〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月6日 『連れていってください』

日米両軍の「新聞」情報戦 / 逆上陸計画の顛末 / 手榴弾

 

米軍の動向

沖縄の米軍基地から本土を空爆

米軍は、沖縄戦で占領した北(読谷)、中(嘉手納)、伊江島飛行場を整備し、そこから米軍機を飛ばし、南西諸島全域や九州方面の爆撃を実施した。また、航空機に魚雷を搭載し、日本海軍艦船を攻撃した。

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米国海兵隊: The dusk patrol landing. Marine fighters of 2nd Marine Air Wing, flying Vought Corsairs. Yontan airfield.
夕暮れ時の偵察から帰投。第2海兵航空団の兵士が操縦しているのは、ヴォート・コルセア戦闘機。読谷飛行場。1945年 5月 6日

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Mark XIII Torpedos Are covered by Marine air unit ground crewmen during a maintenance session at an Okinawa air field, 6 May 1945.

沖縄の飛行場でMK13航空魚雷を覆う米海兵隊の航空部隊兵士 (1945年5月6日)

USMC 120516 / USMC 120517

 

北部の掃討戦

この日、海兵隊のカメラマンは北部西岸から辺戸岬までの沖縄の風景を撮影している。現在は軍基地 (保養施設) 「奥間レストセンター」 として占有されているため見ることができない赤丸岬の風景。

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米国海兵隊 Akamaruno, Misaki Bay. Seawall, on west coast.
赤丸岬の入り江。西海岸の護岸。1945年 5月 6日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海兵隊: Road scenes northern Okinawa.
沖縄北部の道。1945年 5月6日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

  

奥間レストセンター「米軍美談」プロパガンダを検証する

 

日米両軍の情報戦 - 米軍「琉球週報」

米軍「琉球週報」第二号

米軍は沖縄戦において心理戦 *1 とよばれる情報戦で計800万枚のビラを撒いた。投降を誘導する一連のビラの他に、新聞形式の「琉球週報」を発行し、できるだけ正確なニュースを伝えることで、情報に飢えた日本兵や住民に接触し、読まれる頻度を高めようとした。その意図はある程度の成功を収めた。翻訳将校が作成した原稿は艦船内の印刷所で印刷され、投下された。

5月6日の「琉球週報・第二号」では、ヒトラーの殺害から沖縄戦の戦況、また4月28日に米軍の捕虜収容所でおこなわれた日本将兵と沖縄人女性のプロパガンダ結婚式が写真入りで掲載された。

米軍心理戦リーフレット沖縄作戦 - Basically Okinawa

新聞形態の「琉球週報」は他の宣伝ビラに比べてよく読まれたという点で、全諜報部員の意見は一致していた。ビラの所持は(日本) 軍によって禁止され、所持者はスパイとみなすという厳しい禁令が出されたにもかかわらず、この新聞は日本軍のなかでも回し読みされたらしい。

土屋礼子沖縄戦における心理作戦と対日宣伝ビラ」(2005)

こうした情報戦のビラ制作は、投降した捕虜からの反応と投降者数の統計をフィードバックしながら進められ、その後の米軍の心理戦略 (psyop) の足掛かりとなった。

小禄にいたある日本兵は5月6日の「琉球週報」をこのように読んだ。

蚊蛇平台地・小禄飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

数日間、雨が降り続いた。雨の日は爆弾が降って来ないが、砲弾だけは容赦なく飛んで来た。私たちは薄暗い洞窟に閉じ込められたまま、死刑囚が刑の執行を待つような不安な日々を送らねばならなかった。窮屈な横穴に座りながらカビの生えた壁面を見つめていると、際限なく妄想がひろがり、果てはたまらない焦燥感におそわれてくる。(77頁)

そのころ、陣地周辺に米軍機から大量のビラや、タブロイド型の新聞が投下された。ビラには大きな活字で、「戦争は日本の負けで終わります。貴方たちは日本の軍閥にだまされているのです。死ぬだけが忠義ではありません。アメリカ軍は捕虜を大切に扱います。このビラを持って早くアメリカの方に来なさい。」と書いてあったほか、新聞には、日本軍将校と沖縄娘の結婚式の写真が大きく飾られ、「この写真は沖縄で捕虜になった日本軍将校です。アメリカは捕虜を大切にします。好きな女性がいれば結婚もさせます。一日も早く捕虜になりなさい。」と書いてあったのに続いて、「日本の皆さん。サイパンで自決した南雲中将と、1943年(昭和18年)、日本軍の攻撃でフィリッピンから逃げ出したマッカーサー元帥と、どちらがえらいと思いますか。マッカーサーの方が立派です。南雲中将は死にましたが、死んで何が残りましたか。命を大切にしなさい。」と書いてあった。そのほかのニュースは、「ルーズベルト大統領の急死、映画女優シャーリーテンプルの結婚。アメリカ野間野球の復活。などで、日本軍将校と沖縄娘の結婚ばなしは眉つばものだと思ったが、そのほかの記事は、すべてもっともらしかった。戦況は日一日と身近に迫りつつあった。(82頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 77、82頁より》

 

日本軍のビラ作戦

一方、日本軍第32軍も司令部壕近くの「留魂壕」において印刷所と新聞社「沖縄新報」、また学徒「千早隊」を抱えていた。また対米軍への情報戦ビラも作成されていたようである。

米国陸軍通信隊: This is a copy of a Japanese propaganda leaflet found by troops of the 7th Division on Okinawa, 23 April 45, ten days after the death of President Roosevelt.

ルーズベルト大統領の死から10日後の1945年4月23日、沖縄で第7師団が発見した日本軍の宣伝ビラのコピー。沖縄  撮影日:1945年5月6日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

【対訳】米軍将兵へ。我々は、故ルーズベルト大統領について深い哀悼の意を表します。 彼の死と共にここ沖縄でも“米国の悲劇”は広がっています。 あなた方の空母 70%、 戦艦の73%が沈没し、15万人 が死傷したのをご存じでしょう。 亡くなられた大統領のみならず、(米軍の)誰でもが、こうした壊滅的な損害を聞き、悩み苦しみのあまり死んでいくでしょう。 あなた方の指導者を死に追いやった大損害で、 あなた方はこの島で孤児にさせられるでしょう。 日本軍特攻機は、最後駆逐艦にいたるまで米艦船を撃沈するでしょう。 あなた方は、 近いうちにそれを目の当たり にするでしょう。

《保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』 (紫峰出版) 2014年 181-182頁》

下線部に注意したい。日本軍の誇張された誤情報は、フィードバックのない閉じられた日本の情報環境とは異り、末端の米軍兵士にも通用しないものであった。

また日本軍は、「前線の黒人部隊」 という対米ビラを印刷し撒布したことも明らかになっている。前線で死ぬのは黒人兵ばかり、といった偽情報は、むしろ米軍内の人種差別の根深さを知らないゆえに生じる。米軍内の人種隔離政策は、南北戦争時代から1948年まで一部を除いて基本的に大きく変化することはなかった*2人種隔離された黒人部隊 (segregated unit) は武器を使用しない非戦闘部隊として後方任務に配属されていることは常識であり、日本軍の「前線の黒人部隊」情報は、現場の米兵に通用するわけのない偽情報であった。

心理戦争の目的やプロパガンダ戦略から判断すると、 日米のそれには雲泥の差が あった。 戦時プロパガンダは、最終的には相手の考えを自軍に有利な方向に変換させることであるが、日本軍にはそうした考え方は一切なかった。…
米第10軍心理作戦課が作成した 「沖縄における心理作戦」 報告書には、以下のように記してある。「日本軍は、『前線の黒人部隊』 という存在もしない部隊に対するメッセージの中で、人種差別に基づいて割り当てられた軍務など運行するな、と説得しょうとしていたが、 これは行き過ぎであった。 沖縄の前線任務に黒人部隊がいなかったことは、日本軍も調べれば容易に確認できることであった」と批判している。

《保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』 (紫峰出版) 2014年 181-182頁》

しかし、「前線の黒人部隊」という偽情報は朝日新聞那覇支局長の記事で日本国内に報道された*3 。また米軍による5月21日の日本軍通信傍受 (マジック) には、米軍兵士の10%から20%が中国兵か黒人兵だと語る日本軍の通信記録が残っている。

45年5月13日付 『朝日新聞

記事では、黒人部隊は人種差別に基づく配備がなされ、 最前線に配備され、 白人部隊は後方 から作戦指示のみを与える (督戦隊) とある。 これは 沖縄で撒かれた米軍向けビラと同じ内容となっており、 軍部と新聞が一体化していたことが判明する。

《保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』 (紫峰出版) 2014年 181-182頁》

 

南進する米軍 - 前田高地の戦いの終わり

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Chapter 08 | Our World War II Veterans

沖縄本島北部を進撃、制圧していた米海兵隊は、本島中南部を進撃中の米陸軍部隊の一部と交替することになり、南下を始めた。米第1海兵師団は、浦添村(当時)の西海岸一帯に4月下旬から配置されていた。

5月6日までに、第6海兵師団の全部隊は沖縄県知花付近に集結した。この場所は最前線から10マイル(16キロ)も離れていない場所である。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 55頁より》 

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道に沿って前線へ移動する米海兵隊の戦車。沖縄の西海岸。(1945年5月6日撮影)

U.S. Marine Tanks move up along road. West Coast of Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Shows TBF dropping a stick of bombs on area west of Naha.

那覇西部に爆弾を落とすTBF機(1945年5月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

勢理客(じっちゃく)・屋富祖(やふそ): 第1海兵師団

第1海兵隊は、5月6日、東に回って、安謝川入口近くの高台を確保するため、まず浦添屋富祖南東から1キロほど離れた小高い丘の60高地めざして進んでいった。任務は困難をきわめた。60高地は、浦添の沢岻、首里の大名、また安謝川の南にある高台地の日本軍砲兵陣地から、すっかり見通せるところにある。そればかりでなく、60高地から200メートルほどしか離れていないナン高地も、まだ完全に海兵隊の手中に帰したとはいえない。そこは、60高地からも攻撃できるところにあった。

海兵隊の一小隊は、60高地頂上に到達した。だが、それはいわばはげしい手榴弾爆雷白燐弾迫撃砲の弾雨のなかに、突っ込んだようなものであった。…ついに60高地の海兵隊は陣地確保もできぬまま、…午後12時27分、第2大隊指揮官は撤退命令を出した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 327頁より》

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60高地の北西斜面を攻撃する米軍

ATTACKS ON HILL 60 by marines developed into a tank, flame, and demolitions battle. Above, tank infantry team attacks northwest slope of hill 60.

海兵隊による60高地への攻撃は、戦車、火炎、そして破壊の戦いに発展した。上では、戦車歩兵チームが60高地の北西斜面を攻撃しています。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

前田(まえだ)浦添丘陵

5月6日の夜は明けた。第307連隊の全大隊が、いまや187高地に南側から隊伍をととのえて進撃していった。浦添丘陵の戦闘はついに終わったのである。… 浦添丘陵での米軍の損害は大きかった。36時間もつづいた一回の戦闘で、第307連隊の第1大隊は、少なくとも8名の中隊長を失ったこともあった。また、4月29日、800名で丘陵を攻めたてた部隊が、戦いすんで、5月7日に、丘をおりるときは、324名に減っていることもあった。だが、この戦いで日本軍は推定3千の兵を失ったのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 296頁より》

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中央戦線付近で炎上する米軍戦車(1945年年5月6日撮影)

AMERICAN ADVANCE DOWN THE CENTER of the line, 77th Division sector, was slow and costly. Every knob of ground was fortified and fanatically defended. This photograph, taken from an artillery spotting plane 6 May, shows American tanks burning out a strong point on the edge of a village.

第77師団の戦線を下る米軍の前進は遅く、犠牲を伴った。地上のすべての丘陵は要塞化され、狂気じみた防御があった。この写真は5月6日の偵察機から撮影されたもので、米軍の戦車が村の端にある要塞を焼き尽くしているところを示しています。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

幸地(こうち)

米軍が幸地攻撃をやりだしたのは、4月26日だったが、日本軍が反攻作戦に失敗したので、米軍はふたたび攻撃を開始することになった。

第17連隊の第3大隊は、5月6日までに幸地丘陵の第2陣地を奪取しようと攻撃を展開し、丘のてっぺんから、10ガロンのナパームやガソリン重油などをぶっかけた。

同じ日に2個小隊が、ハウ高地の一部を占領したが、固守せよとの命令があったにもかかわらず、猛烈な砲火をまともにうけて、退却せざるをえなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 330頁より》

棚原(たなばる)

5月6日の朝早く、ちょうどE中隊の下方にいた一隊の日本兵が手榴弾爆雷をもって、米軍前線に襲いかかってきた。E中隊は、半時間の戦闘で16名の死傷者を出して、ついに頂上から退却し、下方の崖のほうにさがった。ここで生き残った者が隊を編成しなおして、頂上を日本軍に奪われまいと、手榴弾を猛烈に見舞い、つぎからつぎと手榴弾を数百発も投げつけて、やっと明け方までには日本軍を頂上から後退させることができた。

F中隊はその日の朝、棚原に帰ってきて、村落に2回目の攻撃を試み、日本兵8名を倒した。中隊は、E中隊の迫撃砲や銃火の掩護射撃を得て、丘腹を破竹の勢いで進撃していったが、それもつかの間、まもなく一連の珊瑚礁岩が突きだしているところにぶつかってしまった。ここでは、携帯用火炎放射器迫撃砲、それに大量の手榴弾を投げて、その日の夕方までには、丘腹の全抵抗をなくすことができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 320頁より》

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第7師団第17歩兵連隊の位置から見た棚原高地

TANABARU ESCARPMENT viewed from position of the 17th Infantry, 7th Division, on a finger of Hill 178. Company E, 17th, moved back to the secondary crest (right) on morning of 6 May after enemy had counterattack in force.

第17歩兵連隊第7師団の位置、178高地の先からながめた棚原高地。第17歩兵連隊は、敵が反撃した後、5月6日の朝に二度目の頂上奪回(右)を達成した。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

 

第32軍の動向

総反攻作戦で失敗を喫した日本軍は、その後、全戦力を引き延ばし戦術のほうに傾けた。大損害をこうむったとはいえ、彼らはその防衛力に、いささかの衰えもみせていなかった。…牛島中将は、5月4日の攻撃では、新鋭部隊を使用したが、首里本陣の防衛力は、全戦線で保持していた。…日本軍戦線は、一見、なんの損害もなかったかのように再編され、動員できる兵力は、じつに慎重に現存部隊に配置され、その攻撃力も時宜を得、また効果もあげていた。

日本軍は残った重機、大砲類、とくに重砲には慎重を期して兵を配置し、5月6日に第5砲兵隊は各部隊に対して、「5月3日の攻撃以前の、元の位置につくよう」指令をだした。ふたたび砲陣を中心とする防備戦線が張られることになったのである。各砲陣とも、「努めて弾薬を節約し」「敵が至近距離までに近づくのを待って発砲せよ」との指令をうけた。(325-326頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 324、325-326頁より》

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AERIAL PHOTOGRAPH--Naha, the capital of Okinawa - building are flattened, vessels of all types lie on bottom of harbor. Photo taken from Marine Reconnaissance Plane. Drew antiaircraft fire. The city is still completely in Japanese hands.

空中写真--沖縄の県都那覇。建物は潰され、どの種類の船も港の底に沈んでいる。海兵隊偵察機による撮影中に対空放火があった。この街はまだ完全に日本軍の手中にある。(1945年5月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

棚原高地からの撤退「連れていってください」

無謀な総攻撃計画で唯一棚原を奪還することに成功した伊東大隊は、直後から後方支援もなく撤退を余儀なくされ、更なる犠牲を生む。

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赤丸で囲まれたものが棚原高地での伊東大隊

Chapter 08 | Our World War II Veterans

棚原(たなばる)高地の奪取: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

明けて5月6日、東の空が白んできたが、状況には何の変化もなく、友軍進出の様子もなかった。危惧していたことが現実となった。伊東大隊は完全に敵の包囲の下に孤立したのだ。大隊本部から左50メートルのところまで敵が進出してきた。…再び敵の熾烈な砲撃が始まった。…数十メートル先では、グスッと鈍い音をさせて短延期砲弾(着弾と同時に炸裂するのではなく、少し地中等に潜り込んでから炸裂する砲弾)が落下している。その度に土砂が吹きあがり、木の梢が高く舞い上がった。いや、それは梢などではなかった。舞い上がっていたのは、部下たちの手であり、足だったのだ。

…「状況変化す。貴隊はミネ北側に転進すべし」聨隊本部からの命令が伊東のもとに届いたのは、昼を過ぎた頃だった。軍司令部では5日18時に攻勢を中止し、防御態勢に復帰することを決定していたのだ。攻勢の失敗により、軍の戦力も士気も急激に低下していた。(俺たちがここまで頑張ったのは何だったのか・・・)

伊東大隊は多くの将兵を失って棚原高地を撤退しなければならなくなった。…電文の「ミネ」は地図になく、どこへ向かうべきか迷った。あとで「石嶺」の誤りであることを知るが、まずはこの敵の包囲網の中をどうやって撤退するかが問題だった。

… 退却はともすれば敗走に通じ、大隊が壊滅する危険を包含している。退却を成功させる道は後退にあらず、突破にありー。戦史の教えるところを、伊東は大隊の歩むべき道と信じた。自ら各隊長宛に同文で7通の命令書を書き上げた。そこには第一に「突破」であることを強調し、最後の項にはこう書き入れた。「重傷者は自決できるよう処置せよ」… 自決するか捕虜になるかは本人の意思に任せることにした。ここまで戦って重傷を負い、動けない身となった。まして友軍に見棄てられ、敵中に残されるのだ。本人が自決できなかったら捕虜になるのも止むを得ない。伊東は自分にそう言い聞かせた。… 本部の1人の上等兵が、溝に重傷の身を横たえていた。伊東は身につけている二つの手榴弾のうち一つを握らせて言った。「黒川上等兵、大隊は今から他へ転進する。もし敵が来たら、この手榴弾で自決してくれ

「・・・・・」

「鉄帽か石にでもぶつければ、すぐに破裂するからな」

・・・いやだ、いやだ。連れていってください

童顔の21歳上等兵は、泣きながらすがるように言った。伊東は返す言葉を持たず、顔をそむけた。代わって副官が諭している。本部の兵たちは皆、もらい泣きしていた。大隊全部で数十名の重傷者を敵中に残さなければならなかった。(196-199頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 196-199頁より》

 

そのとき、住民は・・・

自決のための手榴弾

銘苅(めかる・那覇市)

日本軍から青年義勇団に手渡された二つの手榴弾

男女青年義勇隊員(女性)の証言:
みんな榴弾を2発ずつ持っていました。最後に敵兵を倒すのに1発と、自決用に1発です。馬小屋、ブタ小屋、牛小屋にかくれ、食べるものもろくに食べずに、沖縄本島の南部をさ迷い歩きながら、みんな肉親の二人か三人は失いました。義勇隊男子10人のうち生存者は3人、女子17人のうち生存者は6人です。銘苅地区約30戸のうち半数が一家全滅の被害を受けました

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 91-93頁より》

 

西原町沖縄戦 - 戦死者率47%の村

沖縄戦では県民の四人に一人、十数万人もが犠牲となった。2003年にアメリカで発見された日本軍の作戦文書から、男性住民が根こそぎ防衛隊員に動員されたこと、日本軍が住民に偽装して米軍を攻撃する計画を立てていたことなどが、多くの犠牲者が出た一因であることが分かった。番組は、犠牲率が47%と県内最大の西原村(現・西原町)を舞台に、村人が戦争に巻き込まれていった過程を検証する。

<< NHK その時 歴史が動いた  さとうきび畑の村の戦争~新史料が明かす沖縄戦の悲劇~>>

 壕に日本兵が来てからは、父が馬肉をお裾分けした。兵隊は赤子が泣いても「子どもは泣いて育つ」と言っていたのに、商売人が死んで肉がなくなってからは「こいつが泣くと何人が死ぬか。こっちで殺す」と脅した。結局、壕は追い出された。

糸数(現南城市)に向かう途中だったと思うが、銃を持った日本兵数人に「どこに行くか証明書を出せ」と言われた。父は「区長だがそんな証明はない」と説明したが「ではスパイだな。家族の目の前で殺してやる」と弾を込めだした。すると艦砲が落ちて、破片で日本兵数人がけがしたんだ。父らが隣の集落まで移動させた兵からは、謝罪も礼もなかったと聞いた。

犠牲率47%の西原村 - アメリカ公文書館資料から見る沖縄戦の実相 - Battle of Okinawa

 

 

収容所生活

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戦闘後の後片付けが始まり、地元民に最も効果的なDDTの撒布方法を指導する軍政府の海兵隊(1945年5月6日撮影)

WHY AND WHEREFORE. A Marine member of the military government on Okinawa island instructs a native in the procedure of spraying DDT to the best advantage as the clean-up starts on the island after the battle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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さとうきびの葉を頭にのせて運んでいる地元の女性。葉は敷物を編むためのもの。カッチン(勝連)半島へ運んでいる。(1945年5月6日撮影)

Okinawan women carrying headloads of sugar cane leaves used for matt weaving-taking on Katchin hanto Peninsula, on the East Coast, Southern, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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*1:psychological warfare

*2:1948年、トルーマン大統領が軍内の人種隔離政策を撤廃する大統領令に調印する。例外的な戦闘部隊の活躍としては、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線におけるタスキーギ・エアメンと第92歩兵師団が有名。

*3:記事を書いたのは朝日新聞那覇支局長の宗貞利登で、陸軍第24師団第32軍司令部 (歩兵第32連隊) 球1616部隊報道班員として司令部に同行、毎日新聞那覇支局長の野村勇三らと共に摩文仁まで南下しそこで殉職した。see. 沖縄・摩文仁に死す - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」