〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月5日 『収容所から収容所へ』

終わらぬ戦場米軍の住民移住計画野嵩収容所と水問題

米軍の動向

野外映画鑑賞会

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Okinawa, Moving Pictures
6人のGIがジープに座って映画を鑑賞中。(1945年8月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

終わらぬ戦場

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。

沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス 

日時は定かではないが、米国の雑誌が手に入った。『ライフ』誌だったと伊東は記憶している。その雑誌には、雪の積もった市街地で、日米双方の兵士が戦っているイラストが載っていた。

(敵の本土上陸はこの冬だろうか。講話になるのは来春以降か?)

それまで持久戦を続けるしかないと、伊東は密かに思った。しかし部下は配属の諸隊を入れて150名足らず。その大半が傷病の身だ。陽のあたらない洞窟で冬を過ごすのは至難の業だった。… (中略) …

伊東の心は乱れつつ、衰弱した命はローソクの灯のようにジリジリと残り少なくなっていく。「このような状態を地獄といい、このような妄執を修羅というのだろうか」伊東は手記に、こう心情を綴っている。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 264-266頁より》

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沖縄県糸満市宇江城、クラガー。1945年6月28日、壕入り口を米軍が爆破し、30日、師団長雨宮中将がこの壕で自決した。

クラガー | 糸満市

国頭突破」という神話

敗残兵のあいだで、8月になると日本の援軍が沖縄に逆上陸するという話が広く流布され、多くの兵士が国頭突破をかかげて北部に移動し犠牲になった。国頭突破のデマは、潜水艦が迎えにくるなど、幾つかのヴァリエーションがあったようである。

9月13日に投降した歩兵第89連隊の沖縄出身の初年兵証言

それとわたしの生まれた部落、今、雨宮中将が自決した壕、山雨の塔の下に、僕わかるから、じゃ一緒に連れていこうって言って連れていったんですよ。
そしたら、入り口は大きい入り口なのに、アメリカさんがみんなブルドーザー入れて埋めたんですね。だけど、たった人が1人通れるぐらいの穴がね、開いていたんです。そこをたどって行った、そこを行こうとした。ロウソクも何もないですから、 無線電話の電線、あれに火つけてこう入っていった。そしたら、もうここは野戦病院だったんですよ。もう腐乱死体、こんな膨れて、死んでる兵隊いっぱいいるわけよ。それを踏んで前へ行ったら、もう臭くて臭くてたまらんわけですよ。そしたらみんな、いや、もうこんな臭いとこで死ぬよりはね、どうせ死ぬんだったら空気のおいしいとこで死んだほうがいい、こっちもダメダメって言ったけど、もう夜が明けるしょ。外出たらやられるから、もう一日だけ我慢しようということで、そこにいた覚えがあるんですよ。

いや、とくにかくにも北部に行こうと。デマか何かわかりませんけども、北部のコシソン (ブログ註・久志村?)潜水艦が迎えに来るから、それに乗ってまた本土に行って戦おうという、そういうデマがあったんです。そこを目指して行こうということですよ。大体僕がリーダーというよりは、みんな同じ仲間ですが、この辺の地理わかるのが僕しかいないわけですから、… (中略) …何日かかかって。与座仲座1日、大頓1日、それからマイカ、3日間かけて玉泉洞のあるとこに行きましたよ、うちの壕出てから。毎日、僕ら殺しに敗残兵掃討アメリカさんが来るんですよ、毎日、銃を持って、もう僕らを追いかけて。そうだよ、僕らは戦負けたのをわからんわけですよ。

伊禮 進順さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・

米軍の住民移住計画

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域 

米軍の住民移住計画 (resettlement program) で、住民は自分の土地から追い立てられ、基地建設が変更され進展するたびに収容所から収容所へと移送された。住民の住居区域は沖縄島のわずか10%の土地に制限され、その土地の過半は住居に適さない土地であった。

 

石川収容所と石川学園

石川収容所は米軍の収容所運営の中心であり、モデル地区として格好の撮影場所でもあった。この日も撮影のためのカメラマンが収容所を撮影した。

軍作業 - 経済は停止し、人々は生きるために軍作業に出る。

f:id:neverforget1945:20190804080934p:plain《AIによるカラー処理》沖縄本島石川の地元民。労役のため収容所に集められた大勢の地元民。高さ50フィートの火の見櫓から撮影。(1945年8月5日撮影)

Natives at Ishikawa, Okinawa. Crowd assembled in labor compound. Taken from fifty-foot fire tower.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Natives at Ishikawa, Okinawa. About 2000 people waiting for trucks to various units on island.
沖縄本島石川の地元民。トラックを待つ2000名の人。各々が様々な部隊の地に向かうことになっていた。
撮影地: 石川 (1945年8月 5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Natives at Ishikawa, Okinawa. Women waiting in enclosure.
沖縄本島石川の地元民。囲い地で待つ女性。撮影地: 石川 (1945年8月5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

石川収容所の学校「石川学園」は5月7日に開始された

米陸軍の報告書から

【和訳】再建は難民キャンプの子どものうじゃうじゃと殺到する集団から始まった。というのもこれら子どもたちの方向性を失った存在は悩みの種であり、いくつかの地域では大きな問題となった。ある種の方向性を与える教育活動は、 秩序を再確立するための最も明白な方法論となった。子どもたちを遠ざけておくためには、石川収容所の「B」チームの指揮官は 早くも1945年5月1日遊び場の建設を承認した。指揮官はそれを構築するために150人のアメリカ人と沖縄人を指揮した。それがわずか3日後に開園された時には、4歳から8歳までの1,000人以上の子どもたちがやってきた。このささやかな始まりに続き、軍政府本部は地方の司令官にレクリエーション制作をすべての小学校の年代の子どもたちに確立するよう指令し、工芸や遊びだけではなく、読み書き算数の基本的な学びを強調した。

1945年8月には、アイランド・コマンドは、教育課程の開発と調整、学び舎の整備、そして教材の提供のための政策を扱う軍政府教育部門を設立した。充分な数の地元の教師が志願したが、学校の備品は1945年を通して慢性的に不足していた。収容所の指導者「班長」は、一定の資格のある沖縄の教師を選び、対敵諜報活動の審査をクリアさせた。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 97. 》

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Native children at Ishikawa, Okinawa. Two movie photographers draw crowd during recess. 

地元の子ども。沖縄本島の石川にて。休み時間中、2人の映画撮影員に興味を抱き、大勢の子どもがあつまる様子。 石川 (1945年8月5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Native children at Ishikawa, Okinawa.
地元の子ども。沖縄本島石川にて。撮影地: 石川 (1945年8月5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Native children at Ishikawa, Okinawa. Teachers reporting roll call to principal.
地元の子ども。沖縄本島の石川にて。校長に出欠状況を伝える先生。
撮影地: 石川 (1945年 8月5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

野嵩収容所から古知屋収容所へ

住民は収容所から収容所へ転々と移住を余儀なくされた。現在の普天間基地の北側に隣接する宜野湾村の野嵩収容所には、1万人を超える住民が送られたが、中部に集中する基地建設の都合上、野嵩や島袋や泡瀬など中部の収容所の住民は次々と北東海岸の収容所に移送される。野嵩でも住民をすべて北部に移住させる計画が進行中のなか 8月15日の終戦を迎える。1946年に収容所が解消された後には、普天間基地で土地を奪われ帰村できない住民が再び野嵩地区に集中する状態となる。

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「北谷戦後七十年余のあゆみ あの日あのとき」北谷町 (2017) から

野嵩収容所

6月下旬に沖縄本島南部の「轟の壕」から救出された人びとの一部は、その後、米軍の指示で男女別々にされ、トラックに乗せられて、野嵩収容所(現・宜野湾市)に送られた。そのとき、ある夫婦は離ればなれになってしまった。

降ろされたのは宜野湾村の野嵩収容所でした。野嵩は実家の喜舎場からは遠くなく、学校時代に通学コースだった普天間神宮にも近いところです。米軍が北谷海岸に上陸して首里に進撃していく途中にありますから、4月初めから中部地区の住民を集めた難民キャンプが設営してあったそうです。初期のころ捕虜に取られた人たちは集落の空き家にはいって生活してましたが、後から来た私たちは家には入れず、郊外の畑をブルドーザーでならして、テント小屋を建て増していって、6月ごろには見渡すかぎりのテント村になっていました。大型テント1棟に100名ぐらいずつすし詰めで暮らしていました。私たちも大型テントの片隅に場所を取って共同生活をはじめました。食糧は米軍から無償配給がありました。毎日白米が1人1勺ぐらい、家族全部でカンカン(空き缶)の1杯ぐらいになりました。それをぼろぼろのお粥に炊いて食べました。調味料はアメリカ製の粉末、燃料はあちこちから木の葉などあつめてきて間に合わせました。そうやって2、3日はめいめいで炊事していましたが、後からはテントごとにシンメーナービ(大鍋)に一括して炊き出しをしました。

「水の里」の水不足: 宜野湾市はもともと湧き水の泉が100所以上あり、沖縄島でも特に水に恵まれた「水の里」と呼ばれていたが、その地所のほとんどが米軍基地内に接収され、また異常な過密状態に置かれた野嵩には、米軍の洗濯場 (ランドリー) も設置されたため、住民の飲料水と公共衛生は極めて過酷な状態にあった。

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山口晴幸「沖縄水史観」水利化学 No. 299 P. 86. より

… 食糧は米軍から無償で配給されますが、毎日、日照りの中を配給所の行列にならぶのが大変な日課でした。もっと困ったのは水不足でした。何百人という人が同じ井戸から水を汲んでいくので、ぼやぼやしていると底まで干上がってしまいます。空き缶のツルベで13尋もたぐって汲み上げても、赤土のまじった水が底の方に少ししかたまっていませんでした。飲み水を確保するのがせいいっぱいで、とても水浴びするだけの水はありません。そういえば、戦争がはじまってから風呂に入った覚えもありません。

…テント小屋には床もありません。地べたに適当な敷物をしいて横になるだけです。かぶる物もありません。中はむし暑く、外から熱風が吹き込んできて、便所のいやな臭いを運んできます。便所は、畑の真ん中に穴を掘って、板を渡して前だけテント布で隠したアメリカ式の簡易便所がつくられていました。蝿と蚊がぶんぶんする不衛生な環境の中、体力が衰弱して、食事が合わないので、ほとんどの人が下痢をしていました。悪性の下痢がまんえんして、毎日のように死人が出ました。葬式班というのがあって、毎日、死人を担架にのせて、畑に穴を掘って、着のみ着のままの姿の死体を担架から穴にほうりこんで土をかぶせるだけ、犬猫のような扱いでした。

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 158-159頁》

ランドリーという軍作業

野嵩沖縄戦びとの出入りがえずしかった収容所でしたがわずかながらのびとは設置当初から長期間まることができましたそして米軍野嵩残留せたびとを安上がりな産業として動員しつつ米軍専用ランドリー設立維持という計画展開していきますちなみにランドリー主要現場となったのがクシヌカーでした

… 設置当初の野嵩のランドリーには、米軍の野戦病院から負傷兵に使われたタオル、毛布、野戦服などが定期的に送られ、洗濯作業に従事した 19 人の女性と 6 人の男性は一日におよそ300もの衣類を取扱い、5月以降ともなると一日に取扱う衣類も500から 600 にまで増えたと記録されています。ランドリーで働いた松川吉信さんによると、主に女性は洗濯作業、男性は「釜焚き」と呼ばれる消毒作業をそれぞれ担当した と言います。

「市史だよりがちまやぁ」宜野湾市 (2009年5月29日)

※ 「釜焚き」… 薪を集めて熱湯で洗濯物を消毒するという作業

野高の捕虜収容所は、テントの木の葉を敷いただけの簡素なものでした。それに、そこは水もなく不潔な生活をしていたので、盛数がチフスに感染してしまい随分苦労しました。また、ここでの生活で一番恐かったことは、そこの収容所には沖縄人の班長がいて、その班長に虐待されたことです。その班長は、皆から恨まれていて、私も、あまりの憎さに殺してやりたいと思った程です。

その後、野高の収容所は水がないということで、私達は山原 (やんばる) の方へ移動させられました。その頃、夫は捕虜となってハワイに連れて行かれていたので、生きているのか死んでいるのかということもわからず消息は全然つかめませんでした。

沖縄戦証言「首里市民の戦争体験 (座談会) 」首里 (1) - Battle of Okinawa

野嵩収容所から古知屋収容

「轟の壕」から救出された夫婦は8月の初めに野嵩収容所で再会し、今度は北部金武町の古知屋 (宜野座村松田) に移送される。

8月の初めごろ、夫…が前ぶれもなしに野嵩にたずねてきました。信じられないような再会でした。男たちはみんな海に捨てられてもう生きて帰ってはこないだろうとあきらめていましたから、たいへんな驚きと喜びでした。別れた時には衰弱がひどかったですから、生きているだけでも不思議でした。聞くと、轟の壕からトラックに乗せられて、中部地区の人たちが収容されていたマースヤー(桃原)に連れていかれたそうです。その収容所からジープに便乗して私たちをさがしにやって来たというのです。これで親子3人がそろって、生きる勇気がわいてきました。(でも、その喜びも長くは続かなかったのですが)。

夫と再会して間もなく、野嵩の避難民に、軍から古知屋への移動命令が出ました。山原への移動命令は食糧難を解消する目的があったようです。私の家族と佳子ねえさんの家族は一緒に軍用トラックに乗せられて古知屋へ向かいました。8月5日ごろだったと思います。

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 160-161頁より》

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米国海軍:  Civilian stockade on Okinawa in Ryukyus.
沖縄の民間人収容所。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/123408.jpg

G-6軍政府病院付士官や兵士の宿舎および病棟用地。(撮影地: 宜野座村

Establishing shot of place in jinuza to be used by G-6 hospital for officers and mens quarters and wards.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

古知屋はヤンバルの宜野座村の集落で、戦前は開墾地のあったところです。開墾地の跡に米軍が建てたカヤブキ長屋がいっぱい並んでいて、首里那覇あたりの避難民の収容地区になっていました。先に来た人たちはいい場所を取って住んでいましたが、後から移動してきた私たちには山の奥の不便な場所しか与えられませんでした。佳子ねえさんの家族は隣の長屋を割り当てられました。屋内は床も敷物もありません。でも、久しぶりに親子3人そろっただけでも希望がわいてきました。

「こうして生きているんだから、那覇へ帰ったら、また生活を建てなおそうね」と夫と励まし合いました。

まず、食べることです。地面を掘って竃をこしらえて、6斤缶づめの空き缶を鍋の代用にして配給でもらった米に野草や調味料をごっちゃに雑炊をたいて、それが主食でした。古知屋に来てからようやく水浴びができました。考えてみると、艦砲射撃がはじまった3月23日以来、お風呂に入ったという覚えがないのです。小川の流れに浸かって戦場の泥と垢を落としていくと、ようやく平和がよみがえったんだなあという実感がわいてきました。

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 161-162頁より》

 

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【戦後70年】鉄道の旅も命がけ 1945年8月5日 | ハフポスト

 

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