〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月4日 『戦場でひとりぼっち』

沖縄戦の孤児たち

 

米軍の動向

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《AIによるカラー処理》屋根なし観覧席に座り、服装についての講義を聴く兵士達(1945年8月4日撮影)

Men sit on the bleachers to hear a lecture on clothing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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第7海軍建設大隊による飛行艇基地の建設。(1945年8月4日撮影)

Construction of Seaplane base on Okinawa by 7th CB's. 4 Aug. 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

アメリカ軍は7月2日に「沖縄作戦の完了」を宣言したものの、しかしその後も本島各地に潜伏する敗残兵たちとの間で戦闘を続けていました。激戦地となった浦添の前田高地や最後の戦闘地島尻地区にはこの時点になっても200人あまりからなる陸軍部隊が残っており、降伏を拒否して抵抗を続けていました。

特に本島北部の山々には沖縄戦初期に八重岳を追われた陸軍宇土部隊の兵士たちが数多く潜伏。敗残兵の多くは陸軍中野学校出身でゲリラ戦闘技術にたけており、食料や武器も乏しい中で、なお戦闘を続けていました。

65年前のきょうアメリカ軍はほとんどの日本兵の掃討を終えたと判断北部地区の掃討作戦完了を宣言。しかし、その後も北部敗残兵の潜伏は続き、彼らの多くが投降に応じたのは10月初旬になってからのことです。

この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなりました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月4日(土)

 

鉄血勤皇師範隊: 沖縄師範学校男子部

6月18日、第32軍は最後の命令を出した。それは、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。

大田昌秀の体験談:

『…辛うじて志多伯の部落へ着いたのが、8月の4、5日頃。ここまで来るともう敵の後方陣地である。拡大された幅広い道路が真直ぐにどこまでも続き、トラックやジープのほか見たこともない車輌が、夜も昼もひっきりなしに通っていた。陸続と続くライトの行列は、私たちにとっては文字どおりの奇観だった。道傍の広場には弾薬が山のように積まれていた。

ある晩、思いがけなく弾痕に捨てられた敵さんの缶詰の山を見つけた。…当分この食糧を確保して、付近に潜伏して時機を待つことにした。

部落跡は特に敵の探索がひどく、ある時など木の上に登っていたら、昼頃になって米兵たちがやってきたので愕然としたこともあった。樹上で震えている私に気づかず、5名の黒人兵が、屋敷跡の水タンクを覗いたり、くずれ落ちた瓦の山を一枚一枚とりのけたりして厳重に捜索しはじめた。私はクシャミがでやしないかと気が気でなく、しがみついている手の力が抜けそうであった。』

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 200-201頁より》

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集落内の道。(1945年8月4日撮影)

Street in native village of Okinawa. 4 Aug. 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『敵が去ると、明るいのも構わず木から降りて竹藪に入った。付近の民家の防空壕にかくれるといっていた従弟のことを案じているところへ、野放しになった山羊が入ってきた。白い毛がまばゆいほど光っていた。人間を見て壊しそうにたち止まっている物いわぬ動物に、私もつい微笑ましくなり、言葉をかけてやりたい親しみを感じた。その口ひげを見ていると、近くで銃声がした。私はあわてて、シッシッと山羊を手で追いやろうとしたが、4メートルほどの距離を置いて一向に動こうとはしない。敵兵が山羊を見つけてやってきたら万事休すだと気が気でない。「こら、あっちへ行け」小石をつかんで投げてみても、言葉の通じぬ悲しさ、眠そうなその細い目で、這いつくばっているこの私を舐めるように見回すばかりだった。』(201頁)

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 201頁より》

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Goats corralled to be out of way of operations also furnish milk for civilians, principally children, in hospitals operated by Military Government, C-3, on Okinawa in Ryukyus.
 戦闘の邪魔にならないように囲いに入れられているヤギ。C-3軍政府チームが運営する病院にいる民間人(主に子ども)は、これらのヤギのミルクを与えられている。沖縄本島にて。撮影日: 1945年 5月 10日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・ 

田井等孤児院

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 Two homeless waifs taira.
2人の宿無し子。田井等にて (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Pfc. Chester J. Dziurkiewicz, member of the 27th Division Band, entertains Okinawan children in the village of Taira with some fancy rope twirling.
面白いロープのおもちゃで子供を楽しませる第27師団楽隊のジウオキウイク上等兵 田井等 (1945年6月29日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

名護市田井等地区に、沖縄戦で親と死別したり生き別れたりした子どもたちを収容する孤児院がありました。孤児院として使われた住宅は昭和初期に建てられました。50坪の母家は、この地区で最も大きな住宅で、60人あまりの子どもたちが生活していました。

名護市 戦争孤児院|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

田井等孤児院は、沖縄戦後に田井等収容所に開設された孤児院であり、コザ孤児院とともにもっとも初期段階で開設された孤児院である。沖縄において孤児院は、各収容所に設置され、養老院とともに戦後の住民救済の最前線にあった。孤児院は沖縄本島で12 ~ 13か所が設置され、養育係の女性たちは献身的に業務をこなしていた。その中に朝鮮人慰安婦」であった女性たちが従事していたことも証言などから明らかになっている。元「慰安婦」の女性たちがどのような経路で孤児院に従事し、また帰国して行ったのかはわかっていない。しかし敗戦直後の孤児院で多くの子どもたちが衰弱死する状況の中で、養育係として献身的に従事した歴史的事実は記録にとどめておくべきことである。

《浅井春夫「田井等孤児院と日本軍「慰安婦」問題 : 沖縄戦直後の各地の孤児院研究その2と戦争犠牲者の類型」2015年》

孤児院の実態について、「毎日のように山から運び込まれて来る小さい子どもたちは、にされていましたが、どの子も栄養失調でした。縁側に寝かされても翌朝までに半数は死んでいましたが、『シニイジ』と言いますが、子どもたちは汚物にまみれており、朝鮮の女の人たちダンボールに入れて埋葬していました」

《字誌編集委員会編『田井等誌』(2008)p.127]》

 

コザ孤児院

当時、沖縄には孤児院が13ヶ所あったとされ、中でも少女が連れてこられたコザ孤児院は、最も大きいものだった。戦後8年が経過して実施された調査では、沖縄本島戦争孤児になった18歳未満の子どもは、約3,000人いたことが分かったが、戦後直後は、もっと多くの孤児がいたと推定されている。

来る日も来る日も1人で逃げ続けたある日。壕の前に座り込んでいた神谷さんの前に現れたアメリカ兵がトラックに乗せ、連れて行ったのがコザ孤児院でした。当時、県内には孤児院が13ヵ所あったとされ、中でもコザ孤児院は最も大きかったといわれています。

《  琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 沖縄戦で孤児になった女性

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沖縄本島コザの医務室(1945年8月4日撮影)/ The sick bay at Koza, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

昭和高等女学校から梯梧学徒隊に動員、その後孤児院で働いた稲福マサさんの証言

着る着物、着替えもなくて裸の子どもたち。あとになって5年生見てるんですけどね。子どもたちがね、もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋を4つに区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒のマスの中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。それで、ご飯食べる前に一応、子どもたちきれいにして、あれしたんですけど。子どもたちはね毎日毎日、何名か亡くなっていくんですけど、それは庭にむしろと言うよりは、昔、ヌクグーというのがあったじゃないですか、大きいの敷いてたんです。暑いから子どもたちが部屋から出てきて、夜露に打たれるわけなんですよ。うたれて亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替える着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。そこからアメリカがですね、米軍がミルクの中にビタミン入れて、子どもに飲ましたんですけどね。ああいうことは日本人はやらないはずですよ。物の豊富なアメリカだから、それはやってると思います。

稲福 マサさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail66_img.jpg

沖縄戦の絵】「集められた小さななきがら」

『米軍の捕虜となった人々のうち、家族を亡くした大勢の子どもたちが、沖縄市に残っていた赤瓦の民家に収容された。食糧もなく赤痢が流行し毎日のように子どもや障害者が栄養失調で亡くなった。朝になると子どもの遺体があちこちに転がっていて、大きなシートに集められた。沖縄市の嘉間良周辺に穴が掘られ、1か所に葬られたようだった。』

集められた小さななきがら | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

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遊戯をする子ども。沖縄本島のコザにて。目隠し鬼ごっこをしている様子。(1945年8月4日撮影)

Children playing games at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. Blind man's buff.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》食事をする栄養不足の子ども沖縄本島のコザにて。(1945年8月4日撮影)

Undernourished children having chow at Koza, Okinawa.

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沖縄県師範学校女子部ひめゆり学徒隊津波古ヒサさん捕虜後の証言

働くことになって、私はもう働かない、早く死ななければいけない、ってそれだけしか考えてなくてあれだったんですけどね。そこで孤児がですね、たくさんの孤児、アメリカの兵隊が壕の中から拾って来てるんですよ。歩ける子どもは向こうに連れて歩けたんですが、その子どもたちはもう2人3人、2才か3才ぐらいのまる裸の子どもを、私ら学生がいるところに置いて。もう14、5人ぐらいだったんですかね、いるんですよ。本当に栄養失調で顔も膨れてるし、それからちょっとの物音でもがたがた震えてるし、もう口も開いて泣いてるはずなのに、もう声も出てない。かわいそうに、この子どもたちは、親が連れて歩いたらけがさせていけないと思って、穴の中に入れてあったのか、親がいなくなって子どもたちだけになって、かわいそうにって、みんなあれしたんですけどね。そしたらもうアメリカの兵隊が、「ベイビーたちはお話できません。ママさん来ます。助けてください」って言って頭下げるんですよ。言ってる意味は分かるけど、何をしようと思ってるのか、誰も心配だったんですよね。で、私たちが見なければということで、しばらく預かってたんですが。それから通訳の人が来てですね、「コザの方に、たくさんそういう子どもたちを集めている孤児院があるから、そこにこの子どもたちを連れて行ってくれないか」っていうことだったんです。「行きましょう」って言って、私6人トラックに乗せて、その子どもたちも一緒に行ったんですけどね。コザに行ったんですけども、本当にコザもあっちの家もこっちの家もみんな子どもばっかりでしたね。私はそのうちで一番大きなテント張りですけどね、コザ孤児院っていうところに行って、そこでみんな一緒にそこで働くことにしたんですけどね。まあ、初めのうちはもう、面倒見てあげたり遊んであげたりして。後から学校も作って、勉強も教えたりなんかしたんですけどね。そうこうするうちに自分が死ぬっていうのはすっかり忘れてしまって。そこではじめて「生きてるね」ぐらいに思ったんですね。もうそれまで死ぬことばっかりしか考えてなかったですけどね。

Q:コザの孤児院にはいっぱいいたんですか、子どもは。

はい、いましたね。200人ぐらいいたんじゃないですかね。…(中略)… もうこの子どもたちがかわいそうでね。夜になると「お母さん、お父さん」泣くもんですからね。…(中略)… 何かそんなふうなゲームを作って、抱っこしてあげて。スキンシップですよね。そんなして だけども、やっぱり夜になったら、あっちからもこっちからも、「お母さん、お母さん」て聞こえてくる。もうそれ聞いたらかわいそうになって。それがいつまでも残ってますね、今も。

津波古 ヒサさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

【戦後70年の地平から】「戦争孤児  家族を奪った沖縄戦

沖縄戦で家族を亡くし「戦争孤児」となった男性、そしてその子どもたちを世話した女性の戦中・戦後の体験について見つめます。戦渦を潜り抜けた子どもたちを待っていたのは激しい飢えと途方もない寂しさでした。

戦争孤児 家族を奪った沖縄戦 | 琉球放送

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わずか7歳の少女は、ある壕の前に座り込んでいた。そこへ米兵が現れ、トラックに乗せられた少女は、コザ孤児院に連れて行かれた

米兵に発見されるまで、少女は来る日も来る日も1人で戦場を逃げ続けた。少女は、母親と弟と一緒に南部へ向かっていたが、途中、休もうと入った壕に艦砲弾が落ち、母親と弟が目の前で死んでしまった…。

それからは戦場でひとりぼっち。どこに逃げていいのか、何を食べたらいいのか。そんなとき、誰かからカンパンを貰う。だが、口にするはずだったカンパンは、味方だと思っていた日本兵に「お前が食べたら国のためにならんから戦っている俺が食べたら国のためになる。この食べ物よこしなさい」と言われて奪われた私のものですって泣いてすがる少女を日本兵は革靴で蹴った

誰ひとり助けてくれない戦場。

少女にとっては、艦砲も人間も全てが怖かった

お母さんがいないから助けてください、泣きませんから助けてくださいと言っても、誰も助けてくれない。「こっちにいらっしゃい」という人は、一人もいなかった。

かぁちゃんと一緒に逃げるんだよと言われて、手をひかれていた時に感じたぬくもり。沖縄戦の最中に感じた母のぬくもりは、優しいものだった。

《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 沖縄戦で孤児になった女性 より抜粋、要約》

f:id:neverforget1945:20200801223521p:plain沖縄本島コザの医務室。それほど病状がひどくない子ども(1945年8月4日撮影)

The sick bay at Koza, Okinawa. The children who aren't so sick.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍は泡瀬周辺をシモバルとよんでいた。また慰安婦を geisha / ex-geisha girl と記録している。この写真では、「慰安婦」にされた女性たちは Old Ladies' Home 女性用老人収容所と孤児院で働いていたことがキャプションに記録されている。左側の座り込んでいる女性は顔を両手で覆い、右側の女性は下を向き、カメラの視線を拒んでいる。

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[ AI によってカラー化しています。]

【原文】 Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls.

【和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。

撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

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「孤児」となって

  1. 6歳で経験した沖縄戦 金城ハツ子氏(那覇市)の体験より | 長周新聞
  1. 浅井春夫「田井等孤児院と日本軍「慰安婦」問題 : 沖縄戦直後の各地の孤児院研究その2と戦争犠牲者の類型」2015年

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【戦後70年】間に合わなかった木製戦闘機 1945年8月4日 | ハフポスト