〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年4月7日『帝国海軍連合艦隊のさいご』

「大和」の沈没捕虜となった学徒

 

米軍の動向

北進する米軍、名護に到着

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]

『海兵第29連隊は偵察隊や偵察戦車隊の後から、4月7日名護に入った。名護は沖縄島から西方に突き出ている本部半島の深く曲がったところに具合よく位置をしめた中ぐらいの大きさの町だ。部隊の先鋒は本部をまっすぐに縦に切ってそのまま平良へ北上、ほかの部隊は名護から海岸沿いの道路を西方へ安波の方向に出発した。…海兵隊は、やがて本部半島に着いた。』(128頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 128頁より》

『偵察中隊は、4月7日、本部の南部から迂回して西部海岸の道路を伝わって行ったが、橋が破壊されていたため部隊は戦車を降り、徒歩で進撃しなければならなかった。海岸からわずかに離れた海上では5隻のLCIが中隊の進撃に歩調を合わせるように徐行して、陸上の海兵隊に先がけて丘陵地や断崖に砲弾を撃ち込んだ。偵察中隊は、元の南西部の隅を巡り、ついに静かな瀬底島がぐっと近づいたところまで来た。ここで、放棄された塩川村落を偵察したのち引き返したが1発の弾丸も飛んで来なかった。』(129-130頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 129-130頁より》

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Troops of the First Battalion,  22nd Marines, move up to the front over an old stone bridge.

石製の古い橋を渡り前線へ向かう第22海兵師団第1大隊の兵士(1945年4月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本海軍艦艇「大和」を攻撃

大和艦隊の動きは無線傍受で完全に把握されており、実際にすぐに船影が発見される。

『日本の艦隊は4月6日の夜から7日にかけて米海軍に海戦を挑もうと出撃してきた。これを探知した九州沖の一米潜水艦が、日本海軍戦艦の出動を報告するや、第58機動部隊は、4月7日未明、48機を飛ばして長距離偵察飛行を開始させた。

午前8時22分、ついにエセックスから飛びたった1機は、戦艦「大和」をはじめ軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻からなる日本艦隊が、東支那海上を、進路を沖縄に向けて進んでいるのを発見した。

その日の朝、日本艦隊に接近するため、午前4時から舵を東北方にとって行動を開始していた第58機動部隊は、日本艦隊からの距離およそ380キロの地点で艦載機を放った。

日本軍の対空砲火はすさまじかったが、容易に当たらなかった。このはげしい砲火のなかを通って行われた米軍の第1回目の空襲では、少なくとも魚雷8個、爆弾5個が「大和」「矢矧」のほか駆逐艦3隻に命中した。つづく攻撃で、戦艦「大和」が撃沈され、軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦4隻が沈没した。そのほか駆逐艦1隻が大破、1隻が炎上した。』(120-121頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 120-121頁より》

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Operation Ten-Go, Japanese battleship Yamato, April 7, 1945. Japanese battleship Yamato blows up after receiving massive bomb and torpedo damage from U.S. Navy carrier planes, north of Okinawa. Photographed by planes from USS Hornet (CV-12). Three Japanese destroyers are nearby. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

1945年4月7日、日本の戦艦大和、Ten-Go 作戦。日本の戦艦大和は、沖縄北部の米海軍航空母艦から大規模な爆弾と魚雷のダメージを受けた後に爆発する。USSホーネット(CV-12)の飛行機で撮影。3隻の日本駆逐艦が近くに。国立公文書館の公式米国海軍写真。

80-G-320642: Operation Ten-Go, Japanese battleship Yamato, April 7, 1945

『この「大和」攻撃に出動した第58機動部隊の艦載機は、386機のうち、わずか10機を失っただけであった。沖縄の海は、いまやまったく海上からの攻撃に対しては安全になった。』(121頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 121頁より》

 

特攻機対応と被害

『第58機動部隊は、戦艦「大和」を攻撃しながら、一方では、日本機の襲撃に処しなければならなかった。しかし、日中の反撃で日本軍機54機を撃墜することができた。』(121頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 121頁より》

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読谷飛行場に最初に着陸した戦闘飛行中隊の一員である海兵隊員。撃墜された日本軍爆撃機の残骸を眺めている。(1945年4月7日撮影)

These Marines, members of one of the first fighter squadrons to land on Yontan air field on Okinawa, view the wreckage of a Jap bomber, shot up on the ground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『この特攻機の襲撃のさい、1機が高度15メートルから空母ハンコックの甲板に爆弾を投下し、みずからも艦載機の群れのなかに突っこむという被害があった。このため空母ハンコックは大破の損害をうけた。それでも応急修理で、どうやら午後4時半、艦載機が帰艦するまでには着艦できるようになった。』(121-122頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 121-122頁より》

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沖縄侵攻作戦中に、日本軍特攻機による直撃を受けた空母ハンコック(CV-19)。軽巡洋艦パサデナ(CL-65)から撮影。特攻機は、空母の前方部分に激突した後、飛行甲板の全長に沿って滑った。上空に見えるのはTBF機。(1945年4月7日撮影)

The USS HANCOCK (CV-19) hit by Jap suicide plane during Okinawa campaign. Taken by the USS PASADENA (CL-65). Plane hit forward and ran along the entire length of the flight deck. TBF seen in air above the ship.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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慶良間諸島渡嘉敷島の南、水深45メートルの深い海底に横たわる大きな船体があります。直径2メートル以上もある大きな二つのスクリュー。アメリカ海軍の記録と照合すると、この船はアメリカ軍の戦車揚陸艦LST447と見られています。全長100メートル総トン数1650トン。

65年前のきょうは1945年4月8日 – QAB NEWS Headline

 

具志川村平良川の海兵隊指令所 

具志川村 (うるま市) 平良川に海兵隊の司令所 (Command Post) が置かれる。

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 Commanding officers CP in Deragawa.
平良川の司令部にいる部隊長達。(1945年 4月 7日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marines lounge on street corner of Deragawa.

平良川 (具志川)の通りをぶらぶら歩く海兵隊員。 (1945年 4月 7日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Natives walk thru street of Deragawa where Marines are located.
海兵隊の駐屯する平良川の町を行き交う地元の人々 (具志川市 1945年4月 7日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

日本軍 - 戦艦大和の沈没

「菊水第1号」作戦に参加した特攻機は、米機動部隊をとらえて撃滅するだけの五航艦の一部兵力を残した、五航艦、三航艦、十航艦、陸軍六航軍の全力、それに台湾にある一航艦、第八飛行師団の協力部隊を合わせたもの。いい換えれば、海軍には他に航空部隊はないので、海軍航空部隊の全部と、陸軍の九州、台湾所在部隊をあげての総攻撃であった。

米軍が、太平洋方面陸海空兵力と資材の大部分を注ぎこんだ「大集中」で沖縄に攻めかかってきた…それにたいする「バラバラ」日本軍が、ようやく4月も6日すぎ、すでに沖縄に堅個な足場を築いた米軍が総攻撃をかけてきた日、日本海軍の航空部隊と陸軍の一部の航空部隊とが、総力を「結集」することができた。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 170頁より》

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帝国海軍連合艦隊のさいご

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[特集]巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死|NHK 戦争証言アーカイブス

6日午後3時20分海上特攻隊は、徳山沖を出撃した。…海上特攻部隊は、その夜、豊後水道を出たところから、米潜水艦に発見され、あとをつけられた。(182頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 182頁より》 

徳山湾を出撃した第一遊撃部隊は20時20分、豊後水道付近で浮上敵潜水艦を発見、探知する。米潜水艦「ハックルバック」は21時20分、「大和」を確認する。(176頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 176頁より》

7日、朝6時半から10時まで、宇垣長官が見かねて出した5機ないし10機の戦闘機が「大和」の上空を警戒した。(182頁)

7時ころ、心配されていたエンジン故障で、駆逐艦「朝霜」が遅れはじめ、11時ころには視界外に去った。(183頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 182、183頁より》  

8時15分ヘルキャット索敵隊が「大和」発見、「大和」も8時40分、敵機7機を発見するが、本格的空襲にはまだ時間がかかると判断する。

11時35分敵機2編隊以上が70キロ以内に接近したことを探知した。

…機関故障で隊列から遅れていた「朝霜」が12時8分、「艦上機見ユ」「敵機ト交戦中」「三十数機ヲ探知ス」と立て続けに発信した後、消息を絶つ

大和」も12時28分、敵機発見、12時32分に150機を確認、対空砲撃を開始する。12時40分、急降下爆撃機4機が爆弾投下、後部に2発命中、後部指揮所と電探、後部副砲が破壊される。間髪置かず雷跡3本、左舷前部1本命中。

約200機の戦闘機、爆撃機雷撃機が同時に複数方向から「大和」「矢矧」を目がけ、来襲する。この第一波で「矢矧」が航行不能、「濱風」沈没、「冬月」ロケット弾命中、「涼風」火災と、瞬く間に第一遊撃部隊は編成できないほど大損害を受ける。

13時30分、敵機約150機来襲、猛攻を加える。航行不能の「矢矧」は50機から魚雷7本、爆弾12発を受け、沈没する。「磯風」も速力低下する。

操艦不能となった帝国海軍の旗幟である戦艦「大和」に最期が訪れようとしていた。左に大きく傾き、巨大な訓練用標的のごとく波間にただ浮かんでいる。14時2分、爆弾3発命中、17分、魚雷1本が命中した。…14時20分、「大和」はゆっくりと横転する。

昭和20年4月7日14時23分、鹿児島坊ノ岬沖北緯30度22分東経128度4分、前後砲塔が誘爆し大爆発、濛々たる黒煙を上げ真っ二つになり、蒼海に沈んだ。「大和」では戦死2740名、その他の艦船は戦死981名、合わせて3721名が海上特攻作戦に殉じる。帝国海軍の象徴だった「大和沈没で、日清戦争以来の栄えある帝国海軍連合艦隊は事実上全滅した。(176-180頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 176-180頁より》

大和の弾薬庫に引火して爆発

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A mushroom cloud hanging above battleship Yamato's exploding hull, 7 Apr 1945 

[Photo] A mushroom cloud hanging above battleship Yamato's exploding hull, 7 Apr 1945 | World War II Database

7日午後4時40分連合艦隊長官は、海上特攻部隊の突入の中止を命じ、この特攻作戦に終止符を打った。(184頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 184頁より》

沖縄戦を最後の「決戦」と考え、残っていたすべての戦力を投入した日本海軍は、沖縄戦が始まったばかりの4月に、飛行機も軍艦もそのほとんどすべてを失ってしまったのである。(77頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 77頁より》

「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ。

この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった

「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言(栗原 俊雄) | 現代ビジネス | 講談社

恐怖が殺意にかわった瞬間の感覚がずっと体の中に残っている感じがするんです。74年たっても抜けた気がしません

「僕は遺書を書かない」 少年兵の決意|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK

【英語版】

youtu.be

 

孤立する第32軍

『「菊水1号」作戦と海上部隊特攻作戦が、4月6日と7日、つづいて敢行されたが、32軍の総攻撃は、7日から8日に繰り下げられ、…ついで8日に予定された総攻撃を中止したことで、32軍が、いよいよ孤立し、かけがえのない総攻撃の時機を失った』(185-186頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 185-186頁より》

大本営と現地軍の間には、沖縄戦をめぐって最初からくい違いがあった大本営は沖縄に侵攻してくる敵軍を海空軍でもって海上で撃滅する方針であった。しかし、現地軍はサイパンやレイテ島で惨敗して以来、もはや「無敵」海空軍をあてにすることはできなかった。』(49頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 49頁より》

『圧倒的な火力と航空威力をもっている米軍にたいし、32軍が対等に戦う唯一の方法は、洞窟、地下壕戦法である。洞窟、地下壕の厚い、強靭なヨロイを着ているから、艦砲射撃にも砲爆撃にも被害を出さず、進撃してくる強力な敵と戦い得る。もし、この洞窟、地下壕から出て、ハダカで陣前攻撃をしたら、米軍の物量にたちまち圧倒され、死傷者続出する。米軍が進撃をはじめる前には、かならずジュウタン爆撃、ジュウタン射撃を徹底的に繰り返すが、そのジュウタン砲爆撃にやられて、米軍が射程距離内に入ってこない前に、日本軍は全滅してしまわなければならなくなる。常識で考えても、誰にでもわかることではないか。

…「大和」は、「一億総特攻のさきがけとなる」という非常に抽象的な、観念的な合言葉で動き出したが、32軍は、もっともっと具体的な戦果をあげねばならない。』(186頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 186頁より》

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日本軍壕--複数の出入り口がある奥深い日本軍の要塞。海兵隊が地下の砦を発見し、ある入り口を突破したり、武器を破壊した時には、日本軍は他の出口から逃げ出すことができた。

JAP CAVE--The deep fortifications of the enemy on Okinawa included caves with several entrances. When the Marines discovered the subterranean fort and forced one of the entrance or knocked out the weapon the enemy could escape out another exit.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

捕らえられた学徒と引率の教師

小さな学徒隊も捕虜として大人と変わらず捕虜収容所に収容され、背中に大きく PW (prisoner of war 捕虜) と書かれた服を着る。

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憲兵であるジェター一等兵に捕らえられた少年に捕虜用衣類が与えられた。この少年は日本軍に徴用されていた。(1945年4月7日撮影)

A small Okinawan conscripted by the Japs is given P. of W. gear after capture by M.P. Pfc. Paul F. Jeter, 24, (974645) whose wife Erlene, lives at 1804 1/2 Lyons Ave., Houston, Texas.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》Prisoners of war pick up their own gear after same is deloused, to bury they have P of W gear on.
シラミ駆除を受けた後、着ていた軍服を埋めるために拾い上げる捕虜。着ているのは捕虜服。(1945年4月7日撮影)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍の記録によると、4月3日に学生とともに米軍に捕らえられた教師は、当初は学生と共に射殺されることを望んでいたが、すぐに新しい環境に適合し、収容所のパンチョ(班長) となる。

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《AIによるカラー処理》【原文】 ”Pancho” a native Okinawan school teacher, (left) [sic] is pleased with his new Marine dungrees. Beside him is M. P. Corp. John S. Rachunok, 27, husband of Orelle Rachunok of 2527 Webster St., Alexandria, La.
海兵隊員にダンガリーをもらってご機嫌の地元の教師「パンチョ」(右)。隣はラチュノック伍長 (1945年 4月 7日)

軍作業の始まり。米軍から指示された仕事を英語で伝えるパンチョ氏。

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《AIによるカラー処理》【原文】 1st Lt. James W. Brayshay, 20, gives instructions to an Okinawan school teacher whom he nicknamed ”Pancho”. Pancho, a trustee keeps the rest of the prisoners busy. Lt. Brayshay's parents Mr. And Mrs. James E. Brayshay live at 208 E. Magnolia Ave., San Antonio, Texas.
「パンチョ」というあだ名の教師に指示を出すブレイシェイ中尉。まとめ役であるパンチョが(他の人々に指示を伝え)みんなを働かせる
撮影日: 1945年 4月 7日 

 

 

島袋収容所と前原収容所

米軍は民間人収容所に住民を収容した。4月5日に開設された島袋収容所は最初の巨大な収容所となるが、7月12日には他の収容所に移転される。

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島袋収容所

ある女子生徒の体験談:

「当時、沖縄師範女子部本科2年でした。家族をすててでも、ひめゆり部隊に行きたかった。… 軍は「甲戦備」というのを発令し、市民に退去命令を出しました。私たち姉妹は早く両親を失い、祖母に育てられていましたが、「南部へ逃げようか」といいますと、70歳の祖母は、「イクサヤ、ヒータイガスル、ワッターヤ、ヤンバルンカイイカ(戦争は兵隊がするものだ、私たち山原〔沖縄本島北部のこと〕へ行こう」といってききません。

「…学校へ行ってみんなといっしょに南風原陸軍病院へ行かなければと思って、近くの壕に教頭の照屋秀夫先生(のち戦死)をたずね、ひめゆりに参加したいといいました。先生は「家族といっしょに逃げなさい。師範女子部は本科1年と予科3年で看護教育を受けた人に限っている。…無理しないで、落ち着いたらまた連絡しなさい」とおっしゃいました。その夜、祖母、姉と私の3人に親類の4人とで歩いて出発、北中城村島袋をへて具志川村上江洲の親類の家に向かいました。…何かガヤガヤと人の気配がするので、よく見ると村道を米兵100人ぐらいが隊伍を組んで歩いているではありませんか。…米兵の二世通訳が「…きょうからはアメリカ軍がみなさんを守ってあげる」と言っているらしいのですが、こわくて仕方ありません。

祖母は「アメリカーは住民は殺さないらしい。前島の家へ帰ろう。途中で殺されそうになったら、降参すればいい」といい出しました。4月5日か6日のことです。私は生か死かと思いつめていましたから、祖母と大げんかです。祖母は一人でも那覇へ帰るといってがんばります。結局、姉も私も祖母にひきずられるようにして、南をさして歩きました。

…「もうこの辺が最期だね」と話し合っていると、ふもとの墓の中から荷物をかついだ人が10人ほど歩いてくる。かけ寄ると、「私たちはつかまって島袋にいる。許可をもらって荷物をとりに戻ったところですよ」というのです。そこで那覇へ帰るのをあきらめて、いっしょに島袋へ行きました。4月7日か8日と思います。沖縄で最初にできた捕虜収容所の住人になったわけです」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 31-33頁より》

前原収容所

やんばるに疎開した南風原出身の女性:

4月7日、米兵2人が壕入口に銃を構えて立ち、両手あげて早く出るようにとの指示をした。壕の中の大勢の人々がざわめいた。私たちは安全地帯だといってここへ来たのに、島尻の人より先に殺されるのかと悲しい思いで壕を出た。… 通訳の説明では今夜は古知屋内で泊るようにと言われた。しかし私たちは郷里島尻に帰りたくて、母親5人で13人の子どもを連れて金武に向かって歩き出した。陽は暮れるし途中の橋は破壊されて渡るのに怖かった。頭には荷物を乗せて1人はおんぶして1人は手を引いて夜道を歩く気持ちは、なんともみじめなものであった。

子どもたちは疲れて泣きながらも、はぐれまいと砂ぼこりの立つ道をけなげに歩き続けた。往来する米兵は車からお菓子や缶詰、水筒等を投げ与えていた。敵から貰うのかとみじめな思いだったが背に腹は替えられぬと子どもたちに拾わせて持てるだけ貰った。

石川橋も破壊されて渡るのに困難だった。しかも米兵が休憩している中を怖くても通らなければならなかった。けれども米兵たちは子どもの手を取って渡してくれた。敵ながらもその親切さに感心した。栄野比にさしかかった時、米兵に「ここから先は危険だからこの屋敷に入りなさい」と言われて瓦ぶきの大きな家に収容された。屋敷いっぱいに人が集められていた。夕食は握り飯が配られてその家に一泊した。翌日米軍のトラックで美里村桃原へ移動した。』(208頁)

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 208頁より》

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糧食を受け取る収容所の民間人。沖縄にて。(1945年4月7日撮影)

Civilians at concentration center on Okinawa in Ryukyus receiving rations.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

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