〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月17日 『ぬちぬぐすーじさびら』

進駐の準備 / 沖縄の捕虜収容所 / 悲しみのあとは歌 ~ カンカラ三線と「屋嘉節」 / 小那覇舞天

 

米軍の動向

「東京占領」の準備

沖縄から東京へ: 8月15日の敗戦宣言を受け、8月28日から進駐軍が随時、沖縄から東京へと移動する。そのための準備が着々と進められている。

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Temporary quarters of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron set up on the south side of Kadena Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto. The Air Transport Command handled the difficult job of passengers and cargo to go by air for the Tokyo occupation. More than a hundred Douglas C-54s checked through here prior to 17 August 1945.

嘉手納飛行場南に設けられた第13空輸補給中隊仮司令部。空輸司令部は東京占領のための人員や物資を運ぶ重要な業務を負う。1945年8月17日以前に100機以上のダグラスC-54が点検された。1945年8月17日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Looking east from the south operations tower along a strip at Kadena Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto, Air Transport Command Douglas C-54s of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron, stretch out into the distance.

嘉手納飛行場の南管制塔から東を望む。第13空輸貨物補給中隊所属、空輸部隊ダグラスC-54輸送機が遠くまで何機も広がる。(1945年8月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国空軍: Men of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron of the 7th Air Force, repack parachutes at the edge of Kadena Air Field on Okinawa, Ryukyu Retto. This squadron was to pack the parachutes and containers necessary to supply the 11th Airborne Division before the trip to Tokyo.

嘉手納飛行場の端でパラシュートを束ね直す第7空軍第13空輸補給中隊隊員。この中隊は第11空挺師団が東京へ出発する前にパラシュートとコンテナを積み込む。1945年 8月17日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

沖縄の捕虜収容所

米軍はまず兵士と民間人を分け、前者は捕虜収容所に、後者は民間人収容所に収容した。米軍はさらに捕虜を日本人、朝鮮人、沖縄人、と分け、さらに将校と一般兵をそれぞれに分けて収容した。捕虜収容所は下記 (赤丸) のように屋嘉捕虜収容所を本部として計7カ所に設置された。

  • 本部 屋嘉捕虜収容所
  • 第一 牧港捕虜収容所 - 10月頃設置
  • 第二 楚辺捕虜収容所※ - 9月頃設置
  • 第四 奥武山収容所
  • 第五 小禄捕虜収容所
  • 第六 普天間捕虜収容所
  • 第七 嘉手納捕虜収容所

※実際には楚辺収容所は楚辺ではなく高志保にあった。

上のおおよその位置からわかるように、米軍は基地建設のため、民間人を土地から引き剥がし多く北部の収容所に排除する一方で、捕虜収容所は飛行場など巨大な米軍基地が集中する地域に設置している。捕虜は米軍施設の運営や維持に欠かせない労働力であった。食事は米軍の戦闘糧食レーションが支給された。

レーションにはKとCがあって殆どがKレーションで、たまにCレーションが配られた。Cのことを将校用とか海軍用とかいっていて上質の方だった。朝、昼、晩、内容は異っていて栄養面のバランスも考慮されているのには、つくづく持てる国の様を見せつけられるようだった。… 収容所内における米兵の我々捕虜に対する処遇態度は、朝鮮人に対しては何となく特別扱いの感がするほど親切で、次は我々沖縄人に対しても親切で、何かと我々の要求も受け入れてくれた。例えば米飯が欲しいといったら米を配給してくれたし、炊事道具と炊事場の設備までしてくれた。米兵から人気のなかったのは日本兵で、敵国意識が強く何かとその態度が現われていた。

山田有昻「屋嘉収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) - Battle of Okinawa

奥武山捕虜収容所

収容所/米兵と捕虜 : 那覇市歴史博物館

奥部山捕虜収容所は、那覇軍港と那覇にひろがる補給施設での港湾作業にかかわったと考えられる。1946年10月から徐々に始まる捕虜の復員とすり替えるようにして、1947年、民間人の港湾作業員キャンプ村みなと村」が設置される。土地と経済インフラを奪われ、捕虜の代わりとなって、沖縄人が低賃金で軍作業にかかわらざるをえない状況が作られた。

 

悲しみのあとは歌 - カンカラ三線と「屋嘉節」の誕生

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第二次世界対戦後の1945年、焼け野原となった金武村屋嘉集落の跡に、米軍は投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉収容所」を設けました。米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦としたカンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。収容所は1946年2月に閉鎖となり、その後米軍保養所となりましたが、1979年8月31日に全面返還されました。

屋嘉捕虜収容所の碑 | 金武町観光ポータルサイト - ビジット金武タウン

※ 屋嘉捕虜収容所には米軍基地「屋嘉レストセンター」を作るが1979年に返還された。

すべてをうしなった人びとは、最初有鉄線で囲っただけの収容所で砂の上に寝た。昼は米軍の命令で遺体や食糧あつめ、洗濯、軍作業などにかりだされた。が、夜はまったくすることがない。8月なかば、夜空に米軍のありとあらゆる火砲が撃ちあがり、歓喜する兵隊たちの声で日本の降伏が伝わった。そんななか、人びとはまずなによりも歌をうたいはじめた。

《「沖縄戦後民衆史 ガマから辺野古まで」 (森 宣雄/岩波現代全書) 26、28頁より抜粋》

面白いことに、捕虜の中には、大工さん出身とか、技工の達者な人もいて、三線の製作がはじまった。窮すれば通ず、というか、無より有を生ずで、空き缶を胴にして、落下傘の紐を弦に、そして折りたたみ式ベッドの木をサオにして細工を試みたのができあがっていた。

《山田有昂『私の戦記伊江島の戦闘一屋嘉捕虜収容所』(若夏社、1977)132~133頁 》

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《AIによるカラー処理》軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。

Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A cargo parachute of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron is laid out before it is rolled up for packing by men of the 7th Air Force at the edge of Kadena Air Field on Okinawa, Ryukyu Retto.

嘉手納飛行場の端で第13空輸補給中隊の貨物用パラシュートをたたむ第7空軍の隊員。1945年8月17日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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夜になると、どこからともなく三線の音が響いてきた。「あの頃はテレビやラジオの音がいっさいないでしょう。10時になったら電気も完全に消えるんです。その静寂の中で、三線が鳴る。もちろん歌も。あれだけの人が集められたら、なかには三線や民謡の先生もいたわけです。空き缶と落下傘の紐でつくった三線ですから、音はよくないけどね。それでも子ども心に、あぁ、すばらしい音楽だなぁと思って聞いていました」
澤岻さんによれば、沖縄の歌は声が美しいからいいというものではないらしい。聞いている人の心を自然に揺さぶる、「歌情(うたなさけ)」が重要だとされる。収容所で聞いた音楽にはそれがあった。

8月15日の終戦のことは覚えていないと言った。沖縄の人たちが「あぁ、戦争は終わったんだ」との実感を得たのは、9月に沖縄戦降伏文書が調印されてからだった。
そしてそのままアメリカ世(ゆー)が27年間続いていく。

戦争と移民とバスタオル - 沖縄・収容所を生き延びた86歳 | ウェブマガジン「あき地」

「PW無情」(屋嘉節)
一、うらみしゃや沖縄 戦場(いくさば)にさらち
世間うまん人(ちゅ)の 袖よぬらち 浮世無情 (うちゆむぞう) なむん

二、涙ので登る 恩納山 (おんなさん) 奥に
うまん人共に 戦しのじ 浮世無情なむん

山田有昻「屋嘉収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) - Battle of Okinawa

屋嘉節にはさまざまなヴァリエーションがあるが、涙をのんで恩納岳に、という点から沖縄の防衛隊員が多く投入され、前線に取り残された特設第1連隊などの悲惨な原体験が基層にあると思われる。捕虜収容所ではやがて軍作業の合間に様々なスポーツや文芸クラブが行われるようになる。とくに演劇は大人気たった。

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更生日用品。屋嘉収容所にて演劇活動をしていた元日本兵が使用していたリュックサック。米軍の野戦用テントの布と軍靴の紐を使って作られている。

うるま市立石川歴史民俗資料館 | うるま市立資料館 | うるま市役所

沖縄人捕虜収容所のチーム

バレーボールの沖縄対日本の試合は、常に沖縄の勝ちであった。わがチームには、学生時代から明治神宮の大会に出場した体験者の城間辰蔵氏らがいたから、MPチームでも歯が立たなかった。… 三味線が出来てから演芸の気運も盛り上がり、日本側と競演することになった。舞台も作り、衣装から小道具までちゃんと作り上げてあった。

衣装は落下傘の白布地やガーゼを染め上げて見事な出来ばえだった。何でも京都西陣の染もの屋がいて、染料に赤はマーキュロー、黄はアテブリン、その他草木から作ったもので染めたと聞いた。縫い上げも立派なものだった。私も「かじゃで風」を踊り、例の「PW無情」「屋嘉の数え歌」も発表されたと記憶する。演芸会は大盛会で将校も下士官も兵も全員が一つに溶け合って、素晴らしい雰囲気をかもし、生きた喜びを味わっているように感じられた。

山田有昻「屋嘉収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

石川収容所 - 小那覇舞天「ぬちぬぐすーじさびら」

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域

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日本中、誰もがどん底だった。飢えていた。家族をなくし、泣いていた。とりわけ激しい地上戦が行われた沖縄は悲惨を極めた。愛する人を亡くし、家を焼かれ、立ち上がれないほどの絶望感・・・。だが、その焦土沖縄に、突如、一人の「おかしな男」があらわれた。避難民が集められた家々や収容所を訪ね歩き、「ヌチヌグスージサビラ命のお祝いをしましょう!)」と言葉をかけ、キテレツな歌を唄い、珍妙な踊りを舞い、“笑い”で人々に生きる希望を与えた、というのだ。お金は取らない。ただ笑わせるだけ。いまも沖縄のお年寄りの多くが、「救われた」と語る謎の芸人。

「戦争の傷は、笑って直せ。踊って直せ。サンシン鳴らして、さあ、さぁ、さぁ。」そう誘いかける男は、「舞天(ブ―テン)」と名乗る「笑いの天才」だった。なんと昼間は、真面目な歯科医師。そして夜は、ネズミ小僧のように笑いを振り撒いては消えていく、まるで義賊のような幻の漫談家だったのだ。

キタコマ沖縄映画祭2019 「戦争を笑え」 | M.A.P.after5

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沖縄戦で家族や友人の命を失い、打ちひしがれた人々の心を慰めようと、石川収容所に笑いで“ともし火を”ともす人物がこの頃現れました。

那覇全人さん「(父は)天性のユーモリストじゃなかったかなと思いますね。人を楽しませる。自分も楽しんで人も楽しませる(人でしたね)」世界的な喜劇役者、チャップリンにも例えらる小那覇舞天こと、小那覇全考さん。息子の小那覇全人さんが、父の舞天さんについて語ってもらいました。

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。その3日後には石川収容所が設置されたと言います。収容所には、家族や親戚を失い、悲嘆にくれる人々も多くいる中、そこに現れたのが、小那覇舞天でした。「命のお祝いをしよう!」そう言いながら、カンカラサンシンを手に弟子の照屋林助とともに現れ、歌いだす二人に、収容所の人々は怒りを込めて言葉を返します。

那覇全人さん「はじめは怒られたらしいね “こんなに人が沢山死んだのに何がスージか” と言って、すると親父は“死んだ人は沢山いるんだけど、あんた方は生き残ったんだから、死んだ人の分までね、楽しくこれから幸せに暮らそうでないか”そういうことを言ってたよと(照屋)林助さんさから聞いた」

生き残った者には、亡くなった人の分も人生を楽しむ責任がある沖縄諮詢会では、芸術課長に就任。笑いで沖縄の復興に活力を与えました。小那覇全人さん「今はもう(父は)天国に行ってしまっているけど、林助さんと一緒にまた天国で“命のスージさびら”って言って何かやってるんじゃないかと思う」

65年前のきょうは1945年11月17日(土) – QAB NEWS Headline

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米海軍: Natives in internment camp in village of Sobe after the invasion of Okinawa.
捕虜収容所の住民。沖縄侵攻後、楚辺の村にて。 1945年4月 4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

【補足】初期にこうして楚辺収容所に臨時収容された読谷の人々は、その後収容所を転々と移動させられ長いあいだ帰村を禁じられた。餓死とマラリアの蔓延で多くの命が奪われ、もっていた数少ない着物までも食べ物と交換しなければならないような辛い収容所生活を送った。

 沖縄戦当時、舞天さんは嘉手納の消防団長として住民を山に避難させていたという。戦後、家族や周囲には沖縄戦について語らなかったため、戦場でどんな体験をしたのかは分かっていない。数多くある漫談や歌にも、沖縄戦について表現したものはほとんどない。

 しかし、63年の手帳には「思出すさ昔 戦世の哀れ またとねんぐとぅ御願さびら」(思い出す戦場の哀れ。またと戦がないよう願いたいものだ)などと、戦争に対する舞天さんの心情がうかがえる琉歌が2編つづられている。

 戦前に小那覇一家が暮らした嘉手納の隣、北谷一帯には田芋畑が広がっていた。舞天さんは、そこで採れる田芋が大好物だった。しかし戦後、畑は米軍に接収され、基地と化した。

 メモ帳(年不詳)には「北谷田芋ぬ味ぬ忘らりみ たといアメリカの御代(みよ)になてん」(北谷の田芋の味は忘れられない。たとえアメリカ世になったとしても)と、奪われた土地への強い思いが感じられる琉歌が記されている。67年の「教公二法阻止闘争」についてのメモもある。

舞天さん平和へ願い ネタ帳・未発表脚本 | 沖縄タイムス

 

お笑い米軍基地と小那覇ブーテン

 

 

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  1. 『笑う沖縄 「唄の島」の恩人 小那覇舞天伝」(2006年)
  2. 癒しと喜びの器―工芸品と楽器の2つの顔をもつ三線|学芸員コラム|博物館|沖縄県立博物館・美術館

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