〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月1日 『生きるためには』

 

第32軍の敗残兵

恩納岳: 第4遊撃隊 (第二護郷隊)

8月に入ると、谷茶部落のあとの左右にひらけた山裾の田圃には、地元の住民たちが戦いのさなかに月あかりをたよりに植えたのであろう、ところどころに米がみのりはじめた

この「米」は敗残兵たちにとって、万金にも値するとうといものとなった。月夜の田圃には、どこからともなく敗残兵が現れて、せっせと穂をつむ風景がみられた。

この穂をつむ兵隊たち数名は「石部隊」の生き残りだそうだが、ほとんどの者が負傷していて、片腕を首から吊っていて穂をつむ姿は痛ましかった。この兵隊たちから私は「ドイツの屈伏」もきいた。みんな「ドイツはここまでよく戦ったなあ」と嘆声をもらした。

収穫した籾は避難民が山に残していった石臼(月の世界の兎が餅をつくような可愛いいもの)が役立った。2枚重ねてある石臼の上部に小さな穴が開けてあって、そこから籾米を入れて、柄のついているハンドルを、片手でグルグル臼を廻すと、すり合わされた籾米の中から、一度に半分くらいの殻が剥げた白い玄米が獲れた。みんなこの発明に歓声をあげた。

昼は敵の掃討戦を警戒してジッとしている私たちに、そのひいた籾米をみんなで1粒1粒より分けてすごしていると、フシギに緊張感を解きほぐしてくれるようであった。私はフト故郷のことを想った。

籾米は長期持久に備えてせっせと貯えた。山小屋の中は少し勾配になっていたので、夜は貯蔵用の籾米を低くなっている足元の方に積んで眠ったが、ネズミがこの籾米をねらって群がり、集まってくるのには往生した。

夕方からの活動のとき、食糧を求めて月の浜といわれる海岸地帯を仲泊の方まで、トボトボ歩いていって、忽然と米軍幕舎が建並んでいるところにゆき当たり、拳銃でパーンと射たれて驚いて逃げ帰ったことがあった。』(251-252頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 251-252頁より》

  

沖縄県立工業学校の学徒隊 - 戦死者率95%の学徒動員

沖縄県立工業高校では、校長が御真影奉護隊として天皇の写真を戦火から守ろうと懸命になっているとき、生徒97名教師7名のうち、生徒88名が戦死。実に動員された学徒の95%が犠牲になった。

6月23日未明、生き残った兵や学徒隊全員に切り込みの命令が下った。長嶺さんらの話をまとめると、切り込みは砲兵司令部壕と無線班壕の2カ所で、ほぼ同時刻ごろ行われている。最後の食事があり、隊長訓話があった。「母国のために散って鬼となって祖国を守れ。三途の川でまた会おう」。無線班壕では、窪中尉がこう訓示した。おし殺した声が、低く響き、異様に緊張した空気が壕内を包んだ。「正直言って、そのころは、みんな相当衰弱しきってました」と司令部壕にいた石川さん。手りゅう弾が二つ配られた。攻撃用だが、もし捕虜として捕らわれた時の自決用でもあった。

 はち巻きをしている者、軍刀をかざす者、30人ほどが、照明弾で真昼のような道をほ腹前進した。照明弾が切れると、辺りは暗やみとなる。途中で仲間とはぐれる者もいた。長嶺さんもその一人。「壕に戻ると、残っていた兵が出るところだったので、今度はこの兵たちについて出て行きました」。その壕から、石川さんも出た。「私たちが最後のほう。和田部隊長も一緒に出たが、途中ではぐれてしまいました」と言う。

 目と鼻の先ほどの敵陣地近くに着いたのは、朝だった。長嶺さんが話を続ける。「大きな岩穴に集結しました。英語が聞こえるほど近かった。私は『いよいよだな』と思って気構えていたのですが、1人の兵が衛生伍長に何か告げた途端、ピストルを自分のこめかみに向け発射、自決。その音で穴は米軍の集中攻撃を浴びました」

 穴の中は大混乱。「天皇陛下万歳」と叫ぶ人や、自決する人が出て騒然となった。生き残った者は海岸へと向かった。崖を夢中で下り、岩陰に身をひそめた。6人いた。

 しばらくすると、敵陣地から「センソウハオワッタ」とのアナウンスが流れた。23日夜、残った者で北部に突破しようと海岸沿いを進んだ。与座の壕で8月までいたという。

沖縄県立工業学校の学徒隊 - 戦死者率95%の学徒動員 - Battle of Okinawa

 

沖縄師範学校: 師範鉄血勤皇隊の学徒

学徒兵であればいくら少年でも日本兵と同じように扱われ、ハワイやテキサスの捕虜収容所にまで送られた。しかし中には厳しい訊問をかわし民間人の収容所に潜りこむことができた少年たちもいた。

師範学校本科2年 (14歳) から鉄血勤皇隊に編成された平仲孝栄さん証言

具志頭の港川に集められた捕虜たちは、そこで米軍の取り調べを受けた。尋問に当たったのは2世の通訳で、平仲孝栄さんにも戦闘に加わったのかどうかを確認した。最初、現役兵ではないかと疑われたが、キッパリと否定。すると今度は鉄血勤皇隊だったんだな」と厳しい追及が続く。ドキッとした平仲さんだったが、とっさに次のように答えた。

「確かに私は師範学校の学生です。でも長いこと病気で休んでいて鉄血勤皇隊には編入されていません。戦争が始まってからはいくぶん体が良くなったので炊事の手伝いくらいはしなければと思い、近くの部隊に加勢に行ったことはありますが…」平仲さんは思いつくままデマかせを並べ、鉄血勤皇隊ということを強く否定した。通訳は「ウソをつくと銃殺されるぞ」と盛んに念を押したが、かたくなな平仲さんの態度に根負け。結局、参戦した兵隊たちとは別に振り分け、民間人のグループに入れた。

捕虜になった翌日、玉城村の百名まで連行されてきた数十人の民間人は、そこで流れ解散のような形でバラバラになった。平仲さんは住む家を求めて歩き回り、知念の山里地区までやって来た時にバッタリ知人に出会った。その人のやっかいになることになり、地アックに雨露がしのげるほどの小屋を建て、住み付いた。

「山里にやって来た当時の思い出と言えば、軍作業の死体片付けですね。具志頭まで駆り出され、一帯に散乱している日本兵の死体をくぼ地に集めて石ころをかぶせるんです。弾痕が生々しくて忘れられませんよ」

この作業はとても耐えられず、一遍で嫌になったという。作業中、せっけんがなくなってしまうという出来事があり、米兵から泥棒呼ばわりされて、一層腹が立ち、作業に出ることを拒否している。

そんなことがあってからは、何の目標もなく、ただ漫然と過ごす日々が続いた。干しブドウにイースト菌を混ぜて発酵させた“ドブ酒”だけが楽しみになり、いつも暁になるとホロ酔い状態。「酔ってみじめな気持ちをまぎらせていた」という。

怠惰な生活に明け暮れていたころ、隣近所で親しくしていた山里区長の嶺井藤正さんが「小学校を始めるので先生をやらないか」と夢のような話を持ち掛けてきた。降ってわいたような話に平仲さんは飛び上がらんばかりの喜びよう。「元はと言えば教員志望だったんですから断る理由がない。知念市役所に呼ばれて当時の親川市長から辞令をもらった時はうれしさで震えたものです」

 昭和20年7月21日、平仲さんらを教員に迎えて山里初等学校が開校した。校舎といえば、空き屋敷に米軍の野戦用テントを張っただけ。教科書はもちろん、ノートや鉛筆さえなかったが、そこには「希望」があった。50人の子どもたちの「未来」と「夢」があふれていた。平仲さんの担当は国語と算数。「知っていることのすべてを子どもたちに授けてやりたいと夢中でした」。休み時間には米軍おさがりのバレーボールで大いにはしゃいだ。「あの時の無邪気な子どもたちの姿は永遠に忘れられない」と平仲さん。「私たちが受けた“人殺しの教育”をこの子らには教えていけないと肝に銘じ、以来40年も教師を続けています」と話していた。

沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊切り込み兵 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

やんばる避難民の飢餓

避難民の日誌より: 8月1日

風雨が強く台風になりそうな天気。食用にするためパパヤの木を倒し、根の部分を掘り取る。芋カズラとソテツの水たきが毎日の食事だが、ソテツもなくなりそうなのでパパヤの根に目をつけたのだ。栄養不足は極度にすすみ、下り坂では膝坊主がガクガクして思うように歩かれない。腹一杯食べられるのは何時の日か。』(480-481頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時 戦後体験記/戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 480-481頁より抜粋》

 

新しい教科書作り「アオイソラ ヒロイウミ」

1945年8月1日、アメリカ海軍政府のウィラード・ハンナ少佐が中心となり、石川市東恩納の軍政府内に初の沖縄教科書編集所が設置された。沖縄県師範学校女子部ひめゆり学徒隊を引率した教師で後の琉球語言語学者仲宗根政善らが新しいガリ版刷りの教科書に取り組んだ。仲宗根は、初等学校一年生「ヨミカタ」の最初のページに「アヲイ ソラ ヒロイ ウミ」と記した。

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アメリカ軍は日本の軍国主義などの思想を排除するため、子どもたち向けの沖縄独自の教科書を作る編集所を軍政本部内に設置します。沖縄戦のさなか、すでに中北部にはアメリカ軍が収容所内に学校を開設。学校には子どもたちの元気な声が戻り、授業が行われていましたが、教科書などは戦火で消失、教材も不足してました。

アメリカ軍は沖縄独自の教科書を編集するため、8月1日に石川の東恩納に沖縄教科書編集所を設置します。「沖縄の戦後教育史」によると「国語」という表現は使わず「読方」にするよう注意されたり、原稿はすべて英文に翻訳された上、軍国主義的な表現は一切許可されないなど厳重な検閲の下で作られたのです。

うるま市の石川資料館には、当時編集所で作られた教科書や教材が並び、アメリカ軍が日本の軍国主義的な教育からの脱却を目指したことが伺えます。

65年前のきょうは1945年8月2日(木) – QAB NEWS Headline

仲宗根は、牛島満司令官が自決した1945年6月23日に米軍の捕虜となって、沖縄本島北部の宜野座村松田にあった古知屋の収容所に移動させられる。そこにいる時、米軍政府の教育係将校ハンナ大尉が山城篤男(県立二中校長、現在の那覇高校一筆者注)を迎えに来て、当時最大の収容所があった石川に連れていかれた。その後、「山城さんから『君も石川に来い、教科書の編修をしたいから』と言われたんです。しかし、ぼくは負傷してもいたし、とても再び教育にたずさわる気にはなれませんでした。南風原陸軍病院撤退のとき重傷患者といっしょに壕に残して来た生徒が、米兵に救助されて宜野座の病院に連れて来られて、オフ・リミッツ(禁止区域)をくぐりぬけて見舞って来た直後でしたから......。ただ妻子がどこにいるのか、まだわからなかったものですから、ひょっとしたら石川へ行けば、妻子の消息はわかるかもしれないと思って、石川の山城さんのテント小屋に行ったわけです」仲宗根政善「米軍占領下の教育裏面史」(『新沖縄文学44号』沖縄タイムス、1980年 158頁)。教科書の編修に意欲が湧かなかった仲宗根であったが、目の前に、ある光景、が飛び込んできた。この光景こそが仲宗根に教科書編修への参加を決意させた。......石川の街頭をうろついている学童を見ると、スパスパ、タバコをすっているんです。レーション(米軍の野戦食)の中に入っているやつをすっているんですね。人々の服装も男か女かほとんど見分けもつかない。アメリ力さんの洋服をつけたり、つぎはぎのよれよれの服をまとって、夢遊病者のようにうろつきまわっている。はだしの者も多い。いちばんショックだったのは、チリ捨場にたかっている学童の群れを見たときでした … (仲宗根政善 p. 158) 。 

《川平成雄「収容所の中の住民と生活の息吹」(2008) 琉球大学経済研究(76)》

 

軍作業

沖縄本島北部での軍作業

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労働班を編成する現地住民(1945年8月1日撮影)

Okinawan natives make up a Labor Bn.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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労働班を編成する現地住民(1945年8月1日撮影)

Okinawan natives make up a Labor Bn.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawan natives make up a Labor Bn.

労働班を編成する現地住民 安田 1945年 8月 1日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

Photograph No.SC-370925 “In order to carry rations and supplies to men of the 27th Div mopping-up in the mountains of northern Okinawa, the 105th Inf Rect, under the command of Col Walter S Winn, formed two companies composed of native Okinawans supplied and paid by the military government.” 1 Aug 1945. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD. 

軍作業における男性陣の労働力は非常に限られたものでしたが、建築作業の他に、物資の運搬などに従事する男性住民もいました。上の写真には、沖縄北部の山岳地帯に残っているアメリカ陸軍第27歩兵師団の為に、食料などの配給物資を背負って運ぶ沖縄住民の姿が写っています。この写真が撮られたのは8月1日ですので、沖縄本土での激戦こそ終わってはいますが、体力的にとてもきつく、また危険を伴う労働であることは想像できます。

沖縄戦下の住民による「軍作業」 - Nichimy Corporation U.S. Office ニチマイ米国事務所

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労働班を編成する現地住民(1945年8月1日撮影)

Okinawan natives make up a Labor Bn.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄本島南部での軍作業

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《AIによるカラー処理》那覇の地元の作業員が、アース線を埋設するための溝を掘っている様子。(1945年8月1日撮影)

Native laborers at Naha, Okinawa, Ryukyu Islands, digging trenches, where ground wire will be laid.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》那覇の補給地区で働かされている地元の作業員。(1945年8月1日撮影)

Native labor being used at supply areas, Naha, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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その時、本土では

予告された空襲、困窮する生活 1945年8月1日はこんな日だった | ハフポスト