〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月6日『日本海軍の総攻撃』

傍受された戦艦大和の特攻作戦民間人収容所

米軍の動向

米軍基地 - 沖縄攻略のためのインフラ整備

赤十字のコーヒーとドーナツ

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《AIによるカラー処理》上陸 (D-Day) から日をおかずして浜でコーヒーとドーナツを出す赤十字のテントを見て驚く兵士達。(1945年4月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》榴散弾の破片があたり胸を負傷した住民に施術する第3衛生大隊の2人の医師。手術は、浜に運ばれて使用された効率的な外科用トレーナー内で行なわれた (1945年 4月 6日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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ウィーズル車を使用してケーブルを引く通信隊の兵士(1945年4月6日撮影)

Men of the communication section use a weasel to string wire on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

北進: 本部 (もとぶ) 半島 - 許田に到着

今日のマップ (クリックで拡大できます)

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日本軍による橋梁の破壊は、ベイリー・ブリッジの装備をもつ連合軍には大きな弊害にはならなかった。

『海兵第29連隊は、4月6日許田に着き、そこから島を横切って道路沿いに戦線を敷いた。この辺りで、日本軍は橋を破壊したが、全く馬鹿げたやり方だった。橋のほんの一部だけが壊されたり、落ちたり、ヒビが入ったりしていたのである。これを工兵隊の方で、こわれたところだけを修理して車輌用に間に合わせの橋を急造した。しかしながら、第4海兵連隊は、橋をこわされたため進撃がおそくなった。東海岸のこのあたりでは破壊はもっと徹底し、場所によっては工兵隊は35メートルの橋もかけざるを得なかったのだ。』(128頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 128頁より》

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Tank borne infantry moving up to take the town of Ghuta[Chuda?] before the Japs can occupy it. Colonel Victor Bleasdale's 29th Marines.
日本軍より先に許田(?)の町を攻略するため、戦車に乗って前線に向かう歩兵。ブリーズデール大佐率いる第29海兵連隊。

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進 - 日本軍の主陣地を探知

今日のマップ (クリックで拡大できます)

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『上陸一週間もたったころ、米第24軍団(南部上陸軍)のホッジ陸軍少将は、ようやく日本軍の主要陣地の位置を探知することができた。そこで同軍団傘下の第7、第96歩兵師団は、沖縄本島の分断に成功した余勢を駆って、守備軍の主陣地一帯にまともに激突しはじめた。』(84頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 84頁より》

 

周辺離島の制圧 - 津堅島上陸

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勝連半島周辺の離島の偵察と占領 (1945年4月6-11日)

Map 11: Reconnaissance and Capture of the Eastern Islands  6-11 April 1945

『米軍は南部へ進撃の前に東海岸上の島々と本部半島に向かい合う伊江島を占領して自らの後方、両翼を安全にする必要があった。そのため4月6日から津堅島への上陸を始めた』(84頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 84頁より》

 

特攻機対応と被害

4月6日、…九州から飛んできた400機が、沖縄の上陸米軍を駆逐しようと猛烈な攻撃を加えてきた。空襲は未明からはじまった。第58機動部隊は午前中に推定5機の特攻機を撃墜したが、午後になって日本機の襲撃はますます激しさを加える一方だった。偵察艦や警戒にあたっている米艦船は、特攻機にとって格好の攻撃目標で、戦闘中ずっと狙われどおしであった。

日本機は、ときどき渡具知の浜の上空や輸送船団上空にも来襲したが、これは艦船や地上軍の自動機関銃砲から撃ちだされる曳光弾に囲まれながら、何百という砲弾が炸裂した砲煙でいっぱいになった空を、閃光を曳いて、横なぐりざまに墜落するとみるや、1、2秒後には、しぶきと黒煙をあげて海中に突っ込み、あるいは大爆発音とともに炎をあげて艦に体当たりした。(119-120頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 119-120頁より》

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戦闘中の戦車揚陸艦(LCT-447)に対する日本軍の特攻を写した6枚の連続写真(No.339253〜No.339258)。慶良間列島にて。撮影機材:F-56。シリーズ6枚目の写真。戦車揚陸艦(LST-447)は沈没。1945年4月6日。

Series of six pictures, numbers 339253 thru 339258, of Jap suicide attack on USS LST-447 in action at Kerama Retto, Ryukyu Islands. T-1630; Camera F-56; F.L. 20”. 6th in series. LST-447sunk. 6 April 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

この特攻機の体当たりを防ごうと、撃ちまくった米軍は、誤って同士討ちをするという仕末だった。第24軍団のほうでは、4名の米兵が味方の弾丸にあたって殺され、34名が負傷した。その他、嘉手納近くでは弾薬集積所に流弾が当たって爆発し油槽船を破壊した。さらに午後おそくなってから、味方の飛行機を4機撃ち落としてしまった。このほかにも、味方の砲弾で破損された米艦船や戦死傷者が出た。

特攻機24機のうち22機までが成功を収め、駆逐艦2隻、魚雷艇1隻、弾薬輸送船1隻、LST2隻を撃沈させた。撃沈されたLSTから海中に投じた生存者を救おうと赴いた戦艦までが、特攻機の体当たりをうけたが、幸いにして大破をまぬかれた。

日本軍もこの攻撃で300機を失った。このうち65機は、空母エセックスの戦闘機だけで撃墜されたものであった。

渡具知の浜での物資陸揚げは寸時も休むことなくつづけられた米艦隊は、はげしい痛手をこうむったとはいえ、まだ無事であった

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 120頁より》

 

日本軍 - 日本海軍の総攻撃

海軍「菊水作戦・1号」発動

菊水作戦とは

『航空部隊から見る沖縄戦は、このままでいくと、あと数日の間しか、勝利の可能性は残されていなかった。沖縄で、勝てるメドは、上陸部隊が上陸しない前に、これを海中に葬ることだが、それが不成功に終わった今日、残るのは、沖縄に上げた上陸部隊を根こそぎにしなければならない。ところが、すでに北・中飛行場は米軍の手に陥ち、4月3日には、もう数機の小型機が発着している。米軍の、圧倒的な土木建築能力をもってすると、両飛行場が、相当のポテンシャルをもつまでに動き出すには、そんな長い日数は要らない。ここ旬日が、ヤマ場であろう。…海軍では、航空部隊と水上部隊の全力特攻に踏み切った。』(169頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 169頁より》

 海軍は6日、第五、第十航空艦隊を運用する第一機動基地航空部隊の航空機で沖縄周辺の米艦隊に対し、特攻攻撃を加える「菊水作戦」を発動する。菊水は天皇に忠義を尽くした楠木正成の旗印だった。』(164頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 164頁より》

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《AIによるカラー処理》U.S. ships setting up AA and rocket barrage against Jap planes coming in just above the water on the seaward side in Kerama Retto, Ryukyus. Taken from USS CHANDELEUR (AV-10).
日本軍の戦闘機に、対空砲やロケットの一斉射撃を行う米艦船。戦闘機は、慶良間列島沖で、海面ぎりぎりを飛行して向かってきた。水上機母艦チャンドラー(AV-10)から撮影。(慶良間列島 1945年4月6日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

海軍は6日、米機動部隊に対し、96機、輸送船団に対し179機を出撃させる。陸軍も九州から54機を出撃、台湾方面より28機を出撃させた。第32軍からの報告ではこの日の攻撃で、沈没は戦艦2、輸送艦5など15隻、撃破は戦艦1駆逐艦1など19隻となっている。最終決戦と臨む海軍と本土決戦までの持久戦である陸軍の思惑は違うが、帝国陸海軍史上最大の航空作戦であり、未曾有の特攻作戦でもあった。

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 166頁より》

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《AIによるカラー処理》U.S. ships setting up A.A. and rocket barrage against Jap planes coming in just above the water on the seaward side in Kerama Retto, Ryukyu. Taken from USS CHANDELEUR(AV10).
海面すれすれから攻撃してくる日本軍機に対し、高射砲とロケット弾幕で対応する米艦船。チャンデラー号より撮影 (1945年 4月 6日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

海軍「大和」艦隊、海上特攻に出発、しかし…

3月30日天皇の「総攻撃は航空部隊だけか。海軍にはもう艦がないのか。」との質問を受け、大和艦隊を読谷に逆上陸させる「海上特攻」計画は数日間で始動した。

4月6日に大和と他9隻から成る艦隊は、広島県三田尻沖を出撃した。

『同じ日、山口の徳山湾を戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻が沖縄に向けて出撃海上特攻である。九州の陸軍第六航空軍も連合艦隊の指揮下に入り、「航空総攻撃」と名付け、米上陸部隊輸送団に向け出撃した。』(164-165頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 164-165頁より》

『沖縄海域の米艦隊への玉砕攻撃に、とっておきの戦艦「大和」と巡洋艦矢矧(やはぎ)」のほか「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「朝霜」など8隻の駆逐艦をあてた。「大和」は、全長が263メートルで幅が38.9メートルもある6万9110トンの日本が誇る巨艦。その主砲は、世界最大の射程距離をもつ46センチ砲9門から成り、2500人の乗員をのせて時速約30キロで燃料を補給することなしに1万3000キロを航行する能力を持っていた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 90頁より》

が、しかし、計画は完全に傍受されていた。

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無線傍受翻訳 大和 1945年4月6日(2131)沖縄/Okinawa(divider 2 of 2)(1945、米海軍作戦部長室)

この資料は、日本海連合艦隊参謀長が発した無電を、米軍が傍受して翻訳したものです。大和らが、4月6日に豊後水道を18時に出撃すること、「Y Day」とする4月8日が沖縄着の予定日であることなど、作戦計画がわかります。

1945年4月7日 戦艦大和が撃沈される – 沖縄県公文書館

第一遊撃部隊の作戦日程

6日 18:00 豊後水道出撃 (紀伊水道か?) 23:00 (トイ岬?)より66度方向に11マイル

7(04:00?) (大隈海峡 ?) 10:00北緯31.12、東経128.15の位置 (22:00?) 北緯28.12、東経126.(56?)

805:00 沖縄到着

戦艦大和以下の道筋はほぼ完全に読まれていたと言ってよい。

林博史暗号史料に見る沖縄戦の諸相沖縄県教育委員会史料編集室紀要 (2003)》

 

第32軍、総攻撃を再度中止・・・

持久戦という戦略をとったために、北・中飛行場を米軍に受け渡した第32軍は、4月3日の天皇「逆上陸」発言と大本営の圧力から、両飛行場を奪回するよう求められ、一度は4月7日に総攻撃を開始する決定を下していたが、本島南部に敵の船団を発見したとの情報が入り、4日夜半にこれを中止。それを知った台湾の第10方面軍は愕然とし、8日に決行するよう打電。第32軍司令部は、その方向で準備を進めていたが、またもこの日、総攻撃計画を中止することに。

『沖縄守備軍は、4月8日の夜を期し、全軍の総力を挙げて攻勢に転じ、北・中飛行場地区の米軍を撃滅する計画に基づき、牛島司令官は、4月6日、配下の各師団長に軍の企図を説明した。こうして攻撃命令は、下級部隊へくまなく伝えられた。が、八原作戦参謀は、いぜんとして攻勢案に疑問をいだき何とか元の防衛態勢に復する機会を狙っていた。それで、連合艦隊が出撃するという電報を受け取ったときも、かれはすぐ軍司令官の承認をえて「沖縄周辺の敵海空軍の情勢は、これを許さずと判断せらるるにつき、出撃を中止されたし」と返電を送ったほどであった。

そこへ、4月6日の夜、あらたに「百隻余の敵船団が沖縄島西南地区に近接中」という電報が舞い込み、二度目の攻勢案もあっさり中止されることになった。その結果、大本営や上級部隊は怒り、攻撃準備に忙殺されていた第一線各部隊には大きな混乱をもたらし、将兵の士気にも悪い影響を与えた。』(91頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 91頁より》

 

そのとき、住民は・・・

民間人収容所 - 楚辺収容所と島袋収容所

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米軍が記録する民間人収容者の数は、6日間で12,661人に達した (川平成雄, 2008)。

楚辺収容所 - 読谷では楚辺・都屋・喜納に一時的民間人収容所が開設されていた。この時にはわずか村の名残は残っていたが、後に完全に米軍基地として接収される。

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Okinawa Civilians in village of Sobe, U.S. Military Government wash themselves and draw water for cooking and drinking from one of their wells in village.
軍政府かにある楚辺区の人々は風呂、料理・飲料用に村の井戸から水を引いている。(1945年4月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/118020.jpg

Okinawan men working at clearing away wreackage and debris at the hospital set up for civilians by Medical Battalion, III Amphibious Corps.

残骸、瓦礫を片付ける沖縄の人々。ここに第3水陸両用軍団医療中隊による民間人病院を建設。(1945年4月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 死と隣りあわせの生活

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手前は地元民の死体。中央は墓を掘る人たち。奥は民間人収容施設。(1945年4月6日撮影)

Dead Okinawan in the foreground, men digging his grave in the middle distance; civilian compound in the background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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More Natives. 民間人 (1945年 4月 6日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

島袋収容所

一方、嘉手納の砂辺収容所や北谷収容所の住民は4月4日から島袋収容所 (中城村) に移動させられた。

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第10軍が沖縄を侵攻した数日後の混み合った島袋の広場の様子。陸軍は適切な食糧配給制度を設け、住民はここで米やその他の食料をもらっている。倉庫にあった食料を配給センターへ運ぶためにトラックへ積み込む人の姿も見える。(1945年4月6日撮影)

A busy intersection a few days after Tenth Army Troops invaded Okinawa was the town square of Shimabaku. Here the Army Forces have set up a fair food rationing system and civilians are drawing their daily quota of rice and other foodstuffs. Others are transporting rations which had been stored in the warehouse into Army trucks for transportation to rationing centers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月6日