〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月23日 『沖縄人と米軍基地』

沖縄人捕虜を支えたハワイのウチナーンチュ

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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《AIによるカラー処理》伊江島の向かい側に位置する、沖縄本島北西端の小さな入り江に設置された哨戒魚雷艇基地の全景。前方には、地元民によって造られた護岸が見える。後方のテントは、整備員の営舎。(1945年8月23日撮影)

General view of PT base located in small cove on northwest tip of Okinawa across from Ie Shima. The seawall in foreground was built by Okinawans and tents in background are living quarters of maintenance crews.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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伊江島の向かい側に位置する、沖縄本島北西端の小さな入り江に設置された哨戒魚雷艇基地の全景。前方には、地元民によって造られた護岸が見える。後方のテントは、整備員の営舎。(1945年8月23日撮影)

General view of PT base located in small cove on northwest tip of Okinawa across from Ie Shima. The seawall in foreground was built by Okinawans and tents in background are living quarters of maintenance crews.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第76野戦局の看護地区(1945年8月23日撮影)

The nurses area at the 76th field station.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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グラマンF7Fタイガーキャット戦闘爆撃機を点検する整備チーム。太平洋地区夜間用戦闘機の中で最速にして最も威力があり、海兵隊夜間戦闘部隊が行う沖縄上空の安全パトロールにも使われる。(1945年8月23日撮影)

On a Marine airstrip at Okinawa maintenance crews check up on the F7F, Grumman's new Tigercat fighterbomber. Fastest, most powerful, of Pacific nightfighters, the Tigercats are being flown on security patrol over the Ryukyus by Marine night fighter pilots.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄にある連合軍司令部地区(1945年8月23日撮影)

The Allied Supreme Command Headquarters area on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

投降交渉 - 歩兵第32連隊第1大隊

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

米軍将校は伊東大隊長を米第10軍司令部のある嘉手納飛行場へと連れて行き、天皇玉音放送を聞かせた。その後、捕虜となっていた八原高級参謀と面会させ、そこでソ連が参戦し日本が無条件降伏したことをなどが伝えられ、「部下に無益な死傷者を出さないよう決心しなさい」と勧告された。

国吉への帰途、米軍将校は伊東大隊長摩文仁岳へ案内し、牛島と長両将軍の自決場所を示し、両将軍の名前が書かれた二つの白木の墓標を確認させた。伊東大隊長は、それらを北郷連隊長に報告、29日をもって武装解除と投降が決まった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 253-277頁より抜粋、要約》

 八原高級参謀の

八原参謀の回想:

『…8月23日、歩兵第32連隊大隊長伊東大尉が数名のアメリカ将校に伴われ、私の面前に現れた彼は私の生存に驚いたであろうが、私もまた驚いた。喜屋武主陣地帯の枢要拠点を守備していた連隊が、連隊長以下大隊長まで生存しているというのだから驚くのも当然である。当時の戦場の実相を知る者は皆不審に思うだろう。しかしこれも不思議がる要はない。同連隊のもう一つの大隊である志村大隊が軍の最大拠点であった前田高地の洞窟に長期生存し得たと同じく、連隊主力も潜伏するに好適な洞窟と食糧に恵まれていたからである。部隊に大小の差こそあれ、こうした例は珍しくなかった。

伊東大尉に同行したアメリカ将校は、私に向かって、「貴官はうまく煙幕を張って逃げましたね」と言った。私は「スクリーニング」の英語を「スクリーミング」(ブログ註・泣き叫びながら) と聞き違えて怒ったが、すぐ誤りとわかり、大笑いになった。

その後、第10軍参謀長メロー将軍、軍参謀イリー大佐らの来訪を受け、沖縄作戦について彼我の立場から論談した。メロー将軍は戦争勃発前駐日大使館付武官だったそうである。』(481-482頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 481-482頁より》

 

ハワイ移送の捕虜を支えたハワイのウチナーンチュ

ハワイの収容所に送られた学徒兵: 二中通信隊

身長150㎝にも満たない15歳の学徒兵、諸見里安弘さんも他の日本兵と同様の扱いを受け、ハワイの収容所に送られた。屋嘉収容所からハワイのホノウリウリ、そしてサンドアイランドへと。

 退院して間もなく諸見里さんはアロハ島・サンドアイランドの収容所に移される。「食事が質、量とも落ち、寝るのも4人用テントに折りたたみ式ベッド。毛布1枚で寒いくらいだったが雨の日にベッドから落ちると、ずぶぬれで朝まで眠れなかった」。

 強制労働も始まった。飛行場や道路の草刈り。洗たくや炊事などもあった。労働に対する報酬は80セントの日給。食費を差し引き、キャンプ内の売店で使えるクーポン券が支給された。諸見里さんは途中、カネオヘの収容所で診療所勤務もはさんだが、サンドアイランドで多くを暮らした。

 収容所で思いがけなく母親の健在を知る。屋嘉収容所から送られる時、トラックから無意識に投げた名前入り帽子が母親の元に届いていた。そしてまた母親の手紙が米兵から米兵、ホノルルにいる沖縄2世の手を経て届けられた。「死んだのではないかとの思いがあったから、生きていることを知り、安心して捕虜生活ができた」。しかし、他の捕虜たちは肉親の安否を気遣っていた。明るく振る舞ってはいたが、やけになっていることは分かった。キャンプ内でのとばくもはやった。

 そんな時、米軍から娯楽を許可してもらい、みんながやったのはウチナー芝居だ。玄人が中にいて演技を指導、かつらなど必要な道具は自分らで作った。キャンプ内で演じられた芝居は、素人の演技だったが、捕虜たちにとっては大好評だった。舞台で繰り広げられる一つ一つに、観客は喜怒哀楽をあらわに出した。遠い異郷での捕虜生活―心中に複雑な思いを秘めて舞台に見入っていた。そしてまた金網の外からも涙ながら眺めている人たちがいた。ハワイの1、2世たちだ。金網の内にいる人たちよりも、郷愁の思いは強かった。

 作業現場の捕虜たちと接触しはじめたのも、ハワイの1、2世たちだ。初めはMPの目を盗んで、こそこそと会っていたが、やがて大っぴらに会うようになった。親せきの2世からおにぎりや万年筆、時計をもらって来る人も多かった。

 診療所勤務をしている諸見里さんは、外の作業に出た捕虜から「諸見里という名の人を捜している1世がいる」と聞かされた。その日、診療所を休み、他の人と代わって外の作業に出た。

 作業現場でMPが目を離したスキに木陰に飛び込んで面会した。おにぎりをほおばっている間にも矢継ぎ早に質問を浴びせる。「生まれは」「親の名は」「ムートゥヤー(本家は)」。一つ一つに答えると遠い親せきになっていると言う。

 「戦争で沖縄がどうなったか、親せきのだれが亡くなったかを知りたかったが、こっちはすぐに送られて来ているし何も知らず答えることもできなかった」。それでも帰り際には腕にある時計を諸見里さんに上げた。戦時中は逆に収容所で生活した遠い親せきからの温かいプレゼントだった。

 諸見里さんが沖縄に引き揚げてきたのは20年11月だ。ハワイに送られた時、くるぶしにかかっていたズボンのすそは、15センチも上がっていた。「成長機に栄養のあるのを食べたおかげ」と言う。母親でさえ集団の中の諸見里さんを捜し出すことができなかった。

沖縄県立第二中学校 二中通信隊 「歩けないなら自決しなさい」 - 首里~摩文仁~ハワイの収容所へ

かつてハワイの日系人を強制収容した収容所は、今度は日本軍やドイツ軍の捕虜、また軍夫として捕虜となった朝鮮人を収容する施設となった。

サンド・アイランド収容所

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JCCH - HAWAII INTERNMENT CAMP

 

「県系人は皆、とにかく優しかった」

陣地構築部隊から捕虜となった渡久山盛吉さん (当時18歳)

 約1カ月間、旧金武村の屋嘉収容所で過ごした後、全身の毛をそられ一糸まとわぬ姿のまま「地獄船」でハワイへと連行された。生きて捕虜となるのは恥だとされた時代だった。だが「あの時の選択は間違っていなかった」と断言する。

 灼熱の太陽が照りつける7月のある日、船は20日間の航海を終えハワイ・オアフ島に到着した。渡久山さんの目に映ったのは、焦土と化した郷里とは比較にならないほど活気があり、物資に恵まれた敵国の領土だった。

 収容所に入ってからは、主に真珠湾(しんじゅわん)周辺や軍施設外の清掃に当たった。清掃業務は大変だったが、収容所には捕虜となった同郷の身を案じた県系人が訪れ、弁当やたばこを差し入れしてくれた。中には傷ついた心を音楽で癒やしてもらいたいと、三線を届ける者もいた。

 特に現地でホテルを経営する「安慶名シュウイチさん」という県系男性は、渡久山さんにとって思い出深い。ある日、いつものように捕虜仲間10人とトラックに乗せられ作業場へ向かっていると、安慶名さんが突如道路に現れ、トラックを止めた。安慶名さんは運転席の米兵に金銭を手渡し、夕方まで捕虜を任せてほしいと交渉。そして、渡久山さんたちに豚肉料理など古里の味をたらふく振る舞った

 「県系人は皆、とにかく優しかった」。彼らは「命の恩人」であり、敵国に連行され、不安を募らせていた渡久山さんたちの心の支えでもあった。一方で、県系人らも渡久山さんら捕虜に会うたびに沖縄戦の状況や、故郷に残してきた親族の安否について熱心に聞いてきた。「苦境にあってもお互いを思いやる、ウチナーンチュの優しさを見た」と振り返った。

ハワイの捕虜収容所に送られたウチナーンチュ - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

「必ず役に立つだろう」- 米軍将校が分析した沖縄人

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐

アメリカ軍の侵略と占領が沖縄人にどのような心理的影響を及ぼしたか考えてみよう。日本が沖縄を併合するまでは、中国人も西洋人も、沖縄を訪れた者は一致して、島民は寛容で親切だと報告している。ペリー提督は沖縄では親切にもてなされたが、日本本土では対照的に敵視された。日本の長年の鎖国政策に見られるように外国人を敵視する伝統は沖縄にはない。日本人はその考え方を沖縄人に植えつけようとしてきた。だが、今明らかになったのは、この日本人のもくろみは見事に失敗したということである。

アメリカ軍の陸海空の攻撃は沖縄に破壊と混乱をもたらしたが、保護下にある沖縄人がとりたててアメリカ兵に敵意を見せるようすはない。実際、まだ島のどこかに潜んで沖縄人を脅し、煽動する日本兵や将校がいなければ、果たして沖縄人がアメリカ兵に少しでも厄介をかけるとは思えない。』(294頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」294頁より》

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もしもし、調子はどう?第1海兵師団偵察中隊司令部で、友人のヨシオが写真をみて笑っている一方で、15歳の沖縄少年イチロウは電話で話している。この2人の少年は戦闘終結後の残兵掃討作戦で通訳として働いている(1945年8月撮影)

HELLO--HOW IS YOU? While friend Yoshio laughs at a picture, Ichirou a 15-year-old Okinawan, carries on phone conversation at 1st Mar Div Reconnaissance Co. headquarters. The two youths have served as interpreters in post-campaign mopping up operations.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…恐るべき戦争は終わり、住民はこれから何カ月続くかわからないがキャンプ生活を余儀なくされた。行政機関、裁判所、食料配分制度、警察制度などが収容所で順調に活動し始めた。新住居建築が始まり、現在の過飽和状態の生活環境もいくらかましになった。住民は再び手工業を始め、収容所の制限の範囲内でできるだけのことをしている。意外なことだが、住民は現在の厳しい環境の中でも楽しそうに暮らしているアメリカ軍の長期軍事利用も大して気にしていないようだし、むしろ喜んで協力してくれるらしい。正当に扱うならば、グアム人やフィリピン人と同じように忠実な島民となれるかもしれない。そうならないという証拠はどこにもない。どこからどう見ても沖縄人は、アメリカ軍がきちんとした復興計画を立て、住民の健康、物質的、精神的福祉に力を入れてくれる限り、アメリカ軍に反抗することはなさそうだ。住民復興計画をきちんと立て、実行し、アメリカ軍の現在、将来の沖縄の基地利用計画と調和させるならば、太平洋戦争終了後、この地域で敵対行為が勃発したとき、必ず役に立つだろう。そのためにアメリカ軍は多額の資金を投入することになるだろうが、極東の平和維持ができるならば、その程度の負担はなんでもない。戦争でどれだけの命と財産が失われたか考えれば、平和の維持のためにどれだけ金をつぎ込もうと、惜しんではならない。』(300-301頁)

《「沖縄戦トップシークレット」第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」300-301頁より》

 

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