米人捕虜はどこに / 離島残置工作員 伊平野島の「宮城」と 伊是名島の「西村」/ 伊是名島の米人捕虜殺害事件
米軍の動向
米人捕虜はどこに
米軍が日本軍捕虜に尋問する最優先事項は、米国人捕虜の所在であった。屋嘉捕虜収容所には何千人という日本人捕虜が収容され、施設は飽和状態であり、ハワイの収容所にすら送り込まれている一方で、いったい、日本軍に捕らえられた米国人捕虜はどこに収容されているのだろうか。
第32軍の八原参謀と島田アキラ軍属の米軍捕虜尋問によると、両者ともが同様に米軍捕虜は日本の本土に移送したと主張している。しかし司令部壕の近隣でも、さらし者にされ惨殺された米軍捕虜がいたことは、首里の人間なら誰しもが知っていた。南部から民間人収容所に収容された首里の住民は次のように記している。
調査が始まると、首里出身者には特別の尋問があるという話が伝わり、首里出身者は一様に不安に陥ったものである。
尋問は米兵と沖縄人の補助者が当たり、各人の経歴、沖縄戦の際の日本軍との関係などであった。それがすむと、首里出身者にはしつこく米軍人捕虜のことを聞いた。もちろん、私たちは中城御殿に収容されていたパイロット、記念運動場で処刑されたという捕虜のこと、園比屋武御嶽の裏にしばられていた捕虜のことを知っていたが、すべて知らぬ存ぜぬで押し通した。
宮城進「野嵩収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) - Battle of Okinawa
おそらく、八原参謀も島田軍曹も捕虜に関して口裏を合わせ「知らぬ存ぜぬで押し通し」たのであろう。やがて米軍は恐ろしい結論に到達する。
戦後になり米第24軍団史をまとめたロイアップルマン少佐は、 米軍捕虜の処遇について以下のように記している。「沖縄戦において日本軍に捕まった米軍捕虜はいない。 仮に生きて日本軍に捕まりでもすれば、 そう長くは生きていられなかっただろう。 日本軍の手に落ちて、生還できた米兵は一人もいない。 第32軍司令部は、 捕まえた米軍捕虜は尋問のため捕虜を移送したと繰り返し強調している。 しかし現在の所、 誰一人戻ってきていない。 2人から3人の航空兵が、地上戦に突入する前の3月に捕まっている。 彼らは、東京へと移送された。 それ以外に捕虜はいない」。
《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ・下』
日本は兵士や住民を捕虜にさせないため「米英人の残忍性」を住民に徹底的に教え込んだが*1、実際に住民を死に追い込み、負傷兵を見捨て「処分」し、捕虜を惨殺していたのは、日本軍の側であった。技師として赴任し、小禄の海軍基地を生き残った上根氏 (神戸出身) は、日米軍における命の価値の格差を記す。
たまに米軍機が墜落するとパラシュートが開く。たちまち小型飛行機がやってきて、必ず救出隊がパイロットを救出していく。そんな光景をたびたび目にすることがあった。 那覇港を攻撃していた敵機が落ちたときは、近くにあった海軍の船がたちまち猛攻撃を受け、撃沈された。そして、日本の小型艦は港外に追い出され、やがて米軍の高速艇がやってきて米軍兵士を救出して行った。彼らはどんなコストを払ってでも自軍の兵士を救出する。遺体を放置などしない。
日本軍は命の「犠牲」を賛美するが、人命を粗末にする軍に勝算があるわけない。日本軍は特攻作戦で命を消耗することの意味をまったく理解できていなかった。
パイロットの養成は、長い期間と費用を計算すると、とんでもないコストになる。にもかかわらず、 日本のパイロットは消耗品のように扱われている。
上根氏は、日本の権威主義の末端で「軍人精神を叩き込む」として殴打し潰しあう日本軍の体質を「異次元の世界」という言葉で表現した。
第32軍の敗残兵
伊平屋島の「宮城太郎」
伊平屋島と伊是名島にはそれぞれ陸軍中野学校出身の離島残置工作員が潜入していた。
6月3日の米軍の尋常ならざる伊平屋島上陸の後、米軍は島の住民を強制収容し通信基地を建設した。その伊平屋島には国民学校訓導として配置された工作員「宮城先生」(本名は斎藤) のほかに、遭難した若い特攻兵2人 (伊井と篠崎) が島の人々にかくまわれ、翌2月頃まで島の人たちと共にいた。
ある時、南側の伊是名島に流れ着いた宇土部隊の平山隊7名と残置工作員の「西村」は、伊平野島までやってきて、斬り込みの計画を立てようとしたが、伊平屋島の「宮城」と若い特攻隊の青年は、その計画を引きとめたという。
私の家の裏座で、菊池 (平山隊) さんを囲んで、この敗残兵たち (平山隊) がみんな集まって相談をしているところを私も聞いていました。敗残兵の彼らがいわく、岬の電波探知機 (伊平屋の米軍基地) に総員で斬込みをかけよう、というわけです。浜に武器はかくしてある、これを使ってやろうと主張したわけです。これに反対したのが菊池さんと伊井さん (特攻隊) でした。今そんなことをやれば村民がまきぞえになってしまう。兵隊がそういうことをやるのは当然だが、村民を犠牲にすることは絶対にいかん、と反対したわけです。
墜落した特攻機から救出された伊井隊員
あのころの特攻機というのはひじょうにあわれなもんでした。私も若くて、こわさもわからんでよく見物に行ったもんですが、特攻機が飛んできてやられるのを五、六回見ましたよ。見ちゃおれないですね、あれは。設備機も何もつかんで、超低空一点ばりで一機とか二機とかやってくるんです。いつも西海岸の方でしたね。見ていると、アメリカのグラマンが上の方からおそいかかってくるんです。こっちは機銃も何も持ってないですよ。ただ、突っこめの態勢で重い爆弾をかかえてブルンブルンとやってくるんです。無蔵水のところの高い岩山のところ、あそこから小さく見えてきて、来たかと思うとすぐグラマンにおさえられてしまうんです。逃げまわるだけで、西から東へ島を横ぎっていくと、山にいる私らのところに薬きょうがパラパラ降ってきたりするありさまです。変な言い方ですが、あれはもう戦さではないですね。実に気の毒なもんでした。私の知っている範囲で、田名の周辺だけでも、特攻隊員の死体が四体あがっていますね。飛行機が撃墜されて、遺体が浜にうちあげられてきたんですよ。防衛隊なんかが埋めたりしましてね。
伊井少尉は、特攻機が撃墜されて、それでも幸い命びろいしてこの島に助けられた人です。伊井さんは、飛行機が野市と島尻の間に撃ち落されて、人事不省になっているところを、村民がサバニを漕いでいって、みんなで助けたわけです。… 篠崎さんとか伊井さんとかは、頭が低くて、ここの料理でも何でも食べてくれるし、仕事も部落民といっしょにまったく同じように働くし、すっかりみんなの中にとけこんでいました。部落の人たちも、自分の息子と同じ位に大事にしていましたよ。だから、二人のことが発覚して、アメリカの兵隊がつれに来たときは、みんな泣き別れしているんですよ。ちょうど旧正月の元旦でしたがね、お酒のせいもあってか、みんな泣いて送ったものです。アメリカにつかまったら、もうどうなるかわからんと思っていたもんですから。
島の人たちから「息子同然に」大切にされたという伊井青年は、翌年2月に米軍に収容されるが、復員後も伊平屋島の人々とのつながりを大切にした。
Goats-Eye View of War【訳】ぬかるみの中の戦車とヤギ 伊平屋島 1945年 7月17日
伊是名島の「西村良雄」
一方、南側の伊是名島では、青年学校指導員「西村」という名前で残置離島工作員が配置され、また6月10日頃に本部半島からクリ船で伊是名島にたどり着いた宇土部隊の平山大尉ら七名、と生良駐在らが、地元の青年団・防衛隊員を率いた。彼らは伊是名島で複数の住民虐殺に関与する。3人の米兵捕虜の殺害、また終戦後の9月2日には奄美の少年3人をふくむ4人の住民虐殺を引き起こす。
伊平野とは異なり、異常な米軍上陸の危機からは免れた伊是名島だったが、
このとき (6月3日の伊平屋上陸)、名嘉徳盛という青年が野甫から伊平屋に泳いでいって、この島には軍事施設は何もないから攻撃しないでくれと米軍に頼んで、それが聞きいれられてこの島は救われたわけです。この名青年は諸見部落から野甫島に養子に行っていたわけですが、海外移民がえりで、知恵も勇気もある青年でした。
接近すれども上陸せず。
米海軍: US Amphibious forces approaching Izena Shima in Ryukyus, near Iheya Retto as seen from USS OAKHILL (LSD-7).【訳】 伊平屋にほど近い伊是名島に接近する水陸両用 1945年6月3日
そのため、伊是名島で残置離島工作員、宇土部隊の敗残兵、巡査らが島の青年団や防衛隊を率いて「戦後」も恐怖支配を続ける。伊平野と伊是名の二島は簡単に行き来できる近さにありながら、まったく異なる状況におかれた。
伊平屋島に米軍が上陸した一週間後6月10日頃、伊是名島には宇土部隊の一員平山勝敏大尉はじめとした七名の日本兵が逃げ込んできた。(人数は諸説あり) 平山は国頭村の山中を逃げ回るさなか、沖縄県出身の日本兵の提案で、佐手集落(国頭村の海岸)からくり船に乗り、妻の実家がある伊平屋島を目指したが たどり着くことができずに伊是名島に上陸したのである。
《川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』 吉川弘文館 (2018/4/18) pp. 149-150 》
敗残兵のほかに、特務機関の西村という者がいました。学校の先生をやりながら青年団を組織して、斬込みとかゲリラ戦の訓練をやっていました。また、各部落に防衛隊をつくっていましたが、防術隊もこの西村とか平山とかの命令には従わないわけにはいきませんでした。この西村はここの女と結婚して子供もできていましたが、本人は最後にクリ舟で与論島に逃げていきました。その後のことはわかっていません。
生良巡査というのがいて、これは伊計島の出身ですが駐在できていたわけです。この巡査がまたこわい存在で、空襲中でも壕をまわって歩きよったですが、いつも住民の動きに目を光らせていたわけです。生良巡査はいつも敗残兵とぴったりくっついて、住民に直接命令するのはこの男でした。
こうして、終戦後の9月2日にも、彼らは「軍本部」として島を支配し、4人の住民を虐殺した。
伊是名島の米軍捕虜惨殺事件
また伊是名島では残置工作員と平山隊長らが米軍捕虜を銃殺している。
あれは二十年の五月か六月ごろでしたか、南部はまだ戦っていて、戦争のさなかです。本部の嘉津宇岳から流れてきた敗残兵や、友軍の飛行機で墜落したのが救助されて、その搭乗員の人たち、また特務の西村軍曹(本名馬場)、そういう人たちが七、八名ぐらいこの島にいたはずです。菊池中尉とか平山大尉とか、そのグループにはいっていたわけです。… この兵隊たちがアメリカの捕虜を射殺したわけです。
「敗残兵による米兵捕虜殺害」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 伊平屋島・伊是名島 - Battle of Okinawa
米軍は米人捕虜の所在を懸命に捜索し、惨殺された場合には厳しく法廷で裁いた。沖縄戦についていえば41人が死刑判決を受けた「石垣島事件」である。ところが伊是名島では、かなり奇妙なことがおこっている。翌年1946年の1月、伊是名島を脱出した工作員や敗残兵らは永良部島で逮捕され、やがて、米兵捕虜虐殺事件は米軍の知るところとなり、住民も厳しく尋問をうける。
それからしばらくして、また情報部がやってきて一騒ぎおこりました。今度はあの捕虜射殺のことで来たわけです。仲田部落の人たちを二階に集めてひとりひとり尋問するわけです。… 射殺したアメリカ捕虜は伊是名城の西側に理めてありました。その場所を掘りかえすと遺骨が三体ありました。情報部はその遺骨と認識票など持ち帰っていきました。この捕虜殺害事件がどうなったか、永良部で捕まった日本兵がどうなったかは何もわかりません。
「敗残兵による米兵捕虜殺害」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 伊平屋島・伊是名島 - Battle of Okinawa
結果からいうと、石垣島事件とは対照的に、伊平野島で米軍捕虜3名を惨殺し、また終戦後と知りながら、小さな少年をふくむ4名の住民を惨殺した特務機関と敗残兵は、処罰されるどころか、どうやら米軍によって厚遇されていたようである。
伊平野の工作員であった「宮城」斎藤義夫は、日本復帰後、琉球大学の助教授として赴任した。彼の家には情報部らしきアメリカ人が出入りしていたという。*2。
また敗残兵7人のうちの平山隊隊長、平山勝敏は、本名を申應均 (シン・ウンギュン) といい、差別の強い日本で難関をかいくぐり陸軍士官学校を卒業した朝鮮人将校の一人であった。彼らは朝鮮人軍夫とともに捕虜収容所に収容された後、祖国に復員し激動の朝鮮半島を生きる。前田高地の戦いで、部下から慕われ尊敬された歩兵第32連隊第2大隊の日原正人大尉 (金鍾碩) は、無念にも韓国陸軍の粛清で処刑されるが、一方、申應均は、韓国陸軍入隊後、アメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学、その後韓国で出世を重ね、トルコ大使、冷戦時代の西ドイツ大使や国防科学研究所長を歴任する。
さて、伊平野島の米人捕虜虐殺は、なぜ石垣島事件のような大騒動と厳しい死刑判決に至ることなく霧散したのか、二つの可能性が考えられるだろう。米軍が詳細不明として途中で捜査を断念したか (埋葬場所を特定し、遺骨や認識票まで持ち帰っているので、当事者からの調書をとっているはずであるが)、あるいは、関わった人員を米国の情報部が逆に内側に取り込んだ場合である。伊是名村の米人捕虜殺害と住民虐殺の事件の「背景」は今も深い影を残す。
戦後、伊是名住民虐殺を調査する研究者にも元巡査は執拗な脅迫を続けていた。
そのとき、住民は・・・
伊平屋島の米軍基地と収容所
6月3日、米海兵隊は激しい艦砲射撃と3万人という異例の上陸作戦で、上陸で47人の村民が犠牲になった。伊平屋島に上陸した米軍は住民を伊平屋島北端の田名へ収容し、米軍基地を建設した。
Playing It Safe on Iheya Shima 【訳】伊平屋上陸後、慎重に進む海兵隊員 伊平屋島 (1945年 7月17日) ※ 6月3日の誤記と思われる。
6月3日の伊平屋島上陸は不可解な点が多い。事前偵察をしていない*3、新規の増援部隊を差し向けし、山の形が変わるほどの砲撃を加え、二千人余りの島に六千人以上の部隊を上陸させた、などである。無抵抗の住民47名が命を奪われただけではなく、米軍も同士討ちで18名の死傷者を出している。沖縄戦に新規に参入する第8海兵隊連隊の上陸演習を兼ねての作戦だったという見方もできる。
軍はこの島を占領するとここに大変な設備をこしらえました。前泊に仮飛行場ができて、あの岬のクバ山の上には電波探知機があって、クマヤーの洞窟は弾薬庫、この道に沿っていったところにあるヒジャ部落は飲料水取り場になっていました。米軍がこんな島にこれだけの基地をつくったのは本土上陸にそなえていたわけでしょうね。そのころはまだ日本は降伏していないわけですから。
私は実際にその基地にはいっていったことがあるんですが、これは偶然そこに迷いこんだわけです。捕虜になると私らは軍作業をやっていたわけです。作業をやらんと一日分の米の配給がもらえんわけです。その時は、自分らは負けたわけではなくて捕虜になっているだけなんだと思っていました。沖縄戦が終ったことはわからないですよ。… しかし、変な話ですが、口では言わないだけで、ほんとは戦は負けているとはっきりわかっていたです。あの艦砲射撃を見たときから、これはもうダメだと思っていたんです。… 村じゅうの住民がみんなこの部落に集められたうえに、米兵なんかもいっぱいでしたから、もう授業もできる状態ではなかったです。米軍がこの島から引揚げていったのはその年の11月2日だったと思います。それまではずっと戦争中と同じ状態でした。
軍作業にむかう伊平屋島の人々。
Coast Guard Photographer Shows Ihiya Jap Workers “under New Management“【訳】米軍の監視の下、作業へ向かう地元住民 伊平屋島 (1945年7月17日)
例のごとく「家」とは米軍が指定した収容所と思われる。
Young Iheya Shima Natives Ride Back to Homes after Invasion.【訳】米軍侵入後、それぞれの家へ向かう二人の伊平屋島住民(1945年7月17日撮影)
米陸軍: Radar installation at north end of Iheya Shima showing, L to R: radio truck repair tent, power unit, and antenna. 【訳】伊平屋島の北端に設置されたレーダーと無線設備。左から、無線車両修理テント、電源装置、アンテナ。1945年7月27日
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*1:1944年10月6日の閣議決定「決戦与論指導方策要綱」see. 1945年7月16日 『沖縄の人々は従順である』 - 〜シリーズ沖縄戦〜
*2:斎藤は大学内の沖縄人教員らを監視するようなそぶりで周囲から疑念を持たれていたという。「宮城太郎の動向については当時、琉大教員のあいだでも話題になっていた。1972年前後、自衛隊の沖縄配備の反対運動が高まる中、琉大でも自衛官の入学をめぐって大紛糾していた。そのとき、教授会で宮城太郎教授が監視するかのように各教員の発言をチェックしていて「ただならぬ雰囲気だった」という」石原昌家「沈黙に向き合う (14)
*3:伊平野・粟国島作戦 Iheya Aguni Operation では共通して事前偵察をしていないか、あるいは偵察したことを記録していない。偵察なく大規模な上陸作戦を計画することは通常では考えられないことである。準備期間は長く、米公刊戦史記録に「第8海兵隊が沖縄に到着した5月30日までに、完全な艦砲射撃と航空支援のスケジュールがすでに確立されていた。」とあるように、あたかもサイパンから新規の増援部隊としてやってきた第8海兵隊連隊のこてだめしのようにタスクが与えられている。また多くの記録写真を撮影している。
東海岸離島の上陸作戦における偵察