〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月19日 『敗残兵の襲撃』

「それでも日本国民か」民間人収容所を襲う敗残兵

米軍の動向

MP と占領統治

MPとは: Military Police(憲兵)の略。米軍基地内での米軍人・軍属らの事件、事故の調査、風紀違反の取り締まりが本来の任務だが、米軍統治時代は、民間地域で警察活動も行っていた。米軍支配を象徴するMPと住民との衝突もしばしばあった。

MP (えむぴー) - 琉球新報

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米空軍: RYUKYUS -- Only 325 miles from Jap Kyushu, these Military Police of a 7th AAF service group in the Ryukyus have a grimmer job than most policemen. Manning defenses against possible suicidal Jap paratroop attacks are, left to right; Cpl. Ivan C. Frokjer, Luck, Wisconsin, Sgt. William P. Huffman, 1200 Sixth St., Hickory, N.C., and Cpl. John W. Walk, 2100 North Summit, Decatur, Illinois.
九州からたった325マイルの沖縄で普通の警察官よりも過酷な任務を負う第7陸軍航空隊管区憲兵隊。日本軍の落下傘部隊の特攻攻撃に備えるのは(左から)イヴァン・C・フロクジャー伍長、ウィリアム・P・ホフマン三等軍曹、ジョン・W・ウォーク伍長。読谷。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

CP と民間人収容所の運営

民警察官 NP(エヌピー): MP隊長に強制的に命ぜられた巡査。NPの腕章 をつけ、黒帽をかぶり、避難民の誘導・交通整理・ 物資の看視・米兵の民家侵入看視・連絡・越境者の 取締・公衆衛生等の任務に就いた。のちにCPに改 名し赤帽を被せられた。

《『玉城村史』玉城村 (2004年)》

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戦争中に解散した「沖縄県警察」に代わり戦後、収容所でアメリカ軍が任命した民警察官が誕生しました。戦火が激しさを増していた6月、当時の沖縄県警は命令により解散。66年間の歴史に幕を下ろし多くの警察官は、し烈な戦火のなかを彷徨うことになりました。沖縄県警察史によると、戦後、県内各地区の収容所では地区ごとに権限をもっていたアメリカ軍の隊長が、収容所ごとに警察官と署長を任命し民警察が誕生しました。

しかし、任命の基準はまったくなく隊長が独断で、体格の良い者から選ぶなどしたため素人警察官が多く、もともとの警察官のなかには復職を躊躇した者も多かったとされています。そのようなアメリカ軍のやり方ではまともな警察となるはずはなく住民からの反発も多く治安を安定させるには困難な状況が続きました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月19日(木)

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米国海軍: Natives at Ishikawa, Okinawa. Mayor Buchio giving his people instructions.
沖縄本島石川の地元民。地元民に指示を与えるメイヤーのブチオ。石川 1945年 8月 5日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

喜屋武岬 - 終わらない戦い

南風原陸軍病院から山城本部壕、喜屋武岬、そして国頭突破へ。

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沖縄陸軍病院の衛生材料科に配属されていた男性の証言:

本隊が南風原を出たのが5月20日ごろです。私たちは衛生材料を移送するため後に残ったのですが、そこへ石部隊がやって来て状況はますます悪くなり、25日に残った12、3人と共に壕を出ました。山川ー友寄ー東風平へ出て東風平の三差路から右へ曲がり兼城へ出て与座岳へ出ました。夜が明けてくる頃でしたので、そこの「山」師団の司令部に泊めてもらい夜になってからそこを出ました。その頃はのんびりした田園風景で昼間も通れました。2週間はほっとして過ごせました。それから与座以南にも戦闘が押し寄せてきて、夜になると壕から出て食糧を漁るという具合でした。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 361、365-366頁より》

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300216/files/DSC_7967.jpg

山城集落の東側に、地元住民が避難していたサキアブとよぶガマがある。沖縄線末期、南部に撤退してきた陸軍病院の本部の勤務者が、ここで傷病兵の治療にあたったことから陸軍病院本部壕ともよばれる。

沖縄陸軍病院之塔 | 糸満市

私たちは解散命令により、山城の壕を出てから1ヵ月間、喜屋武の海岸にいたんです。アメリカ兵が面白半分に毎日のように掃討にくるのですね。機関銃をもって応戦したのですが、あとは榴弾で応戦です。(366頁)

6月19日から7月19日までです。… (手榴弾は)5つ6つぶら下げていましたが相当重いですよ。戦死した方のも取って使いました。(367頁)

ある日の夕方、海岸でのんびり構えていたらすぐ近くに米兵が来ていて、そこへ飛行機も非常に低空でやって来て陸と空で連絡し合っているのです。危ないと思ったので、とるものも取りあえず、アダンのジャングルに逃げ込みました。その時、大事にしていた機関銃を持って行かれてしまいました。

米兵は10人くらいでしたが、私共が食糧にしていた芋とサトウキビにガソリンをかけて焼いてしまい、そのため食べ物がなくなりました。仕方がないのでアダンの実も食べましたが、柿のようにおいしい部分もありました。

いつまでも海岸にいては餓死するかもしれないということで、…(第1外科看護婦)さんと一しょに北部へ突破すべく喜屋武の海岸を後にしました。(366頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 366、367頁より》

 

捕虜になった高級参謀 - 八原博通

 6月26日沖縄戦の作戦参謀八原博通は民間人として速やかに米軍と投降交渉し、港川から糸数をへて、6月29日に知念半島の屋比久収容所の蘇南家に収容される。米軍の記録によると7月15日に参謀として確保されたことになっているが、八原の手記はまったく異なる記述が続く。その民家に収容された十数名の避難民は、昼は軍作業に出ていた。八原は体調を理由に「座敷にごろごろする生活」をしていたが、7月18日頃から、三回ほど軍作業に加わった。

八原高級参謀の回想:

その後、暫く、私は自らの健康を顧慮するとともに、アメリカ軍の目を警戒して作業には出なかった。そして…米搗き、藁の芯抜き、縄ない---をして過ごした。(475頁)

国頭疎開の流説は、日を経るに従い、確実らしくなる。単独強行突破は、当分見合わせるべきだと考えるようになった。衣食も足るようになったから、危険を冒して、アメリカ軍の作業に出る必要もない。慎重に時日の経過を待てばよいのだ。

ところが、一度出て安全だったという経験が、私の好奇心を唆かし、その後2、3日おきに2回アメリカ軍の作業に出た。第2回目は津嘉山周辺。第3回目は知念半島突角部であった。3回目の作業ではちょっと問題を起こしたが、とにかく、いずれの場合も恙なく終わった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 475、476頁より》

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米国海兵隊: Making rope to be used in building civilian houses in compound outside of Naha.
民間人の家を建てるために使うロープを紡いでいる。那覇郊外の収容所にて。那覇市 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

米軍基地建設と民間人収容所

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米軍は、沖縄上陸作戦と同時に本土進攻に備えて航空基地を建設し、中南部の平野部と港湾地帯を無人地帯とした。このため、中南部で米軍の管理下に入った住民の大部分は、北部の東海岸地域へ移された。現在の石川市金武町中川、宜野座村全域、旧久志村の大浦崎(久志・辺野古)から嘉陽までの範囲である。

米軍は、捕虜(軍人・軍属)と民間人(非戦闘員)をえりわけ、それぞれ独自に収容した。捕虜収容所と難民収容所である。捕虜はPW(PrisonerofWar)と呼ばれ、民間人はシビリアン(Civilian)と呼ばれた。両者を識別するために特に作業現場などでは、上着の背中に、捕虜は PW、民間人は CIV とペンキで書かれた。

民間人の収容所では、米軍によってメーヤー (市長) と CP (CivilianPolice民警察) が任命され、物資の配給、作業の手配、軍命令の伝達などに従事した。CPは米軍から支給された軍服に防暑用ヘルメットをかぶり、米軍の MP (MilitaryPoliceman憲兵) とともに治安維持に当たった。

民間人収容所

難民収容所は、境界をカナアミで囲われていたところもあったが、一般には集落単位に収容所が設置されていて集落の境界にMPが立っていた。収容所問の往来は原則として禁止され、米軍の通行許可証を携帯しない場合は「越境」として処罰されカナアミに入れられた。カナアミというのは、仮の拘置所」や「営倉」(Stockade)のことである。カナアミ(有刺鉄線)をはりめぐらし、脱走を許さなかった。転じて刑務所のことをカナアミと言うようになった。

『佐敷町史』佐敷町 (1999年) - Battle of Okinawa

辺野古・大浦崎収容所

本部半島には各種の飛行場や兵站基地が建設されたため、本部の住民は大浦崎の収容所に移された。

<M> ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部 (本部半島) まで食糧を取りに来た。当時、それは越境と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。

ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを "島巡査グヮ" (CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。

それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に奪い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食種を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。

そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。

沖縄戦証言 本部 - Battle of Okinawa

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米国海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the islands. Part of barb-wire fence around compound.
沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。収容所を取り囲む有刺鉄線の一部。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

「それでも日本国民か」- 住民を襲う敗残兵

知念地区 - 久手堅収容所

久手堅収容所に収容されていた女性の証言

久手堅収容所ができて約一ヵ月後の7月19日、月夜の晩に、斎場御嶽の近くのナーワンダーの岩上に潜伏していた日本軍が、久手堅収容所の事務所倉庫になっていたわたしたちの家を襲った。拳銃の炸裂する音で目がさめた。その時悲鳴と弾の音が交錯し誰かがやられたらしいと思った。弾が四方八方からとんでくる。恐怖でうろたえた私は暗闇の中から明るい戸外へ出ようとした瞬間、銃声がして後方から撃たれた。棒で強く叩かれた感じがした。私は気絶してその場に倒れた。気がついた時は、左腕から血がたらたら流れ、着物の袖は血に染っていた。急所をはずれ命拾いはしたもののひどい骨折で、弾は貫通していた。主人は右脚貫通銃傷で骨折の重傷であった。未だ後遺症が残っていて、びっこをひいている。たまたま宿泊していた伯母は、窓から戸外の様子を見ようとして胸部深く弾を撃ちこまれ、悲鳴をあげてその場に倒れた。高齢のため命があやぶまれてたが、苦しそうにうめきもがいていた。

私は助けを求めて部屋中をさまよい歩いた。その時大音響とともに榴弾が炸裂し、家がぐらぐらとゆれた。床下から悲痛なうめき声が聞えてくる。力がつきへなへなとその場に坐りこんだ。もう腕の痛みも感じなかった。手榴弾の破裂で義父は頭と全身に傷を負うたが運よく命拾いをした。私は右手で止血しながら痛みが激しくなってきたのでこらえようとしてうめき声を出していた。同宿していた避難民の方も恐怖にふるえながらやってきた。その時荒々しい靴音がして、七~八人の兵隊が物凄い形相で入ってきた。日本刀を抜いて今にも斬りつけんばかりに興奮し、顔を見ることもできなかった。全身から血がひくような感じがして目を閉じた。日本刀が冷たく首筋にふれるたびに、今はこれまでと観念し涙が流れた。あたりに殺気が流れ、心臓の鼓動が聞える恐怖の一瞬だった。

「捕虜になって、それでも日本国民か」と、どなりちらす声が耳にひびいてくる。私は全身がわなわなとふるえ、恐怖のため一言も出なかった。たまりかねたように隣にいた避難民の男の方が、言葉をかえしたため、日本刀の先で額をこずかれ、その度に皮膚がパチパチ切れて、血が顔中に流れおちた。その場にいた日本兵は四人だったが、みな黙って見ていた。兵隊の罵声はなお続き、そのたび日本刀をちらつかせ、絶対に赦せないぞと強迫してきた。悔しさと憤りで断腸の思いだったがじっと堪えぬいた。私の腕の傷の出血多量であるのに気づいた隊長らしい方がタオルで止血してくれた。そのため、その場の空気がやわらいだように感じた。鶏が鳴き暁を告げる頃「夜が明けるぞ、引きあげよう」の声を残して、兵隊は倉庫から食糧の袋を担ぎ出し斎場御嶽の後の洞窟へ引きあげていった。

夜の恐怖の時間から解放されると全身の力がぬけた。緊張が解けると急に傷の激痛におそわれた。応急手当をして、その朝百名の仮設米軍病院のテントに運ばれて手当を受けた。洞窟に潜伏していた八人の敗残兵は、まもなく投降し屋嘉の収容所に送られたことは後で知った。しばらくして、伯母と私たち夫婦三人は、重傷で、百名の治療所では治療が困難とのことで、越来村胡屋アメリ海兵隊野戦病院に移された。

知念地区 久手堅収容所 ~ 日本兵の襲撃 ~ 胡座の野戦病院と孤児院 - Battle of Okinawa

※ その後、叔母は野戦病院で行方知れずとなった。

 

 

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