〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月14日 『屋嘉収容所』

ナバホのトライバル・ドラム捕虜収容所の屋嘉節 / まぼろしの国頭突破 / 米軍占領下の愛楽園 - 医療レイシズム

 

米軍の動向

沖縄のナバホ・コードトーカー

米軍は長年にわたるアメリカ先住民の強制移住政策と同化政策で絶滅危惧言語となっていたナバホ語など先住民言語を戦争暗号として利用した。1968年まで先住民コード・トーカーの存在は米軍の機密事項であった。しかし下の写真の番号 (936840) は彼がコードトーカーであったことを示している。

糸満の白銀堂には米海兵隊の拠点がおかれた。海兵隊のナバホ・コードトーカーであったヘムストリートは、ナバホのトライバル・ドラムとよく似ている神社の太鼓を打ち鳴らしている。

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海兵隊: Pvt. Leslie Hemstreet (936840) of Crystal, New Mexico, a Navajo Marine, is shown beating native drum at this shrine. He is beating out old indian calls.

ニューメキシコ州クリスタル出身の海兵隊員ヘムストリート (936840) 二等兵が神社で地元の太鼓をたたく。彼は古いインディアンの「合図」を打ち鳴らす。(1945年7月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

アメリカの長い同化政策の中で、アメリカ先住民の子どもたちは親と引き離され、遠くの先住民寄宿舎学校に入れられた。先住民の言語をしゃべることは一切禁じられ、しゃべっただけで厳しい罰をあたえられた。この悪名高い同化政策によってアメリカやカナダ全土で多くの先住民の子どもたちが組織的な虐待を受けて命を奪われた*1。戦争が始まると、しかし米軍は逆に先住民言語を戦争暗号として利用した。こうした米軍の暗号は「近代の戦争史で唯一クラックされなかった暗号」となった。

幼い頃、サミュエルと彼の兄弟は、ナバホ族の子供たちを寄宿学校に送るためにやってきた政府機関の職員から逃げ隠れていた。ホリデーは、最終的に捕まって、母国語を話すことを許されない寄宿学校に行くことを余儀なくされた。… (コードトーカーとなって) 彼が寄宿学校でしゃべってしまったことで懲罰を受けたまさにその言語は、突然、米国海兵隊にとっての大きな資産になったのだ。

ナバホ・コードトーカーについての米国議会証言記録 (2011年) - Battle of Okinawa

ペリリュー戦から沖縄にわたるナバホとコマンチのコードトーカー。

Marine radio messengers on their way to Okinawa, Japan, 1945. Left to right: Private First Class Joe Hosteen Kelwood (Navajo), Steamboat Canyon, AZ; Pvt. Floyd Saupitty (Comanche), Lawton, OK; and Private First Class Alex Williams (Navajo), Leupp, AZ. Courtesy U.S. Marine Corps.

1945年、沖縄へ向かう海洋無線メッセンジャー。左から右へ:ジョー・ホスティン・ケルウッド上等兵(ナバホ)、アリゾナ州ティームボート・キャニオン。 フロイド・ソーピティ上等兵 (コマンチ)、オクラホマ州ロートン。アレックス・ウィリアムズ上等兵(ナバホ)、アリゾナ州リュープ。米国海兵隊提供。

コードトーカーは日本兵と間違えられることもあり、通常は白人兵のガードがついた。

ガダルカナル島では、陸軍パトロール隊が海岸沿いの道路でひとりのナバホの通信員を拾い、第1海兵師団司令部指揮所に「海兵隊のドッグタグを付けた海兵隊服の日本人を捕獲した」という連絡を送った。彼が解放されたのは、身元確認のため海兵隊士官が到着してやっとのことだった。

Legacy of the Navajo Code Talkers (U.S. National Park Service)

その特殊な活動のため長期間連続して従軍することも多かった先住民のコードトーカーは、しかし、退役して帰国した後も長く差別に直面した。

戦後、多くのアメリカ先住民退役軍人にとって、最も困難な部分は差別に直面することでした。地域の幾つかの店のドアには「犬もインディアンもお断り」と書かれた看板が掲げられていた。

Pentagon exhibit highlights American Indian wartime achievements | The United States Army

 

 

第32軍の敗残兵

まぼろしの「国頭突破」

米軍の掃討のなか、多くの敗残兵が、北部国頭まで突破すれば部隊に合流できるという「国頭突破」の希望にすがって生きていた。以下は9割の兵士が戦死した陸軍第24師団 (北海道出身) の兵士の証言。「2個大隊の健在の部隊」とは、おそらくは護郷隊のことを指していたと思われる。

与座壕から国頭突破をめざす

深見大隊長から命令出ました。「北へ行ったら、2個大隊の健在の部隊がいる」と。「それと合流するために突破するんだ」と、「ついてこれる者は皆ついてこい」と、「ついてこれないのは、自決すれ」という命令が出ました。… 出発したのが7月1日か2日だね、出発開始、夜中11時ごろ出発する… 出るのにも、アメリカ機関銃がいるから、… 与座壕の上にだあーっているから、機関銃据えつけているし。そのときも様子も見て、石をどーんと投げてやるの。そうすると、いればビビビビー、撃ってくるからすぐわかるんですよ。石か、鉄棒の余ってるのもあるから、鉄棒ぼーんと投げる、ガラガランっていうと、すぐビビビー、いれば来るんだけど、たまたま、そのとき来なかった。「よし、今だ」と。「いないようだぞ」というので、次から次と一人ずつ出たの。… そのとき64名だと思った。… 歩けないのは置いてきたの、そのまま、「自決しろと言って置いてきたはずだ。...  (中略)  ...

そのときはもう普天間の飛行場の横のほう。… 准尉が「守屋、やられたー」って言うわけよ。「どこやられた、准尉殿」って。「腕だ」って。ここ、腕貫通してた。「准尉殿、大丈夫だ、縛っておけば」って、縛れば大丈夫だって言ったっけ、「だめだ、だめだ」って言ったっけ、手りゅう弾の上でこうやり始めたから、おれ逃げたもん。逃げたっけ、バーンと自決した、准尉。

守屋 友作さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

食糧を求めて民間人収容所に迷い込む。住民は敗残兵の襲撃の恐怖におののくが、無害な青年だとわかると、女性が食料を与え、泣いて捕虜になることを促す。夫や子どもを防衛隊や学徒兵として日本軍にとられた女性たちにとって、惨めな敗残兵の姿は消息不明のままの夫や子供の姿でもあった。

胡座民間人収容所で

… そこは。コザの民間の収容所なんですよ、後から、わかったけどね。そこへ行ったら、テントの入り口、行ったら、(住民が) キャーと逃げるんですよ、奥にね。したら、一般の年寄りとか、ばあさんとか、じいさん、子どもさんと9人いたと思ったね。ええ。それで、奥にキャーっと逃げちゃったの。しょうがないから黙って立っとったら、出てきたの、赤ちゃん抱いて、姉さんね。出てきて、「ああ、びっくりした、兵隊さんですか」って言うから、「おれ、兵隊だ」って言ったら、姉さんが、「早く、その軍服抜いて、ね、この着物着なさい」っていって、出してくれたから、テントの角のとこ掘って、軍服、皆脱いて、そこへ手りゅう弾も埋めちゃったの。そして、いろいろ今度話ししたの。したら、姉さんが「どこの部隊ですか」、いや、「カトウ隊だ」、「隊長さん、どうしてるでしょう」「いや、隊長わからない」と、… 。だれだれは、こうこう、こういうとこでこうやって死んだと。それで、説明して、「兵隊さん、どこへ行くの、行くつもりで来たんだ」って言うから、「いや、国頭に行ったら、2個大隊の健在の部隊いるっていうから、そこへ行こうと思って来たんだけど、普天間のとこの田んぼで、みんな全滅したんだ、おれ一人だけなった」と言って。

「ああ、兵隊さん、ね、そんな北へ行ったって、2個大隊の健在な部隊なんかいないよ」って、「兵隊さん、そんなして歩いてたら殺されちゃうから、ね、行くのなんかやめなさい」と、そこでとめられて。それで、「日本の捕虜も4000人もいる」と、「石川 (屋嘉) にいるんだ」という話されたの。「それ姉さん見たのか」って言ったら、「いや、わしは見てないけど、親戚の人が見てるんだ」と。… そういう話して、「いやとにかく、もう食べさせてくれ」と、腹減ってるから。そしたら、うどん炊いてくれた。「このうどん、どこから持ってきたの」って言ったら、「いや、アメリカの配給もらって食ってるんだ」と。… もう自分の家、故郷に帰ったような気分、気持ちだったね、うん。食べさせてもらって、いろいろ兵隊の話して。で、「兵隊さん、捕虜になりなさい。いや、兵隊さん出ていきなさい」って、こう言うから、「出ていけって、どこへ行くの」って言ったら、言わないの。「何だ捕虜になれ」っていうのかって、言ったっけ、「うん」って言う。言いづらいわけだ。「捕虜になれって、捕虜なんかならないと、捕虜なるくらいなら、おれ自決する」と、「山へこれから行くわ」って。したら、「いやいや、兵隊さんだめだ、絶対だめ、そんなことして歩いたら殺されるから行くんでないって泣くんだ。泣かれたの。それから、「わかった」と。したら、「どうしたら生きれるか」と。「いや、兵隊さんだったら軍属で通るから、軍属になんなさい」と。「ああ、そうか」って。
偽名で投降
うん。いや、「とにかく捕虜になったとなると、親族や兄弟の恥だから、日本の恥」。ということは、もう教育中にも言われとったから、「おまえら、捕虜に絶対なってはならんぞと。兄弟親族の恥ぞと。死んでも捕虜にはなるな」と教育されとったから、それがあるから。まあ、偽名で、あくまでも偽名で、ね、兵隊っていうことを隠したいということですね。

守屋 友作さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

屋嘉捕虜収容所 『屋嘉節』

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米軍の捕虜となった兵士は、日本人、朝鮮人軍夫、沖縄人、将校と分けられ収容された。捕虜収容所の本部は屋嘉収容所であり、その他に牧港、楚辺 (実際の場所は高志保)、奥武山、小禄普天間、嘉手納にも設置された。また学徒兵などを中心として沖縄人捕虜はハワイのホノウリウリ収容所やサンドアイランド収容所、またカリフォルニア州エンジェルアイランドなど海外の収容所に移送され収容された。

班長を任された男性の証言:

7月14日以降については、私の手許に当時、毎朝の点呼をとった記録があるので収容所の出入りは判然としている。第三次ハワイ送り出しの時百人単位だったのが、7月14日は639人になっていてその日の夕方は663人に増している。入所者の送られた先の地名や人数、出て行った者の送り先、病院とか、日本兵柵内に移された者等が記されてある。日本兵が沖縄出身と偽り、それがばれて移されるものが随分いた。逆に沖縄出身で日本兵だと偽り本土へ送られることを期待して日本兵柵内にもぐり込んでいるのもいた。

 《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 7頁より》

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米軍野戦テントと二重の有刺鉄線の屋嘉収容所。非戦闘員、朝鮮人日本兵と区分けされるようになる。(1945/06/27)

収容所生活/屋嘉捕虜収容所 : 那覇市歴史博物館

米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦としたカンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。
収容所は1946年2月に閉鎖となり、その後米軍保養所(ブログ註・屋嘉レストセンター) となりましたが、1979年8月31日に全面返還されました。屋嘉捕虜収容所の碑の裏には屋嘉節の歌詞が刻まれています。
「なつかしや 沖縄 戦場になやい 世間 お万人と涙なかち」
懐かしい 沖縄が 戦場になってしまい 世間の幾多の人が涙を流しているだろうか。

屋嘉捕虜収容所の碑 | 金武町観光ポータルサイト

亀谷朝仁『屋嘉節』

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「屋嘉捕虜収容所跡の碑 」 沖縄の戦跡 | OKINAWAN PEARLS|沖縄総合事務局

小さな少年兵 (鉄血勤皇隊や通信隊の学徒兵) の姿も多く見られる。また兵士に分配されている箱状のものは、レーションとよばれる戦闘糧食。

日本兵捕虜、石川 (屋嘉収容所) 1945年6月26日撮影 (沖縄公文書館所蔵)

 

そのとき、住民は・・・

米軍占領下の愛楽園

特効薬プロミン1943年に米国で開発されたが、米軍占領下の沖縄では厳しい隔離政策が継続され、米軍がプロミンを沖縄のハンセン療養施設に導入したのは1949年になってからであった。

米軍の軍医たちはプロミンの導入もしないまま、愛楽園の医師との「情報交換」を重ね、撮影された「学術映画」は資料として米国に送られた。GHQのもとで日本のハンセン病療養施設ではプロミン1946年に導入されたが、米軍占領下の沖縄の愛生園でプロミンが導入されたのは、1949年である。米医療団は愛楽園と密接に連携をとっていたが、医療データだけが米国の研究機関に送られるという医療レイシズム *2 が組織的に行われていた可能性がある。

早田晧園長の家族の手記

毎週訪れる米軍の医師たちと、父たち日本の医師は、敵味方・国境を越えて、ハンセン病患者の病型や治療法、血液検査による早期発見法など、お互いの知識を熱心に交換し合った。… 一方米軍医師団は映画班を派遣し、父たちの説明のもとに、ハンセン病の皮疹、バイオプシー、伝染の仕方、治療法などの学術映画を撮影した。それは後にアメリカの医科大学送られ、貴重な教育資料となったという。

屋我地島のドン・キホーテ - 大白泰子 http://archive.is/XjvSb  

ハンセン病療養所の医師たちは入所者が死亡すると遺体を解剖していた。それは遅くとも1920年頃には始まり、1980年頃まで続いたと考えられる。

《「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」2005年より)》

ハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」 展示資料/神奈川新聞(カナロコ) - YouTube

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米国海兵隊: A JAP EXPLAINS: Marine 2nd Lt. Harry D. French, 23, 207 North Oxford St., Indianapolis, Ind., listens to Dr. Hiroski Hayato, a Jap physician in charge of a leper colony on an island off Okinawa, explain that leprosy is not easily contracted. Between Fre

説明する日本人:沖縄の離島にあるハンセン病療養所所長早田皓医師からハンセン病は感染力が極めて弱いことについて説明をうけるフレンチ少尉。2人の間にいるのは第1海兵師団衛生大隊隊長コンウェイ准将。疫学者である准将はハンセン病患者について研究している。フレンチ少尉は、“日本降服”を認めないこの島の全ての日本兵にその旨伝えよとの伝令を携え、療養所を訪れた 。1945年8月21日撮影

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

▶ 米軍が撮影した愛楽園での検死解剖 (7月7日撮影)

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/210772-1.jpg

Coffin being placed in crematory by Leper patients. 棺桶を火葬炉に置くハンセン氏病患者(1945年7月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍が記録した野外での遺体解剖のようす。写真に写る強い影から炎天下であることがわかる。

これは米軍が1945年7月の愛楽園を記録した映像を編集したものである。同じ時期、沖縄島南部ではまだ戦闘が続いている地域もあった。米軍は、愛楽園にたびたび訪れ敗戦から間もない園内の様子を撮影した。米軍が撮影した愛楽園の映像がどのように利用されたかは不明である。1945年7月7日撮影

時代の正体〈387〉高江で生きる(1) ハンセン病 隔離の島 | カナロコ 

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米陸軍: Dr. R. Hayata and staff perform autopsy on leper patient in leper colony. The autopsy table in the only remaining part of the autopsy building which was destroyed by bombing. ハンセン病療養所で検死を行う早田医師とスタッフ。検死テーブルだけが空襲の被害から逃れた。1945年7月10日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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面会室。右手に患者地帯と職員地帯を隔てていたコンクリート塀が見える(沖縄愛楽園自治会所蔵)

室内は壁によって2つの区画に分けられ、面会は壁越しに行われた。職員立ち会いの下、面会が行われることもあり、隔離されていることを実感する場面となった。また、面会後の履き物の消毒など厳重な管理下で行われ、面会者に恐ろしい病気であるかの印象を与えた。

施設紹介|国立療養所 沖縄愛楽園 National Sanatorium OKINAWA AIRAKUEN

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撤去される前の監禁室(沖縄愛楽園自治会所蔵)

1916年(大正5)に癩予防ニ関する件の法改正で療養所長に懲戒検束権が附与され、療養所内に監禁室が設置された。園長の権限で監禁室は使用され、処罰は減食、監禁などであったが、その基準は曖昧なもので、在園者から恐れられた。准看護学院建設 (ブログ注=1973年開校) により撤去されるまで存在していた。

施設紹介|国立療養所 沖縄愛楽園 National Sanatorium OKINAWA AIRAKUEN

米軍占領下における大規模収容

米軍占領下における愛楽園の大規模収容と強制堕胎。

戦後第1期(1945〜52)は、沖縄における第3次の療養所への大規模収容が行われる時期である。その始期は、宮古群島では米軍が進駐する1945年12月であると考えることができるが、沖縄島・周辺諸島ではこの始期を確定するのは難しい。というのは、米軍が愛楽園のある屋我地島に上陸するのは1945年4月21日であり、同月27日には軍医らが愛楽園を視察して、屋我地島において療養所を維持せしめ、「隔離と治療のために沖縄のすべてのらい患者をそこに移送すること」等の5項目の勧告を行っている。同時にこの視察団は「田井等の4人のらい患者」(「4人のうち3人は前入所者であった」)を愛楽園に連行していた。記録に現れる米軍による最初期の収容である。

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 180頁より》

米軍は屋我地島上陸の6日後に「隔離と治療」の方針を早くも打ち出しており、「戦争中四散した患者や新患者を発見次第、愛楽園に送り込んだので、愛楽園はますます、衣食住の問題で混乱し、虚脱状態になり生き地獄の様相を示した」。

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181頁より》

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所  (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍占領下の沖縄では隔離政策が続けられ、特効薬プロミンもやっと1949年に導入される。

米軍政府がハンセン病隔離政策について指令の形式で法令を発布するのは1946年2月8日であり(海軍軍政府指令115号(癩患者の隔離)と同116号(屋我地癩療養所への立入り制限)---1953年11月に民政府指令12号により廃止)、またこの頃から破壊した愛楽園を再建するために建築資材を提供している。「癩病患者であることが判明した者全部を、現在復旧中の屋我地島癩療養所に隔離するよう指示する」、と患者隔離の絶対化を明言した海軍政府指令115号によれば、「軍政府医療施設に収容された癩病患者は、直ちに名護診療所に移し、同診療所を経て屋我地島に輸送」された。また軍政府軍医の監督下の沖縄人医師全員に同指令は伝達されるものとされた。

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181頁》

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Leading the visitors at the Airaku-En Leprosarium, located on Yagachi Island, during open house, (left to right) are: Dr. Rolfe Von Scorebrand (in Sunhelmet); Major General Robert S. Beightler, Commanding General RYCOM, and Mrs. Beightler.
ハンセン氏病療養所愛楽園の訪問日に訪問者を案内する(写真左から)スコアブランド医師(日除けヘルメット着用)、琉球軍司令官ビートラー少将、ビートラー夫人
(1951年11月18日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

もし沖縄でなければ、おそらく私の病気はもっと早くに発見されていただろうと思います。戦争の影響で、沖縄の医療環境は壊滅していました。衛生状態も悪く、いろんな病気が蔓延していたけれども、医者の数がぜんぜん足りない。年に何十人という単位で本土から医者が招聘されてやってくるという状態でした。

伊波 敏男(作家) vol.1 | ピープル | ハンセン病制圧活動サイト Leprosy.jp

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名護 沖縄愛楽園 園内施設 1959年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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名護 沖縄愛楽園 園内施設 1959年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

学校で学びたい - 愛生園からの脱出、長島愛生園へ

いよいよその夜、父の指示通りに海岸に行き、暗い海を見まわしていたら、点灯する光が見えて、サバニというカヌーみたいな小さな舟で父が迎えにきました。そのまま愛楽園から逃走しました。対岸に着き、そこから30分ほど山道を行くと、ヘッドライトを消したタクシーが待っていた。沖縄に二十数台しかタクシーがない時代です。その1台を父が手配してくれたんですね。しばらく山道を走りましたが、私は後部座席に隠れるように乗っていました。

いまの嘉手納基地の近くまで走り、Uターンして、そこから宜野座の村はずれまで来たところでタクシーが止まりました。父が「敏男、おふくろがつくってくれたから食べろ」と言って、握り飯を出してくれました。ほうばっていると、それまで無言だった運転手がハンドルに伏して忍び泣きをしながら、「この子がかわいそうだよ。せめて家族に会わせてやってくれよ」と言うんです。父は、私が逃走したことが明るみになるまえに、そのまま早朝に那覇港から出る船に乗せるつもりでいたんですね。でも運転手が泣きながらそんなことを言うので、父も折れて、予定を変更して家に戻ることになった。愛楽園に連れて行かれてから3年ぶりでした。

伊波 敏男(作家) vol.1 | ピープル | ハンセン病制圧活動サイト Leprosy.jp

1971年沖縄県名護市済井出のハンセン病療養所施設・沖縄愛楽園。職員と入所者の居住地を隔てる門の前で、当時35歳だった入所者の H.S. さん(82)は、職員を呼び出す拍子木を割れんばかりに打ち鳴らした。「婦長を呼べ、妻を帰せ」。妻は強制堕胎のために婦長に連れて行かれた。これまで2度妊娠したが、いずれも堕胎させられた。拍子木の音は、国に奪われた人生と新たな命を取り戻す始まりを告げていた。その後生まれた子は現在、47歳となる。「子どもは希望、生きる糧だよ」。15歳で強制隔離されて67年。報道の取材に初めて実名を明かした。

… 「絶対に堕胎させない。これ以上、奪われてなるものか」園内で出産しないことを条件に妻は解放された。その後、石垣で長女を出産した。76年には長男も県外で出産。2人の子は親類の下で育てた。
… ハンセン病への差別、偏見はいまだ残る。「よく分からない、知らないから差別する。私たち元患者は恥じることは何もない。堂々と外に出て、会話を重ねれば、お互い理解し合えるよ」

2度の強制堕胎、3度目に「もう奪わせぬ」 辛い過去を回顧「子が生きる糧に」 実名明かし証言 - 琉球新報 archive

 

 

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ハンセン病を正しく理解しましょう|公益財団法人 沖縄県ゆうな協会

*1:カナダの先住民寄宿学校跡で215人の遺体発見 支援団体は「全国的な捜索」要求 - BBCニュース

海沿いの小部屋は先住民の子の「監獄」だった…生存者が語る米寄宿学校での人種差別とは:東京新聞 TOKYO Web

*2:当時の医療レイシズムの一例として、タスキーギ梅毒実験 (例えばアフリカ系アメリカ人の多い南部で、財政支援と引き換えに地元の黒人大学に協力させ、既に存在する梅毒の治療法 (ペニシリン) を適用せず秘密裡に長期的に医療データをとり続ける無治療実験が1972年まで行われていた) などがある。