〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月25日 『沖縄人とアメリカ兵』

屋嘉収容所「お礼参り」「内鮮一体」とは台湾の武部隊

米軍の動向

ある情報将校の報告書

米軍の情報将校が見た沖縄人: ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐

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沖縄戦を記録した軍医ヘンリー・スタンリー・ベネット (1910-1992) について - Battle of Okinawa

日本兵は沖縄人に、アメリカ兵が上陸すれば、島民は一人残らず惨殺されると教えた。どうやら日本軍はアメリカ軍が島の様相を一変させるほどの猛烈な攻撃をかけるとは予期できず、また、住民がどう反応するかまでは予期できなかったらしい。予期できたとしても、アメリカ軍の猛攻をどう宣伝に利用するのか手の打ちようがなかった。沖縄人は新聞、ラジオ、口伝えにアメリカ軍の極悪非道ぶりをふきこまれていた。

上陸前の猛烈な艦砲射撃と空爆は日本軍の言う通り、アメリカ軍は恐ろしいということを沖縄人に思い知らされた。だから、アメリカ軍が上陸し、進軍すると住民は一人残らず、惨殺されるかと思い逃げだした。実際には島の中北部では大した戦闘はなかったにもかかわらず、この始末だった。アメリカ軍の保護下に入ってくる沖縄人の様子を目にした者にははっきりわかったが、沖縄人は心底、惨殺の恐怖に怯えていた。惨殺されるのではないかという恐怖は保護されて2、3日あるいは数週間たっても消えなかった。オバーサン(お婆さん)たちはたいてい洞窟の奥に毛布にくるまって身を隠しているつもりだったが、アメリカ兵に発見されると、跪いて、両手を合わせ、幾度も頭を地面にこすりつけて、「ハンマヨー(どうか命だけは助けてくれ)」と哀願した。心配しなくてもよいと言っても、両手を合わせたまま、命乞いを続けた。

言葉は通じないながらも、何度も「心配せんでよい」と告げ「オバーサン」たちに親切にしてあげると、ようやく安心し、喜びを満面に表して感謝した。同じように、洞窟の悲惨な生活に耐えきれず、アメリカ軍前線に出てきた母親や老人も、アメリカ軍に出会うと恐怖のあまり、ガタガタ身を震わせていた。だが、1日、2日経つと、住民収容所での身の安全を確信し、住民は目に見えて態度を変え、気をゆるめ、笑いを取り戻し、キャンプのうるさい手順にも気持ち良く協力した。

《「沖縄戦トップシークレット」第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」294-296頁より》

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EASTER--Marine Cpl. Fenwick H. Dunn, 19, of 55 Marianna St., Lynn, Mass., gives the candy from his K rations to an aged woman on Okinawa. The Japanese fled as Marines landed on Easter morning, abandoned the aged, infirm and small children. Although neither can understand the other's language, the Leatherneek's gesture and the woman's smile as she raises herself on the stretcher, say more.

老女にK配給のキャンディーを分け与えるダン海兵隊員。イースターの朝に海兵隊が上陸すると、日本軍は老人、子供を見放し逃亡した。どちらも互いの言葉は理解できないが、ジェスチャーと笑顔でやり取りをする。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

たいていのアメリカ兵は住民に親切を尽くし、特に子供たちをかわいがった。チューインガム、キャンデー、携帯食料、あるいはタバコまで、ジープの回りに集まる子供や大人に分配した。こうしたことがアメリカ兵に対する恐怖心を打ち消し、友好を生むことになった。こうして、アメリカ軍に初めて接したほとんどの沖縄人は残虐な目に合うという話が嘘であることを知り、その安堵感から、家を失ったことなど大して気にしていないらしい

住民収容所にはいると、沖縄人が収容所で毎日接したアメリカ兵は一般兵ではなく、軍政府要員であった。かれらは担当地区の住民の福祉に懸命に尽力した。住民は軍政府要員の真摯な努力に感謝の気持ちでこたえた。とりわけ、住民診療所を設置したことが住民の信頼を得る最大の要因となったことは間違いない。

アメリカ人にとって驚きだったのは、沖縄人は軍政府の混乱した行政や戦争の結果から生じた辛いことや苦しいことを冷静に受け止める人生哲学を学んでいたことである。これが西洋なら、住民は怒り狂って大騒ぎになっていたことは間違いない。

その良い例は、アメリカ軍の身勝手な都合で、本部半島の2万人の住民を強制移動させ、何もない原野に放り出しても混乱や騒乱が起きなかったことである。

《「沖縄戦トップシークレット」 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」295-296頁より》

強制移住は銃を持つ兵士によって行われ、老人ですら銃殺された証言が多くある。傷つき疲弊した住民は移送のさなかにも次々と命を奪われていることを忘れてはいけない。

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アメリカの子供と同様に沖縄の子供がキャンディ好きなのを証明する米海兵隊所属ジェンキンズ一等兵。いくつかキャンディーを与えている。

The fact that Okinawan children like candy as well as American be testified by PFC Everett E. Jenkins USMC, of Stromsberg, Neb, seen passing some out.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A consolidated B-32 super-bomber taxiing towards the runway on Yontan Airstrip before take-off on a routine flight to Luzon. Okinawa, Ryukyu Retto.

ルソン島(フィリピン)での慣例飛行への離陸前、読谷飛行場の滑走路に向かって誘導滑走するコンソリデーテッドB-32長距離爆撃機(1945年8月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

屋嘉捕虜収容所内の「お礼参り」

阿嘉島の野田隊は8月23日武装解除し投降、その夜に屋嘉収容所に収容された。

阿嘉島の野田隊に所属していた兵隊の回想

8月下旬頃の、まだ殺気めいたものが残っている収容所の中では、芳しい話ではないが、毎夜のように集団リンチが行われた。中でも一番顕著だったのは、われわれの隊の主計であったM中尉がやられた事件で、主に早くに投降した整備中隊の兵隊達が、他部隊の兵隊の応援で始めたものであった。

これは、たしか25日の夜であった。兵隊だけがいる中隊のテントのある広場に、黒山のような人が集まり、見覚えのある数名の兵隊によるものであった。殴ったり蹴ったりされ主計は全身打撲で気を失ってぶっ倒れ、水をかけられて息をふき返し、仲間の将校がようように引き取って行った。兵隊の側からみれば、仲間の兵隊が殺されたのを始めとし、過酷な処置を受けただけに、その感情も理解できるところだった。

ほかに阿嘉島の関係では、かつて島の炊事にいた下士官や本部関係の将校など数名が、主計ほどではなかったが兵隊達によってリンチを受けた。

つい先日まで存在した軍隊という組織では、考えも及ばないことで、仮にあったとすれば、言語に絶する処分をされるであろうが、何と言っても収容所の捕虜は、数の上では兵隊が最も多く、次は下士官で、将校は生き残った率は高かったにしても、やはり数の上では絶対少数なのであって、まともに反抗などできる気勢もなかった。

また兵隊と上官という関係ではない特殊な事件だが、入所早々の頃、ある兵長が朝鮮の軍属と思われる3、4人に、真昼間襲われたのを見た。

これはその軍属が、兵長の帯びていた帯革(軍隊の幅の広いバンド)を抜き取り、それで首を締め上げたもので、周囲には私のほか日本兵の捕虜が数人はいたのだが、しばらくはその気勢にのまれ誰も止めようとせず、映画でも見ているように放心状態で眺めているきりであった。兵長が気絶したのをみて、ようやく1人がゲートにとんで行き、MPに告げたので殺人には至らなかったが、それに至る事情はあるにせよ、凄惨な感じのする出来事であった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 215-216頁》

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米国海軍: Motor launch coming alongside USS CHANDELEUR (AV10) with boat load of Jap prisoners captured by U.S. Navy men on nearby AKA Shima Island, Kerama Retto.
近くの阿嘉島慶良間列島)で米海軍の兵士らが捕らえた多くの日本人捕虜を乗せ、水上機母艦チャンドラー(AV-10)の舷側に接舷するモーターランチ。 撮影日 1945年 3月31日 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

屋嘉収容所の朝鮮人軍夫たち

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米海軍: A small detail from a seaplane tender head back to their ship with their 19 Korean prisoners.
朝鮮人軍夫捕虜19人と共に、水上機母艦に戻る小規模の特派部隊。撮影日 1945年 5月 11日 撮影地は不明

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

野田隊長と懇意だった衛生兵の証言

虐げられていた者の反発が起きた。そのはじめとして慶良間列島の日本軍の下士官朝鮮人軍夫たちの柵に連れ込まれたのであった。軍夫たちが慶良間にいた時、酷使されたことへの仕返しでこれを境として毎夜のように私刑が行われた。

その頃同じ慶良間の阿嘉島から武装解除をして収容されてきた集団があった。ある夜、将校がいる将校幕舎に呼び出しがかけられた。呼び出しがかけられたのは阿嘉島の第2戦隊の野田少佐であった。執拗な軍夫たちの呼び出しに、逃げることもできずそれに応じて柵の外に出ると体格の良い大きな男が3-4人の軍夫と待ち構え待ち構えていて、一歩柵から出ると、両脇をしっかりと抑えられた。

《『血塗られた珊瑚礁-一衛生兵の沖縄戦記』関根清 (JCA出版 1980) p. 233 》

収容所内で謝罪にくる日本兵もいた。

それで、沖縄 (ブログ註・沖縄島の収容所) に行ったら、私たちに会いに来ました。「自分が本当に悪かった」と。私個人そうしたくてやったわけじゃなくて国の法律がそうだから、仕方なかった。心の中ではそうでしょう。国法がそうなっていたからで、個人的な感情はないんでしょう。彼も話が上手でした。私も不思議。昨日まではよく殴って。今日はわざわざ謝りに来たのです。… (中略) …

世の中がひっくり返ったのか。妙な気がしました。この世の中で、こんなことが。妙な気がして、殴りたくもなく、むしろ感動しました。朝鮮人と日本人は大変仲が悪かったんです。ある日はけんかして大騒ぎになったこともあります。大きなけんかになって外人たちが銃を撃って、空砲を撃ってけんかを止めたんです。大騒ぎになりました。敵同士になったんです。日本を攻撃しに行くと。そのような運動をする人もいました。「一緒にやろう」と言われました。私はそんなことやりたくもないし、飢えて言葉も出てこなく、精神的に疲れていたんです。

イム・ビョンファンさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

飯盒を盗んだという理由で銃殺された兵隊逃亡しようとして失敗した朝鮮人十二人の銃殺、など、ほんとにこの世の人間のなせるわざとは思えない事が簡単にやってのけられました。特に朝鮮人の場合、まず銃殺場所に連れていく前に、炊事班が炊いた白いごんをおわんに山盛りにして入れ、離入りのパインをニコずつ食べさせていましたが、これまでの飢えをしのぐためか、あるいは自分の最期の食べ納めのためか夢中でかけこんでいました。部落民の話しによると、彼らは殺される前に体長ほどの穴を掘らされ、その前に立たされて撃たれると穴にころがる方法になっていたようです。兵隊が上から砂をかぶせた後、まだ十分には死んでないせいか砂がムズムズ動いている人は、日本刀で何度か刺して殺していたということです。

その他に部落民 (住民) の場合は、前にも述べたように銃殺までには至りませんでしたが、二、三人の人が半死状態になるまでの拷問をうけました。食糧をさがしに行って見つかれば以上のような苦しい目にあわされ、そうかといってさがしに行かなければ人を餓死させてしまう始末です。その頃から、部落民アメリカ軍よりも、次第に、味方であるはずの日本兵に恐れを抱くようになり、逃亡する人が目立ってでてきました。逃亡する手段として、日本兵に見つからないようにこっそり浜辺に出て手をふれば、島の周囲をとりまいている米艦からゴムボートが出され、迎えに来てくれました。

「阿嘉島の戦闘経過」沖縄戦証言 慶良間諸島 (1) 阿嘉島 - Battle of Okinawa 

摩文仁九死に一生を得て投降した朝鮮人軍夫の証言

阿嘉島から収容所に入ってきた軍夫たちは、まるで骸骨のように、やせさらばえていた。彼らの話によると、本島には三年分の台湾産玄米が備蓄されていたが、離島には、月初めに一か月分ずつ支給されることになっていた。だから3月23日 (ブログ註・厳密には26日)、米軍が上陸し、彼らが山中に逃げた時には十日分の食料しか持っておらず、山に自生する山桑を摘んで命をつないだという。また朝鮮人軍夫16人が、スパイ容疑で虐殺されたという話を聞き、それを芝居にして、望郷劇場で演じたことがある。望郷劇場は、我々の請願によって、朝鮮人収容所の中に設けられた唯一の娯楽施設で、米軍がトラック一杯の用材や工具を提供してくれた。

《金元栄『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房、1992年、182頁》

それのどこが内鮮一体ですか。ただの内鮮一体です。私たちをこき使うために、そのときは内鮮一体と言ったんです。あとになって、「内鮮一体」なんてなかったんです。後になったら、ないんです。知らん顔したんです。それはないでしょう。それがちょっと残念に思われます。
「内鮮一体」といった以上は、同等に待遇してくれるべきではないですか。自らひどいことした上に、たくさんこき使って知らん顔し。これはないでしょう。人間としてやってはいけないことです。命を捧げ、死んだ人が半分になるというのに、その態度は何ですか。最も無情な態度に出ました。人間扱いしてくれなかったんです。それのどこが内鮮一体ですか。内鮮一体ってそのようなことではないでしょう。

イム・ビョンファンさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

 

沖縄から台湾に転出の武部隊

第32軍の配下にあった第9師団 (原守中将) 通称「武部隊」は精鋭部隊として沖縄守備軍の中枢を期待されていたが、1944年11月17日に転出命令が下され、12月末に台湾に転出、戦闘もなく終戦を迎えていた。

なにしろ師団はほとんど無傷だった上に、沖縄逆上陸の話も実施せずだったということです。

連合軍で上陸して来たのは米軍ではなく、後になって中国軍だった。終戦後、「四年程帰れぬ」というので、部隊は自活のため分散した。私は山へ登り、米を持っていって畑を耕した。兵舎は自分たちで作り、米、味噌、缶詰は部隊から貰っていた。

中国軍は、我々を非常に自由に生活させてくれた。

私は部下30人ぐらいと一緒だった。3ヶ月もしたら急に帰れるということになったと、司令部から命令が出て「現地を始末して来い」という。四年ぐらいは帰れぬと思っていたので、米などを現地人に分け与えて帰った。現地人は日本人に好意を持ってくれていたので、生活しやすかった。

武部隊 「幸運の武兵団第九師団」~「幸運無傷の兵団」 - Battle of Okinawa

武勲高い虎の子の師団「武部隊」は、結局、太平洋戦争時一度も交戦すること無く台湾で終戦を迎えた。

武部隊1564部隊に配属された青年 (玉城村22歳) の証言

今考えると、自分達の軍隊生活は疎開で台湾に来たようなものでした。…

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

台湾から沖縄に戻ると、故郷の玉城村は米軍基地 (キャンプ知念) になっていた。

武部隊1564部隊に配属された青年 (玉城村22歳) の証言

本土出身の兵隊は除隊後、早めに帰国できましたが*1沖縄出身の私達はしばらく残されました*2 … 私達は大分経ってから帰国することが出来ました。最初、熊本に行くつもりで浦賀港に着いたが、船内に伝染病が発生し、上陸せずに引っ返し、宮古平良港に着きました。宮古に一週間滞在後、ポンポン船に乗せられて、ホワイトビーチに着き、インヌミヤードゥイ (現沖縄市高原南西の丘) に収容されました。

インヌミヤードゥイに収容されていた時、私は自分の生まれ故郷である玉城一区 (玉城城址近くの現ゴルフ場内) の状況を確認するため、歩いてシマに行ったところ、そこには民家がなく、米軍部隊の基地 (注・キャンプ知念 = 知念補給地区) になっていました。びっくりした私が周囲の状況を詳しく知るために近くの道を歩いていたところ、偶然にも、芝木川のお爺さん(金城繁正さんの祖父)に会うことができ、私の家族がシムダ(下田)に収容されていることを知りました。… 自分達のシマは軍用地に接収されていたために戻ることが出来ませんでした。そのために、私達家族は十年間もシムダにいました。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

やせっぽちのシビリアン

常習的な暴力や性犯罪多発する性犯罪にも対応できない組織的なネグレクトがあった。

間もなく私たちは、桃山から辺名地に移って来た。そこにはしばしば米兵が現われたが、普通の米兵はとくに悪いことをするようすでもなかったので、私たちは安心していた。ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつもを持ち歩き、男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。事実、彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。また、若い女性がそいつに拉致されかかっていたのを助けて、射殺されそうになったので格闘の末に銃を奪い返し、それを海に投げ捨てて逃げて来た男もいた。

だから、そのシビリアンが現われると、男たちはすばやく逃げ去り、女たちも、髪にも顔にも鍋などをつけてわざと薄ぎたない格好をしたり、車座になって固く口を結び、そいつが何をいおうと身じろぎもせずに抵抗したりするようになった。するとそいつはますます怒って、銃剣で壁や天井をつきまくり、乱暴のかぎりをつくしてから立ち去るのがつねであった。

沖縄戦証言 本部半島 (1) - Battle of Okinawa

 

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  1. 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月25日(土)
  2. 1945年7月15日 『因果はめぐる』 - 〜シリーズ沖縄戦〜