〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月10日 『沖縄愛楽園』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

f:id:neverforget1945:20200708183444p:plain

グァムからの6時間のフライトを終え読谷飛行場へ入ったC-54ダグラス・スカイマスター。海軍空輸隊のこれらの飛行機は優先度の高い人員、医薬品、補給物資などを運ぶ。グァムへ帰るときには傷病者を乗せていった。(1945年7月10日撮影)

A C-54 “Douglas Skymaster“ comes in from Guam on Yontan Airstrip, after a six hour flight. These planes of the NATS (Naval Air Transport Service) carried high priority personnel, medical equipment and supplies. On the return trip to Guam they carried wounded patients. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200708183539p:plain

島司令部第1通信隊の受取場所に水陸両用トラックを降ろすクレーン。(1945年7月10日撮影)

Crane unloading a dukw in the receiving section of depot, ISCOM Signal Depot #1.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200708183628p:plain

普天間B-29専用滑走路の建設を急ぐ。第806工兵航空大隊の2台のスクレーパーが並んで長さ8500フィート(幅200フィート)、厚さ12インチの石灰岩仕上げの土地をならす。(1945年7月10日撮影)

Speed was essential to meet the deadline for this B-29 strip at Futema. Two scrapers of the 806th EAB are shown as they worked side by side doing their share of work on the 8500 foot strip, (200 ft. wide) with a 12 inch coral surface.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

野戦病院

f:id:neverforget1945:20200708183738p:plain

榴散弾で負った傷を手当てして包帯を巻いてもらう地元の女性。治療にあたるのは海軍予備役(衛生兵)のクリステンセン中尉(着帽)で、ウェーバー衛生兵が助手を務めている。軍政府の野戦病院にて。

Native woman treated and bandaged for shrapnel wound in an outdoor AMG hospital Okinawa, Ryukyu Is., by Lt. (jg) N.A. Christensen, (MC) USNR, (with cap) assisting is charles Webber, HA1c.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『米軍政府は、沖縄本島上陸とともに救護班を編成、戦場の傷病者を野戦病院に収容、民間人収容地区に、テント張りコンセット(かまぼこ型プレハブ)、崩れ残った民家利用などの地区診療所を設けた。ピーク時の45年7月には、北部金武村の中川、銀原の診療所に5,000人もの外来患者があり、731人が述べ997日入院した。

宜野座の病院では、7月10日には南部や中部の診療所から大挙移ってきた患者が、1日で1,500人のピークに達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫結核、下痢その他の疾病。外科手術をしても34%は術後死亡した。容態が悪化しているのと衰弱が原因だった。患者は一時4,000人にも達し、7割が女性だった。』(46頁)

《「那覇女性史(戦後編)なは・女のあしあと」(那覇市総務部女性室 編/琉球新報社)46頁より》

f:id:neverforget1945:20200708183857p:plain

米軍政府病院の診療室で沖縄の住民のための診療呼集。(撮影地: 宜野座

Sick call for natives in dispensary at AMG hospital.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった学徒たち

1945年7月10日ごろ沖縄県立農林学校から農林鉄血勤皇隊の一員だった学徒の1人は、沖縄本島北部東海岸の大浦湾を望む瀬嵩(せだけ)で捕虜になった。そこで、首をかしげたくなるような光景を目にする。

多くの避難民の中に、黒人兵らと共に炊事をする学校の二期先輩を見かけた。その先輩は、炊事係をしていたためか、太っており、つい最近まで「鬼畜米英」と言って教育されてきたのに、米兵らと仲良くしていたのだ。みんなひもじい思いをしている時期だったから、背に腹は代えられないという気持ちも理解できた。

数日後、大浦湾に南部方面から多数の避難民を乗せた船が入った。学徒は、出身地である南風原(はえばる)の人がいるか、見に行った。すると、顔見知りの人を見つけて話を聞くことができたが、南部は全滅だと言われ、学徒の母や祖母、2人の妹、親族も皆やられてしまい、「あんたの家も全滅だ」と言われてしまった。(農林鉄血勤皇隊・9)

《 [68 農林鉄血勤皇隊(9)]墓標はダム底に - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、要約》

 

そのとき、住民は・・・

ハンセン病患者の沖縄戦

米軍が撮影した愛楽園

f:id:neverforget1945:20200708184803p:plain

屋我地島ハンセン病療養所(1949年6月23日撮影)

Leprosarium on Yagaji Island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200708184005p:plain
Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200708184138p:plain

Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄の療養施設 - 南静園と愛楽園

1931年、宮古島に南静園が、1938年、屋我地島に愛楽園がつくられた。

ハンセン病は、以前は「らい病」と呼ばれ、らい菌によって感染する病気で、皮膚の表面に症状が出るほか、知覚麻痺や運動麻痺、身体障害を起こす。ただ病原性が弱いので、感染力は弱く、感染しても抵抗力があれば発病しない。経済が発展し、食生活が豊かになると急速に減少するし、また戦後まもなくプロミンという特効薬が開発されて完治する病気になった。1940年時点で日本全国に1万5763人の患者がいたが、沖縄では1453人だった。有病率(人口比)では沖縄は本土の18.5倍という高い比率を示していた犀川 一夫『ハンセン病政策の変貌』202頁、265頁)

1931年宮古島県立宮古保養院(のち宮古南静園に)、38年本部半島のすぐ側の屋我地島臨時国立国頭愛楽園(52年に沖縄愛楽園に)が設けられ、41年7月に両者とも厚生省の管轄となり正式に国立となった。43年1月末時点で県下のらい病患者は2つの療養所に収容させている者が718名、未収容者624名、計1342名となっている(『沖縄県史料 近代1』416-420頁)

f:id:neverforget1945:20200708184306p:plain

名護市・屋我地島北部、済井出地区のハンセン病療養所「沖縄愛楽園」は、国の隔離政策にもとづいて、昭和13年につくられました。那覇市から北に60キ口のこの施設も、戦時中アメリカ軍の攻撃対象になりました。今も施設には、戦争の傷あとが残されているといいます。
昭和19年10月10日、のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島各地を襲いました。その一部は愛楽園を攻撃し、施設の90%が破壊されました。愛楽園は、整然と並んだ病棟が日本軍の兵舎に間違われ、その後も繰り返し攻撃を受けました。水タンクが破壊され、十分な治療ができなくなった愛楽園では、元患者のおよそ30%、289人が亡くなりました。

名護市 愛楽園と戦争【放送日 2008.9.17】|NHK 戦争証言アーカイブス

東京港区出身の早田晧は長島愛生園勤務の後、1944年家族と共に沖縄に渡り愛楽園の園長となっている。1946年に多磨全生園に転任。

 

日本軍の駐留と強制収容

f:id:neverforget1945:20200709002646p:plain

軍による患者の強制収容は、1944年5月の読谷村が最初といわれており、7月には伊江島でも行われました。これらの地域はいずれも、県内で先行して日本軍の飛行建設が始まっていた所です。

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / 沖縄国際大学非常勤講師 | SYNODOS -シノドス-

第9師団(通称武部隊)の軍医中尉として赴任した日戸修一は、愛楽園の早田園長と連携し徹底収容を進めた。いわゆる日戸収容と呼ばれた。

日本軍が沖縄にやってくると、療養所に収容されていない患者を警戒し、収容を進めていった。9月に大規模な強制収容がおこなわれ、各地から乱暴なやり方で連行し収容された。野良仕事をしている時に有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されなかった者も少なくなかったという。9月末には愛楽園の収容者は定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった。』(107-108頁)

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 107-108頁より》

入所者の証言

まず第一に日戸収容というのがあるんです。これは軍の収容なんです。日戸という軍医の名をとって日戸収容といっているんです。…(中略)… 日戸収容がきた時にはですね、日本の軍が沖縄の方に進駐してきた、それで民宿にするから在野の思者たちはみんな収容すると。その収容がですね、非常にひどかったんですよ。抜刀して、野良にいる人をそのまま連れてくる。そして軍刀でもっておどして、着のみきのままですよ。野良にいってるのは野良着のまま、何も持たさないです。あっちに行けば布団もある。衣類も何もかもあるというふうにして、御飯も充分あるといいながら、さっき話しましたように、布団は一人の半分、支給品もそうする、食べ物は半兵、そんな強制収容してきて四百五十名というものをワァーッと入れたんですよ。人権ってないですよ。半分の人権もない。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

1944年は沖縄の救癩史に特筆すべき年であった。早田園長先生の計画そのときを得、駐屯の軍部と提携して全島の患者の一斉収容が行われた。私はその準備工作として検診のため、那覇の球部隊に軍医長を訪ねた。…(中略)… かくして緊急にリストは出来上がった。…(中略)… それがあんな風に利用されるとは知らず真剣であった。収容は9月1日を期して開始され、全部軍部の手で実施された。銃剣を持つ兵士達によって行われた暁の急襲は深刻な衝撃を与えたようで送られて来た病友達の顔は不安に固くなっていた。

《松田ナミ「ちぎれぐも」、国頭愛楽園『愛楽誌創刊』(1952年)  from 厚生労働省ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』》

 

過酷な避難壕掘り「早田壕」

f:id:neverforget1945:20190709110509p:plain

愛楽園内に残る防空壕。園長の名をとって「早田壕」と呼ばれている(2015年1月沖縄愛楽園自治会撮影)

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / 沖縄国際大学非常勤講師 | SYNODOS -シノドス-

f:id:neverforget1945:20190709111401p:plain
沖縄愛楽園自治会長・金城雅春さん「手足の麻痺している(ハンセン病)患者がみんな壕堀りしたために、こういう手になって。貝塚の層を掘らすというんもは非常に無茶だろうなと。結局(貝は)刃物ですから死になさいと一緒なんです。ハンセン病の人たちにああいうことさせるというのは、傷もできてしまって刃物ですのでね」

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦 – QAB NEWS Headline

 

激しい空爆 - 掲げられることがなかった赤十字の旗

療養所が兵舎と誤認され激しい空爆を集中的に受けたが、赤十字の旗を掲げるなどの対策はとられなかった。

f:id:neverforget1945:20200708184405p:plain

ハンセン病療養所の台所跡地。この地域の建物は沖縄戦の初期に空襲による被害を受けた。

Ruins of kitchen which was used by the entire leper colony. During the early part of the campaign buildings in the area were damaged by U.S. planes.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

入所者の証言

ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、(ブログ註・早田園長が) ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落さしておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかとー。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

4月23日、愛生園への米軍侵攻

4月23日、米軍が運天港から上陸、愛楽園に進入。ハンセン病療養施設と判明し、それ以降、米軍の保護下におかれる。

早田晧園長の家族の手記

毎週訪れる米軍の医師たちと、父たち日本の医師は、敵味方・国境を越えて、ハンセン病患者の病型や治療法、血液検査による早期発見法など、お互いの知識を熱心に交換し合った。… 一方米軍医師団は映画班を派遣し、父たちの説明のもとに、ハンセン病の皮疹、バイオプシー、伝染の仕方、治療法などの学術映画を撮影した。それは後にアメリカの医科大学に送られ、貴重な教育資料となったという。

屋我地島のドン・キホーテ - 大白泰子 http://archive.is/XjvSb 

米軍が記録する遺体解剖のようす。

『これは米軍が1945年7月の愛楽園を記録した映像を編集したものである。同じ時期、沖縄島南部ではまだ戦闘が続いている地域もあった。軍は、愛楽園にたびたび訪れ敗戦から間もない園内の様子を撮影した。米軍が撮影した愛楽園の映像がどのように利用されたかは不明である。

【解剖 1945年7月7日撮影】 

ハンセン病療養所の医師たちは入所者が死亡すると遺体を解剖していた。それは遅くとも1920年頃には始まり、1980年頃まで続いたと考えられる。(「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」2005年より)』

ハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」 展示資料/神奈川新聞(カナロコ) - YouTube

f:id:neverforget1945:20200708184539p:plain

ハンセン病療養所で検死を行う早田医師とスタッフ。検死テーブルだけが空襲の被害から逃れた。1945年7月10日撮影

Dr. R. Hayata and staff perform autopsy on leper patient in leper colony. The autopsy table in the only remaining part of the autopsy building which was destroyed by bombing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍統治下のハンセン病隔離政策

『戦前から、ハンセン病患者たちは強制的に隔離され、強制断種強制堕胎により、徐々に絶滅させていく政策がとられた。さらに戦時中、沖縄だけでなく各地のハンセン病療養所に強制収容された人たちが、飢えや病気などで多く犠牲になったことも明らかにされてきた。

沖縄を占領した米軍は隔離政策を継続したハンセン病は戦後まもなく治療薬が開発され、「治る病気」になったが、日本本土では1953年絶対隔離政策を継続する「らい予防法」が強い反対運動を抑えて制定された。ハンセン病患者の隔離政策が、日本において否定されるのはようやく1996年のことだった。』(109-110頁)

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 109-110頁より》

 

 

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

  1. 厚生労働省ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』第十六 沖縄・奄美地域におけるハンセン病政策