米軍の動向
北進する米軍 - 本部半島・八重岳の攻略
沖縄本島北部の田舎の風景。名護の潜水艦待避所を見渡せる丘からの眺め。(1945年4月15日撮影)
Countryside of northern Okinawa in Ryukyus. From hill overlooking submarine pens above Nago.
『海兵隊は堅固な陣地のある小島での戦闘には慣れていた。だが、沖縄での戦闘は過去の経験からではなく、それこそ「教科書のなかからそのまま抜き出した」演習のような戦術を使用しなければならなくなったのである。こうした演習のような戦術をくりかえして、4月15日、海兵隊はついに最後の攻撃を試みるにいたった。
これと同じ日に、海兵第29連隊の第3大隊は、八重岳の西方、山の峰を越えてすぐ真下にある米軍前線の左翼(北)から東部の日本軍を攻撃した。
一中隊がその場に残留する間に他の部隊は山をぐるっと迂回し、第3中隊の小銃や機関銃の掩護射撃に守られながら攻撃して行った。ここで激しい肉弾戦がくりかえされたが、海兵隊はついにこの山の稜線を奪いとったのだ。
この前線中央部では、海兵第4連隊の第2大隊が、八重岳のちょうど西側にあるもう一つの丘を攻撃した。一中隊が一つの峰を占領したかと思ったら奪いかえされ、はげしい攻防戦がくりかえされた。しかし、この攻防戦のおかげで、右翼(南側)を攻めた第一大隊の進撃は大いに救われた。4月15日の夕暮れまでに、第一大隊は、八重岳に面してうねりくねった山の稜線に沿って塹壕をめぐらすことができたのだ。その左翼後方(北西部)には、シャプレイ大佐の他の大隊がいるのだ。米軍がしだいにその包囲網をせばめて行くにつれ、日本軍はだんだん八重岳の頂上の方に追いつめられていった。(134-135頁)
洞窟内に潜む日本兵を探す米軍兵
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]
周辺離島の制圧 - 伊江島上陸前夜
『15日には、第305、第902、第306の各野砲大隊が、水納島に陣地を敷き、伊江島作戦にそなえた。各大隊ともいち早く基地を選定し、攻撃目標にねらいをつけた。水納島占領後2、3時間でつくった急ごしらえの飛行場から小型飛行機3機が飛び、砲兵大隊の目標選定の連絡をとった。だが、米軍砲兵隊は、翌日の攻撃開始時間までは、予備攻撃もなにもしなかった。』(147頁)
伊江島上陸前日の1945年4月15日、伊江島に壊滅的打撃を与えた海軍の艦砲射撃。
Devastating effects of naval bombardment on Ie Shima, Nansei Shoto, 15 April 1945, L-1 Day.
日系アメリカ人の陸軍通訳官
日系アメリカ人の陸軍通訳官が、沖縄本島で日本兵捕虜を尋問しているところ。(1945年4月15日撮影)
A Japanese-American army interpreter interrogating Jap prisoners on Okinawa in Ryukyus.
米国立公文書館には、沖縄戦捕虜尋問調書 850 人分ほどが保存されている。戦争に関わる当時の国際法では、捕虜は保護されるべき対象であり、氏名、階級、認識番号等最小限のことだけを述べればいいことになっていた。ところが沖縄戦捕虜の場合、軍歴は言うにおよばず、戦争全般について多くを語っているのが特徴的である。
死から生へと帰還できた捕虜たちは、米軍尋問官に対して戦場下での体験を肉声でもって述べている。捕虜たちは、それまで内に秘めていた感情を一挙に放出すかのように語り、調書に書かれた字面は戦場のうめきや吐息のように見える。その時、誰も尋問調書が公開されるなど考え及ばなかったであろう。
《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言下: 針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 2015年》
米軍は民間人のなかに紛れこんでいる兵士を徹底的な尋問をおこなって割りだしていった。そのために日本語の通訳官だけではなく、沖縄語ができる通訳官が不可欠だった。沖縄語は民間人に紛れ込む兵士を割りだす試し言葉 (シボレス) となった。
A Navy Yeoman taking down name and ages of Okinawan men who were being interviewed by a Japanese Interpreter at new stockade for men (17-47). The number that is on the rolls.
通訳を介して、地元の男性の名前と年齢を書き取る海軍下士官 (1945年 4月15日〜16日)
沖縄の防衛隊員や朝鮮人軍夫、また十代半ばの学徒兵もまた捕虜として捕虜収容所に収容された。捕虜には軍作業が課せられた。
沖縄の人々は名前、年齢、身元確認をしてグループに分けられる。17歳から47歳の男性は営倉にとどまり、労役に従事する。他は家族のもとに帰る(1945年4月15日撮影)
Okinawans being classified in order to get their names, ages and who their family is. The one between ages 17-47 will be kept in a stockade for labor and the rest go back to their families.
日本軍の動向
航空特攻「菊水作戦・3号」発動 - 沈まぬ敵艦
日本軍機の猛爆撃で上がる炎。(1945年4月15日撮影)
Fire started by strafing from Jap plane.
4月15日になると、増槽をつけた米戦闘機80機あまりが、午後、鹿屋と鹿児島に来襲。翼の下に増槽をつけていることから、沖縄基地から飛びこんできたことがわかり、こうなるといつ、どんな形で奇襲を受けるか、油断もスキもならなくなった。
この米戦闘機が引揚げるのを追跡するという形で、「菊水3号」作戦がはじまった。
「菊水2号」作戦のとき、米軍のレーダー・ピケット艦、陸上レーダー基地、攻撃基地が整備してきたため、味方攻撃機は、目標に到達する相当前のところで、待機しているグラマンに食われた。そこで「菊水3号」では、前の日の夕方、特攻隊を出して、まず飛行基地を制圧、これを使えないようにし、作戦当日には、味方の使える戦闘機を一回に集中使用し、戦場の制空権をとって、そこに特攻部隊を進入させる、という方法にかえた。
この日の作戦機数は、海軍が415(内特攻176)機、未帰還127(内特攻106)機。陸軍92(内特攻51)機。陸海を合わせると、作戦機数507(内特攻224)機。
しかし、507機も作戦させたにしては、成果はそれほど挙がらなかった。特攻機によって駆逐艦1隻を撃沈し、空母「イントレピッド」、戦艦「ミズーリ」、その他駆逐艦・掃海艇5隻を損傷させたにとどまった。米軍の特攻機対策が、レーダーと戦闘機の緊密な協同によって、日一日と完成されていることを証拠立てていた。それと反対に、味方航空部隊の側では、依然として戦局に追い立てられ、搭乗員の技倆はジリジリと落ちていき、かつ機材の性能も悪くなった。練習機まで特攻機として出ていた。グラマンにとっては、赤子の手をねじるようなものであった。
恩納岳にいた日本兵の証言:
12日から15、16日にかけて空の特攻はなおつづいた。恩納岳からみる海上はるか、早朝、薄暮を利用して敵の艦船部隊に対して突入してゆくわが軍の特攻機の姿がみえた。九州の方から編隊をくんで、海面近く突入してくる日本軍の飛行機はあまりに小さく可憐であった。それが、脚の間にばかでかい爆弾を抱いて、ちょうど蜜蜂が体の半分もある花蜜を脚につけて、ようやく自分の巣にたどりつくように彼らは敵艦の上に次々に吸いこまれていった。大きな火柱があがると、われわれは「フーッ」と溜息をつき、頭を垂れて冥福を祈ったが、しかし敵は巨大な艦隊であった。突っ込んでも、突っ込んでも、沈めても、沈めてもなお敵艦は健在であった。
Salvage work on USS NEW-COMB (DD-586) after approximately one week of work cutting away wreckage caused by Jap dive bomber while the ship was tied up alongside a salvage line in Kerama Retto, Ryukyus. Starboard side showing damage done to No. 2 boiler room.
駆逐艦ニューカム(DD-586)上での復旧作業の様子。慶良間列島で、復旧作業線に沿って係留中。本作業は、日本軍の急降下爆撃による損壊部分の切断作業から、約1週間後に実施。右舷にある第2ボイラー室の被害状況。1945年 4月15日
第32軍の動向
沖縄本島での戦闘における日本軍の犠牲者。1945年4月15日。
Enemy casualty of battle on Okinawa in Ryukyus. 15 April 1945.
本部半島 - 宇土部隊 (国頭支隊)、多野岳へ後退
本部(もとぶ)半島: 八重岳(国頭支隊・宇土大佐)
宇土部隊長はついに八重岳を放棄し、4月15日の夜、山本中尉、態田(正行)副官などを率いて多野岳へ後退した。
…宇土隊長の一行は、激しい砲撃下を暗夜をついて嵐山稜線を越え、翌16日の午前3時ごろ、羽地村我部祖河の武田薬草園近くまできた。一行がその前線を突破しようとしたとき、突然激しい十字砲火に襲われて支離滅裂となり、ほとんど全滅の状態になった。そこには米軍が布陣していたのであった。
伊江島の航空基地を自壊
『伊江島は沖縄本島北部の本部半島から西5キロの海上に浮かぶ円盤状の島である。この島に日本軍は東洋一を誇る航空基地を建設していた。工事は昭和18年ころから始まり、島の住民はもとより北部全域の労働力を徴用して昼夜兼行で進められたが、ショベルや鍬などの原始的な工具に頼る工事は長期間を要し、ようやく飛行場らしい体裁がととのうのは米軍上陸の1ヵ月ほど前だった。しかし、せっかく完成した飛行場もほとんど使用されぬまま日本軍みずからの手で破壊されねばならなかった。敵上陸を目前にひかえた沖縄ではもはや航空基地としての役割はなくなり、劣勢の守備軍ではこれを確保することが困難だからである。
滑走路は破壊したが、これが米軍によって修復され本土侵攻の航空基地に利用されるおそれはのこっていた。そこで、国頭支隊から伊江島守備隊約2700名が派遣され、城山を中心に堅固な陣地を構えた。守備隊のなかには正規兵のほかに約1200名の防衛召集兵と伊江島防衛隊、青年義勇隊、女子救護班、婦人協力隊など島の住民が数百名も参加していた。』(128-129頁)
北部の学徒隊・県立第三中学校
名護市にあった県立第三中学校の学徒は多く北部の戦線に動員され、日本軍は校舎を軍事施設として接収したが、米軍もまた接収するとすぐに第87野戦病院として利用した。
県立第三中学校・通信隊
『19年11月ごろから第三中学校の教室を利用して、無線(37人)、有線(16人)、暗号(13人)の3班に分かれて教育訓練を受けた。各班とも3月23日、伊豆味国民学校で軍服を支給され、二等兵として直ちに各部隊に配置された。
無線班は真部山、有線班は八重岳の部隊に配置され、勤務は交代制で大本営からの通信を傍受したり、道路の補修、陣地構築、歩哨、警戒などにあたった。
4月15日、真部山が激しく攻撃され、通信不能に陥ったので、電信機を破壊し、各自手榴弾を携帯して15日の夜、三々五々、多野岳に移動を始めた。途中真部山のふもとで米軍に遭遇し、無線班…有線班…など4人の学徒が戦死した。その後も為又や薬草園付近で米軍の攻撃を受けて死傷者を出したが、敵中を突破して21日ごろ、やっと多野岳に着いた。その後は遊撃隊に合流してゲリラ戦に従っていた。
暗号班は、3月23日から4月13日まで真部山の陣地で暗号勤務に服していたが、4月14日、米軍の砲爆撃により電信機が破壊されたので、全員手榴弾4個ずつを支給され、佐藤大隊の戦闘指揮所付近の守備についた。
4月15日正午米軍の攻撃を受け、徳丸中尉の指揮で暗号班全員肉薄攻撃を敢行、うち6人が戦死。…が負傷した。16日夜、部隊長の命令で多野岳に向かって撤退。21日、多野岳に着くと、直ちに谷口中尉の指揮下にはいり遊撃隊に合流した。』(105-106頁)
暗号班学徒の証言:
『八重岳の本部では木造の兵舎内にあった暗号室は、真部岳に移動後は壕内に設けられていた。いつの間にか掘られており、ちょっとのことでは崩れそうもない堅固な壕だった。』
『ここでも少年たちに伝えられる兵隊たちの話は楽観的なものだった。「ここは苦戦をしているが石川までは日本軍で埋まっている」「皇軍はサンフランシスコに上陸、今ニューヨークを目指して突進中だ」。そんな“情報”の一つ一つに胸を躍らせて聞き入った。』
『4月15日、暗号班にも出撃命令が下る。初めての戦闘だ。「訓練の時から暗号班が出るのは最後と教えられていたから、これでダメだと思った」』
『少年たちに銃はなく数個の手りゅう弾が渡されただけ。明るいうちに頂上に布陣したが、そのまま夜まで待機した。反対の南側のふもとでは戦闘が盛んに行われている。激しい機銃の音が休まず聞こえるし、砲弾がその音に強弱をつけていった。頂上にも時折、砲弾が飛んで来た。松の枝が鋭利な刃物で切ったようにサッと飛んで行く。夜になっても戦闘を始める気配はない。南側の斜面の木が燃え、照明弾がポンポン上がり、隣の顔まで見える。ふもとでの戦闘は続いている。三中の鉄血勤皇隊員らも加わっているはずだ。だが、その夜は戦うことなく、なぜか全員を引き揚げさせた。』
『帰る途中、…本部半島と伊江島との間に堂々と停泊している米軍艦を見た。「あんな大きな軍艦!」。…ほとんど見通しのない兵舎や壕内での生活で、外部を見ることがなかっただけに印象も強烈なものだった。翌16日、夜明け前に再び暗号班全員に集合命令が出た。中には前夜、出陣から引き揚げ、そのまま暗号任務についたのもいて、一睡もしていない。兵隊8人に三中暗号班が13人。壕の一番奥にある暗号班事務室に集められた。「本日、敵の総攻撃があり、わが暗号班も出撃する」―徳丸春雄中尉が命令を告げ、自らパインの缶詰を開けて全員に配った。少年たち一人一人に「一生懸命戦ってくれよ」と声をかけた。』その夜、真部山の頂上は前日とは一変した展開となった。13人の少年たちの運命も、その夜で決することになった。』
県立第三中学校・鉄血勤皇隊 - 第2歩兵隊と第3遊撃隊 (第一護郷隊)
『三中の鉄血勤皇隊は、20年1月ごろから軽機、擲弾筒、急造爆雷などについての戦闘訓練を受け、3月26日、激しい空襲下に伊豆味国民学校において編成された。147人が第2歩兵隊に、150人が第3遊撃隊に配属された。』(103頁)
第2歩兵隊
『第2歩兵隊に配属された勤皇隊は、宇土部隊から、伊豆味と今帰仁の境界「302高地を死守せよ」との命令を受けて守備につき、4月7日米軍が名護に上陸するまで、302高地で陣地構築にあたっていたが、米軍上陸後は戦闘に備えて待機した。
4月13日午後3時、米軍の攻撃が始まった。そのときは、主として遊撃隊第3中隊が応戦した。勤皇隊は、出来るだけ陣地に接近させてから応戦しようと待機していたが、午後5時半ごろ、あたりが暗くなると米軍は引き揚げた。午後7時ごろになって、遊撃隊第3中隊全滅の情報がはいってきた。その夜、勤皇隊は突然、移動命令を受けて、302高地から引き揚げ、15日の夜から真部山、喜納原、安和岳、八重岳などの配備についた。そのころ、これらの陣地はすでに米軍に包囲されていた。翌16日、米軍の陸、海、空からの猛攻撃をうけ、戦闘指揮所をはじめ各陣地とも大混乱に陥った。その夜、多野岳への移動命令が出て、各部隊隊伍を解いて出発した。名護、羽地への道は米軍に遮断され、羽地の薬草園付近を突破の際、敵の攻撃を受けて各部隊とも多くの戦死傷者を出して、22日ごろやっと多野岳にたどり着き、谷口中尉の指揮下にはいって遊撃隊と合流した。』(103-104頁)
第3遊撃隊 (第1護郷隊) - 村上治夫隊長
『第3遊撃隊に配属された150人は、3月26日、名護岳の第3遊撃隊本部に入隊した。入隊から米軍の名護侵攻までは、各中隊との連絡、名護、羽地から山岳地帯への食糧輸送などにあたっていたが、米軍は4月7日名護、羽地に侵攻、9日には遊撃隊の本陣地名護岳に集中攻撃を加えてきた。
遊撃隊はよくこれに応戦、…3人が戦死。だが、次第に米軍の猛火に押され、ついに名護東方の陣地に撤退、翌10日多野岳へ移動した。遊撃隊は多野岳を拠点に、12日から20日まで、…遊撃戦を展開して羽地方面の米軍に大きな損害を与えた。
4月12日 川上、田井等地区攻撃
4月13日 川上、夜間攻撃
4月14日 源河、羽地、大川攻撃
4月15日 伊差川攻撃
4月16、7日 稲嶺、真喜屋攻撃
4月20日 耕地股、源河、伊差川攻撃
米軍は4月24日、多野岳に攻撃を開始した。第3遊撃隊は多野岳から久志の山中に後退し、引き続き遊撃戦を行なった。』(104-105頁)
渡嘉敷の赤松隊 - 16歳の少年2人をスパイとして処刑
赤松隊は「集団自決」を生きのびた16歳の少年2人をスパイとして処刑する。
集団自決のときに傷を負い、米軍に収容されて手当てを受けた小嶺武則、金城幸二郎少年(共に16歳)らは米軍の命令で、西山に待避する渡嘉敷住民に下山勧告の役目を帯び、手を振りながら元気に出ていった。この二少年も途中赤松隊に捕えられ、斬られてしまった。
… 勇助さんの顔見知りだった兵隊が突然打ち明けた。 「二人の少年を殺害現場に連行した。穴を掘らせて、年長の少年は自分で腹を切って、兵隊が介錯した。もう一人は「自分で死ねません」と言ったので、目隠しをして後ろから 切った」。
先島諸島の日本軍 - 石垣島事件、捕虜の虐殺
惨殺された捕虜バーノン・ローレンス・ティボ中尉
昭和20年4月15日の朝、石垣島の飛行場爆撃のため飛来した米軍機からV・L・テボ中尉、R・タグル兵曹、W・H・ロイド兵曹の3飛行士が、同島南岸に降下した。石垣島海軍警備隊司令、井上乙彦大佐は、すぐに3飛行士を逮捕させ、同島南部のバンナ岳麓にあった警備隊本部に連行、壕に監禁して取り調べたあげく、同日夜半にバンナ岳近くの刑場で処刑した。処刑は、上級機関の指示も得ず、軍法会議の審議もへずに警備隊の数名の将校の話し合いだけで決定されたという。後に戦犯に問われた法廷で井上司令は、処刑の理由として、1.捕虜を台湾か沖縄に送致するにも船便はなく、飛行機もなかった 2.人手不足、食糧不足で、長期にわたる捕虜収容はできかねた、と述べている。
こうした理由で、3名の捕虜のうち2名は斬首にされ、1名は銃剣で刺殺された。死後も柱にくくりつけた捕虜の死体をおよそ50名の兵士たちが半時間にわたって刺突しつづけたほど処刑は、残虐のかぎりを尽した。
敗戦後、警備隊は処刑に関する一切の書類を焼却し、全部隊員に箝口令をしいた。同年9月初めには埋めてあった遺体を深夜に掘り起こして火葬に付し、遺骨はガソリンの空罐に入れて西表島北方3千メートルの海底に沈めた。しかし何者かが鹿児島県から東京のGHQに密告書を送り事件は一きょに表面化した。そして昭和22年11月から翌年の3月にかけてこの事件にかかわる「横浜裁判」がつづき、一審判決では、46名の被告中、41名が死刑、懲役20年1名、同じく5年1名、無罪2名、病気による免訴1名となった。死刑を宣告された者の中には4月に現地で補充されたばかりの未成年者3名(17歳2名と19歳1名)も含まれていた。弁護士の記述によれば、8名の沖縄出身被告のうち1名だけが正規の軍人で残り7名は現地召集兵で、入隊後わずか3、4ヵ月か二週間そこらの者で銃の扱い方さえ知らない人たちであった。
ところで、被告たちは再審で大幅に減刑され、昭和24年4月7日のGHQの最終審で絞首刑は7名、終身刑1名、懲役40年1名、35年2名、20年1名であとは無罪と決定した。地元出身兵は1人として死刑になった者はいなかった。その背景には、東京の沖縄連盟本部会長…らのマッカーサー司令部にたいする熱心な助命嘆願運動があったことは看過できない。翌4月8日、死刑を宣告された7名の刑は、執行された。』 (235-238頁)
鉄血勤皇八重山隊の生徒の証言:
空襲はいよいよ熾烈を極めてきた半面、敵機の撃墜数も頻繁にみられるようになった。そのうちに、撃墜された敵機の米兵2人が白保の轟川流域で捕虜になり、情報部に回送されて取り調べが開始された。通訳には佐藤一九八という白髪の一等兵が当ったが、取り調べの合間は我々班員2人が1組の輪番制で番に当り、用便等もすべて付きっ切りで看視した。たまには、英単語の羅列と手真似で話めいたこともしてみたが、彼等には捕虜としての恐怖は微塵もみられず、実におおらかでユーモアのある動作にはあっけにとられ、ついには怒りさえ感じた。
時に佐藤通訳の話であったが、彼等は「米国及び連合軍は絶対に負けない。近日中に自分たちを必ず迎えに来る」と断言しているとのことを聞かされたときには、不思議な感じがして精神異常ではないかとさえ思った。…(石垣市史編集室『市民の戦時・戦後体験記録』第1集 石垣市役所より)《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 221-222頁より》
投稿者註: 「石垣島事件」における米兵捕虜と、この生徒の証言にある米兵捕虜が同一のものか否かは、不明。
4月15日、石垣島で墜落機から脱出したアメリカ兵の捕虜3人が殺害されました。戦後、日本軍司令官らが処刑されることになった「石垣島事件」です。
アメリカ軍は石垣島にある飛行場を撃破するため、グラマンなどの大規模な編隊を組んで島を攻撃。対する日本軍も「沖縄本島と台湾との生命線を分断させてはならない」と必死の反撃を展開しました。激しい戦いの中、日本軍の対空砲撃でアメリカ軍の1機が石垣島大浜の海岸に撃墜され、乗員3人はパラシュートで脱出。しかし日本軍によって捕らえられ、海軍警備部隊に連行されました。八重山旅団司令部はアメリカ兵3人のうち、2人を斬殺、1人を刺殺処分と決定。処分はその日に実行されました。
日本軍は事件の証拠隠滅を図りましたが、GHQ宛ての投書で発覚。戦後、1950年4月、処分を下した井上司令官など事件に関与した幹部ら6人が捕虜殺害禁止条約違反で、巣鴨プリズンで処刑されたのです。
そのとき、住民は・・・
米軍の民間人収容所
一時収容所から村へ移動する地元民(1945年4月15日撮影)
Moving natives from examining center to village.
島袋を通過する第10軍の兵士。この学校の授業は新垣先生が担当し毎日続けられている(1945年4月15日撮影)
Tenth Army troops having passed through the town of Shimabuku on Okinawa. This school class, taught by Miss Chielso Shingaki, is continued daily.
沖縄本島の民間人。(1945年4月15日撮影)
Civilians of Okinawa in Ryukyus.
コザの民間人専用軍政病院
《AIによるカラー処理》前線で傷の手当を受ける沖縄の女性。衛生兵から手当を受け、水を与えられている間も子供を抱いている(1945年4月15日撮影)
A native woman being treated for wounds up in the front lines. She is holding her youngster while a corpsman treats her and another gives her water.
コザにある民間人専用軍政病院で手当を受けるため救急車から運び込まれる負傷した住民。住民はこの病院で専門的な治療を受けた(1945年4月15日撮影)
An injured civilian is removed from an Army ambulance to receive treatment at the civilian military government hospital at Koza. Civilians receive expert medical attention at this hospital.
米軍は民間人収容所のなかに、身寄りのない孤児を収容する孤児院、高齢者を収容する養老院を作った。しかしその施設管理記録はいまだ見つかっていない。
軍政府によって老人用収容所へ移送されるのを道路脇にしゃがみこんで待つ老女(1945年4月15日撮影)
An old lady squatting beside the road waiting to be taken to Old Ladies Home by the military government.
Civilians from caves in hills on Okinawa in Ryukyus are evacuated to internment camp in 6th Marine Div. transportation center by a Marine patrol.
哨戒中の海兵隊員が、丘のガマから出てきた民間人を収容所へ避難させている様子。沖縄本島にて。この収容所は、第6海兵師団輸送所内にある。1945年 4月15日
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【石垣島事件】
- POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士 | 横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件
- 身近な人から「焼け焦げた米兵に石を投げた」… | 八重山毎日新聞社