〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月7日 『ハワイに送られた捕虜』

軍事拠点としての那覇 / 11人の離島残置工作員 与那国の遊撃戦計画 / 学徒と沖縄人捕虜「裸船」と「客室」 / 積徳高等女学校 - ふじ学徒隊 / 民間人収容所とカナアミ

 

米軍の動向

軍事拠点となった那覇

全破壊された那覇の町は、米軍の広大な軍港・補給地区となった。

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Cooks and messmen at work in ruined building - city of Naha.【訳】崩壊した建物内で料理をする調理係。那覇にて。(1945年7月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月27日記録。町の廃墟が撤去されはじめ、大規模な物資物資補給所と補給部隊のテントが立ちならぶ。

米国陸軍通信隊: Aerial view of ordnance area at Naha, looking west.【訳】那覇の補給地区。西向きの写真。1945年 6月27日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

8月末時点の米軍地図は、那覇全域が基地化され、米陸軍需品科 ( U.S. Army Quartermaster) の本部 (32) と各施設がひしめきあっていることがわかる。

画像 91 - 希少 第二次世界大戦 オペレーション ダウンフォール 1945 沖縄 「 制限付き 」 ネイビーと陸軍ステージングマップ

那覇周辺 1945年8月31日作成 米軍部外秘 沖縄マップ - Basically Okinawa

米陸軍: General view of the 521st Quartermaster Group Ration Dumps at Naha.【訳】那覇にある第521補給物資集積所の概観 1945年6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米陸軍: Quartermaster depot,  Naha. 那覇の補給部隊 1946年1月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

1952年那覇琉球政府の「首都」となり、徐々に解放が進み始める。

戦後那覇は、米軍の全面占領下にあり、立入禁止区域となっていましたが、1945年11月産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊が壺屋一帯に入域し、1946年1月3日付けで糸満地区管内壺屋区役所が設置され、那覇復興が始まりました。その後民政府などの中央機関が漸次那覇に移転し、1949年12月9日、米軍政長官シーツ少将は、那覇を沖縄の首都とすると発表。その後、那覇市街が漸次開放されるようになり那覇は、再び繁栄をとりもどしました。1950年8月1日、みなと村編入、さらに1954年9月1日首里市、小禄村を合併しました。

那覇市のあゆみ|那覇市公式ホームページ

戦後那覇のコマ切れ解放 - 下は1952年までに返還された地域。(ただし下記の1949年の空色の地区 (天久・安謝・銘苅) は再び1953年に強制接収され、米軍基地「牧港住宅地区」となった。)

この図は、米軍による土地開放を年次別に図示したもので、段階的かつ野放図な開放のあり方を視覚的に把握することができる。開放のタイミングによって空間化される差異が、戦後那覇の市街地形成に多大な影響を及ぼしたことは想像に難くない。

加藤政洋・河角龍典・櫻澤誠「戦後那覇の都市化と地名の生成に関する地理学的研究」(2016年) pdf

 

第32軍の敗残兵

与那国島の離島残置工作員

7月7日、与那国の離島残置工作員が台湾から大量の武器弾薬を持ち込んだ。

第32軍は沖縄の各離島に密かに11人の「離島残置工作員」を配置していた。彼らは陸軍中野学校出身で、教師という肩書で学校に配属されていた。

1945年1月、第三十二軍は長勇の「無防備な離島に諜報員を」という発案で42人の中から4人を第三十二軍参部情報班へ、11人を伊平屋 ・伊是名島粟国島久米島多良間島西表島、黒島、波照間島与那国島へ1~2人 ずつ教員・訓導として潜伏させた。

川満彰「戦後75年沖縄戦研究の視点2・中野学校出身、住民を監視・虐殺や防諜活動に関与」(沖縄タイムス) - Battle of Okinawa

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久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021年)

離島残置工作員は県知事に正規の国民学校訓導または青年学校指導員の辞令を発給させ、偽名の「先生」になりすまして赴任した。

当時多良間国民学校長の証言

この学校に中島 (註・本名、高谷守典) という教員が、県から任命されたといってやってきました。… 学校にはきていました。そしていつも一人で行動していました。何か、住民の行動を監視している。そう島の人々は感じました。スパイではないかなと、人々はいっていました。

「多良間島」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 4 - Battle of Okinawa

島々の住民は、彼ら「先生」たちが、それぞれ「大きな木箱」を島に持ち込み、隠していたことを証言している。

粟国島の教員の証言

また、学校には佐々木 (註・本名、鈴木清十郎) という先生が来ていて探偵みたいなことをやっていました。三重県出身でほんとうは軍人でした。この人の話では南方へ行く予定だったが戦況が悪くなったので沖繩へ来たと言っていました。… スパイ道具を入れた箱があって生徒を使って雑木林の中に隠したりしていました。 この人はゲリラ作戦をやる要員だったらしいですが島へ来てから一か年ぐらいしたら毎日のように空襲ですから訓練どころでなく自分から逃げて歩いていました。

「空襲・上陸・学校」『沖縄県史』沖縄戦証言 粟国島編 - Battle of Okinawa

与那国島では、「柿沼秀男」と「山本政雄」という二人の工作員国民学校訓導としてやってきた。「柿沼」阿久津敏朗少尉の手記は、これら大きな木箱の中身が爆薬であったことを示す。

那覇港を出発する際、私は木箱二個に遊撃戦用の偽装した特殊爆薬と焼夷剤等相当数携行したが、離島へ赴任する教員の荷物らしく書物も一緒に入れてカムフラージュしてあったので、重量は相当なものであった。このため、この荷物は便船へ乗り換えの都度、船長から『重そうな荷物ですが何ですか』と聞かれ、私は『離島の先生で行くのだが、島には本が無いというのでできるだけ沢山本を持っていくのだ』と言ってゴマかしていた。

《『俣一戦史』278頁、石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・ III 資料編 3」》

日本軍が宇良部岳に監視台を置いていたため、与那国島は激しい空襲の標的となり、封鎖された島の軍は「島民いじめの軍隊」と化した。水面下で住民を監視し協力者を探しながら遊撃戦に向けて動いていた「柿沼」らは、7月7日、100キロ先の台湾からさらに大量の武器弾薬を持ち込んだ。島民総出のゲリラ戦計画であった。

… 情報別班と善後策を協議のうえ、基隆港より武器、弾薬、被服、食糧、医薬品等を三十トン余の輸送船に満載して、南方澳港経由で与那国島へ向かった。七月七日、無事与那国島波多港に帰着、五十四日ぶりに学校へ帰任した。学校では敵機による空襲が激しさを増してきたため、六月二十二日以降は初等科の授業は中止していた。台湾から持ち帰った船の荷物は、一般島民の目につくと困るので荷揚げは夜間行うこととし、夕方、遊撃隊要員の在郷軍人及び青年団員の幹部を召集し、密かに荷揚げを行うとともに、かねてから設定しておいた秘密の洞窟に格納した。

《『俣一戦史』289頁、石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・ III 資料編 3」pdf

学びの学校を活動現場とした陸軍中野学校・離島残置工作員。学校は完全に軍の統制下にあり、本物の「スパイ」は学校にいた。

七月中旬から下旬にかけて、在郷軍人青年団員の訓練を行った。学習と基礎的訓練が主だった。女子の場合は竹槍訓練も実施した。

《『俣一戦史』289頁、石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・ III 資料編 3」pdf

与那国の残置工作員は、兵として捕虜収容所に収容されることなく、その年の12月には日本に帰国する。与那国の住民を監視しゲリラ戦を先導するスパイは、「民間人」の顔をしてやってきて、「民間人」として帰っていった。

 

ハワイに送られた捕虜 ➀ 「裸船」と「客室」

米軍は民間人と兵士を分けた後、朝鮮人*1、沖縄人、将校、下士官、一般兵に分けて捕虜収容所に収容した。6月から7月にかけ、増大し続ける日本兵捕虜の中から主に朝鮮人軍夫と沖縄の学徒兵と防衛隊員などをハワイの収容施設に移送した。

1945年の6月から7月にかけて、米軍は沖縄出身捕虜の中から三千人余をハワイ島ヒロ島とオアフ島ホノルルの収容所に送った。さらに一部はハワイから米本国や、グアム・サイパンテニアン島の南洋へ移送された。捕虜送りだしの真意は不明で、ハワイでは米軍の耕作業に従事して日当をもらい、帰郷の日を待ちわびた。1946年10月から12月にかけてほぼ全員が帰還した。

《『沖縄 戦後50年の歩み 激動の写真記録』》

金武町史』によると、1945年6月から7月にかけてハワイへ送られる者が戦闘員・非戦闘員から選別され、3回の移送が行われた。人数に関しては括弧で付すが、その概要は、

第1回目、6月10日頃・嘉手納収容所から(180人)

第2回目、6月27日頃・屋嘉収容所(現金武町)から沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜(約1,500人)

第3回目、7月3日頃・沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜(約1,500人)

である。こうした3回のハワイまでの移送航路は、いずれもサイパン島テニアン島を経由し、2週間から20日程の行程であったと考えられている。

《秋山かおり「沖縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所史――ホノウリウリからサンドアイランドへ」(2018年) 》

文中の写真はいずれも6月27日のもの。

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降伏/ハワイの捕虜収容所へ送られるため船出を待つ日本兵 : 那覇市歴史博物館

「裸船」- 貨物船に乗せられた捕虜

証言 ①

昭和20年7月ごろ、私は屋嘉の収容所に収容されていた。たしか7月の7、8日だったと思うが、突然収容所から数百名の捕虜が嘉手納の海岸にトラックで連れて行かれた。捕虜の年齢は、下は15、6歳の少年から上は60過ぎの老人までいた。そのほとんどが20代30代の男ばかりであった。午後1時ごろ嘉手納の海岸に着いた。真夏の太陽がカンカンに照りつけていた。われわれは何のためにここに連れてこられたのか最初は誰も分からなかった。沖には米船(貨物)がいたので、その船に乗せられるのだと分かった。みんなは不安の面持ちで、だまったまま、焼けつくような砂の上に約4時間も座っていた。

やっと5時ごろになって上陸用舟艇に乗せられ、沖の船に向かった。船に着くと、甲板で全員着けていた服を脱がされ、丸裸にされた。海水でシャワーを浴びろ、と固型の石けん(洗濯用)を渡された。久し振りの水浴びでみんなはさっぱりしたと喜んだ。ところが、水浴びが終わった後、当然新しい衣服が与えられるものと思っていたら、それがないばかりか、体を拭くタオルさえもない。濡れた体の、文字通り素っ裸のまま、雫(しずく)をたらしながら、まるで動物のように船艙に入れられた。

甲板の隅にあった二尺四方ぐらいの小さなハッチから船艙までは約15メートルはあっただろう。そのハッチからひとりびとりはしご段(垂直)を降りるときには、体中から落ちる雫や汗で手や足が滑ったので、用心しながらゆっくり降りた。上の方で米兵が「ハーバー、ハーバー」とどなっていた。船艙には約30名の仲間が詰め込まれ、身動きも出来なかった。これは大へんなことになった、と私は思わずつぶやいた。ほかの人たちも、そのようなことをぼそぼそ語り合っていた。

夜になっても食事もない。船艙には何も敷いてなく板張りの上に互いに裸身をくっつけ合って横になった。明かりもない真っ暗な船艙の中はむし風呂のようであったが、昼間の疲れがどっと出て、いつの間にか寝た。夜中に眼を覚ました。何だか体がびしょ濡れになっている。身を起こしてみた。何と、それは、みんなの体から流れ出た汗が溜って、私の体が浮いていたのである。体を拭くものもなく、またそのまま横になった。(

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 71-72頁》

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1946年に城間次郎牧師が米陸軍施設スコフィールド・バラックで撮影した県出身者の氏名が刻まれた墓標=米ハワイ

 同じ境遇の捕虜数百人が20日間近く、船倉に押し込められていた。体臭、排せつ物の臭いが充満していた。「ああ、なんて空気がうまいんだ」。排せつ物の運搬係をすることで、その価値を実感できた。複数あった移送船のうち、渡口さんらが乗った船の環境は特に劣悪で、後に「地獄船」「裸船」と称された。

<忘ららん~ハワイ捕虜・72年後の鎮魂~>1 元捕虜 渡口彦信さん - 琉球新報

「客室」- 客船に乗せられた捕虜

証言 ②

7月3日ごろ、行き先を知らされないまま屋嘉収容所に着いた。…2、3日過したころ、バリカンが配られ、戦車のライトの中で交替で夜を徹してぼうぼうと伸びた頭を丸坊主にした。その翌日、沖縄人の男の捕虜は慶良間島に運ばれた後、飛行機から爆弾を投下してみな殺しする、という噂が流れた。

われわれはGMC(トラック)に立ったまますし詰めにされて、どことなく出発した。道がカーブになると車の速度が落ちるので、後続の車が何十台となく陸続として続いた。途中、避難民の群と出発い、車が通過するたびに肉親を探している光景に出会った。中には手を振っているものもあった。

着いたところは比謝川下流の海岸だった。そこには数知れない輸送船がぎっしりと浮かび、そのマストが林立しているのを見てびっくりした。やがて舟艇がやってきて、われわれを本船まで運んだ。本船から降ろされた縄梯子を一人一人昇っていった。本船の舳先にメキシコビクトリーと英語で書かれていた。約1万トンの客船だった。

デッキに集まった捕虜に、これで体を洗え、と洗濯石鹸とタオルが渡された。頭上のパイプから海水がふんだんにでて、水浴が終わると、パンツを一枚あて渡され、それを着けたままの姿で下の船室に入れられた。そこには5段式のベッドがずらっとならんでいた。ペンキの匂いもなく居心地はよかった。船室からデッキへの出口にはMPが一人立哨していて自由に外に出ることは許されなかった。

…船が出て4時間ほどすぎたころわれわれはデッキに集められた。MPがわれわれを取り巻くように見張っていた。それは新鮮な空気を吸わすためであったが、僅か2、3分の時間だった。デッキに集められたときには、いよいよ慶良間に着いたのかと不安だったが、船は喜屋武、摩文仁沖を走っていたのでホット胸をなでおろした。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80-81頁》

ビクトリー船は第二次世界大戦中にアメリカで大量造船された超大型の高速輸送船で、太平洋戦争で活躍したSSメキシコ・ビクトリーはその一つ。1945年10月からは、太平洋で従軍した米兵の帰還任務「マジックカーペット作戦」にも使用された船である。

船体に V-7 を搭載した前列4 番目の船が、SSメキシコ・ビクトリー。

彼らはサイパンを経由しハワイに輸送された。

海兵隊: PRISONERS OF WAR -- Japanese troops captured on Okinawa are shown preparing to board a transport which will take them to a Pacific base. The prisoners were amazed at the American installations on this island where they stopped enroute to a POW camp.【訳】 捕虜たち - 沖縄で捕虜になった日本兵たちが太平洋基地に向かう輸送船の乗船を待つ。同じ船には、彼らと沖縄戦で戦った海兵隊員たちが乗っていた。 捕虜収容所への途中で立ち寄ったこの島の米軍施設に驚く捕虜たち。サイパン 1945年7月11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

 

  

積徳高等女学校 - ふじ学徒隊

7月7日、仲里ハルさんは米兵の捕虜となる。激戦地を生きのびた学徒の中には、戦後に心の傷から自ら命を絶つ少女もいた。

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65年前の今日、積徳女学校の看護隊のハルさんたちは解散命令のあと地獄をさまよい、捕虜になりました。積徳高等女学校の生徒25人が看護隊として入っていた糸州の壕。ここに、司令部の玉砕と「最期まで戦え」という命令が伝わったのは6月23日のことでした。ハルさん「隊長が、こんなことになるんだったら君らを預からなかった、本当に許してくれと。自分から死ぬことはない。絶対に生きて帰ってお父さんお母さんにあいなさい。そしてこの悲惨な戦場のこと、後世に伝えてほしい。これが隊長の最期の言葉」

長野県の住職 (ブログ註=眼科の開業医との情報の他は確認できず) だった小池勇助隊長は、兵士には北部で持久戦をせよと命じる一方、非戦闘員の看護隊員には投降するよう命じました。女生徒たちは一緒にいたいと号泣しました。ハルさん「北極星っていうのは変わらない必ず自分より北にいるから、北に向かって進んで行ってくださいって。隊長殿の言葉よ、これ。」

26日の夜、言われた通り北極星を目当てに、ハルさんたちは3人で壕を出て行きました。小池隊長は翌日、ここで自決しました。しかしハルさんもアメリカ軍の黄燐弾にやられます。ハルさん「上にはアメリカ兵がテントを作って音楽鳴らしているの。私なんかドクガスやって死のうとしているのに、これをうま乗り体制っていうの」「やられた春ちゃん助けて、逃げないで。やられた。やられた」「みんな助けて。助けて。してるけど、みんな血の海」地獄をさまよい、何も見えなくなって死んだと思ったハルさん。アメリカ軍のトラックに乗せられて水を飲まされた途端、ようやく景色が見えるようになったと言います。動員された3月6日から4カ月がたっていました。

65年前のきょうは1945年7月7日(水) – QAB NEWS Headline

積徳 (せきとく) 高等女学校 1918年、那覇市松山町大典寺 (浄土真宗本願寺派) の住職である菅深明により開学された県内唯一の私立女子高。沖縄戦により28年の歴史を閉じ閉校となる。ふじ学徒隊の名は本願寺の下り藤に由来する。

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私立家政高等女学校(積徳高等女学校) : 那覇市歴史博物館

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Qリポート 「ふじ学徒隊」映画製作への思い – QAB NEWS Headline

3月23日、小池勇助軍医少佐は、最初に56人の女子学徒に入隊の希望調書を取り、31名を除隊させる。25名がふじ学徒隊として従軍。6月26日、糸洲の壕にて解散。女子学徒たちは何組かに分かれ、3人づつの組となって激戦地から北に向かって脱出を試みた。

1945年(昭和20年)3月23日の夜、生徒たちは豊見城村(現豊見城市)の豊見城城址にある第24師団第二野戦病院に配属されました。生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などでした。5月下旬、首里の軍指令部まで米軍が迫ってきたため、野戦病院は糸洲(現糸満市)の自然洞窟に移動することになりました。

6月中旬頃、砲爆撃が激しくなり、生徒は洞窟の奥へ移動させられましたが、その後幾度か、ガス弾攻撃が続きました。6月26日の夕方、生徒は全員洞窟の入口に集まるように言われ、隊長から今日限りで全員解散すると命令されました。生徒たちは、数名ずつ連れだって洞窟を出ていき、猛攻撃の中、死の彷徨を続け、ある者は傷を負い、ある者は無傷のうちに米軍に収容されました。積徳学徒隊のうち4名の生徒が死亡しました。

沖縄戦継承事業 積徳 (せきとく) 高等女学校 パネル》

糸洲壕では、学徒隊は、米軍のガス弾攻撃に苦しめられる。家族に会うといって壕を出た学徒がその途中で戦死。学徒隊、最初の戦死者となる。戦況は悪化、衛生兵は、次々と斬り込み隊として壕を出る。...  (中略)  ... 小池隊長は自決。青酸カリをあおっての最後だった。学徒隊は、2,3名ずつ組を作って壕を脱出。そのまま、ほとんどが米軍の捕虜になる。しかし、最初に脱出した3人は日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ、学徒隊2人目の戦死者を出す。そして、戦後、戦争の心の傷から、自ら死を選んだ学徒。ふじ同窓会は、3人目の戦死者として慰霊碑に刻銘する。

ふじ学徒隊について | ふじ学徒隊

もう、これからが野戦病院の恐ろしさ。これからなの。私もこれからよ。本当に。本当にもうね、私なんか・・私は宮古、もう1人は八重山、もう1人は久米島、うちなんか3名、非常に友達でね、一緒に寄宿舎にもいたの。...  (中略)  ... もう大変なの。(米兵が) みんないるよ、いるのにね、私なんか3名よ、飛び降りるの。...  (中略)  ... しかし4日目にね、民間の子が、私のほうへ「助けてー」って来て、「あんた誰ね?」って言ったら、「お父さんもお母さんも、みんな死んだ。みんな爆弾で死んだ。助けて」って言うからね、私は、「嫌だ、そんな子ども」って言ったら、久米島の人が、うちなんかより年上だから、2つも上だから、「いいよ、かわいそうだから一緒に連れて行こう」って言って、本当は3名だけど4名になったの。...  (中略)  ... 私らなんかみんな、バラバラバラバラー、ってみんなやられたの。うちなんか、そのとき。最初は民間の子も「やられた」と言って、その後はもう分からないけど、民間の子は最初にやられたから、3名いるでしょう?そうしたらね、みんなやられたわけ。

仲里 ハルさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

八重山宮古島久米島などから沖縄島に来ていた学徒は、身を寄せる場所もないため、入隊することを余儀なくされ、軍から「解放」という名目で追い出された後の犠牲、また激戦を生き残っても、戦後を孤児としてたった一人で生きていかなければならない学徒も多かった。

名城さんは、当時の話を語った日、一晩中寝つかれなかったという。戦時中のことはもちろん、家族8人を戦争で失って“戦災孤児”になってしまった戦後の苦労が次々と頭をよぎっていった。

琉球新報 証言記録「戦禍を掘る」沖縄積徳高等女学校(ふじ学徒隊) - Battle of Okinawa

 

 

そのとき、住民は・・・

民間人収容所とカナアミの生活

典型的な北部東海岸地域の「民間人収容所」の様子。

米海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.【訳】沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍は、沖縄上陸作戦と同時に本土進攻に備えて航空基地を建設し、中南部の平野部と港湾地帯を無人地帯とした。このため、中南部で米軍の管理下に入った住民の大部分は、北部の東海岸地域へ移された。現在の石川市金武町中川、宜野座村全域、旧久志村の大浦崎(久志・辺野古)から嘉陽までの範囲である。

米軍は、捕虜(軍人・軍属)と民間人(非戦闘員)をえりわけ、それぞれ独自に収容した。捕虜収容所と難民収容所 (ブログ註・当ブログでは民間人収容所と記す) である。捕虜はPW (Prisoner of War) と呼ばれ、民間人はシビリアン (Civilian) と呼ばれた。両者を識別するために特に作業現場などでは、上着の背中に、捕虜はPW、民間人はCIVとペンキで書かれた。

民間人の収容所では、米軍によってメーヤー(市長)とCP (Civilian Police 民警察) が任命され、物資の配給、作業の手配、軍命令の伝達などに従事した。CPは米軍から支給された軍服に防暑用ヘルメットをかぶり、米軍のMP (Military Policeman 憲兵) とともに治安維持に当たった。

難民収容所は、境界をカナアミで囲われていたところもあったが、一般には集落単位に収容所が設置されていて集落の境界にMPが立っていた。収容所問の往来は原則として禁止され、米軍の通行許可証を携帯しない場合は「越境」として処罰されカナアミ (金網) に入れられた。
佐敷町役場『佐敷町史 四 戦争』(1999年) 

田井等収容所の「カナアミ」

NATIVE JAIL. Strikingly unlike "bastilles" Gls had known back home this simple, unoccupied jail for the village of Nakaoshi was nevertheless set up for the same purpose. Sign reads: "These people have broken the law and disgraced Nakaoshi."

住民の刑務所。米兵の故郷の「バスティーユ」監獄とは著しく異なるけれども、仲尾次村のこのシンプルで無人刑務所は、同じ目的のために設置された。看板には「この人たちは法律を破り、仲尾次の名誉を傷つけた」と書かれている。

第37海軍建設大隊メモリアルブックより p. 328.

カナアミというのは、仮の「拘置所」や「営倉」(Stockade) のことである。カナアミ(有刺鉄線)をはりめぐらし、脱走を許さなかった。転じて刑務所のことをカナアミと言うようになった。

『佐敷町史』佐敷町 (1999年) - Battle of Okinawa

カナアミに入れられるだけではなく、単に射殺されることも少なくなかった。

炊事班にいた父に面会すると、いつも食べ物を持たせてくれました。カンパンの中では、おにぎりも余るくらい豊富にあり、それを天日干しで乾燥させた味噌の原料や、砂糖や塩なども分けてくれました。また、アイスクリームの粉やお菓子なども貰いました。山での避難生活とは比べものにならないと思いました。カンパンの周囲には金網が張られ、監視が厳重でした。そのため、事務のお姉さんたちと一緒に面会に行きました。ある時、通路付近で煙草やお菓子を抱えたまま殺されている人がいました。私はかわいそうに思い、遺体を覆う布を取って見ようとすると、米兵が監視塔から見ているからダメだとお姉さんに止められました。当時は、カンパンに忍び込んだ人が米兵に射殺される事件が何度かありました。

「田井等市」と私の戦後 – 戦世からのあゆみ

 

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▶ 1944年7月7日 サイパン陥落

 

*1:朝鮮人軍夫と、ごくまれに日本陸軍士官学校を卒業し日本軍の将校となった朝鮮人将校もいた。彼らは朝鮮人軍夫と共に収容された。