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1945年 5月23日 『泥と死体とウジ虫と』

首里に迫る米軍

5月23日の午前中、第1海兵師団と第6海兵師団の境界線が右翼(西)方向に移され、第6海兵師団は陣容を立て直すことになった。第5連隊第3大隊は延びた前線を埋めるべく、第1海兵師団の右翼に入った。』(373頁)

 《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 373頁より》

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Chapter 09 | Our World War II Veterans

 

西部〜中央戦線

クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

『頭上を砲弾がけたましくとびかうなか、われわれは大名峡谷西側の新たな攻撃地点に移動した。前線を形成するK中隊の兵士たちは2人、3人と、ハーフムーン・ヒルと呼ばれる、砲撃も生々しい草木一本ない泥だらけの丘へと進み、先陣部隊が使っていた壕におさまった。われわれ迫撃砲班は丘のふもと、最前線のおよそ100メートル後方にあるちょっとした高みの陰に位置を定めた。…その向こう、砲煙を透かして左手前方にひときわ高く見えるのが、日本守備軍司令部のある首里高地だった。そのまがまがしい難攻不落の自然の要塞の上に、わが軍の大砲、重迫撃砲、砲撃支援艦が、緩急をつけながら絶えず攻撃を加えていた。だが、敵もひるまない。目標をしっかり見きわめて、大砲や重迫撃砲でこちらの攻撃陣地をくまなく襲ってくる。そんな反撃が連日、昼も夜も絶えることなく続いた。』(376頁)

『K中隊は第5連隊第3大隊の右翼をにない、ハーフムーンのふもとを西へと進んだ。日本軍は南方向に三日月状に張り出した二つの山腹の洞窟群を占領して、頑強に抵抗を続けていた。…砲を壕に据え、目標に向けた試し撃ちを行い、弾薬も準備して、ようやく初めて陣地の周囲に目をやった。そこには、身の毛もよだつ地獄のような光景があった。以前ここは、草のそよぐ低地を絵のように美しい小川がうねり流れる、牧歌的な谷間だったはずだ。それが見渡すかぎり、目をそむけたくなるような泥だらけの荒れ地に変わっている。死と腐敗と破壊がないまぜになった異様な気配に、息が詰まりそうだった。』(379頁)

 《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 376、379頁より》

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ハーフムーンヒル

HALF MOON HILL and the corridor leading to the Kokuba Gawa as seen from Sugar Loaf.

Chapter 09 | Our World War II Veterans

『…遺体はとりあえずそこに置かれて、やがて埋葬のため後方へ運んでもらえる時を待っているのだ。…あたりは砲弾のえぐった穴がそこかしこに口を開け、爆発に巻き込まれた土や泥が一面に飛び散っている。どの着弾跡にも半分水がたまり、その多くには海兵隊員の遺骸があった。痛ましいことに、遺骸の多くは死んだときの姿勢のまま、錆びた武器をつかんで、なかば泥水に浸かっているそのまわりを巨大なハエの大群が飛び回っている。』(379-380頁)

『激戦のなかで息絶えた日本兵の死体も、いたるところに転がっていた。アメリカ軍、日本軍を問わず、さまざまな歩兵用の装備も散らばっている。ヘルメット、ライフル、ブローニング自動小銃、背嚢、弾薬帯、水筒、軍靴、弾薬箱、薬莢、機関銃用の弾薬帯・・・それらがわれわれのまわりから丘の上まで、ハーフムーン全域に点々と落ちていた。…死体の周囲1、2メートルまでは泥だまりをウジ虫が這っているが、もっと先になると、雨水に押し流されていく。丘には高木も低木もいっさい残っておらず、遮蔽物一つなかった。砲弾が草地をずたずたに裂き、もはや緑はないに等しい。夕刻にはまた土砂降りになった。泥また泥の世界に砲声が響き、砲弾がえぐった穴からは濁水が溢れ出し、もの言わぬ哀れな死者が腐臭とともに横たわっている

…たちこめる屍臭は圧倒的だった。そのとてつもない恐怖に耐える方法は一つしかなかった。自分を取り巻く生々しい現実から目をそむけ、空を見上げること。そして頭上を過ぎる鉛色の雲を見つめながら、これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ、と何度も何度も自分に言い聞かせることだった。だが、絶えることなく押し寄せてくる腐臭はごまかしようもなく鼻腔を満たし、呼吸するたびに意識しないわけにはいかなかった。』(380-381頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 379-380、380-381頁より》

 

シュガーローフ: (52高地)

『ついに第6海兵師団は、シュガーローフの占拠を確たるものにした。しかし、祝賀ムードはほとんどなかった。埋葬しなければならない海兵隊員の死体があまりに多かったからである。』(374頁)

死体収容作業をした海兵隊員たちの証言:

『「軍曹が、…〝多くの死体は、もう5日間も放置されており、このままだと溶解して、地面にとけて染み込んでしまう…〟と言ったんだ、まったくその通りだったよ」(374頁)

「ある死体は、負傷して治療中に死んでおり、包帯をまいたままだった。その中に、自分で腹部の傷に包帯をまいた状態で死んでいった者もあったが、腐敗して膨張していた」(375頁)

「…雨は土砂ぶりで、くるぶしまで泥に埋まりながらだった。作業していると、時折ジャップの狙撃兵が発砲してきたし、狂ったように迫撃砲弾が落下してくることがあった…」(376頁)』

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 374、375、376頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126262.jpg

日本軍の死体が散乱する丘を越えて行く海兵隊(撮影場所・日時は不明)

Marine patrol advancing along hill which is littered with enemy dead.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『荒れ果てたシュガーローフ一帯には、数百、数千もの日本兵の死体が散乱していた。その大半は、独立混成第15連隊の兵士たちだった。…死体はあらゆる場所に散らばっており、突き出た手や足が「まるで子供のボーリングゲームのピンのようだった」…それ以外の日本兵もシュガーローフの地下トンネルや、洞窟で腐って横たわっていた。勇気をふりしぼってシュガーローフの裏側斜面の入り口から洞窟の1つに入った海兵隊員は、3人の日本兵が機関銃のかたわらに横たわっているのを見つけた。軍服の内側はドロドロしており、溶解した皮膚が辛うじて骨に張りついている状態だった。…「可能なかぎり日本兵の上に土をかぶせたよ」「そしたら、あろうことか雨がふり出して、洗われた死体が地面からふたたび出てきてしまった。頭部が見えたので歩み寄ってみたら、足から全身、蛆虫が張りついており、耐えられない悪臭がただよっていたんだ」日本兵の死体は死んだ場所で土をかけられるか、あるいは、そのまま放置されて腐っていった。』(377-378頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 377-378頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/93-14-4.jpg

“シュガーローフ”--1ヶ月後。反対斜面にある無人の日本軍壕を調べる海兵隊員。手前には、日本兵の死体やガスマスク、ライフル銃の残骸がある。手前右の包帯に巻かれた日本兵の頭蓋骨に注目。

SUGAR LOAF - A month later Marine probing into empty Jap cave on reverse slope. In foreground remains of Jap soldiers body, gas mask, rifle. Note: Jap skull with bandage right, foreground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『一方、海兵隊員の死体はアムトラックに載せられて、第6海兵師団の師団墓地に埋葬するために運ばれた

埋葬班の一員だった、ある海兵隊員は18から20体の死体とともにアムトラックに搭乗した。アムトラックの床面には10センチほどの水がたまっており、車両が坂道を登ったり降りたりするたびに、死体の山が水の中で前後に転がりはじめた。手すりにしがみついていた海兵隊員は、死体の山と水の直撃をうけバランスを失ってしまった。…「死体の頭が、目の前にせまってきたかと思うと、つぎに腕の部分がせまってきて、気がつくと死体の山に押しつぶされそうになっていた」…「そのうち、水も流れてきて、色んなものが口の中に入ってきた。水に、蛆虫に、肉片も。〝やめてくれ〟〝やめてくれ〟〝やめてくれ〟って叫んだけど、そのうち気を失ってしまった…」』(378頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 378頁より》

 

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

23日の未明から午前10時ころまでのあいだに、偵察隊は日本軍からのたいした応酬も受けずに、およそ400メートルほども南の方に進出した。米軍は前進を開始してから1時間半後には、すでに2個大隊が煙幕の下に、安里川を渡った。兵は胸までつかる流れの中を12人1組になって、担架で戦死傷者を後方に送ることにした。

川を渡るのに困ったのは車輌だ。第6工兵大隊はこのため23日の夜、車輌用の架橋をしようと苦心し、ガダルカナルの経験を利用して5台のLVTを流れにつっ込み、それで堤防のようなものをこしらえようとした。ところが、LVTが、途中、堤防で2台が敷設地雷にやられ、結局この計画は頓挫してしまった。』(402-403頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 402-403頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124461.jpg

那覇港と安里川を結ぶ運河。運河にかかる橋が破壊されていることに注目。

Excellent view of the Naha Canal, linking the Asato Kawa and Naha Ko. Note the wrecked bridges across the canal.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

中央〜東部戦線

与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

5月23日の雨の日の朝、第2大隊と第3大隊が、この一連の丘陵奪取をめざして、まず攻撃の火ぶたを切り、その日の終わりには村役所跡後方の山にいるG中隊と〝高嶺〟を占領したL中隊のあいだにわずかに前線のギャップが生じただけで、馬天港の海岸線から雨乞森村役所跡後方の山高嶺にいたる強固な前線を確立することができた。

2日間も降りつづいた雨の中を、第184連隊は、与那原南の日本軍防衛線を1800メートルほども奥深く突破した。そして、第32歩兵連隊のほうでは、包囲作戦の第2の局面、しかも決定的局面を展開すべく進撃を開始できたのである。』(409頁)

『第32連隊の主力は、…第184連隊のグリーン大佐から、ぶじ通過したという無線電話による連絡を23日の朝に受けてから、進撃を開始した。その日の午前10時45分、同連隊の第2大隊は、与那原を通過して西へ向かった。最初の目標は、与那原の西側、那覇ー与那原街道から南になっている一筋のひも状の丘陵地帯だった。与那覇村落のすぐそばには高い山があり、これをオーク・ヒルと名づけた。

日が暮れるまでに、第2、第3の両大隊は、与那原の南西で1キロにおよぶ散兵線を展開し、西に面して首里包囲作戦に運命を託す用意をととのえた。

このときまでには、すでに日本軍の重機関銃は火を吐き、米軍の進撃速度を落としていたが、これは明らかに今後の反撃は激しくなることを物語るかのようであった。

降りつづいた雨は、コニカル・ヒル北に集結した戦車群を泥の中にめり込ませ、各指揮官が先攻隊として期待していた装甲車隊もその機能を果たせなくなった。その他、重砲類も同じように動きがとれなくなり歩兵は独自で進撃をつづけていかねばならなかった。』(410-412頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 409、410-412頁より》 

youtu.be

那覇首里ー与那覇戦線の米軍

Battle of Okinawa US Marines & Army Soldiers in Combat Naha Shuri Yonabaru Line with Sound WW2 - YouTube

 

 

第32軍の動向

捨て石にされた沖縄県

前日22日、第32軍は首里の司令部壕を放棄し、沖縄本島南端の喜屋武へ撤退することを決め、そこで最後の一兵まで戦うつもりでいた。

大本営陸軍部(参謀本部)はかねてから「沖縄は本土決戦準備のための捨て石であり、時間稼ぎのための楯である」との方針を固めていたが、軍司令部はそれを忠実に守ったのである。牛島司令官の「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存す限り、戦いを続ける」との言葉にそれは表れていた。

だが、それは南部へ逃れている県民約15万人を巻き込んで、島尻全域〝戦場の村〟と化す悲劇の始まりであった。逃げ場のない島の南端に追い詰められる県民の運命は、一顧だにされなかった。』(156頁)

《「ざわわざわわの沖縄戦  サトウキビ畑の慟哭」(田村洋三/光人社) 156頁より》

『これを知った島田知事は県民保護の立場から「首里を捨てて島尻南端の水際まで下がれば戦線は拡大し、県民の犠牲がいっそう大きくなる」と強硬に反対したが、軍は聞く耳を持たなかった。それどころか首里放棄・南部へ撤退の方針すら県や報道機関には明示せず、非戦闘員の南部避難のみを指示した。南部へ追い詰められる県民の運命は、初めから眼中になかったのである。』(318頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318頁より》

 

軍司令部

『軍司令部はその夜のうちに、新たな司令部壕として島尻郡南端・摩文仁村の「摩文仁の丘」(標高が89メートルあるので、軍は89高地と呼んだ)西部にある一部構築の自然洞窟を確保した。また移動可能な負傷者と軍需物資の後送を命じると共に、軍司令部要員の首里脱出は同27日、第1戦主力部隊の撤退は29日ごろと決めた。軍司令部壕の第4、第5坑道にいた第5砲兵司令部の撤退も27日と決まった。』(318頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318頁より》

『…首里撤退が決定されて、32軍は、29日に予定された主力の後退を援けるために、豪雨のなか、第一線の配置換えを行なった。首里北方の備えは、しっかりしていた。西には、有力部隊を32軍に派遣しながらも、約8千名の海軍陸戦隊が、大田実海軍少将の指揮下に、堅固な陣地を築き、立てこもっていた。北と西とは、戦線も比較的安定しており、防いでみるだけの自信があった。ところが、東部戦線が、極度に堅迫していた。

運玉森の陣地に拠って、南進する米軍を食いとめていた部隊が、東方の中城湾に浮かぶ米艦艇から撃ちかけてくる艦砲射撃があまりにも猛烈なので、艦砲弾の飛んでこない丘の西側の陣地に避難していた夜なか、叩きつけるような大雨のなか、米7師団に闇の運玉森の東のスソをスリぬけられた。難所を突破した米軍部隊が、勢いを増し、与那原から西に向かって、さらに進撃をつづけそうな様子が見えていた。』(275-276頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 275-276頁より》

 

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊): (隊長: 篠原保司陸軍中尉)

『一中勤皇隊本部が首里で重大な決定が成された気配に気付いたのは、保栄茂グスクの壕に入って1週間目の5月23日ごろである。雨が降ったり止んだりの鬱陶しい空模様の下、第62師団野戦病院(石5325部隊、62野病)の自力で辛うじて歩ける〝独歩患者〟数十人が突然、保栄茂グスクの壕へ撤退してきたからである。

全員、血と汗と脂と泥にまみれた軍服、銃にすがってヨロヨロと歩くあまりの落魄ぶりに、勤皇隊員は愕然とした。中に火炎放射器で顔を真っ黒に焼かれた少年兵がいて、一日中うめきどおしで痛々しかった。撤退してくる負傷兵はその後も増え続け、篠原隊長は野病の幹部と協議の末、勤皇隊本部が入っていた広い上の壕を明け渡し、下の壕へ移った。』(319頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318頁より》

 

 

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1945年 5月22日 『死ぬまで戦う運命』

首里に迫る米軍

『5月末、雨が降りつづいているころ、米軍両翼の前線は中央部の部隊を出し抜いて進撃した。』(401頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 402頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-49.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

 

西部〜中央戦線

クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

『この5日間にわたるハーフムーン一帯の不毛な戦闘で、シェファード将軍は首里高地からの砲撃がつづくかぎり、ハーフムーンの占領はむずかしいとの結論にたっしていた。そのため、第1海兵師団が首里の攻略に成功するまで、ハーフムーンの攻略は見合わせることにした。』(368頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 368頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-32-4.jpg

次の谷へ——岩の多い高台の観測点から、米軍が那覇へと進撃する様子を見守る、沖縄戦(の米軍)を統轄する三人。左は双眼鏡を手にする第10軍総司令官バックナー中将、中央は第6海兵師団シェパード少将、右はその副官クレメント准将(1945年5月22日撮影)

INTO ANOTHER VALLEY-- From a rocky ledge, observation post, three men who run the show on Okinawa, watch their troops move up on Naha. Left with the field glasses is Commanding General of the Tenth Army, Lieutenant General Simon Boliver Buckner Jr. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…日本軍は米軍にこの丘を渡すまいとして頑強に抵抗し、裏側の斜面を完全に支配していた。クレセント高地が日本軍の手の中に確固としてあるかぎり、第6海兵師団は首里包囲作戦を遂行することはできない。東方進撃が不可能だったからである。

いろいろな状況を考慮したあげく、師団はむりにクレセントをおとすことはやめ、そのかわり針路を那覇国場川の方向にとったのだが、左翼後方を守備するためにも、また東側にいる第1海兵師団との連絡維持のためにもクレセント高地北側には、そうとう強力な守備隊を残しておく必要があった。

米陸軍右翼(西側)の主力は那覇の方に向けられ、首里はしばらく攻撃を見合すことになった。』(401-402頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 401-402頁より》

 

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

5月22日海兵隊員たちは安里川の護岸にむけて散発的で軽微な抵抗の中を前進した。第3水陸両用軍団の情報部は「日本軍の重火器拠点を攻略すると、死体は遺棄されていたが、わずかなライフル以外の武器は発見できなかった。自動火器や、多用されている擲弾筒などの重火器は、これらの重要拠点が維持できなくなると、後方に向けて運び出されている模様である」と報告した。

偵察隊は、日本軍の散発的な銃撃がはじまる前に川を渡ると、180メートルほど前進して、那覇市の郊外に達した。…1100時までに対岸までの強固な渡河ラインを構築した

ガイガー将軍は、第1海兵師団との境界線を右に移動させて第4海兵連隊第2大隊と接近させ、第6海兵師団の左翼側と、第4海兵連隊の橋頭堡の防御をより強固にさせた。この間、激しい降雨により、安里川は胸の高さまで水深があがり、濁流と化していた。工兵隊は、第4海兵連隊の突破口を押しひろげるために、渡河器材の搬送を急いだ。』(369頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 369頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124438.jpg

南(那覇側の土手)から安里川にかけられた橋。浅瀬、流れの様子、そして古い橋と防波堤の構造形態が見られる。日本軍の破壊部隊によって壊された橋に注目。

The bridge over the Asato Kawa from the south (Naha Bank) again showing the shallowness and nature of the stream and the construction of the old bridge and seawall. Note the results of the enemy's demolition efforts on the bridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月22日の夜から23日にかけて、米軍は安里川の南岸に偵察隊を出した。豪雨のため川は水かさが増していた。この偵察隊からの最初の報告では、米軍は戦車の掩護射撃なしでも川を渡れるだろうということであった。』(402頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 402頁より》

 

中央〜東部戦線

与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第10軍はコニカル・ヒルの東部斜面を占領して希望を見出した。これで第7師団は中城湾に面した街道を通って日本軍を包囲できる可能性を開いたわけである。

だが、この包囲作戦も失敗の運命にあった。5月22日から29日にかけて、場所によってはいくらか進出できたが、だいたいにおいて日本軍陣内では、これといった進出はみられなかった。日本軍の防衛線には、いささかのゆるぎもなかったのだ。』(395頁)

『進撃開始時刻は、5月22日の午前2時、それまで兵は防水外套に身をくるんで、砲兵隊の予備砲撃の音に耳を傾けていたが、重苦しい砲弾の音は、雨の中ではかえって大きく、また近く聞こえてくるのだった。

しばらくして中隊は縦隊になって、鬼気迫るような闇夜を、しのつく雨や泥土の中を南に進撃していった。与那原にくると廃墟の中を2人の日本兵がひらりと身をかわして物陰にかくれた。だが、米軍は発砲しない。ただ黙って進んでいくのみである。

午前4時15分、中隊はやがて廃墟と化した村落の十字路まできた。前方には、すぐ目の前にスプルース高地(上与那原の俗称、上の森)がある。この丘に進撃すべく1小隊を先頭に隊伍をととのえたが、ここでの進撃で事故ひとつなかった。こうしてG中隊はスプルース高地の峰の上につくと、今度はE中隊に、チェスナット高地(雨乞森)に進撃を試みるよう信号弾を打ち上げて合図した。

E中隊が、与那原の南東1千メートルの地点にある高さ約130メートルほどの雨乞森についたのは陽も上がってからであった。空はあいかわらず重苦しく、暗灰色に曇っていた。』(408頁)

『第3大隊は与那原を通過して第2大隊につづき、雨乞森や、その南西につづく連丘ジュニバー(大里村役所跡後方)やバンブー・ヒル(高嶺)の方に進んでいった。雨乞森を、第184連隊としては、第32連隊がぶじ与那原街道を通過して首里の背後に迫るようにするためには、前もって占領しておく必要があった。』(409頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 395、408、409頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/208459.jpg

廃墟となった与那原

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『第184連隊が、与那原の雨乞森からその西方の高嶺森に至る線を確保し、左翼と後方を守っているあいだに、第32連隊のほうでは、那覇ー与那原線道路をまっすぐ西に向かって進んでいくことになった。首里を南部と切断するためである。

米軍の首里包囲作戦の全計画の成否は、じつにこの第32連隊の計画を遂行できるか否かにかかっていた。5月22日、第184連隊が南進しているとき、第32連隊のF中隊はコニカル・ヒルの南端、与那原のちょうど西にいて、そのあたり一帯を守っていた。』(410頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 410頁より》

 

 

第32軍の動向

進退を決める作戦会議

5月22日の夜、雨が首里城の廃墟を激しくたたきつけるなか、牛島中将は作戦会議を招集した。首里防衛線には亀裂が生じており、西翼では、シュガーローフの三角防御網が第6海兵師団に遂に突破されてしまい、海兵隊はいつでも首里を側面から攻撃できる位置にいた。東翼では、陸軍の第96歩兵師団がコニカルヒル(運玉森)で突破口をひらき、米第24軍団は、この裂け目に第7歩兵師団を投入した。いまや日本軍の第32軍は、首里要塞が包囲される危機に瀕していた。』(369-370頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 369-370頁より》

 

軍司令部

5月22日…夜、第32軍参謀全員と各師団の参謀らが軍司令部に集まり撤退案をめぐって討議した。第62師団の上野参謀長は、首里での玉砕を主張、第24師団の木谷参謀長は撤退案に賛成、混成旅団の京僧参謀は知念案を支持、軍砲兵隊の砂野高級部員が撤退案に賛同、海軍はとくに意見はなかった。』(138-139頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138-139頁より》 

玉砕を主張したのは第62師団だけだった。もう戦おうにも武器弾薬がない。首里周辺の洞窟には「後送するにも余力はなく、また集積した軍需品を輸送する手段もない。重傷者を見捨てて後退するのは、情として忍びない。師団は戦友将兵の大部分が戦死した現戦線で玉砕したい」と訴えた。後退と決定したら、動けない重傷患者は自らの手で殺してしまわなければならないのだ。それが日本軍であり、「虜囚の辱め」を受けさせないためである。』(78頁)

『八原高級参謀はこうした意見を聞いたあと、長参謀長に対して、首里を放棄して喜屋武半島へ後退すべきことを進言した。すぐにでも玉砕したがっていた参謀長だったが、本土決戦を少しでも有利にするために、できるだけ長く抵抗すべきである、という意見には賛成しないわけにはいかなかった。それが沖縄守備軍・第32軍に課せられた最大の任務だったからである。』(80頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 78、80頁より》

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第32軍参謀長 長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

牛島中将は決断をせまられていた首里で玉砕するか、知念半島へ撤退するか、あるいは20キロメートル南に位置する、多くの洞窟点在する八重瀬岳・与座岳まで撤退するかである。この場所には第24師団が北の首里に移動したさいに、武器や弾薬の補給物資をそのまま残していた。

すでに6万人以上の将兵が戦死していた。歩兵第62師団、歩兵第24師団、独立混成第44旅団ともに、ボロボロになっており、首里防衛線は崩壊の危機に瀕していた。

首里の防衛拠点が縮小していくなか、最後の決戦にために大規模な撤退作戦が計画された。生存している5万名もの将兵が、直径数キロ円内に押しこめられた場合、自滅は必至である。いったん包囲されてしまえば、圧倒的な火力をほこる米軍に前に日本軍の将兵は、格好の餌食にされてしまう。

最善の解決策、かつ、もっとも戦闘をひきのばす策を、牛島中将は選んだ。生き残った将兵を南部の八重瀬岳・与座岳方面へ撤退させることである。背後は海であり、彼らはここで死ぬまで戦う運命となった。』(370-371頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 370-371頁より》

http://www.generals.dk/content/portraits/Ushijima_Mitsuru.jpg

第32軍司令官 牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5

 

52高地: (シュガーローフ)

『日本軍の撤退作業が進んでいた。満州での夜間移動訓練をつんだ輜重第24連隊は、残されていた車輌で5月22日に物資と負傷兵の搬送をはじめた。』(390頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 390頁より》

 

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1945年 5月21日 『雨と泥との闘い』

雨と泥との闘い

5月21日、米第10軍が首里市内に進出しはじめようとした時、戦線一帯はひどい豪雨に見舞われた。その結果、道路が押し流され、米軍は補給路を絶たれた。』(138頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/91-04-1.jpg

トラックが別のトラックを追い越そうとしている。左側は深いぬかるみで立ち往生したトラックで、右側が通り抜けようとしているトラック。

One truck tries to pass another. The one on the left is stalled and the other is trying to get by in the deep Okinawa mud.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月21日、天気が悪くなり、雨が降りだした。初めは小雨だったのが、夜更けには土砂降りになった。それが10日間続いた豪雨の始まりだった。冷たい雨が地を叩き、あたり一面、泥のぬかるみになった。山道を進もうにも、一足ごとに滑って転ぶありさまだった。』(372-373頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 372-373頁より》

 

首里に迫る米軍

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘/タカムイ/神田川ムイ)

前日の20日夜遅く、日本軍は450〜500人規模で米軍を攻撃、激しい戦闘は深夜まで続いた。

『朝日がのぼると、K中隊の周囲は、海兵隊員や日本兵死体、飛び散った肉片などで、食肉処理のような様相を呈していた。「泥の上に散らばったり、谷間の壁の岩に張りついたり、人間の肉片は、あたり一面に散らばっていた」と海兵隊員は語った。体が真っぷたつになった男、切断された腕や脚、取れた頭部などがゴロゴロしていた。G中隊の海兵隊員…がこの場所にやってきたとき、手をのばせば、どこにでも砲弾の破片があり、前夜の砲撃の凄まじさに息をのんだ。…死体を踏まないように、前を歩く兵士の足跡に、注意ぶかく自分の足をかさねながら進んでいった。泥のかたまりのなかの武器の部品、弾薬ベルト、それに未使用の手榴弾などが肉片のなかに散らばっていた。こうした肉片は、どちらの陣営のものか識別できなかったが、どうやら日本兵のもののようだった。』(360頁)

『日本軍が首里防衛線の西翼を突破されることをいかに恐れているかは、今回の攻撃の規模と激しさが物語っていた。戦死していた日本兵は、正規兵で沖縄の義勇兵ではなかった。死体の一体は、身分証を所持しており、階級が海軍の2等水兵であった。また死体の山のなかから見つかった一体は、1等水兵の階級章と、海軍整備科の所属を記載した郵便貯金の通帳を所持していた。のちの捜査で、独立歩兵第1大隊をしめす身分証や、さまざまな海軍の身分証が見つかった。これは、日本兵の多くが那覇近辺の管理支援部隊から掻き集められていることをしめしていた。』(362-363頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 360、362-363頁より》

http://tothosewhoserved.org/usa/pto/usapto11/img/img324a.jpg

Crescent Hill held out until 21 May. Troops of the 4th Marines, 6th Division, crossing open ground to Crescent were under constant observation and fire from Japanese positions on Shuri Heights to the east

US Army PTO 11 Okinawa: Chapter 13: The May Attack on the Shuri Defenses

5月21日の深夜、雨がふたたび激しさを増していた。このため、戦闘要員の輸送と、臨時物資集積所への補給は泥沼で身動きがとれなくなってしまった。「第6海兵師団の新たな攻撃計画にとって、最大の障害は日本軍守備隊の激しい抵抗ではなく、勢いの衰えない土砂ぶりの水で急変した沖縄南部の泥の海であった」と、海兵隊沖縄戦史研究家は書き記している。』(366頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/282283.jpg

泥にはまり立往生する米軍車輌

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 安里(あさと)川: (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

5月21日、第6海兵師団はふたたび攻撃を実施した。この日の目標は安里川上流への到達であった。攻撃の中心は第4海兵連隊で、第22海兵連隊は前進にあわせて支援攻撃を実施する計画になった。…第4海兵連隊第1大隊(C中隊が連隊の予備で抜けていた)がシュガーローフの南側斜面を下り、ホースショアの東の端にむけて攻撃の中心をになった。進撃速度は遅く戦闘は激しく、A中隊、B中隊とも川に到達するために苦戦していた。』(363頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 363頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124450.jpg

北の土手から南東へ安里川を眺める。干潟と、那覇から首里の丘陵地を東部へらせん状に流れる川の幅に注目。

View of the Asato Kawa from the north bank looking southeast. Note the mudflats and the general width of the stream as it travels eastward, winding through Naha, and up to its source in the Shuri Hill mass.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

5月21日、第4海兵連隊は安里川の線にそって攻撃をつづけていった。彼らは安里タカムイや神田川ムイのほうに、250メートルほど前進したが、首里の高地から撃ち込んでくる日本軍の猛烈な砲火や迫撃砲弾を浴びて、クレセントを完全に占領することは不可能であった。』(352頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124440.jpg

北側の土手から安里川にかけられた橋。日本軍破壊部隊によって壊された元の橋、沖縄の至るところでみられるような防波堤の構造形態に注目。

The bridge over the Asato Kawa from the north bank. Note the original bridge and the results of its demolishment by the enemy. Note the construction of the seawall, typical throughout Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

雨は、朝から午後遅くまで、絶え間なく降りつづけた砲弾で穴だらけの地面は沼のようになり、滑りやすく、補給は困難になった。海兵隊は川に向けて、点在する多くの日本軍の防御拠点だけではなく、天候とも戦いながら、さらに180メートルほど前進をこころみた。第3大隊は、ホースショアの内側の窪地を攻撃した。この場所の日本軍は、もはや以前のように地形に防御されることはなかった。火炎放射班と、爆破班が日本軍の迫撃砲陣地からの抵抗を一掃した。K中隊とL中隊は昼さがりに攻撃を停止し、ホースショアと安里川の中間に防衛線を構築した。ホースショアの窪地にあった日本軍の迫撃砲陣地は無力化された。師団の左翼側では、第4海兵連隊第2大隊が、首里からの激しい砲撃をうけたため、ほとんど前進できなかった。』(366頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

 

中央戦線

大名(おおな)

『攻撃は、21日にも続行された。戦況は、ますますひどく、進展状況は前日よりもおそい。ここでも、これまで何回も行われてきたように、米軍は特定の陣地を大砲や手榴弾、ダイナマイトなどで、一つ一つ、たんねんに撃滅しなければならず、そのために、進撃度は遅くならざるをえなかった。

第2大隊は、大名高地にナパーム弾を撃ち込んで焼きはらった。このため日本軍は外に逃げまどい、米軍迫撃砲のもとにさらけだされる仕末になった。こんどはバズーカ砲やライフル、手榴弾、その他、幾百もの白燐手榴弾をもって、丘陵裏側の洞窟を攻撃した。日本軍の迫撃砲と銃火が激しく、海兵隊は墓や岩かげを見つけては、そこに、身をひそめた。』(362頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/83-04-1.jpg

首里城をめぐる攻防戦で、大名丘陵を確保すべく前進する第1海兵師団の兵士たち。(1945年 5月21日撮影)

Marines of the First Marine Div. moving up to secure Wana Ridge in the fight for Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『第3大隊は荒廃した丘の上を、25メートルほど前進したと思うと、夜になると、今度は、また元の陣地まで追い返された。 

こうして攻防戦を幾度かくりかえしたが、5月21日の午前零時をすぎてまもなく、およそ200人からなる日本軍が、第1海兵師団を大名丘陵前面から駆逐しようと襲いかかってきた。彼らはロープや十字鍬、ハシゴを使って反対側の険しい崖をよじのぼり、小道を通って海兵隊の陣地に斬り込んできたのである。

これを迎え撃ったのが第2、第3大隊のあいだにいたC中隊で、ただちに機関銃やライフルで応戦したが、なかでも、この至近戦で効果的だったのは、榴弾であった。海兵隊腕も折れんばかりに手榴弾を投げつけ迫撃砲手は集中砲撃を浴びせて、日本軍の逆襲は阻止された。この日の朝、C中隊は4人の戦死者を出し、26人の負傷者を出したが、日本軍もまた、140人の戦死者を出した。』(362-363頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362-363頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/123329.jpg

第1海兵師団の歩兵。首里城決戦でワナリッジにある日本軍施設を攻撃

(1945年 5月21日撮影)

Infantrymen of the First Marine Div. Firing at Jap installations on Wana Ridge in the fight for Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月21日から小やみなく降りつづいた豪雨は、大名峡谷を泥沼にも似た濁流の海に変えた。戦車はぬかるみにはまり、水陸両用のアムトラックさえ泥沼を乗りきることはできなかった。前線の環境は痛ましいほど劣悪だった。物資の補給と死傷者の後送が深刻な問題になった。食糧、水、弾薬も底をついてきた。タコ壺はたびたび水をかき出さなくてはならなかった。兵士の服もブーツも足も体も、つねにずぶ濡れだった。睡眠をとることも不可能に近く、心身両面のストレスが海兵隊員をむしばみはじめていた。』(378頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 378頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p368b.jpg

豪雨で道路が流されたため、物資や負傷兵の移送は海兵隊員が手で担いで行なった

1st Division marines resort to hand carrying of supplies and wounded as roads are washed out by torrential rains.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

5月21日、L中隊がまだ〝犬歯山〟付近ではげしい戦闘にはいっているころ、一方では、I中隊とF中隊が、コニカル・ヒルの方向からシュガー・ヒルを攻撃していた。米軍は、峰づたいに地歩を固め、機関銃や迫撃砲を撃ちまくり、その後、戦車隊を先頭に洞窟やトーチカを攻撃していった。60ミリ迫撃砲や重機は、的確に日本軍陣地を攻撃し、歩兵の動きについて峰から峰へ進んでいった。F中隊は右翼からシュガー・ヒルに進撃し、散兵線をしいたが、〝犬歯山〟からの猛烈な砲火で、そこに1週間も釘づけにされてしまった。だが、同中隊は、21日の夜、奇襲攻撃を試みて50人もの日本兵を倒し、一方、I中隊はなんなくシュガー・ヒル東部を占領し、G中隊も増援にきた。

この日の進撃で、381連隊は56人もの戦死者を出したが、日本軍には403人の損害を与えたコニカル・ヒル東斜面は、いまや全面的に米軍の手中にはいり、第7師団は右翼では少しも妨害されることなく与那原海岸の道路を進撃できた。しかし、コニカル・ヒルの西側と〝犬歯山〟の背部はまだ日本軍が確固と守っていた。』(393-394頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 393-394頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-48.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

『米第96師団は、コニカル・ヒルと、その南端のシュガー・ヒルの東側斜面を確保した。一方、与那原から馬天方面にいたる街道は、進撃にそなえてきれいに片づけてあった。ひとたび中城に面した街道を通って与那原に出て、さらに進撃すれば、米軍は背後から首里を襲うことができる。そうすれば日本陸軍の主力をうまく包囲することができるのである。これが米第24軍団が5月21日、日が暮れるとともに開始しようとしていた作戦計画であった。』(406-407頁)

5月21日の午後7時0分コニカル・ヒル北部のふもとにあたる西原村我謝丘陵に隊伍をととのえて進撃することになったが、その進撃は夜の静寂になかを、忍びこむようにして粛々と行うことになった。』(407-408頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406-407、407-408頁より》

 

 

第32軍の動向 

軍司令部

沖縄戦が始まって2か月が過ぎようとしていた。沖縄の32軍は、組織的に戦闘を続けることが難しくなっていると考えていた。

5月21日首里の日本軍司令部に八原高級参謀をはじめ、各兵団の参謀長が集まっていた首里で「玉砕」覚悟の最後の戦闘を続けるか、南部に撤退しあくまで持久戦を続けるのか。司令部に梅雨の激しい雨の音が鳴り響く中、協議は夜まで続いた。』(146頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 146頁より》

『この頃、守備軍首脳は、首里で玉砕する腹づもりをしていた。しかし八原作戦参謀は、一般的戦況を考慮しつつ南部の喜屋武半島地区への撤退を考えていた。彼は、部下の長野参謀に守備軍さいごの布陣の策定を命じた。長野参謀は高級参謀の意を汲んで次の三案を立案しそれぞれの利害得失を明らかにして参謀長に選択決定させることにした。

一、喜屋武半島に撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠る。』(138頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

  

52高地: (シュガーローフ) 

『日本軍の大規模の兵力を動員した攻撃は粉砕された。第4海兵連隊が、陣地の正面で集計した日本兵の死体は494体にものぼった。それ以外にも16体が、砲撃や銃撃をうける手前で死んでいるのが発見された。さらに第22海兵連隊の担当区域でも40体の死体が確認された。「日本軍の軍服は、比較的新しく、きれいだった。中には、米海兵隊のヘルメットや弾薬ベルトを着用した日本兵の死体も見うけられた」と米軍の情報分析報告書には記されている。』(362頁)

陸軍の正規部隊ですら寄せ集めの状態で、新たに投入された海軍部隊の大半は戦闘経験のない管理支援部隊や、民間人からの義勇兵、それに、大田海軍少将指揮下で、ほとんどが戦闘訓練をうけたことすらない、地元の沖縄県民による飛行場設営部隊で構成されていた。

しかしながら、これらの部隊は小禄半島にあった補給処と、飛行場に散らばっていた航空機の残骸などから回収した豊富な自動火器と弾薬を装備していた。このうち、とくに第3大隊は「巌部隊」と呼ばれており、2個中隊からなる415名の兵士に、28梃の機関銃、258梃の小銃、27門の擲弾筒、191個の地雷に、1744発の手榴弾を所有していた。これらの3個大隊は第32軍の増援のために組織されたものであった。』(341頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 341、362頁より》

 

大名(おおな)

『…米軍は、しつように大名の岩山地帯を攻撃大砲や手榴弾、ダイナマイト、ナパーム弾などあらゆる砲火でひとつびとつ守備軍陣地をつぶして5月21日、ついに大名高地の台上を確保した。沢岻と大名を結ぶ丘陵地帯が陥ちると、首里の守備軍本陣の運命は決まったも同然だった。少なくとも首里の陥落は、もはや時間の問題でしかなかった。』(134-135頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 134-135頁より》

 

運玉森(うんたまむい)

『形勢は、日本軍にとって、危急の様相を見せてきた運玉森が、5月21日、米軍の手に陥ちた。米軍の第一線は、与那原の北外れから運玉森、弁ガ岳を経て石嶺、真嘉比、那覇市の北縁に及んでいた。日本軍は、なお、最後の一兵になるまで戦いをつづけたが、苦戦は言語に絶した。つぎつぎに戦死傷者が出るが、その補充をすることはできなかった。』(265頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 265頁より》

 

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1945年 5月20日 『真っ赤な戦場』

日本機の襲撃

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/122239.jpg

ほとんど毎晩日本軍機が読谷飛行場周辺に爆弾を落とし、翌朝にはこのくらい大きい穴ができていることもある(1945年 5月20日撮影)

It Happens at Yontan--Almost every night Jap planes drop bombs around the Marine Yontan strip at Okinawa, and sometimes the next morning men climb out of their foxholes and find nearby holes as big as this.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

首里に迫る米軍 

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘/タカムイ/神田川ムイ)

5月20日、第4海兵連隊はタカムイ、神田川ムイ付近の占領区域を拡張していったが、 まだクレセントの峰に達することはできなかった。』(351頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 351頁より》

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南に“クレセント・ヒル”を望むと、印象深い“シュガーローフ・ヒル”のふもとが見える。クレセント・ヒルは、第29海兵連隊のシュガーローフ攻略作戦の成功に続いて、第4海兵連隊の次の目標地点であった。

This is an interesting view of the base of Sugar Loaf Hill looking toward Cresent Hill to the south. Cresent Hill was the objective of the Fourth Marines immediately following theirs and the 29th Marines successful operation against Sugar Loaf Hill.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

0230時に総攻撃が始まった。日本軍は、…ひらけた右翼側を進撃路として選んでおり、狭い谷間に増援部隊をあつめつつ、黄燐弾による激しい集中砲撃がF中隊にくわえられた。海兵隊員たちは、前面の斜面を維持するために豊富にもっていた榴弾を惜しげもなく使っていた。しかし、日本軍の一団は…海兵隊員の戦列に縦射攻撃をあびせられる位置に機関銃を設置した。…絶え間ない銃撃に耐えきれなくなったため、機関銃に一番近い位置に布陣していた小隊が後退し、シュガーローフまでもどって防御をかためることになった。さらにつぎの戦列にいた小隊長も、部隊の後退を命じたため、海兵隊はなしくずし的にホースショアからの全面撤退に追いこまれた。』(332-333頁)

『この一帯にはまだ相当数の日本兵がいたものの、第4海兵連隊の二つの突撃大隊は、この5月20日は予定どおり前進した。攻撃開始時間は0800時で激しい支援砲撃のもとで、戦車隊と突撃部隊は、ホースショアやハーフムーンからの反撃をうける前にすばやく180メートルほど前進した。ホースショア西端の高台を攻撃する第4海兵連隊第3大隊に、右翼側の第22海兵連隊が支援射撃を実施した。攻撃の方法は、戦車を先頭にして、目につくすべての洞窟などの開口部にたいして至近距離から75ミリ砲を撃ちこむか、2門の火炎放射器を装備した通称〝ジッポー〟と呼ばれた支援戦車で焼きはらっていくものであった。その後、火炎放射手と、爆破班をともなった歩兵部隊が前進していった。』(347頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 332-333、347頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/98-02-2.jpg

 “シュガーローフ・ヒル”における第29海兵連隊の総力戦の際、負傷兵を担架隊が搬送するのは不可能に近かったが、戦車がその問題の解決に役立った。写真は、狭軌の線路沿いに負傷兵を搬送する戦車。この線路沿いに海兵隊は進軍した。(1945年 5月20日撮影)

During the 29th Marines' all-out assault on ”Sugar Loaf Hill” it was almost impossible to evacuate the wounded by stretcher parties. Tanks, however, helped to solve the problem. Shown is a tank evacuating wounded along the narrow gauge railroad along which Marines fought. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『L中隊の東側で、第2大隊のハーフムーンへの攻撃は、悪夢のような惨状になっていた。猛烈かつ正確な首里高地からの平射砲撃で大隊の側面は大混乱になった。ハーフムーンの裏側斜面の窪地からの迫撃砲による砲撃は進撃地域の全域を射程にとらえていた。支配地域を防衛しようとする日本軍の抵抗は午前中も引きつづき頑強だった
1130時、攻撃に参加した3個中隊の戦死傷者の数は増加していった。そのため、…攻撃をハーフムーンの中心から側面にシフトさせた。1245時までに詳細な計画がきまり、攻撃を再開した。G中隊に随行する戦車隊の進撃路は、地雷原をぬけるハーフムーンの右翼側に設定した。この強力な支援のもとで歩兵部隊は丘の西端を確保することができた。』(350頁)

1600時までに、夜間の防御体制をかためるためには連隊は攻撃を停止した。K中隊とL中隊はホースショアの窪地にある日本軍の迫撃砲陣地を見下ろす場所を支配した。』(351頁)

2300時、90ミリ迫撃砲の集中砲撃につづいて大隊規模の日本軍が、K中隊とL中隊にたいして攻撃を開始した。…日本軍は中隊にたいして、450名から500名による大隊規模の攻撃をしかけており、彼らを止めることはできなかった。…蛸壺にいた海兵隊員は、この穴を以前つかっていた日本兵が置いたままにしていた擲弾筒を発見した。榴弾も8発か9発残っていたので、彼は前進してくる日本兵にむけて全弾発射したが、ほとんど効果がないように見えた。…第1海兵師団の兵士から見えた光景は、K中隊の戦場が真っ赤だったことである。あらゆる火砲による砲弾や、迫撃砲が炸裂し、その赤いエリアは、どんどん大きくなりつづけていった。…派手な照明弾の明かりをともなう激しい混戦は2時間で終わりをつげた。…深夜までに、戦線を突破できたわずかな数の日本兵は、死ぬか撤退した。』(353-358頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 350、351、353-358頁より》

 

中央戦線

大名(おおな)

海兵隊は、5月20日の朝、進撃に先立って、まず艦砲射撃、野砲、戦車、MI7型砲で首里高地と55高地に猛攻撃を加えた。海兵隊は丘陵頂上で、いくつか白兵戦をまじえたのち、そこの日本軍を殲滅、戦車隊と海兵隊歩兵の協同作戦で、大名岩山まで進出して、55高地裏側の洞窟にたてこもっている多数の日本軍に、直撃をあびせた。

そして、このあたり一帯の陣地を確保することによって、55高地の下方に、さらに進撃することができた。海兵隊爆雷をもった日本軍がいっぱいいるクモの巣のような陣地を蹂躙していった。』(360頁)

『第1海兵師団は、20日の朝、二手にわかれて、大名丘陵攻撃の砲火をひらいた。第3大隊が南東から攻めあげ、第2大隊は、丘陵が東方にのびている。〝100メートル高地〟に向かって進撃を開始することになった。

戦車隊自動操縦砲、および37ミリ砲の掩護砲撃を得て、第2大隊は、〝100メートル高地〟のふもとにすみやかに進撃した。先攻の3小隊は、丘陵南側から撃ち出される日本軍銃火のために丘陵上で行き詰まったが、別の中隊が来て、その銃火の中をかいくぐって攻撃をつづけていった。

日が暮れて第2大隊は、ついに丘陵の一部を確保することができた。だが、〝100メートル高地〟は、まだまだ日本軍の手中にあった。激しい接近戦の結果でも、第3大隊は丘陵西部の丘腹では、わずかに60メートルほどしか前進していなかった。』(361-362頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 360、361-362頁より》

 

石嶺(いしみね)丘陵

『無事に生き残りはしたものの、いまやすっかり憔悴しきった兵隊たちは、夜中の3時ころ峰を登りかけていた。だが、ここでも飛んできた砲弾が炸裂して、が2人の新兵を負傷させた。そのうちの1人は、防水外套にくるんで引きずっていかねばならぬほどの重傷をうけた。こうしてE中隊は、どうにか味方に達することができたのである。

石嶺に夜襲を敢行したこの中隊将兵総員204人のうち、156人が戦死、あるいは傷ついた。もともとE中隊に所属していたのは、将兵129人、このうち無事生き残ったのは、将校2人、下士官1人、兵28人。また、交替部隊としてC中隊から派遣された1小隊は、58人が出かけていって、帰ってきたのは13人だった。重砲部隊では、17人のうちわずか4人しか帰ってこなかった。こういう損害があったとはいえ、E中隊としては、首里の方向に数百メートルも侵入し、砲兵隊の協力も得て、石嶺付近の戦線で、幾百人もの日本兵を倒したのである。』(372頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 372頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

5月20日、チョコ・ドロップの洞窟は、完全に封鎖された。その日、日本軍の1中隊がチョコ・ドロップを奪回しようとして最後の反撃を試みたが、兵力の半分を失って撃退された。同じ日に米第3大隊は、戦車、火炎放射器、爆薬で大石森を総攻撃、ついにこれも確保することができた。(380頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 380頁より》

 

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『…大隊は〝犬歯山〟の近くで猛烈な戦闘にはいり、榴弾肉弾戦のすえ、ついにコニカル・ヒルでいちばん高いところと、つぎの山とのあいだの陣地帯を占領することができた。使い果たした手榴弾は、じつに1100個を上回っていた。』(392-393頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392-393頁より》

 

 

第32軍の動向

軍司令部

5月20日過ぎには軍司令部が置かれた首里の目と鼻の先にアメリカ軍が押し寄せた日本軍は約5万人が生き残ってはいたが、もう、アメリカ軍を押しとどめる戦力はなかった

第32軍司令部は、これまで多くの戦場でおこなわれてきたように、戦えなくなった者を殺し、あるいは自決を促し、歩ける者だけが敵の銃弾に身をさらすようにして最後の突撃を敢行し、玉砕して果てるか、あるいは島尻地区へ脱出移動して、最後の一兵まで戦い抜くか、重大な選択を迫られた。』(77頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 77頁より》

『八原作戦参謀の言葉によれば、5月も20日を過ぎるころになると戦況は、「肺病患者の第三期的状態」に陥っていた。つまり守備軍の防衛体制は、形ばかりで中身はがらん洞というわけである。』(136頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 136頁より抜粋》

 

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

『…数日前、安里川まで前進した第6海兵師団にたいして、那覇市への突破を恐れた日本軍は、4個大隊の海軍陸戦隊を独立混成第44旅団の前線の南側の一帯に配置していた。海軍の大隊は、国場川の南西の丘に陣取り、シュガーローフを援護すると同時に独立混成44旅団の防衛線が突破されたさいに、首里防衛線をまもる役割であった。

そしていま、美田大佐率いる独立混成第15連隊は消滅し、これらの部隊は国場川首里高地をむすぶ、独立混成44旅団の新たな戦線を補強するために投入されるが、さもなければシュガーローフの奪還作戦にむかう準備がととのっていた。かりに戦線が崩壊すれば牛島中将の防衛線の側面が押しあけられ、海兵隊国場川まで突破され、首里要塞の背後にまわりこまれるため、彼らの役割は重要であった。』(340頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 340頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/121883.jpg

金武の労働者用営倉への入り口。17歳から47歳の沖縄人は夜間、路上ではなくこの営倉で休む。日中は灌漑殺虫剤散布柵の建設瓦礫の掃除用具類の回収などといった労役に従事する。(1945年5月20日撮影)

At Chim (Kin) the entrance to the labor stockade where the Okinawan from 17 to 47 years of age are billeted at night to keep them off the roads. During the day they work hauling water, spray DDT, build fences, clean up debris, salvage equipment and other jobs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月20日

1945年 5月19日 『首里に迫る米軍』

首里に迫る米軍

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘)

『…5月19日、第4海兵連隊は、疲れきった第29海兵連隊と交替した。シュガー・ローフの攻撃は、そして、その占領から確保まで至る10日間の戦闘で、第6海兵師団は、じつに2662人の戦死傷者を出し、1289人の戦闘疲労症者をだしていた。

海兵隊の第22連隊および第29連隊では、3大隊とも大隊長を失い、11個中隊がいずれも中隊長を死傷させた。』(351頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 351頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124737.jpg

南西の傾斜地からシュガーローフヒルの頂上を眺める。爆撃による猛攻撃を受け、ほとんど木の根っこも残っていない

The crest of Sugar Loaf Hill as seen from the southwestern slope. Notice the extent to which the soil of the hill has been pounded by bombardment and the few remaining tree stumps.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月19日の攻撃は、第4海兵連隊第2大隊と第3大隊が担当し、第29海兵連隊と交代するとともに5月18日の掌握地域をより強固にすることになった。この間、シュガーローフ上の海兵隊員たちは、依然として攻撃をうけつづけていた。丘は米軍の手にあったものの、すぐ西側に位置するホースショアからの激しい砲撃がつづいていた。とくに海兵隊側の攻撃がきかないホースショアの遮蔽陣地からの迫撃砲射撃は深刻であった。

このため、1630時、ロブ中佐はF中隊にたいして、ホースショアの高台を掌握するよう命じた。結果論として、このロブの命令は見通しがあまいものだった。まだ相当数の日本兵がシュガーローフからホースショアにかけての一帯や、ホースショア自体にも残っていた。そのため攻撃を開始したF中隊はすぐに立ち往生してしまった。先導小隊がシュガーローフとホースショアの間の谷間にさしかかるやいなや、海兵隊員たちは背後からの機関銃射撃をうけはじめた。…メイビー大尉は爆破班と、火炎放射手に丘を降りて、この日本兵に対処するよう命じた。彼はさらに戦車隊にたいして、戻って地下陣地の入り口に砲弾を撃ち込むように要請した。』(329頁)

『F中隊の兵士たちは、手榴弾を使った接近戦を制しながら、ホースショアの窪地の淵にむけて進んでいた。』(330頁)

『日本軍の最初の組織的な攻撃は2300時ころにはじまった。暗闇のもとで、叫び声や矢つぎばやに指示を出す声が聞こえ、日本軍の迫撃砲弾が海兵隊の陣地に落下しはじめた。砲弾には黄燐弾もふくまれていたが、多くの海兵隊員は、日本軍がこの種の砲弾を装備していたのを初めて知った。』(332頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 329、330、332頁より》


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Bleeding and Tasting Death on Okinawa | Against the Odds - YouTube

 

中央戦線

大名(おおな)

『第6海兵師団は、5月10日いらいの大名丘陵戦線で、1千人以上もの死傷、行方不明を出したが、のちに首里高地攻略戦参加という名目で、この戦闘で大統領から部隊勲章を授けられた。しかし、19日、ついに第1海兵師団と交替した。

…大名高地ー55高地方面では、戦況もいくぶん進展していたが、これが大名丘陵方面でも同じように感じられるようになった。

戦車隊とMI7型自動操縦砲、それに砲兵隊が丘陵の裏側にある高地を、徹底的に砲撃した。それにもかかわらず、首里の日本軍砲兵陣は、まだ完全に大名丘陵付近の支配権をにぎっていたし、さらにまた丘陵の上部のほうでは、60メートルにわたって頑強な日本軍陣地があって、ほとんど近づき難いものにしていた。』(361頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80-11-2.jpg

首里大名の丘陵

Wana Ridge.

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大砲迫撃砲による砲撃、艦砲射撃空爆・・・目の前の大名峡谷と左手の大名高地を標的にしたわれわれの猛攻は続いた。日本軍の抵抗もすさまじく、戦場のあらゆる人間、あらゆるものに攻撃を加えつづけた。攻勢に出る戦車・歩兵部隊は残らず砲火にさらされた。それでも火炎放射戦車を含む合計30輌の戦車から放たれた砲弾が谷間に炸裂し、大地を焦がした。それからふたたび敵陣めがけて地海空の総力を結集した砲撃・爆撃が仕掛けられ、その轟音と衝撃たるや、静寂という言葉の存在すら忘れてしまうほどだった。われわれはペリリュー島でも相当の修羅場をくぐり抜けてきたが、大名での激闘はその規模といい、継続日数といい、まったく別次元と言ってよかった。耳を聾するわが軍の攻撃は何時間も、何日間も、いつ果てるともなく続いた。日本軍の反撃もやむことはなかった。私はしつこい頭痛に悩まされた。延々と続く砲火の轟きに頭がしびれ、なかば朦朧となってしまう。こんな経験は生まれて初めてだった。

これほどの喧騒と混乱の真っ只中に昼も夜もなく投げ出されて、平気な人間がいるとは思えなかった。それでも、砲声の大部分はわが軍のものだったし、われわれは手ごろな壕にも恵まれていた。日本兵はこんな猛攻にいったいどうやって耐えていたのだろう。彼らはじっと洞窟の奥に立てこもり、こちらの攻撃が小休止するとうじゃうじゃ出てきて、すかさず反撃に転じる。ペリリューのときと同じだった。こちらの戦法としては、砲撃と空爆で洞窟をつぶすか、周到に固められた守備陣形を切り崩すしかなかった。』(366-367頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 366-367頁より》

 

石嶺(いしみね)丘陵

5月19日、日本軍は石嶺丘陵奪回のため、全総力を傾注してくるようにみえた。…日本軍は数回にわたって攻撃してきた。そしてそのたびに、撃退はだんだん難しくなっていた。…1小隊ほどの兵力の日本軍が攻撃してきたが、米軍の迫撃砲や機関銃、および4個砲兵大隊のタイムリーな集中砲撃によって退散させた。しかし、なおも、日本軍の砲弾は落下しつづけ、米軍の損害もしだいに多くなっていった。夜になったら交替をよこすという連絡が、その日の午前中にE中隊のもとにきた。ところが、正午ごろになって、無電はしだいに弱くなり、ついに連絡は不能となってしまった。日はしだいに暮れていった。

救援隊をさし向けるとの連絡はあったが、5月19日の夜、9時ごろになっても、それらしいものは見えなかった。まもなく後方で激しい銃声がした。なにかが起こった証拠だ。夜10時ころ、やっと第306連隊第3大隊のL中隊がきた。うるしを流したような暗闇のなかを、各兵はすばやく陣地を交替した。』(371-372頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 371-372頁より》

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第381連隊第3大隊指揮官ダニエル・A・ノーラン中佐は、5月19日コニカル・ヒルの砲兵陣地を殲滅させるため、ワルシー少尉以下15人の爆破隊を送った。

隊は日が暮れてから、急斜面をよじ登り、 まず手前の機関銃陣地を殲滅したが、そこからはコニカル・ヒル背面の日本軍陣地がまる見えだったので、執拗な日本軍の反撃を巧みに撃退して、ついに陣地を確保した。』(392頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-12-2.jpg

コニカ(円錐型)・ヒル

南部東海岸の与那原を見下ろす円錐型の丘に、迫撃砲や機関銃、砲撃、爆撃による被害が見られる。小さな白い斑点は地上軍が降りしきる雨を避けるためにたこつぼ壕の上に立てた携帯テントである。

CONICAL HILL WAS THE KEY TO SHURI DEFENSES - Conical Hill, overlooking Yonabaru on the east coast of southern Okinawa showing damage caused by Mortar, machine gun and artillery fire and bombing. Small white patches are ground forces pup tents pitched over foxholes to keep out the almost incessant rain.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

52高地: (シュガーローフ)

5月19日那覇北方地区の米軍の攻撃は比較的ゆるやかであったが、52高地が米軍に占領されたため、安里からその西方崇元寺町方面にわたって陣地占領中の独立混成第15聨隊第2大隊は右翼からの攻撃をうけ苦戦に陥り、損害も多くなった。しかし、独立混成第15聨隊の健闘は軍首脳の感嘆するところであった。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(372-373頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 372-373頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail15_img.jpg

沖縄戦の絵】「墓の中に避難」

『昭和20年5月中旬ごろ、那覇市でも米軍の攻撃が激しくなり、糸満市摩文仁に向けて避難した。父、母、それに3歳の弟と、家族4人だった。壕という壕は避難者で溢れていたが、南風原町でようやく横幅5メートルほどの亀甲墓を見つけ、中に入れてもらった。沖縄に伝わる亀甲墓は中に人が入れるほど広い。中では、子どもやお年寄りなど10人ほどが身を寄せ合っていた。しかし半日ほど身を潜めたとき、隣の墓が空から攻撃された。攻撃を恐れて再び墓を出て南に逃げた。墓さえも狙われることに…絶望的な思いを抱いたという。』

墓の中に避難 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

第6海兵師団の元伍長の証言:

『「沖縄では何度も民間人を見ました。私たちが見た民間人は、皆おびえていました。アメリカ軍は残酷で女性は強姦して殺す、といった噂があったようです。ある時、2人の女性と遭遇したのですが、2人は目の前で手首と喉を自ら切って自殺しましたものすごく苦しんで死んでいきました。でもどうすることもできませんでした。私たちは、民間人を傷つけず保護する方針で上官からも厳しく言われていたのに、なぜあんなことをしたのか、全く理解できませんでした」』(100-101頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 100-101頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/122593.jpg

怪我をした地元女性を前線から離れたところへ案内する海兵隊員。狙撃兵が攻撃を続ける中、ひどいぬかるみを通り抜けての案内。また、前景に見えるのは、前線へ向かう兵隊(1945年 5月19日)

Marine guiding a wounded native woman back to the rear of our lines, thru terrific mud and under continued sniper fire. Also shown in foreground are troops moving up to the front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月19日

1945年 5月18日 『まるで臭い生ゴミの山』

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためだ。

『沖縄と伊江島に基地を建設しようというその狙いは、もちろん、将来の作戦にそなえて、艦隊や航空隊の前進基地補給基地にすることであった。とはいえ、最初のうちは、全建設作業は、進攻作戦遂行のほうに向けられた。幹線道路と、物資集積所への主要道路が建設され、読谷と嘉手納の飛行場は使用を開始し、海岸沖合のタンカーと連結したガソリン貯蔵施設の建設がはじまった。』(444頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 444頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-41-3.jpg

木を切り倒す第1878工兵航空大隊の隊員。この場所に新しい採石場を作る(1945年5月18日撮影)

Personnel of the 1878th Engineer Aviation Battalion falling trees. This area is being cleared for new stone quarry on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/90-29-4.jpg

激しい雨のため、頻繁にぬかるみだらけになった1号線円滑な交通を維持するため、車列を進めながら工兵隊員はブルドーザーを使って深い溝を平らにならした。 (投稿者注: 1号線とは、現在の国道58号線)

Highway Number One, Okinawa, USA, was often a mass of mud due to heavy rains. Traffic had to keep rolling, so the engineers worked with their bulldozers while the traffic moved by, leveling the deep ditches.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の総攻撃・8日目

5月18日、海軍長官のジェームス・フォレスタルはワシントンでの記者会見で、沖縄戦が始まって以来、海軍の支援艦隊乗組員の戦死傷者数が4720名に達したと発表した。この中には、900名の戦死者と2746名の負傷者、それに107名の行方不明者がふくまれていた。フォレスタルは「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償ともなうものであることをアメリカ国民の皆さんに知っていただきたい」と話した。この発表には、バクナーの前進が遅いことへの暗黙の批判がこめられていた。

バクナーは上層部からのプレッシャーを感じていた。彼は、第10軍の前線における進撃が遅いとの苛立ちをかくさず、軍団の指揮官たちに攻撃のスピードを速めるようにせかした。』(314頁)

『第10軍が総攻撃を開始した5月11日の一日だけでも、カミカゼ特攻により4隻の艦船が甚大な被害をうけていた。この中には、空母バンカーヒルの、戦死364名、負傷264名がふくまれていた。』(315頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 314、315頁より》 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d7/James_Forrestal.jpg

ジェームズ・ヴィンセント・フォレスタル(James Vincent Forrestal)

第47代アメリカ合衆国海軍長官および初代アメリカ合衆国国防長官。

ジェームズ・フォレスタル - Wikipedia

 

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘)

5月18日、第6海兵師団の第29海兵連隊のD中隊は、巧妙な協同作戦により、これまでに得た有利な地歩を利用して、ついにシュガー・ローフ陣地の徹底的な攻撃に成功することができた。D中隊指揮官メイビー大尉は、18日の朝、シュガー・ローフ北側の低くなったところに兵を回し、砲兵隊が目標に猛烈な予備砲撃を加えた。それが終わると同時に、戦車3輌がシュガー・ローフの東斜面に回り、日本軍が予定どおり反撃を加えようと、洞窟から飛び出そうとするところを待ち構えて激しく撃ちまくったのである。』(349頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 349頁より》

0830時、総勢80人からなる突撃小隊が前進をはじめた。…殺戮がつづいたシュガーローフは、まるで肥溜のような状態になっていた。D中隊の…一等兵は、腐敗した肉塊の堆積物の横を通過していた。2日前まで、このうち何人かは友達だったはずだが、いまは黒く膨張して誰だかわからなくなってい

「…5月18日に俺たちが突撃したとき、死体を踏まずに丘をのぼるのは不可能だった。…まるで臭い生ゴミの山をのぼるような感じだったからね」砲撃でズタズタになった丘の上にころがる腐乱死体の上を急いで乗り越えながら、…小隊は、丘の頂上部に到達できた。』(322-323頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 322-323頁より》

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シュガーローフ・ヒルに接近している海兵隊員が、高台で足留めを食らっている。(1945年 5月18日撮影)

Marines pinned down on ridge approaching ”Sugar Loaf” Hill.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『安里の北部丘陵シュガー・ローフの洞窟から、日本軍が2隊にわかれ爆雷をかかえて米軍戦車をめざして飛びだしてきた。戦車隊はこれを撃ち倒したのち、後にしりぞいた。メイビー大尉はロケット弾を猛射せよと命令、ロケットを積んだトラックが低地のところまで進撃してきた。ここでミサイルを発射して、やっと日本軍の砲火からまぬかれることができた。海兵隊は再度前進を試みた。すると日本軍はまたもや猛烈な砲火で応酬してきた。

そこで1小隊は、ふもとからそのまま隊を断ちきられぬように西側から丘を登っていき、一方、別の1小隊がまっすぐ北斜面を進撃して、両隊はほとんど同時に頂上をきわめた。その後、丘の向こう側にかくれている日本軍陣地を撃滅しようと進撃をつづけた。シュガー・ローフの日本軍陣地は、午前9時40分、ついに海兵隊の手に落ちた。…まもなくメイビー中隊の全中隊も峰の上まできて、ひるごろまでには負傷兵も後方に移送され、前線は完全に確保されたのである。』(349-350頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 頁より》

『1時間にわたる激しい戦闘をへて、D中隊はようやく丘の周辺部を掌握した。日本軍の抵抗は弱まっており…日本軍の銃砲撃がおさまりだすと、スミス少尉は前方にいる兵士に手をふって合図し「丘を下って周囲を掃討しろ」と叫んだ。』(326頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 326頁より》

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アメリカからみた【沖縄 シュガーローフの戦い(Sugarloaf)】第二次世界大戦 - YouTube 

『第29海兵連隊の戦闘能力は1週間にわたるシュガーローフの戦闘で、いちじるしく衰えていた。第10軍が攻撃を開始した5月10日以来、第6海兵師団は2662名の戦死傷者と、1289名の非戦闘死傷者を出していた。この被害のほとんどは第22および、第29海兵連隊だった。

このため、作戦を続行するには新たな部隊の投入が急務であった。1830時、ガイガー少将は第3水陸両用軍団の予備部隊であった第4海兵連隊の投入をきめ、シュガーローフの占拠を命じた。第29海兵連隊は師団の予備部隊となり、第3水陸両用軍団の指揮下に入った。』(328-329頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 328-329頁より》

『…F中隊のほうは〝馬蹄ガ丘〟(安里のタカムイと神田川ムイ)の一部を占領、そこに陣取っていた日本軍を徹底的に攻撃し、さらにそこからクレセントの北部斜面を確保したのである。

夜11時ごろ、海兵隊シュガー・ローフで日本軍が喚声をあげたのを聞いた。それと同時に迫撃砲がしだいにはげしく降りだしてきた。午前2時30分、残った日本軍が、総力をあげて、タカムイ、神田川ムイに陣取った海兵隊めがけて突進してきた。シュガー・ローフ西側で、真壁道が切れているところを、日本軍は、道路沿いに進撃してきて、海兵隊を射撃できるところに1梃の機関銃をすえた。

海兵隊の機関銃が、これを撃ちまくって射手を倒したが、相手はなおも射手を替えて射撃してきた。ついに海兵隊2個小隊は後退したが、小銃隊のほうが丘陵戦術に出て、このシュガー・ローフ奪回をねらった少数の日本軍を攻撃し、33人を倒した。こうして未明までに海兵隊は、どうにかシュガー・ローフでもちこたえた。』(350-351頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 350-351頁より》

 

中央戦線

大名(おおな)

『…戦車と自動操縦砲が、75ミリ砲弾、105ミリ砲弾を7千発も撃ち込み、また工兵隊はダイナマイトや火炎放射器で、大名丘陵の低斜面にある日本軍陣地を破壊した。』(360頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 360頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/84-30-1.jpg

洞窟内の日本兵に掃討をかける工兵隊爆破分隊

Engineer demolitions squad destroys Japs in cave.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

石嶺(いしみね)丘陵

『タコ壺のなかに身をひそめていたE中隊の兵は、5月18日の朝、万難を排して踏みとどまれ、との命令を無線でうけた。…兵は最後の塹壕に運命を託した。手榴弾は尽き、機関銃も迫撃砲も破壊され、生き残った兵は、死んだ友軍の弾薬帯から、1発の弾丸もあまさず抜きとり、使える銃を集めては、装塡し、銃剣をつけて、敵襲にそなえた

日本軍の攻撃は昼になるにつれ、ますますはげしくなる一方であった。手榴弾を避けて、穴から穴に逃げまわるうち、数人の米兵が近くから銃弾をうけて戦死した。日本軍は8門の迫撃砲でもって、2門ずつ同時に絶え間なく砲撃してきた。友軍の砲兵隊は、攻撃してくる日本兵を撃退することはできたが、防備の固い迫撃砲陣地を撃滅することはできなかった。』(369頁)

午後になって、第307連隊は、この孤立した部隊に救援隊をさし向けた。C中隊から出た部隊は、石嶺丘陵北側の広場を渡ってE中隊に合流しようとしたが、無事にたどりついたのは指揮官と5人の兵だけだった。かれらは、ころげ込むようにしてタコ壺にはいったが、指揮官は中隊本部にかけ込むとき、頭部を射抜かれて即死し、身体ごと、どーっと指揮所のなかに落ち込んだ。

しかし、その日の午後おそく、担架を用意した80人からなる友軍が、夕方には救援にくるとの情報がはいり、一同ほっと安堵の胸をなで降ろした。…暗くなってから、日本軍の砲火も、大分しずまってきた。夜8時ころ、第1回目の担架隊がやってきた。ただちに負傷兵の後方輸送がはじまり、…18人の負傷者が2時間半のうちに後方に運ばれ、…退避していった。』(370頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 369、370頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

『つづく二日間は、米軍は陣地強化に専念するとともに、わずかながら戦線を延ばしていった。チョコ・ドロップ周辺の丘にいる日本軍を殲滅することはそう簡単にはいかない。南のほうにまだまだ日本軍の強固な陣地があるので困難をきわめている。乱戦の中で3人の米兵が、かなりの重傷を負って、救援隊がくるまでの2日間、チョコ・ドロップの南で横たわっていた。この3人は、救出されたとき、すでに2人は死亡、他の1人は精神錯乱になって、まだ日本軍と戦っていると思い込み、手がつけられず、ついに腕ずくで引行していかなければならない仕末であった。』(379-380頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 379-380頁より》

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『ハワイ出身のレオナード・K・ワーナー少尉は、5月18日、第381連隊のK中隊から1小隊をひきつれて、コニカル・ヒル2番目の丘陵の重機陣地を爆薬で攻撃し、さらに進んで3番目の丘を攻め落とした。この3番目の丘にきたとき、ワーナー小隊は、1番目の丘と2番目の丘のあいだにある陣地地帯から、猛烈な砲火を浴びていたが、ちょうどそのとき中隊長から無電で連絡があり、シュガー・ヒルまで進撃できるかどうか聞かれた。

「行けることは行けるんですがね」と、ワーナー少尉はいった、「ジャップの野郎どもが、後方から撃っているのをみると、どうも、ずうっとつけられそうですよ」

コニカル・ヒルでいちばん高いところと、このシュガー・ヒルのあいだに、犬歯のように三角形にとがった山があって、ここからの銃火もまた激しく、ワーナー小隊は苦境におちいり、煙幕にかくれて退却せざるをえなくなった。戦車隊も攻めていったが、知念半島からも猛烈に砲撃されて、ついに退却した。』(392頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-48.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

 

第32軍の動向

52高地: (シュガーローフ)

『17日には、来攻する米軍を撃退できたが、18日には、ついに52高地の頂上を米軍が握るにいたった。日本軍は、その夜半、猛攻を加えて、いったん米軍を頂上から追っ払ったが、味方の死傷が多く、高地を維持できず、19日、高地は完全に米軍の手に陥ちた。』(263頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 263頁より》 

陸軍の混成大隊に歩兵として配属された、海軍所属の兵士の日記』(315頁)
5月18日  我が軍には、戦闘機もおらず、戦艦もおらず、戦車もない。我々は見捨てられたのだ。死ぬまで抵抗する以外に道はない。これまで死んだ陸軍の指揮官も皆同じ事をいっている。我が軍の山砲も破壊され、もはや1門も残っていない。この部隊に配属されてから、食事は1日2回に制限されている。腹が減ったこの不毛な島で死ぬのだろうか無事に故郷に戻りたい。』(317頁)

『安里東側の52高地地区は、18日早朝から猛烈な砲迫の集中砲火と戦車を伴う米軍の攻撃を受け勇戦したが、1000ころには52高地頂上付近は米軍に占領された。同高地守備の独立混成第15聨隊第1大隊(野崎大隊)は18日夜ー奪還逆襲を行い、19日0230ころには米軍を52高地頂上付近から撃退したが、死傷者続出し奪回は不成功に終わり、大隊は19日黎明安里北側大地に後退する状況となった。

眞嘉比地区の独立混成第15聨隊第3大隊も米軍の強圧を受けながら、眞嘉比南側地区の陣地を保持した。同大隊は18日夜包囲下にある聨隊砲陣地の救出攻撃を実施し、聨隊砲中隊、速射砲中隊の両中隊長以下の救出に成功した。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(339頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 315、317、339頁より・日記内容は英文からの翻訳》

 

与那原(よなばる)

重砲兵第7連隊(球4152部隊)兵士の証言:

『「…4月1日米軍が上陸したとき、 私は与那原の兵舎(本部300人)に通信兵として通信室に残り、他の大部分 の兵は壕に入るため出て行きました。しかし、米軍上陸し1カ月くらいは第2戦陣地で比較的平穏でしたが、上陸して第62師団(石兵団)の前線まで米軍が来た5月から戦闘が本格的になり、司令部の首里も危なくなりました。通信隊は有線も無線もなく、重砲連隊 の通信兵は小銃がないので手榴弾を4発くらいを持って切り込みに出ました。

ですが、第62師団や第24師団 (山兵団)の歩兵が前線で戦う。我々重砲隊は歩兵教育を受けてい ないので、歩兵が前線に出て、我々はその後についていく(海軍を含め)。歩兵が切り込みに失敗したら我々の番ですが、突っ込む前我々は100〜200メートル前で準備しているのだが、爆雷を持って突っ込む訓練は受けていない

歩兵が切り込みに行くが成功率は少なかった。米軍は南方、サイパンなど南洋諸島や比島などで、日本軍の万歳突撃に懲りているから警戒を厳重にしていました。ピアノ線に引っかかるし、照明弾が逆三角形に打ち上げられ、夜間が昼間のように明るくなるから、日本軍の姿が敵からもよく見える。その上に米軍は特に目標なく盲滅法に弾幕を張っているから、突っ込んで来る日本兵は蜂の巣のようになって戦死してしまいました。

大里城陣地で切り込みを行なったとき、敵との間隔は100メートルくらいまで近づいた。第1線は各中隊の小銃分隊、小銃の無い通信や本部などは第2線でした。守備担当の独立混成44旅団司令部(知念地区支隊)から「何月何日、切り込み隊何名準備せよ」の命令がある。通信・暗号・観測・指揮は5〜60名、これが第2線グループです。そのグループから何名出せと命令がある。各部隊から選抜されて出る海軍記念日とかの時を期してでありました。各部隊は一斉に行動、突撃をして米軍の第1線を突破はしましたが半分以上が犠牲となり、切り込みは中止となりました。

首里を守るための戦闘は第62師団が中心となり、 海軍の特攻機は各飛行場を攻撃しました。米軍の弾幕 は花火のようでした。艦船に対しても突っ込んで行きました。与那原には海上特攻隊震洋)があり、山からレールで海岸へ降ろして、海上を船舶目掛けて特攻するのを、我々は山から見ていましたが、ローソクが燃えるようにくるくる回り、やられてスーツと海中に消えて行く。』(「重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」)

《「軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻・重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」(平和祈念展示資料館http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_403_1.pdf ) より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/127905.jpg

本部半島の西側海岸で発見された特攻艇

Two Suicide Boats found on west shore of Motobu Peninsula.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『*震洋はベニア板張りの小艇舳に爆薬を仕掛けてあり、艦艇に体当たりする特攻艇であるが敵艦に近づく前に沈没させられたり、障害物 (丸太など)を流してあるので特攻艇は、敵艦まで近づけなかったようである。』

《「軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻・重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」(平和祈念展示資料館 /

http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_403_1.pdf) より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/09-09-2.jpg

米軍監視のもと浜辺で洗濯する捕虜となった伊江島住民伊江島/1945年5月18日撮影)

Cleanup Hour in Ie Shima Refugee Camp

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/09-09-3.jpg

伊江島捕虜収容所での調理場の風景伊江島/1945年5月18日撮影)

Cooks' Corner in Ie Shima Refugee Camp

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月18日

1945年 5月17日 『死者は血の海に横たわる』

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためだ。

『沖縄と伊江島に基地を建設しようというその狙いは、もちろん、将来の作戦にそなえて、艦隊や航空隊の前進基地補給基地にすることであった。とはいえ、最初のうちは、全建設作業は、進攻作戦遂行のほうに向けられた。幹線道路と、物資集積所への主要道路が建設され、読谷と嘉手納の飛行場は使用を開始し、海岸沖合のタンカーと連結したガソリン貯蔵施設の建設がはじまった。』(444頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 444頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/328982.jpg

ホワイトビーチに第7建設大隊によって作られた仮設浮桟橋(1945年5月17日撮影)

The temporary pontoon pier was built by the 7th Construction Battalion on White Beach.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-36-1.jpg

海兵隊の飛行機が嘉手納飛行場の南西の端にある100フィート幅の滑走路から離陸するところ。滑走路の別の部分はいまだ第1878航空工兵大隊による建設中。(1945年5月17日撮影)

View showing southwest end of Kadena Airstrip as a Marine plane takes off on its 100 foot wide completed strip. Other part of airstrip still under construction by 1878th Aviation Engineers Bn. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-51-3.jpg

第1878工兵航空大隊隊員はダイナマイトを仕掛けるために6フィートの穴をドリルであける。左の爆破係が弾薬をセットする。後方ではクレーンで石灰岩をトラックに積んでいる。(1945年5月17日撮影)

Wagon drills, operated by men of the 1878th Engineer Aviation Battalion at coral quarry on Okinawa, Ryukyu Retto, drills 6 foot holes for dynamite charges. Demolition men, at left, are placing the explosives. Note crane in background loading coral rock on trucks.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-37-1.jpg

第1878航空工兵大隊による嘉手納飛行場建設。ワゴン・ドリルと空気ドリル用の圧縮機が手前で作動している。大隊の隊員も手前で爆破の準備をしている。(1945年5月17日撮影)

Construction of Kadena Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto, by 1878th Aviation Engineers Battalion. Compressors for wagon drills and pneumatic drills in operation in foreground. Men of the Battalion also sit in foreground to right preparing demolition charges.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の総攻撃・7日目

5月17日の時点で、日本軍の支配する地域は沖縄の、ほんの一部しか残されていなかった。しかし、米軍はわずかな支配地域を奪い、ひろげるために途方もない代償を支払っていた。沖縄戦がはじまって以来この日までに、米第10軍は3964名の戦死者と、1万8258名の負傷者302名の行方不明者、それにくわえて9265名の非戦闘損耗死傷病者を出していた。沖合に展開している海軍もまた4千名をこえる戦死傷者を出していた。』(309-310頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 309-310頁より》

 

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail64_img.jpg

沖縄戦の絵】「米兵の墓地」

『米軍が読谷村に造成した墓地での光景。昭和20年5月、…午前と午後に1回ずつ、トラックが南部戦線で戦死した米兵の遺体を積んでやってきた5月の暑さで遺体からはものすごい悪臭がした。遺体は身元確認の後、米兵によって埋葬された。墓地には遺体を埋める深さ2メートルほどの穴が掘られ、白く塗られた十字架が整然と並んでいた。』

米兵の墓地 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

17日の作戦ではシュガー・ローフを東側から攻撃することになった。第29海兵連隊の第1と第3がまずクレセント高地を攻撃し、そこを確保して第2大隊を支援してシュガー・ローフを占領することになった。

攻撃開始に先立って、40センチ砲や曲射砲による砲撃や、飛行機で450キロ爆弾を落としての猛爆が加えられた。午前8時30分、第1、第3大隊から出た海兵隊が、クレセント高地の西端を襲った。戦車と歩兵が砲兵の支援を得て多くの陣地を破壊し、この進撃でシュガー・ローフの東部がくずれ、第2大隊のE中隊が左翼に回って攻撃を開始した。

クレセント攻撃がまだ続行されているあいだ、第2大隊の海兵隊シュガー・ローフのほうに進んでいった。最初は大がかりな攻撃で鉄道路線を切断しようとしたが、左方からの砲火で失敗に終わり、また接近戦を試みようとしたが、これも斜面が急勾配のため、かなわなかった。そこでE中隊の2個小隊は、丘の北東部の斜面を利用して頂上にたどりついた。しかし、この頂上制圧のさい、米軍は日本軍の猛攻撃にあって、ふたたび頂上から駆逐されてしまった。

F中隊の1小隊も稜線沿いに西のほうに進もうとしたが、これも小隊長が戦死したため、小隊は、迫撃砲の猛火のもとを退却せざるを得なかった。E中隊は、3回も頂上制圧をこころみ、2回とも白兵戦で追い返され、3回目にやっと日本兵を撃退できたが、そのときすでに海兵隊は弾薬を使い果していた。中隊はまたも退却せざるを得なくなった。その日の戦闘で160人の死傷者を出したあげく、海兵隊は陣地を放棄したのである。』(347-348頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 347-348頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/88-28-3.jpg

首里で、戦車の後方を線路に沿って進む第29海兵連隊第1大隊の兵士たち。火炎放射器を携行している者もいる。(1945年5月17日撮影)

Men of the 1st Battalion, 29th Marines advancing along the railroad tracks on Shuri behind our tanks. Some men carry flame throwers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央戦線

大名(おおな)

5月17日、第2海兵大隊は55高地を攻撃しようと試みたが、機はまだ熟していないようであった。大名丘陵に陣取っている日本軍が、機関銃や迫撃砲をもって、進撃してくる海兵隊を阻止し、47ミリ砲で戦車2輌が擱座させられたために、進撃はおおいに阻まれ、わずか丘陵の一部だけしか占領できなかった。』(359-360頁)

『…5月17日の朝、第3海兵大隊は第1大隊と交替して、大名丘陵を3日間にわたって連続的に攻撃した。しかし、そのたびに沢岻南端の元の陣地に押しかえされた。この攻撃では、たいていの場合、頂上まで到達することはできた。しかし、頂上にようやく達したと思ったとたん、たちまち前面と両翼から、迫撃砲や機関銃の熾烈な砲火にあい、せっかくの頂上も制圧はしたものの、確保はできなかった。』(361頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/85-08-1.jpg

日本軍狙撃兵を狙う海兵隊首里防衛の最後の要衝であるワナリッジ(大名丘陵)攻略戦の際、日本軍狙撃兵に向けてトムソン式小型機関銃の引き金を引く第1海兵師団の兵士。仲間は身を低くしている。

MARINE SIGHTS IN ON A JAP SNIPER-- A Marine of the 1st Division draws a lead on a Jap sniper with his tommy gun as the division was engaged in taking Wana Ridge before the town of Shuri, on Okinawa. His companion ducks for cover.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

石嶺(いしみね)丘陵

『沖縄作戦では、米軍は朝のうちに進撃するのを常としていた。そして午後は、おそくなってから陣地を構築、夜には強力な円形防衛陣をつくるようにしていた。もちろん、第77師団も2、3回は、夜の進撃を試みたことがある。この夜の進撃は、5月17日、第307歩兵連隊によって行われた。』(364頁)

『…E中隊は、17日午前3時0分を期して、夜陰に乗じて進撃を開始した。谷間の西側を伝わって下のほうに降り、午前4時には出発点ときめられた地点に到着、そこで、C中隊からの増援小隊と合流した。15分後には、この増援部隊でふくれあがった中隊は、音も立てずに、一歩一歩しのび歩くように低地帯を進んでいった。』(365頁)

『…E中隊は、夜がまさに明けようとするころ石嶺丘陵に辿りついた。…第3小隊は左のほうに、第2小隊は中央、そしてC中隊から来た1小隊は右に、また中隊の第1小隊は後方に動いて、円形陣地をつくった。東の空がしらじらと明けるころ、米軍はすでに陣地についていた。日本軍はまだ気づかないようすである。将校が1人、副官をつれて声高に話し合い、笑いながら壕の中から出てきた。とたんに米軍陣地から銃火がひびき、2人とも米軍がいることに気づくまもなくやられた。

第2小隊は、12人ほどの日本兵塹壕のなかに寝ているのを発見し、突っ込んでいって銃剣で刺し、小銃で射撃した。そして、午前5時30分ごろまでには、完全に警戒態勢についた。日本軍は壕のなかから飛びだして、谷間を横切って、米軍に対し攻撃を加えようとしたが、機関銃火にあって倒された。まもなく大砲や迫撃砲、機関銃、小銃が不毛の地の峰を撃ちまくり、米軍は岩かげに退避した。砲弾はあらゆる方角、後方からさえ飛んできたばかりでなく、峰の下のほうにつくってあるトンネルの入口からさえ、日本軍は迫撃砲を撃ちまくってきた。』(366-367頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 364、365、366-367頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p335.jpg

石嶺丘陵

ISHIMMI RIDGE, extending from right foreground almost to spinner of airplane from which this picture was taken, rises out of flat ground northeast of Shuri. Immediately behind the ridge is the village of Ishimmi and the draw before Okinawa's ancient capital. From these positions the enemy could pour mortar fire into the small group of the 307th Infantry, 77th Division, on the hill.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 『日本軍は、E中隊の機関銃座をただちに発見、集中砲火をあびせてきた。…機関銃手はほとんど全員が戦死した。午前7時までに軽機が2梃ともやられ、…そして10時までには、米軍の全迫撃砲が使いものにならなくなってしまった。

…日本軍は、一気にこの中隊を殲滅しようと総攻撃を試みた。第3小隊は、相手を撃退したとはいえ、左翼に3回も斬り込まれ、榴弾で多くの死傷者を出した。中央部にいた第3小隊も、石嶺南側の丘にいた日本軍の攻撃で多大の損害を出した。両側では、百メートル離れたところにいた日本軍が、迫撃砲2門で交互に米軍陣地を、片っ端から組織的に撃滅していった。死者は血の海に横たわり、負傷者は生きている兵にかくれた場所を与えるために、みずから穴の外に這いだして絶命した。』(367頁)

『米軍は日本軍に対して集中砲火を浴びせたが、日本軍は攻撃の手をゆるめなかった。E中隊は、第2小隊、第3小隊とも兵力は半分に減り、他の中隊も多大の損害を出した。

…その夜、救援隊が出てE中隊に向かったが、途中で日本軍に殲滅され、わずかに生き残った兵は、原隊に引き返していった。石嶺丘陵の米軍はその日の夜、大砲や迫撃砲でさんざんに撃ちまくられていたが、それでもどうやら日本軍の数回にわたる攻撃をはね返した。

砲火は、一晩中あたりを照らし、米軍もこの炸裂する砲火のあかりのなかを、日本軍が接近してくるのを見て、それに備えていた。睡眠をとることは許されない。…兵隊たちは、タコ壺のなかにうずくまって夜が明けるのを待っていたのである。』(368頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 367、368頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

『第77師団では、石嶺の大石森と5号線道路のあいだにある地域を、麾下の第307連隊がじわじわと進撃していた。こうして5月17日になると、チョコ・ドロップ付近で、米軍はにわかに進展ぶりをみせた。歩兵連隊が、両翼を中隊砲兵隊に掩護させて、チョコ・ドロップ両側から洞窟のほうに攻めていったのだ。日本軍のそのほら穴の中には対戦車砲4門、野砲1門、機関銃4梃、60ミリ迫撃砲2門、その他の迫撃砲4門があった。夕方までに、その洞窟の一部が封鎖された。その夜、日本軍は、周辺の米軍に対して反撃を試みて失敗、25人の戦死者を出して退却した。』(379頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 379頁より》

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『第381連隊の第3大隊は、第382連隊のE、F中隊と交替し、これで第96師団前線の全3連隊が配置についたことになったわけである。もしこの部隊が、コニカル・ヒルの東側の掃討戦に成功すれば、予備軍の第7師団は、出動して海岸線を通り、首里本陣を攻撃できるのだ。コニカル・ヒルの頂上から、南へ約750メートルほど離れたところに、シュガー・ヒル(俗称サーター山)がある。これは第381連隊の攻撃目標であった。その後方の丘陵地帯は、攻めるに難しく、確保するに難しかった。』(391頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 391頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p354b.jpg

東海岸の平地 (中城湾と与那原一帯: 右上にシュガー・ヒルがある)

EAST COAST FLATLANDS, over which the 184th Infantry, 7th Division, advanced to Yonabaru after of the east slope of Conical Hill.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

 

第32軍の動向

52高地: (シュガーローフ)

17日米軍は戦法を変え、2コ大隊で52高地の東の拠点を奪いとり、返す刀で、もう1コ大隊を支援し、52高地に突入しようとしたが、頂上までのぼると、そこで救援に駈けつけてきたわが15連隊第1大隊に追い落され、またまた敗退

もうこのころになると、戦場は、相貌を一変していた。両軍の砲弾の炸裂で、緑という緑は吹きとび、丘、台地、すべてが月の表面を見るように、弾痕だらけになっていた。第6海兵師団は、西から首里に迫ろうとしており、そのためにはどうあってもここを突破しなければならず、したがって日本軍としては、どうあってもここを守りとおさねばならなかった。

ただ問題は、兵力量の差。後方補給の差であった。日本軍は、死傷者続出によって、刻々に人が減っていく。補充ができない。米軍は、もともと兵力が大きい(米軍5コ師団、日本軍2コ師、1コ旅。ただし、このころは、62師団はほとんど戦力を失ない、24師団も兵力半減。両軍戦力のバランスは、5対1といってよい)のに、それがさらに大きくなっていた。とすれば、戦闘がつづき、時間がたてばたつほど、日本軍が決定的に不利となるのは自然であった。』(262-263頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 262-263頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-06-1.jpg

丘の斜面にある雨の溜まった水玉模様の地面の穴や、葉の落ちた木の幹の裂かれた様は、首里城周辺の日本軍陣地に対する第10陸軍の猛攻をあらわにする。左手前の倒れた鉄塔は、8万の皇軍で防御体系をなしていた中央制御部の周りにあった11の同様な施設の一つであった。丘には日本軍が爆撃を避けるための洞穴が、中央には米歩兵部隊の携帯テントが見える。

IN THE WAKE OF WAR - This polka-dot pattern of rain filled shell holes and the splintered stumps of leafless trees on an Okinawan hillside attest to the deluge of Tenth Army artillery poured on strong Jap positions around Shuri Castle. The demolished Jap radio tower in the left foreground was one of 11 such installations around this nerve center of the defensive system manned by 80,000 fanatical troops. Note caves in small hill at upper left in which Japs hid to escape bombings, and pup tents of American doughboys around hill in the center.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇北方地区においては、17日天明独立混成第15聨隊第1大隊が、大隊長率先先頭に立って52高地の米軍を逆襲し同高地を確保した。0830ころから米軍は、猛烈な砲射撃の支援下に戦車を伴って52高地、眞嘉比地区に猛攻を開始した。

52高地は包囲攻撃を受け接戦激闘が続き、米軍を撃退したが、わが損害も多大であった。眞嘉比北側高地は米軍に占領され、眞嘉比東側陣地(独立混成第15聨隊砲陣地)も米軍の馬乗り攻撃をうける状況となった。同聨隊第3大隊〔長  西村信義大尉(少18期)〕は聨隊砲弾地の奪回攻撃を行なったが失敗した。この日軍は海軍の1コ大隊(伊藤大隊)を独立混成第44旅団長の指揮下に入れ、牧志(安里南側)付近の防備を強化させた。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(313頁)

陸軍の混成大隊に歩兵として配属された、海軍所属の兵士の日記』(315頁)

5月17日 缶詰を食う。敵の動きを偵察する任務に就く。各人に2個から3個の手榴弾が支給される。石部隊の小隊が、艦砲射撃の直撃を受けて全滅する。10メートル四方ほどの場所に60発もの集中砲撃は、極めて危険である。次の海軍記念日には、聯合艦隊がやってきて敵を蹴散らしてくれるとの噂がある。』(316-317頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 313、315、316-317頁より・日記内容は英文からの翻訳》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/377978.jpg

音楽を聴きに集まって来た沖縄の子供たちに蓄音機をかけてみせるガン上等兵、ウィリアムソン上等兵、ルイス軍曹(1945年5月17日撮影)

Pfc. Paul Gunn, Cobden,  Illinois; Pfc. Harry Williamson, Dayton, Ohio, and Sgt. Howard Lewis, Indianapolis, Indiana, play their phonograph, while three Okinawan children gather around to listen to the music.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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