〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月14日 『屋嘉収容所』

ナバホの暗号部隊捕虜収容所と『屋嘉節』愛楽園

米軍の動向

 戦利品

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《AIによるカラー処理》戦利品(1945年7月14日撮影)Okinawa-souvenirs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄のナバホ・コードトーカー

米軍は隔離と同化政策で絶滅危惧言語となっていた先住民の言葉を戦争暗号として利用した。 1968年まで先住民コード・トーカーの存在は機密事項であったが、写真のキャプションは彼がナバホのコード・トーカーであることを暗示している。

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海兵隊: Pvt. Leslie Hemstreet (936840) of Crystal, New Mexico, a Navajo Marine, is shown beating native drum at this shrine. He is beating out old indian calls.

ニューメキシコ州クリスタル出身の海兵隊員ヘムストリート二等兵が神社で地元の太鼓をたたく。彼は古いインディアンの「合図」を打ち鳴らす。(1945年7月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

屋嘉捕虜収容所 『屋嘉節』

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米軍の捕虜となった兵士は、日本人、朝鮮人軍夫、沖縄人、将校と分けられ収容された。捕虜収容所の本部は屋嘉収容所であり、その他に牧港、楚辺 (実際の場所は高志保)、奥武山、小禄普天間、嘉手納にも設置された。また学徒兵などを中心として沖縄人捕虜はハワイのホノウリウリ収容所やサンドアイランド収容所、またカリフォルニア州エンジェルアイランドなど海外の収容所に移送され収容された。

班長を任された男性の証言:

7月14日以降については、私の手許に当時、毎朝の点呼をとった記録があるので収容所の出入りは判然としている。第三次ハワイ送り出しの時百人単位だったのが、7月14日は639人になっていてその日の夕方は663人に増している。入所者の送られた先の地名や人数、出て行った者の送り先、病院とか、日本兵柵内に移された者等が記されてある。日本兵が沖縄出身と偽り、それがばれて移されるものが随分いた。逆に沖縄出身で日本兵だと偽り本土へ送られることを期待して日本兵柵内にもぐり込んでいるのもいた。

 《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 7頁より》

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米軍野戦テントと二重の有刺鉄線の屋嘉収容所。非戦闘員、朝鮮人日本兵と区分けされるようになる。(1945/06/27)

収容所生活/屋嘉捕虜収容所 : 那覇市歴史博物館

米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦としたカンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。
収容所は1946年2月に閉鎖となり、その後米軍保養所(ブログ註・屋嘉レストセンター) となりましたが、1979年8月31日に全面返還されました。屋嘉捕虜収容所の碑の裏には屋嘉節の歌詞が刻まれています。
「なつかしや 沖縄 戦場になやい 世間 お万人と涙なかち」
懐かしい 沖縄が 戦場になってしまい 世間の幾多の人が涙を流しているだろうか。

屋嘉捕虜収容所の碑 | 金武町観光ポータルサイト

亀谷朝仁『屋嘉節』

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「屋嘉捕虜収容所跡の碑 」 沖縄の戦跡 | OKINAWAN PEARLS|沖縄総合事務局

小さな少年兵 (鉄血勤皇隊や通信隊の学徒兵) の姿も多く見られる。また兵士に分配されている箱状のものは、レーションとよばれる戦闘糧食。

日本兵捕虜、石川 (屋嘉収容所) 1945年6月26日撮影 (沖縄公文書館所蔵)

屋嘉収容所埋葬跡地 - 捕虜収容所で死亡した237人の兵士

沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表とNPO法人戦没者追悼と平和の会」(佐賀県)の塩川正隆理事長は19日、県庁で記者会見し、県内の米軍捕虜収容所に埋葬された日本兵や軍属ら237人の(死亡者)氏名が記載された名簿について、心当たりのある遺族へDNA鑑定を希望するよう呼び掛けた。名簿には県出身者とみられる氏名も50人以上記載されている。…(中略)… 名簿には「ウエハラ」「タマシロ」など県出身者とみられる氏名のほか、朝鮮籍とみられる氏名もあった。…(中略)… 名簿は2009年に塩川理事長らが米国立公文書館で発見した。塩川理事長は収骨のため先週から沖縄を訪れており、具志堅代表が屋嘉収容所埋葬跡地での収骨作業を検討していたことから、名簿の存在を伝えた。 

埋葬日本兵名簿確認を ガマフヤーと佐賀のNPO - 琉球新報

 

国頭突破 - 捕虜になった兵士の話

9割の兵士が戦死した陸軍第24師団 (北海道出身) の兵士の証言

与座壕から国頭突破

深見大隊長から命令出ました。「北へ行ったら、2個大隊の健在の部隊がいる」と。「それと合流するために突破するんだ」と、「ついてこれる者は皆ついてこい」と、「ついてこれないのは、自決すれ」という命令が出ました。… 出発したのが7月1日か2日だね、出発開始、夜中11時ごろ出発する… 出るのにも、アメリカ機関銃がいるから、… 与座壕の上にだあーっているから、機関銃据えつけているし。そのときも様子も見て、石をどーんと投げてやるの。そうすると、いればビビビビー、撃ってくるからすぐわかるんですよ。石か、鉄棒の余ってるのもあるから、鉄棒ぼーんと投げる、ガラガランっていうと、すぐビビビー、いれば来るんだけど、たまたま、そのとき来なかった。「よし、今だ」と。「いないようだぞ」というので、次から次と一人ずつ出たの。… そのとき64名だと思った。… 歩けないのは置いてきたの、そのまま、「自決しろ」と言って置いてきたはずだ。...  (中略)  ...

そのときはもう普天間の飛行場の横のほう。… 准尉が「守屋、やられたー」って言うわけよ。「どこやられた、准尉殿」って。「腕だ」って。ここ、腕貫通してた。「准尉殿、大丈夫だ、縛っておけば」って、縛れば大丈夫だって言ったっけ、「だめだ、だめだ」って言ったっけ、手りゅう弾の上でこうやり始まったから、おれ逃げたもん。逃げたっけ、バーンと自決した、准尉。

胡座民間人収容所で

… そこは。コザの民間の収容所なんですよ、後から、わかったけどね。そこへ行ったら、テントの入り口、行ったら、(住民が) キャーと逃げるんですよ、奥にね。したら、一般の年寄りとか、ばあさんとか、じいさん、子どもさんと9人いたと思ったね。ええ。それで、奥にキャーっと逃げちゃったの。しょうがないから黙って立っとったら、出てきたの、赤ちゃん抱いて、姉さんね。出てきて、「ああ、びっくりした、兵隊さんですか」って言うから、「おれ、兵隊だ」って言ったら、姉さんが、「早く、その軍服抜いて、ね、この着物着なさい」っていって、出してくれたから、テントの角のとこ掘って、軍服、皆脱いて、そこへ手りゅう弾も埋めちゃったの。そして、いろいろ今度話ししたの。したら、姉さんが「どこの部隊ですか」、いや、「カトウ隊だ」、「隊長さん、どうしてるでしょう」「いや、隊長わからない」と、「隊長だけはわからん」と。だれだれは、こうこう、こういうとこでこうやって死んだと。それで、説明して、「兵隊さん、どこへ行くの、行くつもりで来たんだ」って言うから、「いや、国頭に行ったら、2個大隊の健在の部隊いるっていうから、そこへ行こうと思って来たんだけど、普天間のとこの田んぼで、みんな全滅したんだ、おれ一人だけなった」と言って。

「ああ、兵隊さん、ね、そんな北へ行ったって、2個大隊の健在な部隊なんかいないよ」って、「兵隊さん、そんなして歩いてたら殺されちゃうから、ね、行くのなんかやめなさい」と、そこでとめられて。それで、「日本の捕虜も4000人もいる」と、「石川 (屋嘉) にいるんだ」という話されたの。「それ姉さん見たのか」って言ったら、「いや、わしは見てないけど、親戚の人が見てるんだ」と。「巡査やってる」と、「CPの巡査やってるから、毎日行くん」って言うから、そういう話して、「いやとにかく、もう食べさせてくれ」と、腹減ってるから。そしたら、うどん炊いてくれた。「このうどん、どこから持ってきたの」って言ったら、「いや、アメリカの配給もらって食ってるんだ」と。1週間に1回配給当たるから。それで、食べさせてもらって、もうそこに行ったときは、もう自分の家、故郷に帰ったような気分、気持ちだったね、うん。食べさせてもらって、いろいろ兵隊の話して。で、「兵隊さん、捕虜になりなさい。いや、兵隊さん出ていきなさい」って、こう言うから、「出ていけって、どこへ行くの」って言ったら、言わないの。「何だ捕虜になれ」っていうのかって、言ったっけ、「うん」って言う。言いづらいわけだ。「捕虜になれって、捕虜なんかならないと、捕虜なるくらいなら、おれ自決する」と、「山へこれから行くわ」って。したら、「いやいや、兵隊さんだめだ、絶対だめ、そんなことして歩いたら殺されるから行くんでない」って泣くんだ。泣かれたの。それから、「わかった」と。したら、「どうしたら生きれるか」と。「いや、兵隊さんだったら軍属で通るから、軍属になんなさい」と。「ああ、そうか」って。
偽名で投降
うん。いや、「とにかく捕虜になったとなると、親族や兄弟の恥だから、日本の恥」。ということは、もう教育中にも言われとったから、「おまえら、捕虜に絶対なってはならんぞと。兄弟親族の恥ぞと。死んでも捕虜にはなるな」と教育されとったから、それがあるから。まあ、偽名で、あくまでも偽名で、ね、兵隊っていうことを隠したいということですね。

守屋 友作さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・

米軍占領下のハンセン病療養施設

特効薬プロミンは1943年に米国で発見されたが、米軍占領下の沖縄では厳しい隔離政策が継続され、プロミンの導入は1949年になってからであった。

米軍政府がハンセン病隔離政策について指令の形式で法令を発布するのは1946年2月8日であり(海軍軍政府指令115号(癩患者の隔離)と同116号(屋我地癩療養所への立入り制限)---1953年11月に民政府指令12号により廃止)、またこの頃から破壊した愛楽園を再建するために建築資材を提供している。「癩病患者であることが判明した者全部を、現在復旧中の屋我地島癩療養所に隔離するよう指示する」、と患者隔離の絶対化を明言した海軍政府指令115号によれば、「軍政府医療施設に収容された癩病患者は、直ちに名護診療所に移し、同診療所を経て屋我地島に輸送」された。また軍政府軍医の監督下の沖縄人医師全員に同指令は伝達されるものとされた。』(181頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181頁より》

米軍の軍医たちはプロミンの導入もしないまま、愛楽園の医師との「情報交換」を重ね、撮影された「学術映画」は資料として米国に送られた。

早田晧園長の家族の手記

毎週訪れる米軍の医師たちと、父たち日本の医師は、敵味方・国境を越えて、ハンセン病患者の病型や治療法、血液検査による早期発見法など、お互いの知識を熱心に交換し合った。… 一方米軍医師団は映画班を派遣し、父たちの説明のもとに、ハンセン病の皮疹、バイオプシー、伝染の仕方、治療法などの学術映画を撮影した。それは後にアメリカの医科大学に送られ、貴重な教育資料となったという。

屋我地島のドン・キホーテ - 大白泰子 http://archive.is/XjvSb 

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米国海兵隊: A JAP EXPLAINS: Marine 2nd Lt. Harry D. French, 23, 207 North Oxford St., Indianapolis, Ind., listens to Dr. Hiroski Hayato, a Jap physician in charge of a leper colony on an island off Okinawa, explain that leprosy is not easily contracted. Between Fre

【和訳】 説明する日本人:沖縄の離島にあるハンセン病療養所所長早田皓医師からハンセン病は感染力が極めて弱いことについて説明をうけるフレンチ少尉。2人の間にいるのは第1海兵師団衛生大隊隊長コンウェイ准将。疫学者である准将はハンセン病患者について研究している。フレンチ少尉は、“日本降服”を認めないこの島の全ての日本兵にその旨伝えよとの伝令を携え、療養所を訪れた 。1945年8月21日撮影

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館
海兵隊記録のキャプション: ブログ訳】説明する日本人: 海兵隊 D. フレンチ少尉 (23) が沖縄の離島にあるハンセン病療養所の所長早田皓博士から、レプラは簡単には収縮しないと説明を受けている。…

▶ 米軍が撮影した愛楽園での検死解剖 (7月7日撮影)

これは米軍が1945年7月の愛楽園を記録した映像を編集したものである。同じ時期、沖縄島南部ではまだ戦闘が続いている地域もあった。米軍は、愛楽園にたびたび訪れ敗戦から間もない園内の様子を撮影した。米軍が撮影した愛楽園の映像がどのように利用されたかは不明である。

時代の正体〈387〉高江で生きる(1) ハンセン病 隔離の島 | カナロコ

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/210772-1.jpg

棺桶を火葬炉に置くハンセン氏病患者(1945年7月14日撮影)

Coffin being placed in crematory by Leper patients.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

宮古南静園の開設 (1931年)

1945年8月14日 『宮古の沖縄戦』

宮古島の北端近くの海岸添いに位置する宮古南静園は、1931年、平屋三棟による「県立宮古保養院」として開院した。当初の入所者は15人。1933年に「臨時国立宮古療養所」となり、1941年に「国立療養所宮古南静園」と改称。

太平洋戦争末期、宮古島は米軍上陸を食い止める「水際作戦」の前線地となり、島内各地に日本軍の軍事施設がつくられ、3万人の軍隊が配備された。1944年の「十・十空襲」(10月10日) をかわきりに宮古島および諸島が散発的な空襲に見舞われ、南静園も壊滅的な被害を受けた。南静園の職員は全員職場放棄をし、取り残された入所者たちは海岸付近の自然壕に避難したが、病気の悪化や極度な栄養失調や赤痢マラリアに苦しみ、1945年、その年においてだけでも110名あまりが命を落とした。園内および近辺には、日本軍が築いた機関銃壕や、銃弾跡、また入所者たちが避難していた海岸の自然壕「ぬすとぅぬガマ」などがいまも残っている。なお、戦時中に日本軍による強制収容が行われた結果、南静園には400人を超える入所者がいたとの証言もある。終戦後、南静園は沖縄愛楽園とともに米軍政下に置かれ、再び患者の収容が強化された結果、1950年には入所者数は338人に増大した。

国立療養所 宮古南静園 | 日本のハンセン病療養所

愛楽園の開設 (1938年11月10日)

1945年7月10日『沖縄愛楽園』

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面会室。右手に患者地帯と職員地帯を隔てていたコンクリート塀が見える(沖縄愛楽園自治会所蔵)

室内は壁によって2つの区画に分けられ、面会は壁越しに行われた。職員立ち会いの下、面会が行われることもあり、隔離されていることを実感する場面となった。また、面会後の履き物の消毒など厳重な管理下で行われ、面会者に恐ろしい病気であるかの印象を与えた。

施設紹介|国立療養所 沖縄愛楽園 National Sanatorium OKINAWA AIRAKUEN

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撤去される前の監禁室(沖縄愛楽園自治会所蔵)

1916年(大正5)に癩予防ニ関する件の法改正で療養所長に懲戒検束権が附与され、療養所内に監禁室が設置された。園長の権限で監禁室は使用され、処罰は減食、監禁などであったが、その基準は曖昧なもので、在園者から恐れられた。准看護学院建設 (ブログ注=1973年開校) により撤去されるまで存在していた。

施設紹介|国立療養所 沖縄愛楽園 National Sanatorium OKINAWA AIRAKUEN

米軍占領下における大規模収容

戦後第1期(1945〜52)は、沖縄における第3次の療養所への大規模収容が行われる時期である。その始期は、宮古群島では米軍が進駐する1945年12月であると考えることができるが、沖縄島・周辺諸島ではこの始期を確定するのは難しい。というのは、米軍が愛楽園のある屋我地島に上陸するのは1945年4月21日であり、同月27日には軍医らが愛楽園を視察して、屋我地島において療養所を維持せしめ、「隔離と治療のために沖縄のすべてのらい患者をそこに移送すること」等の5項目の勧告を行っている。同時にこの視察団は「田井等の4人のらい患者」(「4人のうち3人は前入所者であった」)を愛楽園に連行していた。記録に現れる米軍による最初期の収容である。さらに5月27日にも愛楽園の視察が行われ次の3点が報告されている。「(a) 深刻な食糧不足。これが原因でらい患者の中には沖縄本島に渡っていく者がいる。(b) 不十分な住居。その結果、500人以上の患者が依然として洞穴に暮らしており、そのため管理統制は殆ど不可能になっている。(c) 医薬品と医療器具の不足。そのため医師の診察を受けてきた患者や近隣住民の適切な治療が妨げられている」。この状況を改善するために、2日後の5月29日に食糧や医薬品が愛楽園に届けられた。

しかしいずれにせよこの時期は交戦中であり、日本兵も愛楽園に来て食糧の提供を要求している。また、…米軍により破壊された施設内で壕生活を強いられた入所者に多数の死亡者が出たのは、十・十 空襲後の約一年間においてである。

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 180頁より》

米軍は屋我地島上陸の6日後に「隔離と治療」の方針を早くも打ち出しており、「戦争中四散した患者や新患者を発見次第、愛楽園に送り込んだので、愛楽園はますます、衣食住の問題で混乱し、虚脱状態になり生き地獄の様相を示した」。

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181頁より》

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍統治下の療養施設

米軍占領下の沖縄では隔離政策が続けられ、特効薬プロミンが使用されるようになったのは1949年からだった。

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Leading the visitors at the Airaku-En Leprosarium, located on Yagachi Island, during open house, (left to right) are: Dr. Rolfe Von Scorebrand (in Sunhelmet); Major General Robert S. Beightler, Commanding General RYCOM, and Mrs. Beightler.
ハンセン氏病療養所愛楽園の訪問日に訪問者を案内する(写真左から)スコアブランド医師(日除けヘルメット着用)、琉球軍司令官ビートラー少将、ビートラー夫人
(1951年11月18日)

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名護 沖縄愛楽園 園内施設 1959年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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名護 沖縄愛楽園 園内施設 1959年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1971年沖縄県名護市済井出のハンセン病療養所施設・沖縄愛楽園。職員と入所者の居住地を隔てる門の前で、当時35歳だった入所者の H.S. さん(82)は、職員を呼び出す拍子木を割れんばかりに打ち鳴らした。「婦長を呼べ、妻を帰せ」。妻は強制堕胎のために婦長に連れて行かれた。これまで2度妊娠したが、いずれも堕胎させられた。拍子木の音は、国に奪われた人生と新たな命を取り戻す始まりを告げていた。その後生まれた子は現在、47歳となる。「子どもは希望、生きる糧だよ」。15歳で強制隔離されて67年。報道の取材に初めて実名を明かした。

 H さんは36年に与那国島で生まれた。13歳でハンセン病を発病し、51年に愛楽園に入所した。親族と共に与那国から3日をかけて園に着いた。応対した職員は患者と知ると、出した茶を下げた。「刑務所に入れられたような感覚だった」 

 米軍統治下、軍の支給はあったとはいえ、物資は常に不足。病気の影響で手足の感覚がまひする中、ドラム缶で煮炊きした。やけどに気付かず、指先を失った。「風船のように膨らんでから気付いても治療はままならない。手遅れとなり切断するしかない」。多くの入所者が手足を失った。…

「流産させるために那覇から先生が来ている」。拍子木の音で現れた婦長が言い放った。H さんが怒声を上げた。「絶対に堕胎させない。これ以上、奪われてなるものか」園内で出産しないことを条件に妻は解放された。その後、石垣で長女を出産した。76年には長男も園外で出産。2人の子は親類の下で育てた。
 一部の園職員からは「国に養われているのに、子どもがいるのは許されない」という言葉を浴びせられた。それでも離れた子を思い、がむしゃらに働き、生活費を送った。「どんな言葉を言われようが、子のことを考えれば耐えられた」。仕事で園外に出る機会も増えた。帰ることはないと思っていた実家にも、子に会うために帰ることができた。「子どもと一緒に暮らすことはできなかったけれど、子どもがいるだけで生きることができた」… 愛楽園は10日、開園80年を迎えた。ハンセン病への差別、偏見はいまだ残る。「よく分からない、知らないから差別する。私たち元患者は恥じることは何もない。堂々と外に出て、会話を重ねれば、お互い理解し合えるよ」

2度の強制堕胎、3度目に「もう奪わせぬ」 辛い過去を回顧「子が生きる糧に」 実名明かし証言 - 琉球新報

 

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ハンセン病を正しく理解しましょう|公益財団法人 沖縄県ゆうな協会