1945年7月15日 『因果はめぐる』
高級参謀の逮捕 / 捕虜収容所の「お礼参り」 / 喜如嘉の下山 / 虐殺者の「戦後」
米軍の動向
〝沖縄〟という米軍基地の建設
The highway marker has been erected at the traffic circle at the junction of Routes #2 and #16. The signal is about 100 feet east of Route #1N and may be seen on the approach from Route #16E.【訳】2号線※と16号線の交差点に立てられたハイウェイの標識。標識は1-N号線の東100フィートの所に立てられ、16-E号線から来る際にも見える。(1945年7月15日撮影)
※ Routes #2 は #1 か #24 の間違いかもしれない。
基地の密集地帯、比謝川から嘉手納ロータリーを経由して高江洲まで、東西を横断する軍道16号線は、1972年に現在の県道16号線となる。
第32軍の敗残兵
捕虜の尋問 - 八原高級参謀の逮捕記録
第32軍司令部の南下も含め沖縄戦に重要な位置を占めた作戦参謀八原博通は、米軍の捕虜調書記録によると、7月15日に身バレし逮捕されたとある。
知念村屋比久の収容所で65年前の7月15日、一人の日本兵が逮捕されました。八原高級参謀長。32軍司令部で牛島司令官、長参謀長と共に沖縄戦の戦略を練ってきた人物です。
6月26日、沖縄戦の作戦参謀八原博通は民間人として速やかに米軍と投降交渉し、港川から糸数をへて、6月29日に知念半島の屋比久収容所の蘇南家に身を寄せていた。
到着した翌日、区の配給所主任、それから赤い鉄帽を被ったCP――いずれも県民――が、調査に来た。私は、大東亜戦勃発前、作戦資料収集のためタイ国に出張していた当時の偽名八木博をそのままに使い、職業は山陰の某中学の英語教師と偽わり、台湾の親類を訪問しての帰途、戦禍に会い、転々として今日に至っていると、嘘八百をしゃべった。
… 激励されて気の落ちついた私は、蘇南家兄弟とともに、昼間も座敷にごろごろする生活をつづけた。領治氏は、話し好きなので、不自由な標準語ながら退屈しのぎの良い話し相手であった。鳥取県には良い牛がいるので、わざわざ沖縄から買いに行った昔話をしたり、ときには標準語と沖縄語の比較もした。
《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年》
米軍の記録に記された八原逮捕の経緯
八原の手記によると、八原の逮捕は、7月24日に米陸軍対敵諜報隊(CIC) に出頭、26日に逮捕されたことになっているが、米軍の記録によると、7月15日、屋比久の収容所で逮捕されたと記録されている。米軍の8月6日の捕虜尋問調書 #28 によると、経緯はこのように説明されている。
【訳】彼は、摩文仁の洞窟から奇妙なやり方で転がり出て、その途中に不用意にもピストルを暴発させたところをブルー部隊に目撃されている。このパフォーマンスが明らかにヤハラが摩文仁で死んだという噂のもととなったようだ。飛び降りて怪我をしたにもかかわらず、ヤハラ大佐は壕の民間人の集団に紛れ込み、彼らと共に一緒に北へと向かい、最終的に小さなボートで日本領土に到達することを希望していた。
ブルー部隊がその壕に近づくと、ヤハラはグループを導いて投降し、彼らを伴って屋比久の収容施設に入ったが、そこで彼は学校教師としてうまく身を偽ることに成功した。三日間ほど軍作業の労働についただけで、彼のすでに弱った体は体調を崩し、次の2週間は休んで過ごした。
しかし、無為でいながらも文句の多いよそ者の存在は、警戒心をもった沖縄人の疑念と憤慨を招き、その男はヤハラをわきに連れていき説明を求めた。ヤハラは正体を明かしたが、その男の愛国心に訴え、黙っていてくれるよう頼み込んだ。がっかりなことには、その沖縄人はすぐさま彼の存在を地元の CIC エージェントに報告し、その職員はもどってきて、悔しそうにしているが無抵抗であったヤハラを連行し拘束した。
《Major Philips D. Carleton, The Conquest Of Okinawa: An Account Of The Sixth Marine Division, (2015) Appendix Footnote 4 p. 229. 》
本土決戦を前に沖縄戦の作戦参謀を捕らえるという、米軍にとってのかつてない大きな成果に関して、米軍記録と本人の記憶に十日ほどの差異があるが、ここでは便宜的に八原の手記に沿って、26日に彼の逮捕の様子を記す。
収容所の「お礼参り」 - ある隊長の収容所生活
捕虜は尋問の後、日本人将校、兵士、朝鮮人軍夫、沖縄人、それぞれに幕舎を分けて収容されたが、積もり積もった恨みから引き起こされるトラブルを避けることは難しかった。残虐に部下を処刑し、自分は早々に捕虜となった上官に対し、「お礼参り」が行われることも少なくなかった。
下は、収容所で話題となった、ある「隊長」の話題が、偽名で記されている。慶良間諸島の三人の「隊長」*1 のうち、この時点で捕虜となつているのは、6月8日に捕虜となった座間味島の梅澤戦隊長のみである。怪我の治療と尋問等が終わり、屋嘉収容所に送られるも、そこで朝鮮人捕虜の「歓迎」をうける。
… 1945年7月の中ごろのある日、病院をさわがす事件がおきた。
屋嘉のPWキャンプから梅村という海軍少佐が病院おくりとなってきたのである。
「きのう、あいつと一緒に屋嘉から送られてきたおれの幕舎の兵隊から聞いたんだが、屋嘉においていたら、奴っこさん殺されちまいそうで、あぶなくなって病院おくりとなったらしい」
「水勤の連中が、ご恩返しをしてやろう、ということで、梅村の両足をゆわえて屋嘉の収容所の広っぱを引きずりまわしたそうだ」
「因果はめぐるか・・・」
そんな会話が私たちの幕舎でかわされていた。
「水勤」というのは暁部隊の水上勤務の朝鮮人被徴用者たちのことであった。朝鮮の若者たちは正規の日本軍には編入されないで、海軍や陸軍の輸送船の労務者に、あるいは、海兵隊の労役に使われていた。水上勤務は私たちの「防衛召集」と似通っていた。名称はともかく、どちらも事実は苦力(クーリー)部隊にひとしかった。
幕舎の内外で聞かれた話をまとめると、おおよそ次のとおりであった。
海軍少佐梅村太郎は那覇の西方にある慶良間諸島の中の阿嘉島の守備隊長であった。彼は冷酷非情の男であったうえに、朝鮮人に対する軽侮の気持ちがあったために、朝鮮人の水上勤務の者たちへの仕打ちはいよいよ冷酷さを加えたらしい。水勤の連中がきにくわぬことをしでかすと、足を縄でゆわえて引きずりまわさせた。隊長である梅村少佐の命令は阿嘉島では「大王の声」であった。反抗すれば有無をいわさず少佐の命令一下消されてしまうのであった。いのちのおしい者は反抗しようとしなかった。そういう札つきの梅村少佐が屋嘉のキャンプに現れたのである。
屋嘉のPWキャンプには水勤の仲間が何十名も先に送られていた。彼らは梅村少佐が捕虜となって屋嘉に姿を現わすとは夢にも思っていなかった。いつもの彼の言動から、彼は当然自決したものと思い込んでいた。それが姿を現したのである。
「どの面さげて人様の前に出て来ようというのか」「ふざけた野郎だ」憎しみの罵声が期せずして飛んだ。水勤仲間は梅村が捕虜になったことを「ゆるすべからざる」ことだと考えたのである。彼は将校幕舎から呼び出されて、「人民裁判」にかけられた。
「お前からやられた通りのお返しをする。それ以上のことも以下のこともしないから安心しろ!」そう宣言されて梅村は屋嘉のキャンプの砂地の上を両足をゆわえられて引きずりまわされたのである。キャンプの1万の日本兵捕虜たちの見まもる中で、アメリカのMPたちも見て見ぬ振りをした。日本軍将校に対する水勤仲間の「復讐」をアメリカ兵も同情の気持ちで黙認したのであろう。しかし、梅村を殺させては「捕虜保護」の責任を問われるので間もなくMPたちは水勤の連中をなだめて、彼を将校幕舎に連れ戻した。梅村が病院送りとなったのはその翌日であった。
《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 173-174頁より》
こうして屋嘉で暴行を受けた「隊長」は、屋嘉から再び野戦病院に送られるが、そこでも部下の日本兵に暴行を受ける。梅澤隊長は、自らは慰安婦を愛人となして山にひきこもりながらも、住民虐殺以外に、斬り込みから逃げたとして部下二人をも「処刑」している。
病院へ送られてほっとした梅村には、そこでも「敵」が待っていた。こんどは水勤の連中ではなくて、彼の部下であった日本兵たちである。
通勤の看護の娘たちも帰ってしまい、病院内が静まり返ってから梅村少佐は将校幕舎から呼び出された。幕舎つきの衛生兵たちの目の届かない病院の柵外へつれ出していくわけにはいかないので、幕舎の裏の方へ誘ったのである。少佐を連れ出した者たちは病院で元気をとりもどし、幕舎の世話係をしている連中で、病人らしくない見た目にはたくましい患者たちであった。
「おい梅村、おれたちを忘れやしないだろう」「もう、手前は少佐殿でも、隊長殿でもないからなあ。そのつもりでいろっ」「おれたちもお前も、おなじPWさまだ。お前、よくもしゃあしゃあと捕虜なんかになれたなあ。おれたちにお前、何といった」「この野郎!」
しゃべっているうちに、めいめい自分の言葉で憎しみの心がよみがえって、次第に感情がたかぶってきた。梅村少佐はうなだれたまま一語も発しない。ひとりが梅村を思いきり殴った。ひとりが腕をふるうと、あとの3人も梅村に殴りかかった。梅村のからだつきは普通なのに、4人の兵隊はみんな彼よりも大きいから、1対4では勝負にならない。梅村は抵抗しないで、殴られていた。屋嘉のキャンプから引きつづいてのリンチに、彼は精神的にも完全にまいってしまっていた。
《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 174-175頁より》
Exterior of a Military Government hospital at Ishikawa, Ryukyu Islands. Patients indoors.【訳】軍政府病院の外観。沖縄本島の石川にて。屋内にいる患者。
踏んだり蹴ったり、手と足を働かせながら口をついて出る彼らの言葉をつなぎ合せるとこうである。阿嘉島の守備隊長をしていた梅村は、水上勤務の仲間たちに冷酷無残であったばかりでなく、部下の日本兵たちにも非道な指揮官であった。危険な作業に兵隊を無慈悲に駆り立てていた。
戦争であれば危険は当然のことであるが、それでも時間によって「安全度」がちがったし、危険が全然避けられないわけでもなかった。百パーセント安全だという時間はないが、比較的危険がない時間を、10日、20日と戦闘が続いているうちに兵隊たちも知るようになって、その勘が当たるか当たらないかは別として、それによって毎日行動していた。梅村はそれを無視して自分の思いつきで、容赦なく、いつでも兵隊を駆り出したのである。そのようにして、「偶然」と「運」にかかわることであったにしても、つぎつぎに兵隊が殺されると「梅村に殺された」ということになった。
「あの野郎殺してしまえ」と、みんな煮えくり返る思いをしながら、とうとう殺すことができずにいた梅村少佐を、PWキャンプと米軍病院の中で見つけたのであった。梅村が動けないくらいに殴られたころにコーア・メン (ブログ注・海兵隊員) が3名やってきて梅村を幕舎に返すように4人に指示した。
屋嘉キャンプと同じく、病院でも日本兵が日本軍将校に仕返しをするということは、アメリカ兵にも「面白いこと」であった。軍隊の常道としてアメリカ兵もときには自分たちの将校に憤懣もあったし、ぶん殴ってやりたいこともあったはずである。日本兵の仕返しの気持ちに同情して、ここでも初めは見ぬふりをした。梅村もめぐり合せが悪かったというわけである。
思い切り梅村少佐を殴ったので腹の虫がおさまったのか、その後はことなくすんだが、殴った連中は「元気がありすぎる」ということで、翌る日に退院を命ぜられて屋嘉キャンプに送り返された。この事件はいささかアメリカ側にもセンセイショナルなもので、病院長にも報告され、3人の退院もその上での処置であったと衛生兵は話していた。
《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 175-176頁より》
そのとき、住民は・・・
喜如嘉の下山 - 喜如嘉の収容所
辺土名収容所地区 - 大宜味村喜如嘉 (おおぎみそん・きじょか)
大宜味村では敗残兵が住民リストを作り残虐な住民虐殺が連続しておこったため、住民は山から下りることができなかったが、7月12日に米軍の北部掃討戦と部隊の駐留がはじまったことを契機に、紫雲隊と交渉し下山する。
沖縄戦記録フィルム「1フィート運動の会」の代表を勤める福地曠昭さんの著書「村と戦争」です。『6月23日に沖縄戦は終わったといわれるが沖縄の‘終戦゛は各個人によって違いがある』『喜如嘉でも7月中旬までまだ戦は終わっていなかった』
喜如嘉の住民と本島各地から避難してきた人々は7月になってもまだなお山奥に身を潜める生活をしていました。
7月12日には数十人のアメリカ戦闘部隊が喜如嘉国民学校に駐屯。山中に確保してあった食料はとうとう底をつき、人々が餓死寸前となった7月14日、ついに避難していた人たちは山を降りる決意をします。
戦争がいつ終わったのかはわからない。あと1週間分しか食糧がなかった。紫雲隊というのが部落全体を管轄していた。部落の幹部が、このままでは部落みんな餓死するからと、紫雲隊の方にお願いに行った。下山許可が出た。田井等収容所にはすでにたくさん収容されていた。木の棒に白い布をつけて旗にして、部落の人が持って下りた。米軍のレーションをもらって落ち着いた。
弱視の障害を持つ少年は、家族とともにやんばるに避難、ソテツ地獄を経験する。
沖縄戦が始まる前、村人たちは毒抜きしたソテツを用意していましたが、転勤族だった私たちは畑も田んぼもなく準備ができませんでした。周囲の人たちに頼んでソテツを譲ってもらい、暇だった私たち子どもが毒抜き作業をしていました。…
7月13日に米軍が「48時間以内に谷底から出るように」と通告を出してきました。その時も家族会議をしました。父は「校長の立場上、捕虜にはなれないからここに残る。みんなは山を下りなさい」と話しました。私の誕生日の15日に父を谷底に残し、集落内に下りました。しかし父も連れてこないといけないということで翌日には親戚が谷底に戻り連れてきました。こうして山田家と喜如嘉住民の避難生活は終わりました。… 戦争というのは命も奪うが障がい者も生む。特に障がい者は弱いですから、戦争の犠牲になることが多い。
田井等収容所「写真集 沖縄戦」P277 /(1945/05/18)
慶良間の三人の隊長、久米島の隊長、そしてやんばるの敗残兵 …。軍刀をふりまわして朝鮮人軍夫や住民を脅し、何の罪もない老人や女性すらも手をかけ虐殺をいとわなかった者たちは、やがては捕虜となり、生きて故郷に帰り、結婚して子供を持ち、商売をそこそこ成功させて、普通に暮らす。
ドキュメンタリー映画監督の三上智恵は、北部で虐殺を繰り返し、して住民を恐怖のどん底に突き落とした紫雲隊、「めった刺し」の井澤という男の「戦後」を追った。
井澤○○さんは三男か四男で、戦後、遠縁にあたるB家に婿養子に入ったこと。向こうでは製材所を立ち上げて経営し、商売は軌道に乗っていたこと。いつもニコニコして朗らかで、どちらかというと太っていて、子煩悩で孫の面倒をよく見ていたこと。沖縄に行った話など聞いたこともなく、肝臓癌で七〇歳あまりで亡くなったこと。… 冗談が好きで朗らかで太っていた。私が集めた沖縄戦当時のイメージとはかけ離れた井澤像だった。私が知っているのは、小柄で鼻ヒゲを生やした古参兵で刀を背中にしょって銃を持ち、すばしっこくて眼力が鋭い男。…
戦場のおぞましい虐殺者は、日本の「普通」の男だった。彼らは、復員しても戦場の罪を問われることなく、戦後の「日常」に戻って生活を構築したが、彼らは、自分たちがかかわることによって生を奪われた多くの者たちの命や、自らの「戦後」に、どのように向かい合ったのだろうか。
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