〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年6月3日 『米軍、伊平屋島に上陸』

尋常ならざる上陸 / 知念半島分断 / 伊平屋の占領と収容所

 

米軍の動向

伊平屋島の制圧

USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]

伊平屋・粟国上陸作戦: 勝利を焦る米軍は、日本軍の拠点もない面積20km2伊平屋島に猛烈な総攻撃を行うべく計画を立てた。

沖縄戦線は今や重要な段階に達しつつあったため、バックナー将軍は、… 伊平屋・粟国上陸作戦を実行するため、増援部隊、第8海兵隊を沖縄に戻すよう要請した*1。… 第8海兵隊が沖縄に到着した5月30日までに、完全な艦砲射撃と航空支援のスケジュールがすでに確立されていた。

USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]

f:id:neverforget1945:20190528020711p:plain

Loading the well deck of the USS OAKHILL (LSD-7) at Okinawa, Ryukyus in preparation for invasion of Iheya Shima in Ryukyus.《AIによるカラー処理》

伊平屋島侵攻に向け、ドック型揚陸艦オーク・ヒル(LSD-7)の凹甲板に荷積みを行う様子。(1945年5月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

その目的は、伊平屋島特攻機対策のための長距離レーダーと日本本土攻撃のための海空基地を設置するためであった。

米艦艇が特攻機による攻撃により大きな被害を出し続けていることから特攻機の飛来を察知できる長距離レーダーと戦闘機指揮所が設置できる適切な場所を調査し、その結果、鳥島、粟国、伊平屋、久米島の占領が可能であると決定された。

USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]

日本軍は駐屯していなかったが、米軍は「敵の砲座」らしきものがあるとしている。

f:id:neverforget1945:20200810224850p:plain

Invasion craft bearing veteran U.S. Marines hit the beach on Iheya Island June 3, 1945, as units from Okinawa--20 miles (32 km.) away--invaded the tiny but strategic island. Smoke rises from a burning enemy gun emplacement hit by a shell near the small village where the Americans are landing. It will be valuable as an observation station and an outpost guarding Okinawa. The group is about 375 miles (600 km.) south of Japan's home islands, and will serve as a valuable sea and air base from which to attack targets in Japan.

1945年6月3日、海兵隊員をのせた侵攻艇が伊平屋島の海岸に上陸し、20 マイル (32 km) 離れた沖縄から部隊がこの小さな島だが戦略上重要な島に侵攻した。アメリカ軍が上陸しようとしている小さな村の近くで、砲弾が当たって燃える敵の砲座から煙が上がっている。沖縄を守るための観測所、前哨基地として価値があると考えられた。この群島は日本の本土の島々から約600キロ南に位置しており、日本の目標を攻撃するための貴重な海空基地として機能することになる。

The Digital Collections of the National WWII Museum : Oral Histories

f:id:neverforget1945:20210603001131p:plain
空爆を受ける伊平屋島揚陸艦で向かう海兵隊(1945年6月3日撮影)

Marine laden LST's move toward Iheya which is being pounded by an air assault.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

砲撃による民間人の犠牲は47名。米軍は、なぜ日本軍の拠点のない小さな島に、2-3時間にわたって山の形を変えるほどの猛烈な砲撃をしたのか。

6月3日、米軍は沖縄本島北西海上伊平屋島へ上陸した。上陸に先立ち百数十隻の船団が同島を包囲し約2時間にわたって空と海から猛烈な砲爆撃をくわえた。とくに上陸地点の前泊部落は数時間におよぶ砲爆撃を浴び、数十名の犠牲者をだした。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

なぜ人口2000人~3000人余りの島に、6000人以上の部隊で上陸したのか。

海兵隊が発見したのは、混乱しながらも従順な島民約3,000人だけで、彼らは第10軍島嶼軍団が派遣した軍事政府チームに引き渡された。… 航空ロケット弾と短い艦砲射撃により海兵隊員2名が死亡、16名が負傷した。

USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]

なぜ日本軍のいない無抵抗の伊平屋島で米兵18名の死傷者が出たのか。

これは後でわかったんですが、アメリカは艦砲を撃ちながら上陸を開始していたわけです。この島には友軍はいませんから、こちらからの反撃は全然ないわけですが、それでもアメリカ兵がずい分やられています。上陸部隊の頭上から味方の艦砲がどんどん落ちてきて、私たちが部落に行ってみたときは、つぶれた戦車が何十台とあちこちにころがっているんです。アメリカ兵の死体もありましたが、これもみんな同士討ちでやられたものです。前泊の海は遠浅になっていますから、そこから上陸してくる間に後から飛んできた弾にやられるわけです。

『沖縄県史』 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

米軍は民間人だけの島をなぜこれほどの尋常ならざる準備期間と装備で猛攻撃する「伊平屋・粟国上陸作戦」(Iheya-Aguni Operation)をたてたのか 。伊平野と粟国には事前に偵察した記録が残っていないことも異例である。その背景には、単に偵察不足による作戦の失敗、というよりも別の意味があったことが米公刊戦史から読み取れる。つまり、新規に沖縄に派兵された増援部隊である第8海兵隊連隊が、喜界島侵攻計画の中止後、サイパンから沖縄の南部戦線に参入する前の一種の上陸演習であった可能性だ。

作戦前に第10軍から受けた指示に従い、第8海兵隊二つの上陸作戦の完了をもって、沖縄における即時参戦の準備を整えた。喜屋武半島の塹壕に立てこもる日本軍に最後の攻撃を推し進めるにあたって新たな部隊が必要だったとき、ウォレス大佐とその部隊そこにあり、というわけだ。

USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]

米国海兵隊: Marine corpsmen give first aid and blood plasma to Jap girl who was wounded during Navy shelling of Iheya.
米海軍の伊平屋島砲撃で負傷した日本人少女に、応急処置を施し血漿を補給する海兵隊衛生兵 1945年 6月 3日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210603001906p:plain

U.S. Marines entering outskirts of Gakiya advancing 1,000 yards meeting no opposition. Using demolition and rifle fire they advance rapidly.

1,000ヤード(約900m)進んでも敵の攻撃を受けることなく我喜屋集落に入る米海兵隊。弾薬やライフル銃を携え、足早に前進する。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210603002010p:plain

1,000ヤード(約900m)進んでも敵の攻撃を受けることなく我喜屋集落に入る米海兵隊。弾薬やライフル銃を携え、足早に前進する。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍

f:id:neverforget1945:20210603010725p:plain

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

f:id:neverforget1945:20200601175626p:plain

Vehicles bogged down after days of heavy rainfall on the road to Naha. Photo shows one of many types of troops and equipment of 6th Marine Division.

何日も続いた大雨の後、那覇へ向かう道路でぬかるみにはまった車両。写真は第6海兵師団所属の兵士たちや車両。(1945年6月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第1海兵師団のほうでも、日本軍の抵抗はきわめて微々たるものであったが、その補給線は崩壊し、前線の米軍は空中からの物資投下や、輸送隊にたよらざるをえなかった。6月3日には、2軍団の間隔は3キロにまで達し、第383連隊のほうでは右翼が露出されたため日本軍の猛烈な砲火にさらされることになった。そこで、右翼をまもるために、ホッジ少将は第77師団の第305連隊を送って、その穴を埋めたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 454頁より》

f:id:neverforget1945:20200601181653p:plain

”E” Company, 2nd Battalion, 6th Maine Division, placing 105mm Howitzer in Naha to blast Jap lines beyond Naha.

那覇の向こう側にいる日本軍の戦列を撃破すべく、105ミリ榴弾砲を据え付けている第6海兵師団第2大隊E中隊(1945年6月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200601175723p:plain

Two Marines of Amphtrac unit inspect ruins of Naha railroad station, right across the river from Jap lines.

日本軍前線のすぐ反対側の那覇を見回る水陸両用部隊の海兵隊(1945年6月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小禄半島への上陸計画を決定

f:id:neverforget1945:20210603012324p:plain

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

大田少将率いる海軍は、南下後の5月28日、陸軍によって小禄半島に差し戻されたため、実質の兵力はほとんど削がれ〝槍部隊〟となっていた。米軍は海上からの上陸計画を模索した。

f:id:neverforget1945:20200601180540p:plain

Two Marines of C Co, 22nd Regiment observe hits made on Naha airport while keeping a weather eye for Japs across the ridge. Note captured radio station in background.

嶺向こうに対する警戒の視線も怠らず、那覇飛行場への攻撃を観察する第22海兵連隊C中隊の海兵隊員。後ろに見えるのは占領した無線通信所(1945年6月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

小禄半島は、幅3キロ、長さはほぼ5キロ。そこにある飛行場と那覇を守るための防衛陣地は、4月1日までは日本の海軍が守っていた。米軍が上陸する2、3日前、この海軍は沖縄根拠地隊として統合された。…海軍はほとんどが小禄に集結していた。沖縄根拠地隊の司令官は大田実海軍少将で、陸軍第32軍の指揮下に入ることになっていた。大田少将もこれに対しては全面的に協力の態度を示していた。(456-457頁)

那覇飛行場は、日本が沖縄で築いた中では最も大きく、また最も重要な基地で、小禄半島から西側にある平坦地であった。ここ以外は、小禄半島には丘陵が群立し、なかには高さ60メートルに達するようなものもあったが、特別にこれといって際立った丘とか、あるいは特徴のある地形はなかった。丘と丘のあいだは畑になり、砂糖キビやその他の乾地作物が植えられていた。この平地には地雷がいっぱい敷設され、またカモフラージュされた洞窟の口からは自動操縦砲が砲口をのぞかせていた。(458-459頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 456-457、458-459頁より》

f:id:neverforget1945:20200601180625p:plain

OROKU PENINSULA--Typical firing embrasure in hill strong point defense system.

小禄半島--丘の防衛システムの拠点にある典型的な銃眼

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は、海岸から海岸に移るようにすれば、上陸地も適当なのがあるし、さらにまた攻撃するにしても、砲兵隊の支援砲撃を思う存分活用することができる。海上からの上陸作戦ならば、各所で遮断された陸上の補給路のように、わざわいされることもなく、海路を通じて物資補給ができる。そこで、第6海兵師団長シェファード少将は、第4海兵連隊に上陸作戦の命令を下し、その後に第29連隊がつづくことになった。計画がたてられ、隊編成も6月3日の夜までには完了した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 456-457、458-459頁より》

 

知念半島の分断 - 百名へ到達

米軍は東側に進軍、知念半島を分断し百名 (ひゃくな) に到達。米軍は後に南部最大の民間人収容所を設置する。(百名民間人収容地区)

f:id:neverforget1945:20190602211917p:plain

沖縄本島南部への進撃を進めるアメリカ軍、65年前のきょうアメリカ軍は知念半島を分断します。5月末に首里から撤退した日本軍。アメリカ軍に本島南部で最後の抵抗を続けます。しかし、65年前のきょう、アメリカ軍第7歩兵師団は、知念半島と日本軍の残る南部地区を分断。写真には玉城村で命からがら生き延びた住民たちの姿が映し出されています。次々に南に追い詰められていく日本軍に対し、アメリカ軍はさらに小禄からの上陸準備も着々と進めていました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月3日

第7師団長のアーノルド少将は、追撃作戦を急速に展開するため、第32歩兵連隊に半島北部の偵察を命じた。6月3日の午後おそく、第184連隊第1大隊から出た偵察隊は沖縄南東海岸百名村落の近くまで到着して、第7師団最初の使命を達成した。

… 泥中進撃は容易なものではなく、陸軍第24軍団長のホッジ少将も、米軍にもレイテでの経験がなかったら、あれだけのペースでもって進撃はできなかったろうといっていた。(453頁)

一方、第5海兵師団の第2大隊は、南風原村喜屋武の北側で軍団の戦線を通過し、照屋の南西を攻撃、さらに進撃して付近の高地を奪り、宜寿次村落の高台を占領して、軍団の間隔を約1キロにちぢめた。

知念半島や、また、沖縄南部の中央にある日本軍の防衛陣地を攻略されたあと、牛島中将は、島の南端、おそらく第3上陸軍団の区域内にある八重瀬岳にたてこもるだろうということが、6月3日の夜までに、はっきりしてきた。(454頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 453、454頁より》

 

第32軍の動向

残存兵力と戦力

f:id:neverforget1945:20190528024345p:plain

沖縄本島の中心地である那覇市の廃墟。激しい空爆後の様子。(1945年6月3日撮影)

Ruins of Naha City, capital of Okinawa, Ryukyu Islands, following heavy aerial attack and bombardment.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

八原高級参謀の回想:

首里戦線より喜屋武半島に後退した際、いくばくの兵力を集結掌握し得るかは、作戦上最も重大な問題であった。各部隊からは日々死傷者数の報告はあるが、部隊の移動、転属頻繁、しかも小部隊に分散して、無数の地下陣地に拠り、激闘を続けている関係上、その報告はすこぶる不正確である。第62師団に例をとれば、作戦主任は総員3千と言い、後方主任参謀は6千と報告する。万事がこの調子なので、軍として自信ある数字を掌握するのは至難である。

私は首里退却時、陸軍兵力4万、退却中における消耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力約3万と判定した。(376頁)

軍の主力であった第24、第62の両師団および混成旅団の戦闘員の85パーセントは消耗した。連隊、大隊、中隊といっても、今ではこれを形成する人員の大部は、未訓練で素質不良な臨時転属された後方部隊沖縄防衛隊の要員に過ぎぬのである。

… 中隊長以下の下級幹部は、前述戦闘員とほぼ同率の損害を受けている。大隊長以上の損害は…極めて少ない。軍が現在なお比較的良好な指揮組織を維持し、秩序ある作戦指導を為し得るのはこれがためである。(377頁)

歩兵自動火器は概ね5分の1に減少した。歩兵重火器は概ね10分の1に減少した。砲兵は損害比較的少なく約2分の1である。軍砲兵隊が新陣地に集結した砲は15サンチ加農砲2門、15榴弾砲16門、高射砲10門である。(378頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》

 

陸軍中野学校 - 伊平屋島の離島残置諜者「宮城太郎」

伊平屋島に日本軍は駐留せず、代わりに陸軍中野学校出身の離島残置諜者である斉藤義夫が、偽名「宮城太郎」という名で伊平屋島国民学校の訓導として赴任していた。

f:id:neverforget1945:20210602202617p:plain

沖縄玉砕後も「ゲリラ戦続けろ」 民間スパイ機関が暗躍か | 沖縄タイムス

伊平屋島には日本の守備軍は、駐留していなかった。…ただ、東京高等師範学校出身の菊池という特務機関の少尉が、昭和19年6月頃に宮城太郎の偽名で伊平屋小学校訓導として赴任し、密かに情報活動にあたっていた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

伊平屋に潜伏した離島残置諜員の菊池は、島に逃れた敗残兵が斬り込みの計画を立てるのを、島民が犠牲になるとして止めたという。

伊平屋島伊是名島では、戦時下の様相が違っていた。… 6月3日、米軍は伊平屋島を包囲、一斉に艦砲で前泊一帯を叩くとともに6000名以上の兵力で上陸してきた。この米軍の攻撃で47名の死傷者が出たが、多くの住民は山中の壕に避難していたという。飯井少尉は避難壕の中で「ピストルの弾は10発ある。9発まで敵を撃ってから自決させてくれ」と我喜屋区の区長東江慶栄らと激論を交わしたという。比嘉幸雄 (田名出身) は「敗残兵たちが斬込みをやろうとするのを、この斉藤(義夫)さんがおさえているんですよ」「今そんなことをやれば村民がまきぞえになってしまう。兵隊がそういうことをやるのは当然だが、村民を犠牲にすることは絶対にいかん、と反対したわけです」と振り返る (『沖縄県史第10巻』1974年)。住民は投降を決断、飯井は東江区長の説得を受け、住民に紛れ込み米軍の捕虜となった。

《川満彰『陸軍中野学校沖縄戦吉川弘文館 (2018/4/18) p. 148-149》

 

そのとき、住民は・・・

伊平屋島 - 住民の強制収容

雨と泥のなか、北部の田名地区に収容された。

米国海兵隊: The peaceful citizens of the village of Tana on Iheya Shima surrender willingly to Marines, walking two miles through rain and mud.
伊平屋島田名村の温和な民間人。すすんで海兵隊に投降し、雨と泥の中を2マイル(約3.2km)歩いてきた  1945年 6月 3日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

防空壕や避難小屋に身をひそめていた地元住民は、2世兵士がマイクを通して日本語で「米軍は一般住民は殺害しないから早く出てこい、米国は博愛の国だ、世界中の人々を愛してる…」というのを聞いたが出るのをためらっていると「早く出てこないと手榴弾を投げ込むぞ」とおどかされて降伏した。こうして前泊、我喜屋、田名の3部落の2千余名の住民は全員捕虜にされたあげく、同島北端の田名へ移された。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

沖縄戦の絵】「伊平屋島 米軍上陸」

… 午後1時ごろ、田名の集落を抜ける道に、5台ほどの米軍の水陸両用戦車が姿を現した。「日本は勝つ」と疑わなかった名嘉さんの心は死への恐怖でいっぱいになり、「降参しないと大変だ」と白旗を持って家族とともに小屋を出た。集落の人たちも次々と列に参加。先頭で白旗を持つ名嘉さんは、銃口を向ける米兵が乗る水陸両用戦車までの約200メートルを、「いつ撃たれるかわからない」と震えながら歩いたという。その後、名嘉さんたちは隣の前泊までの3キロの道のりを米兵に付き添われ無言で歩いた。 名嘉さん『米軍の上陸で伊平屋島では同級生を含め47人が犠牲になった。伊平屋島でも人々が大変な思いをしたことを絵を通じて知ってもらえれば』

伊平屋島 米軍上陸 【名嘉範茂】|沖縄戦の絵|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

f:id:neverforget1945:20210603003906p:plain

A long procession of civilians coming in from the hill, guarded by Marines.

海兵隊に守られて壕から投降する民間人の長い列

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210603004620p:plain

1945年6月3日伊平屋島の住民は、島が攻略されると、米海兵隊によって海岸堡の一画に大人しく集められた

Natives of Iheya Shima are quietly gathered into a compound at the beachhead when the Island was invaded, by US Marines, on 3 June 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

住民が強制収容されているあいだ、駐留米軍は、藁ぶきの家屋を焼き、瓦屋根を兵舎に代用し、レーダー基地や飛行場を建設した。

住民は抵抗しなかったため戦闘はその日のうちに収束し、2日後の6月5日には島の北部の田名地区に全島民が収容された。米軍の駐留は11月まで続き、その間に島内の最北端部にレーダー基地、中央部には飛行場を設置するなど戦時体制下での捕虜生活が続いた。 

総務省|一般戦災死没者の追悼|伊平屋村における戦災の状況(沖縄県)

前泊は米軍の宿営地となったおかげで瓦葺の家は、米軍の宿舎にされ、茅葺の家屋は残らず焼き払われてしまった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

住民の家屋を「病原菌の巣窟」だとして焼き払う米軍。

f:id:neverforget1945:20210603002242p:plain

Iheya Shima, fast working flame throwers destroy germ infested grass houses in the village of Gakiya on the newly covered island of Iheya Shima.

新たに占領した伊平屋島我喜屋集落で、病原菌の巣窟である藁葺き家を、高速火炎放射器で焼き払う

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

収容所に収容された住民は、強制的に使役労務に従事させられる。

米軍はこの島を占領するとここに大変な設備をこしらえました。前泊に仮飛行場ができて、あの岬のクバ山の上には電波探知機があって、クマヤーの洞窟は弾薬庫、この道に沿っていったところにあるヒジャ部落は飲料水取り場になっていました。米軍がこんな島にこれだけの基地をつくったのは本土上陸にそなえていたわけでしょうね。そのころはまだ日本は降伏していないわけですから。私は実際にその基地にはいっていったことがあるんですが、これは偶然そこに迷いこんだわけです。捕虜になると私らは軍作業をやっていたわけです。作業をやらんと一日分の米の配給がもらえんわけです。

「戦時中の伊平屋」『沖縄県史』 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

f:id:neverforget1945:20210603004121p:plain

捕虜に質問する海兵隊所属通訳(1945年6月3日撮影)

Jap interpreters (Marines) questioning prisoners.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200601180910p:plain

負傷した民間人。仲間に連れてこられた。写真のようにドアなどあらゆるものを担架として使用した(1945年6月3日撮影、伊平屋島

Wounded Jap civilians are brought in by fellow Japs, and anything, such as this door, is used for stretchers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200601181555p:plain

(島に)上陸し前を通り過ぎる海兵隊に目を見張る民間人捕虜(1945年6月3日撮影)

Japanese civilian prisoners, young and old, looking with wide eyes upon the Marines as they are coming ashore and passing by.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍が伊平屋島から撤退して二年後 …

米軍が撤退した伊平屋島では、破壊された住居を再建することから始まった。米軍が弾薬庫として使っていたらしい場所土地に家を建てたある家族は、不可解な病状で次々と亡くなっていった。

症状があらわれたのは1947年ごろからでした。最初に目がチクチク針でさされるようになって、涙がでてですね、肌が茶褐色になってあっちこっちに斑点ができて見られたザマではなかったですよ。手足がしびれてきて、肝臓と腎臓と心臓が全部やられたんですね。重くなると体ぜんぶから力がぬけて立つことも食事をすることもできずただ寝ころがっているだけです。そのうち腹に水がたまってふくれあがり死んでいきました。家族がぜんぶいっぺんに同じ症状になってしまいました。…

最初に死んだのは父で47年の11月ごろでした。二、三か月して姉芳子が亡くなり、それからは次々と死んでいき、一年のうちに八人も死んでしまって私ひとりがやっと生きのこったわけです。体力の弱い者から順に死んでいきました。…

伊平屋島 ~ ヒ素のはいった井戸水 - Battle of Okinawa

 

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

書籍紹介

陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」 (近・現代史) [ 川満 彰 ]

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

f:id:neverforget1945:20210602230822p:plain

 

*1:第8海兵隊アイスバーグ作戦の変更で喜界島への上陸作戦が中止になった後、サイパンにもどっていた。