〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月31日 『牛馬以下にあつかわれて』

朝鮮人軍夫の沖縄戦

 

降伏文書調印式までの動向

日本本土への進駐 ⑤

8月31日、厚木飛行場には1000名の連合軍将兵が到着し、横浜に進駐する。』(308頁)

『前日、関内に進駐した連合軍将兵の就寝は早かった。それでも山下公園に設営された幕舎には、自家発電装置による電灯が煌々と輝いていた。通信線の取り付けをはじめ設営の能率的な動きは日本人を驚かせた

「丗一日はマッカーサー元帥をはじめ將兵全員早朝5時半には起床、7時朝食をすますと直ちに進駐第2日目の活動がはじまった。

マッカーサー元帥以下高級將兵の宿泊するホテル・ニューグランドのロビーには部下に命令を傳える將校や元帥の部屋へ報告に入る参謀などがあわただしく行き交ひ、その間を縫って米英新聞記者、映画班などがカメラを両手に忙しくたち廻っている」(20・9・1『読売報知新聞』)』(311-312頁)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 308、311-312頁より》

https://www.hotel-newgrand.co.jp/english/images/stay/suite_macarthur_01.jpg

現在のホテル・ニューグランド、マッカーサー・スイートルーム

https://www.hotel-newgrand.co.jp/english/stay/suite.php 

『このマッカーサーの日本進出と前後して、他の米軍部隊と要人たちも続々と日本の土を踏んでいた。要人たちの多くは、9月2日に東京湾上の米戦艦「ミズーリ」で行われる日本の降伏調印式に参加するためである。

まず8月28日にはウィリアム・F・ハルゼー大将の米太平洋艦隊第3艦隊が、旗艦「ミズーリ」以下258隻を率いて東京湾に入った。翌29日にはチェスター・W・ニミッツ元帥(米太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面司令長官)がグアム島から水上機で飛来し、相模湾の戦艦「サウスダコタ」に長官旗を掲げた。そして30日には第3艦隊の海兵隊相模湾から上陸し、横須賀の海軍工廠鎮守府を接収し、ハルゼーの勝旗を掲げた。

8月31日、さらに2人の有名な将軍が日本の土を踏んだ。1人は日本軍のシンガポール攻略時の英軍司令官だったアーサー・パーシバル中将、もう1人はマッカーサーの部下で、フィリピンのコレヒドール島で降伏したジョナサン・ウェーンライト中将である。2人は満州奉天(現瀋陽)の収容所にいたが、マッカーサーの招きで降伏調印式に参加するため東京に飛んできたのだった。』(61頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 61頁より》 

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横浜のニューグランド・ホテルでウェーンライト中将を迎えるマッカーサー

『General Douglas MacArthur greets General Jonathan Wainwright in Yokohama's new Grand Hotel. This is their first meeting since they parted in embattled Corregidor, in the Philippines, in 1942.』

Truman Library Photograph: General MacArthur greets Gen. Jonathan Wainwright.

 

米軍の動向

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護衛空母シェナンゴ(CVE-28)。バックナー・ベイ(中城湾)に停泊している様子。(1945年8月31日撮影)

USS CHENANGO (CVE-28) at anchor in Buckner Bay, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

島に連れてこられた朝鮮人

阿嘉島: 野田隊による朝鮮人軍夫の処刑

次第に軍夫の数が減っていくことにいら立った日本兵は、四月下旬のある日、山を下りポケットにさつまいもをしのばせて戻って来た軍夫を摘発し、それまでに住民の畑作物を掠めた者、食料収集を命ぜられ帰隊時間内に戻らなかった者など、七人の軍夫に銃殺刑を言い渡しました。うしろ手に縛られ引き立てられて行く七人の後に、墓穴掘りを命ぜられた七人の軍夫がついて行きました。沈さんもその一人です。深さ三〇センチくらいに掘った穴の前に立たされた七人に対し、指揮者の兵隊が「最期に言いたいことはないか」と説いたのです。すると、年長の千有亀という軍夫が昂然と答えました。「われわれは腹が減っていた。それなのに君たちは食料をくれなかったではないか。われわれは働くのはいい。どんなに働かされても我慢しよう。仕事なのだから。しかし、働けるだけの食料もくれずに、ただこき使ったのだ。われわれは心から君たちを恨む。腹が減っていたのだ」 刑死を前に言い放つ、その凄然な言葉に、兵隊たちは一瞬ひるんだ様子でしたが、朝鮮人は死ぬまでメシか」と、憎々しげに侮蔑に満ちた悪態をつくと、生いもを取り出して千有亀の口へ押しこんだのです。この軍夫処刑事件にショックを受けた沈さんは、もはやここに留るべきではない、脱走しようと決意し、親しい仲間とひそかに脱出計画をねり上げ、14人の同僚と5月4日夜、実行に移しました。幸い日本兵にさとられずに成功し、翌朝、米軍ランチに救出されるのですが、沈さんはひどい栄養失調で視力が低下しており、海上を近づいてくるランチが見えなかった、と言っておられます。

《 「報告・朝鮮人軍夫の沖縄戦」 海野福寿 (1987年12月、駿台史学会1987年度大会) 》

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Fourteen of the 19 Korean prisoners captured by a small detail from a seaplane tender operating with FAW I. Behind them is Geruma Shima, Kerama Retto. Taken by the USS KENNETH WHITING (AV-14).
水上機母艦に所属する小規模の特派部隊によって捕まえられた、朝鮮人軍夫捕虜19人のうちの14人。同艦は、第1航空団と共に活動する。背後に写るのは、慶良間列島慶留間島水上機母艦ケネス・ホワイティング(AV-14)から撮影。
撮影地:慶留間島 (1945年5月11日)

ここで野田隊というのは野田義彦少佐が率いていた海上挺進第二戦隊のことで、マルレと呼ばれた特攻艇(爆雷を装備して敵艦に体当たりするベニア製モーターボート)100隻と104人の隊員を擁していた。朝鮮人軍夫はその基地造りをさせられていた。戦闘が始まると、これら朝鮮人軍夫は最前線に配置され、爆雷や弾薬の運搬、死体運搬やその処理など最も危険な仕事をやらされた。』(129-132頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 129-132頁より抜粋》

十五歳の阿嘉島の少年の証言

「かわいそうだね」と言葉で、言ったら大変ですから、繋がれて処刑場に行くのも、みんな見ているが、「かわいそう」の一言もいえない。結局、処刑場に連れて行かれるのは、国賊だから、軍紀に反する連中だから。そういう人たちに向かって、同情したら、それこそ、大変ですよ、同罪ですよ、当時としては、それが怖かったですよ。自分たちの身内が、おじぃとおばぁが処刑されたとき(米軍に収容され、その後、釈放された阿嘉島の住民2名が、日本軍によって「米軍に通じた者」として殺害された)も、一言も同情の言葉もかけられない。そういう時世だったですね。

壕を掘らされ壕に幽閉された朝鮮人軍夫 - Battle of Okinawa

 

朝鮮人軍夫とは

朝鮮半島から沖縄に軍夫として連れてこられた人々の実数に関しての研究は実は始まったばかりといっていい。日本政府が韓国政府に提出した朝鮮人名簿をもとに調査した近年の論文では、少なくとも3,500人余が動員されていたことが明らかになっている (沖本富貴子 2018)。しかし、沖縄で直接的にも間接的にも身近に話を聞くことの多い朝鮮人軍夫の実数がわずか3,500人ほどではありえないだろう。今からの研究に期待するしかない。

沖縄戦では日本植民地だった朝鮮から軍夫として約1万5千人(あるいは約3万人とも)が連行されたと推定されている。彼らは「牛馬以下にあつかわれて」、酷使され、その大半が戦没したと考えられている。軍夫というのは軍の命令にしたがって陣地構築飛行場建設に従事する。軍属とはかなり違った立場である。

総数がはっきりしないのは、当時の朝鮮人に対する不当で蔑視的な考え方が根強かったという側面と深く関係しているのであろう。戦火で記録類が焼失したなどという事情があったと考えられもするが、第一、正確な記録がとられていたかどうか怪しい

朝鮮人軍夫で配置がはっきりしているのは、第32軍司令部の地下壕造りに約1,000人、慶良間列島震洋特攻艇基地建設に約1,000人、宮古島には要塞建設などに約1,500人、八重山諸島で飛行場建設に約600人などという。

沖縄で軍夫として使役された者に対する待遇は、ごく一部を除いて極端に悪かった。坑内作業や輸送運搬など、腹の空く重労働をさせながら、動員された日本人と同量の食糧を供給しなかった。日本人労務者も満腹するほどの食糧を支給されたわけではないが、日本人よりうんと少なく支給した。空腹の朝鮮人はやむなく近くの畑に忍び寄って芋を盗んだりすることになるが、農家から苦情が殺到し、それが朝鮮人に対する暴行となり、現行犯ともなると罰と称して木に縛りつけて、兵隊が棍棒で殴りつけることもあった。それでなくとも、沖縄県民も含めて当時の日本人は、朝鮮人を一段低く見る差別意識が強かった。労働中の朝鮮人軍夫に対する遊び半分のような暴力沙汰は日常茶飯事だったのである。

朝鮮人軍夫に対するいわれなきスパイ容疑による虐殺が頻繁した。金武で特殊潜航艇の基地として豪堀りに従事していたなかから7人がスパイ容疑で虐殺されたし、渡嘉敷ではスパイ容疑で5人、窃盗容疑で2人が殺されている。

そのほか慶良間列島では「『脱走をはかった』『食糧を盗んだ』とかの理由で、野田隊関ヶ原処刑場と呼ばれる座間味村の阿護の浜で13人の軍夫を処刑した。また部隊本部の下に約50人を監禁し、逃げ出した者をつかんで阿護の浜で処刑している

(福地曠昭「強制連行された朝鮮人沖縄戦」『別冊歴史読本』戦記シリーズ18「沖縄 日本軍最期の決戦」所収)

 

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Several of Nippon's warriors- that-were but who are prisoners-of-war. Big guy on the right could be one of the ”slope-shouldered Korean giants” mentioned in dispatches from Marine Corps Combat Correspondents. They are some of the large number of Japs who surrendered on Okinawa during the last phases of the battle.
今や捕虜の身となったかつての「武士」。右の大柄の男は、海兵隊の戦闘通信員が特報で「朝鮮のなで肩巨人」と書いていた男かも知れない。彼らは沖縄戦終盤に大量投降した日本兵の一部である。
撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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太平洋戦争末期の沖縄戦アメリカ軍が最初に上陸したのが、阿嘉島でした。この時、日本兵でも沖縄の住民でもない人々が戦いの最前線にいました。軍服ではなく、作業着のようなものを着た男性たち。当時、日本の殖民地だった朝鮮半島から連れて来られた“朝鮮人軍夫”と呼ばれる人々です。武器も持たされないまま、軍のために働らかされていた人たち。その実態はほとんど分かっていませんでした。彼らはどのように沖縄に送られ、何をしていたのか。生き残った人たちの話を韓国で聞くことができました。

軍のもとで危険な労働を強いられる中、多くの軍夫が命を落としました。日本がアジアを巻き込んで進めた太平洋戦争。激戦地・沖縄に送り込まれた“朝鮮人軍夫”たちの証言です。

[証言記録 市民たちの戦争]“朝鮮人軍夫”の沖縄戦|番組|NHK 戦争証言アーカイブス 

1938年、国家総動員法が朝鮮に適用され、翌年の39年には国民徴用令も公布された。すべてを区別なく平等に遇するという意味の「一視同仁」、朝鮮を差別せず内地(日本本土)と一体化するという意味の「内鮮一体」-これらのスローガンを通して朝鮮総督府は朝鮮の人々を鼓舞し、皇民化を推し進めた。日本軍の軍人・軍属としてアジア・太平洋各地に送られた朝鮮人は、24万人とも34万人ともいわれる。

朝鮮人軍夫は日本軍の軍属として沖縄本島慶良間諸島宮古島などに送られ、飛行場建設や陣地の構築、荷役、運搬などの雑役に従事した。

特設水上勤務第104中隊の陣中日誌は、中隊の任務として軍用物資の陸揚げ、運搬、道路工事などを挙げたあと、次のような業務を明記している。「無学文盲なる朝鮮軍夫の教育訓練に従事す」

市町村史には、朝鮮人軍夫に関する証言が少なくない。日本兵の露骨な朝鮮人蔑視と居丈高な態度が目立つが、沖縄県民も決して差別感情から自由ではなかった。

 「一視同仁」「内鮮一体」と言いながら、沖縄での扱いは理不尽極まるものだった。海上特攻兵として慶良間諸島の戦争を体験した深沢敬次郎は書いている。

 「隊員には小さい米のおむすびが支給されていたのに、軍夫に与えられていたのは、桑の葉の混ざった少ない雑炊だけであった」(『沖縄戦海上特攻』)。

阿嘉島では、米軍への投降をおそれ、壕の中に軍夫を監禁した。「私が医務室にいるとき、よく朝鮮人の死体が運ばれてきました」「みんな骨と皮だけになってしまって、明らかに餓死です」(『沖縄県史 沖縄戦記録2』)。ひもじさのあまり、食糧を盗んで逃げようとした軍夫は山中で処刑された。

 収容所に収容され、ポツダム宣言受諾の報に接したとき、彼らは戦争が終わったことを深くかみしめ、快哉(かいさい)を叫んだという。

 敗戦を解放と受け止め喜んだのは、日本兵とともに戦ったはずの「植民地朝鮮」からきた軍夫であった。

社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]朝鮮人軍夫 飢えと差別と重労働と | 社説 | 沖縄タイムス

 

朝鮮人の「徴発」とは

挑発された者たちの中には命がけで逃亡する者も多かった。慶尚北道から「軍夫徴発令状」で奄美と本島に送られた金元栄は、途中、何度も朝鮮人の逃亡と、日本兵により虐待され消息知れずになる同胞を目撃してきた。

「今、きさまらに逃亡した奴のざまを見せてやろう

瞬間、体がぞくっとする。あぁ、つかまったな!誰だろう?」皆、息を殺して、不動の姿勢だ。あっ!

兵隊たちに引きずられてきたのは私の組員の崔致動だ。一晩のうちに彼の顔は見る影もなくやつれ、激しい殴打に痛めつけられた身体は満足に立っていることもできずによろめく。

「さあ、みんなとっくりと見ろ!逃亡したやつの末路はこうなるんだ。こいつは軍法会議に回されて殺されてしまうかもしれんぞ。あとの7人も、もう捕まった。どうだ、よく見たか?」

暴悪な中体調の顔にはさっきが満ち満ちている1度は再びどこかに引きずられていった。

《金元栄『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房、1992年、p. 18》

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「徴発」というのは・・・、(註・日本は、朝鮮) 人に対する「徴発」はなかったというんです。人が人を徴発・・家畜や品物などを徴発しましたが、人を徴発したことはなかったと言うんです。日本人がそんなふうに・・・。< 中略 > そうです。それがまあ、「徴発」というのは、(日本人が)私たちを物扱いして(沖縄に)行かせたと思います。それは、「徴発」というのは物品に対する行為であって、人に対する行為ではないんです。私たちは日本を散々怨みました。私たちを家畜扱いしたんです。人間扱いされていないと恨みました。同じ人間としてではなく家畜のように扱われ、日本を恨みました。私たち同胞が集まったら、様々なことを言っていたんです。日本人を散々恨んだりして、自分がしっかりしていなかったので、ここ(沖縄)まで連れてこられたと悔しがったりしたんです。

朝鮮人軍夫は家畜のように扱われた - 朝鮮人軍夫の沖縄戦 キム・ギョンデさん

軍夫が来てからの1月の間は、泛水訓練と基地隊の兵隊たちと少人数で丘陵に型ばかりの陣地作りをしていたのです。その頃、軍夫と陣地作りをしていた基地隊の勝又一等兵から聞いた話では、軍夫を連れて部落の東側の山に機関銃の陣地作りをしていた時のことで、小休止のとき彼が、「お前達は親兄弟に、無事でいることを知らせて行ったのか」と聞くと、「班長さん、私は軍の徴用ではなく、挑発ということで、村にいた時につかまり、いきなり軍用トラックに乗せられたので、それっきりです」と悲しそうな顔をしたので、ほかのものに聞くとそうだと言ったので、「それは気の毒なことを聞いてすまなかった。俺達兵隊もお前達と同じようなものだ。紙切れ一枚で召集されて、内地から来る時も、< お前らは南方に送られるのだ。うまく向こうに行けるかな > と言われ < まごまごしているとドカンと運送船がやられて鮫に食われるぞ > と言われたのだ」と言って、お前達と同じだと笑い合い、それからはタバコや菓子などを分けていたので、軍夫達も一等兵の彼を、班長さん、班長さん、と懐いていたと聞きました。

《『一衛生兵の沖縄戦記 血塗られた珊瑚礁』関根清 (JCA 出版1981年) pp. 184-185. 》

慶尚北道慶山郡に暮す若者たちの許へ、国民徴用令の「白紙」が届けられたのは、1944年6月中旬のこと。当時の戦況は、6月15日米軍サイパン島上陸(7月7日守備隊玉砕)。6月19日マリアナ沖海戦、日本海軍壊滅的打撃を受ける。7月米軍グアム、テニアン島上陸。7月18日東条内閣総辞職等々。次期戦場が東シナ海域であることも確実視され、沖縄防衛の第32軍の兵力が増強されようとした段階で、日本政府・軍部が本土防衛の捨て石とした沖縄へ、朝鮮の若者たちを送りこむことを企んだのであります。朝鮮総督府から慶尚北道へ通達された徴用人員は約3000人。さらに道から慶山郡へ割り当てられた人員は3000余り。これを面(村)に割りふり、各面長(村長)らが20歳代の青年名簿からえらんだ、といいます。有無を言わせぬ徴発・連行です。官憲一体の人狩りで、ある人は「ちょっと面事務所(村役場)に用事ができたので」とだまされ、ある人には「割のよい仕事がある」と甘言が投げかけられた。忌避、逃亡のおそれのある者は厳重に監視され、脅迫されています。誰もが破局に瀕した戦場へ送りこまれることを恐れていたのです。それでなくとも、収穫物のほとんどを供出させられた上、連年の凶作で農民は塗炭の苦しみの中にやっと生きていました。皆、田植えの最中、土足のまま引っ張られたり、寝込みを襲われて連れ去られたりして、拒否、逃亡は絶対にできませんでした。慶山郡では、青年二七人が「決心墜を結成、竹槍や鎌を持って山頂に籠城。徴用令発動に抵抗する、という「事件」さえ起きています。

《 「報告・朝鮮人軍夫の沖縄戦」 海野福寿 (1987年12月、駿台史学会1987年度大会) 》

 

奪われた名前: 創氏改名

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朝鮮人軍夫も朝鮮人慰安婦も「内鮮一体」の名目で「創氏改名」、つまり日本名を名乗ることを強いられた。沖縄陸軍病院南風原壕20壕の天井に刻まれた姜の文字。朝鮮半島出身者が自分の本名を刻んだと思われる。

日本名で刻まれた墓標

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「沖縄、日本兵さえいなければ、かなり快適な場所」

※ AI加工し墓碑銘を見やすくした。元の写真はリンク先からご覧ください。

1945年5月28日、米『ライフ』誌が記録した沖縄 - Osprey Fuan Club

この墓標の写真は、1945年4月の米軍の沖縄本島上陸後に来沖したであろう従軍カメラマン、ユージン・スミス本部町健堅で撮影したものである。米軍やその関係者が写した膨大な写真の検討が、これからなされるべき沖縄戦研究の一つであることを示してもいよう。しかし今回注目したいのは、その一つ一つの墓標に記された名前である。一人を除いてすべて「故陸軍々属~之墓」とあるが、その中に「故陸軍々属明村長模之墓」(右から4つ目)、「故陸軍々属金山萬斗之墓」(右から2つ目)という墓標があるのが分かる。「明村長模」「金山萬斗」は、竹内康人作成の『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』にも記載されている人物である。「明村」について竹内は、「明長模(ミョン・チャンモ)」という名であったことまで明らかにしている。「金山」については、琉球新報記者であった李ジニが、韓国人の協力を得て遺族を探しだし、朝鮮人軍属「金萬斗(キム・マントゥ)」であることを確認した。つまりおそらく偶然カメラは、沖縄に連行されていた朝鮮人軍属の名前を収めていたのである。墓標に名を記された者たちは、1945年1月、本部町渡久地港に停泊していた折、米軍の空襲によって炎上座礁した日本軍輸送船彦山丸の乗組員であり、明長模、金萬斗もその一員であった。

…(中略)… 軍徴用船彦山丸が炎上座礁した渡久地港は、朝鮮人軍属が配属された特設水上勤務第104中隊の第2小隊が荷の陸揚、運搬作業をしていた場所である。部隊は渡久地港のすぐ近くの健堅に駐屯していた。

沖縄戦時の朝鮮人の歴史を掘り起こす 呉世宗 | 残余の声を聴く――沖縄・韓国・パレスチナ | webあかし

駐車場の土地の所有者である○○さんは、発掘に賛成した。追悼式で会った我部さんは「母が、戦争当時日本兵朝鮮人をいつも殴っていたと話した。朝鮮人が乱暴に殴られる場面を見たと言っていた」と話した。

[ルポ]沖縄の朝鮮人軍属だった「萬斗、長模」は駐車場の地の下に捨てられたのか : 日本•国際 : hankyoreh japan

 

そのとき住民は・・・

沖縄諮詢会 - 郵便業務の開始

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終戦とともに発足した沖縄住民による行政組織沖縄諮詢会では、この頃通信部を設置、郵便の取り扱いを開始します。

沖縄諮詢会では、アメリカ軍政府から業務を引き継ぎ、1945年9月から郵便の取り扱いを開始します。当初は、各収容所から諮詢会に向かう人々をのせたバスを郵便にも利用、生活物資が無償配給だったこの当時、家族の安否をしらせる郵便も、無料で配達されていました。政情が落ち着くにつれ、街には郵便ポストも設置されていきますが、それはアメリカ軍が捨てたボンベを回収しポストに改造したものでした。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月31日(金)

 

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