〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月12日 『古知屋収容所』

「国体護持」とは熱田とバックナービル古知屋収容所

米軍の動向

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Consolidated B-32s that had newly arrived from Luzon, P.I. on Yontan Strip. Shown is a B-32 being refueled shortly after arrival. Two of these planes while on a photo reconnaissance over Japan were attacked after Jap peace rumor. Both planes were badly damaged but not casualties. These were the first planes used in a long range mission. Okinawa.

フィリピン諸島ルソン島から読谷飛行場に着いたばかりのコンソリデーテッドB-32の給油の様子。この2機は日本が降伏したといううわさを聞いた後、日本上空で写真偵察中に攻撃を受けた。2機ともひどくやられたが犠牲者はなかった。これらは長距離の任務に使用された最初の2機であった。(1945年8月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦利品。

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2nd Lt. Lloyd Mandeline, left, Sacramento, Calif., of the 3925th Signal Photo Service Company, and 1st Lt. Herman E. Moecker, Albany, New York, Aide to General Bradford, 27th Division Executive Officer, are playing a game of ”go”. This is a Japanese game and several sets have been found during the mop up of Northern Okinawa by the 27th Division.

碁に興じる第3925通信写真中隊のマンデリン少尉と第27師団副団長であるブラッドフォード将軍の補佐を務めるモーカー中尉。碁は日本の遊戯で第27師団による沖縄本島北部掃討作戦の際にはいくつかの碁の道具が見つけられた。(1945年8月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 第21海軍建設大隊

沖縄戦では、数多くの米海軍建設大隊 (シービーズ) が基地建設に関わった。一方、戦場を生きのびた住民は劣悪な環境の北東部の収容所に移送され、伊江島、本部半島、中部や南部での基地建設が加速された。

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21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 75 》

沖縄で務めた建設大隊の一つ、第21海軍建設大隊は、熱田キャンプ (北中城村熱田) からバックナービル (南城市馬天港) へと拠点を移した。

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Military Government moved homeless Okinawans to civilian camps

軍政府が家を失った沖縄人を民間人収容所に移動させる。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 104 》

熱田キャンプ

【和訳】(上陸後) 店を構え、熱田村の廃墟を片付け、多くの建物を倒し、一部を改修して利用し始めました。戦利品はいたるところにあった。(78頁)

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【写真左】熱田キャンプ: 高台のテントから、キャンプは木で覆われた熱田村の廃墟のほうへとのびている。ハイウエイ13号と田んぼ、そして右側遠方に勝連半島が見える。【写真右】もう一軒の民家は武器庫となっている。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 97. 》

【和訳】沖縄戦が進むにつれ、住民の村や農場が破壊され、40万人の多くが家を失った。軍政は避難民が数少ない所有物を拾い集め、民間人収容所に移動させるのを監督した。私たちは6月に民間人グループを集め私たちの建設を手助けさせた。彼らの粗野で奇妙な外観は好奇心をそそった。彼らは背が低く、質素で親密だった。私たちは多くの手真似や多くの指さしで立ち止まって会話することができた。私たちのタバコと衣類は、先住民のお金、皿、帽子と引き換えに使われた。女性と少女の何人かは調理場の周りで働き、あたりを清掃​​した。男性と少年は多くの肉体労働を手伝った。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 104. 》

馬天港のバックナービル

ますます我々の仕事の多くがバックナー湾の南端に集中し、戦闘が終わったこともあり、我々の恒久的なキャンプが馬天港を見下ろす高さ400フィートの高原のなだらかな頂上に選ばれた。7月の後半から8月の前半にかけて、多くの場合雨や泥の中を通り、隊員はゆっくりと南に移動した。この移動は、我々の最もプライオリティーの高い桟橋建設に支障をきたすことはなかった。我々の基地は53エーカーに広がっていた。私たちのキャンプの西側には第86大隊があり、東側には第9大隊。その他のシービーの装備一式がその高原地帯に拡がっており、連隊や旅団、後に海軍建設部隊司令部などがあった。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 137. 》

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【和訳】西向きで。テントは丘陵地と平地を覆うようにテントが並ぶ。向こう側に第86大隊のテントが整然と並んでおり、CNCT (海軍建設大隊司令部) のキャンプは右遠方のコンセットの建屋のなかにある。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 138. 》

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南向き、野外映画館とハイウエイ137とメイン道路で仕切られた三角地帯に、メンテナンスとサービスショップが立ち並んでいる。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 137. 》

建設大隊はどのように沖縄人を見ていたのか。

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【和訳】彼らは日本人に多くの点で似ているはずでしたが、私たちは先住民とほとんど問題がありませんでした。彼らはキャンプの周りのあらゆるものを探す優れたスカベンジャーでしたが、最初に丁寧に尋ねずして物をとるなんてことはめったにありませんでした。彼らは非常にゆっくりと働きました、しかし彼らの班長は彼らをどんな仕事でも彼らを従わせ続けました。

彼らは浅黒く小さかったが、重い物を持ち上げて運ぶ際の彼らの強さは驚かされました。彼らの多くは洞窟に隠れていた日本兵を助けていたかもしれませんが、多くは彼らがジャップを嫌っていることを示し、多くはアメリカ人について学ぶことに大きな関心を示しました。概していえば、我々には沖縄の人々を理解する時間も機会もありませんでした。…

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 119. 》

今度は日本軍にではなく、米軍に監視される時代。

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非協力的な住民が (左中央) 軍政府による公正な裁判をうけている。彼の刑罰は、彼の初期のよい記録により保留された。
21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 120. 》

第21海軍建設大隊は、ハイウエイ13 (美里~糸満の東岸) とハイウエイ44 (那覇~知念岬)、津堅島、熱田キャンプ、馬天キャンプ、セクションA桟橋 (勝連半島)、久場崎桟橋、与那原桟橋、馬天港桟橋、知名崎桟橋の建設をおこなった。しかし、9月と10月の台風が多くの施設を破壊した。

【和訳】地元住民が台風について話してくれた話を信じていなかった。 9月の台風がくるまでは我々は納得できなかった。そして10月9日の台風が私たちに眼にものを見せてくれた。 「20年で最悪の台風」と言う人も多かった。 「米国海軍と海軍任務がこれまでにこうむった最大の災害のひとつ」ともいわれた。

21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 174. 》

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 21st NCB Cruisebook 1944-1945, p. 175. 》

 

日本軍の動向

「国体護持」とは

8月10日、御前会議で昭和天皇は「天皇の国法上の地位を変更しない」旨をポツダム宣言受諾の条件とした。ポツダム宣言受諾の知らせは世界を駆けめぐったが、日本の国民にはいまだ伏せられ、特攻も次々と出撃していた。

新聞社もすでに昭和天皇ポツダム宣言受諾の方針は、情報として入手していた。前日、「国体護持」を求める談話と「徹底抗戦」を呼びかける訓示が並んで掲載されたのを受け、「国体護持」の談話をより強調する狙いがあったとみられる。

【戦後70年】新聞から影を潜めた「本土決戦」 1945年8月12日はこんな日だった | ハフポスト

事態は正に最後の関頭というべく、国体を護持し、民族の名誉を保持し得るか否かの最後の一線に立ち至っているのである。この段階に於いて軍官民すべての日本国民に要請されるのは、我々の祖先がそうであった如く、あくまで冷静に現実を直視し、事に処してはあくまで果断、そして陛下の赤子たる本文に生きることである。(中略)この点さえ全たければ、たとい今後如何なる困難が更に加わろうとも、日本民族として最も根本的なるものは微動だにしないであろう。

朝日新聞(東京本社版)1945年8月12日》

 

先島諸島の学徒隊

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八重農鉄血勤皇隊・八重山中鉄血勤皇隊 状況1 滑走路の整備、えんたい壕やタコ壺壕掘り - YouTube

沖縄本島では組織的な戦闘が終わって2ヶ月近く過ぎたこの頃、八重山諸島ではまだ戦闘に備えている学徒隊がいました。

八重山では1945年3月に県立八重山農学校、八重山中学校、八重山高等女学校の生徒達が学徒動員され、独立混成第45旅団と行動を共にしていました。

空襲が激しくなった6月には住民だけでなく、軍も山岳地の白水へ移動。さらに7月上旬には於茂登岳の奥深くへ移動します。そして、65年前のきょう8月12日、動員された生徒達に自宅に帰って待機するよう命令が下されます。

当時16才だった榎本さんは体験記にこう記しています。

「かくて8月12日、ついに私達の鉄血勤皇隊は当分の間、自家に帰って待機するよう命令が下った。喜び勇んで父母の元に帰ったものの、しかし、その『待機』とも敗戦の言葉を聞く待機となったとは、当時知るよしもなかった。」当時・県立八重山中学3年16歳 榎本博武さん~石垣市市史編集室「市民の戦時・戦後体験記第一集」より~

65年前のきょうは1945年8月12日(日) – QAB NEWS Headline

 

そのとき、住民は・・・

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This native vehicle is drawn by horse harnessed with native type of harness, since replaced with more humane type.

地元の馬具を使った馬に引かれた馬車。その後は苦痛を与えない馬具に取り替えられた。(1945年8月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

古知屋収容所

米軍は伊江島、本部半島、中南部での基地建設のため、多くの住民を劣悪な管理状況にある北東部の収容所に移送した。宜野座村松田周辺にあった古知屋収容所もそのひとつである。

金武町古知屋 (松田)

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第2章 米軍は読谷を目指した - 沖縄戦デジタルアーカイブ「戦世からぬ伝言」 | 沖縄タイムス

古知屋山原は、なんにもなかった。こんな(小さな)木がいっぱい生えて、私の兄も一緒に刈って、テント立てて、テントの下に茅を敷いて、そこで寝泊りしました。お汁を作るために(塩を作ろうと)海に潮汲みに、私も行かされた。1斗缶を頭に乗せて、半分はこぼれて、海水をかぶっても、着替える着物はなかった。母に褒められた。「親孝行だね、ありがとう」って。母がみんなに塩を作った。塩の汁を食べさせた。

007 S 南部避難:金城キク(宜保) - YouTube

8月の初旬、久志村に近い古知屋開墾に移動させられましたがそこでは主人もいっしょでした。小さい掘立小屋に親子3人住むようになりましたが、主人は寝たきりの毎日でした。…病気のうえに栄養失調の主人は骨と皮だけになり、8月12日、寝たまま消えるようになくなりました。私は息子と2人きりになりました。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 166頁より》

夜中のことで、痛いとも苦しいともなんの知らせもなく、一言の遺言ものこさずにローソクの火が自然に燃えつきるように死んでいきました。27歳の若さでした。

死因は栄養失調だとしか考えられません。もともと結核に予後で自宅療養中だったのが、戦争にまきこまれて食うや食わずで3ヵ月も戦場を逃げ回ったのですから、体力を消耗しつくしたのでしょう。せっかく弾の雨の中を生きのびてきたのにここで死ぬなんて、ほんとに悔しい気持ちがいっぱいで言葉も出ませんでした。

葬式もちゃんと出してやる余裕はありません。収容所の周囲の野原にたくさんの穴が掘ってありました。葬式班の人たちが遺骸を担架で墓地まで運んでいって、穴の中にモノでも捨てるように死体を投げ込んで赤土をかぶせるだけです。沖縄では土葬の習慣はありませんから、まるで犬か猫を始末するようなやり方でほんとに残念でなりませんでした。位牌も仏壇もありません。椎の木で墓標をたててやったのがせめてもの葬式でした。

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 163-164頁》

幼い息子は私の実母といっしょに爆撃を受けた時に肺に異常をきたしたのか絶えず真っ黒い鼻水をたらしていました。それが次第に多くなり診療所へ行っても薬はなし手術はできず、主人の四十九日忌に亡くなりました約4ヶ月にわたる逃避行をおとなと同じように歩き続け、飢えに耐え、時には爆弾の熱い破片を踏んでやけどをしたこともあったが泣きごともいわず頑張り通した4歳の生命力は、弾に当たる心配もなくなったというのに、滅んでしまったんです。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 166頁より》

このときの状況を1912(明治45)年生まれの仲間幸徳は、生々しく語る。

古知屋には、中頭(沖縄島中部)や島尻(沖縄島南部)から毎曰のように栄養失調の乳児や子供、年よりが運ばれて来ました。......彼らは運ばれて来た時から栄養失調で、目ばかりぎらぎらして、死にかけている人たちばかりでした。それで、運ばれて来てから、二、三曰したらほとんどが死んでいったのです。年よりもいましたが、一、二歳の乳児や四、五歳の子供も多かったです。戦争孤児たちで、戦争で親とはぐれたり、親をなくしたりして身寄りのない子供たちがほとんどでした。病気とか、けがをしたとかではなく、ほとんど栄養失調の子供たちで、ヤーサ死(餓死)で非常にかわいそうでした。墓地は開墾に二か所ありました。

戦後、ほとんど遺骨を掘り出してあります。米軍によって子供たちの面倒をみる保母、炊事係、院長が選ばれた。元慰安婦に育てられた孤児たちもおり、「曰本語は分からないが、子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人でとても優しかった」、という。

《「収容所の中の住民と生活の息吹」川平成雄 琉球大学経済研究(76): 1-25 (2008) 》

 

 

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米海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.
米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子。(撮影場所や日時は不明)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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