〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月23日 『沖縄人と米軍基地』

ハワイのウチナーンチュ魂魄の塔と那覇新都心

米軍の動向

「必ず役に立つだろう」- 米軍将校が分析した沖縄人

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐は、1946年の報告書で沖縄人を米軍基地に対していかに忠実たらしめるべきかを述べている。

アメリカ軍の侵略と占領が沖縄人にどのような心理的影響を及ぼしたか考えてみよう。日本が沖縄を併合するまでは、中国人も西洋人も、沖縄を訪れた者は一致して、島民は寛容で親切だと報告している。ペリー提督は沖縄では親切にもてなされたが、日本本土では対照的に敵視された。日本の長年の鎖国政策に見られるように外国人を敵視する伝統は沖縄にはない。日本人はその考え方を沖縄人に植えつけようとしてきた。だが、今明らかになったのは、この日本人のもくろみは見事に失敗したということである。

アメリカ軍の陸海空の攻撃は沖縄に破壊と混乱をもたらしたが、保護下にある沖縄人がとりたててアメリカ兵に敵意を見せるようすはない。実際、まだ島のどこかに潜んで沖縄人を脅し、煽動する日本兵や将校がいなければ、果たして沖縄人がアメリカ兵に少しでも厄介をかけるとは思えない。

《「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」294頁》

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HELLO--HOW IS YOU? While friend Yoshio laughs at a picture, Ichirou a 15-year-old Okinawan, carries on phone conversation at 1st Mar Div Reconnaissance Co. headquarters. The two youths have served as interpreters in post-campaign mopping up operations.

もしもし、調子はどう?第1海兵師団偵察中隊司令部で、友人のヨシオが写真をみて笑っている一方で、15歳の沖縄少年イチロウは電話で話している。この2人の少年は戦闘終結後の残兵掃討作戦通訳として働いている。(1945年8月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

… 恐るべき戦争は終わり、住民はこれから何カ月続くかわからないがキャンプ生活を余儀なくされた。行政機関、裁判所、食料配分制度、警察制度などが収容所で順調に活動し始めた。新住居建築が始まり、現在の過飽和状態の生活環境もいくらかましになった。住民は再び手工業を始め、収容所の制限の範囲内でできるだけのことをしている。意外なことだが、住民は現在の厳しい環境の中でも楽しそうに暮らしているアメリカ軍の長期軍事利用も大して気にしていないようだし、むしろ喜んで協力してくれるらしい。正当に扱うならば、グアム人やフィリピン人と同じように忠実な島民となれるかもしれない。そうならないという証拠はどこにもない。どこからどう見ても沖縄人は、アメリカ軍がきちんとした復興計画を立て、住民の健康、物質的、精神的福祉に力を入れてくれる限り、アメリカ軍に反抗することはなさそうだ。住民復興計画をきちんと立て、実行し、アメリカ軍の現在、将来の沖縄の基地利用計画と調和させるならば、太平洋戦争終了後、この地域で敵対行為が勃発したとき、必ず役に立つだろう。そのためにアメリカ軍は多額の資金を投入することになるだろうが、極東の平和維持ができるならば、その程度の負担はなんでもない。戦争でどれだけの命と財産が失われたか考えれば、平和の維持のためにどれだけ金をつぎ込もうと、惜しんではならない

《「沖縄戦トップシークレット」第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」300-301頁》

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

伊江島住民不在のなか、伊江島飛行場と哨戒魚雷艇基地の建設が行われる。

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General view of PT base located in small cove on northwest tip of Okinawa across from Ie Shima. The seawall in foreground was built by Okinawans and tents in background are living quarters of maintenance crews.

伊江島の向かい側に位置する、沖縄本島北西端の小さな入り江に設置された哨戒魚雷艇基地の全景。前方には、地元民によって造られた護岸が見える。後方のテントは、整備員の営舎。(1945年8月23日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島の住民は慶良間諸島辺野古の収容所に移送されていた。

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General view of PT base located in small cove on northwest tip of Okinawa across from Ie Shima. The seawall in foreground was built by Okinawans and tents in background are living quarters of maintenance crews.

伊江島の向かい側に位置する、沖縄本島北西端の小さな入り江に設置された哨戒魚雷艇基地の全景。前方には、地元民によって造られた護岸が見える。後方のテントは、整備員の営舎。(1945年8月23日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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On a Marine airstrip at Okinawa maintenance crews check up on the F7F, Grumman's new Tigercat fighterbomber. Fastest, most powerful, of Pacific nightfighters, the Tigercats are being flown on security patrol over the Ryukyus by Marine night fighter pilots.

グラマンF7Fタイガーキャット戦闘爆撃機を点検する整備チーム。太平洋地区夜間用戦闘機の中で最速にして最も威力があり、海兵隊夜間戦闘部隊が行う沖縄上空の安全パトロールにも使われる。(1945年8月23日撮影 撮影場所は不明)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

阿嘉島 - 野田隊の投降

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阿嘉島: 海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐/阿嘉島慶留間島)

阿嘉島住民2人朝鮮人軍夫20人の虐殺・虐待で悪名高い野田隊だが、米軍は慶良間諸島の島々に潜む日本兵に投降の呼びかけを続けていた。

8月23日の午前10時ころにアメリカ軍の急襲を受けました。このとき戦隊本部には守備隊はおらず、本部の兵隊が20名くらいいただけです。近くに整備中隊がいたんですが、中隊長が7月にアメリカに投降しており、また兵隊たちも栄養失調でフラフラでしたから、戦闘能力は全くありません。おそらく、米軍が来るとは予想せず、警戒もしてなかったと思います。

彼らは本部壕の前にきて、野田隊長を出してくださいと言いました。当番兵は狼狽して「はい、いますぐ副官に連絡します」と言って壕に入り、副官の竹田少尉が出てきました。将校は隊長と面会したいことを竹田さんに伝え、それを野田さんに取り次いだのですが、壕から出てきたのは竹田さんで、回答は、「隊長は会うのを拒否している」でした。米軍将校は「では仕方ない、我々の要求を受け入れるかどうか回答しなさい」と言いました。米軍の要求は「午後3時に全部隊員が前の浜(阿嘉集落の前の浜)に集合せよ」というものでした。米軍は、竹田副官から隊長が3時頃までに降りるという確約をとって、11頃に引き揚げて行きました。

今でも不思議に思うのですが、野田戦隊長は最後まで壕の外に出てきませんでした。停戦交渉は野田さんが出て行って堂々とやったという儀同さんや深沢さんの回想があるんですが、事実ではありません。二人とも本部から遠く離れた大岳の陣地にいたから、現場を見ることが出来なかったはずです。

米軍の道案内に、7月にアメリカ軍に降伏した整備中隊のK中尉が、私もお世話になった人なんですが、来ていました。米軍の服装をした整備中隊長がいたのですからびっくりしました。彼はわれわれを見て少し笑いましたが、私は少し安心感を覚えました、アメリカ軍の手先になって我々を救いに来てくれたんだなと感じまして。

《垣花武一「阿嘉島でおきたこと」伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 337-338頁》

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米海軍: Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands.Japs squatting under Marine guard on the flight deck of a Navy carrier. Squatting down on the deck.
慶良間列島で投降した日本兵。しゃがんでいる兵士達は、海軍空母の飛行甲板で海兵隊員の監視下におかれている。

撮影地: 慶良間列島 (日時場所とも記入なし)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米海軍: Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands.Japs squatting under Marine guard on the flight deck of a Navy carrier. Squatting down on the deck.
慶良間列島で投降した日本兵。しゃがんでいる兵士達は、海軍空母の飛行甲板で海兵隊員の監視下におかれている。

撮影地: 慶良間列島 (日時場所とも記入なし)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

投降交渉 - 歩兵第32連隊第1大隊

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

米軍将校は伊東大隊長を米第10軍司令部のある嘉手納飛行場へと連れて行き、天皇玉音放送を聞かせた。その後、捕虜となっていた八原高級参謀と面会させ、そこでソ連が参戦し日本が無条件降伏したことをなどが伝えられ、「部下に無益な死傷者を出さないよう決心しなさい」と勧告された。

国吉への帰途、米軍将校は伊東大隊長摩文仁岳へ案内し、牛島と長両将軍の自決場所を示し、両将軍の名前が書かれた二つの白木の墓標を確認させた。伊東大隊長は、それらを北郷連隊長に報告29日をもって武装解除と投降が決まった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 253-277頁より抜粋、要約》

捕虜となっていた八原博通高級参謀の回想:

8月23日、歩兵第32連隊大隊長伊東大尉が数名のアメリカ将校に伴われ、私の面前に現れた。彼は私の生存に驚いたであろうが、私もまた驚いた。喜屋武主陣地帯の枢要拠点を守備していた連隊が、連隊長以下大隊長まで生存しているというのだから驚くのも当然である。当時の戦場の実相を知る者は皆不審に思うだろう。しかしこれも不思議がる要はない。同連隊のもう一つの大隊である志村大隊が軍の最大拠点であった前田高地の洞窟に長期生存し得たと同じく、連隊主力も潜伏するに好適な洞窟と食糧に恵まれていたからである。部隊に大小の差こそあれ、こうした例は珍しくなかった。

伊東大尉に同行したアメリカ将校は、私に向かって、「貴官はうまく煙幕を張って逃げましたね」と言った。私は「スクリーニング」の英語を「スクリーミング」(ブログ註・泣き叫びながら) と聞き違えて怒ったが、すぐ誤りとわかり、大笑いになった。

その後、第10軍参謀長メロー将軍、軍参謀イリー大佐らの来訪を受け、沖縄作戦について彼我の立場から論談した。メロー将軍は戦争勃発前駐日大使館付武官だったそうである。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 481-482頁より》

 

県人捕虜を支えたハワイのウチナーンチュ

6月から7月にかけて米軍は沖縄出身の兵士や学徒兵をハワイやアメリカ本土の収容所に移送した。

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Internment Camps in Hawai‘i | JCCH - HAWAII INTERNMENT CAMP

ハワイの収容所に送られた学徒兵: 二中通信隊

身長150㎝にも満たない15歳の学徒兵、諸見里安弘さんもハワイの収容所に送られた。屋嘉収容所からハワイのホノウリウリ、そしてサンドアイランドへと。

退院して間もなく諸見里さんはアロハ島・サンドアイランドの収容所に移される。「食事が質、量とも落ち、寝るのも4人用テントに折りたたみ式ベッド。毛布1枚で寒いくらいだったが雨の日にベッドから落ちると、ずぶぬれで朝まで眠れなかった」。

強制労働も始まった。飛行場や道路の草刈り。洗たくや炊事などもあった。労働に対する報酬は80セントの日給。食費を差し引き、キャンプ内の売店で使えるクーポン券が支給された。諸見里さんは途中、カネオヘの収容所で診療所勤務もはさんだが、サンドアイランドで多くを暮らした。

収容所で思いがけなく母親の健在を知る。屋嘉収容所から送られる時、トラックから無意識に投げた名前入り帽子が母親の元に届いていた。そしてまた母親の手紙が米兵から米兵、ホノルルにいる沖縄2世の手を経て届けられた。「死んだのではないかとの思いがあったから、生きていることを知り、安心して捕虜生活ができた」。しかし、他の捕虜たちは肉親の安否を気遣っていた。明るく振る舞ってはいたが、やけになっていることは分かった。キャンプ内でのとばくもはやった。

そんな時、米軍から娯楽を許可してもらい、みんながやったのはウチナー芝居だ。玄人が中にいて演技を指導、かつらなど必要な道具は自分らで作った。キャンプ内で演じられた芝居は、素人の演技だったが、捕虜たちにとっては大好評だった。舞台で繰り広げられる一つ一つに、観客は喜怒哀楽をあらわに出した。遠い異郷での捕虜生活―心中に複雑な思いを秘めて舞台に見入っていた。そしてまた金網の外からも涙ながら眺めている人たちがいた。ハワイの1、2世たちだ。金網の内にいる人たちよりも、郷愁の思いは強かった。

作業現場の捕虜たちと接触しはじめたのも、ハワイの1、2世たちだ。初めはMPの目を盗んで、こそこそと会っていたが、やがて大っぴらに会うようになった。親せきの2世からおにぎりや万年筆、時計をもらって来る人も多かった。

診療所勤務をしている諸見里さんは、外の作業に出た捕虜から「諸見里という名の人を捜している1世がいる」と聞かされた。その日、診療所を休み、他の人と代わって外の作業に出た。

作業現場でMPが目を離したスキに木陰に飛び込んで面会した。おにぎりをほおばっている間にも矢継ぎ早に質問を浴びせる。「生まれは」「親の名は」「ムートゥヤー(本家は)」。一つ一つに答えると遠い親せきになっていると言う。

「戦争で沖縄がどうなったか、親せきのだれが亡くなったかを知りたかったが、こっちはすぐに送られて来ているし何も知らず答えることもできなかった」。それでも帰り際には腕にある時計を諸見里さんに上げた。戦時中は逆に収容所で生活した遠い親せきからの温かいプレゼントだった。

諸見里さんが沖縄に引き揚げてきたのは20年11月だ。ハワイに送られた時、くるぶしにかかっていたズボンのすそは、15センチも上がっていた。「成長機に栄養のあるのを食べたおかげ」と言う。母親でさえ集団の中の諸見里さんを捜し出すことができなかった。

沖縄県立第二中学校 二中通信隊 「歩けないなら自決しなさい」 - 首里~摩文仁~ハワイの収容所へ

かつてハワイの日系人を強制収容した収容所は、今度は沖縄人捕虜やドイツ軍捕虜、また軍夫として捕虜となった朝鮮人を収容する施設となった。

サンド・アイランド収容所

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JCCH - HAWAII INTERNMENT CAMP

「県系人は皆、とにかく優しかった」

陣地構築部隊から捕虜となった渡久山盛吉さん (当時18歳)

 約1カ月間、旧金武村の屋嘉収容所で過ごした後、全身の毛をそられ一糸まとわぬ姿のまま「地獄船」でハワイへと連行された。生きて捕虜となるのは恥だとされた時代だった。だが「あの時の選択は間違っていなかった」と断言する。

 灼熱の太陽が照りつける7月のある日、船は20日間の航海を終えハワイ・オアフ島に到着した。渡久山さんの目に映ったのは、焦土と化した郷里とは比較にならないほど活気があり、物資に恵まれた敵国の領土だった。

 収容所に入ってからは、主に真珠湾(しんじゅわん)周辺や軍施設外の清掃に当たった。清掃業務は大変だったが、収容所には捕虜となった同郷の身を案じた県系人が訪れ、弁当やたばこを差し入れしてくれた。中には傷ついた心を音楽で癒やしてもらいたいと、三線を届ける者もいた。

 特に現地でホテルを経営する「安慶名シュウイチさん」という県系男性は、渡久山さんにとって思い出深い。ある日、いつものように捕虜仲間10人とトラックに乗せられ作業場へ向かっていると、安慶名さんが突如道路に現れ、トラックを止めた。安慶名さんは運転席の米兵に金銭を手渡し、夕方まで捕虜を任せてほしいと交渉。そして、渡久山さんたちに豚肉料理など古里の味をたらふく振る舞った

 「県系人は皆、とにかく優しかった」。彼らは「命の恩人」であり、敵国に連行され、不安を募らせていた渡久山さんたちの心の支えでもあった。一方で、県系人らも渡久山さんら捕虜に会うたびに沖縄戦の状況や、故郷に残してきた親族の安否について熱心に聞いてきた。「苦境にあってもお互いを思いやる、ウチナーンチュの優しさを見た」と振り返った。

ハワイの捕虜収容所に送られたウチナーンチュ - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

シュガーローフから那覇新都心

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【FAC6061 牧港住宅地区】

現在の那覇新都心おもろまち駅周辺 (旧・真和志村の天久・銘苅の周辺) は、5月12日から シュガーローフの戦い の激戦地となり多くの住民が戦死した。その後、旧那覇市はそのまま占領地となり、生き残った住民は収容所を転々と移動させられた。

1946年には糸満市米須に収容され、そこで遺骨収集を行った。

戦後真和志村⺠は食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められた。しかしこの一帯は多くの 軍人、住⺠が米軍に追いつめられ死んでいった場所だった。遺骨がそのままの状態で放置されていた。住⺠は米軍に遺骨収集作業を要請したが、それが反米活動や皇軍主義に繋がることをおそれた米軍は 許可しなかった。しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てくるため、作業が進まず、1946年2月23日にようやく許可された。

戦跡案内~オンライン体験版~|那覇市公式ホームページ

銘苅出身の女性 (35歳) の証言

久手堅からは、主に真和志村出身者だけが集められて、米須の近くの伊原に収容されてね。そこにいるとき、うちなんかの仕事は、遺骨拾いだったさ。手で拾い集めて、カマスに入れてね。担いで近くの、今の「魂魄の塔」ね、あそこに穴が掘ってあったから、あの中に遺骨を入れたさ。山積みになってね。遺骨は一面にころがっていて、海岸から、今の「姫百合の塔」の裏、真壁あたりまで、拾い集めて歩いたよ。

沖縄証言 銘苅 『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

「魂魄の塔」について

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慰霊の日に ~ 「魂魄の塔」 - Osprey Fuan Club

その後も移転は続き、1947年になってやっと帰村が許可された。

銘苅出身の58歳男性の証言

久手堅 (知念地区収容所) には8か月ほどいたと思うね。捕虜になったのが昭和二十年の六月中旬だったから.........。翌年 (注: 1946年) の1月末には、真和志村民だけ移動させられてね。移動させられたところは摩文仁村だった。そこには真和志村民が集結していて、米須を中心に、大渡・米須・伊原とそのへん一帯はひろびろとした焼野が原で、私たちが行ったときは、もうテント小屋ができていたよ。五、六千人以上も集められていたようだよ。そしてテントの班長やら、いろいろの係長が決められていて、武器やヤッキョウや空罐やらで、農具や食器類なども造っていたよ。物物交換したり、集団で仕事したりしてね。私たちの仕事は、一番の犠牲地だったそこら一帯の野や山や畑や道にいくらでも転がっているクチダマ(遺骨)を拾い集めることだったよ。カシガー袋を背負ってね、毎日毎日、あれだけ沢山の骨魂を拾い集めてね、今の「魂魄の塔」に納めたんだよ。米須に四か月ほどいてから、真和志村に移動するという話だったけど、すぐには真和志村には入れなかったよ。五月に移動したところは、豊見城村の嘉数だったよ。嘉数バンタは何もない所だったから、毎日のように遠くまで食糧探しに出かけていたよ。豊見城村の嘉数に二か月いてから、すぐ近くの真玉橋に移ってね。そこのテント小屋には、三か月ほどいたね。… (中略) … 真和志村へ移動がばじまってから、私たちはずっと遅れて移動したけど、銘苅にすぐには入れずにね、真嘉比に移住許可がおりてね、そこにも三か月ほどいてから、銘苅に入ったわけだよ。捕虜になってから1年半近く経ってね。

沖縄証言 銘苅 『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

1947年にやっと帰村を許されたが、1953年4月3日、米民政府は新規に土地を接収するため「土地収用令」を公布し、その1週間後に「銃剣とブルドーザー」で銘苅、安謝、天久の住民は再び土地を奪われた。米軍はそこに「牧港住宅地区」を建設した。住民は周辺の人口密集地に押しやられる一方、住宅地からやってくる米兵の頻繁な性暴力にも苦しんだ。

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住民を立ち退かせサバービアを建設した「牧港住宅地区」

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宮城原の人口密集地。米軍の強制土地収用で天久・銘苅の人々は那覇市宮寄などに移住させられた。

【FAC6061 牧港住宅地区】シュガーローフから那覇市新都心地区まで「自分の土地が生きている」 - わかりやすい沖縄基地問題

 

 

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