻ってきた)航空機はまだ正式には使用許可になっていないこの滑走路に着陸する。沖縄。(1945年7月21日撮影)

Traffic control gun being operated from the edge of the airstrip by a member of the 149th Army Airways Communications System, giving landing instructions to a North American P-51 ”Mustang” of the 35th Fighter Group. The strip was not officially opened, but planes had to be landed here since an accident had temporarily put the ”regular” landing strip out of operation. (Planes have returned from a cover mission for Consolidated B-24 ”Liberators” over Kyushu.) Okinawa, Ryukyu Retto.

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米軍の動向

戦利品

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海兵隊の飛行場に駐機された日本製の飛行機。アメリカの新しい塗装の成果を披露している。この軍機“トニー”は、海兵隊が日本軍を読谷飛行場から追い出した復活祭の日に、損傷もなく鹵獲された。読谷から別の基地へ移動させるところである。(1945年7月21日撮影)

A made-in-Japan fighter plane, sporting a new American paint job, is shown parked on a Marine airfield on Okinawa. The plane, a Tony, was captured in good shape when Marines ran the Japs off Yontan airfield on Easter Sunday. It has been flown from Yontan to another base.

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捕獲された日本軍機“トニー”。海兵隊少佐が操縦し、海兵隊航空基地に着陸した。(1945年7月21日撮影)

A captured Japanese Tony with a Marine Major at the controls landing on a Marine air base at Okinawa.

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面談

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視察開始の準備が整った第2225民間検閲特別班Aの兵士。(1945年7月21日撮影)

Personnel of the 2225th Civil Censorship Special Unit A are ready to start on an inspection trip.

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『住民については、スクリーニングが終わっていない者が23万人以上と大半を占めている。そのスクリーニングによって、民間人に紛れ込んでいる軍人が選別され捕虜にされる』(345頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 345頁より》

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面談待ちの民間人。(1945年7月21日撮影)

Civilian waiting to be interviewed.

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日本軍の戦死者は軍人軍属を含めて約9万4千人(防衛隊員、学徒隊員も含む)であるので、戦死者に対する捕虜の率は約16パーセントである(6月末時点での捕虜数で計算すると11.4パーセント)。防衛隊員であっても住民に紛れ込んで捕虜にならずにすんだケースもかなりあったと見られるので、率はもう少し高くなるだろう。』(347頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 347頁より》

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C-6軍政府田原司令部で面談する第2225民間検閲特別班Aのトム・ヤマウチ2等軍曹とキノッズ中尉。(1945年7月21日撮影)

Tabaru Headquarters, Military Government, C-6, on Okinawa, is the scene of this interview by l. to r., S/Sgt. Tom Yamauchi, Los Angeles, Calif., and Lt/JG D. P. Kinods, Albuquerque, New Mexico. 2225 Civil Censorship Special Unit A.

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そのとき、住民は・・・

『羽地内海を臨む名護市仲尾次沖縄戦当時、この集落に避難民の中でも特に、弱り切った年寄りを収容していた養老院のようなものがあった。そこでは、毎日のように息を引き取る年寄りが見られたという。遺体は、仲尾次橋を越えて海岸沿いに仲尾次方面へ約1キロほど行った、くぼ地に埋められた。そこは、ちょうど森と森の間で、やや開けた原っぱになっていた。

昭和20年、夏の真っ盛り。梅雨が明けてから連日、焼け付くような日差しが照りつけていた。穴掘り作業に駆り立てられた人たちは、暑さと空腹で半ば意識がもうろうとしていた。中でも、16歳の少女には朝8時から夕方まで続く作業はつらかった。

お昼少し前のこと。深く掘られた穴に、その日も栄養失調で息絶えた老女の遺体が運ばれてきた。いつものように2人の男にタンカで担ぎ込まれてきた遺体は、穴の縁近くに降ろされた。その遺体を穴に放り込もうとして少女は思わず目をそむけてしまった。死んだものとばかり思っていた老女が、突然目をむき、少女をにらんだのである。死体の扱いには慣れてきていたはずの少女も、さすがに背すじがゾクッとした。

立ちすくむ少女を見かねて、男の人が老女に着物をかけ顔を覆った。そして、そのまま穴に投げ落とされ、上からスコップで土が放り込まれた。』

 

作業に参加した少女(当時)の証言:

『「あまりにも気の毒だった。あのおばあちゃんはどこの人だったかねえ。たぶん家族が来ていなかったから、身寄りがなかったと思うよ。70くらい。いや、やつれていたからそう見えたんで、実際は50代だったような気もする。助かる見込みのない者は早く埋めろ、というアメリカの命令だったらしいね」。

「その時はおばあちゃんににらまれた気がしたけど、きっとひどい衰弱で口が利けないもんだから、まだ生きてるよォーと、目で哀願していたんだろうねえ。息を引き取らないうちに埋められた年寄りは、覚えているだけでも3人はいたさー」。

[34 名護・仲尾次での埋葬]病弱者を生き埋め - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

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1945年 7月20日 『警部補の沖縄島脱出』

〝沖縄〟という米軍基地

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読谷飛行場に降り立ち、歓迎の出迎えを受ける “ハップ” アーノルド陸軍大将。(1945年7月20日撮影)

General view of Army General ”Hap” Arnold being welcomed as he stepped down from plane on Yontan Airfield, Okinawa.

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那覇飛行場の第9空軍兵站部の貯蔵庫及び倉庫建設予定地を片づける第933連隊航空工兵隊。ブルドーザーはビルの土台となる表土を運び入れ、キャタピラー石灰岩を平らにしていく。ビルとテントは第9極東空軍兵站部の事務所及び司令部となる。(1945年7月20日撮影)

Aviation engineering of the 933rd Regiment are seen clearing out an area at Naha Airfield where the storage and warehouses for Air Force Depot #9 were later built. Earthmovers are dumping top soil for the base of the buildings while caterpiller graders are leveling off the coral sand brought in. Buildings and tents are offices and quarters of the Far East Air Force Depot #9. Okinawa, Ryukyu Retto.

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米軍の動向

日本軍陣地の調査

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沖縄北部の“レッドビーチ1”を防御するトーチカの入り口。(1945年7月20日撮影)

Entrance to pillbox covering Red Beach #1. Northern Okinawa.

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沖縄北部の“レッドビーチ1”を防御する重機関銃の小さなトーチカ(1945年7月20日撮影)

Small pillbox used for heavy machine gun covering Red Beach #1 northern Okinawa.

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沖縄本島北部の掃討作戦中、敵の壕の継続使用を阻止するため仲宗根付近の大井川沿いで見つかった壕に200ポンドのトリニトロトルエン爆弾を装着し、爆破した。(1945年7月20日撮影)

A cave is blasted with a 200 pound charge of TNT discovered along the Oi-Kawa River near Nakasone, Northern Okinawa to prevent further use of the cave by the enemy during mopping-up operations on Northern Okinawa.

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砂袋を積み補強が施された日本軍の兵員用待避壕(1945年7月20日撮影)

Sand bagged and rivetted Japanese dugout for personnel.

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読谷飛行場を望む52高地にある疑似対空砲の防壁と塹壕(1945年7月20日撮影)

Dummy AA Revetment and trenches Hill 52 overlooking Yontan Airfield.

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読谷飛行場の端に設置された大型高射砲列。大型建造物の擁壁に注目。(1945年7月20日撮影)

Link of heavy AA emplacements on edge of Yontan Airfield---Note heavy construction of revetment.

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グリーンビーチ2の堅固な陣地にある対艦砲および重機関銃射撃用副砲門(1945年7月20日撮影)

Side ports for anti-boat gun and heavy M. G. In strong point, covering Green Beach #2.

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第32軍の敗残兵

沖縄島からの脱出

警察特別行動隊(警察別動隊)

沖縄県の荒井警察部長は5月11日、8人の部下を選抜し、警察特別行動隊(警察別動隊)を編成した。彼らの任務は、内務省沖縄県民の現状を直接報告するというものであり、そのためには、米軍に気付かれないよう沖縄から脱出し、東京へ向かう必要があった。舟や食糧は、海軍が協力する手はずになっていた。

5月12日、県庁・警察壕を出発した別動隊は、豊見城の海軍司令部へ行くが、沖縄島脱出に関し、海軍の協力を得ることができなかったため、自力で脱出を決行することにした。

準備が整った6月7日、知念村知念城跡丘陵の壕に集結。4つの班を編制し、北上することにした時、米軍部隊が近づいたため、一旦、分散して退避した。その際、一部の者が米軍と応戦、警部が自決してしまった。残った者で3班を編成し直し、6月8日、北部を目指した。

3つの班に分かれた警察別動隊は、6月8日、それぞれ知念村を出発したが、そのうちの1つ班にいた者は10日に与那原で米軍に捕らわれ、もう1班では6月17日に中頭郡中城村で米軍と銃撃を交え、殉職者が出た。残りの1班は、15日かけて沖縄本島北部の久志村に辿り着いたが、そのときには、日本軍の組織的抵抗が終了していたため、6月25日、辺野古で米軍に投降していた

しかし、1945年7月20日、警察別動隊の1つの班にいた警部補1人は、沖縄北端に近い国頭村奥集落からサバニで脱出することができた。荒井警察部長の命令を遂行できたのは、この警部補だけであった。

警部補は、海路、与論島沖永良部島徳之島奄美大島を経て日本本土を目指した。

警部補が千葉県の東京留守業務部沖縄班にたどり着いたのは、敗戦から2か月後の10月である。警部補は「住民や官公吏の沖縄戦への協力の実情、戦況等について、内務省で詳しく報告した沖縄県民のスパイ行為があったために戦争に負けた、という流言を打ち消すことにも心を砕いた」と語っている。(366頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 366頁より抜粋、要約》

http://www.neriyakanaya.jp/img/link/map_01.gif

奄美 リンク | ねりやかなやの奄美群島 離島移住関連リンク集

与那原で米軍に捕らえられた班にいた巡査の体験談: 1945年6月10日以降

『夜になってちょうど佐敷にさしかかったときに、約20メートル前方からパッと照明燈を照らされ肝を冷やした。幸いにも私たちが立っていた場所はユーナの木の陰になっていた。向うからは見えなかったようだった。わたしたちは、近くのいも畑の中に飛びこんでしばらくじっと身をひそめていた。その間も、照明燈が絶えず照らされていた。やがてそれが点滅したので、2人一緒では眼につくから、と別れて行動することにした。いも畑の中からこんどはたんぼの中に入った。稲が伸びていて身を隠すのには丁度いいあんばいであった。そこに昼中いて、夜になってから行動を開始した。後で分かったことだが、その田んぼの中で2人は幾度か出会っていた。お互いに敵と思い、あわてて遠ざかった。顔を合わせたわけではなかったのである。

与那原近くの森の草むらに隠れたりして、道端の砂糖キビをかじりながら、出発して3日目にやっと与那原町に辿り着いた。大雨が降っていた。町の中の民家や商店などはほとんど焼失していた相当数の米軍幕舎が並んでいた。町の中は大雨の水でまるで田んぼのようになっていた。

町外れに、焼け残った民家を見つけ、そこに行こうと決心した。もうどうにでもなれ、と幕舎の間を堂々と歩いて行った。その家は空家になっていた。私は、濡れた着物を脱ぎ、それで下半身を包み、イロリの中に隠れていた。蚊が襲ってきた。しばらくすると米兵らがこの家にトラックできた様子で、私は身を固くしていた。この家を取り壊しにきたのだ。やがてブルドーザーで敷き殺されるのか、とびくびくしながら薄暗い家の中を見つめていた。

米兵らがどかどかと上がってきて、床板を片っぱしからはねあげた。幸いにも私には気づかず、夕食時間ということでさっさと引き揚げて行った。私を、ぼろ切れと思ったのだろう・・・。』(461頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 461頁より》

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沖縄本島にある藁葺き屋根の民家。米軍の空爆と艦砲射撃によって被害を受けた。

The thatched-roofed homes of civilians on Okinawa in Ryukyus damaged by US aerial and naval bombardment.

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『彼らが出た後、私は持参していた風呂敷に入っていた〝かつお節〟のちびたのをしゃぶりながら夜になるのを待った。

砂糖キビを杖にしてよたよた夜道を歩いているうちに、また照明燈をつきつけられた。その瞬間、私は無意識に、足元にあった罐詰の空罐を取る真似をしながら、ピストルを側の溝の中に突っこんだ

彼らが手招きしたので、私は覚悟を決め、オーバーにビッコを引きながら近づいたら、彼らは声高らかにゲラ、ゲラ笑いながら、これをのめと、大きなコップを私の鼻の先につき出した。それは暖かいコーヒーであった。私はお代わりをした。また彼らは笑った。

2人の米兵に抱きかかえられるようにしてジープに乗せられた。最初は名城の金網に入れられたが、すぐ百名の収容所に連れて行かれた。そこでまた金網に入れられ、MPと2世(米兵)に調べられた。私は、防衛隊でもない、また兵隊でもない、自動車の運転手で、那覇、国頭間の物資運んでいたが、那覇にいたときちょうど「10・10空襲に遭い・・・と嘘をついた。彼らは一応納得したように思ったが、そうではなかった。

…「君は嘘をついているからついてこい」、と山の麓に連行された。そこで、本当のことを言わないとここで射殺するとおどされた。私は本当のことを正直に話した。…銃を突きつけられ本部に連行された。私はしばらく金網の中にいたら、通訳と元日本軍憲兵隊長がきて、首実験をした。私はその隊長を知っていた。特高課長の名も聞いた。よし間違いなく警察官であると太鼓判を押した。そしてすぐここから出て好きな所に行け、と追い出された

結局MG本部(米軍政府)にいた…氏を頼って、そこに行ったら、そこには警察官が大勢いた。警察官の経験年数の一番長かった糸満の…刑事がそこのCP隊長になった。私は、傷を治療するために、しばらく病院に入院した。』(462頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 462頁より》

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正面を向いているのは、地元の警察署長。沖縄本島の下原にあるC-3軍政府チーム事務所にて。

Facing front, chief of native police at office (Shimobaru) of Military Government C-3, Okinawa, Ryukyus.

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1945年 7月19日 『陸軍病院配属兵の抵抗』

米軍の動向

日本軍陣地の調査

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墓の内部と壕を調べる第10軍の兵士。(1945年7月19日撮影、場所:糸満

Tenth Army soldiers inspect Jap burial vaults and caves at Itoman.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ③

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。軍作業当日、現場までの移動中に見た光景は、星条旗が翻り米軍の幕舎が建ち並ぶ様変わりした沖縄島だった。

八原高級参謀の回想:

『その後、暫く、私は自らの健康を顧慮するとともに、アメリカ軍の目を警戒して作業には出なかった。そして…米搗き、藁の芯抜き、縄ない---をして過ごした。』(475頁)

『国頭疎開の流説は、日を経るに従い、確実らしくなる。単独強行突破は、当分見合わせるべきだと考えるようになった。衣食も足るようになったから、危険を冒して、アメリカ軍の作業に出る必要もない。慎重に時日の経過を待てばよいのだ。

ところが、一度出て安全だったという経験が、私の好奇心を唆かし、その後2、3日おきに2回アメリカ軍の作業に出た。第2回目は津嘉山周辺。第3回目は知念半島突角部であった。3回目の作業ではちょっと問題を起こしたが、とにかく、いずれの場合も恙なく終わった。』(476頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 475、476頁より》

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トラックに乗りこんでいる地元民。その日彼らの仕事先となる予定だった部隊が、トラックを支給した。沖縄本島の石川にて。

Natives boarding trucks supplied by outfits they are to work for during the day at Ishikawa, Okinawa.

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戦い続ける日本兵

沖縄陸軍病院の衛生材料科に配属されていた男性の証言:

『陸軍病院での業務は、機械、医薬品、衛生材料などを扱う仕事についておりました。略して「薬室」と呼んでおりました。』(357頁)

沖縄陸軍病院は、熊本病院から部隊長以下一部が来まして、開南中学校に本部が設置され、部隊受け入れ準備をいたしました。私は昭和19年6月5日に…召集を受けました。その後から看護婦や兵の召集、雇用が始まって人員が増え、6月下旬になってから病院の部隊本隊がやって来て、外科・内科・伝染病棟科にわかれました。第32軍が編成される前に、沖縄には中城湾司令部というのがあり、専属の病院がありました。それは与那原小学校で開設されていましたが、陸軍病院が出来た時点で吸収されました。

衛生材料は、手持ちを使いました。本隊は熊本から来る時に持って来なければならないものを、何も持たずに手ブラで来ました。そこで民間の薬局や薬店などからの徴発が唯一のものでした。

県内でも民間の開業の医薬品などは配給制で、医師会の需要をまとめて知事に申請し、ヨードチンキ20本、クレゾール10本などという具合にもらっていました。私は医薬品の卸業務に携わっていましたので、需要と供給の切迫した事情がよくわかりました。

陸軍病院開設後は、軍や病院の上官から「買い占めろ、買い占めろ」とせき立てられまして、軍と民間医療との板ばさみで、精神的に苦労が多くて困りました。10・10空襲の数日前に陸軍病院の器材が陸揚げされ、空襲の中を南風原まで運んでからは、医薬品、衛生材料の方は大分楽になりました。』(359頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 357、359頁より》

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0003275/kiji1Img.JPG?uid=20170719230757

国内第1号の戦争遺跡文化財沖縄陸軍病院 南風原壕群20号

沖縄陸軍病院 南風原壕群20号 | たびらい

『…丘陵の横腹を削りとり衛生材料を4、5ヵ所に分散し保管しました。壕らしい立派なものはつくれませんでしたから爆撃されたものもあります。各病棟に収容できるだけの材料は収容し、残りを分散し保管した形です。一番かさばるのがリンゲルでした。』(361頁)

『本隊が南風原を出たのが5月20日ごろです。私たちは衛生材料を移送するため後に残ったのですが、そこへ石部隊がやって来て状況はますます悪くなり、25日に残った12、3人と共に壕を出ました。山川ー友寄ー東風平へ出て東風平の三差路から右へ曲がり兼城へ出て与座岳へ出ました。夜が明けてくる頃でしたので、そこの「山」師団の司令部に泊めてもらい夜になってからそこを出ました。その頃はのんびりした田園風景で昼間も通れました。2週間はほっとして過ごせました。それから与座以南にも戦闘が押し寄せてきて、夜になると壕から出て食糧を漁るという具合でした。』(365-366頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 361、365-366頁より》

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300216/files/DSC_7967.jpg

山城集落の東側に、地元住民が避難していたサキアブとよぶガマがある。沖縄線末期、南部に撤退してきた陸軍病院の本部の勤務者が、ここで傷病兵の治療にあたったことから陸軍病院本部壕ともよばれる。』

沖縄陸軍病院之塔 | 糸満市

『私たちは解散命令により、山城の壕を出てから1ヵ月間、喜屋武の海岸にいたんです。アメリカ兵が面白半分に毎日のように掃討にくるのですね。機関銃をもって応戦したのですが、あとは榴弾で応戦です。』(366頁)

6月19日から7月19日までです。』(手榴弾は)『5つ6つぶら下げていましたが相当重いですよ。戦死した方のも取って使いました。』(367頁)

『ある日の夕方、海岸でのんびり構えていたらすぐ近くに米兵が来ていて、そこへ飛行機も非常に低空でやって来て陸と空で連絡し合っているのです。危ないと思ったので、とるものも取りあえず、アダンのジャングルに逃げ込みました。その時、大事にしていた機関銃を持って行かれてしまいました

米兵は10人くらいでしたが、私共が食糧にしていた芋とサトウキビにガソリンをかけて焼いてしまい、そのため食べ物がなくなりました。仕方がないのでアダンの実も食べましたが、柿のようにおいしい部分もありました。

いつまでも海岸にいては餓死するかもしれないということで、…(第1外科看護婦)さんと一しょに北部へ突破すべく喜屋武の海岸を後にしました。』(366頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 366、367頁より》

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300209/files/IMG_0235.JPG

喜屋武岬

喜屋武岬 | 糸満市

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月19日(木)

1945年 7月18日 『八原の軍作業体験』

〝沖縄〟という米軍基地

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屋宜の部落に建設中の共同通信センター。手前はコンクリートの枠づくり。(1945年7月18日撮影)

The joint communication center is under construction at the village of Yaji. The concrete mold is being built in the foreground.

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90mm口径機関砲(1945年7月18日撮影)

Okinawa-Guns & Weapons Guns 90mm.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ②

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。

八原高級参謀の回想:

『…朝4時、…屋比久村の集合所に向かった。集合時刻は午前8時であるが、人夫の数に制限がある。したがって先着順に採用されるというので、早く出かけたのである。…各部落、毎日先着順に路上に並ぶ。…集合する者およそ数百名50年配の者か、17、8歳以下の少年が多い。すぐ近くにCICのキャンプがある。簡単な鉄条網で囲まれ、内部には多数の幕舎がある。多くの若者が作業に引き出されるのか、右往左往している。白い鉄帽のMPや、赤い鉄帽の沖縄人の警官が、三々五々、人夫たちの間を巡邏する。日本語を片言にしゃべる神経質な2世が人夫掛りである。』(470-471頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 470-471頁より》

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2人の沖縄人職員から地元民の作業状況を聞くキャンプの将校

Camp Officer get report of civilian activites from two Okinawan civilian agents.

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『私は、久しぶりに、かかる多彩にして活々とした場面に出て、不安の裡にも好奇心をかき立てられた。軍夫の群れを点検して回るアメリカ兵も、にこにこしている私を別に怪しまない。大丈夫だと自らに言い聞かせる。…どこに連れて行かれるのだろうか?胸がわくわくする。トラックの運転手は黒人だ。トラックは一台また一台と朗かな軍夫をぎっしり満載して出発する
私の自動車は、新設の坦々たる自動車道を、中城湾岸に沿い、与那原に向かって疾走する。地形は十分承知の私ではあるが、佐敷村の一部が焼け残っているほか、新里ー津波古ー板良敷ー与那原道の沿線の村も町も、跡方なく姿を消し、目に映ずるはアメリカ軍の幕舎群だけである。行けども行けども幕舎の林だ。指揮官幕舎であろうか、やや立派で、綺麗に晴れた夏の朝空には星条旗がへんぽんとしている。沖縄戦開始のずっと前、対アメリカ戦闘法を全軍に印刷配布した書類の中に書いた次の文章を思い出して、私ははっとした。「洞窟陣地の完成こそは、来るべき戦闘の鍵である。もしこれを怠らんか、我々は敗者となり、敵星条旗の飜る下に死体となって冷たく横たわる悲劇を招来するであろう」』(471-472頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 471-472頁より》

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沖縄本島馬天港にある海軍作戦基地指令部下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂。

NOB Headquarters at Baten Ko, Okinawa. Enlisted men's quarters, Red Cross hut and chow hall.

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『与那原に至る間、全注意力を集中して、自分の脱出路を観察する。この地域における敵の宿営兵力約1個旅団。脱出路としては、第1案、知念台の中腹を縫うて突破する。第2案、知念台上を運玉森に向かう。第3案、リーフ地帯を与那原東北に出で、陸地に上がる。いずれの案も実行至難だが、第1案が最も可能性ありと判断する。

自動車は、与那原に停止せず津嘉山北側に通じる那覇街道を西進する。この付近は5月下旬、軍が喜屋武半島後退直前、激闘を交えた戦場である。運玉森、雨乞森の両高地を始め、山という山、野という野、ことごとく砲爆に掘り荒され、わずかに所々しょんぼりと立った焼け木を散見するのみだ。南国の真夏だというのに、運玉森が寒そうに突兀として聳え、限りない悲しみを今なお天に地に訴え、慟哭しているように見える。山川草木転荒涼の詩も、草木影を没した、この新戦場にあてはまらぬ。詩感を絶した森厳冷酷さに心を打たれる。

暫く見えなかったアメリカ軍幕舎が南風原付近から、再び丘陵の斜面を埋めて林立するのを目撃する。朝食の時刻なので、至る所食事分配にならぶ敵兵の列を見る。十余年前、フォート・ベニングの野営地で、アメリカ兵の列にはいって、メスサージャントから食事の分配を受けた当時を想起する。』(472頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 472頁より》

(投稿者註: 八原大佐は戦前に米国留学の経験あり)

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食堂で食事を取るために列をなす第10陸軍第163通信中隊の兵士ら。沖縄。

GIs of the 163rd Liaison Squadron, 10th Army, standing in line for chow at mess hall on Okinawa, Ryukyu Retto.

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南風原駅北側の畑地では、百人あまりの日本人の軍夫がみそ、しょうゆの樽や、その他箱詰めの食料品を幾百となく整理している。日本軍の集積物資をアメリカ軍が難民の救恤に充当するのだそうである
首里や津嘉山が見えだす。鉄血山を覆い山形改まるとは、この山々のことである。私はトラックの框に凭れたまま、いつしか一切の幕舎も、アメリカ兵も、同乗の沖縄人も忘れて、自ら感慨にふける。仲井間、国場付近の道路網は、アメリカ軍の作業で一変している国場川に架かった石造りの真玉橋が、半ば崩れたままに残り、わずかに昔の面影を偲ばせる。長堂101高地より那覇港口に至る国場川南岸高地帯は、海軍陸戦隊の死闘した所で、やはり砲爆に荒々しく地肌を露呈し、山容壮厳を極めている。』(472-473頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 472-473頁より》

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廃墟と瓦礫の山(撮影地: 那覇)/ Ruins & debris.

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『自動車は古波蔵を経て、那覇の町にはいる。沿道戦場掃除が行き届かず、わが軍の被服、鉄器が散乱し、死臭漂い、今なお死体がそこここに転がっているような気がする那覇の町は、昨年10月の10日の空襲で焼土と化したままで、その後、敵も全然手を入れていない。我々は那覇埠頭、かつての暁部隊平賀中佐事務所前で、車から降ろされた。この建物は西洋建築なので、10月10日の空襲にもその外郭が焼け残った。それを暁部隊が応急修理し、戦闘勃発まで使用していたのであるが、敵も同様に改造して、兵站事務所にしている。
アメリカ軍将兵の出入りが頻繁である。血色の悪いアメリカ軍看護婦が事務所前に群れる我々を、もの珍しげに眺めながら通過する。小禄飛行場を離着陸する中、小型飛行機が、盛んに我々の頭上をかすめて飛び交う那覇の港は、予期に反して、未だほとんど使用されておらず、2千トン級のぼろ船がたった1隻、岸壁に横づけになったままだ。港内至る所撃沈されたわが大小の艦船の残骸が痛々しく見える。』(473頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 473頁より》

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沈没船の引き揚げ作業(撮影地: 那覇)/ Raising ship which capsized in port.

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『やがてひょうきんなアメリカ兵が事務所から出てきて、作業の指示をする。我々の仕事は、玄関入り口の崩壊した壁土を約50メートル離れた焼け跡に運搬することだった。この善良なアメリカ兵は女の話をしかけたり、みやげ物の相談をしたりして、仕事はどうでもよい様子だ。さして働きもせぬうちに正午になる。事務所裏の炊事室でシーレーション(携帯糧食)を一食分もらう。別にかん詰めが2つ。1つはボストンビーン、他の1つはビスケットと菓子がはいっている。掛りのアメリカ兵は、私にレーションを手渡しながら、どうだ満足だろうと言わんばかりに「シー」と言った。』(474頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 474頁より》

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通信情報班周辺で片手間の仕事の合間に米軍からの配給を食べる地元住民。

Okinawan natives eat U.S. Army rations while doing odd jobs around Signal Intelligence Sect.

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『お昼休みには、我々と数名のアメリカ兵との間に、英語と日本語、そして手まねを交えて賑やかな交歓が始まる。私はあまり英語を話さぬようつとめた。私はバンドの銀の金具と、アメリカ軍用の帯革、煙草3個、ココア2かんと交換した。沖縄人たちは日本貨で、それぞれ煙草やかん詰めをせしめた。親切なアメリカ兵はここは仕事が楽だし物資も豊富だから、君たちはあすも来れるようにしてやると言った。

午後4時作業完了。けさのトラックに乗って帰途に着く。私はアメリカ軍の監視の緩やかなこと、那覇市街に隠れ場所の多いこと、そして遠く水源池高地に至る間、アメリカ軍の宿営地の疎らなることなど考えて、脱走には好都合だなと思った。屋比久に下車すると、そこには米の配給所があった。沖縄娘たちが賑やかに3合ずつ配給してくれる。私に渡してくれた娘が顔を合わせた途端、あっと小さな声をあげた。私はどきっとしたが、そ知らぬ振りをして別れた。油断大敵である。』(474頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 474頁より》

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地元の食料配給所。沖縄本島の嘉陽にて。少女が米の配給量を量っている様子。

Local ration board at Kayo, Okinawa. This girl is measuring out a ration of rice.

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『米を受領した後は、皆自由行動である。帰り道、屋比久と冨祖崎に、各々一か所新しい墓地を見つけた。新仏が2、3百も葬られている老人や、子供の墓が多い。3か月間の言語に絶する悲惨な生活で衰弱し切った者、それから負傷した人々が戦闘終了とともに、気落ちして死んだのが多いとい言う。ある人は、栄養失調者が、急に貪り食ったので死んだのだと話してくれたが、そんな人もあったろうと思う。

暫く屋比久の墓地で、足を止めているうち、12、3歳の愛らしい少年と一緒になった。彼の語るところによると、親子7人首里の南、繁多川に谷に避難中、父と兄弟4人は敵の艦砲弾で惨死、母は重傷、自分は軽傷、母と子2人で、転々としてあちこち逃げ回るうち、アメリカ軍に収容されて、ここに落ち着くようになった。その後、母は漸次快方に向かい、この少年は年少なので、アメリカ軍の作業に出る資格なく、市民の方の仕事に従事し、米を1日2合ずつもらい、糊口を過ごしているとのことである。真夏の陽没して、涼風すずろなる夕、かかる少年からかくも悲しい身の上話を聞いて、戦闘の惨禍、世の無常が一入身にしみる。お母さんを大切にして、しっかりやりなさい、と励まし村の入り口で別れた。』(475頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 475頁より》

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少年の腕に包帯を巻く海兵隊の兵士 / Marines bandage an Okinawan boy's arm.

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1945年 7月17日 『八原の脱出計画』

〝沖縄〟という米軍基地

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泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影)

Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ①

1945年7月、第32軍の高級参謀、八原博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐は、冨祖崎(ふそざき / 現・南城市)の民家にいた。

6月22日(または23日)に同軍司令官、牛島満(うしじま・みつる)陸軍中将と参謀長の長勇(ちょう・いさむ)陸軍中将が摩文仁の丘で自決した後、八原は米軍の包囲をすり抜け、海岸近くの洞窟に部下数名と共に潜んでいた。

八原は自決を許されず、沖縄島を脱出して本土へ渡り大本営に戦況を報告するよう命じられていた。機会を伺いながら北上し、沖縄島北部から脱出する計画であった。

しかし、6月26日、潜んでいた洞窟が米軍に発見され、米軍の呼びかけに応じて投降する。だが、偽名を使い、年齢も偽って民間人を装ったため、他の避難民と一緒に米軍の民間人収容所へと送られた

数日間そこで収容されたが、6月29日、米軍の監視下にあった民家に移るよう命じられた。その民家に置かれていた十数名の避難民は、昼は軍作業に出ていたが、八原は体調不良ということもあり、民家で一日を過ごすという日々が続いていた。八原の脱出計画では、7月末日に国頭村半地(くにがみそん・はんぢ)で部下と合流する予定であった。

(投稿者註: 一部の資料や文献では、八原大佐が捕虜となった時期を1945年7月15日としているが、ここでは、八原大佐自身が執筆した回顧録に記載された内容を紹介する。上は「沖縄決戦 高級参謀の手記」440-469頁を要約)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

八原高級参謀の回想:

7月中旬を過ぎても、難民の国頭疎開は容易に実現しそうにない。現在の境遇は惨めではあるが、隠れ場としては理想的でもある。しかし千葉准尉や、勝山、新垣らと約束した半地村集合期日7月末日が、漸次切迫する。国内情勢や、アメリカ軍の動きは知るに由なく、だんだん気が急いてくる。本土決戦に間に合わぬようなことになれば大変だ。三宅や、長野はもし敵線突破に成功しておれば、すでに本土に帰っているはずだ。私も、いつまでもぐずぐずしてはおれない。それには、まず周辺の敵情を明らかにしなくてはならない。
…氏や…氏に敵情を聞くが、ただ沿道至る所敵の幕舎でいっぱいだと返事するのみで、具体的なことはわからぬ。況や大局的な敵の動きなど、知る由もない。あまり根掘り、葉堀りの質問は、私の身分を疑われることになる。彼らもいやな顔をする。アメリカ軍の幕舎掃除などをする場合、アメリカの新聞でもあったら、持ち帰るよう頼んでみたが、何日たっても入手はできない。
7月17、8日ごろであったか、…氏が親切に「アメリカ軍の作業に出た方がよい。君の欲しがる新聞も、手にはいるかも知れぬし、アメリカ軍の様子もわかる。そして煙草も、キャンデーも、1日3合の米ももらえる。作業は形式的なもので、さして労力を要するものではない。私と一緒に行けば気も楽だ」としきりにすすめる。私は、彼の勧めに心動き、出かけることに決心した。』(469-470頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 469-470頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

伊平屋島(いへやじま)伊是名島(いぜなじま)

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伊是名島のごあんない【島の紹介】 | 伊是名村役場

沖縄本島の北方の両島には日本軍はいなかった。ただ陸軍中野学校出身の特務機関員が教員として1人ずつ配置されており、また途中から敗残兵が本島から逃げてきていた。

伊平屋島では村の幹部たちは事前に話し合い、米軍が上陸してきたら「白旗で降伏する」ことを決めていた。6月3日に米軍が上陸してきたとき、国民学校長を先頭に住民は白旗を上げて投降した(県史2ー588〜602頁、伊平屋村226頁)

伊是名島には伊平屋島の米軍が検分をしにやってきただけだった。島出身の青年が伊平屋に行き、島には軍事施設はないから攻撃しないでくれと頼んだので、米軍は攻撃しなかったという。この青年は移民帰りだった。一方、島の幹部たちは米軍が上陸してきたときのことを事前に話し合い、米軍が来たら「白旗をかかげて降参すること」を決めていた(県史2ー603〜622頁、石原昌家『虐殺の島』108)。』(181-182頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 181-182頁より》 

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伊平屋島住民の帰郷(1945年7月17日撮影)

Iheya Shima Native Returns to Home

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『両島の幹部が白旗を掲げて投降することにしていた背景には、特務機関員の指導があったようだ。特務機関員は占領された後の後方攪乱を任務としており、自分を含めて日本兵がいることを知られては困るし、住民が自決してしまっても困るからであろう。また敗残兵たちも自分たちが助かることを考えて「玉砕」するつもりはなかった。

しかし特務機関員らによって住民虐殺がおこなわれ、漂流してきた米兵の処刑もおこなわれている。「集団自決」を強要しなかったものの、スパイ容疑での住民の処刑はおこなわれていた。

伊是名島には日本軍は配備されなかったのだが、沖縄戦が始まってから本島から敗残兵が流れてきた。そのなかで隊長となったのが平山大尉だった。また陸軍中野学校出身の特務員が教員として派遣されていた。

島では、米軍が来た場合には白旗を掲げて降伏すること、日本兵はいないことにすることなどを取り決めた。敗残兵たちも名前を変え、住民であるかのように装った。伊是名に米軍がやってきたのは6月なかごろだったが常駐せず、ときどき伊平屋からやってきただけだった。島にはアメリカ兵が2度にわたり3人が流されてきたが、いずれも密かに処刑された。』(182頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 182頁より》

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米軍侵入後、それぞれの家へ向かう二人の伊平屋島住民(1945年7月17日撮影)

Young Iheya Shima Natives Ride Back to Homes after Invasion.

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伊是名島での住民虐殺

『日本が降伏した8月以降、2件の住民虐殺がおきた。1つはチナースーと呼ばれていた40代の…で、彼はバクロー(家畜商)をしていて牛馬豚などの買付けのために自分でサバニを持ち、 島を回っていた。伊平屋にいたときに米軍が上陸し、そこで保護された。内妻とその子が伊是名にいた。

ある日、彼は米軍といっしょに伊是名に来て、島民たちに日本が負けたことなどをしゃべった。また日の丸をお土産に米兵に渡したらいろいろ物をくれると勧めたりした。そうしたことから彼はスパイと見なされた。伊平屋にいる彼を、日本兵の意をうけた島の漁師たちが、義理の父が危篤だとだまして連れ出し、伊是名に連れてきた。彼はそこで日本兵に引き渡され、処刑された

同時に伊是名にいた奄美出身で身売りされてきていた少年3人も、スパイだという疑いで処刑された。それらの虐殺はいずれも10月ごろの出来事と推定されている。戦争がすでに終わっているにもかかわらず、また米軍がそれを知らせたにもかかわらず、島の人々や敗残兵たちはそれを信じず、ともにそうした虐殺に加わった。ここにあげた、虐殺された4人はいずれも島から見ればよそ者であった。閉ざされた島のなかで、日本兵と島民とが一体となって、疑わしい者、米軍に協力する者を殺害した事件だった。島の人々が平山大尉ら日本兵は敗残兵にすぎないことを知るのは、その後のことであった(石原昌家『虐殺の島』、仲田精昌『島の風景』)

「集団自決」こそなかったものの、軍の特務機関員と地域の指導者たちが一体となって、島にとってのよそ者をスパイ視、迫害し、そして殺害していったのである(仲田精昌『島の風景』がもっともくわしい。ほかに石原昌家『虐殺の島』、県史2ー607〜611頁。なお1989年に刊行された伊是名村史はこの虐殺については触れていない)。』(182-183頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 182-183頁より》

  

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ryukyushimpo.jp

1945年 7月16日 『沖縄の人々は順応である』

〝沖縄〟という米軍基地

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通常は輸送管を海に入れる際、その端を保護するために用いられるそり。しかし今回は珊瑚礁があるために輸送管を浮かせ、そりは使われていない。(1945年7月16日撮影)

Sled generally used to protect end of pipeline as it is pulled into the sea. The sled was not used in taking the line out in this case however, because of coral formations, the line being floated out.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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那覇飛行場周辺、南側概観。(1945年7月16日撮影)

An aerial view of the surrounding area just south of Naha Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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B-29スーパーフォートレス普天間飛行場南端の採石場からTNT火薬を使って取り出した石灰岩をまとめるロレイン・ショベル。滑走路を建設する第806工兵航空大隊のトラックは石灰岩を降ろし、爆撃機に耐えうる規定の厚さに基盤を固める。右方では誘導路と舗装駐機場の建設が第854工兵航空大隊によって進められる。この7,500フィート滑走路の建設工事は1945年6月15日に開始、同9月1日頃完工した。(1945年7月16日撮影)

Lorrain shovels are busy removing the loosened coral that was blasted free by TNT from the coral hill located at the south end of the B-29 “Superfortress“ Futema Airstrip on the west coast of Okinawa, Ryukyu Retto. Trucks of the 806th EAB that were constructing the runway are dumping the coral sand on the strip, building up the base to the required thickness to handle the super bombers landing force. At the right of the strip the taxiway and hardstands for parking of the bombers progressed satisfactorily under the construction of the 854th EAB. Work was begun on 15 June 1945 for this 7500 foot long strip and was finished about the 1st of September.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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空から見た本島西海岸の台地の補助飛行場。大砲を設置するパイパーL-4機や傷病兵救助用のヴァルティL-5機が利用する。(1945年7月16日撮影)

Aerial view of the cub strip at Ters on the west coast of Okinawa, Ryukyu Retto. The strip was used by Piper L-4s for artillery spotting, and Vultee L-5s were used for evacuation of wounded from the island.

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中型・重爆撃機及び戦闘機用の4本の飛行場が北東南西方向に、第935司令部第805、1873、1892、1902、1903工兵航空大隊によって建設された。1945年5月1日の大上陸の日にA滑走路の工事が始まった。日本軍の激しい攻撃のため工兵航空大隊は更なる困難とぬかるみの中での作業を強いられた。伊江島と本島を防衛する飛行機はここから飛び立った。伊江島には滑走路建設に必要な石灰岩が大量にある(1945年7月16日撮影)

Four airfields to handle medium bombers, heavy bombers and fighter aircraft were built facing northeast-southwest on this island. Construction done by 935th Hqs. EAB Co., 805th 1873rd, 1892nd and 1902nd and 1903rd EABS. The first strip to start construction was “A“ on May 1, 1945, the day of the initial landing. Due to heavy and concentrated Jap air attacks, EABS underwent additional hardships plus muddy conditions. Planes used in the defense of Ie Shima and Okinawa flew from these strips. Ie Shima has a great abundance of coral, which was used to build the airstrips. Ie Shima, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

野戦病院

梅村少佐の事件に引きつづいて、日本兵仲間の患者の間でも、妙な事件がおきた。私の隣りの幕舎に弱り果てた1人の栄養失調患者が送られてきた。彼をめぐってよくないうわさが立った。

梅村少佐と同じように、彼の仲間も先に入院していた。その仲間に見つけられたのが彼の運のつきであった。

彼の仲間は沖縄南部から北部へ敵中を「強行突破」することになり、夜間潜行を続けた。ひと夜ふた夜と潜行を続けているうちに、仲間は1人2人と脱落していった。逃げ回っているうちに、夜のことで方向を間違えるのがいたり、単独行動を有利と思って脱けがけするのもいたにちがいない。

そのうちに、1人の仲間がアメリカの夜間歩哨のカービン銃で足を射たれて、歩行困難となった。「生きたい」という執念にとりつかれた彼は仲間にしがみついた。仲間が彼を放って行くならば、大声をあげてアメリカ兵を呼んでやる、と駄々をこねた。仕様ことなしに仲間は交替して2人で彼を両脇から抱えて潜行を続けた。彼はみんなにとって重荷となった。誰もが自分のからだでさえ持てあましているときに、けが人を抱えて行動するということは困難を通り越した一大難事であった。

4日目の昼、仲間の2人が水をさがでぃに出かけて戻ってきたら、けがしていた男が死んでいた。2人が理由をきいても返答するものがいなかった2人はそれ以上詮索しなかった。誰かが「やった」のだ、と直感したからである。その後、仲間はばらばらになり、たまたま病院でその仲間の2人が出会い、そこへ栄養失調になった今1人の男が現れたわけである。』(176-177頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 176-177頁より》

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日本兵捕虜の病院にあるX線撮影テント。沖縄本島にて。テントの外にいるのは、先ほど担架で運ばれてきた、日本軍の負傷兵2人。

X-ray tent at hospital for Japanese prisoners on Okinawa, Ryukyu Islands. Two recently arrived wounded Jap soldiers are outside on stretchers.

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『栄養失調の男は軍曹であった。彼はピストルを持っていて、性のよくない男で、まっ先に疑いをかけられていた。戦友のことを彼は問いただされた。「誰が射ったのか、お前は現場を目撃していたはずだ」というわけである。しかし、栄養失調の男は「言えない」と頑固に口をつぐんだ。殺された戦友のために事実を彼に吐かそうと、2人は彼を追及して暴力をふるうことになった。しかし、栄養失調の男は気を失うまで口を割らなかった。2人は彼を抱えてベッドにはこんだが、あくる朝栄養失調の男はベッドの上で死んでいた

衛生兵はこの事件を知っていたが、受け持ちの患者が殺されたと報告すると面倒なことになる。軍医にことのいきさつを報告しなかったので病死ということになった。ようやく戦争を生きながらえた栄養失調の男は、病院に入れられて、そこで戦友たちに殴り殺されてしまったのだ。それも、彼が戦友を射ち殺したのか、ほかの仲間が射ったのか、はっきりしないままに彼は殺されてしまったのである。

梅村少佐の事件のあとにこの事件はおきたのだが、この男よりも梅村少佐の方がもっと悪党のように思われた。梅村は無事に家族のもとに帰れるのに、この男はついに家族の顔をみることができなくなったのだ。彼も「運が悪かった」ということであろう。』(177-178頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 177-178頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

琉球諸島の軍政下に入った住民は40万1500人で、人口の40パーセントは15歳以下の子どもであり、21歳から50歳までの男子はわずか2万9千人、7.2パーセントにすぎなかった。50歳の男子は21歳の男子の2倍いた。…人々は軍政のはじめから非常に協力的であり、軍政方針に従った。』(353頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 353頁より》 

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沖縄本島の前原(?)の集落に住む地元民への教育プログラム。陸軍の士官がカードを掲げ、カードに書かれていることを地元民が読みあげている。(1945年7月16日撮影)

Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. An Army officer holding up cards and the natives recite orally.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『沖縄を占領した米軍は、沖縄の人々は従順であると認識していたようだ。…保護した住民たちとの関係からそう確信したのだろう。沖縄を日本から分離しても、銃剣で住民を追い出し家や畑をブルドーザーで敷きならして基地を作るような、少々手荒なことをしても米軍に抵抗できないだろうと高をくくっていたのかもしれない。しかし住民が米軍に抵抗しなかったその背後には、日本軍による数々の残虐行為や横暴があり、日本軍によって裏切られたという経験があった。彼らは、日本軍によって虐げられ、それに反発し、戦時体制下にくりかえし叩き込まれたイデオロギーとその宣伝のウソを体験し、そうした教え(命令)に反して投降した。日本軍やそれにつながる権力者たちを排して、自らの運命を自らの決断で切り拓こうとする人々が沖縄戦のなかで次々と出てきた。権力者の言いなりにはならないという重要な経験を、あまりにも大きな犠牲を払いながらも、積み重ねたのである。権力者の宣伝をそのまま鵜呑みにするような人々ではなくなってきつつあった。沖縄戦のなかでの人々の意識と行動を見ると、そうした新しい契機が生まれつつあることがわかるだろう。』(365頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 365頁より》

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沖縄本島の前原(?)の集落に住む地元民への教育プログラム。地元民が紙に言葉を書き写し、日本語に翻訳している。(1945年7月16日撮影)

Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. They copy the words down on paper and use their own writing as translation.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『彼らはけっして皇民化イデオロギーに盲目的に従ったわけではなかった。沖縄の人々が主体的に考え、行動しうる基盤が、戦争の体験のなかから育まれつつあった。そうした経験と営みが、日本から見捨てられたなかで米軍の先制支配に立ち向かう沖縄の人々のたたかいの基盤となっていったと言ってよいだろう。

もちろん戦前戦中は日本にへつらい、米軍時代になると米軍にへつらう、事大主義的な指導者や民衆の存在も無視できない。しかし彼らを超えるような主体も育ちつつあった。そうした沖縄の人々の変化を米軍は理解していなかったのではないだろうか。』(365-366頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 365-366頁より》

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沖縄本島の前原(?)の集落に住む地元民への教育プログラム。地元民が紙に言葉を書き写し、日本語に翻訳している。(1945年7月16日撮影)

Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. They copy the words down on paper and use their own writing as translation. 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月16日(月)

1945年 7月15日 『因果はめぐる』

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/327294.jpg

2号線と16号線の交差点に立てられたハイウェイの標識。標識は1-N号線の東100フィートの所に立てられ、16-E号線から来る際にも見える。(1945年7月15日撮影)

The highway marker has been erected at the traffic circle at the junction of Routes #2 and #16. The signal is about 100 feet east of Route #1N and may be seen on the approach from Route #16E.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

野戦病院

『…1945年7月の中ごろのある日、病院をさわがす事件がおきた。

屋嘉のPWキャンプから梅村という海軍少佐が病院おくりとなってきたのである。

「きのう、あいつと一緒に屋嘉から送られてきたおれの幕舎の兵隊から聞いたんだが、屋嘉においていたら、奴っこさん殺されちまいそうで、あぶなくなって病院おくりとなったらしい」

「水勤の連中が、ご恩返しをしてやろう、ということで、梅村の両足をゆわえて屋嘉の収容所の広っぱを引きずりまわしたそうだ」

因果はめぐるか・・・

そんな会話が私たちの幕舎でかわされていた。

水勤」というのは暁部隊の水上勤務の朝鮮人被徴用者たちのことであった。朝鮮の若者たちは正規の日本軍には編入されないで、海軍や陸軍の輸送船の労務者に、あるいは、海兵隊の労役に使われていた。水上勤務は私たちの「防衛召集」と似通っていた。名称はともかく、どちらも事実は苦力(クーリー)部隊にひとしかった。

幕舎の内外で聞かれた話をまとめると、おおよそ次のとおりであった。

海軍少佐梅村太郎那覇の西方にある慶良間諸島の中の阿嘉島の守備隊長であった。彼は冷酷非情の男であったうえに、朝鮮人に対する軽侮の気持ちがあったために、朝鮮人の水上勤務の者たちへの仕打ちはいよいよ冷酷さを加えたらしい。水勤の連中がきにくわぬことをしでかすと、足を縄でゆわえて引きずりまわさせた。隊長である梅村少佐の命令は阿嘉島では「大王の声」であった。反抗すれば有無をいわさず少佐の命令一下消されてしまうのであった。いのちのおしい者は反抗しようとしなかった。そういう札つきの梅村少佐が屋嘉のキャンプに現れたのである。

屋嘉のPWキャンプには水勤の仲間が何十名も先に送られていた。彼らは梅村少佐が捕虜となって屋嘉に姿を現わすとは夢にも思っていなかった。いつもの彼の言動から、彼は当然自決したものと思い込んでいた。それが姿を現したのである。

「どの面さげて人様の前に出て来ようというのか」

「ふざけた野郎だ」

憎しみの罵声が期せずして飛んだ。水勤仲間は梅村が捕虜になったことを「ゆるすべからざる」ことだと考えたのである。

彼は将校幕舎から呼び出されて、「人民裁判」にかけられた。

「お前からやられた通りのお返しをする。それ以上のことも以下のこともしないから安心しろ!」

そう宣言されて梅村は屋嘉のキャンプの砂地の上を両足をゆわえられて引きずりまわされたのである。キャンプの1万の日本兵捕虜たちの見まもる中で、アメリカのMPたちも見て見ぬ振りをした。日本軍将校に対する水勤仲間の「復讐」をアメリカ兵も同情の気持ちで黙認したのであろう。しかし、梅村を殺させては「捕虜保護」の責任を問われるので間もなくMPたちは水勤の連中をなだめて、彼を将校幕舎に連れ戻した。梅村が病院送りとなったのはその翌日であった。』(173-174頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 173-174頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-05-4.jpg

水上機母艦に所属する小規模の特派部隊によって捕まえられた、朝鮮人軍夫捕虜19人のうちの14人。同艦は、第1航空団と共に活動する。背後に写るのは、慶良間列島慶留間島水上機母艦ケネス・ホワイティング(AV-14)から撮影。

Fourteen of the 19 Korean prisoners captured by a small detail from a seaplane tender operating with FAW I. Behind them is Geruma Shima, Kerama Retto. Taken by the USS KENNETH WHITING (AV-14).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

病院へ送られてほっとした梅村には、そこでも「」が待っていた。こんどは水勤の連中ではなくて、彼の部下であった日本兵たちである。

通勤の看護の娘たちも帰ってしまい、病院内が静まり返ってから梅村少佐は将校幕舎から呼び出された。幕舎つきの衛生兵たちの目の届かない病院の柵外へつれ出していくわけにはいかないので、幕舎の裏の方へ誘ったのである。少佐を連れ出した者たちは病院で元気をとりもどし、幕舎の世話係をしている連中で、病人らしくない見た目にはたくましい患者たちであった。

「おい梅村、おれたちを忘れやしないだろう」

「もう、手前は少佐殿でも、隊長殿でもないからなあ。そのつもりでいろっ」

「おれたちもお前も、おなじPWさまだ。お前、よくもしゃあしゃあと捕虜なんかになれたなあ。おれたちにお前、何といった」

「この野郎!」

しゃべっているうちに、めいめい自分の言葉で憎しみの心がよみがえって、次第に感情がたかぶってきた。梅村少佐はうなだれたまま一語も発しない。ひとりが梅村を思いきり殴った

ひとりが腕をふるうと、あとの3人も梅村に殴りかかった。梅村のからだつきは普通なのに、4人の兵隊はみんな彼よりも大きいから、1対4では勝負にならない。梅村は抵抗しないで、殴られていた。屋嘉のキャンプから引きつづいてのリンチに、彼は精神的にも完全にまいってしまっていた。PWキャンプで散々な目に会い、けがを口実に病院おくりとなって、また、そこで元の部下たちから痛めつけられるということになっては、戦争中とはいえ気が動転せずにはおれないはずである。無抵抗の梅村はかすかな呻き声をもらすだけで、やがて、暴力をふるっている4人が疲れてきた

ただならぬ気配に近くの患者たちが様子をのぞいていたが、加害者たちの片言隻句から1対4の殴り込みの真実を察知し、だまって自分の幕舎に引っ込んだ。』(174-175頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 174-175頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/112-36-2.jpg

軍政府病院の外観。沖縄本島の石川にて。屋内にいる患者。

Exterior of a Military Government hospital at Ishikawa, Ryukyu Islands. Patients indoors.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『踏んだり蹴ったり、手と足を働かせながら口をついて出る彼らの言葉をつなぎ合せるとこうである。

阿嘉島の守備隊長をしていた梅村は、水上勤務の仲間たちに冷酷無残であったばかりでなく、部下の日本兵たちにも非道な指揮官であった。危険な作業に兵隊を無慈悲に駆り立てていた

戦争であれば危険は当然のことであるが、それでも時間によって「安全度」がちがったし、危険が全然避けられないわけでもなかった。百パーセント安全だという時間はないが、比較的危険がない時間を、10日、20日と戦闘が続いているうちに兵隊たちも知るようになって、その勘が当たるか当たらないかは別として、それによって毎日行動していた。梅村はそれを無視して自分の思いつきで、容赦なく、いつでも兵隊を駆り出したのである。

そのようにして、「偶然」と「運」にかかわることであったにしても、つぎつぎに兵隊が殺されると「梅村に殺された」ということになった。

あの野郎殺してしまえ」と、みんな煮えくり返る思いをしながら、とうとう殺すことができずにいた梅村少佐を、PWキャンプと米軍病院の中で見つけたのであった。

梅村が動けないくらいに殴られたころにコーア・メンが3名やってきて梅村を幕舎に返すように4人に指示した。

屋嘉キャンプと同じく、病院でも日本兵が日本軍将校に仕返しをするということは、アメリカ兵にも「面白いこと」であった。軍隊の常道としてアメリカ兵もときには自分たちの将校に憤懣もあったし、ぶん殴ってやりたいこともあったはずである。日本兵仕返しの気持ちに同情して、ここでも初めは見ぬふりをした。梅村もめぐり合せが悪かったというわけである。

思い切り梅村少佐を殴ったので腹の虫がおさまったのか、その後はことなくすんだが、殴った連中は「元気がありすぎる」ということで、翌る日に退院を命ぜられて屋嘉キャンプに送り返された。この事件はいささかアメリカ側にもセンセイショナルなもので、病院長にも報告され、3人の退院もその上での処置であったと衛生兵は話していた。』(175-176頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 175-176頁より》

(投稿者註: 阿嘉島にいた日本軍の守備隊長で「梅村少佐」という人物がいたかどうかは未確認。慶良間諸島座間味島には「梅澤(梅沢)」という名の隊長はいたが、この「梅村」という人物であるか、どうかは不明。)

 

 

そのとき、住民は・・・

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ⑧

1945年6月30日石垣島から台湾へと疎開する人びとが乗った船団が西表島に向かった。その後、米軍機に発見されないよう、尖閣諸島を経由する航路で台湾へと向かうが、7月3日、船団は米軍機による掃射を受け、うち1隻は沈没し、多くの人びとが溺死した。

沈没を免れた船は、生存者を乗せて石垣島に引き返すつもりでいたが、7月4日魚釣島に漂着した。台湾を目指していた疎開民は、無人島の魚釣島で救助を待ちながら、サバイバル生活を送ることになった。疎開民は、それぞれが持っていた食糧を出し合って炊き出しをし、島に繁殖する野草や木の芽、カニやヤドカリを食した。

7月9日、数名が沈没を免れた船で助けを求めるために石垣に向かった。しかし、途中でエンジンが故障。船が漂流し始めたため、小伝馬舟に乗り移り、魚釣島に引き返した。そのため、外部との連絡手段は失われた。

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魚釣島の海岸(1979年撮影)

http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1979000000103/s1979000000103-p02.pdf

1979年調査写真 | 尖閣諸島資料ポータルサイト(Senkaku Islands Archives Portal)

『6月末、台湾へ疎開するために石垣島を離れ、到着予定日だった7月3日に米軍機の攻撃を受けた後、尖閣諸島魚釣島に上陸した石垣島疎開民たち。無人島での生活を始めてから、10日以上が過ぎた。所持していた食糧を出し合い、1日2回の共同炊事が行われていたが、それが続いたのも、1週間だけだった。疎開者の間でいさかいが起き、各自で炊事することになったのだ。

それから、各自が島のあちこちで食べ物を探すという、想像を絶する闘いが始まった。漁ができる者たちが魚を分け与えることもあったが、特に母親と子供だけの世帯や、高齢者にとっては、食べ物を探すことは過酷を極めた。』

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 215頁、[71 尖閣諸島遭難(3)]餓死者の死臭 島覆う - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、要約》

http://www.pref.okinawa.jp/site/norin/shinrinken/kikaku/yuyou-detail/images/birou.jpg

クバの木(ビロウ)

ビロウ/沖縄県

『クバの木のしん芽は貴重な食べ物となったが、切り倒すには体力が必要だった。クバの木を倒す力もない者は、誰かが食べ残した柔らかい部分を食べた。ヤドカリも食べた。アダンの木の下にいるヤドカリを集めたが、逃げ足が速い。衰弱した人たちの体力では、ヤドカリの速さに追いつけなくなった。

最初の頃に手に入ったみず菜や長命草は、すぐに尽きた。“甘い草は食べられる”と聞いた人たちは、生えている草は何でも食べた。ある少年は、あまりの空腹に耐えられなくなり、伯父から「これだけは食べるな」と言われていたハジキ豆をこっそり食べてしまった。食えるじゃないかと思った少年だったが、途端に気分が悪くなり、猛烈な勢いで嘔吐し始めた。遭難した人びとは、島にある青いものはすべて試食し、食べられるものは、ほとんど食べた。』(八重山の戦争/尖閣諸島遭難・3、4)

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 215頁、[71 尖閣諸島遭難(3)]餓死者の死臭 島覆う - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、要約》

http://www.tabirai.net/sightseeing/news/img/0001791/kiji1Img.JPG?uid=20170715181446

アダンの木

沖縄の海岸で見かける木「アダン」とは? - ニュース | たびらい

 

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