〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年4月11日『激しさを増す神風特攻』

津堅島への攻撃 / 特攻 / 斬り込みとタコツボ / 収容所から収容所へ

 

米軍の動向

特攻機対応と被害

日本軍は無血上陸のその日に米軍基地となった読谷と嘉手納の飛行場奪還のため、特攻攻撃を繰り返した。

f:id:neverforget1945:20200310014456p:plain

Jap assign post near Yontan airfield on Okinawa. 読谷飛行場近くの日本軍が掲げた飛行場本部の標識(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本機の大空襲は、4月中、ずっと継続して行われた。彼らは、日中は、第58機動部隊や警備艦隊、それに陸上の対空砲火のおよばない距離にある船団をねらって襲撃してきたが、になると送船団は敵機が近づくと煙幕を張ってかくれたので、読谷、嘉手納両飛行場を主に攻撃し、つぎに渡具知の浜の米軍を攻撃した。この空襲はほとんどが夜であった。午後9時から11時までと、午前2時から4時までのあいだに行われた。日本軍の戦術は巧妙で、時に砲兵が読谷嘉手納、どちらかの飛行場を砲撃して米軍の応酬をその方向にそらしておいて、同時に別の飛行場を空襲するというやり方だった。また場合によっては、日本軍の飛行機は夕暮れ時に、そのまま米軍の飛行機についていき、友軍機と思わせるようなライトをつけたまま飛行場を旋回して、滑走路や貯蔵庫に爆弾を投下したり襲撃したりすることもあった。

4月11日、第58機動部隊は、日本軍の大空襲に対して激しい応戦を展開した。この日、特攻隊4機の攻撃で空母エンタープライズが至近弾をうけて大破し、ついに修理のためにウルシー島へ向けて舵をとらねばならなくなった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 122頁より》

 

神風特攻機の攻撃を受ける米空母エンタープライズ(11 April 1945)

Kamikaze Attacks against USS Enterprise CV-6 11 April 1945 - YouTube

 

北進する米軍 - 本部半島

上陸後、ほとんど無抵抗で北上してきた米軍は、国頭支援(宇土部隊)が立てこもる八重岳などの山岳地帯に接近しつつあった。

f:id:neverforget1945:20210409221613p:plain

f:id:neverforget1945:20200309022013p:plain

Marine Private First Class Vaeth Hewitt, of 615 N.E. Street, Tacoma, Washington, MP, standing guard over streets of Nago, Okinawa. 名護市の街頭で警備にあたる海兵隊憲兵(MP)(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210410010351p:plain
Marines ride through streets of Nago on fire engine that was built in Osaka, Japan. 大阪で製造された消防車で名護の街を走り回る海兵隊員(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

周辺離島 - 津堅島の制圧、伊江島占領計画

津堅島の制圧

津堅島は、勝連半島の南東にある周囲約8kmの小さな島だが、事前偵察で日本軍の要塞の存在が確認されたため、4月10日、米軍が日本軍陣地の裏側から上陸、11日、これを陥落させる。

反撃は最初は非常に激しかったが、抵抗は次第に弱まった。15時30分までには日本軍の組織的抵抗は終了。… 激烈な戦闘にもかかわらず大隊が早期に撤退したために僅かながら日本軍兵士で生き残った者がいて、本島の本隊への合流を試みた。1日半の戦闘でデグロフ少佐の大隊は11名を失い、80名が負傷し、3名が行方不明となった。推定で約234人の日本兵が殺害され、敵施設はすべて破壊された。捕虜は一人もいなかった。

Chapter 06 | Our World War II Veterans

海兵隊はその後も残存兵を掃討する目的で数回にわたって島に上陸、4月24日には防衛隊員や看護要員となっていた島の若者も多く犠牲になった。

 

伊江島占領の命令

伊江島には日本軍が東洋一と誇った陸軍伊江島飛行場が建設されていた。

f:id:neverforget1945:20210410011248p:plain

伊江島の空中写真。(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

北部作戦が計画どおり展開されたので、4月11日、第10軍は…「4月16日に伊江島を占領せよ」との命令を第77師団に下した。この作戦のおもな狙いは、沖縄攻撃を支援する一方、日本本土攻撃にも備えて、そこにある飛行場を奪取することにあった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 140頁より》

 

南進する米軍

首里の攻防第1線 (4月8日-23日) 宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶

南進する米軍は日本軍の反斜面陣地第一線にはまり込んだ。

アメリカ軍は嘉数の荒れたサンゴの頂上を掘ることができず、そのためあらゆる角度から狙いを定めたライフル銃の砲撃と破片にさらされた。

The Invasion of Okinawa: Meatgrinder at Kakazu Ridge | The National WWII Museum

米軍の前方では、しだいに地形が悪くなり、3師団ともこれに直面せざるを得なかった。第27師団の進むところには右側に牧港の入江があり、中央には小川があり、その周辺には低地帯になっている水田があった。この水田地帯は周囲が高く、まんなかがくぼんでいて、ちょうど鉢のようになっていたので、米軍はあとでここを〝爆鳴弾鉢〟と名づけた。その左手には嘉数の丘陵地帯や村落がひかえていた。

第96師団の方はどうかというと、ここ西原付近には丘陵がるいるいとそびえ、墓があって、あまり目立ちはしないが、すべてが堅個な陣地として構築されているばかりか断崖絶壁の棚原高地に直面しなければならなかった。また、第7師団の正面では、頑強な178高地と和宇慶村落が米軍の前進をはばんでいた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 183頁より》

嘉数(かかず)

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p122.jpg

嘉数高地と西部嘉数の中間にある峡谷(鞍部から撮影)

KAKAZU GORGE from the saddle between Kakazu Ridge and Kakazu West, giving an idea of its depth. Path shown was used by the 381st Infantry, 96th Division, to reach Kakazu hills. (Photo taken some time after action.) 嘉数高地と嘉数西のあいだの尾根からの嘉数渓谷。その渓谷の段差が見て取れる。見えている小道は、嘉数高地に到達するために第381歩兵第96師団によって使用された。(作戦後しばらくして撮影された写真。)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

嘉数高地を奪取すべき連隊命令を受けた第381連隊第1大隊は、4月11日午前7時、鞍部を越えて攻撃前進した。…

攻撃部隊が約150ヤード前進すると、嘉数高地頂上と反対斜面から、迫撃砲および機銃の猛火を受けた。当時まだ敵の手中にあった西部嘉数の敵斜面からさえ、激しい敵火を蒙った。ステアー中佐が判断するには、諸隊の攻撃続行は、西部嘉数北端を占領している第381連隊の第2大隊の攻撃によって、西部嘉数南部にかじりついている日本軍を攻撃する以外に途はないと。彼は、猛火を冒して第2大隊指揮所に至り、グレービル中佐と、この攻撃について議した。まさに攻撃を起こそうとしたとき、日本軍は西部嘉数に逆襲して来た。グレービル中佐の部下は、その位置を保持するに汲々たるありさまであった。ステアー中佐は嘉数高地に対する攻撃を中止し、傷者を煙幕下に撤収するよう命じた。嘉数高地北西斜面の両大隊は、旧位置に後退した。敵は再度嘉数の主要陣地を奪回した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 183頁より》

 

第32軍の動向

日本軍 - 特攻への傾斜

陸海軍の足並みが揃わぬまま米軍の上陸と読谷・嘉手納の占領を許した日本具は、4月6日からの特攻作戦に望みをかけた。第一次航空総攻撃 (菊水一号作戦 4月6日-11日) では九州と台湾の航空基地からとびたった乗員341名が戦死した*1

菊水作戦: 1945年4-6月にかけ、日本軍が沖縄周辺で実施した特攻作戦。九州に拠点を置く第1機動基地航空部隊傘下の第3, 5, 10航空艦隊を主体に、4月6日~6月22日までの間、10回にわたって繰り広げられた。特攻は作戦終了後も散発的に続き、出撃した特攻機1800機を超え、乗員約3千人が戦死している。米軍側も艦船36隻が沈没し368隻が損傷を受けるなどした。

キーワード沖縄戦(57)菊水作戦 | 沖縄タイムス

11日、春の日はうららかに晴れ、沖縄周辺の天候も回復した。基地航空部隊は、まず機動部隊狩りに出かけた。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 201頁より》

この日の結果は、米海軍省の発表では、戦艦「ミズーリ」、空母「エンタプライズ」、同「エセックス」、駆逐艦6隻が損傷を受けた。ミズーリには、特攻機1機が左舷後甲板に突入。甲板を貫いて爆発。火災が起こったが、間もなく鎮火した。「エンタプライズ」には、左に回避運動をしている最中、左舷に突入、40ミリ対空機銃台に撃突した。抱いていた爆弾だけが離れて海中に落ち、空母の艦底付近で爆発。小破。もう1機は右艦首の直下に撃突、猛烈なショック・ウェーブを起し、大きな損害を与えた。撃突した飛行機の破片が、生きもののように飛んで、右カタパルトの上の飛行機が燃えはじめ、あわてて射出したからよかったが、結局「エンタプライズ」は、それから48時間、戦闘に参加できなかった。一方、エセックスを襲った1機の爆弾は至近弾となり、ガソリン・タンクと艦内機械工場に大損害を与えた。駆逐艦1隻が、気息えんえんの状態で、それでも突入した特攻機をハラの中に抱いたまま、ウルシーまで自力で帰った。撃沈されたものは、11日にはいなかった

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 201-202頁より》

f:id:neverforget1945:20200409165325p:plain

Japanese plane under attack by anti-aircraft fire from ships of US Pacific Task Force 58.4 which were attacked by it. As seen from USS INTREPID (CV-11). AA fire on attacking Jap plane. 日本軍戦闘機が、第58.4太平洋方面機動部隊の艦船から反撃の対空砲火を受けている様子。空母イントレピッド(CV-11)から撮影。日本軍戦闘機への対空砲火。(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200310014757p:plain

Jap plane spiraling down to crash explodes on hitting the water; taken from the USS NEW JERSEY (BB-62) off Okinawa, Ryukyu Islands. 錐もみ降下しながら墜落する日本軍機が、水面に衝突して爆発するところ。戦艦ニュージャージー(BB-62)から撮影。沖縄本島近海にて。(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200409165541p:plain

Jap plane hits the water near a destroyer on the Coast of the Ryukyus with a splash after being hit by the USS BUNKERHILL (CV-17). 空母バンカー・ヒル (CV-17)の攻撃を受け、駆逐艦近くに墜落し水しぶきをあげる日本軍機。琉球列島沿岸にて。(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦艦ミズーリは右舷甲板に突入した建武特攻機による爆発炎上を速やかに消火、その後、艦上の特攻隊員の遺体の名誉水葬を行った。

f:id:neverforget1945:20200411095811p:plain
Jap suicide plane attacking the USS MISSOURI (BB-63) somewhere in the Pacific. 太平洋上で、戦艦ミズーリ(BB-63)を攻撃する日本軍特攻機(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

This photo shows the American burial detail for Kamikaze pilot Setsuo Ishino aboard the USS Missouri. (Special Photo) この写真は、USSミズーリの艦上に特攻攻撃したパイロット石野節夫の米軍による水葬の詳細を示しています。

Battleship Missouri: An Illustrated History

 

嘉数の戦い - 斬り込みとタコツボ

中部戦線 - 嘉数(かかず)

11日は、米軍の無二無三の攻撃が、嘉数でつづいた。高地西側に足場を築いた米軍は、なんとかして高地の南側に廻ろうとし、一方、北側の米部隊も勢いを増して、高地の頂上近くまで強引に押してきた。一時は、あわやと手に汗握らせたが、夕方までには、逆襲によって米軍を押し戻し、高地を確保することができた。この状態は、12日にも続いた。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 208頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/118374.jpg

Jap soldiers killed after they crept up to Marine positions on Okinawa in a night infiltration attempt. 海兵隊陣地に夜間侵入を試みて殺された日本兵(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

独立歩兵第13大隊(隊長原宗辰大佐)- 日本兵の証言: 嘉数高地

「われわれの大隊は1200人ぐらいだと思うが、4月下旬嘉数を後退するときに100人いたかどうかわからない。われわれの機関銃中隊というのは1個小隊に2銃ずつで全部で8銃です。弾薬は10箱しかなかった。3月22、23日ごろから敵の空襲が本格化すると不安はつのるばかりです。機関銃で2連60発ぐらい撃つと、迫撃砲の集中攻撃をかけてくる。何しろ敵は上空から飛行機でこちらの射撃状況や、自軍(米軍)の着弾状況を逐次キャッチしては連絡するんだから話にならない。銃砲撃戦ではかなわないから、手榴弾の肉薄攻撃、夜襲をかける。敵は電線をはりめぐらせて対応する。こちらは感電することもある。夜間敵のキャンプに接近し、手榴弾を投げつけると、米軍はそのへんをあたりかまわず反撃してくるんです。毎夜こうした斬込隊を送るが、10人のうち生還するのは1人か2人でした。

‥ このためタコツボ作戦をとった。人がすわるとちょうど頭が出るくらいの穴を掘り、この中に斬込隊をしのばせる。ダイナマイト10個を箱につめた急造爆雷をかかえ、敵の戦車に投げつける。距離数メートル。2、3秒で爆発するから、こっちもまず助からない。こうして嘉数、大謝名で敵の戦車17台をひっくりかえした。あのころはまだ負けるなどということは考えもしなかった。わが軍の士気というものはあのころまでではなかったか。… 普通は戦車を先頭にして前進、そのあとを歩兵がくるんですが、敵は作戦をかえた。歩兵を前に出して、タコツボの日本兵を殺してから戦車をくり出すようになった。こうなってはタコツボ作戦も効果なしです。見つかったらまず芋ざしにやられます」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 84-85頁より》

第382歩兵連隊E中隊が沖縄本島南部戦線で敵の激しい砲火の中を前進する。慎重に前進する歩兵を戦車が支援する。

The Invasion of Okinawa: Meatgrinder at Kakazu Ridge | The National WWII Museum

 

そのとき、住民は・・・

島袋と勝連半島の民間人収容所

米軍の基地建設の都合で、住民は収容所を転々と移動させられる。読谷・北谷の西海岸が基地化されると住民は島袋など東側に移住させられ、また泡瀬や島袋が基地化されると、北部に移住させられる、といった具合である。砂辺の臨時収容所から島袋収容所への強制移動は4月5日に始まった。

f:id:neverforget1945:20210410001112p:plain

北谷臨時収容所: 北谷村桑江の桑江駅付近にあった製糖工場の倉庫前でコメの配給を受けている住民。

f:id:neverforget1945:20200311025013p:plain

Natives getting tickets for rice rationed to them in the village of Keu. 米の配給券を手にした地元民が配給を受ける。桑江にて(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

収容所から収容所へ: 徒歩やトラックでの移動

f:id:neverforget1945:20210410021400p:plain

The evacuation of the Okinawan people to a rehabilitation center. 収容所へ移動する沖縄の人々(1945年4月11日撮影)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

前原収容所: 勝連半島へ徒歩で移動

またこの日、徒歩で勝連半島に移動させられている住民の姿が多く記録されている。

f:id:neverforget1945:20210410022314p:plain

《AIによるカラー処理》米国海兵隊 The evacuation of the Okinawan people to a rehabilitation center.
収容所へ移動する沖縄の人々 1945年4月11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

母親を探して泣き叫ぶ子ども。

米国海兵隊: A baby bawling for his mother being helped off an Army truck by John W. D'Antuono Sl/c USNR.【和訳】 母親を探して泣き叫ぶ子供をトラックから降ろすダントーノSl/c  1945年 4月11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■