〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月21日 『生き埋め』

対敵諜報部 CIC捕虜尋問沖縄戦と高齢者

米軍の動向

捕虜の尋問 - CIC (対敵諜報部)

日本軍の戦死者は軍人軍属を含めて約9万4千人(防衛隊員、学徒隊員も含む)であるので、戦死者に対する捕虜の率は約16パーセントである(6月末時点での捕虜数で計算すると11.4パーセント)。防衛隊員であっても住民に紛れ込んで捕虜にならずにすんだケースもかなりあったと見られるので、率はもう少し高くなるだろう。

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 347頁より》

民間人を装う軍人、また軍人にさせられた民間人。

防衛隊員の処遇の実態は、複雑多岐にわたり、米軍捕虜情報でも「捕虜」に分類されたり、「軍属」「民間人」等に分類されたりなど、時期によっても揺れが見られる。さらに、日本兵が、民間人に紛れ民間服を着用して投降する等、戦場地の様相が防衛隊問題を混乱させたともいえる。

こうした状況を危惧した米軍は、「対敵情報隊分遣隊 (CIC = Counter Intelligence Corps Detachment)を民間人収容所や日本軍と住民とが混在する捕虜一時収容所に派遣し、兵士の選別や高級将校等の洗い出しにかかった。

結局、沖縄の防衛隊問題に関して米軍は、沖縄戦終了後沖縄出身者として一括りし、45年10月から同年11月にかけて民間人収容所や沖縄人用捕虜収容所から全員釈放している。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 (2015年) 20頁》

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Civilian waiting to be interviewed.

面談待ちの民間人。(1945年7月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

民間検閲特別班 - 民間人やメディアの密かな検閲がはじまる。

G-2の下に民事を扱う CIS(民間諜報部)と軍事、刑事を扱う CIC(対敵諜報部)が置かれていた。CCDCivil Censorship Detachment)は前者に属していた。このCCDによる検閲は1945年9月10日に開始され、49年10月31日に終了した。CCDは当初は軍事色の濃い活動を行っていたため民間検閲支隊といわれていたが、占領が落ち着くとともに民事色を強め、民事検閲局とか民間検閲局と呼ばれるようになった。

検閲研究ウェブサイト 早稲田大学

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Personnel of the 2225th Civil Censorship Special Unit A are ready to start on an inspection trip.

視察開始の準備が整った第2225民間検閲特別班Aの兵士。(1945年7月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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C-6軍政府田原司令部で面談する第2225民間検閲特別班Aのトム・ヤマウチ2等軍曹とキノッズ中尉。(1945年7月21日撮影)

Tabaru Headquarters, Military Government, C-6, on Okinawa, is the scene of this interview by l. to r., S/Sgt. Tom Yamauchi, Los Angeles, Calif., and Lt/JG D. P. Kinods, Albuquerque, New Mexico. 2225 Civil Censorship Special Unit A.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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海兵隊:INTERVIEW - Onaga Gakeo right, assistant principal of the Okinawa Teacher's School, Hokama Koki center) farmer of Aza Kowan.
尋問。左から、トゥオチマス中尉コネチカット州出身)、オイエヴォルク中尉ニューヨーク州出身)、字小湾の農民ホカマ氏、沖縄師範学校教頭のオナガ氏。 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

CIC は米軍占領・冷戦時代に沖縄の政界や経済界、また労働組合市民運動など幅広く県民監視を続けていたことがわかっている。

526分遣隊には約30人が所属し、うち諜報員約15人が防諜活動に当たった。政治、経済、労働組合など対象に分かれて班をつくり、本島内を中心に活動したという。沖縄の人々の中から米軍協力者を見つけては情報交換している。...  (中略)  ... 今回の証言で特筆されるのは、CICの調査対象が反米主義者にとどまっていないことだ。親米派の資金源なども調べており、監視は沖縄住民全体に向けられていたことが明らかになった。

<社説>元CIC初証言 沖縄戦後史検証する契機に - 琉球新報

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 本土空爆

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/84-19-2.jpg

Private First Class Harry W. Perryman, of Newark, New Jersey. He operates a bomb crane for the ordnance section of Marine Aircraft Group 31, starting the explosives on their way to Japan by hoisting them on the dollies which carry them to the planes.

ペリーマン一等兵。彼は第31海兵隊航空群兵站部で爆弾クレーンを操縦していて、日本に向かう途上、爆発物を飛行機まで運ぼうと、吊り上げて荷車に積み始めた。(1945年7月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 B-24による九州空爆から帰還

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Traffic control gun being operated from the edge of the airstrip by a member of the 149th Army Airways Communications System, giving landing instructions to a North American P-51 ”Mustang” of the 35th Fighter Group. The strip was not officially opened, but planes had to be landed here since an accident had temporarily put the ”regular” landing strip out of operation. (Planes have returned from a cover mission for Consolidated B-24 ”Liberators” over Kyushu.) Okinawa, Ryukyu Retto.

第35戦闘機群ノース・アメリカンP-51マスタングの着陸訓練のため、第149陸軍航空路通信施設隊員によって滑走路のへりから操作される交通制御砲。「正規の」滑走路が事故のため一時的に閉鎖されているため、(九州上空でのコンソリデーテッドB-24リベレーターの援護任務から戻ってきた)航空機はまだ正式には使用許可になっていないこの滑走路に着陸する。沖縄。(1945年7月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

太平洋戦争末期、沖縄に進攻した米軍は、各地を占領後すぐに滑走路を建設し、日本本土への大規模爆撃を開始。出撃したコルセア等の戦闘機は、鹿児島・出水・熊本・久留米・奄美諸島で、一般民間人を標的にした無差別攻撃をおこなった。

沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生 (近・現代史) [林博史] 楽天ブックス 1,980円

 4月1日に日本陸軍北飛行場 (読谷) で鹵獲した三式戦闘機を試乗。 

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海兵隊の飛行場に駐機された日本製の飛行機。アメリカの新しい塗装の成果を披露している。この軍機“トニー”は、海兵隊が日本軍を読谷飛行場から追い出した復活祭の日に、損傷もなく鹵獲された。読谷から別の基地へ移動させるところである。(1945年7月21日撮影)

A made-in-Japan fighter plane, sporting a new American paint job, is shown parked on a Marine airfield on Okinawa. The plane, a Tony, was captured in good shape when Marines ran the Japs off Yontan airfield on Easter Sunday. It has been flown from Yontan to another base.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

   

第32軍の敗残兵

捕虜の尋問

百名収容所の CIC

その収容所は百名三差路(現在のバスターミナル)の裏の畑にありました。畑を金網で囲ってMPが警備しているだけのものでしたが、富里側の切り通し(ワイトゥイ)から百名入口に差しかかる道端に天幕が二つあって、その中に机と椅子が置かれ、米兵 (CIC取調官) が座って二、三人ずつ尋問していました。軍人軍属と住民を選別するのですが、分かりにくい者はCPという、住民の協力者がいろいろ聞いて分けていました。

《『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》

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海兵隊: Jap prisoner being interrogated by Intelligence officers. Fear on Jap’s face was because he thought he would be killed immediately after questioning.
諜報部員らに尋問される日本兵尋問後すぐに殺されると思い、おびえている。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

大浦崎収容所の CIC

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辺野古、今も放置されたまま調査も許されぬ犠牲者の遺骨の上にさらに軍事基地を作るという醜業

捕虜か民間人か

師範鉄血勤皇隊摩文仁破傷風菌に感染し患った青年の場合

私も杖をついてその後を追って行ったら、先に進んでいた民間人の集団は、機関銃の一斉攻撃を受けて、ばたばた倒れていた。即死する者、負傷で苦しみもだえている者、その時の様相は地獄そのものであった。

米兵は射撃の手をゆるめず近寄ってきて、まだ生きている人を一人一人狙い撃ちして殺害していた。私があまりの恐怖で立ちすくんでいると、その時、振り返った米兵は発砲もせずゆっくり近寄ってきて、肩をかして私を米軍陣地まで連れて行ってくれた。

私は担架に乗せられて、トラックで玉城村の上江洲口馬場に送られ、収容された。そこでは、軍人軍属と、民間人を区別する尋問が二世兵士によって行われた。そこにいた同じ村出身の防衛隊員から、「君は若いからあくまで民間人だとうそをつきなさい」と教えられた。私は民間人と認められて、百名の病院に送られた。

《「鉄血勤皇隊で死線をくぐって」『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》

軍属「義勇隊」に組み入れられた地元住民の証言

家族はマヤーガマにいたが、6月のはじめアブチラガマの入口側に移った。ガマでは6月はじめから8月22日まで、暗い中での生活でした。ガマを出て百名に連れて行かれたが、そこでは男と女は別々にされて、男は二世兵と沖縄住民のGさんという方に色々尋問された。沖縄のGさんに尋問された人達はみんな屋嘉の収容所に送られた。収容所ではトラックに乗ってアメリカ兵舎への作業に行く毎日でした。

《『玉城村史』玉城村 (2004年)》

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海兵隊: Lt (jg) A. N. Smith, USN from Dallas Texas, assisting the Military Government at the civilian reception center, Taira. After the civilian is interviewed he is tagged for identification.
田井等の地元避難民収容所で軍政府の手助けをしている米海軍所属スミス中尉。民間人は面談後、認識票をつけられた。 名護市

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

民間人としての証明となるタグ。

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海兵隊: Two officers of the Military government display a dog tag given a civilian of Okinawa.
民間人に与えられた認識票を見せる軍政府の将校。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

「防衛隊」 - 切り裂かれた家族

防衛隊とは、軍が法的根拠なく地元の民間人を「防衛召集」した部隊で、約25,000人のうち、約13,000人が戦死した。蓑と傘で作業部隊として働かさたため「ミノカサ部隊」、あるいは正規な武装はなく竹槍を持つ姿から「棒兵隊」ともよばれた。

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上江田盛新さん「山の中で8月まで戦争終了まで、5ヶ月間ずっといたんですよ。」

上江田盛新さんの父親は、防衛隊員として3月に召集。日本軍の指揮の下、南部での弾薬運搬を命じられました。上江田さんや家族は父と別れ、敵の攻撃におびえながら、山の中での避難生活を続けたのです。

上江田盛新さん「私は一緒に山に逃げようと言ったけれど、親父は自分の任務を果たしてくると言って、それっきり帰ってこない。」

65年前、沖縄戦で亡くなった父や姉、そして辛かった時代を忘れまいと上江田さんは毎年孫たちを平和の礎に連れてきます。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月21日(土)

 

田井等収容所と養老院

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田井等地区、仲尾次

羽地内海を臨む名護市仲尾次沖縄戦当時、この集落に避難民の中でも特に、弱り切った年寄りを収容していた養老院のようなものがあった。そこでは、毎日のように息を引き取る年寄りが見られたという。遺体は、仲尾次橋を越えて海岸沿いに仲尾次方面へ約1キロほど行った、くぼ地に埋められた。そこは、ちょうど森と森の間で、やや開けた原っぱになっていた。

 昭和20年、夏の真っ盛り。梅雨が明けてから連日、焼け付くような日差しが照りつけていた。穴掘り作業に駆り立てられた人たちは、暑さと空腹で半ば意識がもうろうとしていた。中でも、16歳の少女には朝8時から夕方まで続く作業はつらかった。

 お昼少し前のこと。深く掘られた穴に、その日も栄養失調で息絶えた老女の遺体が運ばれてきた。いつものように2人の男にタンカで担ぎ込まれてきた遺体は、穴の縁近くに降ろされた。その遺体を穴に放り込もうとして少女は思わず目をそむけてしまった。死んだものとばかり思っていた老女が、突然目をむき、少女をにらんだのである。死体の扱いには慣れてきていたはずの少女も、さすがに背すじがゾクッとした。

 立ちすくむ少女を見かねて、男の人が老女に着物をかけ顔を覆った。そして、そのまま穴に投げ落とされ、上からスコップで土が放り込まれた。

…(中略)…「あまりにも気の毒だった。あのおばあちゃんはどこの人だったかねえ。たぶん家族が来ていなかったから、身寄りがなかったと思うよ。70くらい。いや、やつれていたからそう見えたんで、実際は50代だったような気もする。助かる見込みのない者は早く埋めろ、というアメリカの命令だったらしいね」。…(中略)…「その時はおばあちゃんににらまれた気がしたけど、きっとひどい衰弱で口が利けないもんだから、まだ生きてるよォーと、目で哀願していたんだろうねえ。息を引き取らないうちに埋められた年寄りは、覚えているだけでも3人はいたさー」と記憶をたどる。

生命の大切さに対する感覚がマヒしていた時代だった。作業をする久場さんの周りにはいつも死体が転がっていた。収容所にする掘っ立て小屋を造るための丸太を山から運び出す途中、川の水を飲もうとしたまま、うつ伏せになって死んでいる人を見た。また、イモのカズラが異常に伸びているので、喜んで葉に手をかけたら傍らに腐乱した死体があった。「栄養分になって、あんなにカズラが伸びたんかねえ」と、久場さんは目頭を熱くしてつぶやいた。

名護・仲尾次の老人用収容所 - 生きたまま埋葬も - Battle of Okinawa

当時の「養老院」を記録にとどめた数少ない写真の一つ。海軍建設大隊のクルーズブックに記録されていた。

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1945年5月8日 『ドイツ降伏のニュース』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

軍政府は、孤児院や養老院を囲い込んだうえで、捕虜となった元「慰安婦」の女性たちを看護に従事させていた。その当時の管理記録は公開されておらず、存在しているかも不明。

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Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls.

沖縄県公文書館の和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。

撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日

Ex-geisha girls若い女性のことではない。軍は日本軍の慰安婦ゲイシャ・ガールと表記していた。

 

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