〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月11日 『戦争マラリア』

 

米軍の動向

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戦術航空軍司令官ウッズ海兵隊少将と話をする米第10軍司令官スティルウェル大将(1945年7月11日撮影)

General Joseph W. Stilwell,  (1), CG of the 10th Army, confers with his Tactical Air force Commander, Marine Major General Louis E. Woods, of Wash., D. C..

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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リパブリックP-47サンダーボルト“リトル・ロケット“の上で、撃墜した日本軍機の数を示すボードを掲げる第318戦闘機群第19戦闘機中隊のパイロットと地上作業員。

屋根にはスペランザ一等軍曹、P-47の機首の上にはカーネク伍長、機体の上には(左から)ワイア中尉、ケリー一等軍曹、マーズ二等軍曹、ギブソン中尉、ダウロ中尉、ジェス空軍将校。伊江島(1945年7月11日撮影)

Pilots and ground crewmen of the 19th Fighter Squadron, 318th Fighter Group, clamber over Republic P-47 Thunderbolt ”Little Rock Ette” to hang scoreboard showing number of Japanese airplanes downed. On roof is M/Sgt. Sam T. Speranza. On frame above nose of P-47 is Cpl. Steven Cernek. Men standing on plane, left to right are: Lt. James G. Weir, Pittsburgh, Pa.; M/Sgt. Edward J. Kelly, Montgomery, Ala.; S/Sgt. Leroy V. Marz, San Bernardino, Calif.; Lt. Jesse Gibson of Longview, Texas; Lt. Vincent A. Dauro of Gulfport, Miss. and Flight Officer Jesse B. Hill. Paducah, Kentucky. Ie Shima, Ryukyu Retto.

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沖縄の地元の村で見つけた子猫を育てる海兵隊航空団戦闘飛行隊所属パラシュート整備員ストランスキー海兵隊伍長。アルゴンとシャトー・テリーと名づける。(1945年7月11日撮影)

Marine Cpl. Paul R. Stransky, 19, Milwaukee, Wisc., parachute rigger attached to a fighter sqd of a MarAir Wing, has two pet kittens he found in an abandoned native village on Okinawa. He has named them Argonne and Chateau Thierry. He is the son of Mr. and Mrs. Joseph Stransky, 4060 N. Farwell Ave., Milwaukee.

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〝沖縄〟という米軍基地の建設

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。弾薬運搬用桟橋と杭打ち機。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Ammunition pier and pile driver.

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。水上機基地。駐機場と2本の舗装道路が見える。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Seaplane base, showing apron and two causeways.

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。クレーンを利用した簡易浚渫機(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Makeshift dredge (made from crane).

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。珊瑚を掘削して出来た穴。ショベルや掘削機を使った作業の様子。水上機基地の埋立建設に使う珊瑚を掘り出すために行われている。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Coral pit, showing shovels and drilling operations supplying coral for seaplane base fill.
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第7建設大隊による工事。沖縄にて。以前日本側のものだった採掘場で稼働中の砕石機。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Rock crusher in use in former Jap quarry.

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands.

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マコーミク中尉の指揮下で、建設作業を監督するオキーフ第7建設大隊長(1945年7月11日撮影)

Chief James J. O'Keefe of the 7th CB in charge of construction operations under Lt. (jg) McCormick on Okinawa, Ryukyu Is.

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第7建設大隊の食堂と調理室の中。(1945年7月11日撮影)

Interior of Mess hall and galley at 7th N.C.B. on Okinawa, Ryukyu Islands.

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マラリア防疫隊 

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マラリア防疫隊(撮影地: 安慶名)Malaria control team.

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医局による蚊・マラリア予防  Med. Dept Mosquito & Malaria Control.

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マラリアの汚染した地域に薬を散布する第316兵員輸送部隊ダグラスC-47スカイトレイン。沖縄。(1945年7月11日撮影、撮影場所、散布地域不明)

A Douglas C-47 ”Skytrain” of the 316th Troop Carrier Command, spraying malaria infected areas of Okinawa.

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DDT(殺虫剤)タンク取付後のダグラスC-47内部。第316兵員輸送部隊。タンク容量は275ガロン。読谷飛行場。(1945年7月11日撮影)

Interior view of a Douglas C-47, 316th Troop Carrier Command, after DDT tanks had been installed. Capacity of each tank is 275 gallons. Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

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第316兵員輸送部隊ダグラスC-47に取り付けられた噴霧器。汚染地域に4基のC-47でDDTが散布される。読谷飛行場。 (1945年7月11日撮影)

A view of a spray jet attached to a Douglas C-47 of the 316th Troop Carrier Command. Four C-47s are used for spraying native villages, in infected areas, with DDT. Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

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マラリアの汚染した地域に薬を散布する第316兵員輸送部隊ダグラスC-47スカイトレイン。沖縄。(1945年7月11日撮影、撮影場所、散布地域不明)

A Douglas C-47 ”Skytrain” of the 316th Troop Carrier Command, spraying malaria infected areas of Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

波照間島の戦争マラリア陸軍中野学校

波照間島では「山下虎雄」という軍曹にマラリヤが蔓延する地域に強制疎開させられていた。山下は青年学校の指導員として島に入り込むが、本名は酒井清といい、陸軍中野学校の離島残置工作員であった。

七月半ばの疎開地ではマラリアの罹患者も増し、五十名を越えるマラリアの死亡者が続出していた。波照間島の住民はマラリアの恐怖におののいていた。また、確保してある食糧も底をつきはじめていた。このような悲惨な状況のなか、波照間島の住民が、このままでは全滅は目に見え、早く安全地帯である波照間島に帰りたいと思うのは当然のことであった。波照間島の人々が、前に波照間島に帰りたいと山下に要請したが、山下は「島には帰さない」との一点張りであった。そして、波照間島住民を使って山の奥の方に避難小屋をつくらせていた。そこで、山下は命令による集団死を、一部の女の人に示唆していたという。『県史』10(一六七ページ)で、上盛ミツさんは次のように証言している。「山下は疎開地の婦人たちに、『近いうちに避難小屋に行くから一張羅の晴着を用意しておけ』というので自分たちを殺すつもりかも知れないと思って非常用袋を用意した。

『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』石原ゼミナール戦争体験記録研究会、おきなわ文庫

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潮平正道戦争絵画作品

山に移住して10日ほどたつと、ハマダラ蚊に刺されマラリアの病状が出始める。まず強い寒気がして、ふるえがくる。しばらくして40°前後の高熱が出る。この症状が3,4日おきに繰り返し襲ってくるので、身体はだんだん衰弱して死に至る

石垣字会戦争資料展

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潮平正道戦争絵画作品

石垣国民学校に駐屯していた朝鮮人軍属が過酷な作業で両足を怪我し作業に行けないため、一日中炊事場のハエ取りを命じられ、夕方撮ったハエの数を報告して夕食の許しを得ているところ。西隣の家 (宮良宅) から二人の少年がこの様子を見ている。

石垣字会戦争資料展

 

軍の疎開命令と家畜の処分

疎開が開始されると軍は波照間の豊かな家畜を目当てにその徴用にやってきた。当時波照間では私が畜産組合長押してその増産奨励を行ってきた。就任当初は牛は300頭しかいなかったが疎開前は800頭へ、豚75頭から400頭へ。鶏も一千羽から5千羽へと増産がめざましかった。特に鶏は全郡一の豊かさで、全郡の卵の需要を波照間の卵で満たしており、卵は波照間として特に知られていた。… 徴用に来たのは軍の獣医広井少尉であった。日本軍は横暴で島の住民に向かって抜刀して脅し家畜の徴用を命じた。…「家畜は一匹たりとも残すな、残したら米軍の食料になるから全部殺させよ。」と日本刀を振りかざして指導に回った。当時島のいたるところに肉だけ取って残った頭、骨、内臓が森や洞窟に捨てられ、また肉さえ取らないでそのまま腐らした牛がる所に捨てられ、その腐敗した匂いといい、その様相は家畜の生き地獄さながらであった。

《波照間の疎開で死線を越えて 竹富村議中本信幸4》p. 201

 

離島残置工作員

当時、沖縄には42人の陸軍中野学校出身者が送り込まれていた。

山下は疎開する前は怖くありませんでしたが、疎開してから怖くなりました。どうしてかというと、南風見で彼が台湾人を虐殺する現場を目撃したからです。山下は、後ろ手にしばられてつながれた四人の台湾人を川のそばに連れて行って、次々と彼らの首をハネました。この光景を見て私たちは心臓がつぶれそうになるぐらい怖くなりました。 

『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』石原ゼミナール戦争体験記録研究会、おきなわ文庫

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酒井清輔、別名・山下寅雄。スパイ活動やゲリラ戦などを専門とする陸軍中野学校出身者でした。川満さんは疎開は、住民の安全のためではなく、別の目的があったのではと指摘します。

川満さん「石垣島にいた日本軍の食料を確保するために。住民が邪魔だから西表島に強制疎開させたんじゃないのかという論がある。あの論の推測は高いと思う」

山下軍曹自身もこんな証言を残しています。『殺した牛や馬などを焼いて、軍の糧秣として石垣島へ送り出した』

さらに、驚くべき事実も明らかになりました。当時、沖縄には42人もの陸軍中野学校出身者が送り込まれていたというのです。山下軍曹のように離島に潜伏した者は全部で11人。沖縄全域にわたっていました。その目的とは…。

川満さん「第32軍が壊滅したあとも、彼らが残って持久戦をやると。遊撃戦。いわゆるゲリラですね。西表島に米軍が上陸したら、(波照間の)挺身隊も遊撃させる。そういう計画があったのかな、と僕は考えます」

 

琉球朝日放送 報道部 » Qリポート 強制疎開迫った人物は

 

そのとき、住民は・・・

八重山地域の戦争マラリア

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail59_img.jpg

 【沖縄戦の絵】「西表島・黒島 マラリアの惨禍」

八重山諸島の黒島に住んでいた絵を描いた女性の家族は、昭和20年3月ごろ、近くの西表島に避難した。絵には、西表島から再び黒島に帰って来るまでの出来事が一緒に描かれている。「山がない黒島には身を隠す場所がない」。沖縄戦を前に父親は家族をサバニ(舟)に乗せて西表島へ。山中にわらぶき小屋を建て、イノシシや貝などの食糧を集めて暮らした。ある日2機の米軍機が現れ、急降下しながら浜に機銃掃射。小屋にも撃ち込まれたが、家族は食糧探しに出ていて無事だった。しかし山中で暮らすうちに女性と両親がマラリアに罹患。最初に母親が命を落とした。母親を葬るため、父親はその日のうちに女性と兄をともなって再び黒島にこぎ出した。自分も罹患していた父親は、黒島の家の玄関にたどり着いたところで絶命。女性と兄は1日のうちに孤児になった。絵を描いた女性「アメリカの攻撃を受けたのはただ1回だけだったのに、マラリアに両親を奪われた。戦争がなければ父も母も死ななくてすんだ。悔しい」』

西表島・黒島 マラリアの惨禍 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

住民避難計画は軍の作戦上からなされたものである。… それよりも軍が、複郭陣地内指定地区へ住民を“退去”させたのは、防諜や住民の動向監視のためである。陣地構築、弾薬運搬に動員され、軍事施設の場所を知り尽している住民は軍にとって危険な存在であった。そのため敵の上陸する恐れのある海岸地区居住の住民は強制的に山岳地帯へ追いやられたのである。住民が退去させられた指定地域は、マラリアを媒介するハマダラ蚊の生息地であった。』(188頁)

『45年のこの年、八重山群島において3674人マラリアによって死亡した。』(189頁)

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 188、189頁より》

ルポライター鎌田慧さんは、生き残った住民に聞き取りをした上で、著書『日本列島を往く(1) 国境の島々』の中で、「住民を強制移住(強制疎開)させようとする軍部の方針は、住民に対する不信感によっている。米軍が占領したあと、住民が敵に寝返りを打つかもしれない、との恐怖心の表れでもある。住民を丸ごと追い払い、牛を殺して食糧とする、それが山下に与えられた任務だった」と、日本軍の食料調達という目的のほかに、捕虜になった住民がスパイとして敵軍に利用され、自軍が不利になることを恐れたのだろうと述べ、「日本軍が島ぐるみ強制退去させたのは、住民の庇護というよりは、あくまでも大本営の戦術のためである。それもひとりの二〇代はじめの若い残置諜者の命令だけで、島のひとたちがマラリア地獄のなかに叩きこまれた」(同書より)と結論付けています。

もう一つの沖縄戦 "戦争マラリア" を知っていますか? |AERA dot.

 

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  1. 八重山平和祈念館

書籍紹介

大矢英代「私の久しぶりの島への帰郷は、お爺の葬式から始まったのですが、そのお爺が私が学生の頃によく言ってくれた言葉があるんです。それは「英代には学べる者としての責任がある」という言葉でした。それは、戦争マラリア沖縄戦を経験したお爺やお婆たちが、皆、本当は学びたかったのに学ぶことが出来なかった、勉強をしたとしても、軍国主義の時代で天皇陛下のために死ね、という時代だった。でも今はそういう時代ではなくて、自分が学びたいことを学べる、そして、そうして学んだ者の責任がある、だから、自分の興味本位をただ満たすための学びではなくて、それをどうするのかということを考えなくてはいけない、ということをお爺からいつも言われてたんです。」

OUTSIDE IN TOKYO / 大矢英代『沖縄スパイ戦史』インタヴュー

 

沖縄「戦争マラリア」-強制疎開死3600人の真相に迫る [ 大矢英代 ]