〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月6日 『ATROCITIES (残虐行為) in 広島』

テニヤン島と沖縄移民 / 「沖縄と核」 / 「残虐行為」とは / 米軍統治下の沖縄の被爆者

 

米軍、広島に原子爆弾を投下する

1時45分、エノラ・ゲイ、テニヤン島を離陸

前日、テニヤン島ハゴイ飛行場のピットからB29エノラ・ゲイに原爆が積み込まれ、翌朝の8月6日、1時27分に広島に向かって離陸した。米海兵隊ハゴイ飛行場はもともと日本軍の基地で南洋一の飛行場といわれていたが、1944年に米軍が上陸して接収・拡張したものだった。

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太平洋の北マリアナ諸島に浮かぶ島テニアン。この島の北のはずれに戦争の記憶を今に伝える場所があります。アメリカ軍の飛行場跡地にある原爆ピット。広島と長崎に投下された原爆を爆撃機に積んだ場所です。原爆は一時的にこの場所に置かれました。B29爆撃機が真上に止まったところで地面からせり上がり機体に収められました。その後、B29はテニアンの飛行場から飛び立ち、原爆を投下しました。

当時の飛行場をよく知る人が沖縄にいました。森眞之さんです。元々テニアンの飛行場は日本軍の基地でした。南洋で最も大きな飛行場で、近くに住んでいた森さんも子どもながらその拡張工事を手伝ったと言います。「もうかなりきつかったですよ、土木作業員でした。今で言う。石ころ集めて穴を埋めたりね、そしてその後ローラーでね、まず我々は、さとうきび畑が多いからそれを焼き払って刈り取りそれみんな片付けてそして地ならしですよ。」当時、テニアンはサトウキビ栽培で栄え、当時日本から多くの開拓者が移住しました。その6割が沖縄からでした。

テニアン 原爆ピット|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

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日本海軍のウシ飛行場は米空軍のハゴイ飛行場となった。

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ハゴイ飛行場 - Wikipedia

日本の委任統治領だった南洋群島には、沖縄から多くの人々が移住していました。1921年には663人だった沖縄県からの移住者は、1940年には約5万6,000人に達したとされています。これは、当時の南洋群島における在留邦人の約7割にあたりました。

1944年7月24日、米軍はテニアン島に上陸し30日にはテニアン町を占領しました。サイパン島と同様に民間人を巻き込んだ地上戦で、米軍の圧倒的な戦力の前に日本軍は追い詰められていきました。悲惨を極めたテニアン島の戦いでは8月3日に日本軍の組織的戦闘が終了しました。この戦闘における沖縄県出身者の戦没者数は約3,500人とされています。

〔WEB展示〕令和2年度 新規公開写真資料展―サイパン・テニアン・ペリリューの戦い – 沖縄県公文書館

「玉砕の島」サイパンテニアンでの生存者の経験は戦時下の日本に伝えられず、そのため米軍は沖縄戦においてかつてないほど情報戦に力を入れた。

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TO THE RESCUE -- Filled with horror stories by the Japanese, Tinian natives, fearful of capture by the Marines, hid in the caves and dugouts in the hills. Members of a Marine patrol that had been hunting isolated groups of Japs, remove this tiny girl from the debris of a shelter in which she and her father had been hiding for weeks.

救助へ―― 日本兵から恐ろしい話をたくさん聞かされ海兵隊に捕まるのを恐れたテニアンの地元民は壕や丘の塹壕に身を潜めていた。孤立した日本人たちを捜索していた海兵隊のパトロール隊が、父親と一緒に何週間も隠れていた小さな女の子を穴から引っ張り出している様子。撮影場所 テニアン、1944年

『父の日』の沖縄戦 - ~その時、沖縄は~

昭和19年アメリカ軍はテニアンに上陸日本軍との間で壮絶な地上戦が繰り広げられ、国の資料によると住民だけで4000人が亡くなったとされています。飛行場を占領したアメリカ軍は大型の爆撃機を飛ばすために、さらに大きく改修しました。しばらくするとB29が飛び立ち、日本本土を空爆するようになります。森さんは捕虜になり収容所にいました。戦後、強制的に日本に送還されるまで日々航空機が飛び立つ様子を見ていました。

テニアン 原爆ピット|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

8時15分、広島に原爆投下

原爆がさく裂した時、爆心地は摂氏3000度から4000度に達しました。1平方メートルあたり35トンというコンクリートさえも潰す爆風。想像を絶する放射能の量は、一瞬にして14万人の命を奪いました。

65年前のきょうは1945年8月6日(月) – QAB NEWS Headline

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The Enola Gay before the bombing mission.

任務の前のエノラ・ゲイ

Enola Gay Crew Recalled First Use of Atomic Bomb | Military.com

そのとき、広島は・・・

昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。

広島市 - 原爆被害の概要

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戦前の広島市内の様子

A pre-war photograph of Hiroshima’s vibrant downtown shopping district near the center of town, facing east. Only rubble and a few utility poles remained after the nuclear explosion and resultant fires.  U.S. National Archives

Hiroshima: Before and After the Atomic Bombing - The Atlantic

この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。

広島市 - 原爆被害の概要

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A photo taken by Bob Caron from the Enola Gay, the B-29 aircraft that dropped the bomb on Hiroshima. Credit George R. Caron, via Associated Press

広島に原子爆弾を投下したB-29爆撃機エノラ・ゲイの機内からボブ・カートンが撮影した写真。

The Hiroshima Mushroom Cloud That Wasn’t - The New York Times

昭和20年(1945年8月6日 午前8時15分人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。

爆発の瞬間、強烈な熱線放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

広島市 - 原爆被害の概要

原爆投下を決断したトルーマン大統領は7月25日の日記に「軍事目標と兵士と水兵とが標的であり、女性と子供ではない」と記しているが、

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応急治療を待つ生存者

Survivors of the first atomic bomb ever used in warfare await emergency medical treatment in Hiroshima, Japan, on August 6, 1945. AP

Hiroshima: Before and After the Atomic Bombing - The Atlantic

上の原爆投下直後の御幸橋の写真と証言を元に、NHK が最新の解析と映像技術を使って当時の状況を再現している。

特集 広島原爆 ~きのこ雲の下で何が起きていたのか~|NHK 戦争証言アーカイブス

被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。

広島市 - 死者数について

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防空壕の中のうめき声 Survivor Asako Fujise drew this image of a bomb shelter that was being used as a makeshift hospital. It was "filled with moans and the smell of zinc oxide and Mercurochome mixed with sweat.

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水をやるなと叫ぶ軍警: Soldiers had been trained not to give water to burn victims, thinking it would worsen their condition. Keiji Harada remembers girls asking her for water. While I was rushing to get them water, a military policeman yelled at me to stop. When I remember, I deeply regret that I obeyed. I should have found a way to help them.

Why did the U.S. bomb Hiroshima? - CNNPolitics

 

米軍の動向

沖縄の米軍基地 - 米軍基地と核

沖縄戦と占領で建設されていった多くの米軍基地では、戦後、県民には何も知らされないまま太平洋地区で最多の核兵器が持ち込まれ、配備されていた。

1954年から核兵器が持ち込まれ、最大18種類、1200発以上あったことが明らかになっている。本土 (ブログ註・日本本土) は「非核地帯」とされ、有事にだけ運び込むことになっていた。米環境保護団体、天然資源保護協会の研究者らが99年、国防総省核兵器配備先リストを公表した。沖縄の項には、核爆弾や280ミリカノン砲(原子砲)など全四軍の核兵器の名前が並ぶ。中でも陸軍の「デイビークロケット」は射程が最短でわずか約2キロ。撃った兵士や周辺の土地も被ばくが避けられない物だった。文書によると、これらの核兵器が最後に撤去されたのは72年の6月。復帰時に全て撤去するとの日米合意を、1カ月とはいえ破っていたことになる。

沖縄タイムス | 米軍政下の沖縄に核兵器1200発超

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米陸軍: 280mm Atomic Cannon with crew ready for firing at Futema Area. Filed: G&W-Rifles-280mm Atomic.
普天間地区で発射準備のできた 280mm 原子砲 撮影地: 宜野湾市普天間 1956年 7月17日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

住民には何も知らされないまま、米軍が具志川の町なかを白昼堂々とメースミサイルを輸送する。左側は写真の奥の建物には具志川村農業協同組合とある。

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A TM-76B (CGM-13B) barely clears an overhead power line at the village of Deragawa enroute to a launch site from the missile maintenance area, Kadena Air Base, Okinawa.

TM-76B (CGM-13B) が、沖縄の嘉手納基地にあるミサイル管理区域からミサイルサイトに向かう途中、デラガワ (平良川) で頭上の送電線をかろうじてクリアするところ。

TM76B Mace (CGM13B) at Kadena Air Base

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【核と沖縄米軍基地】Part 2: 宜野座の小学校のそばで「原子砲」キャンプ・ハーディー

【訳】日本が降伏してから、実質的に沖縄は合衆国の保護領となり、もはや日本の領土ではなくなった。米軍は陸空海軍のための基地を建設し、そして1950年朝鮮戦争の勃発とともに、沖縄は米国の軍隊と諜報作戦のアジアでの戦略的拠点となった。その場所から陸軍と海軍は通常的な軍事作戦をおこなうだけではなく、例えばグリーン・ライト・チームや他の特殊部隊がかかわるような不正規戦争 (unconventional warfare) のための基地が極めて重大となった。

Annie Jacobsen, Surprise, Kill, Vanish: The Secret History of CIA Paramilitary Armies, Operators, and Assassins, Little, Brown and Company; 2019/5/14

もっとも沖縄という地域に過重負担を強いる背景には、日米両国民の沖縄に対する無自覚の差別意識がある。50年代に沖縄で核使用を想定した訓練に参加していた元海兵隊員ハリー・ミカリアンの認識が典型的だ。

〈こうした海兵隊の訓練に対し、沖縄の人々はどのような反応を示していたのだろうか。「訓練場で私たちが食べた食料の残飯を、たくさんの貧しい沖縄人(Okinawans)が来て、拾っていました。十分な食べ物がなく、それほど貧しい状態にあるのを見るのは辛いことでした。人々のそんな様子を見ると、私はある種、感情的になってしまったのを覚えています。」本土で起きていたような核兵器への反対運動がなかったかと聞くと、ミカリアンは、「全くありませんでした」と即答した。

「沖縄人は、我々の訓練の内容など知らなかったと思います。彼らは我々が軍隊だという事は分かっていたでしょうが、核兵器を持っていたことなど知るよしもなかったでしょう。当時、沖縄の人々は高等な教育は受けていませんでした。彼らの多くは貧しい農民だったのです。日本人には教育を受けた人がたくさんいました。彼らには何が起こっているのか分かっていました。だけど人は農業に従事していると、他の物事に追いついていかないのです」

ミカリアンは、Okinawans(沖縄人)という言葉を使い、Japanese(日本人)と区別した。貧しく教育レベルも低い沖縄は、日本本土と違い、核の訓練に何の遠慮もいらない場所だ――。こうした意識は、区別というより「差別」と言った方が適当かもしれない。別の文脈でミカリアンは、当時米軍の中にあった黒人差別について語った。(中略)それに比べると、「沖縄人」について語るミカリアンの言葉はあっけらかんとしたもので、何の躊躇もなかった。差別は、それを差別と意識していないからこそ起きるものなのだろう。そしてアメリカ軍の中にあるこうした無意識の差別こそが、沖縄への基地と核の集中をもたらしたのかもしれない(101~102頁)。

アメリカと日本の沖縄に対する複合的差別が沖縄における基地と核の集中の根底にある。

佐藤優 現実主義的外交と沖縄差別――松岡哲平『沖縄と核』 |レビュー

 

基地建設と軍作業

生きるための軍作業。

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米空軍: Okinawan women working for Island Command Engineer Depot. They were under the charge of the military government, bossed by Puerto Rican soldiers, and received 30 cents a day plus two hot meals and one can of ”C” rations. Okinawa.

島司令部工兵隊で働く沖縄の女性たち。彼女らは軍政府管理のもとプエルト・リコ兵をボスに持ち、毎日30セントの給料に、2回の温かい食事とCレーション(軍用食)を受け取る。沖縄。1945年8月6日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※ 写真には「毎日30セントの給料」「2回の温かい食事」とあるが、実際は民間人収容所に強制収容されており無貨幣時代である。民間人が工兵隊の食堂を使用することはない。

沖縄本島上陸と同時に軍政を敷いた米軍は、金融機関を閉鎖し一切の金銭禁止した。このため、収容所内の軍作業の報酬は現金ではなく食料や衣料品、材木など現物で支給されている。

琉球新聞「沖縄戦新聞 1945年9月7日」(2005年) pdf

 

第32軍の敗残兵

屋嘉収容所 - 米兵との対話

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軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。(1945年 8月 6-7日撮影)

Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

8月になった。内地ではそろそろお盆の季節である。…ときどきドロドロという対空砲火が響き、上空にはサーチライトで捕えられた味方特攻機の機体が見え隠れした。いまだ戦闘を続けているにちがいない戦友たちの身の上に思いを馳せていた深夜、ジョー…が私の幕舎を訪ねて来た。ジョーは

「戦争は間もなく終わるでしょう。終わったら1年以内にあなたたちは日本に帰れます。日本ではキャラメル爆弾が研究されていたそうですが、アメリカの方が先に完成しました。アメリカはこの爆弾を広島に落として全市を破壊しました。広島にはあと60年間、草も生えないでしょう」

私たちはそれを聞いて慄然とした。そんな爆弾が東京や大阪に次々に落とされたら、日本はどうなるか。私たちの不安をよそにジョーが続けた。

日本人の私がアメリカ軍にいるのを、あなたたちはケシカランと思うでしょうが、私たちの考えはちがいます。この戦争は一日も早く終わらせた方が、日本人みんなのしあわせになるのです。日本では零戦のことをカミカゼといっています。戦争に一番大切な人間を自殺させるなんて、こんなバカなことはありません。このアメリカの本を見てください。バカと書いてあるでしょう」

示された雑誌タイムに、火を噴きながら墜落する特攻機の写真に添えて〝BAKA〟という字が印刷されていた。

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 195-196頁より》

※ Baka bomb: 桜花のこと

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軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。1945年 8月 6-7日撮影

Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

石川収容所

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域 

石川収容所は米軍の収容所運営の中心であり、モデル地区として格好の撮影場所でもあった。前日8月7日に引き続き、撮影隊が石川収容所を撮影した。

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Food (beans) being rationed to civilian natives of Ishikawa, Ryukyu Islands. Old type balance scales are used.

地元民への食料(豆類)の配給。沖縄本島の石川にて。配給には、旧式の天秤棒が使われている。(1945年 8月 6-7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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現地の方法でご飯を作る民間人。沖縄本島の石川にて。(1945年 8月 6-7日撮影)

Japanese making rice the Okinawan way at Ishikawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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軍政府病院の外観。沖縄本島の石川にて。屋外にいる患者。(1945年 8月 6-7日撮影)

Exterior of a Military Government hospital at Ishikawa, Ryukyu Islands. Patients out of doors.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ATROCITIES (残虐行為)

聖書と新型爆弾

久志・辺野古の米軍野戦病院にて

ある日の夕方、ベイツという看護兵が私のベッドに腰を下ろした。彼はCテントの係であったが、よく私のところへ顔を出した。そのベイツから「君は広島を知っているか」と聞かれた。「知っている」と答えると、彼は「そこへ爆弾が落とされたが、半径7.5マイル内のものすべてが死滅する新型爆弾だ」と言った。

原爆を知らない私は、まるでよそ事のように〝原爆〟投下のニュースを聞いていた。

ベイツについて忘れられないことがある。彼は全患者に新約聖書を配った。もちろん日本語版である。彼は言った。「アメリカからのプレゼント」であると---。それから、彼は、ライフ誌を持ってきてくれた。アウシュビッツの写真は、私たちに衝撃を与えた。』(114-115頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 114-115頁より》 

5月7日発売米誌、『LIFE』のカメラマンは、連合軍のベルゼンのユダヤ強制収容所の占領に同行し、ドイツ軍の残虐なホロコーストの現状を生々しく伝えている。

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May 7, 1945, LIFE Magazine: Atrocities

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ATROCITIES: CAPTURE OF THE GERMAN CONCENTRATION CAMPS PILES UP EVIDENCE OF BARBARISM THAT REACHES THE LOW POINT OF HUMAN DEGRADATION

残虐行為:ドイツの強制収容所における蛮行の数々は、人類の劣化が底辺に達したことを証明する

【閲覧注意】ライフ誌特集「Atrocities (残虐行為)」1945年5月7日号 ~ ホロコースト - Battle of Okinawa

一方で、8月20日の『ライフ誌』ヒロシマナガサキ特集は、勝利のシンボルとしての巨大なきのこ雲や空中写真を掲載しながら、その下で展開している恐ろしい残虐行為の写真を掲載してはいない。1947年9月のライフ誌の記事は平和式典を祝典として記述している。

最初の原子爆弾が街を壊滅させてから2年が経過した8月6日、日本の広島の人々は追悼するために集まりましたが、さらに驚くべきことに、同時に祝うためにも集まりました。広島が新世界の平和のメッカを宣言し、カーニバルを開催したとのニュースが世界を驚愕させた。人々は長寿の象徴であるクスノキを植え、祈りを捧げました。しかしその後、彼らは街をパレードし、演説を聞き、楽しんだ。広島は死から立ち上がったかに見えた。人々は自分たちの街を再び地図に載せようとしていた。その精神は、1800 年代後半の米国の新興都市の精神そのもの (ブログ註・南北戦争後のリコンストラクション時代と比較している) でした。彼らのモットーは、「私たちを見て、戦争はやめよう」です。

Hiroshima: Photos of Survivors of the World's First Atomic Attack

日本の文部科学省は歴史教科書で沖縄の「集団自決」から日本軍の関与を示す記述を削除する。それと同様にアメリカが原爆というジェノサイドに向きあうのは難しいようであるが、当事者にとってそれがどれだけ真実をゆがめたものであり耐えることができないほど屈辱的なものでありうるかは、ここからも理解できるであろう。

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広島赤十字病院の玄関前は殺到する負傷者であふれた。収容しきれない患者は屋外の日陰に寝かされて治療を待った。爆心地から1.5キロ=8月10日撮影、広島市千田町1丁目

ヒロシマ、カメラの証言:朝日新聞デジタル

 

救済から除外された沖縄の被爆

広島に疎開し、また軍需工場で働いていた沖縄県人は、沖縄の米軍統治下で「被爆者健康手帳」の適用が遅れ、1967年になってやっと交付が始まった。

57年施行の旧原爆医療法で被爆者健康手帳の交付が始まったが、沖縄は当初適用されなかった。沖縄の被爆者が明らかになったのは63年、石垣島の女性が名乗り出たことがきっかけ。67年、手帳交付が始まった。この頃までに30人余りが「難病」とされて、亡くなったという。2012年7月時点の手帳所持者は208人

(2012-08-02 朝日新聞 朝刊 3社会)

沖縄の被爆者として声をあげる

米軍が広島に原子爆弾を投下する約1年前、沖縄に住んでいたある一家は、広島に疎開していた。

…戦火が迫り来る沖縄から44年夏、息子と娘を連れて夫の郷里である広島へ疎開した。だが夫は年末に病死し、航空機製作工場に職を得て暮らしを支えた。爆心地から約1.75キロ。45年8月6日、(母親)は元安川に架かる南大橋で左半身を焼かれた。女学院高女1年だった(娘)は発熱のため吉島町(現中区)の自宅にいた。自力で何とかたどり着いた母を懸命に看護し、(息子)は…橋も流れ落ちたデルタを結ぶ渡し船で働くなどした。

親子がわずかな所持金を携え、地上戦で変わり果てた郷里に引き揚げたのは翌年秋。再会できた祖母と沖縄本島中部の石川市(現うるま市)に落ち着いた。(母親)は左耳から首筋にかけてケロイドがひどく、人の目を避けていたが意を決して市役所に勤め、遺児2人を東京の大学へ送った。

そして、本土から置き去りにされていた被爆者として声を上げるようになる。59年に起きた米軍ジェット機墜落事故を目撃したからでもあった。自宅と隣接する宮森小に墜落して死者17人、負傷者210人が出た惨事。操縦士は脱出していた。

…「一瞬のうちに大火災となったのを見て、広島でのことが思い出され / 基地あるために起きる私たちの被害は、いつまで続くのでしょうか」。(母親)が「宮城秀子」の名で寄せた「沖縄の被爆者」の一節である。県原水協理事長…が聴き取った証言66編からなる。被爆協が81年に刊行した。

広島・長崎から沖縄に戻った被爆者は、援護から切り捨てられた。原爆医療法が1957年に制定されても、政府は「適用されない」と除外した。戦後日本に主権を回復させた対日講和条約は一方で、沖縄を米軍の施政権下に置くことを認めていたからだ。 この扱いに対して65年、(母親)ら沖縄在住の5人が法の適用を求めて東京地裁に提訴した。本土が東京オリンピックに沸いた前年、(母親)は、現在の沖縄県原爆被爆者協議会被爆協)の発足に参加し、地元での原水爆禁止集会で初めて体験を証言していた。

…(母親)の提訴から政府は67年、原爆医療法の準用を始める。72年沖縄返還でようやく法が全面適用されるようになった。だが、「被爆者だと分かると仕事に就けなかったり、訴えは反米運動だとみられたりした」

…(娘)も記憶を押し込めて、米軍基地や司令部などで働いた経験を持つ。原爆と向き合うようになったのは93年。広島市の平和記念式典に沖縄県遺族代表として参列し、母校を訪ねた。建物疎開作業に出るなどして犠牲となった同級生141人の名前を刻む碑に手を合わせた。

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <8> 「沖縄の被爆者」 1981年刊 援護 置き去りだった | ヒロシマ平和メディアセンター

被爆による原爆病と被爆者への差別、そして米軍占領に苦しむ戦後。

雛さんらは知人を探しに爆心地近くに入った。「地獄のような恐ろしい」光景が目に飛び込んできた。熱線で焼けただれた人、体中にガラスが刺さった人、顔や唇が腫れ上がった人が「道という道」にいた。病院の廊下はけが人であふれていた。「助けて」「水ちょうだい」の声が飛ぶ。やけどの傷口からは、ウジ虫がわいていた。手当てを頼まれた雛さんは、ピンセットでウジを取り、肌の皮を剝いだ。毎日、何十人と亡くなっていく。雛さんらは運動場に穴を掘り、遺体を火葬した。焼いた骨を粉にし、やけどの患者に塗った。「泣きながら、神も仏も無いのかと思った」

 広島市によると、45年12月末までに、約14万人が原爆で亡くなったと推計される。雛さんはけがもなかったが、被爆から約1年後、奄美大島出身の父の体に異変があった。どんどんやせ細り、「痛い、痛い」と苦しみながら亡くなった。享年46。放射線の影響とされる白血病だった。

残された一家は50年、親類を頼って沖縄へ。雛さんは米軍基地内や飲食店で73歳まで働き、母と一人娘を養った。その間、周囲に被爆体験を語ることはなかった。「原爆症がうつる」との流言があり、被爆者への差別が存在したからだ。結婚を控えた娘からは「彼の両親には言わないで」と念を押された。「自分はどうして生まれてきたのか」と思ったことも、一度や二度ではない。

10年ほど前、初めて公に被爆体験を語った。それから毎年、学校や公民館に呼ばれ、「戦争のない国に」と訴えてきた。しかし今年は体調不良に悩まされ、初めて断った。がんの手術も経験している。被爆から73年。「怖くて震えた」光景が今も夢に現れ、うなされることがある。「原爆ほど恐ろしいものはない。生き残っても、ずっと(原爆症の)不安が続く。今度、核兵器が使われたら…」。想像が現実とならないよう、願い、祈っている。

原爆の地獄もう二度と 「私たちで最後に」 広島で被爆 雛世志子さん=沖縄市 - 琉球新報

 

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沖縄の今日

1948年8月6日 『伊江島米軍弾薬輸送船LCT 爆発事故』