〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月17日 『ぬちぬぐすーじさびら』

米軍の動向

「東京占領」の準備

沖縄から東京へ

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Looking east from the south operations tower along a strip at Kadena Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto, Air Transport Command Douglas C-54s of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron, stretch out into the distance.

嘉手納飛行場の南管制塔から東を望む。第13空輸貨物補給中隊所属、空輸部隊ダグラスC-54輸送機が遠くまで何機も広がる。(1945年8月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Temporary quarters of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron set up on the south side of Kadena Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto. The Air Transport Command handled the difficult job of passengers and cargo to go by air for the Tokyo occupation. More than a hundred Douglas C-54s checked through here prior to 17 August 1945.

嘉手納飛行場南に設けられた第13空輸補給中隊仮司令部。空輸司令部は東京占領のための人員や物資を運ぶ重要な業務を負う。1945年8月17日以前に100機以上のダグラスC-54が点検された。(1945年8月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Men of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron of the 7th Air Force, repack parachutes at the edge of Kadena Air Field on Okinawa, Ryukyu Retto. This squadron was to pack the parachutes and containers necessary to supply the 11th Airborne Division before the trip to Tokyo.
嘉手納飛行場の端でパラシュートを束ね直す第7空軍第13空輸補給中隊隊員。この中隊は第11空挺師団が東京へ出発する前にパラシュートとコンテナを積み込む。撮影日: 1945年 8月17日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

渡嘉敷島阿嘉島への投降交渉

米軍は慶良間諸島の島々に潜伏する日本兵に投降するよう呼びかけていたが、なかなか成果をあげることができないでいた。渡嘉敷島の赤松隊は判明しているだけで20人あまりの住民や朝鮮人軍夫を虐殺しており、終戦後の、8月16日にも投稿勧告文を届けた住民「投降勧告者」4人のうち2人を殺害している。

赤松嘉次隊長の手記

16日払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。… 戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こせという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使4名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争終結、連合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。

ついで18日、私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。

《 赤松嘉次「《私記》私は自決を命令していない」雑誌「潮」1971年11月号

8月17日

天皇陛下の降伏命令がない限り、降伏するわけにはいかない。2人は別の島で同じことを述べ、降伏を拒否した。陸軍サービス・コマンドのG2将校らは困惑した。どうしたものか。そのとき、1人の日本兵捕虜が提案した。

「野田と赤松の2人は天皇陛下の命令がなければ、と言っていますが、上官の命令は聞かねばならないはずです。牛島司令官は自決なされましたし、現在捕虜になっている日本軍最高指揮官からの命令ということではどうでしょうか」

「それは名案だ。今朝投降した塚本大佐にやってもらおう。彼も今まで洞窟に潜んでいたので気持ちは通じるはずだ。」とG2将校の1人が言った。

塚本保次大佐は沖縄戦終了後2ヵ月近くも摩文仁の北の洞窟陣地に潜んでいたが、先に捕虜になった部下の説得に従って、138人の日本兵と共に投降したばかりだった。特別尋問センターの塚本大佐は「私が第32軍の司令官となるのはおこがましいが、友軍を救うためならどんなことでもしよう」と言った。大佐はペンを執って手紙を書いた。

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 27-28頁より》

 

悲しみのあとは歌 - カンカラ三線と「屋嘉節」の誕生

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第二次世界対戦後の1945年、焼け野原となった金武村屋嘉集落の跡に、米軍は投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉収容所」を設けました。米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦としたカンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。収容所は1946年2月に閉鎖となり、その後米軍保養所となりましたが、1979年8月31日に全面返還されました。

屋嘉捕虜収容所の碑の裏には屋嘉節の歌詞が刻まれています。
「なつかしや 沖縄 戦場になやい 世間 お万人と涙なかち」
懐かしい沖縄が戦場になってしまい世間の幾多の人が涙を流しているだろうか。

屋嘉捕虜収容所の碑 | 金武町観光ポータルサイト - ビジット金武タウン

折りたたみベッドの木は三線のサオに。

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《AIによるカラー処理》軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。

Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

パラシュートの絹の帆布は服に、頑丈な糸は三線に。

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嘉手納飛行場の端で第13空輸補給中隊の貨物用パラシュートをたたむ第7空軍の隊員。(1945年8月17日撮影)

A cargo parachute of the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron is laid out before it is rolled up for packing by men of the 7th Air Force at the edge of Kadena Air Field on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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着の身着のまま、すべてを失って収容された者どうし、なんとか協力して日々をしのぐしかなかった。「北谷(ちゃたん)や嘉手納あたりから来た人もいるし、読谷の人もいるし、それから島尻(沖縄本島の南西部)の方もいて、同じ県民でもことばが通じないんです。屋嘉と石川なんて、わずかしか離れてないけど方言がちがいます」というエピソードが興味深かった。ちがう出身地の人と話す際には共通語を使っていたらしい。
 夜になると、どこからともなく三線の音が響いてきた。「あの頃はテレビやラジオの音がいっさいないでしょう。10時になったら電気も完全に消えるんです。その静寂の中で、三線が鳴る。もちろん歌も。あれだけの人が集められたら、なかには三線や民謡の先生もいたわけです。空き缶と落下傘の紐でつくった三線ですから、音はよくないけどね。それでも子ども心に、あぁ、すばらしい音楽だなぁと思って聞いていました」
 澤岻さんによれば、沖縄の歌は声が美しいからいいというものではないらしい。聞いている人の心を自然に揺さぶる、「歌情(うたなさけ)」が重要だとされる。収容所で聞いた音楽にはそれがあった。

8月15日の終戦のことは覚えていないと言った。沖縄の人たちが「あぁ、戦争は終わったんだ」との実感を得たのは、9月に沖縄戦降伏文書が調印されてからだった。
そしてそのままアメリカ世(ゆー)が27年間続いていく。

戦争と移民とバスタオル - 沖縄・収容所を生き延びた86歳 | ウェブマガジン「あき地」

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更生日用品。屋嘉収容所にて演劇活動をしていた元日本兵が使用していたリュックサック。米軍の野戦用テントの布と軍靴の紐を使って作られている。

うるま市立石川歴史民俗資料館 | うるま市立資料館 | うるま市役所

捕虜収容所ではやがて軍作業の合間に様々なスポーツや文芸クラブが行われるようになる。とくに演劇は大人気たった。

すべてをうしなった人びとは、最初有鉄線で囲っただけの収容所で砂の上に寝た。昼は米軍の命令で遺体や食糧あつめ、洗濯、軍作業などにかりだされた。が、夜はまったくすることがない。8月なかば、夜空に米軍のありとあらゆる火砲が撃ちあがり、歓喜する兵隊たちの声で日本の降伏が伝わった。そんななか、人びとはまずなによりも歌をうたいはじめた。

米軍配給食糧の空き缶にパラシュートの布を張り針金やパラシュートのヒモで絃をつけたカンカラ三線である。

おのおのテントから出てきて暗闇のなか車座になり、こんな歌に聞き入った。なちかしや沖縄 戦さ場になやい 世間御万人(うまんちゅ)ぬ袖ゆ濡らち

(悲しい沖縄 戦場になって 世のみなさまのそでを涙でぬらし)「屋嘉節」の一番である。つづきの歌詞を現代日本語にするとこんなふうだ。

---涙をのんで恩納岳に登り、みなさまとともに戦争をしのいできた。いまではあわれ闇夜に鳴く屋嘉村のカラス。親をなくしたわが身を哭(な)かずにいられようか。いとしい貴女は石川の民間収容所で茅葺き長屋住まい。ぼくは屋嘉の収容所で砂を枕にくらす。こころを励ますのは米軍配給物資の四本入り煙草。さびしさは月に流していこう---』(26頁)

『戦争に翻弄され数えきれないものをうしなった人びとは、戦争の終結とともに国家からも解放され、残されたいのちに国家の歴史を突き放して見る感覚ーー民衆史の視点を刻んだ。そしてこれらの島うたを歌いつぐなかで権力の変遷を生きぬく精神を、子や孫にうけわたしていった。』(28頁)

《「沖縄戦後民衆史 ガマから辺野古まで」 (森 宣雄/岩波現代全書) 26、28頁より抜粋》

敗戦で社会目標を失うと、秩序も乱れてくるのは当然だ。心が傷つき虚脱状態に陥ることはとにかくヤケのヤンパチで、人はいつ集団心理で何をしでかすか分からない。収容所はたえずその危機をはらんでいた。そこで、皆に相談したら、真っ先に返ってきたのは三線をつくろう、ということであった。......面白いことに、捕虜の中には、大工さん出身とか、技工の達者な人もいて、三線の製作がはじまった。窮すれば通ず、というか、無より有を生ずで、空き缶を胴にして、落下傘の紐を弦に、そして折りたたみ式ベッドの木をサオにして細工を試みたのができあがっていた。

《山田有昂『私の戦記伊江島の戦闘一屋嘉捕虜収容所』(若夏社、1977)132~133頁 》

 

 

そのとき、住民は・・・

石川収容所 - 小那覇舞天「ぬちぬぐすーじさびら」

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域

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日本中、誰もがどん底だった。飢えていた。家族をなくし、泣いていた。とりわけ激しい地上戦が行われた沖縄は悲惨を極めた。愛する人を亡くし、家を焼かれ、立ち上がれないほどの絶望感・・・。だが、その焦土沖縄に、突如、一人の「おかしな男」があらわれた。避難民が集められた家々や収容所を訪ね歩き、「ヌチヌグスージサビラ命のお祝いをしましょう!)」と言葉をかけ、キテレツな歌を唄い、珍妙な踊りを舞い、“笑い”で人々に生きる希望を与えた、というのだ。お金は取らない。ただ笑わせるだけ。いまも沖縄のお年寄りの多くが、「救われた」と語る謎の芸人。

「戦争の傷は、笑って直せ。踊って直せ。サンシン鳴らして、さあ、さぁ、さぁ。」そう誘いかける男は、「舞天(ブ―テン)」と名乗る「笑いの天才」だった。なんと昼間は、真面目な歯科医師。そして夜は、ネズミ小僧のように笑いを振り撒いては消えていく、まるで義賊のような幻の漫談家だったのだ。

キタコマ沖縄映画祭2019 「戦争を笑え」 | M.A.P.after5

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沖縄戦で家族や友人の命を失い、打ちひしがれた人々の心を慰めようと、石川収容所に笑いで“ともし火を”ともす人物がこの頃現れました。

那覇全人さん「(父は)天性のユーモリストじゃなかったかなと思いますね。人を楽しませる。自分も楽しんで人も楽しませる(人でしたね)」世界的な喜劇役者、チャップリンにも例えらる小那覇舞天こと、小那覇全考さん。息子の小那覇全人さんが、父の舞天さんについて語ってもらいました。

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。その3日後には石川収容所が設置されたと言います。収容所には、家族や親戚を失い、悲嘆にくれる人々も多くいる中、そこに現れたのが、小那覇舞天でした。「命のお祝いをしよう!」そう言いながら、カンカラサンシンを手に弟子の照屋林助とともに現れ、歌いだす二人に、収容所の人々は怒りを込めて言葉を返します。

那覇全人さん「はじめは怒られたらしいね “こんなに人が沢山死んだのに何がスージか” と言って、すると親父は“死んだ人は沢山いるんだけど、あんた方は生き残ったんだから、死んだ人の分までね、楽しくこれから幸せに暮らそうでないか”そういうことを言ってたよと(照屋)林助さんさから聞いた」

生き残った者には、亡くなった人の分も人生を楽しむ責任がある沖縄諮詢会では、芸術課長に就任。笑いで沖縄の復興に活力を与えました。小那覇全人さん「今はもう(父は)天国に行ってしまっているけど、林助さんと一緒にまた天国で“命のスージさびら”って言って何かやってるんじゃないかと思う」

65年前のきょうは1945年11月17日(土) – QAB NEWS Headline

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米海軍: Natives in internment camp in village of Sobe after the invasion of Okinawa.
捕虜収容所の住民。沖縄侵攻後、楚辺の村にて。 1945年4月 4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 沖縄戦当時、舞天さんは嘉手納の消防団長として住民を山に避難させていたという。戦後、家族や周囲には沖縄戦について語らなかったため、戦場でどんな体験をしたのかは分かっていない。数多くある漫談や歌にも、沖縄戦について表現したものはほとんどない。

 しかし、63年の手帳には「思出すさ昔 戦世の哀れ またとねんぐとぅ御願さびら」(思い出す戦場の哀れ。またと戦がないよう願いたいものだ)などと、戦争に対する舞天さんの心情がうかがえる琉歌が2編つづられている。

 戦前に小那覇一家が暮らした嘉手納の隣、北谷一帯には田芋畑が広がっていた。舞天さんは、そこで採れる田芋が大好物だった。しかし戦後、畑は米軍に接収され、基地と化した。

 メモ帳(年不詳)には「北谷田芋ぬ味ぬ忘らりみ たといアメリカの御代(みよ)になてん」(北谷の田芋の味は忘れられない。たとえアメリカ世になったとしても)と、奪われた土地への強い思いが感じられる琉歌が記されている。67年の「教公二法阻止闘争」についてのメモもある。

舞天さん平和へ願い ネタ帳・未発表脚本 | 沖縄タイムス

 

お笑い米軍基地と小那覇ブーテン

 

 

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  1. 『笑う沖縄 「唄の島」の恩人 小那覇舞天伝」(2006年)
  2. 癒しと喜びの器―工芸品と楽器の2つの顔をもつ三線|学芸員コラム|博物館|沖縄県立博物館・美術館

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