1945年 4月6日『日本海軍の総攻撃』

北進する米軍

名護(なご)・本部(もとぶ)

『海兵第29連隊は、4月6日許田に着き、そこから島を横切って道路沿いに戦線を敷いた。この辺りで、日本軍は橋を破壊したが、全く馬鹿げたやり方だった。橋のほんの一部だけが壊されたり、落ちたり、ヒビが入ったりしていたのである。これを工兵隊の方で、こわれたところだけを修理して車輌用に間に合わせの橋を急造した。しかしながら、第4海兵連隊は、橋をこわされたため進撃がおそくなった。東海岸のこのあたりでは破壊はもっと徹底し、場所によっては工兵隊は35メートルの橋もかけざるを得なかったのだ。』(128頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 128頁より》

http://ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Okinawa/img/USMC-C-Okinawa-p17.jpg

本部半島を目指し名護市許田に向かう海兵隊

Grinning troops of the 29th Marines hitch a ride on board an M-7 self-propelled 105mm howitzer heading for Chuta in the drive towards Motobu Peninsula.
Department of Defense Photo (USMC) 117054

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進する米軍

『上陸一週間もたったころ、米第24軍団(南部上陸軍)のホッジ陸軍少将は、ようやく日本軍の主要陣地の位置を探知することができた。そこで同軍団傘下の第7、第96歩兵師団は、沖縄本島の分断に成功した余勢を駆って、守備軍の主陣地一帯にまともに激突しはじめた。(84頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 84頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-10.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p121.jpg

TANK-INFANTRY TEAM of the 382d Infantry advancing on 6 April. (Army Photograph)

Battle of Okinawa Chapter 07

 

周辺離島の制圧

津堅島(つけんじま)上陸

『米軍は南部へ進撃の前に東海岸洋上の島々と本部半島に向かい合う伊江島を占領して自らの後方、両翼を安全にする必要があった。そのため4月6日から津堅島への上陸を始めた』(84頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 84頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/maps/USMC-V-11.jpg

勝連半島周辺の離島の偵察と占領 (1945年4月6-11日)

Map 11: Reconnaissance and Capture of the Eastern Islands  6-11 April 1945

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-5.html

 

特攻攻撃を受けた米軍

4月6日、…九州から飛んできた400機が、沖縄の上陸米軍を駆逐しようと猛烈な攻撃を加えてきた。空襲は未明からはじまった。第58機動部隊は午前中に推定5機の特攻機を撃墜したが、午後になって日本機の襲撃はますます激しさを加える一方だった。偵察艦や警戒にあたっている米艦船は、特攻機にとって格好の攻撃目標で、戦闘中ずっと狙われどおしであった。

日本機は、ときどき渡具知の浜の上空や輸送船団上空にも来襲したが、これは艦船や地上軍の自動機関銃砲から撃ちだされる曳光弾に囲まれながら、何百という砲弾が炸裂した砲煙でいっぱいになった空を、閃光を曳いて、横なぐりざまに墜落するとみるや、1、2秒後には、しぶきと黒煙をあげて海中に突っ込み、あるいは大爆発音とともに炎をあげて艦に体当たりした。

この特攻機の体当たりを防ごうと、撃ちまくった米軍は、誤って同士討ちをするという仕末だった。第24軍団のほうでは、4名の米兵が味方の弾丸にあたって殺され、34名が負傷した。その他、嘉手納近くでは弾薬集積所に流弾が当たって爆発し油槽船を破壊した。さらに午後おそくなってから、味方の飛行機を4機撃ち落としてしまった。このほかにも、味方の砲弾で破損された米艦船や戦死傷者が出た。

特攻機24機のうち22機までが成功を収め、駆逐艦2隻、魚雷艇1隻、弾薬輸送船1隻、LST2隻を撃沈させた。撃沈されたLSTから海中に投じた生存者を救おうと赴いた戦艦までが、特攻機の体当たりをうけたが、幸いにして大破をまぬかれた。

日本軍もこの攻撃で300機を失った。このうち65機は、空母エセックスの戦闘機だけで撃墜されたものであった。

渡具知の浜での物資陸揚げは寸時も休むことなくつづけられた。米艦隊は、はげしい痛手をこうむったとはいえ、まだ無事であった。』(119-120頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 119-120頁より》

 

 

日本海軍の総攻撃

『沖縄を占領された場合海軍は、本土と大陸や南方との航路が完全に遮断され、燃料が持たなくなり、動かない鉄のどんがらを抱えているに過ぎなくなる。沖縄戦で時間を稼ぎ、兵力を温存しつつ本土決戦の準備をする陸軍に対し、海軍はあくまで沖縄が最終決戦場であり、あらゆる兵力をつぎ込むつもりだった。米軍に占領された北、中飛行場が機能するようになれば、沖縄周辺の米機動部隊は安全な海域まで後退し、航空攻撃は困難になると予測された。』(164頁)
《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 164頁より》

『航空部隊から見る沖縄戦は、このままでいくと、あと数日の間しか、勝利の可能性は残されていなかった。沖縄で、勝てるメドは、上陸部隊が上陸しない前に、これを海中に葬ることだが、それが不成功に終わった今日、残るのは、沖縄に上げた上陸部隊を根こそぎにしなければならない。ところが、すでに北・中飛行場は米軍の手に陥ち、4月3日には、もう数機の小型機が発着している。米軍の、圧倒的な土木建築能力をもってすると、両飛行場が、相当のポテンシャルをもつまでに動き出すには、そんな長い日数は要らない。ここ旬日が、ヤマ場であろう。…海軍では、航空部隊と水上部隊の全力特攻に踏み切った。』(169頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 169頁より》

 

 「菊水作戦・1号」発動

海軍は6日、第五、第十航空艦隊を運用する第一機動基地航空部隊の航空機で沖縄周辺の米艦隊に対し、特攻攻撃を加える「菊水作戦」を発動する。菊水は天皇に忠義を尽くした楠木正成の旗印だった。』(164頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 164頁より》

『4月6日、日本軍は、緒戦における不利な戦況を挽回すべく米艦船群に最大規模の特攻攻撃をかけた。九州各地の飛行場から飛び立った約500機の特攻機がこの日は一日中暴れまわった。これにたいし第5艦隊所属のM・A・ミッチャー中将が指揮する快進米第5艦隊快進空母部隊(第58機動部隊)とR・K・ターナー中将指揮下の第51機動部隊の戦闘機隊が迎撃、彼我入り乱れての空中戦を展開した結果、約61機の特攻機は米艦船への突入に成功、かつてない損害を与えた。』(79頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 79頁より》 

『海軍は6日、米機動部隊に対し、96機、輸送船団に対し179機を出撃させる。陸軍も九州から54機を出撃、台湾方面より28機を出撃させた。第32軍からの報告ではこの日の攻撃で、沈没は戦艦2、輸送艦5など15隻、撃破は戦艦1駆逐艦1など19隻となっている。最終決戦と臨む海軍と本土決戦までの持久戦である陸軍の思惑は違うが、帝国陸海軍史上最大の航空作戦であり、未曾有の特攻作戦でもあった。』(166頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 166頁より》

 

海軍艦艇・陸軍航空軍の出撃

『同じ日、山口の徳山湾を戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻が沖縄に向けて出撃、海上特攻である。九州の陸軍第六航空軍も連合艦隊の指揮下に入り、「航空総攻撃」と名付け、米上陸部隊輸送団に向け出撃した。』(164-165頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 164-165頁より》

『沖縄海域の米艦隊への玉砕攻撃に、とっておきの戦艦「大和」と巡洋艦「矢矧(やはぎ)」のほか「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「朝霜」など8隻の駆逐艦をあてた。「大和」は、全長が263メートルで幅が38.9メートルもある6万9110トンの日本が誇る巨艦。その主砲は、世界最大の射程距離をもつ46センチ砲9門から成り、2500人の乗員をのせて時速約30キロで燃料を補給することなしに1万3000キロを航行する能力を持っていた。大本営海軍部は、「大和」以下の沖縄突入作戦は、〝成功の見込みなし〟とし反対していたが、連合艦隊司令部は「沖縄を失うことは、堪えがたし、現地将兵を見殺しにすることも忍びがたい」として、戦闘機の護衛さえなく、片道燃料を積んだだけであえて玉砕戦法にでた。』(90頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 90頁より》

  

第32軍、総攻撃を再度中止

持久戦という戦略をとったために、米軍の無血上陸と北・中飛行場を奪取された第32軍は、各方面から総攻撃に出て両飛行場を奪回するよう求められ、一度は4月7日に総攻撃を開始する決定を下していたが、本島南部に敵の船団を発見したとの情報が入り、4日夜半にこれを中止。それを知った台湾の第10方面軍は愕然とし、8日に決行するよう打電。第32軍司令部は、その方向で準備を進めていたが、この日、二日後に迫っていた総攻撃さえも中止することになった。

『沖縄守備軍は、4月8日の夜を期し、全軍の総力を挙げて攻勢に転じ、北・中飛行場地区の米軍を撃滅する計画に基づき、牛島司令官は、4月6日、配下の各師団長に軍の企図を説明した。こうして攻撃命令は、下級部隊へくまなく伝えられた。が、八原作戦参謀は、いぜんとして攻勢案に疑問をいだき何とか元の防衛態勢に復する機会を狙っていた。それで、連合艦隊が出撃するという電報を受け取ったときも、かれはすぐ軍司令官の承認をえて「沖縄周辺の敵海空軍の情勢は、これを許さずと判断せらるるにつき、出撃を中止されたし」と返電を送ったほどであった。

そこへ、4月6日の夜、あらたに「百隻余の敵船団が沖縄島西南地区に近接中」という電報が舞い込み、二度目の攻勢案もあっさり中止されることになった。その結果、大本営や上級部隊は怒り、攻撃準備に忙殺されていた第一線各部隊には大きな混乱をもたらし、将兵の士気にも悪い影響を与えた。』(91頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 91頁より》

『肝心の反攻は6日夕、「敵、本島南部に新たに上陸の恐れ」という情報だけで中止されてしまい、陸海軍呼応の作戦は不発に終わる。』(380頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 380頁より》

 

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月6日

 

【菊水作戦】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/菊水作戦