〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月30日 『〝沖縄〟という米軍基地の建設』

米軍基地建設曾根一等兵の脱出御真影奉護隊の解散

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

沖縄の米軍基地は多く日本軍の土地接収と基地建設にその起源がある。米軍はまず4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、次々と日本軍の基地を礎にして更なる基地建設を進めた。1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場20の小飛行場を建設した。

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米軍が1945年に建設した飛行場
1 伊江島飛行場 ➔ [現在] 伊江島補助飛行場
2 本部飛行場 1971年返還
3 金武飛行場 ➔ [現在] キャンプ・ハンセン
4 ボーロー飛行場 ➔ [現在] 瀬名波通信施設
5 読谷飛行場 ➔ [現在] 読谷補助飛行場 2006年返還
6 嘉手納飛行場 ➔ [現在] 嘉手納飛行場
7 泡瀬飛行場 ➔ [現在] 泡瀬通信施設
8 普天間飛行場 ➔ [現在] 普天間飛行場
9 牧港飛行場 ➔ [現在] 牧港補給地区
10 与那原飛行場 1959年返還
11 那覇空港那覇海軍航空施設 ➔ [現在] 空自那覇基地 陸自那覇駐屯地

…沖縄の軍用地は、沖縄戦の過程で、米軍が日本本土侵攻作戦を遂行する目的で占拠したのが始まりである。そして敗戦後は、住民を民間人収容所に隔離している間に、沖縄本島の10%ほどに相当する、約124平方キロメートル(1951年当時)の巨大な領域を囲って、軍事基地として使用した。

《「沖縄、基地なき島への道標」(大田昌秀/集英社新書) 113頁より》

1945年12月31日時点で建設済の米軍飛行場

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Okinawa_airfields_1945.jpg

United States Army Air Forces in Okinawa - Wikipedia

(投稿者注: 「MACHINATO(牧港)」の滑走路は、建設したものの「ABANDONED(放置された)」とある。飛行場から補給基地「牧港補給地区」(キャンプ・キンザー) となった。)

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ボーロー飛行場: 読谷村のほぼ95%が米軍に接収された。

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Aerial view of Bolo Airstrip under construction by 72nd, 78th, 82nd and 87th Naval Construction Battalion. Okinawa, Ryukyu Retto.

第72、第78、第82、第87海軍建設大隊によって建設中のボロ[読谷]飛行場(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

普天間基地は6月15日に建設が始まり9月1日に完成の予定

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沖縄の南寄り普天間の西海岸沿いのくずで覆われた丘を切り取って作られたB-29スーパーフォートレス専用滑走路。長さ7,500フィート、幅200フィート、石灰岩で覆われたこの重爆撃機滑走路は1945年6月15日に第806工兵航空大隊によって建設された。(1945年6月30日撮影)

B-29 “Superfortress“ strip being cut out of the crub covered hilly terrain at Futema on the west side of the southern half of Okinawa, Ryukyu Retto. This super bomber strip was constructed by the 806 EAB's on 15 June 1945. The runway was 7,500 feet long and 200 feet wide and the surface was made of crushed coral with coral rocks for the base.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

牧港飛行場 (現在のキャンプ・キンザー牧港補給地区) は旧日本陸軍南飛行場だった。

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On the west coast of Okinawa, just north of the ruins of Naha City, the 874th & 1906th Engineer Aviation Battalion started to cut an airfield out of the hilly terrain for the 7th Air Force. The sub-case had been graded and dump trucks were bringing in coral sand and rock for the base and surface of the srtip, when this photograph was taken. Construction was begun on 1 June and the completion date was the end of July 1945. Okinawa, Machinato.

本島西海岸、廃墟那覇の北に第7空軍のための滑走路を建設する第874及び第1906工兵航空大隊。でこぼこは平らにされ、ダンプカーは土台や仕上げ用の石灰岩を運び入れる。工事は6月1日から7月末日までの予定。沖縄、牧港(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

ホワイト・ビーチ地区 - 勝連半島

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Constructed by the NCB's, to facilitate unloading of LSTs and LSMs, coral built road jetties were built into the water to enable trucks to move up to the ships for unloading of their cargo. Okinawa.

上陸用舟艇や中型上陸艇からの荷揚げを容易にするために建設された上陸用桟橋は、船の近くまでトラックを寄せられるようにと海に突きだして作られた。沖縄。(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇兵站基地

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The Quartermaster Class I dump on Tare Street has a conveyor line in operation to facilitate the movement of supplies.

物資の運搬を容易にするコンベヤラインを持つタレ通りの物資補給所のクラスI集積所。(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

楚辺部隊第4474兵站部隊

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1945年6月30日から始まったガソリンやオイルの補給地区。ここから以前は積荷役大隊、現在は第4474兵站部隊によって、60-80オクタンガソリンと10-30-50潤滑油が全部隊へ分配される。沖縄。(1945年6月30日撮影)

Rows of gas and oil drums in the supply area from which they were issued by the 4474th QM Depot Company, and formerly by the Bulk Service Battalion, started 30 June 1945. 60-80 octane gas and 10-30-50 lubricating oil was issued to all outfits. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

掃討作戦

「エース」たちの眼

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Five 96th Division Texans are considered ”Aces” by their buddies in Company ”I”, 383rd Infantry Regiment, an ace being anyone who killed five or more Japs. From bottom to top: S/Sgt. Vernon Z. Wilkins, 101 Chicago St., Delhart; Pfc. Albert Welfel, El Campo; Pfc. Richard S. Groce, 318 Lafitte St., San Antonio; Pfc. Roy D. Clapper, Florey; and Pfc. Russell Linnard, Pharr. All are from Texas.

第383歩兵連隊I中隊の仲間から“エース“と見なされている5人の第96師団のテキサス出身兵士。“エース“とは5人以上の日本人を殺した者のこと。下からウィルキンス2等軍曹、ウェルフェル上等兵、グロース上等兵、クレッパー上等兵、リナード上等兵(1945年6月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

掃討戦は、6月30日、予定より早く、成功裡に完了した。この作戦で、米軍はまず、南部の第1作戦地域で、いまは組織もなく、孤立化した日本軍の陣地をいくつか片づけた。洞窟は火炎放射器や爆破隊のために、幾百人の日本兵が中に入ったまま、そのまま入口を封鎖された。ところが、一方、武装した日本兵が、米軍前線を突破して、北部に抜けようとして、数回にわたって血みどろな戦闘が展開された。米軍は大がかりな偵察隊をくりだし、キビ畑や水田にひそんでいる日本兵1人1人を狩り出した

米軍が進撃方向を北に変えてからは、日本兵はしだいに少なくなり、最後である第3期作戦も、比較的容易に達成することができた。

月末までに、この掃討戦で米軍はおよそ8975人日本兵を倒し、また2092人を捕虜にし、906人の労役兵を狩り集めた。

その他、莫大な量の物資や兵器を戦利品として捕獲した。米軍の損害は、6月23日から30日までのあいだに783人だったが、そのほとんどは、掃討戦を開始して最初の3日間で起きたものだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 515頁より》

鉄血勤皇隊「千早隊」大田昌秀 (元沖縄県知事) の記録

…米軍は、ダニのように海岸の岩山にへばりついている敗残兵に対して、摩文仁台上からの攻撃では功を奏しないと見て、海岸から水陸両用戦車を乗りつけてきた。しかも火焔放射器をはじめ手榴弾や黄燐弾まで動員してせん滅戦に打って出た。勝者にとって、敗残兵狩り最も愉快なスポーツだろう。身を危険にさらすことなく、遊び半分に、標的を探しては腕だめしをすることが可能だからである。

彼らは、陽に赤く焼けた上体もあらわに、自動小銃を小脇にかかえ、数メートルも離れぬ地点へひょっこり現れることもあった。そんなとき私は、見つかったら最後と、岩陰で身動きもせず、手榴弾の安全栓を抜いて身構えた。そんな切迫した危険な状況下で、脅えながらも相手の胸毛の多いのに関心したり、赤く焼けた皮膚に、これでは白人でなく赤人だなと思ったりもした。今だ!一発の手榴弾でいともたやすく相手が殺せると思っても、投げる気はしなかった。大の男が剽軽に口笛を吹きながら、傍若無人ぶりなのを見てはなおさらのこと。

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 194-195頁より》

 

第32軍の敗残兵

糸満: 陸軍第24師団、雨宮巽師団長の自決

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沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken)

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糸満市宇江城にあるクラガー。もともと集落の水汲み場として使われていましたが、第24師団が後退してきてからは、その司令部がおかれました。糸満市史には住民の犠牲者について、アメリカ軍の攻撃だけでなく、日本軍によるガマからの追い出しや虐殺があったことが記されています。

「入り口にいた老婆が方言まじりで返事をしたら、すぐに老婆は軍刀で首を切り落とされたのです」

65年前のきょう (1945年6月30日) 第24師団司令部は周囲をアメリカに包囲され、雨宮巽師団長が自決。しかし、雨宮師団長は師団の解散前にこう訓示していました。

「最期の一兵に至るまで敵に出血を強要すべし。いやしくも敵の虜囚となり、恥受くるなかれ。最期の忠誠を全うすべし」

最期の一兵まで敵と戦い、捕虜となってはいけないという雨宮師団長の言葉は、師団の解散後も兵士や住民たちを死へとおいやることになったのです。

65年前のきょうは1945年6月30日(土) – QAB NEWS Headline

歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一)の記録

…数日間、大隊本部の壕は敵の掃討を受け続け、昼は各隊が洞窟の入口で激しい銃撃戦を繰り広げつつ、辛くも陣地を保持していた。夜になると、各隊から連絡があった。敵は夜になると引きあげていくようで、遮二無二になって攻撃してくることはなかった。

聯隊本部と連絡が途絶えて1週間が経った頃、聯隊長以下70名も伊東たちと同じように洞窟で戦闘をしていることがわかった。伝令を派遣し、全般の状況と師団長の様子を尋ねたが、「わからぬ」との返事だった。

(不明なら不明で、伝令を派遣して確かめるべきでないか)

伊東は次いで樫木副官を派遣した。聯隊付の将校に、師団司令部と速やかに連絡をとり、全般の状況を確かめてほしいと具申した。しばらくして、聯隊本部から斥候が来て報告した。

「司令部の壕は破壊され、黒焦げになっていた。師団長は戦死されたらしい」

6月30日のことだった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 250-251頁より》

 

渡嘉敷 - 曾根一等兵朝鮮人軍夫の脱出

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渡嘉敷島の「集団自決」赤松嘉次隊長の沖縄戦

海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次)

渡嘉敷島では3月28日に島民の約半数380名が集められ「集団自決」をとげるが、その後も島を支配する赤松隊によって住民や朝鮮人軍夫が次々と「処刑」されていた。

4月15日、集団死で生き残り米軍の治療を受けた16歳の少年2人が赤松隊によりスパイとして殺害される。他に島民男性2名がスパイとして処刑された。6月26日朝鮮人軍夫3名が食糧窃盗したと処刑して処刑された。

6月30日曾根一等兵朝鮮人軍夫20人朝鮮人慰安婦2人 (日本名キクマルとスズラン) を連れて島から脱出した。7月2日には伊江島から米軍によって送られた男女6人を処刑、1名を脱走で処刑、7月5日には曾根脱走事件とは関係のない朝鮮人軍夫を3名処刑している。

6月30日に10人以上の軍夫が集団で脱走する事件が起きた。主導したのは第3中隊に所属していた曾根一等兵であった。手口が鮮やかだったために、炊事班長として軍夫を使っていた元防衛隊員の大城良平氏や軍夫の捜索隊長だった知念朝睦氏は曾根が堪能な朝鮮語を駆使して福田軍夫長と綿密な打ち合わせをした上で実行したと思っていたが、実はそうではなかった。

《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(2020/2/1) p. 224》

もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。…(中略)... 

6月29日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。…(中略)... まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。…(中略)... フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。…(中略)... 軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。…(中略)... 本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。

《川田文子『赤瓦の家』(2020/6/17) 》

第三戦隊が6月22日、沖縄本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報を受けてからわずか二週間の間に、明らかにされているだけでも、沖縄住民に対する″処刑″が2件、朝鮮人軍夫に対する″処刑″が1件計8名が日本軍の手によって生命を奪われた。これに「逃亡者4名」を加えると、その数は12名になる。この他にも、日時は不詳であるが、軍夫の″処刑″が阿波連の斥候連下隊に於いて行なわれたことを知念氏が証言している。

《川田文子『赤瓦の家』(2020/6/17) 》

 

 

そのとき、住民は・・・

御真影奉護隊の解散

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名護市源河地区の「大湿帯」と呼ばれる地域に、ひとつの壕があります。沖縄戦で、この壕には、「御真影」と呼ばれた歴代天皇の写真が集められ、「御真影奉護壕」と呼ばれました。戦前、天皇は現人神とされ、歴代天皇の写真や御真影天皇と同一視され、全国の学校で、もっとも神聖なものとして扱われました。
のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島を攻撃した十・十空襲をきっかけに、戦火から御真影を守る先生たちの部隊、「御真影奉護隊」が結成されました。アメリカ軍の攻撃が激しさを増すと、学校ごとに保管していた御真影は、この壕のなかに集められました。アメリカ軍の上陸が始まり、御真影奉護壕の周辺にもアメリカ兵の姿が現れるようになりました。奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、
奉護隊は、神聖な御真影アメリカの手に渡すまいと、昭和天皇以外の御真影を壕のなかで燃やしました。さらに御真影の台紙や入れ物の柄の箱を近くの神社の境内に埋めました。最後まで守り続けた昭和天皇御真影も、日本軍の組織的戦闘が終わった直後、壕の近くにある河原で燃やされました。そして6月30日御真影奉護隊は解散しました。

名護市 御真影奉護壕|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

御真影とは、昭和天皇・皇后の写真のことです。全国各地では、米軍の空襲が来る度に校長先生や教員たちは、この御真影を焼失から護るため、担いで右往左往しているのです。当時の文部省からは、まずは御真影を護ること、教育勅語を護ること、これが一番の校長たちの任務でした。その次が生徒・児童を護ることだったのです。護る順序が、今考えると信じられない。当時は、真面目にそれを考えていました。 

沖縄本島の場合は御真影奉護隊」が結成されます。9名の校長・教頭で編成され、それ以外にも志喜屋孝信さんとか、他の先生たちもいました。その家族も一緒で、総勢30数名でした。4月7日には、名護湾に米軍が到着し、早くも大湿帯には4月9日から10日にはすでに来ています。したがって、米軍が7日に上陸して10日には、この御真影奉護壕を放置します。放置する際に、明治天皇大正天皇の写真を焼いて、昭和天皇だけはまだ生きているからと、写真を抱えて山のなかを80日間さまようのです。その間の30数名分の食事をどうするかが大きな問題でした。飢餓寸前になりながらも任務を続けました。

《『沖縄県史 各論編6 『沖縄戦』 : 刊行記念シンポジウム『沖縄戦』を語る』沖縄史料編集紀要、沖縄県教育委員会、2018年03月23日 》

10・10空襲の日は、あわてて学校に向かった。「御真影を奉遷奉護することしか頭になかった。幸い学校は無事だった」と言う。しかし、若狭町にある自宅は、その日の空襲で焼失してしまった。…

… 比嘉さんの荷物は風呂敷包みが1個。黒塗りの箱に入った教育勅語戊申(ぼしん)詔書(明治41年の戊申の年、上下一致や勤倹などを説くため出された詔書)を包み、首から前につるしていた。「御真影を奉遷してあとは校長として一番に守らなければならないものとなった」と言う。

《「戦禍を掘る」取材班1984年11月27日掲載》

 

 

 

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沖縄の今日

1959年6月30日『宮森小学校ジェット機墜落事故』

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