〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年9月2日 『日本が降伏した日』

V-J Day 日本降伏の日伊是名島の住民虐殺

 

V-J Day(対日戦勝記念日

トルーマン大統領は今日を正式なアメリカの対日戦勝記念日 V-J Day (Victory over Japan Day) と宣言。

日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。

日本人だけが8月15日を「終戦日」とする | 東洋経済オンライン

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[Photo] Lieutenant General Sutherland correcting Japanese surrender document, 2 Sep 1945, World War II Database

昭和20年9月2日降伏調印の日がきた

東京、横浜地方は未明に小雨が降った。夜が明けてからも重い雲が空を覆っていた。

…海は鉛色であった。式場の戦艦「ミズリー」は、横須賀沖18マイル錨地に停泊している。横須賀沖といっても、浦賀水道を南下し館山または城ヶ島の沖合に近い洋上である。横浜港からは優に30キロ以上の距離があった。

「海軍の旗艦ミズリー号を調印の場所となしたことは、太平洋戦争に大いなる犠牲を払った海軍の感情を尊重したものと認められた。軍艦の名前のとられたミズリー州はトルーマン大統領の出身州である」重光葵著作集1『昭和の動乱』原書房刊)』(313頁)

『4万5000トンの戦艦ミズリーは、周囲に停泊する艦隊のなかでも、ひときわ威容を誇っていた。マストには星条旗がはためいている。舷側の手すりに沿って白い制服の水兵が隙間なく整列していた。

…やがて軍楽隊の演奏にのって、ニミッツ、ハルゼー、服装ですぐにわかるソビエト代表テレビャンコ中国代表徐永昌たちが式場に姿を現した。総勢4、50人、…連合軍代表はテーブルを半月型に囲んで立ち話をしていた。』(320頁)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 313、320頁より》

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The surrender ceremony between Japan and the United States aboard USS Missouri (BB-63). Date 2 September 1945
Source National Archives photograph SC#210628, from the Army Signal Corps Collection

File:USS Missouri Japanes surrender Marine guard company and Navy band.jpg - Wikimedia Commons

日本側全権委員一行は、午前9時すこし前にミズリー艦上に現れた。駆逐艦から艦載艇に移り、戦艦のタラップを昇ったのである。一行は直ちに甲板上の式場に導かれ、連合国各代表と相対する位置に整列して開始を待った。』

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg/1920px-Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg

降伏文書調印式に派遣された日本代表団

Japanese representatives aboard the USS Missouri at the surrender of Japan on September 2, 1945

Victory over Japan Day - Wikipedia

定刻9時マッカーサーが姿を現し、中央のマイクの前に立った。約2分間の演説である。その後降伏文書の調印が始まる。日本側は調印に先立って、全権に対する天皇陛下の委任状2通と9月2日付けで公布する詔書マッカーサーに提出した。』

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 頁より》

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写真左上の星条旗は、日本の開国を迫ったペリー提督が掲げていた旗であり、アナポリスから東京まで、降伏文書調印式のためにわざわざ取り寄せた。

Commodore Perry's flag (upper left corner) was flown from Annapolis to Tokyo for display at the surrender ceremonies which officially ended World War II

Matthew C. Perry

『調印式に先だって、マッカーサー格調高い演説をした。

「・・この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の威厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の熱望するところであり、また全人類の願いである・・」

降伏文書への署名は、日本国代表の重光外相から行われた。午前9時4分だった。

これで戦争は正式に終わった。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

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1945年9月2日、USSミズーリ艦上でリチャード・サザランド中将が見守る中、降伏文書に署名する重光葵外務大臣、右随行の加瀬俊一

日本の降伏 - Wikipedia

『続いて日本軍を代表して参謀総長梅津美治郎大将が署名し、マッカーサー連合国軍最高司令官として)、ニミッツ(米国を代表して)と署名し、連合国軍の各国代表が次々署名した。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

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" Gen. Douglas MacArthur signs as Supreme Allied Commander during formal surrender ceremonies on the USS MISSOURI in Tokyo Bay. Behind Gen. MacArthur are Lt. Gen. Jonathan Wainwright and Lt. Gen. A. E. Percival." Lt. C. F. Wheeler, September 2, 1945. 80-G-348366. National Archives Identifier: 520694

World War II Photos | National Archives 

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000094986.jpg

『上段から重光葵外務大臣梅津美治郎参謀総長の両全権、続いてマッカーサー司令官はじめアメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド各国代表が署名しました。』

外務省外交史料館 戦後70年企画 「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示 | 外務省

『いつの間にか雲が切れて、甲板に陽光がさしはじめていた。その雲の切れ間から爆音が聞こえてきた。400機のB29爆撃機と、第3艦隊の艦上機1500機による一大ページェントだった。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

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祝賀飛行する米軍機編隊 / U.S. Navy photo 80-G-421130

ミズーリ (戦艦) - Wikipedia

調印式の最後を飾る空のショーが終わると、マッカーサーは米国民向けのラジオ放送を行なった。

「わが同胞諸君、今日、大砲は沈黙している一大悲劇は終わった。大勝利がかち得られた。空はもはや死を降らさない。海洋はただ通商のみに使用され、人々は、太陽の下をいずこに於いても闊歩できる。全世界は全く穏やかな平和に包まれた。神聖なる使命は完成された・・」

このマッカーサーの寛大さに感動した日本代表団の加瀬俊一随員の報告書をもとに、重光はその日のうちに昭和天皇に調印式の報告を行った天皇は「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野」に感動したと伝えられる。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

youtu.beJapanese Surrender in Color (1945) - YouTube

9月2日 ミズーリー号上での日本軍降伏調印式

9月3日 フィリピンの日本軍降伏調印式

9月9日 朝鮮半島の日本軍降伏調印式

9月12日 シンガポールの日本軍降伏調印式

 

琉球列島降伏文書調印式への動向

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月2日、奄美群島海軍司令官加藤唯雄提督と初めて連絡がつく。

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Decoration ceremony at the 308th Bomb Wing. Lt. Colonel Herring is advancing to be presented with the Legion of Merit from Brig. Gen. Hutchinson while six other members await their turn to be presented with their award. Members of the Wing are in formation honoring those who are receiving the awards.

第308爆撃航空団の叙勲式。ハッチンソン准将から勲功章を受け取るために7人のうち最初に歩み寄るヘリング中佐。航空団の他の団員らは整列して受勲者を讃える。沖縄。(1945年9月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

伊是名島の住民虐殺

伊平野島とは異なり、教員として赴任していた中野学校の離島残置工作員「西村良雄」(本名・馬場正治) と、流れ着いた敗残兵らは「軍当局」を名乗るようになり、米兵捕虜や住民虐殺が相次いだ。喜納政昭、ならびに三名の奄美出身の少年オーサカー少年、イチロウ少年、ミノル少年の虐殺は、いすれも日本が降伏した8月以降、9月~10月にかけておこっている。

敗残兵というのは、本島の明治山から逃げて、サバニで伊是名に渡ってきた連中で、伊是名(部落)とか諸見とかに泊りこんでいました。諸見の校長先生の家に七、八名、源三家にも何名か居りました。この連中の言い分では、伊平屋に上陸しているアメリカ軍をやっつけるために待機するんだということでしたから、戦時中のことで軍に協力しないわけにはいかないし、島の人たちは戦争の模様は何も知りませんでしたから、沖縄戦が終ったのも知らずに、敗残兵を大事にもてなしていたわけです。彼らの言うことを信用して、正規の部隊だと思っていたわけです。各部落の大きな家の一番座に寝泊りして、米も各家から持ち寄って、毎日ごちそうしていました。この敗残兵の隊長格は平山大尉という人で平山隊長と呼んでいました。これが喜名政昭に直接手をくだした人です。

敗残兵のほかに、特務機関の西村という者がいました。学校の先生をやりながら青年団を組織して、斬込みとかゲリラ戦の訓練をやっていました。また、各部落に防衛隊をつくっていましたが、防衛隊もこの西村とか平山とかの命令には従わないわけにはいきませんでした。この西村はここの女と結婚して子供もできていましたが、本人は最後にクリ舟で与論島に逃げていきました。その後のことはわかっていません。

○○巡査というのがいて、これは伊計島の出身ですが駐在できていたわけです。この巡査がまたこわい存在で、空襲中でも壕をまわって歩きよったですが、いつも住民の動きに目を光らせていたわけです。○○巡査はいつも敗残兵とびったりくっついて、住民に直接命令するのはこの男でした。

 この敗残兵の集団がこの島で罪もない人をだいぶ殺しています。

沖縄戦証言 伊平屋島・伊是名島沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

喜納政昭の虐殺

伊是名島ではバクロー(家畜商)を営んでいた喜納政昭(42歳)と奄美大島出身の3名の少年たちも軍当局の手によって虐殺されていた。…(中略)…  喜納政明は村の人々からチナースーと愛称で呼ばれていたという。チナースーは仕事で伊平屋島に渡った時に米軍の捕虜となり民間人収容地区で暮らすようになった。その後伊平屋島に駐留していた米兵らが戦利品として日の丸を要望していることを知り、商売として伊平屋島伊是名島間を何度か往復する中で「戦争は負けた」と村人らに話しながら米兵が望む日の丸を探していたと言う。

軍当局はチナースーの知り合いである漁師たちを使って妻の父が病気であると嘘を伝え、伊是名島におびき寄せた。軍当局は待ち伏せし、伊是名島の浜に足を踏み入れたチナースーを捕まえたのである。その周辺には住民もいたと言う。泣きわめきながら謝るチナースーは、ガナハ毛(地名)へと連れられ、棒で殴られながら死んだ。撲殺されたチナースーは穴に埋められた。政昭の息子は、父は旧暦8月16日 (新暦9月2日) に虐殺されたと振り返る。

三人の奄美少年の虐殺

伊是名島の住民は終戦を知らされていなかったという。そのような中、次に奄美大島から漁師として身売りされていた3名の少年たちがスパイ容疑で殺された。きっかけは一郎と呼ばれた少年だった。彼は日頃の村人による差別的扱いに反発し、腹いせに「島に日本兵がかくまわれていると米軍に密告してやる」と言い放ったという。軍当局と一部の住民らは3名の米兵を虐殺した後だったこともあり不安に陥り、一郎と同じく身売りされてきたツネオも密告すると思い一緒に小屋の柱に縛り付けたと言う。だが、それをもう一人のオオサカー(あだ名)と呼ばれていた少年がふたりを逃したことで、3名が捕まえられたのである。軍当局や一部の住民らは日頃から反抗的であるオオサカーを首謀者と決めつけ、「助けてください」と呼ぶオオサカーを日本刀で斬り殺し、続いて一郎、ツネオを惨殺した。 仲田精昌は3人の少年が殺されたのは「もう10月だった」と述べ、(軍) 当局に絶対に従うことが国民ひいては村人、字民の崇高な義務だった」と住民の心情を述べている(「島の風景」)。

《川満彰『陸軍中野学校沖縄戦-知られざる少年兵「護郷隊」-』吉川弘文館、2018年、pp. 152-153》

(喜納政昭が) 殺されたのは夕方のころですが、その日の夜中に、○○巡査が仲田のゴザ(妻) さんの家に踏みこんでいって、スパイの子供は生かしておけないと言って、数え十七になる長男と三ツになる妹を外にひきずり出して殺そうとしたそうです。ゴザさんは、「殺すなら私も一緒に殺せ」と、ほんとに死ぬ覚悟で、裸になって子供たちをかばったものだから、とうとう殺されずにすみました。

沖縄戦証言 伊平屋島・伊是名島沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 ⇨ 沈黙に向き合う - 伊是名島虐殺事件

 

摩文仁の敗残兵

 勝田さんは当時どんなことを考えていたのか思い出せないという。ただただ「生きて帰る」とばかり念じていた。
 掃討戦終了後の米軍は、夕方には仕事を終えて宿営地に戻った。だから、隠れている人々にとって夜は活動時間だ。勝田さんも、昼は警戒しながら浅くて短い眠りを繋いだ。ぐっすり眠った覚えはない。新兵の頃に歩哨に立った習慣もあって、細切れの眠り方をするのは今も習慣のようになっている。
 夜になると、食料を探して歩き回る。潜伏していた八重瀬の辺りは、今でも夜は真っ暗だ。フィリピンのルバング島で30年も潜伏していた小野田寛郎は、真夜中でも昼のように物が見えるようになったという。そういうものですか、と勝田さんに問うてみた。「まぁ、それほどじゃなかったけど、一回通った道は分かりますね。どこに何があるというふうに」。
 高台から見渡すと、濃い闇にぽつぽつと米軍の灯りが見えたそうだ。音楽が響いてくる時もある。たまに軍用犬の声も聞こえた。
 一度、米兵に遭遇したことがあるが、死体のふりをしてやり過ごした。恐ろしいのは軍用犬とピアノ線だった。犬に死んだふりは通用するまい。「見つかって追いかけられたら、もう終わりだろう」と想像した。
 犬には出会わずに済んだが、ピアノ線には何度か接触した。敗残兵を探すためにピアノ線のトラップが随所に仕掛けられていて、接触すると曳光弾が上がる。光に姿が浮かぶと無数の銃弾が降る。曳光弾の方角を確かめ、すぐ光の反対側に飛び込んで伏せたまま動かないのがコツだそうだ。
 飲み水は、砲弾であいた弾痕にたまった水を飲んだ。梅雨の時期は水たまりも多かったが、8月にもなると干上がってくる。安里(あさと)集落に大きな砲弾痕があり、貴重な水場になっていた。毎晩そこに、周辺に潜んでいた兵隊たちが20名から30名も集まってくる。

 水場では情報交換が行われる。米軍が撒くビラを拾って持参する者もいた。特に8月15日以後、日本の敗戦を伝えるビラが大量に撒かれるようになると、「日本はとうとう負けたらしい」と言い出す者が現れた。本当だろうか。罠ではないか。夜ごと話し合ったが、半信半疑で結論は出なかった。明け方、米軍の活動が始まる前に、皆それぞれのねぐらへと帰っていく。
 やがて、信じざるを得ない出来事があった。

 9月の2日になったら、飛んでいた飛行機も軍艦も、みんな煌々と電気を灯しているんですよね。それで、「日本は負けたんだな」と我々は信用した。「とうとう日本は手を挙げたんだなぁ」と……。

 それは東京湾に停泊する戦艦ミズーリで降伏文書調印式が行われた日だった。飛行機や艦船の明るさが、何より雄弁な勝利宣言と見えた。
 潜伏する人々への投降勧告に、米軍は先に投降した人たちからなる「宣撫(せんぶ)班」を送り込む。あの灯りを見た後だと、宣撫班の言葉にも説得力が感じられた。「日本は負けた。こんなところで命を捨てるのは損だ。明日トラックで迎えに来るから出てきなさい」と彼らは言った。翌朝、約束通りトラックが来て、勝田さんたちは外に出た。

 米軍がまとめた戦況報告を見ると、9月5日付でそれらしき記録がある。
「午前10時、摩文仁の南東で将校2人、下士官兵2人、日本兵25人、防衛隊員4人、住民15人が投降」
 規模といい場所といい、この「日本兵」の1人が勝田さんに違いない。
 一緒に隠れていたN姉弟は、民間人の収容所がある百名(ひゃくな)へ向かう。勝田さんたち日本兵は屋嘉の捕虜収容所へ送られるため、そこで別れた。徴兵検査の時は55キロあった体重は、収容所で測ると38キロになっていた。

終戦と投降 | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子

 

屋嘉捕虜収容所

阿嘉島海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

『…私は阿嘉島で味わった悪感がまた出てきた。一枚しかない毛布を巻きつけて、手足をちぢめて耐えた。翌日になるとそれはに変わり、汗が出たがそれを拭うものもなかった。2、3人先に寝転んでいる先輩の捕虜が、「お前、汗臭くてたまらんぞ、水で体を洗ってこい」と、大声で私に言った。

2度目の震えと熱が引いた時、私はよろめきながら本部の衛生兵のところに行った。テントの奥の方に米人の軍医がいて、通訳の言葉に私の顔をじっと見ていたが、紙片にマラリアと読める字を書き、日本人の衛生兵に〝ハスピタ〟といった。最初は何といったのかわからなかったが、通訳が、「君をすぐ病院に送る」といったので、〝ホスピタル〟と理解できた。

こうした寄せ集めの中で、今までの仲間と離されて一人になることは、この先どうなるか、また、全く未知の連中との共同生活に入れられるかと思うと、非常に不安ではあったが、伝染病のマラリアと診断された以上この収容所には居られなかった。すぐテントに引き返すと、毛布と水筒を持ち、

「俺は病院に行く、すぐ帰れると思うが」と渡辺にいった。

こうして9月2日、もう1人の見知らぬ捕虜とジープに乗せられ、野戦病院に送られた。』(223-224頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 223-224頁》

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病院へ向かうジーで日本人傷病兵に質問する海兵隊第1師団第7連隊ストゥープス中尉。

Lt. Charles W. Stoops (MC) USNR, attached to the Seventh Regiment of the 1st Mar. Div. Examines wounded Jap prisoner in ambulance jeep before his removal to a hospital.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

身内探し

辺土名の収容所で、二人の娘を探し続けていた母は、通訳から悲劇的な情報をもたらされる。

通訳の人は「あんた達の子とははっきり分からないが、米兵の話によると、リュックサックを背負った人影を見たから、確かに日本兵だと思って撃ったと言うのです。倒れたので行ってみたら女の子だったということでした。二人のアメリカ兵は、あまりにも申し訳なくなって、ごめんなさいと手を合わせて詫びたらしいですよ」と言って、その女の子達が撃たれた場所を教えてくれました。その場所は私達がいた炭焼き小屋のすぐ近くでした。一〇〇メートルと離れていないのです。そして、ウトウトしていた私の耳に「ここよ」と娘の声が聞こえたあの場所でした。私たちはびっくりして「本当にすぐそこまで来ていたのにね、呼んでいるのも聞こえたのに…」と話しました。そして居ても立ってもいられなくて、早速次の日、夜が明けないうちに遺体が運ばれたという松の木の方へ向かいました。
 そこへ行くと端の方に、二人は頭を並べて倒れていました。その骨の傍にカンダバー (甘藷の葉) が生えていました。おそらく安波の桑江家の人が娘に持たせてくれたカンダバーだったのでしょう。今考えると全てが奇跡のように感じられます。他に持っていた物は何も残ってなくて、二人とも学生服を着けていたんですが、その服もボロボロになってしまっていたのに、不思議と名前の刺繍のところだけが残っていたんです。※※と※※はとても用心深く、靴紐が切れた時のことを考えて、代わりの紐をポケットに入れていたんですが、それも残っていました。もう間違いないと思いました。「ほんとにあんた達ね」と、遺骸を見て涙を流しました。こうして引き合わせてくれたのも神様のはからいだったんでしょうか。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 女性の証言

  

アメリカ軍政府と沖縄諮詢会

降伏文書への署名は、東京湾海上アメリカ軍の戦艦「ミズーリ号」で行われました。日本側の代表は重光葵外務大臣梅津美治郎参謀総長。連合国代表は後に日本占領を取り仕切るダグラス・マッカーサーでした。この署名で日本の降伏が正式に決定しました。

降伏文書には、ポツダム宣言の内容を誠実に履行すると書かれています。その宣言では日本の領土についてこう記されています。

「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ
 局限セラルベシ」

この日沖縄では、アメリカ軍政府の諮問機関として生まれた沖縄諮詢会が北部の収容所を視察。すでに沖縄では、日本とは違った独自の統治が動き出していたのです。

琉球朝日放送 報道制作部 Qプラス » 65年前のきょうは1945年9月2日(日)

 

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  1. V-J Day によせて ドキュメンタリー『ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦』 - Battle of Okinawa

  2. 日本人だけが8月15日を「終戦日」とする謎 | 外交・国際政治 | 東洋経済オンライン
  3. パールハーバー(オアフ島真珠湾)戦艦ミズーリ記念館