〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月11日 『警察別動隊の沖縄脱出』

慶良間の朝鮮人軍夫 / 軍の事情、県の事情 / デテコイ役

 

米軍の動向

総攻撃当日

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Chapter 08 | Our World War II Veterans

5月11日、米軍の総攻撃が開始された。はじめのうちは全戦線とも密接な連携がたもてた。だが、まもなく部隊間の連絡は断ちきられ、米軍は、西側、中央、東側で、それぞれ相当頑強な日本軍に出会い、熾烈な戦闘にはいった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 336頁より》

第1、第6海兵師団を加えた4コ師団、プラス予備軍1コ師団。米の本領である砲撃、銃爆撃、戦車(火焔戦車)を惜しみなく注ぎ込んだ、力攻めがはじまった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 255-256頁より》

安謝(あじゃ)・天久(あめく)

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Hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-7

第6海兵師団工兵隊は、5月10日の夜から11日に深夜にかけて、熾烈な砲火のなかを安謝川にベイリー・ブリッジを架け、攻撃支援部隊の戦車や重砲類を渡河させた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339頁より》

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Hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-7

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米国海兵隊: First tank crosses the repaired bridge. The Japs in a suicide demolitions exhibition blew up the bridge. The enemy demolition team couldn't get away and 9 Japs were killed by the explosion.
修築した橋を最初に渡る戦車。日本軍の自爆行為によりこの橋は爆破された。その時、日本軍の爆破班は逃げられず、9人が死亡した。1945年 5月12日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

首里の高地から安謝の海岸はまる見えである。日本軍は、首里西部の丘陵地帯の砲兵陣地から、ずっと撃ちまくり、また歩兵も、砲兵と相呼応して激しく抵抗してきた。この砲火のなかを、海兵隊は進撃していかねばならなかった。第1大隊の一中隊長が、安謝の南方800メートルの地点にある丘の頂上に一分隊をひきつれて登ったが、防備は固く、ついに火炎放射器の射手1人をのぞいて全員が死傷した。

このとき、海上の米艦砲射撃部隊の主力が、岸近くの日本軍陣地に砲弾を撃ち込んだ。さしもの丘がくずれ、巨岩が頂上から日本軍の頭上に転げ落ちた。しかし、これは大した効果はなく、日本軍陣地に大損害を与えることはできなかった。そこで、ついにC中隊の突撃隊が、戦車隊と密接に呼応して、攻撃を加え、はじめて占領することができた。だが、C中隊の兵はわずか8名だけとなり、その8名も日本軍の反撃にあって丘にしがみついていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339-340頁より》

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One hundred yards from Sugar Mill on Asa Kawa River, outside Naha, Okinawa Island, one of our tanks is hit by Jap 47mm Anti-tank gun.

那覇の外れ、安謝川沿いにある製糖工場から100ヤード離れた場所で、日本軍の47ミリ対戦車砲の攻撃を受けた米軍戦車 (1945年5月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/85-38-2.jpg

Tank using flame throwers advance toward enemy positions.

火炎放射器を使用しながら敵陣へ向かって進撃する戦車。(1945年5月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

その同じ日の夕方、第3大隊の海兵隊は、天久村落の北側にあたる海岸の岸ちかくを、戦車隊や火炎放射器を動員して占領した。この進撃で海兵隊は、天久の北側の丘陵地帯から、いまは廃墟と化した琉球の首都那覇市を、見降ろすことができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339-340頁より》

日本軍に不利であったのは、嘉数の場合と違って、天久台方面は、戦車が活動できる地形だったこと。そうなると、守備軍は、陣地に拠って動かないのに、攻撃側は、戦車、火焔戦車、その上に艦砲射撃まで加わり、44旅団が急いで陣地について、四日間に構築できた急造陣地の防御力を上まわる火力で攻め立てることができる。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 259頁より》

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Men and tanks using flame throwers advance toward enemy lines.

[AIによるカラー化] 火炎放射を浴びせながら、日本軍の戦線を目指す兵士と戦車。(1945年5月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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ANCHOR HILL--Japanese dugout and trench heavily revetted and well-camouflaged with field of fire toward ASA KAWA.

“アンカー・ヒル”--安謝川向けの射界をもち、堅固に覆われ巧みにカモフラージュされた日本軍の塹壕と待避壕。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

この付近一帯、すこぶる堅固な陣地帯を形成しているので、アメリカ軍がいかに強引に攻め立てても、当分大丈夫持ちこたえると考えていた。しかるに、この大隊は、例の海上挺進基地大隊を臨時改編した訓練装備ともに不十分な部隊である上に、陣地についたばかりだったので、期待に反し一挙に突破され、天久部落西側495高地の洞窟陣地に拠る大隊本部は馬乗り攻撃を受けるに至った。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 302頁より》

沢岻(たくし)

5月11日の米第10軍の攻撃のなかでも第1海兵師団第7連隊の沢岻攻撃は、前日の熾烈な戦闘に引きつづいて、代表的なものであった。… 5月11日には作戦をかえて、沢岻丘陵の地形を巧みに利用していくことになった。このあたりの地形は〝馬蹄ガ丘〟に似て、峰は北方にのび、第7連隊の境界線にそって走っていた。丘陵の端のほうには低地帯があるが、ここは砲火がはげしく近づきにくい。第2大隊は右翼から丘の西端を攻撃し、第1大隊は、左翼から、両大隊ともけわしい山道を通って進撃していった。

第1大隊のほうでは、戦車隊と歩兵隊との共同戦術で、沢岻東部の斜面を、日本軍の猛砲火をあびながら、一歩一歩進撃し、午後のうちには峰の上までたどりついた。第2大隊もまたその作戦区域内の丘の峰の上まで進撃したが、大名高地からの激しい日本軍の砲火に見舞われてしまった。いまやこれ以上進撃を続行することは不可能である。頭をもたげればかならず撃たれた

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 354頁より》

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戦車隊と歩兵隊が共同で攻めた沢岻丘陵

DAKESHI RIDGE was attacked by these tank-infantry teams of the 7th Marines, 1st Division, in attempting to reach the eastern slope. 

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

首里を目前にする沢岻-大名の陣地を防御するため、第32軍は非戦闘部隊すら投入した。

…沢岻ー大名陣地を、牛島中将は、首里の円形防衛陣できわめて重要だとし、「あくまで確保せよ」との命令を下していた。

日本軍の第62師団は、まだこの地域にいて、5月11日から5週間にわたって、ずっと戦闘の成り行きを見守っていた。独立歩兵第11大隊が全滅し、第21、第23大隊もほとんど全滅に近い状態で、師団には、わずか600名だけがもともと同師団出身の兵として残っていた。牛島中将は、第64旅団の残存部隊を第63旅団に編入し、これに飛行場設営隊、野砲隊、海上挺身隊などを合流させて、6700の兵力をつくった。牛島中将は、第44旅団に沢岻を守らせ、最後の一兵まで戦いぬくよう命令を下した

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 353-354頁より》

石嶺(いしみね)

米第10軍の首里攻略戦は、5月11日にいたって、ふたたび第77師団のほうで蝸牛の歩みにおちいった。師団の2個連隊が、宜野湾ー首里の第5号線道路から南東の方向にある長く広がった谷間を、それぞれ反対側の方から攻めていったが、距離がありすぎるため、両連隊が相呼応するというより、お互いともに、隣接師団と緊密な連携をとらねばならないような状況下にあった。

第77師団の右翼を担当した第305連隊が、どのていど進撃できるかは、第1海兵師団の沢岻丘陵攻略の如何に大きくかかっており、また師団右翼の第306連隊は所属師団と、というより第96師団と、密接な連絡をとりながらしか、幸地丘陵西側の高台は進撃できなかったのである。この第77師団の進撃を迎え撃つ日本軍は、第24師団(雨宮中将)、第32歩兵連隊の2個大隊、これに首里防衛隊や独立4個大隊が合流していた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 363-364頁より》 

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ADVANCE ON OKINAWA / Three Riflemen of the 77the division take cover behind coral rocks and fire on Japanese Positions, during an advance on Okinawa.

石灰岩の岩陰から日本軍に向けて発砲する第77歩兵師団の3人の射撃手  (1945年5月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

石嶺: チョコレート・ドロップ(130高地)大名高地

首里の周りには、幾多の強固な陣地があったが、そのなかでチョコレート・ドロップ山は、一見、まったくなんでもないような山に見えた。この名前は、第77師団本部ではまだ130高地と呼んでいるころ、兵隊たちがいつの間にか、そうつけたものだが、…平地から、そこだけが急に盛り上がっていて、頂上の近くには茶色の山肌が見え、あたかも…チョコレートでつくったドロップ玉のように先がとがっていた。(373頁)

チョコ・ドロップの近くには、沖縄最大の地雷敷設地があり、その周囲には、丘陵の陣地をそなえていた。空いているところは、米軍が進撃してくる北のほうだけだった。… 5月11日の午前7時、米軍歩兵はまず30分間の予備砲撃を加えたのち、進撃を開始した。第306連隊の第3大隊は師団左翼(東側)に全力を傾けることになった。ところが、約200メートルほど進んだと思ったら、雨あられのように降る砲弾に、進撃を阻まれた。一面に交差する砲弾は弁ガ岳の北側をおおい、ここでも米軍は進むことができなかった。午前9時には、一中隊は丘の北側のふもとで接近戦にはいり、他の部隊も左翼で日本軍の塹壕にはいり、進撃できなくなってしまった。

チョコ・ドロップ攻撃に際して米軍は、戦車、自動操縦砲、野砲、迫撃砲、その他、歩兵の重機などで攻撃を支援したが、これも丘陵裏側に構築してある日本軍陣地までは、届かなかったようだ。チョコ・ドロップを真正面から攻撃しようとした米軍の一小隊などは、最初の2、3分で12人もの戦死者を出した。日本軍の47ミリ対戦車砲は、広場を横切ろうとした米軍戦車隊に向けて発射され、2輌が撃破され、6輌に損害を与えた。その他の1輌は無限軌道をやられ、後でまた爆薬を投げつけられて、ついに擱座した。この日、米軍第3大隊は、とうとう33人の死傷者をだしたまま、前の夜の米軍戦線まで後退せざるをえなかった。(374-375頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 374-375頁より》

幸地: ゼブラ高地周辺

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前線の偵察基地から高射砲の砲撃を見る第96師団第382歩兵連隊第3大隊の兵士。大部分が白リン砲である高射砲は歩兵部隊の援護のためである。(1945年5月11日撮影)

Men of the 3rd Battalion, 382nd Infantry, 96th Division observe artillery fire from a forward observation post. The artillery fire, mostly white phosphorous shells, are in support of our infantry.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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火炎放射戦車/沖縄侵攻作戦中、日本兵が隠れている石灰岩の丘を攻撃する第713火炎放射戦車大隊(1945年5月11日撮影)

FLAME-THROWING TANK / The 713th Flame-Throwing Tank Battalion Destroys Jap Escarpments on coral ridge, during the Okinawa Campaign.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

運玉森 (コニカル・ヒル) 付近

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

5月11日、総攻撃がはじまった。まず迫撃砲で予備砲撃の後、B中隊はイージー高地をなんなく占領し、そこから谷間の道をつたって、フォックス山頂上の陣地を分捕った。C中隊は飛び石づたいに日本軍の陣地を殲滅し、ついにチャーリー高地頂上に達したが、これは確保までにはいたらず、米軍は、2、3メートル離れた丘の裏側に壕を掘ってたてこもっている日本軍と、長時間にわたる榴弾を展開したのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 385-386頁より》

 

特攻機対応と被害

神風特攻隊150機の襲来。空母「バンカーヒル」の火災で346名が戦死した。

米軍が総攻撃を始めたのと同じ日、第6次神風特攻隊150機が、沖縄海域の米艦船と機動部隊を襲撃した。それは、さいごの賭けだった。神風機はほとんどが撃墜されたが、その特攻ぶりは一米軍医の表現をかりると、「まるで四方八方から飛行機の大旋風が襲いかかった」というほど果敢をきわめた。その結果、機動部隊指揮官のミッチャー中将は旗艦のバンカーヒルがやられ、司令官旗をエンタープライズに移したがそれも大破されたので、さらにそれをべつの航空母艦に移さなければならなかった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 130頁より》 

アメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)、1945年5月11日の沖縄侵攻を支援していた最中、日本軍特攻機が2機突入し、飛行甲板に大損傷を受けた。これは、日本海零式艦上戦闘機(250キロ爆弾搭載)による爆撃と体当たりで、火災が発生したために、黒煙を上げた。しかし、機関は保持されていたために、自力で航行し後退することができた。この損害は、戦死346名、行方不明43名、負傷者264名の大きなもので、「バンカーヒル」はウルシー基地で応急修理をした後、真珠湾経由でワシントン州ブレマートン基地に帰還し、損傷修理に当たった。 結局、「バンカーヒル」は、終戦までに修理は終わらなかった。戦後は、海外のアメリカ兵を本土に帰還させる「マジック・カーペット作戦」に投入された。

特攻機による戦果:カミカゼ特攻機命中率56%の虚報:特攻の戦果の検証 鳥飼行博研究室

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USS BUNKER HILL (CV-17) hit by 2 Kamikazes in 30 seconds on 11 May 1945 off Kyushu. Dead:372 Wounded:264

30秒間で神風特攻機2機の体当たりを受けることになった空母バンカー・ヒル(CV-17)。1945年5月11日、九州沖にて。死亡者372人。負傷者264人。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米国海軍: Casualties on USS BUNKER HILL (CV-17) after being hit by Jap suicide planes. Dead in passage opposite ready room #2.
日本軍特攻機の攻撃により犠牲になった兵士。空母バンカー・ヒル(CV-17)にて。第2乗員待機室向かいの通路で命を落とした。1945年 5月 11日     

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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Casualties on USS BUNKER HILL (CV-17) after being hit by Jap suicide planes. Bodies lying on deck.

日本軍特攻機の攻撃により犠牲になった兵士。空母バンカー・ヒル(CV-17)にて。甲板に並べられた遺体。(1945年5月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本軍が開発した自爆人間ロケット「桜花」は、その人的犠牲にも関わらずほとんど戦果を挙げることができないでいた。5月11日、駆逐艦ヒュー・ハドレーとエヴァンスは二時間にわたる攻撃を受け、それぞれの艦で28人と32名が戦死した。ヒュー・ハドレー突撃のうちの一機は「桜花」だった。

我々にとってのクライマックスはその朝の9時20分頃、10機の神風が一度に襲いかかってきたときだった。4隻が左舷船首から、4隻が右舷から、2隻が船尾から突撃してきた。彼らは、今度こそ我々を捕えたと思っただろう。まあ、我々はまだ生きていますが、(特攻機の) ジャップは生きてはいない。10機すべてが追撃された。

Kamikaze Destroyer: USS Hugh W. Hadley (DD774)

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Okinawa, Ryukyu Retto - Left side of the Jap Baka plane showing the pilots position. Baka is the recognition code name for the ship and is Japanese for fool. To this date (11 May 1945) the Baka has been little used and has been very ineffective.
左側面から見た日本軍特攻機「バカ弾」の操縦席。「バカ弾」は特攻機に対する識別コードであり、日本語では「ばか者」を指す。この日(1945年5月11日)まで「バカ弾」はほとんど使われずその効果を発揮していない。沖縄。
撮影地: 沖縄 (1945年5月11日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

朝鮮人軍夫の収容

1910年、韓国を併合し植民地とした日本は、日本国内の労働力不足を補うため植民地からの労務動員を計画し、多くの朝鮮人を強制的に連行した。言葉もわからないまま沖縄に連行 (徴用) された「軍夫」は、日本軍の下で港湾作業や基地構築の労務員として「特設水上勤務中隊」(水勤隊) に配属された。

戦時日本の動員確立のため、1944年6月17日、日本軍部は朝鮮半島の道知事と郡守と謀り「応徴士徴発」を発布・示達した。これは、1941年に公布された「国民徴用令」とは異なり、「軍夫徴発令」と呼ばれる新たな朝鮮人の戦争動員法制で、動員年齢も満20~30歳と若く、朝鮮人青年層の根こそぎ動員がここに完成したと言われている。

保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言上針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 (2015年) p. 436

沖縄県史 各論編6 沖縄戦』(平成29年3月刊行、平成30年6月2刷)p. 607.

畑で仕事をしていると巡査と役場の職員が来て「警察署に来い」と言われました。着替える暇もなくそのままの格好で行きました。警察に行くと、警務主任が「諸君、恐れるな。ヨンヤン郡(キョンサン(慶尚)北道東北部)から170~180人がテグ(大邱)の飛行場の工事をするだけだから。2、3か月で帰れる」と言いました。

カン・インチャンさん証言 阿嘉島 ~ 銃殺された朝鮮人軍夫 - Battle of Okinawa

特設水上勤務第103中隊の朝鮮人軍夫。

(朝鮮人軍夫について) 座間味島には310前後、阿嘉島には210人前後、慶留間島には140人前後駐留したことになる(合計約660人 )。

《沖本富貴子 「沖縄戦朝鮮人 : 数値の検証」沖縄大学 (2018) 》

「4月の中旬あたりから、朝鮮人軍夫の投降が頻繁にある」と言う情報を、隊長は得ているわけだね、「こいつらを勝手に行動されたら、こっちが危ないんだ」という事で、強制的にこういう事を、やったって事でしょう。で、つかまった人たちは、わざと、野田山の艦砲、米軍の射撃のターゲットになる地域に、わざと、手をくびって一晩中、さらすわけね

阿嘉島からの証言 ~ 垣花武一さん - Battle of Okinawa

軍にロックダウンされた島の運命。

45年4月頃、「今後阿嘉島にある草木類は天皇陛下の所有物である。許可なくこれを採取したものは死刑に処す」 という命令が下され、食糧事情が悪化するにつれ、食物を奪いあって同士討ちをした兵隊、飯盒を盗み死刑に処せられた者、銃殺された五人の朝鮮人、死刑寸前に逃亡した防衛隊、半殺しにさ れた住民がいた、と証言する。

座間味村編集委員会編『座間味村史 下巻』1989 100頁

日本軍に処刑される軍夫も少なくなかった慶良間諸島で、運よく逃亡し米軍に投降する者たちもいた。

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水上機母艦に所属する小規模の特派部隊によって捕まえられた、朝鮮人軍夫捕虜19人のうちの14人。同艦は、第1航空団と共に活動する。背後に写るのは、慶良間列島慶留間島水上機母艦ケネス・ホワイティング(AV-14)から撮影。(1945年5月11日撮影)

Fourteen of the 19 Korean prisoners captured by a small detail from a seaplane tender operating with FAW I. Behind them is Geruma Shima, Kerama Retto. Taken by the USS KENNETH WHITING (AV-14).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

現在発見されている朝鮮人軍夫の捕虜調書は41人分ある。

米軍捕虜調書における朝鮮人軍夫の証言

沖縄戦の開始から終わりまで、朝鮮出身兵士や軍属・軍夫が異口同音に述べた言葉は、「憎しみ」であり、「怒り」であった。今回の調書にもまた「憎しみ」という表現が記載されており、それだけ強く彼らは日本軍の朝鮮人に対する残虐非道な振る舞いやその行為を非難したのであろう。

保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言上針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 (2015年) p. 461

6月22日に投降した文サンチョ兵卒(22歳 朝鮮慶尚南道出身)の米軍捕虜調書から

「捕虜は、日本人が嫌いで、彼らが朝鮮を支配していることに憤慨している。捕虜は、陸軍に入隊する前、地下組織の活動家であった。朝鮮で小磯国昭総督を暗殺しようと図ったが、それは失敗に終わった。彼によれば、これら組織は多数あり、その数は3千にも及ぶという。しかし、それら組織のほとんどは活動家が日本軍に徴用されたため、現在は活動を停止しているという。朝鮮には、徴兵令は施行されていないが、朝鮮人は日本軍に強制徴用されているという。捕虜は、朝鮮人が日本に対し革命を起こすのを確信しており、米国は軍隊を派遣し彼らの国に進攻すべきだという。彼はまた、仮に皇居に爆弾を落とせば、最高位の軍関係者は自決を遂げるのは間違いないだろうと確信している。沖縄にいる日本軍は、沖縄が失陥することを知ってはいるが、日本は数年を経ずして勝利を治めるだろうと確信している。日本兵は、米軍宣伝ビラをほとんんど信じてはおらず、彼らは最後まで戦うつもりだ。」

保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言上針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 (2015年) p. 453-454

米国海軍: Lt. Comdr. Loring F. Hayward, USNR, executive officer of the USS KENNETH WHITING (AV-14), Capt. Raymond R. Lyons, USNCO, and the leader of the Korean surrender party after an unsuccessful interview hindered by language difficulties.
降伏した朝鮮人軍夫一行のリーダー。言葉の壁により上手くいかなかった尋問後の様子。1945年 5月 11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

日本軍の動向

第32軍の動向

首里の西側を守る日本軍は、独立混成第15連隊、独立混成第44旅団で、その他にも独立対戦車第7大隊、海軍迫撃砲中隊、および海上挺身隊の兵およそ700名からなる独立1個大隊が加えられていた。これらの部隊は、迫撃砲や機関銃、小銃なども十分に装備しており、戦闘が進展するにつれて、増援部隊が第44旅団からぞくぞくと送りこまれていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 354頁より》

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白い煙は沖縄本島南部の日本軍陣地の近くで155mm榴弾砲や105mm榴弾砲が爆発したことを示している。航空写真は第3水陸両用軍団のパイパー小型機から撮影(1945年5月11日撮影)

White puffs of smoke indicate shell bursts of 155mm Howitzers and 105's land near Japanese positions on Southern Okinawa. Aerial photo taken from Piper Cub used by III Phib Corps for aerial observation.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小禄海軍、主力部隊を陸軍に提供

沖縄方面根拠地隊: 小禄の海軍 (大田実海軍少将) は、首里の陸軍による出動要請に抵抗するが、主力の4個大隊およそ4,800人*1を提供することを強いられる。

この日、小禄の海軍部隊には、牛島司令官からの「有力なる一部をもって依然小禄地区を守備せしむるとともに、主力をもって陸軍部隊と一体となり、首里周辺の戦闘に参加せよ」という命令が来た。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 256頁より》

大田少将は「残る兵力は重火器を使用する能力なく、槍を主体とする烏合の衆となると反対したが、結局、11日の出動命令に応じざるを得なくなった。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 295頁より》

 

沖縄島からの脱出 - 警察特別行動隊

前日の5月10日、第32軍司令部は航空参謀を東京に送り込む計画を立てたが、その神直道の日誌には「政府に対する連絡」として「沖縄県人は…精神的中核なし…消極的に協力」「学徒は駄目」「本県人のスパイ」など、悪意に満ちた内容が記されており、明らかに戦況の悪化を「沖縄県人」に転嫁するものであった。司令部のこうした傾向に対抗するように、沖縄県はまた別動として警察特別行動隊を結成、東京へ連絡員を送ることとなった。小禄の海軍のバックアップもあった。

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

…島田や荒井の慌ただしい動きから見て、大田少将ら海軍側から切迫した戦況について情報を得たと思われる。なぜなら、… 証言によれば、長参謀長はこの期に及んでも、戦況を聞きに来る警察部の情報連絡員や新聞記者に対し「もはや諸君は情報を聞く必要はない。そんな暇があれば、早くちょうちん行列の用意をしろ」とはぐらかし、島田や荒井に対しても、ありのままの戦況を腹を割って話すことはなかったからである。… 女子職員らの第一次脱出が失敗に終わった翌日の5月11日夜、… 警部補は、「すぐ部長室に来るように」と呼ばれた。… 次のような内容だった。

「戦況は米軍に空、海とも圧倒され、援軍はもちろん軍需物資の補給路も完全に断たれ、県民の必需物資の補給も全く出来ない状態に陥っている。陸上の戦闘でも、米軍の陸海空からの近代兵器による昼夜を分かたぬ砲爆撃が激烈で、我が第一線防衛陣地は日毎に後退し、最前線では混乱迷走の状況にある。首里の球部隊(第32軍)司令部の撤退も間近のようで、友軍の敗北は残念ながら確実のようだ。

内務省への通信手段も制約され、わずかに電信で緊急重要事項だけでは発信しているが、これとて間もなく出来なくなる見通しだ。沖縄戦が始まってから今日まで、県民は砲弾の飛び交う中で時給自足のための食糧の増産に励み、日本軍の後方作戦にも協力し、我が国の勝ちを信じて献身的に働いて来た。この県民の姿を内務省に報告しておかなければならないが、現実はその手段がない」…荒井は思い切ったように、再び口を開いた。「そこで、内務省への報告の重責を負ってもらう警察特別行動隊(通称・警察別動隊)を編成することにした。君は今、警備中隊の分隊長として活動しているが、別動隊の隊員として沖縄を脱出し、あらゆる手段で東京へ行き、内務省沖縄戦の戦況を克明に報告してもらいたい」… 任務の遂行方法について…説明があったが、隊員が最も心強かったのは、「陸、海軍でも同様の任務を持つ行動隊を編成し、陸軍省海軍省への報告を行うことになっている。警察別動隊の脱出用舟艇や食糧は海軍司令部が調達してくれるので、緊密な連絡を取れ」という点だった。また、行動隊の任務については「警察部の直属上司、同僚にも話すな。表向きは住民地域に入り、民心の安定を図る特殊任務につくことにしておけ」、日程は急を要するので、明朗、警察部壕を出発」ということだった。」

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 300-304頁より》

 

そのとき、住民は・・・

「デデコイ」役

米軍が設けた田井等収容所にいた住民の中には、前線で住民に投降を呼びかけるという任務を米軍から与えられた男性たちがいた。投降を促す「デテコイ」役として選ばれた数人は、数日前から米海兵隊の第29連隊とともに牧港付近にいて、壕を巡った。

潮の退いて行ったような戦線は、唯荒涼たる破壊の跡が目につくだけで、附近の壕という壕の中は日本軍の敗残兵も、住民の姿も無かった。ただ仲西飛行場附近の自然壕が、いかにも怪しいので先ず一行の注意を惹いた。「出て来い」… 声が虚ろな空洞に空しく響くだけで、一向手応えらしいものがない。… 片足を壕内に踏み入れた時、生温かい空気に混じって激しい死臭がプンと鼻を衝いた。死臭は、壕の中の横穴に、無数に転がっている死体から発していることが解った。

勢理客及び沢岻の線に、最前線を布いていた米軍が更に前進したので、第29連隊本部は間もなく勢理客と沢岻間の丘の蔭に駐屯した。日本軍の拠っていた陣地は、米軍に押されるままに、首里那覇の線に後退したため附近の陣地は何れも藻抜けの殻にすぎなかった。勢理客では、人の潜んでいそうな壕を発見した。そこでも、「出て来い」と叫ばれた。つい2、3日前までは日本軍の陣地であっただけに、そこでは細心の注意が配られた。…壕は深くて、奥につきあたって尽きたかと思うと、更に右に折れて続いていた。「出て来い」…と叫んだ。不気味な沈黙を破って、微かに「はい」という声がきこえた。全身を耳にして両人がなおも進んでいくと、人の声が急に下の方から響いてきた。「明かりをつけろ」とどなると、「負傷して一歩も動けぬから、済まぬがそっちで明かりをつけてくれぬか」と弱々しい声で答えた。じっと息を殺して内部を窺っている、と、パッと前の壁に灯りが反射した。そこは壕の中に井戸のように垂坑道があり、灯りはそこから反射していた。負傷兵らしいのがうずくまっていた。…彼は足をやられたために日本軍から置き去りにされていた。負傷兵は壕外で、米兵の応急手当を受け、後方の野戦病院へ送られた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 172-173頁より》

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With the aid of a civilian agent, a Marine officer surveys enemy positions on Okinawa.

民間人の助けを借りて日本軍陣地を調査する海兵隊将校

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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*1:保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ- 下』348頁