〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月5日 『日本海軍の抵抗』

小禄上陸2日目 / 大田中将vs陸軍 / 大田中将vs米軍 / 最後の防衛線と防衛隊 / 宜野座収容所の初等学校スタート

 

米軍の動向

小禄半島上陸: 2日目

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USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-9]

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Two Marines of C Company, 22nd Regiment scan the outskirts of Naha toward Naha airport in the distance for any Jap troop movements, and spotting our hits.【訳】那覇飛行場向けに那覇郊外を遠くからくまなく見渡して日本軍の動きを調べ、我が軍の砲撃の着弾状況を観測する第22連隊C中隊の2人の海兵隊員。(1945年6月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍上陸2日目、作戦は遅々として進まなかった。そしてついに、小禄半島中央近くの筆架山まできたとき、第29連隊は、そこで突然、行き詰まってしまった。一方、米軍は右翼(南)のほうでは、たいした苦労もなく進撃し、シェファード海兵隊少将は、第4海兵連隊をして日本軍陣地を一気に壊滅させようとこれを差し向けた。海兵隊の前線は、いまや4キロものび、その南端は、小禄の具志村落にまで達していた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 461-462頁より》

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General View of Naha Airfield shortly before it was taken.【訳】占領される直前の那覇飛行場(1945年6月5日撮影)

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那覇の楚辺にあった沖縄刑務所

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Two Marine Combat photographers examine ruins of Naha prison. Note large towers in background.【訳】廃墟と化した那覇刑務所*1 を調べる海兵隊所属の戦場カメラマン2名。後方の大きな塔に注目。(1945年6月5日撮影)

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小禄半島のガジャンビラ (蚊坂) にあった沖縄気象台か。

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Two sixth Marine Division men examining ruins of large Jap radio station at Naha.【訳】廃墟と化した広大な那覇無線通信所を調べる第6海兵師団の兵士2名。(1945年6月5日撮影)

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南下する米軍

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

八重瀬 (Yaeju) 与座 (Yoza)

沖縄の雨期も6月5日にはあがった。陸軍第24軍団は、雨を吸った粘土質の土地に約6キロの戦線を確立した。補給はあいかわらずうまくいかず、場合によっては、ほとんど危険な状態にまで追い込まれ、物資を空中投下に頼らなければならない部隊も出てきた。… 6キロもあるこの山脈の壁で、いちばん高いところは八重瀬岳、そばの低地帯からはかると約90メートルもあった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 465-467頁より》

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Yaeju Dake Escarpment.【訳】八重瀬岳の急斜面

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周辺島の制圧 - 伊平屋島の基地建設

米軍は6月3日伊平屋島に上陸、住民を強制収容し、通信基地を建設した。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/101-13-4.jpg

 伊平屋島の“レッドビーチ”裏手の集積場。手前は水陸両用装軌車。(1945年6月5日撮影)

Dump behind Red Beach, Iheya Shima, Ryukyu Islands. LVT in foreground.

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http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/101-15-3.jpg

Weasel pushing jeep out of mudhole in road at Iheya Shima, Ryukyu Islands. Looking toward Mae-Dake.【訳】伊平屋島にて、道のぬかるみからジープを押し出そうとしているウィーゼル水陸両用車。前岳を望む。(1945年6月5日撮影)

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第32軍の動向

小禄海軍 - 陸軍第32軍司令部への抵抗

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6月3日に小禄半島に上陸した米軍は、またたくまに豊見城の海軍司令部壕に接近する。

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USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-9]

これまで陸軍第32軍の指令に従い羽を抜くように首里の防衛線に戦力を供出してきた小禄半島の海軍は、5月26日に砲台や機関銃座などの重火器を破壊したうえで南下を開始、27日までに真壁村伊敷への移転を完了する。しかし陸軍第32軍司令部はこれを命令に反するものとして、冷徹にも28日小禄に海軍を差し戻し、第32軍の南下を優先させた。一方、海軍はこの慈悲なき往復により、数少ない重火器を喪失しただけでなく、おびただしい兵士の命が犠牲となった。

6月5日、第32軍は海軍に撤退命令を下すが、太田司令官はそれを固辞する。

一方、摩文仁に後退した牛島軍司令官は、第32軍主力の撤退が完了したので、ここでやっと海軍部隊の島尻南部への撤退を命令した。これに対し、大田司令官は5日、忙しい戦況報告の合間をぬって、… 次のように返電している。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 421頁より》

海軍部隊は最精鋭の陸戦隊4個大隊を陸軍の指揮に入れ首里戦線において遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地帯に拠るわが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする考えである。ここに懇篤なる指導恩顧を受けた軍司令閣下に、厚くお礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る。

   身はたとえ沖縄野辺に果つるとも   護り続けむ   大和島根を」

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

大田実海軍少将

≪公式≫ 旧海軍司令部壕 (海軍壕公園)

海軍側の戦況を伝える文献には、陸軍からの撤退命令を受けて、大田少将が上記内容を返電したと記述されているものが多い。しかし、第32軍司令部の八原作戦参謀によると、軍司令部は海軍用の壕を準備していたところに、大田少将から上記の電報が届き、あわてて退却するよう命令するも、大田少将の意思は変わらなかったことが記録されている。

海軍部隊が孤立、まさに被包囲の態勢に落ちんとする6月5日、大田海軍少将より、…電報が到達した。… 海軍部隊を、喜屋武半島陣地に収容する準備を進めていた軍首脳部は、深く覚悟を決めた大田将軍の決意を知って驚愕した小禄地区の死守は作戦上十分に価値あることであり、かつ従来の行きがかりからしても、海軍側の心事は諒としなければならぬ。だが武運尽きて殪れるときは、陸海軍もろともの我々の心が承知しない。陸軍としては、孤立無援の海軍部隊を、指呼の間に眺めながら、その全滅を黙視するに忍びない。軍司令官は、直ちに次の電報を発せられた。大田少将の電報が、大本営その他関係各方面文取り扱いになっていたので、陸軍側も同一形式をとった。

「海軍部隊が、人格高潔な大田将軍統率の下、陸軍部隊と渾然一体となり勇戦敢闘せられ、沖縄作戦に偉大なる貢献を為されたことは、予の感激に堪えざるところである。海軍部隊が、その任務を完遂した今日、なお孤立無援、小禄陣地を死守せんとする壮烈な決意には、満腔の敬意を表するが、陸軍に先だち、海軍の全滅するは到底予の忍び得ないところである。海軍部隊の後退は、状況上なお可能である。貴部隊が速やかに、陸軍部隊に合一され、最期を同じくされんこと切望に堪えず」

… 電報に引き続き、統師の形式を整えるために、海軍部隊に、退却の軍命令が発せられた。しかし大田将軍の決意は堅く、なかなか後退し来る模様は見えない。そこで軍司令官から大田将軍宛てに後退を勧める親書を送達するなど、百方努力したが、その牢固たる決心はついに翻すことができなかった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 396-397頁より》

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海兵隊: Marine smoking out a cave in the hill southwest of Naha airfield. A phosphorous grenade was utilized.【訳】那覇飛行場の南西に位置する丘の洞窟を燻り出す海兵隊黄燐弾が使用された

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

小禄海軍 - 米軍の包囲作戦への抵抗

米軍の小禄上陸2日目 - 米軍の包囲殲滅体制

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Marines in shell hole taking cover from Jap fire.【訳】漏斗孔砲弾の地上破裂によってできた穴)で日本軍の攻撃から身を隠す海兵隊員。(1945年6月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

… 米軍は半島の西海岸・大嶺からも上陸を試み、包囲殲滅態勢を取り始めていたのだ。巌部隊の小隊本部があった当間は、大嶺のすぐ東にある集落で、しかも最前線と報告されている赤嶺の方が約1キロ内陸部だから、同本部は完全に孤立していた。

整備兵長の証言:

「猛攻の度にたまらず鏡水の塹を1つ、また1つ後退して、夕方には生き残った数名が当間の本部壕へ逃げ込みました。すると、日頃から口うるさい一曹から『死守せいと命令されたのに、逃げ帰るとは何事だーッ』と怒鳴られました。そして、『掩護射撃してやるから、元の陣地へ戻れッ』と命令しました。戻れと言われても、既に占領されていて戻れる訳がない。それでも命令とあらば、戻らねばならないのが軍隊です。仕方なく私たちが壕を飛び出した時、入口で掩護射撃を始めたその一曹が、米軍の射撃を受けて倒れました。銃弾が額を貫通して、即死です。命令者が倒れたので、私たちはそのまま本部壕へ戻りました

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 420-421頁より》

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A view looking seaward from a cave in the hill southwest of the Naha Airfield. Part of the town of Omine is visible in the photo.【訳】那覇飛行場の南西の丘にある壕から海を望む。写真は大嶺集落の一部。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南部の防衛ラインと防衛隊

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

小禄の海軍と同様、八重岳と与座岳の陸軍第24軍団もその多くは地元の民間人を召集した「防衛隊」から構成されていた。

このおそるべき地形と、(米軍) 陸軍第24軍団が6月5日に確立した前線のあいだには、少しばかり草の生えた小さな丘陵があり、また、おおむね平坦になっている地帯のところどころに小さい丘が散在していた。2週間も降りつづいた雨で平野は青々と草が生え、砲弾や戦闘の傷跡も今までのところたいして感じられなかった。

牛島中将のひきいる日本軍は、米軍より数日先に、この新しい防衛地区に到着し、6月の3日と4日には、丘陵の前といわず後といわず、地下壕を掘り、塹壕をつくって戦闘態勢をととのえていた。第32軍の歩兵の全兵力は今や約1万1千だが、全軍の戦力としては、この3倍の兵員をもっていた。

しかし、それは、大砲や迫撃砲などのなくなった砲兵をはじめとして、兵器や道具をうばわれて、もはや本来の職分を果たす必要もなくなった通信、整備、設営隊、その他、各兵種の兵隊をふくみ、現地徴兵の防衛隊員からなっていたが、防衛隊には、もちろん、その戦闘力や戦意の点では正規の日本軍と同等ではなかった

日本軍の第24師団(雨宮中将)は約8千の将兵をもち、牛島中将は麾下の最強師団としてこれを中央と、西翼ー八重瀬岳から糸満町にいたる線に配置してあった。藤岡中将の第62師団は、もともと第32軍中の最優秀な師団だったが、いまではわずか2、3千の兵力になり、真壁ちかくで予備軍としての配置についていた。こうして、独立混成第44旅団だけが東側で米第7師団と相対峙することになった。

この3個師団を主なる戦闘部隊として、牛島中将は、これに労役部隊の残存兵海軍の生き残り現地召集の沖縄の隊員をあてた。

こうして種々雑多な兵種によって守備軍が編成されたが、兵は訓練も不十分、砲兵の支援砲撃もなく、通信、武器、弾薬にも欠けながら、牛島中将は最後の戦闘を待っていたのだ。が、軍本部自体、首里を撤退して島の南端へ移動したときは、携帯した食糧はわずか20日。おそらく、牛島中将自身、部隊の戦闘能力を悟っていたのであろう。

武器もなく、食糧もなく、力つきたように牛島中将は、それでも米軍のつぎの攻撃目標はどこであろうかと案じつつ戦闘準備をすすめていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 466-467頁より》

 

そのとき、住民は・・・

宜野座民間人収容所の初等学校

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米軍が敷設した11の民間人収容所地区

沖縄本島北部、宜野座の収容所で学校が設置されることになり、6月2日、教職の経験があった民間人捕虜が呼び出され、設置と運営を任されることになり、着々と開校の準備を進めていた。

…6月4日、宜野座地区(G7地区)の天幕部長の了解を得て、各班長に学齢児童の引卒出頭を命じ、児童学籍簿の作製に取りかかる。3人の教師は息つく暇もなく次々と集まる児童の受け付けに大童である。

6月5日開校を明日に控えて集まった児童数は男児210人、女児240人の合計450人、午後から教師の物色と任命(女教師4人)都合6人の陣容となる。(120頁)

《「忘られぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 120頁より》

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米陸軍: Okinawan school teacher holds class as school resumes activity under AMG supervision.【訳】米軍政府管理下で再開した学校で授業をする沖縄人教師 宜野座 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

南部で追われる住民

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高額なお金を支払って買った壕の中で最愛の親族を失った住民がいました。与座岳のふもとにある第二与座壕。250円を支払ってこの壕に入った松茂良美智子さん一家にも、日々、悪化していく戦況が手に取るようにわかったといいます。

松茂良美智子さん「火炎放射器みたいなのがびゅんびゅん飛んでくるんです」

日本軍は摩文仁地区に撤退を完了しますが、それをを追って南下してきたアメリカ軍の攻撃で、南部一帯は地獄の戦場となっていました。松茂良さん「今考えたら、あの爆弾が破裂していたら多分死んでいただろうな。こっちに落ちていたからね」

爆弾には当たらなかったものの、爆発の衝撃で壕の中に避難していた松茂良さんの甥っ子(1歳)は、悲しい運命に・・・。松茂良さん「うちの兄の子どもが壕の入り口に爆弾が落ちたため、土が胸の上に落ちてきて、呼吸困難で亡くなったんです。自分の身内であっても、だんだん冷えていく体は。私が一番かわいがっていたから、この子を」

家族の命を救うために高いお金を払って買った壕でしたが、松茂良さんの甥っ子は6月5日に息を引き取りました。松茂良さん「今でも鮮明に覚えております。思い出すたびに胸が詰まります」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月4日

 

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  1. 沖縄戦で自決した大田実司令官の娘が辺野古に 「父も喜んでいる」 | 沖縄タイムス

 

*1:受刑者の多くが1944年に鹿児島などの刑務所に疎開・移送されていたが、疎開できなかった職員とその家族45名、受刑者35名が共同生活をしていた壕は5月16日に日本軍に追い出され、「以後、各班・各自での逃避行となった。 戦場では、「受刑者は自分の 身の危険をもかえりみず、傷ついた職員を担架にのせ、沖縄の南の果てまで避難している。職員はまた、受刑者を戒護しつつ、受刑者と行動を共にした」 職員は45人のうち19人、受刑者は31人のうち24人の死亡が確認されている。」『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』 (2017) 459頁