〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月15日 『それぞれの〝終戦の日〟』

国体護持 / 宇垣特攻 / 「耐え難きを耐え」

 

日本の降伏「終戦詔書

日本は8月10日未明ポツダム宣言受諾を決定、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。その日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、日本の国民には15日の玉音放送まで伏せられた。

1945年8月15日正午

終戦詔書」、いわゆる「玉音放送」がラジオで放送された。国民はこの放送で初めて「敗戦」を知ることになる。

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終戦の玉音放送を現代語にすると...「耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して…」BuzzFeed Japan 201

この時に発表された天皇の戦争観と敗戦声明とはどのようなものだったのか。守るべきものは「国民」ではなく、「国体」だった。

昭和天皇の敗戦声明《現代語訳》

… 忠実なあなた方臣民に告ぐ。… アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定を願うからであり、他国の主権や領土を侵すようなことは、もともと私の思うところではない。… その上、敵は新たに、残虐な爆弾を使用して多くの罪のない人を殺し、被害の及ぶ範囲を測ることもできない。… 私は、東アジアの解放のために日本に協力した友好国に対して、遺憾の意を表せざるを得ない。けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して、人類の未来のために平和の実現を計りたい。…  ※ 私はここに国体を守ることができ、忠実な臣民の真心を信じ、常に臣民とともにある。…

玉音放送を現代語訳で「耐えられないことにも耐え」【終戦記念日】 | ハフポスト

国体とは「特に日本では天皇統治の観念を中核とした国のあり方をいう。幕末から第二次大戦前にかけて、民族的優秀性を示す概念として用いられた。国体明徴運動。」(精選版 日本国語大辞典)

国体護持とは「天皇制の核心である天皇の地位・権威・権能を保全すること。」(岩波日本史辞典)

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アメリカ東部時間(東部戦争時間)14日午後7時、トルーマン大統領がホワイトハウスで記者会見し、日本の降伏を正式に発表。8月14日が対日戦勝記念日VJデー」となる。オーストラリアのハーバート・エバット外相兼司法長官、ラジオ演説で、国際戦争犯罪法廷で昭和天皇戦争犯罪人として訴追すべきだとの意向を明らかにする。「天皇は単なる操り人形だったとは考えられない。裕仁天皇は日本を戦争に導き、慈悲なき戦いを遂行した」と主張。

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朝鮮半島京城(現・ソウル)では、日本の敗戦に伴い日の丸が降ろされた

【戦後70年】玉音放送へ未明の攻防 1945年8月15日はこんな日だった

 

米軍の動向

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MARINES GET THE WORD: 1st Div Mar crowd around a radio jeep and listen to the announcement that the war is over. Japan has accepted the Allied peace terms. The 1st Div was the first unit to stage an offensive in the Pacific.

無線ジープの周りに大勢集まって、戦争終結のアナウンスを聴く米海兵第1師団の兵士たち。日本は連合国側の平和条約を受諾。この第1師団は太平洋で最初に攻撃を展開した部隊である。(1945年8月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Officers of the 11th Marines who fought on Oki., form a human V for Victory on V-J Day. In front is Lt. Col Richard W. Wallace, Bn. Comdr, 98 Meridan Ave., Southington, Conn.

対日戦争勝利の日、リチャード・W・ワレス中佐を先頭に勝利のVサイン人文字を作る海兵隊第11軍の将校たち。(1945年8月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍の動向

玉音放送」後の特攻

沖縄近海で多くの若い命が散った特攻作戦は日本の敗戦最後の犠牲者を出して終わりました。海軍中将宇垣纏。太平洋戦争開戦時は連合艦隊参謀長で、沖縄戦では4月から展開された特攻作戦、菊水作戦を指揮しました。終戦までに、沖縄近海で合わせて特攻機1800機以上特攻隊員3000人以上の犠牲を出した菊水作戦。

8月15日正午の玉音放送、作戦を指揮した宇垣は、11機の特攻機を準備するよう指示。特攻機の前で笑顔で最後の記念撮影に臨む宇垣。その後、自ら特攻機に乗り込み、部下を含めた、11機22人は夕方、大分基地から沖縄に向け飛び立ちました。宇垣の乗った特攻機伊平屋島の海岸に突っ込んだとされています。これが最後の特攻隊でした。

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《 琉球朝日放送 報道制作部 Qプラス » 65年前のきょうは1945年8月17日(金)

宇垣纒中将が中津留達雄大尉に命じた最後の特攻では、出撃する隊員に「敗戦」は知らされていなかった。17名の隊員が犠牲となった。

私たちは正午に、天皇陛下の重大放送があったことについては何も聞かされなかった。午後何時頃だったか覚えていないが「沖縄に特攻をかける」との命令がきた。... 午後四時、われわれ二十二名は二列横隊で指揮所前に整列した。私は右から三番目に並んだ。日の丸の鉢巻の裾を長く背中に垂らして、 次の命令を待っていた。やがて黒塗りの乗用車が三台近づいてきた。私は内心驚いた。高官たちが揃って見送りにくるなんて初めてのことである。更に、第五航空艦隊司令長官の訓示があると告げられた時は耳を疑った。第三種軍装の宇垣中将が折り畳み椅子の上に立ち、「本職先頭にたって、今から沖縄の米艦艇に最後の殴り込みをかける。一億総決起の模範として死のう!」と言われ、山本五十六元帥から戴いた短剣をぐっと前に突き出された。われわれも一斉に、「ワーッ」と歓声を上げ右の拳を突き上げた。

《 二村治和「白菊特攻隊」from 永末千里『かえらざる翼』海鳥社 (1994)  》

宇垣纏

終戦だったっていうのを全然私は知らないわけです。そのときにもう一般の隊員は、終戦の話をされるから広場に集まれということで、広場に集合していたらしいです。我々は知らないから、飛行場に、指揮所に行ったわけですね。… もう終戦になっているから、敵は引き揚げて沖縄からおれへんの(いないん)ですよ。我々が沖縄に行ったときには、もうもぬけの殻で誰もいないわけですよ。爆弾をあんた、島に落としたって民家を焼いてもしょうがないし。友軍の兵隊を殺してもいかんので、爆弾だけを海に行ってダーンと落として、「基地に帰るぞ」というので引き返してきたのね。ところがもう、途中で燃料切れでみんな海にボチャンボチャンと不時着したわけですよ。そのときに私も不時着したんですよ。

川野 和一さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

6月3日伊平屋島に上陸した米軍は、住民を強制収容し、電波基地局や小飛行場を建設していた。11機のうち宇垣中将をのせた中津留大尉の「彗星」を含む2機は伊平屋島の前泊の海岸に到達したが、米軍基地には突入することなく海岸に墜落*1した。宇垣は自ら「自決」できず、11機を道連れにしようとしたと考えられている。

 

終わらない沖縄の戦場 - 敗残兵の8月15日

第32軍最後の指令の後、多くの兵士・学徒兵が終わりのない戦場を生きていた。

国頭突破の途中、一中通信隊の学徒兵が見た光景

1カ月ぐらいそのジャングルにいた。あたりが静かになっていて、腹へったもなく、悲しいもなく、虚脱状態でした。8月4日か5日か・・10日ごろかな、北部に行こうと、曹長とふたりで、夜、真っ暗になってから。敗残兵がウロウロしているから、東風平にいって壕に隠れていたら、通信隊のメンバー6名と遭遇して。大きい壕があったのでそこに隠れていたら、与那原(東風平の東)の空にものすごいサーチライトの光がバラバラッ―とやるんです。何だろう?特攻隊きてるのかなと思ったですよ。それが8月15日のことだった。後で分かったんですが、米軍が勝ったお祝いをしていたんだそうです。祝砲ですよ。艦船からね、祝砲あげて。

《 戦場体験史料館 http://www.jvvap.jp/miyahira_seigen02.pdf

敗戦の日以来、残存将兵たちへの投降の呼びかけが連日活発に行なわれたが、容易に成果が上がらなかった。摩文仁の海岸洞窟にひそむ日本兵も民間人も、日本の敗戦を信じようとせず、米軍の掃蕩兵に撃たれたり、逆に米兵が殺されたり、相変わらずの戦闘状態が続いていた。

渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) - Battle of Okinawa

 

捕虜収容所の8月15日

軍作業の捕虜

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This Jap POW wanted a glass of beer and the day off when he was told of Japan's surrender. But because no work had come thru yet to release him, this Marine guard, right, kept him working.

この日本兵捕虜は日本の敗戦を聞いて、1杯のビールと休みを欲しがった。しかし解放する手続きはまだ何もなされていないため、海兵隊の哨兵(右)は彼をそのまま働かせた。(1945年8月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

その夜、上気した顔のジョー高橋が幕舎にやって来て、缶ビールを前に置いて語り出した。「日本はついに降伏しました。もう少し早くしておれば、沖縄でこんなに多くの人が死なずにすんだのに、遅すぎました。… 」

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 68頁より》

 

朝鮮人軍夫の「終戦の日

私たちがいた屋嘉の収容所には、日本兵が約1500人、朝鮮人が約500人いました。朝鮮の人たちのいろいろな話を収容所では聞きましたが、大変かわいそうな状態でした。そういうこともあってか、8月15日、一番最初に終戦アメリカ軍が知らせたのは、朝鮮人の幕舎(収容キャンプ)でした。日本人より先にです。そうしたら、朝鮮人が一斉にドラム缶をガンガンたたいてワーと歓声をあげて踊りくるって喜んだのをいまだにわすれません。私たち日本人は、捕虜になっていても、負けるのがわかっていても、日本が負けたというのは複雑な気持ちで受け止めるざるを得ませんでしたので、みんなしょぼんとなっていました。
「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」の著者、渡辺憲央氏の証言

 

そのとき、住民は・・・

「敗戦」の知らせを聞いた住民たち

上記に見るように「玉音放送」では、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の主語は、発話者の昭和天皇であるが、実際に耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできたのは国民だった。

8月15日、沖縄の各地では、米兵たちが小銃を空へむけて乱射し、「戦争は終わった」といって歓声をあげた。これを見た収容所の難民たちのなかには「日本軍の逆上陸だ!」といって恐怖におののいた人たちもいたという。

《 読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争 より》

実際ラジオを聴くことができた県民は少ない

しかし家は焼け、着の身着のまま逃げ惑った沖縄県民のほとんどは、玉音放送があることさえ知らなかった。一般住民で玉音放送を耳にした人はそれこそ少ないが、久米島の米軍のキャンプ近くに住んでいた徳田球美子さんは、米軍から「大切な放送がある」と言われラジオを聞いた。小学2年生だった徳田さんの記憶に残るのは、焼け残った奉安殿にでんと置かれたラジオと、独特な抑揚の声である。漢語の多い文章は難解で「何のことか理解できなかった。日本が負けたということは後で分かった」と話す。

《 社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]玉音放送 共有されなかった体験 | 社説 | 沖縄タイムス

米軍野戦病院: 久志村

1945年8月15日。その日の朝、何時ごろだったろうか。看護兵の姿もなかったから、早い時間であったと思う。突然、米軍キャンプの辺りで銃声が響いた。叫び声も起こった。歓声であった。入院患者は顔を見合わせた。今ごろ友軍の斬り込みでもあるまいとは思ったが、今まで例のないことだったので、不審というより不安を感じた。そこへ、ウィットン看護兵が姿を見せた。彼は酔っぱらっていた。何やらしゃべっていた。上機嫌であった。通訳の新川さんが訳を聞いた。新川さんは俗にいう、〝ハワイ戻り〟で、英語の達者なおばさんであった。新川さんが深刻な顔で話していたが、やがて、手を挙げ注目を促した。

戦争は終わったと言っているよ」新川さんの声に、テント内に緊張が走った。

日本はアメリカに降参して、戦争は終わったと、ウィットンは言っているよ

誰も言葉を発しない。緊張は重苦しい沈黙になり、やがて嗚咽に変わっていった。これまで、人々は、1日も早く戦争が終わるように願っていた。戦争が終わるということは、日本の敗戦を意味していることも承知していた。それが現実になったとき人々は押し黙り、泣いた。

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 115-116頁より

美里村桃原の収容所で

8月15日突然軍艦や米軍の部隊からすさまじい大砲の音が響いた。もしや友軍の飛行機が射ち落とされたのではと心配になった。ところが「日本が無条件降伏をした、その祝砲だ」と本部から知らされた。やっぱり敗戦かと頭をおさえ、心が沈んだ。日本帝国は昔から戦いに負けたことのない強国だと教育を受けて信じていたのにこんな誤った政治政策をした日本軍を、つくづく恨んだ。軍国精神の強かった夫がどんなに悔んでいるのか家族離ればなれで辛い思いをして空腹のまま弾の中に散った庶民の哀れさをどうつぐなえばよいのかと朝夕悩んだ。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 209頁より》

 

収容所 -「歓び万歳する沖縄人」の撮影

収容所の収容者が集められ、右側にいる米軍担当者の指示に従って「喜び」を演出し、それをカメラマンが撮影している。

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海兵隊: Okinawan natives have been told of the Japanese surrender by their interpreter and are cheering.

日本軍が降伏したことを通訳から聞き喜ぶ沖縄の地元民。(1945年8月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

8月15日、制服姿の若い米軍将校が通訳を伴って校長に会いに来た。聞けば、日本の無条件降伏を祝して、全校職員と児童に万歳をさせろということであった。何事かと職員と児童たちはすでに集まっていた。校長は、教頭どうぞと言うふうであったが、教頭も笑って相手にしなかった。米軍将校は、この間おだやかに静観するだけであった。やがて校長は、おもむろに服をただし、蚊の鳴くような声で、手を半分ほど挙げて「バンザーイ」と叫んで、重大任務を果たした。米軍将校は「サンキューヴェルマッチ」と言って帰った。その将校は、米軍が琉球住民の敵日本軍を降伏させたのだから、当然琉球の人々も大変喜んでいるものと考えていたのだった。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 男性の証言

日本の敗戦の日8月15日のことです。米軍から「生徒を引率して旧久志国民学校の校庭に集合せよ」という命令がきました。学校へ行ってみると星条旗が上がっています。私たちは、事情をのみこめませんでした。米軍将校は私たちを整列させて

「あなたがたはもう日本人ではないアメリカ人になったのだ。星条旗のもとに並びなさい。日本の天皇は8月15日をもって我々に降参した。あなたがたはアメリカ人になったことを自覚しなさい」というのです。

私たち教師は、これを聞いて泣きました。幼稚園の子どもたちは、なんのことかわからないので、キョトンとして先生がたの顔を見つめています。米兵は、さらに言葉をついで「今日は、そのお祝いにお菓子を2つずつあげます。」というのです。米軍の野戦食糧のレーションが配られました。子どもたちは大よろこびです。レーションを2つもかかえて、はしゃぎまわっています。

先生がたは涙を流しながら「ジョーイ ウリンデーカムミ サクンジティ ウッターヤナアメチカーターンカイ コーサンセーンディルムン(こんなものを食べるものか、しゃくにさわる、こんないやなアメリカーに降参したなんて)」といって憤慨しています。

私たちは生徒をつれて海岸に行きレーションを岩にたたきつけて捨ててしまいました。これを見ていた子どもたちは「シンシーターヤ クサミチョーッサー クワンジミシカンヌーガヤラ ワッター ヒッティカマ(先生がたは怒っているよ、カンズメを好かんのかな、拾ってきて食べようよ)」といっているのです。飢えていた子どもたちの姿と、皇民化教育をになってきた教師たちの姿をまざまざと思いおこします。

《「島マスのがんばり人生 基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 73-74頁より》 

※「アメリカ人になった」実際に沖縄人がアメリカ人になったのならば米国憲法権利章典*2が適用されるはずだが、沖縄ではその後27年間、憲法によって守られない状態が続く。

… ある日、生徒の集会所になっていた海岸に、私たち生徒は集合させられた。旧瀬嵩国民学校に駐屯していた米軍部隊から将校が来ていたのである。めったにないことなので珍しかった。なにやら大変うれしそうに話をした。通訳がいたかどうかは覚えていない。なにを話しているのか分からなかった。先生の方を見ると泣いておられるようである。米軍将校に気づかれないように、そっとハンカチを取り出して涙をふいている先生も。将校はにこにこしているし、先生は泣いている。このちぐはぐな光景が、印象に残って忘れられなかった。その日が日本の無条件降伏の日であることを知ったのは、ずっと後になってからであった。この日の様子は、社会福祉活動家の島マス先生も新聞に書いておられたように思う。マス先生は、私たち瀬嵩の木の下学校の先生でした。

《「庶民がつづる 沖縄戦後生活史」(沖縄タイムス社編) 18-19頁より》

 

沖縄諮詢会の設立に向けて

 多くの沖縄の人が耳に出来なかった玉音放送。それが流れた同じ日、沖縄では石川市に住民の代表120人余りが集まり、戦後、最初の行政機構となる沖縄諮詢会の設立に向けた話し合いがなされました。

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 玉音放送を耳にして – QAB NEWS Headline

沖縄本島中部の石川市では、米軍政府の諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)」を設立するため、戦前からの政治家や教育者たちが集められて会議が開かれた。沖縄の行政機構を再建しようとの会議の冒頭、軍政府副長官から「正午より天皇終戦放送がある」と告げられ、出席者を代表して後に沖縄民政府の初代知事となる志喜屋孝信ら3人が、軍政本部で玉音放送を聞いた。会議に出席した安谷屋正量(初代琉球工連会長)はこう回想している。「終戦を知らされみんなシュンとなった。しかしそれまで戦火に追われ、生命の危険にさらされショックというショックを味わいつくしただけに、それ以上の動揺はなかった」。

《 社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]玉音放送 共有されなかった体験 | 社説 | 沖縄タイムス+プラス

 

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