1945年 4月29日 『それぞれの天長節』

南進する米軍

前田(まえだ)・浦添丘陵

4月29日の未明から朝にかけて、日本軍は、第96師団前線の全面にかけて総反撃に出た。午前5時15分、第383連隊の第2大隊は、榴弾や槍をもった日本軍の強襲をうけ、G中隊の一小隊などは、この戦闘で30名から9名になってしまった。とはいえ、第383連隊では2回にわたる日本軍への猛反撃で、およそ265名の日本兵を倒し、またその日の午後の戦闘では、戦車隊や火炎砲装甲車を先頭に、200名以上の日本軍をやっつけたのである。』(291頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

4月29日、師団左翼では怒濤のように進撃して、首里に近い突出した岩山を攻略しようと、軍団前線のどの部隊よりも先のほうに出た。138高地の峰は、ふたたび血なまぐさい肉弾戦ののち、第383連隊のL中隊の手中にはいった。この戦闘でシャペー1等兵は、あたかも日本軍の〝バンザイ突撃〟を地でいくような行動に出た。手に手榴弾1個を握り、峰上の機関銃陣地めがけてまっしぐらに突進すると、5名の日本兵のまん中にとびこんで、わが身もろとも爆破して相手を殺し、機関銃陣地を破壊したのである。戦車隊は高地の頂上ちかくを攻撃し、ここで47ミリ対戦車砲と砲火をまじえた。沖縄戦がはじまって1カ月、1キロ半ほどしか離れていない日本軍の首里に、ようやく直撃をあびせることができた。』(291頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291頁より》

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TANK-INFANTRY ATTACKS marked the battle for the escarpment. An armored flame thrower of the 713th Tank Battalion, protected by infantry against enemy satchel-charge attacks, sprays flame over a knob on the crest of the escarpment.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

浦添丘陵は、東端で突然に断ち切られたように一個の巨岩となり、それが物見の塔のように突っ立っていた。この岩が針のように先がとがっているので、丘は、〝ニードル・ロック〟と名づけられた。』(287頁)

『第307連隊が、4月29日、浦添丘陵分水嶺に達してみて驚いたことは、ニードル・ロックのてっぺんは、幅60センチそこそこの広さしかないということだった。丘陵の南側は削られたように急に落ち、高さは北側ほどではなかったが、日本軍が洞窟を掘り、トンネルを通したのは、まぎれもなくここである。』(292頁)

『第307連隊のクーニー中佐率いる第1大隊が、ニードル・ロック攻撃を開始してからじつに5日、しかも10回の攻撃で、やっとその頂上を確保することができたのである。』(293頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287、292、293頁より》

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石柱のような「為朝岩」(米軍名「ニードルロック」)

前田高地 | たびらい

『4月29日に、第77師団の第307歩兵連隊は、第381連隊の作戦区域内の丘陵をとり、つぎの朝、第306連隊は、第96師団の左翼で、第383連隊と交替した。』(291頁)

『米軍は、4月29日に前線を交替するまでに、第381連隊は戦闘能力40パーセントに激減し、損害じつに1201名にのぼった。そのうちの536名は、前田丘陵における4日間の戦闘でなくしたものであった。また、小隊の中には、わずか5名ないし6名しか残らないところもあった。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、彼らは、そこまで兵器を携えていく気力さえも失っていた。』(292頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291、292頁より》

前田丘陵に、はげしい争奪戦がくりひろげられた。いくたびか攻め、いくたびか攻められた。手榴弾が飛びかい、洞窟やタコ壺壕には弾薬が投げ込まれ、夜は夜で、双方とも敵のいつくるともしれぬ夜襲におびえていた。

米軍は地上軍に加えて、空からも応援をたのみ、爆弾やナパーム弾が毎日のように投下された。戦車と装甲車は南東の方向から猛烈に攻め立てたが、丘の頂はいまなお頑強な日本軍の手中にあって、兵隊の言葉をかりていえば、「ありったけの地獄を一つにまとめた」ようなものであった。』(293頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 293頁より》

 

幸地(こうち): 第17連隊

激しい日本軍の攻撃をうけ続け、前進を阻まれていたことから前日28日に撤退。損害が激しく、29日の前進、攻撃も中止に追い込まれた。

『米軍はついに4月29日まで攻撃を中止せざるを得なくなった。どの地域でも、わずかの進撃を試みても、日本軍は12門から18門の迫撃砲で集中砲撃を加え、米軍の進出を許さなかった。そればかりか、味方の150ミリ野砲が12発とも照準をあやまって幸地丘陵東側のG中隊の真中におちるという事件がおきて、1小隊で5名が戦死、18名が負傷、近くにいた他の小隊が12名しか残らないという悲劇を演じた。この死傷者に加えて18名が、脳震盪やショックをうけるというしまつで、いまやG中隊の小銃小隊にはわずか27名しか残っていなかった。』(283頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 283頁より》

 

 

第32軍の動向

4月29日日本軍は、第一線で天長節を迎えた。前線の兵士たちは、おそらくこの天長節を期して、敵の息の根を止める航空攻撃が行われるだろうと、首をながくしていたが、沖縄の兵士たちの前には、そのような多数の味方機は現れなかった。』(238頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》

再び攻勢へ

軍司令部

4月末の苦戦により第32軍司令部のなかに動揺がおきた。このまま持久戦を続けるよりも余力のあるうちに攻勢に出ようという意見がにわかに台頭してきた。中心は参謀長の長勇中将である。彼は若ころ桜会急進派で10月事件(1931年のクーデター計画)に関与し、また南京攻略戦の際は捕虜殺害の命令をくだすなど、気性の激しい猪突猛進型の軍人であった。長参謀長は作戦主任八原大佐の反対をおさえ、まだ無傷に近い第24師団の全力を投入して東部戦線(中街道以東)で攻勢に出ることを決定した。第32軍司令官牛島満中将も参謀長の意見に賛成した。牛島は1937年12月、大虐殺をひきおこした南京包囲戦に第36旅団長(熊本の第6師団所属)として参加して、猛烈な追撃戦を指導した人物である。彼も「死中に活を求める」派手な作戦の誘惑にまけた。』(83頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83頁より》

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第32軍司令官 牛島 満(うしじま・みつる)陸軍中将

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5

『敵の砲爆撃もじかに司令部壕に迫り、坑道内に硝煙が侵入し壕内の将兵が「ガス攻撃だ!」と防毒面をつける事態も見られるようになった。戦局の緊迫化が、壕内の将兵にこのまま受身に立って敗北と死を待つのは耐えきれぬ、という思いをいだかせた。しかも「攻勢は最良の防禦」という日頃からの攻勢至上の訓練も影響して攻勢に出れば勝利を物にし、「玉砕」を免れうると判断せしめるにいたった。しかし、こうした動きは八原作戦参謀にいわしめると、一種の悲観論か「呪うべき盲目的主観に基づく迷妄な結論」でしかなかった。

だが、大勢は攻勢案を支持し、その急先鋒たる長参謀長は、4月29日の早朝、洗面中の八原作戦参謀の手をとり「一緒に死のう」と言って涙を流しながら攻勢案への同意を求めた。』(119頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 119頁より》

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第32軍参謀長 長勇(ちょう・いさむ) 陸軍中将

Isamu Chō - Wikipedia

八原高級参謀の回想:

4月29日朝まだき、わずかばかりの水で洗面をすました私の前に、参謀長が突如として姿を現された。思い詰めた態度で私の手を握り、真に熱烈な口調で、「八原君!君と僕とは常に難局にばかり指し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう。どうか今度の攻勢には、心よく同意してくれ」と申され、はらはらと落涙された。あまりの突然さに、私はぎょっとしたが、握った将軍の手の温みが伝ってくるとともに、私もまた心動かずにはおられなかった

私は司令部内唯一人、大勢を押し切って、曲りなりにも過去一か月、軍を戦略持久の線に引っ張ってきた。私もまた人の子である。今や、ともすれば心弱くなり、もはやこれ以上、周囲の力に抗し難いと思う折から、参謀長が至誠を披瀝して自らの部下である私に攻勢を懇請されたのだ。攻勢の失敗はあまりにも明瞭であるが、私は感動し、心弱くなるまま、参謀長に「承知しました」と答えたのである。』(265-266頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 265-266頁より》

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第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

 

北部戦線

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

4月中旬に八重岳の陣地から退却、多野岳を目指して山中を移動した約千人の兵隊や学徒らは、幾度も米軍の攻撃を受けながらも、団体で行動していた。攻撃を受けるたびに多くの死傷者を出すも、それらに対応することはなく置き去りにして再び新たな拠点を求めて行ったり来たりしていた。とうとう、将兵の中から別案が出される事態になっても、宇土大佐は計画変更を渋っていた。

29日、部隊は辺土名を目指して落ちて行った。多野岳まできた時、山本中尉は悲痛な声で「安和海岸には、食糧を積んだ日本の機帆船が着いたそうですから、急いで自分がいって、食糧の補給を講じます」と云い残して、姿を晦ました。彼は再び帰って来なかった。真部山の陣地構築の時、構築作業が進まぬといって、出動した労務者達を牛馬のようにこき使った激しい気性の彼は、宇土大佐の煮え切らぬ態度に居た堪らず、独りで自由な行動を決したのである。

野岳には、米軍の使ったいろいろな遺棄品が転がっていた。数日前まで、米軍が駐屯した証拠であった。これを発見して、米軍部隊が近くにいる、と察した宇土の将兵達は、前進を諦め、福地又にまたも引返した。ここでは、弱り切った宇土大佐が、とうとう山本中尉の主張した「分散行動」を採用したので、一班を約25人ずつで構成し、今後は全部隊将兵が、山中に自治を求めてあてどもなく分散することになった。宇土大佐は、宮城、上地両兵長を含む地理に明るい沖縄人の兵隊を本部にまとめた。「時機到来までは、できるだけゲリラ戦で敵に当り時給自足しよう」と敗残の将兵達は、島の北端久志大宜味の各村山中へ移動を開始した。(316-317頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 316-317頁より》

 

中南部戦線

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

4月29日、天長節。この日は朝から雲ひとつない晴天だった。…9時頃、伊東が大隊本部の監視口から見ていると、敵戦車の群れが砂塵をあげて東の海岸道を南下し、右前方の小波津集落に入ってくる。ここからは2000メートルほど離れているが、手に取るように見えた。1両、2両・・・すでに7両が集落に入り、あとにも続いている。やがて集落の西端に先頭の戦車が姿を現し始めた。友軍砲兵の弾丸が伊東の頭上をかすめ、先頭戦車の傍らで破裂する。…ついに友軍の砲弾が先頭戦車に命中した。

…砲弾が次々と戦車に命中し、1両ずつ草地へ打ちのめしていく。そのうち地雷に引っかかる戦車も出てきて、敵戦車群の前進は阻止された。…今度は左手の翁長集落から数両の敵戦車が現れた。大山隊長によると、昨日配置した三好隊(聨隊砲中隊)の肉攻手(肉薄攻撃兵)が飛び込んで行ったという。5人が突っ込んだとみるや2人が退避、そしてそこには擱座した2両の戦車が横たわっていた。しかし5人とも帰還しなかった。退避した2人は、随伴する敵歩兵か後続の戦車にやられたようだった。

なおも敵戦車2両が陣地直前まで侵入したが、擲弾筒の射撃に慌てて逃げて行った。この日、敵の集中砲火はなかった。歩兵の攻撃もなかった。…敵は今日、一転して多量の戦車を投入し戦況の打開を試みた。しかしそれも失敗に終わり、戦車群の攻撃は完全に大山隊の陣前で破砕された。この日、大山隊の損害は無きに等しかった。…陣地がない中で、大砲、擲弾筒、煙幕、地雷と、使えるものはすべて使った。それによって、第1線は頑強に持ちこたえたのだ。』(145-146頁)

夕刻、師団司令部から命令がきた。「首里北側に転進せよ。2400を期し、任務を歩兵第89聨隊第1大隊に引き続くべし」師団の態勢整理の必要からだった。』(147頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 145-146、147頁より》

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翁長を通り幸地へと前進する途中で攻撃を受け擱座した米戦車(4月29日)

Attempting to reach Kochi through Onaga, south of Skyline Ridge, these tanks were lost 29 April when the American lead tank blocked the road forward.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

 

そのとき、住民は・・・

4月29日天長節の佳節に当たり、日本軍が何らかの行動に出ると噂されてい待望の日である。からりと晴れ上がった上天気の日であった。われわれの手持食糧はぎりぎりのところまで来ており、いくらきり詰めても後一週間あるかなしかのところだった。とに角、海岸線に出るまでの食糧があればよい、後は途々藷を掘って食べよう。こう話が決ったので、出発することになった。戦争の終局が目前に迫っていることを、固く信じ切ったわれわれには、も早、飢じさも米軍の斥候も問題ではなく、一気に頂上の林道に出た。

喜如嘉山のあたりで、米軍の架設した電話線を発見した。米軍陣地に踏み込んだのではないかと不安に駈られ、大急ぎで通り越そうとあせったが、その樹々に架けられた不気味な数条の電話線は、高く低く、われわれの向う先々、どこまでも続いているかに見られた。

三叉路のところで、われわれは思わず立ちすくんで了った。すぐ目の前に真赤な血を含んだ止血帯が捨てられてある。血の色合からして使用後間もないらしい。そこから約十間位行くと、そこに小銃の薬莢が散乱していた。緊張の裡に更に二十間位進んだとき、われわれはそこに恐るべきものを目撃した。

路のすぐ側に、1人の兵隊が戦死していた。俯伏せの姿勢で両脚をきちんとつけて真直に伸し、右手を斜下に置き、左手を頭の上にかざし、頭の周辺の叢にはどす黒い血潮がかかっていた。

初めて見る戦死者の姿である。こんな森林の中にたった独りで死ぬなんてー』(361-362頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 361-362頁より》

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月29日