〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月29日 『敵がきた!敵がきた!』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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《AIによるカラー処理》海軍作戦基地を訪れる海軍のヘンゼル次官補とマッキンタイヤー中将。読谷飛行場に到着したヘンゼル次官補とマッキンタイヤー中将を出迎えるプライス少将。(1945年7月29日撮影)

Asst. Sec. Nav. H. Struve Hensel and V. Adm. Ross T. McIntyre visit NOB, Okinawa. Arriving at Yontan Airfield, Mr. Hensel and V. Adm. McIntyre are welcomed by R. Adm. John D. Price.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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海軍作戦基地を訪れる海軍のヘンゼル次官補とマッキンタイヤー中将。海軍作戦基地での新たな建設の詳細について、指差しで説明するプライス少将。プライス少将の右から、ヘンゼル次官補、マッキンタイヤー中将、ヌーバー少将。(1945年7月29日撮影)

Asst. Sec. Nav. H. Struve Hensel and V. Adm. Ross T. McIntyre visit NOB, Okinawa. R. Adm. John D. Price points out details of new construction at NOB, Okinawa to Asst. Sec. Nav. H. Struve Hensel, second from right, V. Adm. R. T. McIntyre, left and R. Adm H. D. Nuber.

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《AIによるカラー処理》海軍作戦基地を訪れる海軍のヘンゼル次官補とマッキンタイヤー中将。ヘンゼル次官補が、伊江島での海軍基地開発計画について話しているところ。この基地から日本に大打撃を与える予定である。左から、クーパー中佐(カメラに背をむけている)、プライス少将、マックラング少佐、ヌーバー少将、ヘンゼル次官補、オーバーフェルト大佐。(1945年7月29日撮影)

Asst. Sec. Nav. H. Struve Hensel and V. Adm. Ross T. McIntyre visit NOB, Okinawa. Asst. Sec. Nav. Hensel discusses plans for development of this island as naval base from which to deliver knockout blow to Japan. L to R: Cdr. H. L. Cooper, (back to camera), R. Adm. John D. Price, Lt. Cdr. R. S. McClung, R. Adm. H. D. Nuber, Asst. Sec. Nav. Hensel and Capt F. D. Overfelt.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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倉庫が出来るまで一時的に屋外に並べられている第59空軍所属航空機用エンジン。沖縄。(1945年7月29日撮影)

Aircraft engines belonging to the 59th Air Service Group were temporarily placed out in the open until warehouses could be built in which to store them. Okinawa, Ryukyu Retto.

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日本本土の空爆

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《AIによるカラー処理》九州上空での任務へ向かう第7空軍第11爆撃群のコンソリデーテッドB-24リベレーター。沖縄。(1945年7月29日撮影)

7th Air Force Consolidated B-24 ”Liberator” of the 11th Bomb Group, enroute to bombing mission over Kyushu, Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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九州での空襲を終えたノースアメリカンB-25ミッチェルに砲弾を再装填する第41爆撃群第396爆撃中隊兵器係。沖縄。(1945年7月29日撮影)

Armament personnel reloading guns of a North American B-25 ”Mitchell” after air strike over Kyushu, Japan. 396th Bomb Squadron, 41st Bomb Group. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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九州での写真撮影任務完了後、読谷飛行場へ着陸態勢に入る第28上空写真偵察中隊ロッキードP-38ライトニング。(1945年7月29日撮影)

Lockhead P-38 ”Lightning”, 28th Photo Reconnaissance, preparing to land on Yontan Airstrip, after completing a photo mission somewhere over Kyushu, Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍の動向

宮古島から特攻 - 第三龍虎隊「赤とんぼ特攻隊」

神風特別攻撃隊龍虎隊(赤とんぼ特攻隊)の第1次(1945年5月)第2次(同年6月)それぞれ8機は、天候不良でほとんどが与那国島に不時着して大破。攻撃は中止された。

戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 4 | 長崎新聞

この特攻は、敵が本土に上陸する場合、敵上陸揚舟艇が海岸目がけて発進し、海岸から100ないし150メートルのところで、海面すれすれに飛んでいって突っ込む、いわゆる「カミツキ特攻」用にするのである。もはや自暴自棄の戦術でしかない。…(中略)…

第1陣は正式に「神風特別攻撃隊第3竜虎隊」と命名、8人の特攻隊員が選ばれた。ほとんどが予科練出身者だったが、養成所出身の三村弘(福山13期)も含まれていた。彼らは中練に250キロ爆弾を抱え、7月29日、沖縄近海の敵艦船へ特攻攻撃をおこなった。成果は駆逐艦「キャラバン」撃沈だったが、これは奇跡に近く、7機が未帰還となった。

WEB版「航空と文化」 - 航空機乗員養成所物語(24) - 「赤とんぼ」特攻の悲劇 徳田 忠成

『…1945年の6月下旬、台湾の虎尾基地で編成された第三龍虎隊。九三中練と呼ばれた小さな練習機に可能な限りの爆弾を積んで、最後の特攻攻撃をするための部隊でした。

部隊は一度宮古島に移動し、28日の夜に7機が出撃。沖縄近海でアメリカ軍の駆逐艦キャラハンに特攻攻撃を行いました。』

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アメリカ海軍の資料によると29日午前0時30分ごろ、特攻機は船の右舷に突っ込み爆発。後部の機械室などが破壊されたほか、機雷が爆発し、駆逐艦は2時間後の午前2時35分に沈没。アメリカ兵47人が死亡、73人が負傷しました。キャラハンは第二次大戦で神風特攻隊が撃沈させた最後の艦船でした。』

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月29日(日)

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沖縄戦の絵】「特攻機に拍手」

金武町の収容所の高台から特攻機を見ていた光景。昭和20年の7月から8月ごろ、同じ年ごろの子どもたちと遊んでいた時、ふと金武湾を見渡すと、日本軍の特攻機が米軍の艦船に突っ込んでいくのが見えた海上から火柱が上がり、…子どもは「命中だ!」と手をたたいて喜んだという。「日本軍はまだ頑張っているんだ」と、捕虜になっても戦争に負けるとは考えなかった。…はしゃぎようを見て、軍用車に乗って見回りに来ていた米兵は怒っていたという。 』

特攻機に拍手 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

第32軍の敗残兵 -「寝台の下から敵がきた!」

国吉: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

ある日の昼間飛行機の爆音が友軍機に似ている、と皆が言いだした。あるいは制空権を一時的にでも日本軍が回復したのではないか。伊東は昼間、斥候を出して調査したが、すべて敵機だった。そして壕の外は米兵がうようよしていた。もう駄目だと思いながらも、心のどこかで何かの奇跡を願う、妄想にも似た気持ちを誰もが持っていた。

壕の近くにいた兵が、突然叫び声をあげながら小銃を発射した

敵がきた!敵がきた!俺の後ろにいる。寝台の下から敵がきた!

その喚き声に、伊東もまた本当に敵が侵入してきているのではと錯覚しそうになった

この兵は、日々の恐怖が高じて精神錯乱を起こしたのだった。伊東は、彼の小銃と手榴弾を取り上げ、戦闘の影響が少ない壕の奥へと追いやった。

彼は手榴弾を返してくれと何度も副官に申し出ていた。自決のため、誰もが1、2発の手榴弾を肌身離さず持っている。この兵も最後の手榴弾を手放したくなかったのだろう。ときに正気で、ときに錯乱していた。』(263頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 263頁より》

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Asst. Sec. Nav. Hensel inspects sword of Jap officer killed previous night by Merle Roppe BM2/c. L to R: Cdr. Russell Kessel, Ens. C. E. Jackson, Roppe, Cdr. H. D. Nuber and Asst. Sec. Hensel.
ヘンゼル次官補が日本人士官の刀をつぶさに見ている様子。日本人士官は、ロッペ掌帆員によって前の晩に殺された。右から、ケッセル中佐、ジャクソン少尉、ロッペ掌帆員、ヌーバー中佐、ヘンゼル次官補。 撮影日: 1945年 7月 29日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

チフス

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地元看護要員と海軍衛生兵が、腸チフスの予防接種を行っている様子。沖縄本島にて。(1945年7月29日撮影)

Native nurses and Navy corpsman administering typhoid shots on Okinawa.

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その日(4月中旬頃)に私は「捕虜」になりました。「捕虜」になってから、最初に座波嘉数という所に連れて行かれました。そして、その日、夜の十時頃から、宜野湾の野高の方へ移動させられました。野高の捕虜収容所は、テントの木の葉を敷いただけの簡素なものでした。それに、そこは水もなく不潔な生活をしていたので、盛数がチフスに感染してしまい随分苦労しました。また、ここでの生活で一番恐かったことは、そこの収容所には沖縄人の班長がいて、その班長に虐待されたことです。その班長は、皆から恨まれていて、私も、あまりの憎さに殺してやりたいと思った程です。

その後、野高の収容所は水がないということで、私達は山原の方へ移動させられました。その頃、夫は捕虜となってハワイに連れて行かれていたので、生きているのか死んでいるのかということもわからず消息は全然つかめませんでした。

沖縄戦証言 首里 (1) - Battle of Okinawa

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袋に入った米を運ぶ少年。沖縄本島にて。カートに載せて運ぶ様子。(1945年7月29日撮影)

Boys carrying bags of rice on Okinawa. On a cart.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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袋に入った米を倉庫に納めている地元民。沖縄本島にて。(1945年7月29日撮影)

Natives storing bags of rice on Okinawa.

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北部の収容所 - 大浦崎収容所

当時本部半島では、住民収容キャンプは作らずに焼け残った部落にそれぞれ住民を居住させて代表者をおき、毎週一回本部(もとぶ)町浦崎(二九九頁地図参照)の事務所で「メイヤー会議」を開いて連絡を取っていたという(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』六七頁)。六月になって本部半島に本部(桃原)飛行場の建設が開始されると、本部半島の住民を太平洋岸に面する久志村の辺野古崎(後に「大浦崎」と呼ばれる)に移動させた。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

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Town hall meeting in progress at Hinoko [Henoko], Okinawa. U. R. Marxmiller, CM2/c, Lt. PM Denning and Lt. Cdr. R. C. Brinker.
対話集会が行われている様子。沖縄本島辺野古にて。写真に写っているのは、マークスミラー1等船匠手、デニング大尉、ブリンカー少佐。
撮影地: 辺野古 (1945年7月 29日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

厳しい表情で「対話集会」にのぞむ住民たち

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《AIによるカラー処理》対話集会が行われている様子。沖縄本島辺野古にて。(1945年7月29日撮影)

Town hall meeting in progress at Hinoko [Henoko], Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

瀬嵩を中心とした大浦湾一帯の難民の数は毎日のようにふえました。南部の戦争は7月には実質的に終わっていましたが、生き残った住民はいくつかの収容所を経て、汀間・瀬嵩・大浦・二見などの瀬嵩地区にどんどん送りこまれてきました。いままでの部落は、それぞれ汀間市・瀬嵩市・大浦市・二見市などと呼ばれました。この地区には、なんと中南部の30余の市町村民が収容され、瀬嵩市那覇村、瀬嵩市具志川村などというものもできました。』(71-72頁)

《「島マスのがんばり人生  基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 71-72頁より》

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嘉陽の村長、彼の秘書兼通訳そして地元民数名。沖縄本島にて。(1945年7月29日撮影)

The mayor of Kayo, Okinawa, his secretary interpreter and several natives.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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地元の食料配給所沖縄本島の嘉陽にて。年配の男性が、各個人に配給される米と油の量を書き留めている様子。(1945年7月29日撮影)

Local ration board at Kayo, Okinawa. The old man is marking down the amount of rice and oil given to each person.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

山城さん一家は3月下旬~4月上旬ごろに米軍の空襲が激しくなった伊江島を舟で逃れ、対岸の今帰仁村の洞穴を転々としているうちに捕虜になった。収容所の環境は過酷で、米軍の食糧配給はわずか。大人たちはひそかに山を越えて畑に残った芋を探し、5歳だった山城さんの腹は栄養失調で膨れあがった。

 幼い記憶に、外で空き缶をたたいて大声で叫んでいる人のことが強く残っている。父に理由を尋ねると「戦争で狂ったんだ」と言われた。「木に首をつって死んでいた」「マラリアで亡くなった」。そんな話も度々耳にした。「収容所で多くの人が亡くなり、山に埋められたはずだ」

 収容所の閉鎖後、米軍は撤退し、周辺は地元の耕作地となった。だが、55年に米軍は当時の久志(くし)村に一帯の土地接収を通告。村は使用契約を結ばざるをえず、59年にキャンプ・シュワブが完成した。

 沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集を続ける那覇市の具志堅隆松さん(65)は2013年ごろから、県や在日米大使館にシュワブ内での遺骨調査を求めてきた。「大浦崎収容所で埋葬された人の遺骨は、今も大半が残っている可能性が高い」

戦世そして 沖縄戦74年:基地あるゆえのリスク今も シュワブに眠る哀しみ 伝え続けるウチナーンチュたち - 毎日新聞

 

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  1. 大浦湾一帯の収容所 ~ マラリアと飢餓と一面の墓標 - 米海兵隊公式 HP がキャンプシュワブの沿革から大浦崎収容所を削除の件 - Battle of Okinawa

  2. 辺野古、今も放置されたまま調査も許されぬ犠牲者の遺骨の上にさらに軍事基地を作るという醜業 - Osprey Fuan Club

  3. キャンプシュワブ内の遺骨調査を求めて 具志堅隆松さんらの訴え
  4. 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 辺野古大浦崎収容所で生まれた医師 – QAB NEWS Headline

 

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