〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月5日『沖縄にできた米軍政府 〜アメリカ世(ゆ)のはじまり〜』

ミニッツ布告、 軍政府樹立捕虜の尋問

米軍の動向

北進する米軍 - 名護へ

4月5日の地図 (クリックして拡大できます)

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Chapter 05 | Our World War II Veterans

『北上した米軍の一部は、4月5日には名護の湖辺底に到着。そして4月7日、名護・屋部海岸に上陸し、そのまま北上して羽地村を制圧した。』(173頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 173頁より》

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畑を抜け、田んぼのそばを通り進軍する海兵隊員。(1945年4月5日撮影)

Marines advancing thru fields and past rice paddies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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進軍するジープと戦車。(1945年4月5日撮影)

Jeeps and tank advancing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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名護郊外で、狙撃兵が掃討されるのを待つ海兵隊員。埃まみれで疲れている彼らは日本兵を捕えようとしている。(1945年4月5日撮影)

On the outskirts of the town of Nago, waiting for the snipers to be cleaned out, the Marines are dusty and tired and trying to catch the Japs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ミニッツ布告第2号 - 読谷村比謝に軍政府を設立

沖縄には住民がいるということで、アメリカの作戦立案者側には、軍政をしくというもう一つの問題が出てきた。これには2つの問題がふくまれている。かれらを前線から退かせるということと、もう1つは、その後の世話をみなければならないということである。これは作戦遂行をスムースに行うためばかりでなく、占領軍に労力や物資源を利用させるという意味においても必要だったのである。沖縄の住民はおよそ30万人が南部に住み、残りは北部やその近くの島に住んでいる。こんなに多数の敵の民間人を取り扱うことは、アメリカにとって太平洋地区ではじめてのことであった。』(46頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 46頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-16.html 

『この占領された日本の島での軍政の基本的責任は海軍がとり、ニミッツ提督琉球軍政長官の地位につくことになった。しかし、守備隊のほとんどが陸軍の部隊である関係上、ニミッツ提督はその責任をバックナー中将に代行させる。バックナー中将は、沖縄侵攻をつづけるかたわら、各戦闘部隊の司令官を通じて行政区域を設けさせ、軍団長、師団長がその責任者となって、行政部において、前線後方の民間人に関するプランをたてたり、組織をつくったりさせる。戦闘が進展し民間人の数が多くなるにつれ、今度は第10軍軍政本部付各チームが責任をとり、収容所をつくって全島的な計画を進めていく。守備隊が行政区域の責任をとっているあいだは、バックナー中将の命令により、地上軍司令官が全軍政府職員に指揮権を行使する。これには軍政副長官W・E・クリス准将を通じて、フレッド・C・ウォレス少将があたるということになった。』(46-47頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 46-47頁より》

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米軍の沖縄上陸をラジオで伝えるニミッツ元帥。

Fl. Adm. Chester W. Nimitz, USN, announcing on the radio that U.S. forces have landed on Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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アイランド司令部司令官ウォレス陸軍少将、第10軍戦術航空軍マルケイ海兵隊少将、第10軍工兵隊将校ノルド准将、ウォレス少将の部下ビセット准将

Army Major General Fred C. Wallace, Commanding general of the Island Command at Okinawa, Marine Major General Francis P. Mulcahy, commanding general of Tenth Army Tactical Air Force, Army Brigadier General George J. Nold, Engr. Offr. for the Tenth Army

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『すでに慶良間上陸のさい「軍政布告第一号」を公布していた米軍は、沖縄本島へ上陸すると改めて同布告を公布、日本政府のすべての権限を停止して、じかに軍政をしいた。軍政要員たちは、上陸前に沖縄についての情報を網羅的に要約した小冊子を手渡されていたので、知識としては比較的によく知っていた。が、実際にみる沖縄の姿は、驚くほど貧しく映ったようである。かれらの記録は、異口同音に沖縄の土地がやせ、作物も悪く、住居は貧弱で住民は短小なうえ、いづれも栄養失調に陥っていると述べている。そして軍政下の住民はだれもが恐怖におののいているが、そこには「一つの不吉な特徴がはっきりと目立った」と指摘、「それは、若い青年が一人もいないことであった。そして若い女性もはなはだ少ないことであった。」「彼らは全部6歳以下か、もしくは60歳以上」という。そこから若い世代がすべて軍隊に召集されたことを悟ったのである。』(58頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 58頁より抜粋》

 

捕虜の尋問 - 4月2日、特設第一連隊の「玉砕」の真実

米軍は捕虜や民間人の尋問をおこない、その内容を記録した。尋問の記録が残されることを想定していない捕虜たちは、縛りから解放されるように自らの戦場体験を生々しく語っている。

特設第1連隊第1大隊 (黒澤巌少佐): 4月2日に「玉砕」したと伝えられる第一大隊。4月7日に捕虜となった兵士はある「命令」について語っている。

第56飛行場大隊(長黒澤巌少佐)通信隊 (埼玉県出身23歳) の尋問記録

「50人が負傷し、五体満足な兵士が負傷者を処置 (to kill)することが求められた。その命令から逃れることは出来なかった。この命令は、自傷者を壕内のある場所に閉じこめ入口にダイナマイトを仕掛けることで事足れり (gratified) となった。捕虜と軍曹は、他の退却可能な兵士らと別れた。彼は、軽傷を負っており、軍曹に対しすまない気持ちを感じ、そのまま後方に残して欲しいと伝えた。軍曹は、彼の申し出を受け入れ、彼だけそこに留まった。4月3日までは現在地に留まり、その後那覇をめざそうと捕虜は考えた。捕虜は、海兵隊斥候隊が急襲した際、自決用に手榴弾1個を持っていた。それは、失敗に終わった。彼は、あわれなほど恥じ入り、日本には絶対帰還したくないと思っている。むしろ彼は、遠く日本から離れた異国で働くことを望んでいる。」

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言 上 針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 2015年 p. 184.》

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《AIによるカラー処理》First Jap soldier to be captured by the 22nd Marines on April 5th, 1945

1945年4月5日、第22海兵連隊に捕らえられた最初の日本兵

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

特設第一連隊第二大隊: 前線に押しやられた特設第一連隊には、実際には多くの沖縄の防衛隊員が投じられ、苦力 (クーリ) として監視され過酷な扱いを受けていたことが何人かの捕虜の証言で明らかになっている。尋問にあたった調査官は、沖縄人を差別的に語る捕虜の調書に抵抗感を示し、わざわざ註をつけてその発言を否定している。

第504 特設警備工兵隊の尋問記録について

ちなみに沖縄本島には、5個の特設警備工兵隊が創設されたが、その何れもが沖縄人から編成された「郷土」部隊であった。しかし彼らは、特段軍事教練や兵器の取り扱い等について教えられておらず、武器も隊員の3分の1程度しか所有せず、その兵器も旧式の25式機銃のみであった。さらに工兵隊といっても、その任務は道路建設や道路補修が主であり、捕虜がいみじくも述べているように「苦力」部隊であった。さらに、沖縄人と本土の日本人の関係について聞かれた捕虜の1人は、「沖縄人は、劣等国民と見なされており、『汚れた者』(dirty people) と呼ぶものすらいた」 と証言している。もっとも尋問官は、「捕虜尋問を受けた正規日本兵らは、 沖縄人は日本人と変わらないと述べている」と特別な脚注を尋問記録に記しているが、沖縄人防衛隊員の実態や処遇、発言内容等を仔細に見ると、やはり日本兵による沖縄人劣等視は現に存在したと見なしてよいだろう。ちなみに尋問官が、特別な注意書きを記したのは、日本兵による沖縄人差別には両面性があったということを言いたかったかもしれない。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言 上 針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 2015年 pp. 82-83.》

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《AIによるカラー処理》スローター中尉が学生に訊問しているあいだ、民間人捕虜を見張るスミス一等兵。捕虜は日本軍の軍服に似た学生服を着ている。(1945年4月5日撮影)

Private First Class R. A. Smith is covering the civilian prisoner while First Lieutenant Glen Slaughter questions the student. The prisoner wears a student's uniform which resembles a Jap soldier's uniform.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

 

南西諸島方面の日本軍の動向

二転三転する作戦計画

昭和天皇「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」(4月3日) といった言葉を受け、大本営と上級司令部は、米軍に沖縄島無血上陸と北・中両飛行場の占拠を許した第32軍に対し攻勢に出るよう要請した。それを受け、4月7日に総攻撃を開始すると決定した第32軍であったが、前日の4日夜半に沖縄島南方に米軍の船団を発見したという報告を受けたことで、急遽、7日の攻勢開始を中止した。

4日夜半この大攻勢を延期することにした32軍の電報は、5日午前7時20分に打たれている。5日朝から米軍が全面攻撃を加えはじめ、それによって北正面に通せんぼをしてくる前のことである。攻撃は、刻々に困難となり、成果が収めにくくなっていく。この5日の延期を受けとった台湾の10方面軍では、愕然とした。このままではいけないと痛感した。』(165頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 165頁より》

前日4日に第10方面軍の安藤軍司令官は、台湾から沖縄への兵力と武器輸送に関し調査せよと命じていたが、空輸では航空機が足りず、舟艇輸送では成功しないという調査結果が報告された。その後に「7日の攻勢は中止」という一報が入った。

『安藤軍司令官は、目をつぶって深沈と考えこんでいたが、「これは、この際、方面軍から踏ん切りをつけてやらねば動けんだろう。参謀長。電報を打ってやれ」と命じた。諫山参謀長は、すぐに電報を起案、32軍の攻勢延期が、全般の作戦指導に重大な関係があることを説き、「コレガタメ地上作戦発起ヲ四月八日夜ト予定シ攻撃ヲ実行セラレタシ 命ニ依リ」と結び、決裁を受けて、午後5時15分に発信した。

5日夜半この電報を受けた32軍では、上級司令部の命令には服さねばならぬ。そこで、軍司令官は、さほどの船団が湊川に上陸するおそれもなくなったことではあり、4月8日に攻勢を再興することに決意し、関係部隊に電報した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 166頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-9.jpg

日本軍の防衛陣地(1945年4月1日)Map No. 9: Japanese Defensive Positions

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

『このように軍司令部の意志が二転、三転したことは、32軍各部隊に、けっしていい影響は与えなかった。…これでは、士気が低下する。しかし、北方方面では、そんなことをいっていられない火急の状態が起っていた。5日朝から、前線にわたって、米軍の本格的な攻勢を受けていたのだ。』(166頁)

『4日、米軍が動き出したころから、湊川方面に米軍が上陸してくるのに備えていた強力な軍砲兵主力は、4日から8日にかけ、北向きの新陣地についた。その間、首里北東にあった砲兵1コ大隊は、北方に向かって射撃を開始した。』(167頁)

『ここでも、タイミングの遅れが出た。沖縄主陣地の出城である62師団の第一線陣地は、担当正面の幅が広く、それに見合う兵力が少ないので、出城と出城の間にどうしてもスキ間ができる。そのスキ間を戦車が通りぬけて、出城を包囲してくる。本来ならば、そのスキ間は、重砲の射撃で埋めるのだが、使用弾薬を制限された1コ大隊の砲兵ではそれができない。突破されたのは、二カ所だった。それ以外は、多くの戦死者を出しながら、それにひるまず、善戦して第一線をもちこたえた。(168頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 166、167、168頁より》

 海軍

4月5日、晴。…小磯内閣が総辞職し、大命は鈴木貫太郎海軍大将に降下した。全力をあげた特攻作戦ー「菊水1号」作戦の準備が成った。連合艦隊は、第1遊撃部隊(「大和」、第2水雷戦隊)にたいし、沖縄突入攻撃(特攻)を下令した
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 163-164頁より》

 

第32軍の動向

 

八原高級参謀の回想:

敵は4月5日、早くもわが南上原-我如古-牧港の線の主陣地帯前面に出現した。わが主陣地の存在に気付かず、賀谷支隊追撃の余勢を駆って、そのままぶつかってきたのである。

宜野湾街道およびその西側地区に戦車100余輛、同街道東方山地に同じく戦車数十輛が、敵第一線として南下している。山地方面は戦車の行動至難とのわが予想に反し、その行動はすこぶる活発である。なかなか油断がならぬ。対戦車戦は、軍参謀長の得意中の得意であって、これが教育訓練は徹底しているはずだが、敵もまたわが歩兵の急造爆雷をもってする肉薄攻撃の対策を心得、容易に寄せつけない。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 174頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325722.jpg

4月5日の晩に第382歩兵連隊第2大隊の司令部地区に潜入しようとして殺された住民。その時持っていた刀を抱いている。

The Japanese civilian was killed the night of April 5th when he tried to infiltrate the command post area of the 2nd Bn., 382nd Inf. Regt. He holds the sword he was carrying at the time.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

八原高級参謀の回想:

『…大本営からの通報によれば、敵はすでに5、6個師団を上陸させたようである。軍情報主任薬丸参謀は、敵の上陸兵力4個師団、うち軍主力当面に2個師団、国頭方面に北進中のものが1個師団、総予備として嘉手納付近に1個師団あり、この兵団は戦車師団でありやも知れぬとの意見である。

第一線は戦闘に熱中するあまり、敵情報告がとかくとどこおりがちになる。軍と当面の第62師団との情報収集に関する平時準備が不十分なうえに、戦闘勃発以来、各部隊は、敵の飛行機や艦船の数、特攻機の戦果の観測統計に夢中になり、直接地上戦闘に必要な戦場情報に頭の転向がむずかしい。』(175-176頁)

港川正面のアメリカ軍の行動は、結局陽動に過ぎないことが漸次明瞭となったので、軍は4月5日命令を下し、諸部隊を旧陣地に復帰せしめた。』(176頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 175-176、176頁より》

第62師団独立歩兵第12大隊(賀谷支隊: 支隊長賀谷与吉中佐) (第11海軍砲台)

八原高級参謀の回想:

『主力をもって島袋付近に位置した独立歩兵第12大隊は、アメリカ軍の先鋒部隊に打撃を加えつつ、歩一歩計画的後退を続けている。この大隊の戦闘振りはあっぱれである。わが死傷300、敵殺傷1000の報告を最後とし、賀谷中佐の率いる独歩12大隊は、4月5日主陣地帯内の幸地付近に兵力を集結し、該正面の守備隊長である歩兵第63旅団長中島少将の指揮下に復帰した。「砲兵の協力さえあれば、アメリカ軍地上部隊の手並みは恐るるに足らない」というのが同大隊勇士らの意見である。』(174頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 174頁より》

 

独立高射砲第27大隊第1中隊

小禄(おろく)飛行場付近

通信班・陸軍二等兵の回想:

『…夜、大隊長がいつものように副官を従え、中隊長以下全員を砕石場に集合させた。「本日かぎりで天一号作戦は終わった。ただいまより菊水作戦を実施する。目下、首里前方第一線将兵は日夜死闘を繰りひろげつつあり、戦いは持久戦となる。今後敵は、どこから上陸して来るかわからないが、第1中隊はどの方向から侵攻して来ても射撃出来るように、強力な布陣を完了したはずである。わが独立高射砲第27大隊の名誉にかけて、一弾で敵の戦車1輌を破壊し、残りの兵は急造爆雷を持って肉弾で敵戦車を撃滅せよ」大隊長はいつもの調子で檄を飛ばすと、「天皇陛下万歳」を唱えさせて引き揚げて行った。私たちは、いままでの天一号作戦で何をしたのか、これからの菊水作戦で何がはじまろうとしているのかわからなかった。』(74頁)

『その夜、大隊本部の壕を住み心地よくするため、浜田と私が土方作業の使役に駆り出された。本部指揮班は酒宴の真っ最中であった。大隊長の横にひかえているのは、去年の秋、慰問に来たとき琉球舞踊を見せてくれた乙姫の…色は少し黒いが目鼻立ちの整った美人で、あのとき以来大隊長のお抱えとなり、遊郭が空襲で焼野原になったあと引きとられて来たそうだ。女はほかに何人かいて陽気に騒いでいたが、私たちはそれに見とれているわけにはいかなかった。大隊長専用の個室を作るため私たちは岩盤を砕き、石塊をモッコに入れて外に出す作業を終夜くり返した。』(75頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 74、75頁より》

町に火を放ち撤退する日本軍

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《AIによるカラー処理》日本軍が撤退する際に放った火で炎に包まれる村を見つめる海兵隊員。(1945年4月5日撮影)Marines gaze at the village the Japs left in flames.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(ブログ註・米軍の記録には5日とあるが、同日の海兵隊の写真にアーニー・パイルの死亡記録も誤って記載されているため (実際は4月18日死去)、この一連の写真も実際には4月17日頃の第一護郷隊による真喜屋の村落放火の写真かもしれない。)

 

一中鉄血勤皇隊と通信隊 (沖縄県立第一中学校)

一中鉄血勤皇隊

沖縄戦当時、第一中学校に通う14歳から18歳の少年たちが鉄血勤皇隊や通信隊として学徒動員され、およそ290人が亡くなりました。…大田さん「県立第一中学校の学徒隊、3年生から5年生までの鉄血勤皇隊として動員された子たちは、アメリカ軍が上陸して一週間後ぐらい4月の上旬に、壕の中でそれぞれ遺書を書かされています。」

残された遺書~学徒になった少年たち~ – QAB NEWS Headline

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戦場に学徒動員された少年たちは死を覚悟し、遺書を書いていました。終戦から4年後、豊見城の壕から発見された遺書や遺髪。これらは65年前の4月上旬、鉄血勤皇隊として動員された県立第一中学校の生徒たちが書いたものです。「一身を鴻毛の軽さにおき、御国のために散る覚悟でいます。もう一度父母兄弟の顔が見たくてたまりません」「軍人となり、軍服姿に身を固め頑張っています。この髪は遺骨の代わりにしてください」ふるさとに戻ってこなかった少年たち。遺族はこれらの遺書や遺髪を遺骨の代わりに大切にしているということです。

琉球朝日放送 » 65年前のきょうは1945年4月5日

一中通信隊

各学校で軍事教練をうけていた三年生以上の男子は鉄血勤皇隊として動員され、引率教師もついたが、一方で二年生・一年生は通信隊という名目で動員され、分散した状態で過酷な戦場に送り出された。ゆえに、もっとも小さな学徒兵、通信隊の戦死者率は多く、例えば勤皇隊よりも通信隊が多かった二中では、戦死者率82% となった。

14歳の一中通信隊。沖縄戦で六人家族をすべて失い孤児となった宮平盛彦さんの証言から

二年生の夏休みからは、満州から兵隊が沖縄に押し寄せてきて、学校は全部軍隊に接収されてしまって、授業は二年生の夏休みからありませんでした。… 召集は、書付けみたいなものはもらったかな、はっきり覚えてないですね。ただ3月28日に入隊しなさいと。… 西原の防空壕にいた時に、先輩から入隊しなさいという知らせが来て。ですから、家から出て来る時は単なる遠足気分で、家族もすぐ帰れるんじゃないかと思ってたと思います。まさかこんな状況になるとは……。

三年生以上は先生と一緒に訓練して戦場にも一緒に行っているので、みんなで遺書を書いたり、向こう行ってからも学校単位のそういうのがありますが、僕たち二年生は直接軍隊に所属してしまったから遺書もないです。すぐ第一線に行かされたのもいるし。各中隊に分散されて犠牲者も多い。一班五、六名の兵隊がいて、そこに通信機持って二人ずつ送られた。(刻銘を触り触りながら)この當山全英というのは、ずっと一緒に伝令したり、飯上げといって食事を運んだり、交代交代でやっていた。彼も亡くなったのは八月一五日より後ですよ。それまでに一度会いましたのでね、逃げて来る途中で。東風平まで一緒に来てそこで別れてそのまま、行方知れずです。…

そりゃもう、背が全然違うから。まだ140cmくらい。今も小さいけどあの頃はまだ小さかったから。14歳ですね。今の中学二年から三年に上がるという四月ですからね。14歳と半くらい。服は学生服ですよ。身体小さくてさ、軍服が合わないわけですよ。あの頃は軍服と同じような色の学生服でしたので、そのまま、ただ帽子だけ徽章だけ取って……。いや、徽章はつけてテープ一本外して徽章はそのままだったな、半袖のシャツ一枚くらいあったと思うけど、もうほとんど自分の私服でずっと通しました。32軍の首里司令部壕はここにありましたからね。つまり軍司令部の直轄の通信隊。それで當山君と二人、地方出身で逞しそうだと思われたのか選ばれて…。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

そのとき、住民は・・・

砂辺収容所から島袋収容所への強制移動

4月5日、米軍は砂辺収容所に収容された住民を島袋収容所に移動させた。米軍は基地建設の都合にあわせ、収容者を転々と移転させる。そのたびに住民は徒歩などの移動を強いられた。米軍資料 (マーフィン資料「戦闘日誌」) によると、島袋収容所の開設は4月4日で、4月13日には収容者数は10,785人に達した。

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現在の北中城村島袋集落は米軍の一大難民収容(所)として利用されました。米軍上陸後に北谷と砂辺の仮収容所に収容されていた住民は、4月5日に米軍の車両や徒歩で島袋収容所に移されました。そこで、17歳から45歳までの男性をえり分けて米軍の作業を行う特別作業員として収容し、一般収容所では瓦葺き家に数所帯・数十人も押し込められ、狭苦しい生活を送りました。

北谷公文書館「北谷戦後七十年余のあゆみ あの日あのとき ...」

米第7師団は、4月2日には中城村島袋を突破、翌3日には地元住民の収容を開始した。避難せずに残っていた住民と北谷村砂辺から移動した住民をあわせると数千人の規模になる。6月末までの間に「避難民は、東方面ばかりではない。島尻からも、首里那覇の方からも大分来た」という。「島袋での生活は、ゆっくりでした。島袋の建物は、部落にいる間は、一軒もこわされていなかった」が、6月末には金武村福山に全員移動となった(本稿「宜野座地区」参照)。その後福山から帰ってきたとき(島袋への居住許可は翌年3月5日―引用者注)には、家は壊されて一軒も残っていなかったという(引用は『沖縄県史 沖縄戦記録1』より)。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/80-G-K-05000/80-G-K-5168/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1457060572843.jpg

島袋の民間収容所 (写真の下部、木々の間に見えるのが収容テント) Near the Shimimuku Camp for Japanese Civilians, circa April-May 1945. Note tents in lower foreground.

80-G-K-5168

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arine carries Jap child to truck.

子供をトラックまで運ぶ海兵隊員 1945年 4月 5日

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Cレーション(配給食)を受け取る民間人(1945年4月5日撮影)

Jap Civilians get ”C” rations.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-32-2.jpg

自傷した民間人の治療にあたる米海軍予備役部隊所属インローズ医師。我が子2人の命を奪った後、地元の女性たちは自分の命を絶とうとした(1945年4月5日撮影)

Doctor B.H. Inloes, USNR of Maryland, treating civilians with self-inflicted wounds. After killing their children (2) the native women tried to take their own lives.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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  1. 読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所
  2. 川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(琉球大学経済研究(75): 107-128, 2008) 食料調達について
  3. 清水史彦「沖縄戦下の民間人収容所の展開に関する考察 : 米軍基地建設計画と関連して