〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月17日 『八原の脱出計画』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

4月23日から計測し建設が始まった泡瀬飛行場はもうすぐ完成に近づく。

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泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影)

Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。(1945年7月17日撮影)

Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Panorama (north) of MAG-14 camp site at Awase Airstrip, Okinawa, nineteen days after breaking ground.
泡瀬飛行場にある第14海兵航空群野営地の全景(北方面)。沖縄本島にて。着工から19日後。泡瀬 (1945年7月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 - 八原高級参謀の場合

米軍資料は八原大佐が屋比久の収容所で捕虜となった時期を1945年7月15日と記録している。しかしここでは、八原大佐自身が執筆した回顧録に記載された内容を紹介する。

1945年7月、第32軍の高級参謀、八原博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐は、冨祖崎(ふそざき / 現・南城市)の民家にいた。

6月22日(または23日)に同軍司令官、牛島満(うしじま・みつる)陸軍中将と参謀長の長勇(ちょう・いさむ)陸軍中将が摩文仁の丘で自決した後、八原は米軍の包囲をすり抜け、海岸近くの洞窟に部下数名と共に潜んでいた。

八原は自決を許されず、沖縄島を脱出して本土へ渡り、大本営に戦況を報告するよう命じられていた。機会を伺いながら北上し、沖縄島北部から脱出する計画であった。

しかし、6月26日、潜んでいた洞窟が米軍に発見され、米軍の呼びかけに応じて投降する。だが、偽名を使い、年齢も偽って民間人を装ったため、他の避難民と一緒に米軍の民間人収容所へと送られた。

数日間そこで収容されたが、6月29日、米軍の監視下にあった民家に移るよう命じられた。その民家に置かれていた十数名の避難民は、昼は軍作業に出ていたが、八原は体調不良ということもあり、民家で一日を過ごすという日々が続いていた。八原の脱出計画では、7月末日に国頭村半地(くにがみそん・はんぢ)で部下と合流する予定であった。

(投稿者註: 参照「沖縄決戦 高級参謀の手記」440-469頁)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

八原高級参謀の回想:

7月中旬を過ぎても、難民の国頭疎開は容易に実現しそうにない。現在の境遇は惨めではあるが、隠れ場としては理想的でもある。しかし千葉准尉や、勝山、新垣らと約束した半地村集合期日7月末日が、漸次切迫する。国内情勢や、アメリカ軍の動きは知るに由なく、だんだん気が急いてくる。本土決戦に間に合わぬようなことになれば大変だ。三宅や、長野はもし敵線突破に成功しておれば、すでに本土に帰っているはずだ。私も、いつまでもぐずぐずしてはおれない。それには、まず周辺の敵情を明らかにしなくてはならない。
…氏や…氏に敵情を聞くが、ただ沿道至る所敵の幕舎でいっぱいだと返事するのみで、具体的なことはわからぬ。況や大局的な敵の動きなど、知る由もない。あまり根掘り、葉堀りの質問は、私の身分を疑われることになる。彼らもいやな顔をする。アメリカ軍の幕舎掃除などをする場合、アメリカの新聞でもあったら、持ち帰るよう頼んでみたが、何日たっても入手はできない。
7月17、8日ごろであったか、…氏が親切に「アメリカ軍の作業に出た方がよい。君の欲しがる新聞も、手にはいるかも知れぬし、アメリカ軍の様子もわかる。そして煙草も、キャンデーも、1日3合の米ももらえる。作業は形式的なもので、さして労力を要するものではない。私と一緒に行けば気も楽だ」としきりにすすめる。私は、彼の勧めに心動き、出かけることに決心した。』(469-470頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 469-470頁より》

 

そのとき、住民は・・・

伊平屋島伊是名島

伊平屋島(いへやじま)・伊是名島(いぜなじま)

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伊是名島のごあんない【島の紹介】 | 伊是名村役場

沖縄本島の北方の両島には日本軍はいなかった。ただ陸軍中野学校出身の特務機関員が教員として1人ずつ配置されており、また途中から敗残兵が本島から逃げてきていた。

伊平屋島では村の幹部たちは事前に話し合い、米軍が上陸してきたら「白旗で降伏する」ことを決めていた。6月3日に米軍が上陸してきたとき、国民学校長を先頭に住民は白旗を上げて投降した(県史2ー588〜602頁、伊平屋村226頁)

伊是名島には伊平屋島の米軍が検分をしにやってきただけだった。島出身の青年が伊平屋に行き、島には軍事施設はないから攻撃しないでくれと頼んだので、米軍は攻撃しなかったという。この青年は移民帰りだった。一方、島の幹部たちは米軍が上陸してきたときのことを事前に話し合い、米軍が来たら「白旗をかかげて降参すること」を決めていた(県史2ー603〜622頁、石原昌家『虐殺の島』108)。』(181-182頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 181-182頁より》

 

伊平屋島の場合 - 米軍の占領

6月3日の米軍上陸に際し、住民は同島北端の田名へ移された。

伊平屋島 - ヒ素の入った井戸水

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Marines Swarm Ashore at Iheya Shima  迎え撃ちもなく伊平屋に上陸した米海兵隊
撮影地: 伊平屋島 1945年 7月17日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Playing It Safe on Iheya Shima 伊平屋上陸後、慎重に進む海兵隊
撮影地: 伊平屋島  (1945年 7月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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伊平屋島住民の帰郷(1945年7月17日撮影)

Iheya Shima Native Returns to Home

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米軍侵入後、それぞれの家へ向かう二人の伊平屋島住民(1945年7月17日撮影)

Young Iheya Shima Natives Ride Back to Homes after Invasion.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Goats-Eye View of War ぬかるみの中の戦車とヤギ
撮影地: 伊平屋島 1945年 7月17日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Coast Guard Photographer Shows Ihiya Jap Workers “under New Management“
米軍の監視の下、作業へ向かう地元住民 伊平屋島 (1945年7月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

伊是名島の場合 - 敗残兵による住民虐殺

6月頃、クリ船で伊是名島にたどり着いた宇土部隊の平山大尉らが両島の中野学校残置工作員や駐在らと合流。米兵の殺害、また終戦後の9月以降 (9月2日) に奄美の少年3人をふくむ4人の住民殺害がひきおこされている。

伊平屋島に米軍が上陸した一週間後6月10日頃 伊是名島には宇土部隊の一員平山勝敏大尉はじめとした七名の日本兵が逃げ込んできた。(人数は諸説あり) 平山は国頭村の山中を逃げ回るさなか、沖縄県出身の日本兵の提案で、佐手集落(国頭村の海岸)からくり船に乗り、妻の実家がある伊平屋島を目指したが たどり着くことができずに伊是名島に上陸したのである。

《川満彰『陸軍中野学校沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』 吉川弘文館 (2018/4/18) pp. 149-150 》

『両島の幹部が白旗を掲げて投降することにしていた背景には、特務機関員の指導があったようだ。特務機関員は占領された後の後方攪乱を任務としており、自分を含めて日本兵がいることを知られては困るし、住民が自決してしまっても困るからであろう。また敗残兵たちも自分たちが助かることを考えて「玉砕」するつもりはなかった。

しかし特務機関員らによって住民虐殺がおこなわれ、漂流してきた米兵の処刑もおこなわれている。「集団自決」を強要しなかったものの、スパイ容疑での住民の処刑はおこなわれていた。

伊是名島には日本軍は配備されなかったのだが、沖縄戦が始まってから本島から敗残兵が流れてきた。そのなかで隊長となったのが平山大尉だった。また陸軍中野学校出身の特務員が教員として派遣されていた。

島では、米軍が来た場合には白旗を掲げて降伏すること、日本兵はいないことにすることなどを取り決めた。敗残兵たちも名前を変え、住民であるかのように装った。伊是名に米軍がやってきたのは6月なかごろだったが常駐せず、ときどき伊平屋からやってきただけだった。島にはアメリカ兵が2度にわたり3人が流されてきたが、いずれも密かに処刑された。』(182頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 182頁より》

 

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