〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月2日『南北に分断された沖縄島』

捨て石にされた防衛隊 / チビチリガマシムクガマ /

米軍侵攻2日目、沖縄島を南北に分断

陸軍第7師団、午後2時、東海岸に到達

沖縄本島を進撃中の米軍は、上陸後2日目には、中城湾の沿岸付近まで進出沖縄を北部と南部に分断した。その途中、日本軍の抵抗を受け約100名の死傷者をだしたが、それでも本格的戦闘はまだだった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 56、57頁より》

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HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

… 2日の午後2時までに、第7師団の第17連隊は東部海岸にある中城湾一帯を見渡せる高地を確保し、さらに湾一帯の海岸に偵察隊を派遣した。この部隊の進撃があまりに早すぎたため、後続部隊は追いつかず、遙か後方に残されるほどだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 92頁》

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沖縄の平野を横断する海兵隊員。(1945年4月2日撮影)

Marines moving across fields at Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

同日、第32歩兵連隊は、戦車隊でコザ南部の強力な日本軍陣地を掃討してから、午後おそく進路を南へとった。一方、北部のほうでは、第1海兵師団がけわしい山岳地帯や補給問題に悩まされたため、本隊から5500メートルの距離ができてしまったが、これは第18歩兵連隊が埋め合わせた。』(92頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 92頁より》

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前進する部隊(1945年4月2日撮影)

Troops move up.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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喜納集落(読谷村)を走るいくつもある狭い道のうちのひとつを歩いて、避難地である喜名集落へ入っていく海兵隊員。(1945年4月2日撮影)

Marines coming into evacuated town of China on Okinawa walking along one of the many narrow roads that run through China.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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狙撃兵を警戒しながら集落を調べる海兵隊員。(1945年4月2日撮影)

Marine looks over part of village--taking precautions against snipers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄公文書館 

いまや沖縄は、二つに切断された。日本軍は、北部と南部の二つに分轄されたのである。第96師団は、4月2日の朝、勢頭付近の田舎で進撃がおくれていた。ここには密林地帯があり、洞窟や塹壕が多く、また戦車の通れると思われる道には、地雷や対戦車壕が設けられていたからだ。夕方までに、第381歩兵連隊は、島袋を突破したが、桃原付近で日本軍にあい、前進をはばまれてしまった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93頁より

第383歩兵連隊も桃原地区で頑強な日本軍に遭遇し、厳しい応戦をくりかえし、空軍や砲兵陣、さらに戦車隊の支援を得て、ついに桃原南部の丘陵地帯を取り、普天間地区の北東部付近まで進撃することができたのである。その夜、米軍の戦線は、伊佐浜北方から、伊佐-普天間道路を通って普天間の北端にまでのびた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/96-39-4.jpg

司令部を設置する海兵隊(1945年4月2日撮影)

Marines set up C.P.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

日本兵と民間人捕虜の収容

通訳兵による捕虜の尋問

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左から:海兵隊戦闘広報係のレーン3等軍曹(ケンタッキー州出身)と通訳のマーフィー3等軍曹(アイダホ州出身)。2人は道路下の排水溝で日本兵上等兵に尋問中。(1945年4月2日撮影)

Left to right: Sgt. Elvis C. Lane, 3322 W. Broadway, Louisville, Ky., MC Combat Correspondent, Sgt. Jack E. Murphy, St. Maries, Idaho, interpreter, questioning Jap superior Private found in culvert under roadway.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は民間人を楚辺などの臨時の民間人収容所に送り込んだ。進軍を阻むため日本軍によって破壊された橋は先々で住民を苦しめた。

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壊れた橋を渡る沖縄の人々に手を貸す第1海兵師団。海兵隊駐留のもう一つの理由は、民間人を戦闘地域から移動させ、収容することである。(1945年4月2日撮影)

A Helping Hand. Okinawan civilians are helped across a broken bridge by Leathernecks of the First Marine Division. Another reason for the presence of the Marines is that these civilians are to be interned while fighting is in progress.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の沈黙

北飛行場 (読谷) と中飛行場 (嘉手納) の放棄

港川海岸付近では4月1日以降、毎日のように多数の米軍上陸用舟艇が上陸するとみせかけては沖合にUターンをくりかえしていた。米軍によるこの陽動作戦はかなり成功した。日本軍の大砲の半数(第5砲兵司令部が保有する約200門)は首里周辺のトンネル陣地に集中的に配備されていたが、そのほとんどが4月7日までは南側(つまり港川方面)に向けられていたし、歩兵の約60パーセント(第24師団と独立混成第44旅団)は4月下旬になっても首里以南から動かなかった。作戦計画の面でも第32軍には北に攻撃にでる準備がなかった。45年1月に第9師団が台湾転進を完了して兵力が3分の2になって以来、第32軍は、陣地を首里の北方約5キロの牧港-嘉数-我如古-和宇慶を結ぶ線より南の丘陵地帯に集中して構築した。嘉手納方面に米軍が上陸した場合、北・中飛行場の確保はあきらめ首里を中心とする陣地地帯にたてこもって持久戦をおこなうことにしたのである。そうすることが米軍の本土侵攻を遅らせ、「本土決戦」準備の時間かせぎになると考えていた。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 74-75頁》

 

大本営と沖縄守備軍第32軍とのあいだの溝

大本営は第32軍に飛行場建設を命じつつ補給はなく、さらに「最強師団」とよばれた第9師団を第32軍から転出させた。第32軍はそのため大本営に飛行場建設を続行しているように見せながらも、反斜面陣地など持久戦のための作戦にシフトしていた。

… 第32軍とは違い、もともと航空作戦を重視していた大本営陸軍部や第10方面軍(第32軍はこれに属している)、連合艦隊は、二つの飛行場が、上陸一日にして占領されてしまったことに大いに驚いた。これら上級機関の作戦構想がはやくも崩れそうになったからである。陸軍は沖縄の飛行場が本土空襲に使われることを何よりも恐れていた。また、攻撃の目標を空母機動部隊においていた海軍は、沖縄本島の飛行場を米軍が使いだせば空母を中心とする機動部隊は沖縄近海から去り、それに打撃を与えることができなくなってしまうと考えた。機動部隊をなるべく長く沖縄近海に張りつけておくために第32軍に何としてでも飛行場を守ってほしかったのである。また、容易に上陸を許したことにたいする天皇の強い不満も陸海軍首脳に大いに影響をあたえた。大本営・第10方面軍・連合艦隊は、沖縄の第32軍にたいして、ただちに反撃に出て飛行場を奪回せよと強くせまった。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》

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C. B. tractor pushing wrecked Jap plane off Yontan Air Strip.

大破した日本軍機を読谷飛行場滑走路の外へよせている建設大隊のトラクター。(1945年4月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の面前に置かれた賀谷支隊と特設第一連隊

賀谷支隊特設第一連隊は地元の防衛隊から多く構成された部隊で、武器装備もほとんどないまま、上陸した米軍の正面にすえおかれ、そのなかには現地召集の少年兵や農林学校の学徒兵170名も含まれていた。

沈黙を保ったままの第32軍であったが、特設第1連隊と独立歩兵第12大隊の賀谷支隊だけは米軍と交戦、現地召集兵が多く、砲兵も持たない特設第1連隊は読谷山地区で壊滅した。賀谷支隊の任務は米軍の前進を遅らせ、主陣地に引き込むことだった。戦闘経験豊富で精強をもって鳴る賀谷支隊は米軍に痛い損害を与え、後退しながら主陣地まで敵を誘導することに成功する。その戦闘の際でも、歩兵第2旅団から支隊掩護の射撃開始を要請されるが、牛島は陣地の暴露を恐れ、許可しなかった。八原が練り上げた「戦略持久」を徹底的に遂行する。

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 156頁より》

 

飛行場大隊や防衛召集者がほとんどの特設警備工兵隊などの非戦闘部隊が、軍主力温存のための捨て石にされたのである。

林博史沖縄戦における軍隊と民衆 ― 防衛隊にみる沖縄戦

 

賀谷支隊 (第62師団独立歩兵第12大隊): 支隊長賀谷与吉中佐)

志那事変からの先鋭部隊、賀谷支隊 (第12大隊)は、現地召集の特設警備第224中隊 (防衛隊) と海軍第11砲台を従え嘉手納に陣取る。賀谷支隊の本体は撤収に有利な南側に配置され、実際、4月5日に第62師団の主陣地に合流した。

これらの部隊の中で唯一、本来の地上戦闘部隊である (賀谷支隊の本体) 第12大隊は、最も南に位置し、米軍に抵抗しながら南の第62師団の主陣地に後退することとなっていたが、それ以外の部隊は、最前線にとり残される形で配備されていた。

林博史沖縄戦における軍隊と民衆 ― 防衛隊にみる沖縄戦

2日は朝から、戦車を先頭に立てた米軍の猛撃がはじまる。第3中隊と歩兵砲中隊の中間を突破した米7師団は、山あいの喜舎馬北方にあった大隊本部陣地を攻撃してきた。死傷続出。ほとんど半数を失うほどの激戦だったが、第1中隊、第4中隊、第5中隊、機関銃中隊は協力して、南下しようとする米軍を阻止した。支隊長は、2日夜、各中隊を後退させ、新陣地につかせた。転進 (日本軍用語 = 退却のこと) 中、第3中隊と歩兵砲中隊は、包囲されていたため、敵中突破をしなければならなかったが、どちらも斬込みを敢行しながら血路を開き、目的を達成した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 150頁より》

特設警備第224中隊という名で賀谷支隊に現地召集された沖縄の住民や青年学校の少年たちの数は不明のままである。

数え年17歳で青年学校から賀谷支隊に召集された少年の証言

命令で部隊に同行 ある日、賀谷部隊の隊長命令で若者が集められ、部隊に同行することになった。普天間 *1のイシジャー山に機関銃の弾、弾薬を運搬した。米軍が本島に上陸した翌4月2日の夕方、普天満宮の裏に集まって、イシジャー山に行かされた。もうボンボンと弾が飛んできて、とても危険な状況だった。沖縄の兵隊が目の前で胸を撃たれて死んだ。岩陰に隠れていたけど佐久間兵長が「出なさい」と。むちゃくちゃだけど、兵隊には絶対服従さ。

賀谷支隊 (独立歩兵第12大隊) の遅滞戦闘に動員された少年たち - Battle of Okinawa

 

 

特設第1連隊 第1大隊の「玉砕」

北飛行場 (読谷): 特設第1連隊 第1大隊 (黒澤巌少佐) 900名の全滅

第32軍が放棄した北・中飛行場に捨て石として置かれた特設第一連隊の中には、青年学校から現地召集された沖縄の少年たちもいた。

私は当時、軍の用務員で座喜味のトーガーにある壕にいた球9173部隊 (註・第56飛行場大隊 = 特設第1連隊) におりました。数え15歳です。その頃は郷土を守るというので徴用の年齢に満たない16歳以下でも用務員という形で軍に雇われていたのです。この隊は本田主計大尉を隊長に120人ぐらいいましたかね、とにかく100名を超えていました。… 4月2日には … 兵隊たちも生きられないと諦めていました。酒があけられ、ラッパ飲みであちらこちらでも回し飲みをする兵や低い声で歌を歌う兵隊もいました。故郷の歌を歌っているようでした。人間死ぬ間際になると故郷や家族を思い浮かべるのでしょう。そんな中にも日の丸鉢巻に白たすきをした四~五人単位の斬り込み隊が弾雨の中に飛び出していきました。斬り込み隊ですか?何度も何度も出て行きましたよ。当然だが行ったきりです。出ると同時に銃声がけたたましくがなり立ててすぐに静かになるのです。ですから出て行った斬り込み隊が全滅したことは壕の中でも分かりました。暗い壕の中は死が刻々と迫ってくる、まさに追い詰められた地獄でした。

特設第1連隊 - Battle of Okinawa

… 2日の夜半ごろ、北飛行場(第1大隊)の負傷した伝令が、野崎大隊長を囲んで作戦会議中の将校たちのいる壕に転がり込んできて、「4月2日の10時ごろ、北飛行場部隊は激しい弾雨下を喜名山の海軍壕に布陣しているところを急襲されて、黒沢大隊長以下、900名が全滅し、連隊長、青柳中佐は軍からの最後無電により、国頭郡の山中に転進した」らしいという、正に青天の霹靂ともいうべき悲報が伝えられたのであった。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 158-159頁》

 

中飛行場 (嘉手納): 特設第1連隊第2大隊の撤退

第二大隊には、防衛隊として召集された地元の住民だけではなく、県立農林学校の学徒兵 170人が含まれていた。

前線に取り残された農林鉄血勤皇隊170名

… 一つの異変が起こった。それは私たちの160高地東面下を走る縦貫道路を挾んで、東方の山地一帯に布陣していた特設警備工兵隊と要塞建築隊の総勢1千名余が、野崎大隊長にも連絡せず、いつの間にか勝手に島の北部、国頭郡の山中に後退して、陣地は農林学校生徒隊2、3年生の170名だけが守るという妙なことになってしまったのである。… 学徒隊からこの報告をうけた野崎大隊長は痛憤したが、学生隊の尚少尉に、「学生隊を米軍の矢面に立たすわけにはいかん、ここは飛行場大隊だけで守備し、米軍の北部進攻を玉砕を以って阻止する。学生隊は国頭に退避して解散せよ」といい、乾パン3日分を支給して転進させた。嘉手納飛行場の敵使用を極力妨害する厳命であったが、効果のない飛行場斬り込みより、敵の北部侵攻を、たとえ一日でも喰い止めることを望んでいた野崎大隊長は、ここを死場所と決めていた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 149-150頁》

 

そのとき、住民は・・・

沖縄島、追い詰められる住民たち

追いつめられた住民は投降する。米軍に追いつめられたから「集団自決」するのではない*1

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Native Okinawans carry their possessions as they come out of their hiding places in the hills and surrender to the Marines.

隠れていた山から所持品を持って出てきて、海兵隊に投降する地元の人々。(1945年4月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄の少年(1945年4月2日撮影)

Native Okinawan boy.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A native mother and child are persuaded to leave their cave hiding place by Marines who had a difficult time convincing them that the Marines would not harm them.

壕から出るよう海兵隊員に説得された親子。海兵隊員は危害を加えないことを納得させるのに苦労した。(1945年4月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦場に取り残される老人

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食糧を与え医療措置を施すため、弱りきった老女を海岸まで運ぶ第1師団の海兵隊員。撤退する日本軍に置いていかれた彼女は壕の中で発見された。(1945年4月2日撮影)

A Marine of the 1st Div carries an old feeble woman civilian to the beach for food and medical aid. She was found in a cave, left there by retreating Japs to die.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/117184.jpg

水陸両用軍用トラックで、楚辺から海岸近くの米海兵隊営倉に送られる沖縄人。(1945年4月2日撮影)

A group of Okinawan civilians from Sobe are taken to a Marine stockade near the beach in a Duck.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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地元民に食べ物を与える海兵隊員(1945年4月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄の少年に配給缶の正しい開け方を教える海兵隊憲兵。年少の者(中央、カメラ正面)は開いた缶の中身に興味があるようだ。開け方を見た後でも、少年らにはこのような[米国では]ありふれた缶を開ける仕組みがわからない。(1945年4月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

チビチリガマの「集団自決」

読谷村波平チビチリガマでは、元兵士が米軍のビラを見るなと破り捨て、元兵士や元従軍看護婦が壕の主導的な立場にいた。

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母親は、海兵隊が住民に危害を加えないことを知り、ようやく、壕内にはまだ病気の子供がいることを告げた。海兵隊は後日、その母親が、自分たちの潜んでいる場所が子供の泣き声で発見されないよう、子供の首を死に至らしめる寸前まで絞めたことを知った。(幸いにも)その子供は生き残った。(1945年4月2日撮影)

After learning that the Marines meant them no harm the native mother finally told them she had still another child who was sick inside the cave. The Marines later learned that she had choked the child almost to death to keep it from crying and disclosing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

7 チビチリガマ

避難民約140人のうち83人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後38年たってからであった。全犠牲者の約6割が18歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。

1995年4月以降は、チビチリガマ内部へ入ることは遺族会の意思により禁止されています。
読谷村史 7 チビチリガマ

米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。… 二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

ガマの途中のくびれたところに布団を重ね火をつけて「自決」を主導したのは、中国従軍の経験がある元兵士だった。彼は「兵隊は捕虜にひどいことをするよ。だから自分で死んだほうがいいよ」と中国での日本軍の残虐行為を持ち出し自決を促した。次いで、従軍看護婦が「軍人はほんとうに残虐な殺し方をするよ。うちは中国でさんざん見ているから、よく知っている」と言って、毒薬を親戚に注射して「自決」を始めた。チビチリガマには米軍上陸直前まで日本軍がいたが、このときにはすでに後退していなかった。元中国従軍兵士と元中国従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割を果たし、「自決」を主導した。ただ彼らが現役の武装した軍人ではなかったこともあって、「自決」のときに「出たい人は出なさい」と言って、外に出ることを許したことが不幸中の幸いだった。ガマに避難していた一三九人のうち「集団自決」で死んだ人は八二人、射殺されたりした人四人、残る五三人は出て助かった。助かった人には小さなこどもを連れた母親が多かった。

林博史「「集団自決」の再検討― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像」

私たち家族がガマを出るきっかけになったのは、私は覚えていないのですが、アメリカ軍が上陸する前に、父がチビチリガマにやってきて、母に言ったそうです。「この戦(いくさ)は必ず負けるから、死ぬことだけはするな。自分は草むらを這ってでも帰ってきて、みんなに会いに来るからな。それまで、何としてでも子ども達を守ってくれ」と父は母に頼んだそうです。母はその時の父との約束を守るため、私たちを連れてガマを出たのです。たぶん、私たち家族が一番最初にガマを出たと思います。けれども、父は母との約束を守ることができず、戦死してしまいました。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

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ガマの奥行きは50メートルほど、入口がたった1つの空間は、当時140人の住民でひしめき合っていたといいます。今もさび付いた包丁や鎌の刃などがそのまま残されています。

沖縄県読谷村 チビチリガマ|NHK 戦争証言アーカイブス

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ここから生き残った何名かが、戦後自殺未まで繰り返した。

読谷村 集団自決を伝える|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

シムクガマ、命を救った言葉

米軍はまず「日本兵はいるか」と尋ねた。日本兵がおらず、本来なら日本兵からスパイ容疑をかけられるかもしれないハワイ帰りの住民の言葉が人々を救った。

アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、アメリカーガー、チュォクルサンドーアメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。

読谷村 8 シムクガマ」

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English speaking native formerly worked in Hawaii.

英語の話せる地元民はかつてハワイで働いた経験がある。(1945年4月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

読谷村波平地区にある鍾乳洞「シムクガマ」です。避難していた人が1000人近くいたことから「1000人壕」とも呼ばれています。ガマの奥行きは2500メートル以上もあります。

沖縄県読谷村 シムクガマ|NHK 戦争証言アーカイブス

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「ここに日本人はいない」 ー 読谷で当時千人ほどが避難していたというシムクガマで、ハワイ移住経験の長かった平三さんと平次さんは、住民を説得し、臆することなく懸命に米兵と交渉。その時の様子を米軍のカメラがとらえていました。米兵がまず聞いた質問は、日本兵はここにいるか、ということでした。

読谷村 シムクガマの記憶|戦世の証言|NHK 戦争証言アーカイブス

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ガマに避難し、沖縄戦を生き抜いた男性の証言です。

沖縄県読谷村 シムクガマ|NHK 戦争証言アーカイブス

RBC 【戦後70年の地平から】「2つのガマから見えるものは」

70年前の4月1日に読谷村一帯から上陸したアメリカ軍は、近くのチビチリガマとシムクガマに隠れていた住民に投降を呼びかけました。しかし、2つのガマの住民の結末は全く違ったものとなりました。今回は読谷村の2つのガマから見えてくるものを考えます。

2つのガマから見えるものは | 琉球放送

 

日本兵と「集団自決」

住民の中にまぎれこんだ日本兵読谷村伊良皆(いらみな) のクニー山壕では3日から「集団自決」がおこる。

米軍が本島に上陸した翌日の20年4月2日、クニー山壕の〝悲劇〟は始まった。壕の中には伊良皆区民を中心に近くの楚辺、大湾の住民らも加わっていた。その住民らの不幸を大きくしたのは、部隊からはぐれた日本兵が2人交じっていたことだ。2日の夕方、クニー山壕も米兵によって発見された。包囲された住民らは、ただ沈黙で時間がたつのを待つだけ。そのうち米兵が中のようすをうかがいに入ってきた。… 壕内の住民は緊張して暗闇に潜んだまま。その時突然だ。日本兵の1人が銃を発射、米兵1人を射殺した。米軍はすぐに退却、その後は重苦しい時間が壕内で過ぎていき、翌朝を迎える。

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 34、34-35頁より》

 

 

与那国島

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与那国島を襲う激しい空襲。与那国国民学校は1945年2月以降、授業ができなくなっていました。しかし4月2日、国民学校の入学式だけは壕で行われました。

65年前のきょうは1945年4月2日 – QAB NEWS Headline

 

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  1. 読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験
  2. 沖縄戦集団自決を伝え残す チビチリガマ博物館1年: 日本経済新聞