1945年 4月12日『「この島を守っているのは兵隊だ」』

日本機の大空襲

特攻機の攻撃は、警備艦船や渡具知沖の船団に重点が移った。この日の空襲で艦船17隻が命中弾をうけ、うち2隻が沈没駆逐艦 M・L・アベル特攻機と〝バカ爆弾〟をうけて沈んだ。この〝バカ爆弾〟とは、双発爆撃機から発射されるロケット弾で、あたったら危険なものだが、操縦が悪くて命中率はそうよくはなかった。(122-123頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 122-123頁より》

 米軍から「バカ爆弾 (Baka Bomb)」と呼ばれた「桜花

『上陸初日に北・中飛行場を占領した米軍は、嘉手納(中)飛行場で思わぬ獲物を捕らえて喜んだ。それは「桜花」とよばれる日本海軍の〝決勝秘密兵器〟すなわち人間爆弾の実物で、しかも4機もタダで押収できたからである。

この1人乗り小型特攻機は、全長6メートル、幅5メートルの木製滑走機で、機首の方に約1.8トンの爆弾をつめこみ中型母機の胴体の下部につるされた。そして攻撃目標のほぼ20キロメートルまで近づくと、母機から切り離され時速900キロの高速で滑空して目標に体当たり攻撃するしかけになっていた。これは、普通の爆弾を積んだ特攻用戦闘機よりも速度が速いうえ、安価で短時間に製作できる有利さから開発された有翼爆弾であったが、人間が乗っていて文字どおりの特攻攻撃をかけるところから「人間ロケット」とも称されていた。

しかし、米空軍技術諜報班では、その命中率が低く実用価値は低いとして「バカ爆弾」と名付けて嘲弄したものである。』(40頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 40頁より》

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北進する米軍

本部(もとぶ)半島・八重岳周辺

4月の12日と13日海兵隊は日本軍と、しばしば銃火を交えながら、八重岳の状況偵察を強化し、これによって敵の防備陣や防衛計画の情報を相当に集めることができた。北部守備隊の宇土大佐は、明らかに受けて守る態勢をかまえ、兵を八重岳から外に出そうとはしなかった。そればかりか、大佐はひじょうに用心して、兵や弾薬を使い惜しみ、午後もおそくなるまでは米軍との戦闘に引き入れられることを許さなかった。だが、午後おそくからでは、斥候を山の中に派遣するにしても遅すぎたので、宇土大佐は敵を撃滅するどころか、いかにしてゲリラ隊の中核を生かし、米軍との戦闘を引き延ばすかということに腐心していることが明らかになったのである。

宇土大佐の八重岳峡谷の陣地は、優秀な通信施設をもっていた。日本軍は山岳戦闘には十分の訓練を受けていた。いろいろな小径をよく知っていたし、何よりもまず、こういう山岳地帯の輸送手段として、なくてはならない馬をもっていた。日本軍の強みはとくに自動砲火で、その中には25ミリ海軍砲もあり山の中の砲座に据え付けられていた。

北部の日本軍は、全体としては、大した武器もなく物資も十分ではなかったが、その最上のものを選りすぐって本部に集めてあった。運搬の便利な迫撃砲や機関銃を集め、25ミリ砲をつけ、少なくとも1個中隊の野砲隊をひきつれていたので、宇土大佐としては、相当長期間にわたってこの山を守りとおせることができると思っていたのだ。』(131-132頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 131-132頁より》

4月12日の夜海兵隊は、英語を話せるハワイ帰りの一地元住民を捕虜にして、それまでに捕獲した文書から得た情報の真偽を確認することができた。その上、地図の入手にも成功したので、「残存敵軍を掃討せよ」という命令が発せられ、いよいよ八重岳の攻撃をはじめることになった。』(102頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 102頁より》

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周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)・上陸4日前

『ブルース将軍は、1945年4月12日の野戦号令で、第305連隊戦闘部隊に伊江島南岸に、第306連隊戦闘部隊に南西端のグリーン・ビーチに、4月16日、それぞれ同時上陸を敢行せよとの命令を発した。この計画では、第305隊が上陸して東方に進撃、別の上陸地点を確保するあいだに、第306隊は北部を第305隊の左翼に迂回させて飛行場を占領するということであった。』(144-145頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 144-145頁より》

 

南進する米軍

嘉数(かかず)

4月11、12日夜、日本軍は宇地泊嘉数地域に対し、大型迫撃砲弾(日本側は臼砲と言う)を射撃した。そのうちには32サンチ口径のものもあった。その1弾は第381連隊第1大隊の救護所に落下し、軍医20名、兵11名を殪し、他の9名を負傷させた。4月12日、第96師団は最後の嘉数奪取を企図した。嘉数高地頂上および反対斜面に対し、空中攻撃とロケット攻撃を実施した後、第381連隊第1大隊をもって該高地の北側斜面に向かって攻撃した。日本軍は、空中攻撃の終了を待って、未だ見たこともないほど猛烈な迫撃砲の集中攻撃を開始した。1時間以上に亘り、その弾丸は1分1発以上の発射速度で岩山に破裂した。第381連隊は3回も攻撃を反復した。毎回ともに如上の砲弾のほか、さらに機銃や小銃射撃、手榴弾、爆薬包の反撃に直面して、攻撃は頓挫した。諸大隊は45名を失った。迫撃砲火は、アメリカ軍が撤退すると間もなく止んだ。日本軍は依然として嘉数高地の状況を強く支配した。』(247-248頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 247-248頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-14.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

 

 

日本陸海軍の総攻撃

「菊水作戦・2号」発動

4月12日も晴れていた。この日は、「菊水2号」作戦と、32軍の総攻撃の二つの大きな戦闘があった。どちらも、沖縄戦の運命を左右する重さをもっていた。』(203頁)

『「菊水2号」作戦に参加した兵力は、海軍機354(内特攻103)機、未帰還114(内特攻69)、陸軍機139(内特攻80)機。

4月も12日になると、沖縄の北・中飛行場は機能を回復しはじめ、米小型機など130機が集中していた。まず、これを制圧しなければ、特攻機は近寄れない。したがって、飛行場の前日夜間攻撃に33機を使い、特攻機の突入前に、米戦闘機制圧のため121機の戦闘機を投入した。小型機や特攻機が減ってきているのに、これだけを、特攻機に上積みしなけれならぬ。ある時点をすぎると、彼我の力関係が変わり、イクサしにくくなっていく。十航艦を主力とする特攻機は、「桜花」隊8機を含め、「菊水1号」よりも下回る数ではあったが、はげしい特攻戦を展開した。機動部隊攻撃に向かったもの、沖縄周辺の艦船攻撃に向かったものを合わせ、「桜花」の命中で駆逐艦1隻沈没。戦艦「アイダホ」、「テネシー」、駆逐艦11隻が特攻機と「桜花」によって損傷した。』(204頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 203、204頁より》

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特攻機の攻撃をうけた戦艦「テネシー

[Photo] USS Tennessee burning shortly after being struck by a Japanese D3A special attack aircraft of Operation Kikusui No. 2, off Okinawa, Japan, 12 Apr 1945 | World War II Database

『「桜花」に命中された駆逐艦「マナート・エル・エーブル」は、午後2時45分ころ、爆戦1機に後部機械室に突入され、爆発した爆弾のために背骨を折られ、動けなくなっていた。それから1分あまりして、「桜花」が右舷一番煙突直下に500ノットで突入し、第1ボイラー室にとびこんで爆発した。瞬時に、この駆逐艦は、前と後の二つに裂け、轟沈。5分後には、水面に何一つ残っていなかった。第二の「桜花」にやられた駆逐艦「スタンリー」の場合は、右艦首からとびこみ、右舷にぬけようとする瞬間に爆発したため、爆発威力は舷外に多くひろがり、この艦の艦首部は、ちょうど義歯を外した老人の顔のようになったが、なんとか沈まずにもちこたえることができたという。』(205頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 205頁より》

www.dailymotion.com

人間爆弾 【 桜花 】/第 721 海軍航空隊 NHK 証言記録 兵士たちの戦場 - Dailymotion動画

 

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島/宇土部隊: 八重岳・真部(まぶ)山

4月12日に米軍は、八重岳真部山の陣地を中心に、山岳地帯に対して艦砲迫撃砲で激しく攻撃してきた。宇土部隊はこの激しい砲撃を受けて多数の戦死傷者を出し、壊滅の状態になった。』(249頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 249頁より》

 

第32軍の総攻撃

『切り立った崖が多く、戦車が使いにくい嘉数高地ではとりわけ両軍いり乱れての激戦となった。猛烈な砲爆撃の支援をうけて米軍歩兵は一つの丘を占領すると、日本軍は迫撃砲の集中射撃と銃剣をふりかざした突撃により反撃、膨大な戦死者を出しながらも丘を奪いかえす、昼は米軍が取り、夜は日本軍が奪いかえす、といった光景が随所で展開された。』(79-80頁)
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 79-80頁より》

『このような戦況で、米軍がカベに頭をぶっつけるような気配を見てとった32軍では、12日夜、主力の2コ師団を使った大攻勢をかけることにした。

7日、8日の総攻撃が、不発に終わった32軍司令部としては、なんとかしてこの機に米軍に反撃を加え、痛撃を与えようという考えが強くなった。8日午後に、長参謀長は、その夜、62師団の一部を前進攻撃させて失敗したが、12日ころから62師団と24師団の両主力師団を並べて夜間攻撃前進させ、かれの持論である浸透作戦、つまり夜明けとともに敵中深く侵入して彼我混交状態をつくりあげ、物量を誇る米軍に、味方射ちをおそれてタマを撃てないようにしつつ敵を殺傷し戦果を拡大しようと考えた。八原高級参謀は、この攻勢に強く反対したが、長参謀長はその反対をしりぞけ、その構想にもとづく作戦計画を、八原高級参謀に命じて立てさせた。』(208-209頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 208-209頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-15.jpg

日本軍の攻撃計画の説明図(米軍資料)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

『4月12日に海軍菊水2号作戦陸軍第二次航空総攻撃を行い、海軍作戦機354機、陸軍139機の計493機を出撃させた。そのうち海軍103機と陸軍80機、計183機の特攻によって米駆逐艦1隻を撃沈、戦艦など13隻に損傷を与え、4隻の自損を誘発した。夜、第32軍が全戦線で攻勢に打って出た。』(110頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 110頁より》

 

 

中南部戦線

東部戦線

午後7時から夜半まで、まず猛烈な軍砲兵隊による準備射撃をしたあと、24師団から派出された歩兵22連隊の第1大隊が、東部戦線の要地に向かい、第2大隊は棚原北東に進出して、一部の挺身斬込隊を出した。歩兵22連隊は、島尻から来たもので、このあたりは不案内であり、また初陣でもあった。それで、八原高級参謀は、一度に多数の兵力を第一線に注ぎこまず、小部隊ごとに敵陣を突き破り、キリをもみこむように進んだがよいと思うと連隊長にアドバイスしたが、これがあとで問題を起こすことになった。第1大隊の攻撃は、第1中隊長以下数十名の戦死者を出して、失敗に終わった。』(209-210頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 209-210頁より》

右翼歩兵第22連隊は、敵情地形の不明、準備不十分のために、その先陣を承った一部、まず夜襲に失敗して、混乱し、連隊主力はこれに参加するに至らなかった。』(217頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 217頁より》

中央戦線

『中央山本少佐の指揮する部隊は、戦上手な同少佐の指揮で、宜野湾街道に沿い、局部的に千数百メートルを突破したが、13日払暁とともに、陸海空よりする敵の集中火を浴び約2分の1の損害を出し、同夜主陣地帯内に後退するの己むを得ざるに至った。』(217頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 217頁より》

西部戦線

西部戦線では、独立歩兵23大隊が数組の有力な挺身斬込隊を出し、その一部は、うまく敵陣に斬りこんで、宜野湾近くにまで進出。成功したが、後続つづかず、敵中に孤立してしまい、翌朝、米軍に包囲されて、多くの死傷者を出し、撤退した。』(210頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

『最左翼独立歩兵第273大隊は、大謝名付近第一線を超越前進した途端、敵の集中火を受け、大隊長楠瀬大尉以下大半死傷し、攻撃は完全に失敗した。』(217頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 217頁より》

嘉数(かかず)

『嘉数の272大隊は、綿密に準備を整えて、午前3時すぎ大隊長みずから大隊を率いて嘉数の西側から猛烈な攻撃を開始した。ところが、米軍は、日本軍から奪った文書で、攻撃開始の信号を知っており、攻撃がはじまると、軍艦の探照灯をいっせいに灯けてあたりを昼のように明るくし、火器を総動員して撃ちこんできたので、いったんは嘉数高地の西北側を奪い返しはしたものの、大隊長戦死し、部隊はほとんど全滅するまでの打撃を受け、攻撃は失敗してしまった。』(210頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

『…夜襲開始の信号弾を米軍に解読され、即座の反撃を許すことになった。米軍は、建造物や立木の倒壊した戦場を照明弾で真昼の明るさに浮かび上がらせた。突撃の日本兵は狙い撃ちされ、次々に倒れた。』(110頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 110頁より》

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日本軍による攻撃(4月12-14日)の説明図(米軍資料)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

 

第62師団野戦陸軍病院(ナゲーラ壕 / 瑞泉学徒隊 61人・梯梧学徒隊 17人)

ナゲーラ壕は他の病院壕よりもはるか北にあって前線に最も近く、日本軍第1防衛線の負傷者は真っ先にここへ運ばれた。患者の搬入に使う坂道を切り立つ崖に取り付け、遠くの主要道路に接続した。その三差路で夜、トラック搬送の患者を担架に載せた。担架は通常、前を2人、後ろを2人の4人で持つ。しかし、ナゲーラ壕の坂道は幅が狭く、前後各1人でしか通れなかった。か細い腕の女子学徒2人が重い担架を持ち、ふらつく足の坂道を一歩ごとに踏ん張りながら壕へ運んだ。

そしてたちまち、300人あるいは500人という患者の収容限度を超えた。そのため第62師団野戦病院は嘉数高地の戦闘5日目、4月12日に、嘉数に近接の浦添村(現・浦添市仲間および安波茶の壕を分室にして使用開始した。ナゲーラ壕の瑞泉学徒61人のうち、13人を割り振った。

最前線の仲間や安波茶に運びこまれる負傷兵は、誰もが瀕死の重傷を負っていた。次々にこと切れた。「兵隊は死ぬ時に『天皇陛下万歳!』を叫んで死ぬ」。学徒たちは小学生の頃から学校で、そう教えられてきた。だけどそんな兵隊はいなかった。彼らは死ぬ間際に、「お母さん・・・」と言った。悔しさとさみしさが言葉ににじむ。』(115-116頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 115-116頁より》

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 第62師団野戦病院壕跡

涼風が吹きわたるムラ 新川(あらかわ) | 南風原町

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沖縄戦の絵】麻酔の無い手術

『昭和20年4月、…那覇市南風原町の境にあるナゲーラ壕の野戦病院で負傷兵の手術を手伝っていた。
暗闇の手術室で、油を含ませ火をつけた布をかざして軍医や衛生兵の手もとを照らしていた。戦闘が激しくなると負傷兵は途切れることなく運び込まれてきた。手術では腕や足を切断し、無造作にバケツの中に投げ込んでいった。痛みを和らげる麻酔薬は無く、兵士たちは衛生兵に体を押さえられ叫び声を上げていた。「この世のものとは思えないほどの大きな声だった」。看護師たちもまた悲鳴を上げていた。…恐怖のあまり幾度となく失神しそうになった。』

麻酔の無い手術 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

そのとき、住民は・・・

嘉数(かかず)と周辺集落

『嘉数高地をめぐる日米両軍の争奪戦がたけなわになったころ、日本軍は「住民は足手まといになるから退去せよ」と指示したため、約600人が沖縄本島南部への移動を開始した。そして大きな犠牲を生む。』(88-89頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 88-89頁より》

『国頭に疎開しなかった県民は、はじめのころは、めいめいの壕に入って、食糧も一応は家から運び、安全な壕生活を送っていた。安全な、といっても、壕のある地区、場所、地質によって、たとえば米軍の進撃路から離れた、地質が二イビ質のところでは、安心できたが、これが進撃路にちかく、ジュウタン砲爆撃にさらされ、ことに地質がジャーカル質のところなどでは、生きた心地もされぬ一日、一日を送らねばならなかった。

このころの話に出てくるのは、ほとんどが、無限に撃ちこまれる米軍の砲弾や爆弾のことばかりで、軍隊も、それぞれかれらの壕や陣地に立てこもり、食糧についても、壕についても、県民の生活を犯すことなく共存できていた。軍隊としても、まだまだ自信を失っておらず、秩序正しく動いていたので、軍隊と県民は、別世界にいて、時折り、ゆきずりに、顔なじみが、「敵の進撃はものすごく早い。この一帯は近いうちに戦場になるから、一日も早く首里か島尻の方に逃げたがいい」といった情報を教えてくれ、いわば県民の行動の指針を与えてくれた。

戦場になると、最初に変るのが、目で見える範囲のもの以外の情報を全く得られなくなることである。したがって判断のしようがなく、いまいるところに居すくんでしまうか、あてもなく右往左往するしか、すべがなくなる。…「牛島中将のいる首里が、いちばん安全だ。あそこには、いたるところに立派な壕がある。その上、あのへんは土が固い。艦砲にも爆弾にも平気だ」顔見知りの県民や兵士が、そんなことをいうと、それじゃそうしようかと、移動をはじめる。』(212-213頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 212-213頁より》

『集落内および集落外への逃避行による犠牲を合わせ、住民総数に占める死亡者の割合が宜野湾村(現・宜野湾市)全体で27パーセント、そのうち戦闘地域において我如古49パーセント、長田49パーセント、嘉数48パーセントに達した。2人に1人の落命になる。

死者の中には日本軍に避難壕から追い出されて敵弾に身を曝した人も多くいる。その一例が嘉数高台公園の南西800メートル、浦添市牧港3丁目の安川南公園に現存する。「チジフチャーガ」と呼び、横長の開口部と奥行き110メートルを備え、嘉数高地の激戦を避ける住民およそ400人が隠れ場所にしていた。そこへ日本兵が押し入った。「軍が使う。住民は邪魔だ、南部へ避難しろ」。同じく第一防衛線の我如古という集落では、「この島を守っているのは兵隊だ」と声を荒げた。

追い出しの一方で、各部隊は壕に避難中の住民を使役のため駆り集めた。残り少ない男の住民は年齢を問わず、動ける者を手当たり次第に弾薬や食糧の運搬で使った女性には炊事、負傷兵の応急手当、などをさせた

戦闘地から遠い南部では、弾運びに女性を動員した弾薬集積所を出発地に前線へ向け、片道10キロ余りを数人が列になり、米軍の艦砲射撃におびえながら歩いた。そして多くが命を失った。住民を、誰が安全へと導くのだろうか。』(112頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 112頁より》

http://www.urasoenavi.jp/tanoshii/2015100800175/file_contents/image-1.jpg

チヂフチャー洞穴遺跡

チヂフチャー洞穴遺跡[市指定史跡] | うらそえナビ

 

 

先島諸島沖縄戦

与那国島(よなぐにじま)

『沖縄各地で戦闘が激しさを増す中、与那国では宇良部岳の監視台空爆を受けました。地元では「与那国富士」と親しまれている宇良部岳には頂上付近に日本軍の監視台が設置され、アメリカ軍・イギリス軍の戦艦や戦闘機を監視。そのため、監視台は敵の標的となり、…空襲による激しい爆撃を受けたのです。』

『「B24が東から西にむけてやってきて、兵舎に爆弾を落とし、銃弾を撃ってきた。一人は2階から『怖い』って言って下に降りる途中にこっち(足を)やられて戦死した」

与那国島の空襲のたびに監視台への攻撃は続き、それは沖縄戦終結まで止むことはありませんでした。』(琉球朝日放送)

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月12日

 

 

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【戦跡と証言】チヂフチャーガマ(浦添市)

www.nhk.or.jp

 

【戦跡と証言】我如古のチンガーガマ(宜野湾市)

www.nhk.or.jp

 

【戦跡と証言】ナゲーラ壕(南風原町)

www.nhk.or.jp

 

与那国島での空襲】

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月12日