〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月13日 『生まれた疑心暗鬼』

米軍、北端に到達 / 軍政府を島袋に / 日本軍の夜襲失敗スパイ陰謀論 / シモバル民間人収容所

 

米軍の動向

北進する米軍 - 辺戸岬に到達

海兵隊は上陸から13日間で北端の辺戸岬に到達した。

USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

第6海兵師団による北進の進捗状況

※ 註・地図にある「L」は上陸日を意味し、その後に続く数字を足すと上陸から何日目であるかがわかる。例えば、辺戸岬到達を示すものは 「L+12」であることから、上陸13日目となり、1945年4月13日となる。

4月13日、西海岸をすばやく徒歩や水陸両用トラックで迂回して、海兵第22連隊の第2大隊は、途中、抵抗らしい抵抗もなく沖縄北端の辺戸岬に着いた。海兵第22連隊の他の海兵部隊は沖縄東部海岸をどうにか通過して進撃した。海岸の野営地から出発した斥候中隊は山岳地帯の奥深くまで侵入し、その後は数日間にわたる偵察を行なったあと、海岸にもどり、水陸両用車に拾われて無事帰隊した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 133頁より》

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沖縄島最北端へと向かう海兵第22連隊

MORTARMEN of the 22d Marines proceed in route column toward the northern tip of Okinawa.

Chapter 06 | Our World War II Veterans

 

本部半島

八重岳、宇土部隊への攻撃開始。

http://ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Okinawa/

〝残存敵軍を掃討せよ〟との命令にもとに海兵第6師団は、4月13日八重岳の日本軍陣地攻撃準備を開始した。作戦では海兵第4連隊の第1、第2大隊と海兵第29連隊の第3大隊が、アラン・シャプレイ大佐の指揮のもと、西側から八重岳を攻めることになった。一方、東側からは海兵第29連隊の第1、第2大隊が伊豆味から進撃して、伊豆味ー満名道路線北方の高地を占領することになった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 132-133頁より》

本部半島での掃討戦。火炎放射器で焼かれる家。

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Marines smoke out a sniper. 狙撃兵をいぶし出す海兵隊員。(1945年4月13日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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The flushing of a sniper by a patrol with phosphorous grenades, BAR rifle and fire were used. Jap takes his own life with grenade. 米偵察兵が日本軍狙撃兵を掃討するため、白燐弾ブローニング自動小銃火炎放射器が使用された。日本兵は手榴弾で自らの命を絶った。(1945年4月13日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米軍の北進を援護する事前空爆

FIRE BOMBING aided the advance in northern Okinawa. A Marine fighter plane (F4U) has flown low and dropped its fire bomb on an enemy-held slope in the rugged north.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]

  

周辺離島の制圧 - 水納島伊江島

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本部半島、伊江島水納島の位置 

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

水納島 (みんなじま) への上陸

4月12日から13日の夜にかけて、太平洋艦隊所属の海兵隊の水陸作戦偵察大隊は水納島に上陸し、なんらの抵抗もうけることなくそれを確保した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 147頁より》

伊江島上陸3日前

伊江島上陸準備にあたって第5艦隊の艦船は、3月25日から4月16日にかけて断続的に島を砲撃した。本格的な艦砲射撃は、4月13日、戦艦テキサスをはじめ巡洋艦2隻、駆逐艦4隻からなる戦隊が、伊江島の東部陣地を主に、島中の目標物という目標物を砲撃したときからはじまる。その夜、揚陸艦LSM6隻が、伊江島にロケット弾や40ミリ砲弾、また照明弾を撃ち込んで島を偵察した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 146頁》

伊江島では、井川正少佐の指揮する総勢約2700名の軍隊と、居残った約3000名の住民ちが、米77師団の砲火にさらされていた。(224頁) … 4月13日ころから、伊江島に対する砲爆撃がひどくなり、城山は草木をすっかりちばされ、裸の岩山だけになった。底の直径が500メートルばかりの円錐形の山に、ロケット830発、爆弾35トンを撃ちこんだという(225頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 224、225頁》

 

軍政府の移転 - 読谷から島袋へ

米軍は読谷村の米国軍政府 (4月5日樹立) を北中城村島袋 (現在のライカム周辺) に移設した。島袋には巨大な民間人収容所がすでに設置されていた。

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New mail sorting racks are under construction to replace those destroyed by a Japanese suicide plane. The carpenters are Sgt. Cornelius E. Smith of Springerton, Ill., kneeling, and Cpl. Bernard Ford of 144 s. Elmwood, Kansas City, Mo., both of the 7th Division.

日本軍特攻隊によって破壊された郵便仕分け台を新たに作る第7師団のスミス軍曹(左)とフォード伍長。(1945年4月13日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/368363.jpg

米陸軍: The military government released civilians soon after it had established headquarters in the town of Shimabuku. The civilians are returning to pursue their various activities. 軍政府は島袋付近に司令部を設置した直後、住民を解放し、住民はいろいろな活動を再開した(1945年4月13日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※ 住民は「解放」されたのではなく、収容所地区に収容され軍政府の監視下に置かれる。また島袋の東側に設置されたシモバル収容所のように、基地建設の都合で転々と強制的に移転を強いられ、一年間あまりの強制収容でおびただしい命が失われた。

 

第32軍の動向

夜襲失敗と軍司令部の不協和音

12日夜、長参謀長が主張する中部戦線総攻撃を実施、東部中部西部全線において失敗し、多くの犠牲者を出した。

4月13日、軍司令部は、攻撃を中止して持久戦に移ることを決意し、各部隊に戦線の整理と防備の強化を命じた。各部隊は、軍司令部の命にしたがい、第一線大隊の戦力が3分の1ないし2分の1に低下した62師団は、22連隊の増援を得て、戦線を整理、強化し、一方、24師団、混成44旅団も陣地の強化、敵空挺部隊にたいする戦備増強などを行なった。(211頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 211頁より》

北飛行場と中飛行場の奪還をめざして夜襲を仕掛けたが、失敗。

八原参謀は、長参謀長の命令で夜間斬り込み作戦を策定したが、この作戦は、「必ず失敗する」と判断していた。古来、夜襲が成功したのは、一高地とか村落など限られた目標にたいしてで、十余キロにおよぶ全戦線で特定の目標もなくされる夜襲は、「全くむちゃ」だと考えたのである。案の定、夜襲は惨たる結果に終わったがこの点について攻勢案に賛成した神参謀は出撃の軍命が下された後、作戦参謀が攻撃師団の主任参謀に「攻勢は失敗するから若干の斬込隊を出す程度でよい」と私的指導をなしていたことが敗因につながったという趣旨の記録をしている。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 93頁より》

失敗してみると、… 攻撃開始前に作戦部隊が軍高級参謀からアドバイスを受けて兵力を絞ったことが、問題となる。このイキサツは、13日、長参謀長の知るところとなり、参謀長の激怒を招いたといわれる。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

八原高級参謀の回想:

軍参謀長の一途に思いつめた12日の夜襲も、ついにその目的を達するに能わず、惨たる戦績に終わった。4月8日の全力攻撃を中止した経緯もあり、中央に対する面目もあっての夜襲と思われ、参謀長の心中察するにあまりある。

薬丸参謀が「軍の作戦指導は、先見洞察が足りず、急に思い出したように、後手後手にことを実行するから失敗する。いやしくも大軍の作戦は、遠く状況の推移を洞察達観し、事前に打つべき手を打ち、周到な準備の下に実施すべきである」と皆に高言した。

私は呵々大笑し、「貴官は、陸大時代、教官から教えられた文句をよく記憶している。だが、先見洞察とは、いかなることか知らんようである。軍は、数か月前から貴官のいう先見洞察をもって、戦略持久の方針を定め、ちゃんと作戦を進めてきている。しかるに、戦闘始まるや、上下軽挙妄動し、平素の作戦方針も準備も打ち忘れ、思いつきばったりのことをやるから将兵を徒死せしめ、弾薬を浪費する結果となる。やれ全力攻勢だとか、夜襲だとか、騒ぐ者が大軍の統帥を弁えざる者である。軍の統帥どころか、こんな夜襲が成功するなぞと主張した者は、初歩の戦闘指揮さえも知らぬ者である」と訓戒した。

全軍でわずか23個大隊の正規歩兵部隊中、1個大隊はほとんど全滅し、2個大隊は相当の損害を出し、歩兵第22連隊の2個大隊は緒戦において混乱した。軍砲兵隊もまた貴重な弾薬を浪費した。加うるに、軍首脳部は奔命に疲れた。この夜襲は戦略持久の軍の根本方針を錯乱し、軍の爾後の作戦指導上幾多の禍根を遺したのである。

 《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 217-218頁》

 

疑心暗鬼とスパイ捜し

度重なる沖縄守備軍の作戦上の失敗は沖縄人「スパイ」のせいだとする疑心暗鬼が蔓延した。

戦闘作戦を策定、指揮する肝心要の守備軍首脳のあいだに基本的戦術をめぐって終始、意見の対立がみられていただけでなく、戦況判断の面で上級司令部と現地軍とが極端な食いちがいをみせたことは、たんに〝困りもの〟という以上に「不幸」そのものであった。何よりもそれがもたらした余波は、深刻であった。守備軍将兵のあいだに疑心暗鬼を生みだし、目前の不利な戦況を自らに納得せしめるため「敵に内通する者がいるにちがいない」と、スケープ・ゴート探しが始まったからである。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 94頁より》

4月3日の天皇発言と大本営からの圧力は第32軍を絶望的な混乱に陥れた。

4月3日以来、第32軍は攻勢を決意し(3日夜)、攻勢延期(5日)、攻勢再決意(5日夜)、総攻撃を一部の夜襲に変更(7日)、一部の夜襲実施(8日)、次期攻勢の研究、決意(8日〜10日)、有力部隊をもってする殺傷攻撃の実施(12日)と、情勢に応じて攻撃要領も変化した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 210頁より》

日本軍の機密情報は、無線傍受 *1太平洋の戦場での日本兵の遺体から回収された文書に加え、本部半島で撤退した宇土部隊の壕から機密資料が大量に米軍にわたっていた。しかし日本軍は不利な戦況の理由付けとして民間人を疑い、沖縄人が「スパイ」としてスケープゴートされていった。軍はスパイという言葉を振りかざし、民間人への搾取・収奪にとどまらず、暴力・虐殺を肯定した。

下の写真では、撮影日時は不明*2 だが、米軍は本部半島で宇土部隊が放置した大量の機密書類を手に入れる。写真にある文書には「平山隊」の文字も見える。米軍は4月に日本軍から鹵獲した機密文書を翻訳し、5月12日には日本全土と支配地域における詳細な飛行場の地図などを体系的にまとめている*3

海兵隊: Officers of D-3 collection team unearth important documents in a cave evacuated by the Japs. It once was their Command Post on Motobu Peninsula. 日本軍が撤退した壕で重要文書を発見したD-3収集班の将校。ここはかつて本部半島の日本軍司令部であった。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

その時、住民は・・・

泡瀬周辺の民間人収容所

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泡瀬は島袋の西側、後に前原地区になる。

島袋の西側、泡瀬の一帯をシモバル (shimobaru) と呼んでおり、民間人収容所を設置して次々と住民を送りこんだ。読谷・北谷一帯を基地化するため、砂辺や北谷の臨時収容所からも次々と東側に移動させた。住民4月13日時点での住民数は3247人だが、9日後の4月22日には6,200人となった。しかし東側でも基地化が進み、5月15日から泡瀬飛行場建設のため移動となる。基地化が進むたびに住民は転々と移動させられた。

こうして私は上陸二日目に捕虜になったのですがそれからすぐに歩かされて、部落の西側の「クシアメク(後天久)」と呼んでいるところへ集められました。そこにはもう四、五十人も民間人が捕虜にとられておりました。そしてまもなくみんな歩かされて、着いたところは、砂辺の浜でした。そこは民間人の捕虜収容所になっていました。…(中略)… 翌日、また歩かされて園田につれていかれました。その間、アメリカ軍の飛行機が飛んでくるとみんな草むらに飛び込んで身を隠し、アメリカ兵も私達同様に隠れていました。こうして園田に着くと、今度は泡瀬まで歩かされました。収容所生活私たちは、泡瀬の海に放り込まれるのではないかとみんな不安な気持で歩いていきました。しかし泡瀬に着くとそこの部落は収容所となっており、もうかなりの人が入っていました。…(中略)… 五月の初め頃には、具志川の塩屋(マースャー)の収容所に移動させられました。そこでも食糧は乏しかったので、自分たちでイモや野菜を作ったりして自給するようにも働きましたが、とれるまでは時間がかかるので大変でした。…(中略)… それから諸見の収容所にしばらく収容された後に、元の部落にそれぞれ帰されました。しかし元の部落での生活は、女性がアメリカ兵から身を守るための戦さでした。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

 

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*1:米陸軍情報部が傍受した日本軍無線の内容は「マジック」とよばれ解析・統合され合理的に管理・配信されていた。See. 保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版、2013。

*2:1945年4月、宇土部隊の八重岳撤退 (4月16日・17日) 後か

*3:Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6_noBundleName では日本全土の飛行場地図がまとめられている。一例は下に。