〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月18日 『〝終戦〟3日後の住民虐殺』

久米島 鹿山隊の住民虐殺瀬高収容所

米軍の動向 - 捕虜の救出

日本軍にとらわれた米国人捕虜の救出。

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Douglas C-54 “Skymasters“ on service apron, Kadena Airstrip #B, Okinawa, Ryukyu Retto. These planes were flown in from all bases in the SWPA and United States, and alerted to carry prisoners from Japan and Manchuria. There were approximately 200 “Skymasters“ parked on this airstrip. All combat airplanes were removed from this strip to accomodate all transports. Personnel remained with the planes constantly to be ready to move at a moments notice.

嘉手納B滑走路に停留するおよそ200機のダグラスC-54スカイマスター。南西太平洋地区及び米国にある全ての基地から飛来したもので、日本や満州からの捕虜を移送する任務を負っている。輸送機のスペース確保のため戦闘機は移動し、人員はいつでも出動できるように準備を整えている。(1945年8月18日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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これら国内の収容所に収容された捕虜の総数は約36,000人に達するが、それ以外に、東南アジアから捕虜を移送中に輸送船が撃沈され、約11,000人の捕虜が海没するという悲劇があった。国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。

POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 日本国内の捕虜収容所

日本軍にとらわれた捕虜は4月15日石垣島事件のように惨殺されたり、飢えや病や虐待、さらには人体実験も行われていた。

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 945年の春、東野さんは九州帝国大学医学部に入学した。ある日、一台のトラックが大学構内に滑り込んできた。荷台に載っていたのは、大分県の山に墜落して捕虜となったB29の搭乗員。到着したのが大学病院と聞くと、ホッとした表情を見せた捕虜もいたという。しかし、捕虜に対して行われたのは、治療ではなく人体実験だった。実験の大きな目的は、代用血液の開発。沖縄に続いて本土が地上戦の舞台と想定される中、血液の代わりに海水が使えるかを試す実験が、陸軍の厳しい監視下で行われたのだ。

アメリカ兵捕虜への人体実験や残虐な山狩りも。第二次大戦で消された記録<後編> FNSドキュメンタリー大賞2019

 

第32軍の敗残兵

阿嘉島渡嘉敷島の投降交渉

米軍は慶良間諸島の島々に潜伏する日本兵に投降するよう呼びかけていたが、なかなか成果をあげることができないでいた。渡嘉敷島の赤松隊は判明しているだけで20人あまりの住民や朝鮮人軍夫を虐殺しており、終戦後の、8月16日にも投稿勧告文を届けた住民「投降勧告者」4人のうち2人を殺害している。

8月18日

阿嘉島渡嘉敷島ではG2将校と日本兵捕虜が降伏の条件について、野田隊長と赤松隊長と詰めていた。協定が成立した。

1、上級将校からの命令を受けること。

2、守備軍の武器を全て一カ所に集めること。

3、守備軍は2隊に分かれて投降し、第1隊は武器を所持せず、第2隊は小火器を所持してよいこと。

《「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社) 28頁より》

 

久米島 - 鹿山隊の住民虐殺 ➂ 仲村渠一家の虐殺

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長) によって、仲村渠明勇と妻と1歳になる子どもあわせて3人が惨殺された。

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仲村渠明勇さん (左)

終戦後に…スパイと決めつけ、日本兵が一家刺殺 久米島 - 沖縄:朝日新聞デジタル

玉音放送から3日後の1945年(昭和20)8月18日、日本軍は久米島で住民を虐殺した久米島の住民虐殺は、これで3度目である。昭和天皇が日本国の敗戦を告げてもなお、沖縄の住民は戦争の犠牲となっていた。

《 「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) / 29頁より抜粋、一部要約》

仲村渠明勇さんは「命の恩人」

6月23日ごろ、沖縄出身の米軍二世の通訳二人を伴って、仲村渠明勇さんが訪ねてきた。嘉手納の進駐軍野戦病院に収容されていた、やはり久米島出身の野村健さん(当時29歳)が、きっかけをつくったのだった。野村さんは胸から背中にかけて貫通銃創を負い、ベッドで重傷の身だった。ところが通訳の話では、近日中に久米島攻略に出動し、艦砲射撃を加えるという。野村さ一んは驚いて、久米島は無防備で、見張所はせいぜい機関銃が三丁くらいだから、艦砲射撃などせずとも無血上陸できると説き、住民をまきぞえにしないよう嘆願した。そして野村さんは、収容所で見かけた、仲村渠明勇さんの名前を出したのである。

米軍通訳からこのことを知らされ、明勇さんも大いにあわてた。収容所内の久米島出身者を訪ね歩いて、米軍の作戦行動を中止させる協力者をさがした。それにはまず、久米島の実情を正確に知らせることが必要だった。…(中略)…

仲村渠明勇さんは、米軍の上陸地点である通称イーフ原で、日本軍の追及を逃れて、妻子といっしょに過ごしていた。隠れ家に親子三人、昼間は息をひそめて、夜になったら行動を起こしていた。

佐木隆三『証言記録「沖縄住民虐殺」―日兵逆殺と米軍犯罪』徳間文庫1982年》

仲村渠さんの説得で投降した日本兵、渡辺憲央さんの証言

仲村渠さんの家は広い庭を前にして、沖縄独特の赤がわらの古い家であった。米兵は居なかったが、庭で焚火を囲んで五、六人の村民が談話に興じていた。私たちは中にはいって行った。村民は、はたーっ、と立ち上って、武器を持たない私たちでも陸軍二等兵の階級章を付けた兵隊なので、びっくりして、上から下までじろじろ見ていた。「陸軍さんどこから来ましたか」と口をきいた人は、海軍の服装をちゃんと着けていた。仲村渠明勇と名乗り、次のようなことをいっていた。「私は沖縄で捕虜になりました。久米島出身なので本島のような悲惨な目に会わせたくありません。村民と海軍を一日も早く山から下ろして米軍の保設に入るよう推めに来た」といっていた。「私たちは今すぐ投降したいと申し出ると、米軍は捕虜に対して寛大であること、など説明して、明朝九時にここに落ちあって、銭田の米軍基地に行くことを約束した。

仲村渠さんは立派な体格で、目は鋭いがまだ童顔が残っているようであった。お茶を推めながら本島の戦争状況など話している彼は久米島を本島のような悲惨な目に会わせたくないと、先ほど出た言葉が真実であることがわかった。その時、月が煌々と照りつけ、上気してきている高橋の顔がはっきり見えた。私は感無量であった。戦争は馬鹿ばかしいが、何か事大なものを体験して、今それが終ったような気持であった。

沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 - Battle of Okinawa

明勇さん一家3人が殺されたのは、日本が「無条件降伏」をした8月5日から3日後の8月8日であった。鹿山が差し向けた部下数人によって、明勇さんは、左わき腹を深く刺されていた。...  (中略)  ... 3人の遺体は焼けた小屋の中にあった。殺したあと小屋へ運び、北原の9人と同じように「火葬」と称して燃やしたのであろう。遺体を引き取りにいった上江洲智和さんは「3人の遺体は、焼き払った家の真ん中に黒焦げになっていたが、明勇の左わき腹を50センチ程切り裂かれていた。また勝手口から裏庭に通ずる通路とアダンの垣根の所まで、多量の血痕があって妻のシゲは、裏へ逃げるところを捕まり殴り殺されたことが分かっています。あの現場を見た時は恐ろしくて、人間の仕業とは思えない悲惨な状況でした」と証言している。

久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争―私は6歳のスパイ容疑者』 インパクト出版会 (2021) 20-21頁 》

遺体の首は切りとられ、持ち去られていた。

喜友村さん「頭がなかった。これおかしいなって、そんなに人には、話しなかったけど」翌日 遺体を確認したら3人の頭部が無かったといいます。喜友村さん「今考えてみたら(頭部は)隊長の前に確認させて持って行ったんじゃないかなって想像している。」久米島では、日本軍のこのような残虐な行為がこの後も続いたのです。

65年前のきょうは1945年8月18日(土) – QAB NEWS Headline

 

女性や赤ん坊までスパイとして殺す日本軍の暴力性は何に由来するのか。

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朝焼けに染まる宇江城岳の展望台から、自衛隊のレーダー基地を臨む。かつてはこの辺りに鹿山隊の兵舎、電探室や機械室があった。2015年8月23日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

殺害された一家を知る男性の証言:

家が2軒隣りだったんです。この人のおかげで、米軍によって殺された久米島の島民の数は少なくて、10人だけです。ところが日本軍に殺されたのはその倍の20人です。それが久米島の戦争の特徴なんです。他の島では人口の半数が米軍の艦砲射撃で殺された島もあったのに

… 鹿山隊長は、米軍に捕まったり近づいたりした者を、みんなスパイ容疑のブラックリストに載せるんです。つまり軍の秘密をアメリカに告げていると考えたわけです。さらに島の人も、人のせいにして告げ口をすれば自分は助かるから、鹿山隊に嘘の報告をする。だからもう、誰を信じていいかわからなくなるわけですよ、戦争というのは。そういう状態に人間を追い込むんです。相手を直接殺さなくても、人間が人間でなくなっていくのが戦争ということです。…

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN 

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久米島町史が語る島の戦争 – QAB NEWS Headline

鹿山正隊長の戦後

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久米島の日本軍 海軍通信隊の鹿山正隊長と陸軍中野学校の上原敏夫 - Battle of Okinawa

久米島は「一植民地」「島民を掌握するために」

それから四半世紀が過ぎた。一九七二(昭和四七)年三月から四月にかけて、日本復帰を目前にひかえた沖縄では、久米島住民虐殺事件の記憶が生なましくよみがえり、沖縄返還協定の内容に怒りをつのらせていたが、思いがけず、県民の怒りにますます油を注ぐような出来事が表面化した。
本土の新聞やテレビが鹿山元隊長の居所を探しあて、久米島虐殺事件の責任者にじかに責任追及を行ったのである。鹿山元隊長は健在だった。新聞やテレビの追及にも悪びれる風もなく、むしろ軍人の矜持を態度に表して、過去の事実関係や現在の心境を語った。
「島は小さかったが食糧はあった。言葉は琉球語であるが、日本教育を受けているので不自由はしなかった。那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地である
「一万の島民が米側についたらわれわれはひとたまりもないから、島民の忠誠心をゆるぎないものにし、島民を掌握するために、わしは断固たる措置をとったのだ」
「これまで報道された事件のあらましはほとんど間違いないが、私は日本軍人として戦争に参加し、米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念、国の方針で戦争をやってきた。だから敵に好意を寄せるものには断固たる措置をとるという信念でやった」
 鹿山元隊長の弁明は全国ネットのニュース特集番組「久米島大量処刑事件・二七年目の対決」というタイトルで全国に放映された。鹿山正元海軍兵曹長は「わしは悪いことをしたとは考えてないから、良心の呵責もないよ」「日本軍人として当然のことをやったのであり、軍人としての誇りを持っていますよ」と軍隊口調で平然と語っていた。

《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) P.127-137》

 

 

そのとき、住民は・・・

瀬高民間人収容所

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域

米軍は知念半島と馬天港の軍事拠点化を加速し、8月になっても多くの民間人を劣悪な環境にある辺野古~瀬高地区へと移送したため、多くの避難民が命を奪われた。

瀬嵩地区 (旧久志村の二見・大川・大浦・瀬嵩・汀間・三原・安部・嘉陽)

7月中旬頃から、旧久志村の住民と、中城村西原村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。収容所の中心は瀬嵩であった。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が送りこまれた。8月10日頃に佐敷村の馬天港から瀬嵩にLSTで移送された難民もいた。

瀬嵩には中南部の30余の市町村民が収容されていて、瀬高市那覇村、瀬嵩市具志川村などといった臨時の連絡機構もできていた。旧久志村の各集落は、それぞれ市となり、一時期は市長もいた。難民の数はおよそ3万人

よく知られた民謡の「二見情話」は、首里出身の照屋朝敏が、二見を去るにあたって、運命をともにした人びとへの思いをこめて作詩作曲した新民謡で、老若男女の哀感をさそった。なお、二見は「楚久」と「杉田」という二つの小集落からなる行政区であるが、六千人以上の難民が収容された時期もあり、一時期「東喜」と呼ばれた。

『佐敷町史』佐敷町 (1999年) - Battle of Okinawa

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『 二見情話 』 玉城一美 山内たけし - YouTube

これらの難民収容所から中南部の人びとが帰郷したのは、四五年(昭和二十)10月以降であった。それも、すぐに故郷に帰るのはまれで、石川地区・コザ地区・前原地区など、いくつかの地域を経て帰郷したのである。越来村・北谷村・宜野湾村などの中部地区では、米軍基地に囲いこまれてしまって、他市町村に滞在を余儀なくされた人びとも多い。また佐敷村民も大里村や玉城村・知念村に数か月滞在させられた。

『佐敷町史』佐敷町 (1999年) - Battle of Okinawa

知念地区から瀬嵩地区への移送

合計 6,330人

『知念村史』333頁

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Japs on Okinawa, Ryukyu Islands move along into the USS LST-1031 to be taken to the northern part of island.

戦車揚陸艦 LST-1031に向かって移動する、沖縄本島の民間人。同艦によって、沖縄本島北部に運ばれた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米海軍: Japanese people carrying provisions from boats unto the wharf at northern Okinawa, Ryukyu Islands.

ボートから波止場に食料を運ぶ民間人。沖縄本島北部にて。 1945年 7月 12日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

親慶原住民に山原への移動命令が出され、村屋敷地(現在の公民館駐車場)に集められた。… 山原へは当添の海岸からLSTで出発し辺野古の浜へ到着した。辺野古から、今度は二見の東喜まで歩いての移動となった。重い荷物を担いでの移動である。私は途中、担いでいる荷物を放り投げようかと思ったが、放り投げてはいけないと諌(いさ)められ思いとどまった。あの時のきつさは今でも覚えている。

東喜に着くと、狭い地域の中それぞれの村ごとに玉城村、知念村と同村出身が集まって暮らしていた。狭い地域に鮨詰め状態に押し込められた大人数、当然のように食糧難に、みな苦しんだ。私達の関心事はどうやって毎日の食糧を確保するかという事だけだった。…

東喜では食糧難以上にマラリアにも苦しめられた。マラリアは米軍の砲弾よりも怖かった。砲弾は当たらない様に避難壕にも入れたが、マラリアはどう防いで良いのか分からず殆どの人が罹り、体力のない人が毎日のように死んでいった。あの「儀武小壕」で先頭に立って行動し、皆を助けた祖父もマラリアにやられた。私も一時マラリアと下痢でやせ衰え、立てない程に衰弱していた。

しかし、やがて玉城村への帰村が認められたが、直接親慶原への帰還は出来ず、最初は字富里(現在の公民館近くの家)に帰った。其処で暫く暮らしていたが、間もなく富名腰区への立入禁止が解かれると、祖母(祖母は愛地出身だった)の親戚を頼りに富名腰に移り仮小屋生活をした。親慶原での戦後生活は翌、昭和二十一年の五月頃からで自分の屋敷にも帰れずテント生活からだった。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

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久志市東喜、現在の名護市二見

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

 

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  1. 「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺(琉球新報)