〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月30日 『日本全土がアメリカ世 (ゆ) 』

米軍の動向 - 降伏文書調印式までの動き

厚木に降り立つマッカーサー

8月29日、読谷飛行場に降り立ったマッカーサーは、厚木基地へと向かう

1945年8月30日連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。昭和天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から15日後のことだった。

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マッカーサーが厚木に降り立った日から71年。その登場シーンは日本人に鮮烈な印象を与えた(画像)

マッカーサーと幕僚たちは8月29日にマニラからバターン号(C54輸送機)で沖縄の読谷飛行場に着き、翌30日、…厚木飛行場に向かって飛び発った。

この日は朝から快晴で、空は澄みきっていた。午後2時5分、2分間隔で着陸していた輸送機群に続いて、バターン号が舞い降りてきた。タラップが降ろされ、コーンパイプをくわえたマッカーサーが、一歩一歩踏みしめるかのように降りてきた。その姿は、役者が大見得を切るふるまいにも似て、自信に満ちたものだった。

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 58-59頁より》

… この時から、連合国軍最高司令官マッカーサー天皇の上に立ち、日本の占領統治を開始した。

《「アジア・太平洋戦争史  同時代人はどう見ていたか」(山中恒/岩波書店) 618頁より》

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ATSUGI AIR BASE

30日に飛来したのはC54約150機、進駐兵力1200名であった。輸送機は3分ごとに規則正しく着陸したという。単純に考えて1時間に20機、全機が到着するのに7時間半から8時間近くかかる。途中マッカーサーの着陸で中断するから、9時間以上かかったことになる。1日中基地は爆音に襲われていた。

将兵とともに、「ニューヨーク・タイムズ」、INS、UPAPなどの記者・写真班・放送員たち80人のほか、イギリス、オーストラリア、支那(当時)、フィリピンの記者・写真班22人、合計120人の報道関係者も沖縄から到着した。

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 219頁より》

日本に第一歩を印したマッカーサー一行は、日本側が用意したオンボロ自動車に乗った1200名の第8軍兵士を従えて、厚木から横浜に向かった。マッカーサー用には年代物のリンカーン・コンチネンタルが用意されていた。

ご一行は横浜までの24キロをのろのろと進んだ。沿道には武装した日本兵が、背中を向けて警備に当たっていた。故障車なども出たため、目的地のホテル・ニューグランドまでは2時間近くもかかった

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 60頁より》

 

捕虜の救出 - 沖縄経由で本国に帰国の米人捕虜

8月18日、捕虜を帰還させるためおよそ200機が嘉手納基地に集結していた。

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This American prisoner of war was released from Kobi prison camp and had to hitch hike 450 miles to Atsugi Airstrip to get the Douglas C-54 ”Skymaster” back to Kadena Strip. Despite the loss of his leg while working in a Jap shipyard, this prisoner's health was noted to be better than the health of the seven POW's who came back with him. Kadena Strip, Okinawa, Ryukyu Retto.

この米人捕虜は神戸の収容所から解放され、そこから450マイル離れた厚木飛行場までヒッチハイクで行き嘉手納飛行場へ飛ぶダグラスC-54スカイマスターに乗ってきた。日本軍造船所で作業中に片足を失いはしたが、一緒に来た他の7人の捕虜よりも彼の健康状態は良かった。(1945年8月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本の敗戦と同時に、アメリカ軍は連合軍捕虜にただちに救援の手を差し伸べ、日本政府に対して、各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と標記することを命じた上で、空母艦載機やB29による救援物資のパラシュート投下作戦を行った。そして、捕虜の集結拠点を指定し、1945年9月1日の降伏文書調印後、ただちに係官を派遣して捕虜を受領した。彼らは鉄道等を利用して、長崎、静岡県新居、横浜、宮城県塩竃、北海道千歳などに集合し、同年9月中には、ほとんどの捕虜が沖縄・マニラ経由で本国へ帰還した。

一方、占領軍は1945年末から戦犯容疑者の逮捕に乗り出し、それとともに横浜でのBC級戦犯裁判の審理が開始された。(ブログ註・石垣島事件参照)

POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 日本国内の捕虜収容所

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Shown here are two evacuated POW's who had spent three years in the Jap prison camp at Kobi, about 450 miles from Atsugi Airstrip, where Douglas C-54 ”Skymasters” from the ATC brought them to be evacuated to the States. These men were suffering from severe malnutrition, but were able to smile at the thought of going home to stay. Okinawa, Ryukyu Retto.

厚木基地から450マイル離れた神戸の収容所で3年間過ごし沖縄に護送された二人の捕虜。米国に移送される彼らは空輸部隊ダグラスC-54輸送機でここに連れてこられた。二人はひどい栄養失調だったが故郷へ帰ることを考えて微笑むこともできた。沖縄。(1945年8月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

敗残兵へ投降の呼びかけ

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Corporal Earl F. Roth, 19, whose mother, Mrs. Elsie P. Roth, lives at 111 W. 13th St., Wilmington, Del., posts Jap language leaflet in wooded mountains of northern Okinawa where scattered Jap units are still in hiding. Leaflets tell of war's end and give direction for surrender. (See Negative Jacket)

散り散りになった日本軍の部隊がまだ隠れている木が生い茂った北部の山中に、日本語のビラを貼るロス伍長(デラウェア州出身)。ビラは戦争が終わったことを知らせ、投降の方法を指示している。(1945年8月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

屋嘉捕虜収容所の英会話教室

収容テントは将校、下士官、兵、沖縄兵、朝鮮人兵、と分けられていた。軍作業の他に、所内ではスポーツや文化教室、演芸会や新聞発行など様々な活動が行われるようになる。

阿嘉島海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

私のいたテントに変わった男がいた。体駆は大きく年齢は30を越えているだろうと思われたが、鼻の下から顎にかけて長いひげを蓄え、周囲の者とはほとんど口もきかないで、日中も坐ったきり黙然としていた。

それが、ある時、私と渡辺の傍にきて低い声で話しかけた。

「俺は、ある事情でこの兵隊のテントにいるが、本当は曹長なのだ、俺達は軍隊生活と戦争に自分の運命のすべてをかけたようなものだが、お前達は事情が違う。すべてはこれからだ。何だったらアメリカの将校に頼んで、日本に帰らずにアメリカにでも行くことを考えてみたらどうか」と言った。こんなことは全く考えもしなかったことだったが、哲人めいたその顔や、圧倒するようなもののいい方に、改めてそういうことも・・と考えさせられるものがあった。

しかし、やはり自分の父母に生きていることを知らせ、そして一度は顔をみせて・・と思った。

だが、いわれるまでもなく、これから内地に帰れば、自分の生涯の方向そのための方法を考えねばならぬわれわれとしては、何もしないでただ日を送ることよりは、この間にも何かをやろうかと2人で話合った結果、まず英会話を勉強しようということで、キャンプの本部に行った。

そこでの説明は、収容所内では初級と上級の2つが行われていて、どちらも夜に希望者に実施しているとのことだったので、まず初級から出かけて行った。この方は砂場にボール紙を敷き、10数人が捕虜のうちの日本人講師を中に単語の発音などを繰返していた。〝これじゃあまったくの初歩でつまらんから上級に行こう〟と、翌日はハイクラスの方に出た。こちらは日系の二世がアメリカの新聞を読んで聞かせていた。少し程度が過ぎるように思った。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 221-223頁》

  

望郷の沖縄 (2)

サイパンから

1939年(昭和14)現在、南洋群島の日本移民は7万7,257人で、うち沖縄県移民は4万5,701人を数え、これは全体の59.2%をしめました。

移民の世紀

日本は第1次世界大戦の1914年サイパン島を含む南洋群島を占領し、その後、国際連盟から委任統治を託された。1921年に国策会社の南洋興発が設立され製糖業などを担うと、沖縄からも移民が急増し1942年までに約5万5千人に達した。だが太平洋戦争中の1944年7月7日サイパンの日本軍は米軍との地上戦で全滅。テニアン、グアムなども奪われ各地に建設された飛行場から日本本土への本格爆撃を許し、敗戦は決定的になった。多くの県出身者も犠牲になり、南洋群島で戦死した一般邦人約15,000人のうち、約13,000人を占めた。

キーワード沖縄戦(5)サイパン陥落 | 沖縄タイムス

南洋興発の製糖工場の裏にススペ収容所が造られ、約2万人が収容された。

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米国沿岸警備隊: Saipan. A Jap child swathed in bandages sits on floor of an American hospital tent at the Saipan internment camp.
包帯を巻いた日本人の子どもが、収容所の米軍病院テントの床に座っている。サイパン島にて。 1944年 7月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

サイパン戦と沖縄戦のもう一つの共通点は、島にいた日本軍が中国から移動した部隊であったことだ。日本軍は民間人にも、決して捕虜になるな、と命じ、米軍への恐怖心を煽り立てていた。それが彼ら自身が中国で行った捕虜・民間人への虐殺、虐待体験から来ていることは、多くの人が指摘している。

バンザイクリフ 1 - 海鳴りの島から

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米国海兵隊: Japanese woman hugs her child to her as she walks along beach to stockade.

子供を抱いてビーチ沿いを収容所に向かって歩く日本人女性。 1944年6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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海兵隊: JAP ORPHAN -- This little lad was rescued by the Marines just as his Jap father was about to throw him over the cliff rather than give up to the Marines. Marines gave the lad water, food and candy but he seems all alone.
日本人孤児――海兵隊に投降するよりはと父親が崖から放り投げようとしたところを海兵隊員によって救われた子供。海兵隊員は彼に水、食料、キャンディーを与えたが、一人ぼっちで寂しそうだった。 1944年7月9日 撮影者:Sgt. R.B. Opper

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

海に飛び込んだのはAの家族だけではなかった。具志川出身のある家族、職場仲間のYたち、知り合いのE家族、I家族も飛び込んだ。具志川出身の男性は、妻と子供を先に飛び込ませ、結局本人は飛び込めずに米兵にひきとめられた。Yの家族は一人の子を亡くした。Eたちは、最後に飛び込み二人の子を亡くした。Iは子供二人を連れて岸壁に行き、まず長女を海に投げた。その女の子は、「お父さん、お父さん」と二回とも泳いで上がって来た。もう一度、長女の足をつかまえ岩に叩き付けてから海に投げた。長女は再び上がって来ることはなかった。今度は長男の足をつかみ、海へ投げようとしたら、米兵がその子をつかまえて助けた。米兵は、死んだようにみえる子供であっても、海水を吐かそうと、足をつかまえて逆さにしたり、人工呼吸をしたりしていた。亡くなった人たちにはお祈りをしていた。A家族は全員無事だった。「一番恐いのは、米軍の捕虜になることであって、飛び込むことは全然恐くなかった」とAは言う。Aの四男は釣りが好きであるが、海で泳ぐことが未だにできない。

収容所での生活

Aとその家族は、昭和十九年 (1944年) 七月九日に捕虜になった。チャランカの(ススペ)住民用の収容所でしばらく生活した。六人家族で、五~六畳ぐらいの家に二年間いた。あおむけに寝る事ができないほど狭かった。沖縄に引き揚げるまで、妻のAは、二重金網の外に出たことがなかった。作業人だけは外に出ることができた。米軍が沖縄を占領した後、ススペ収容所内で、沖縄上陸の様子を映した映画を上映していた。「ここは、都屋の浜だー」と、読谷の人が言っていた。捕虜になって最初のうちは、収容所で亡くなった人たちを穴に埋める作業をやった。また、米軍人の墓場にも連れて行かれ、軍服を着たままの米兵の死体から部隊名や名前が刻まれている認識票を探す作業をさせられた。死体には蛆虫がわいていた。作業をしている場所は、アフヌニア海岸という所で、下の方はすぐ海だった。昼ご飯時に「手を洗わせてくれ」と願い出ても、銃を持った三人の米兵は手を洗うことを絶対に許してくれなかった。仕方がなく、蛆虫のわいた死体を触った手を洗わずに昼食をとった。

沖縄に帰る

サイパンから引揚げる時期が近くなった頃、女性と子どもたちだけ、ススペ湖で水浴びをさせてくれた。また、収容所内で運動会が二回ぐらいあった。昭和22年 (1947)2月28日、アメリカの船に乗せられサイパンを出発し、昭和22年3月5日、沖縄の久場崎に着いた。久場崎で一週間ほど過ごし、戸籍を調べられたりした。その後、インヌミヤードゥイに移り、さらに照屋のテント小屋で二年間過ごし、そして波平に移った。戦後落ち着いてからはほぼ毎年、慰霊祭にサイパンを訪れている。

読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上》

 

 

 

満州開拓団: 満州・シベリアから

沖縄で農業に従事していた兼城さんは妻と子供たちを連れ、満蒙開拓団の一員として三江省(現・黒竜江省)方正県伊漢通に入植。終戦の年の7月の終わりに現地召集(根こそぎ動員)されたのち、1発の弾も撃たないままソ連軍により武装解除、シベリアに抑留される。足掛け4年もの収容所生活のあいだ片時も伊漢通で別れた妻と子供たちを忘れることはなかったが、難民となった妻子の運命はあまりに過酷なものだった。 

帰ったときのことをお聞かせいただけますか?

昭和23(1948)年の12月でした。ナホトカから私を含め30人ぐらいが日本の貨客船に乗せられて下関に着きました。下関から汽車で佐世保に行ったんですが、沖縄は当時、アメリカの統治下にありましたから、すぐには帰れませんでした。船で佐世保を発ったのは翌年5月の終わりになってからです。夕暮れ時だったと思うんですが、ホワイト・ビーチの港に着いたら、電灯がついているもんだから珍しく感じました。戦前に沖縄を出るときは電灯なんてなかったんですよ。それが道にも灯りがついている。沖縄は大都会になっているんだなという感じがしましたね。
船から上がったら米軍のトラックに乗せられて、高原(沖縄市高原)の丘の上のインヌミヤードゥイという小さい部落に行きました。… そこに行くと家内の弟の奥さんがひとりで迎えにきていました。その姿を見て、家内は帰ってきてないんだなと感じました。ところが帰り道に歩きながら聞くと、元気で帰ってるよと言うんです。あぁそうか、ナヘも帰ってきているかと思ったんですけど……子供たちの話はしませんでした。

奥さんのナヘさんが迎えにきていないのがおかしいですね。

そうなんです。家に帰ったら家内がひとりで座っていて、俯いて泣きじゃくっているんですよ。私は当時の苦労や子供たちのことを聞きたかったんですが、家内がいつまでも顔を上げないもんだから、そのとき感じたんです。子供たちは帰ってないんだなと……。

沖縄に帰ってからは、住んでいた土地に戻れたんですか?

そこには戻れないですよ、米軍に接収されているんですから。家がなくなった者のために工作隊という人たちが掘建て小屋をたくさんつくっていて、そのひとつに家内も住んでいました。そこで子供たちの話を聞きました。

戦争がなかったら沖縄で農業をして、裕福な生活はちょっと無理だと思いますが、家族みんなで安心して暮らしていたんじゃないかなと思います。だから私は、戦争だけは絶対させてはいけないということで頑張っているんです。若い人は、戦争に反対する大人になってほしいです。

沖縄は日本に復帰しました。しかし私が思うに、完全復帰になってないですよ。私たちが望んだ復帰というのは、米軍基地がなくて戦争もない、そんな世の中にしようということです。私は、アメリカがいるあいだは、いつか戦争が起こるんじゃないかなと心配しているんです。そのうえ国が辺野古に新基地をつくろうとしているでしょ。新基地がつくられると、そこも戦争の足場になってしまうんですよ。本土防衛のために沖縄が戦場になったんですが、次に戦争が起こったら以前の戦争よりひどいことになるんじゃないかなと思うんです。こりゃ、食いとめるために頑張らないといけないと思うんですね。

OKINAWA 2015 語り継ぐ者 兼城賢清さんの証言(完全版) - VICE

 

 

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