〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月12日 『どうか死んでくれーッ』

瀬長島上陸 / 小禄海軍司令部壕の最期 / 校長の最重要任務 「御真影奉護隊」

 

米軍の動向

瀬長島の制圧

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

瀬長島 (せながじま): 豊見城市

那覇空港南側にある小島、瀬長島では、日本軍が砲台などを据え拠点としていたため、米軍の激しい砲火を浴び壊滅。米軍基地「那覇海軍・空軍補助施設」の弾薬庫として使用され、住民は強制移住、島の形も大きく変わった。1977年に返還された。

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Amtracs moving up on Senaga Shima in preparation for the pre-invasion shelling. Note the wrecked Jap Zero in the low water nearby.【訳】瀬長島の予備砲撃に向かう水陸両用車両。近くの浅瀬に墜落している日本軍の零(ゼロ)戦闘機に注目(1945年6月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Amphtracs shelling Senaga Shima.【訳】瀬長島を砲撃する水陸両用車(1945年6月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Aerial strike on Senaga Shima, showing explosions caused by bombs dropped by Marine pilots.【訳】海兵隊機による空爆を受ける瀬長島(1945年6月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

南進する米軍 - 最期の防衛線

国吉丘陵 (Kunishi Ridge)

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HyperWar: USMC Operations in WWII: Vol V

6月12日、… C中隊とF中隊は、驚くべきほどの容易さをもって進撃できた。この分なら簡単に丘を占領できるだろうと思った。だが、この勝利の夢も明け方になるとはかなく消えた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491頁より》

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DEAD JAP ARMY NURSE: This nurse, who with a Jap corpsman and doctor, was making her way from behind our lines across hill #69, presumably to a high ridge 8 (Kinushi) occupied by the Japs, was ordered to halt. They made a mad dash and were killed by rifleman Pfc Gerald J. Henggeher, 22, (956955) He is pulling out one of two potato masher grenades she had in one pack, along with medical supplies which included paper towels, bandages, etc. In another pack, also shown, she carried Jap rifle ammunition.

日本軍看護婦の死体日本兵、軍医とともに日本軍のいる国吉に移動中だった彼女は、止まるよう命じられたがそれでも逃げ、全員ヘンゲヘアー一等兵に射殺された。彼女が医薬品とともに持っていた投げ棒型手榴弾をかばんから引き出すヘンゲヘアー一等兵。彼女はライフルも所持していた。(1945年6月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦車を使って物資を前線に運び、戦車を使って負傷兵を後方に送る。

米軍は煙幕を張って進撃したが、日本軍はこの煙幕のなかに機関銃弾を流し、米軍は、結局、2個中隊と、その支援戦車隊が撃退されて攻撃は失敗した。午後、C中隊とF中隊が、まだ救援を求めているとき、戦車数輌は、負傷者用のプラズマやそれに水、弾薬などを積んで国吉丘陵に到着し、重傷者を後方に運んできた。

大隊長らは、この戦車隊の成功に気をよくして、今度は各戦車に6人ずつの歩兵を積み、この長さ1キロの平地を横切る計画をたてた。こうして銃火の中を戦車隊が、行きに弾薬物資を運び、帰りに負傷者を運んでくるという方法は、案外うまくいき、日が暮れるまでに、その日だけでも22人の戦死傷者を、後方地区に運ぶことができ、国吉丘陵攻略戦では、ずっとこの方法が行われた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491-492頁より》

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米国海兵隊: Demolition team action of Hill #69 caves, presumably Jap occupied. Both 9 and 10 show charge being thrown in.【訳】日本軍が占拠していると思われる69高地の洞窟陣地を襲撃する爆破班。爆薬を投込もうとしているところ 1945年 6月12日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

八重瀬 (Yaeju, Yaesu): Big Apple Ridge

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

午前8時、戦況はおちつき、第17歩兵連隊は、八重瀬岳に強固な地歩を築いた。日本軍は、米軍の砲撃を逃れるため、夜のうちに八重瀬岳から前線部隊を退かせていた。だが、午前7時に予定の攻撃がはじまる前までには、ふたたびそこを占領することになっていた。第32歩兵連隊が、玻名城の95高地頂上にいたる道を焼きはらって15時間後には、第17連隊はみごとな夜の進撃で八重瀬岳の一角を占領した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 484頁より》

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… Level ground in front of the escarpment made advance to the cliff's base extremely difficult. Interlocking fire from Jap cave on the face of the escarpment held up the Yanks until flame throwers and satchel charges closed the deadly strong points.【訳】手前の平地を崖のふもとまで進むには日本軍壕からの絶え間ない砲火が壁となり、火炎放射器かばん爆弾攻撃によって危険極まりない日本軍陣地をつぶしてしまうまでは立ち往生であった。(1945年 6月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

八重瀬岳のリンゴ型の部分は、相変わらず日本軍の手中にある。しかし、12日の夜までには、第7師団と第9師団は、いまは再編されてできた日本軍の独立混成第44旅団を、南東側から攻め立てていたのである。(486頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 485、486頁より》

八原高級参謀の回想:

12日の夕方、砂野から怒気を含んだ声で、電話がかってきた。「敵の戦車十数輛が、2、3百の歩兵を伴い、安里から標高点122の東側を経て、八重瀬岳に進入中だ。同方面には旅団の兵が1人もおらず、今軍砲兵隊の一部で阻止している。一体旅団は何をしているのだ。不注意千万にもほどがある。八重瀬岳は東方に対する重要な軍砲兵の観測地帯だ。これを敵にとられては一大事だ。早く軍において、対抗処置をとってもらいたい」と凄い権幕だ。

平賀連隊が、八重瀬岳の山頂を棄て、その東麓に陣地を占領したことにより、自然に生ずる弱点、すなわち現に敵第7師団が乗じつつある攻撃行動は、防御部署決定の際、軍が厳重に指摘注意したところであった。しかるにもかかわらず、旅団はその過ちを犯し、敵に乗ぜられている。八重瀬岳は軍砲兵のためのみではない。実に軍主陣地地帯の骨幹を成す要地である。さればこそ、あらゆる兵力を、涙を振るって容赦なく旅団の地獄戦線に投入しつつあるのだ。… 混成旅団、軍砲兵隊いずれの報告が真なりや不明であるが、八重瀬岳に危機の迫りつつあることは明瞭である

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 394-395頁より》

 

 

 

第32軍の動向

小禄の海軍 - 2度目の負傷兵の「処置」

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

小禄の海軍は、5月26日に砲台や機関銃座などの重火器を破壊し、傷病兵を「処分」したうえで南下を開始、27日までに真壁村伊敷へ南下、その後28日小禄に差し戻された経緯がある。小禄に戻った時点で既に壕は死で充満していた。

海兵隊: OROKU PENINSULA: One of the numerous side entrances leading underground to Admiral Ota's cave in the Tomigusuki area. The Admiral with several members of his staff committed suicide within this cave and their bodies were identified by a captured Japanese Naval lieutenant commander shortly thereafter.【訳】 小禄半島:豊見城地域にある大田中将の地下壕へ下りるおびただしい数の通用口の中の1つ。中将と部下数名は壕の中で自決し、その直後に、捕らえられた日本海軍少佐によって遺体の身元が確認された。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

5月28日に南部から引き戻された小禄の司令部壕は、武器もなく死と腐敗で充満していた。

米軍の砲爆撃は4、5月と続けられた。そのため5月末、海軍部隊は一時、南部に移動した。医務室壕は重症患者も多く、自力で動けない者は青酸カリで薬殺された。最初は食事に混入。頭をつきあわし、もがき苦しむ患者の中で、1人が食べて死ぬと、もう、食べる人はいない。すると次は注射。栄養注射といつわって打つ。死ぬ。それを見て他の患者があばれる。数人で押さえ込んで打つ

 上里さんは自らの戦争体験の中で、最も恐ろしい体験を語る。「注射を打つと、あっという間です。『うーん』とうめき声を上げたと思ったら、両手が曲がり始め、このまま…」。重い口がさらに重くなる。戦後、何度もうなされた。夫が亡くなった時も、「そのせいで罰があたった」と一時期ノイローゼになったとも言う。

 南部から戻ってきた時のがけの壕は悪臭を放っていた。降り続く雨で死体の腐乱が早まり、じめじめとした壕の中は、ハエと悪臭で人が入ることを拒んだ。「死体の上にはしごを置き、その上を歩いた」ほど、どうしようもない光景だった。… ハエもたくさんいた。火を消すほどハエがいた。「あのころは油に芯(しん)を入れただけでの簡単な明かりでしたが、火をつけると、一瞬のうちに、数えきれないほどハエが飛んできて、その火を消すんです」。

琉球新報『戦禍を掘る』山根隊医務壕 - Battle of Okinawa

大田少将は残存部隊は陣地を脱出しゲリラ戦に移るよう命令、一方で重傷兵に「自決」命令が下された。二度目の重傷兵の「処置」である。

http://kaigungou.ocvb.or.jp/english/img/outline/ph02.png

大田実海軍少将(のち中将)

12日午後、74高地の頂上は米軍に占領され、司令部壕の最後の時は迫った。…壕内に居た各部隊の生存者に最後の非常呼集が掛かったのは午後8時ごろだったと言う。司令室と幕僚室にはさまれた通路に整列したのは、血潮と硝煙にまみれた約270人にすぎなかった。大田司令官の他、幕僚は首席参謀の前川大佐、南西諸島空司令から連合艦隊兼沖根参謀に転じ、4月から司令部に詰めていた棚町大佐、護部隊司令・羽田大佐、21空廠小禄派遣隊の鈴木中佐、軍医長・小山少佐、機関参謀・山田少佐の6人が顔を揃えていた。司令官は普段と全く変わらぬ温泉顔で、歴戦の部下の顔を慈愛に満ちた眼差しで見回していたが、「敗軍の将、兵を語らず」故だろうか、伝達事項は山田参謀が声を張り上げた。大要次のような内容だったと言う。

司令官及び幕僚は本日、自決される。これまで、諸官と共に随分、奮闘したが、遂に敗れた。しかし、友軍は必ず逆上陸して、沖縄島を奪回すると信じる。自力で行動出来る者は最後まで生き延び、地理に明るい諸官が逆上陸軍に協力してくれ。自力で行動出来ぬ者は、残念ながら自決してくれ。自力で行動出来る者は只今から自由行動を取れ」

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 445-446頁》

曹長の証言:

「壕には他に、身動き出来ぬ傷病兵が約300人は居まして、その処置が早速、始まりました。軍医長は『自分は皆を殺すために軍医になったのではないが、事ここに至っては止むを得ない。どうか死んでくれーッ』と泣きながら、注射していきました。これらの人々も無念の涙にくれながら、次々に瞑目しました。ですが、中には手も足も動かせぬ兵隊で『軍医長、待ってくれーッ。このままでは、死んでも死に切れん。せめて手榴弾の一発でも、敵に投げさせてくれーッ』と絶叫する者も居まして、その悲壮な光景はとても言葉では表せません」

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 446-467頁》

海軍壕の最期。大田實司令官の自決は翌日13日午前1時頃と言われている。

解散命令を受けた兵隊や女性軍属の証言:

断末魔の絶叫、呻き声が満ち、肉親、知人を求めて右往左往する人々で大混乱の司令部壕内。…「時間ははっきりしませんが、山田機関参謀が大声で『総員脱出せよ。壕は爆破させる』と言い終わるか終わらぬうちに、何発かの拳銃の発射音がしました。『あの音は司令官の最期だ。早く外に出ろ』と皆が口々に言い、脱出する人、動けない兵隊や将校の自決などで、壕内は阿鼻叫喚の状態に陥りました」

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 448頁》

軍民一体の壕内で多くの民間人が犠牲となった。

… 壕内の混乱は、なお続く。

「その後、南口の方で『突撃ーッ』の兵隊さんの声がして、ワァーッという喚声がした途端、壕内で爆雷がドーンと爆発しました。爆風が押し寄せ、電気が消えて真っ暗になり、ああ、もう今、自分は死んだのだという気分になりました。兵隊たちが出た後へ、米軍が毒ガス弾を投げ込んだらしく、全員フラフラになり、気がついた時は民間人の女性6人、傷病兵2人の8人だけになっていました。2、3日後、米軍が攻撃を仕掛けて来た時、民間人のうち30歳くらいと12、3歳くらいの母子が手榴弾で自決してしまい、私らは1週間後、先に脱出していた…さんに救出されました」

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 448-450頁より》

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A side-entrance into Admiral Ota's cave after phosphorous grenades had been thrown in. Note the logs jutting out of the entrance. These had been used to buttress the entrance. This cave was impregnable to any to any sort of bombardment and had to be taken by infantry.【訳】白燐弾が投げ込まれた後の大田中将の壕の通用口。入り口から突き出た丸太に注目。これらは入り口の補強に使われていた。この壕はどんな砲撃にもゆるがず、攻略するには歩兵を投入しなければならなかった。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

小禄村のある少年の証言:

「隊長の吉背兵曹長は『軍は今夜自爆する。住民は沖縄本島南部へ避難せよ』と命令しましたが、米軍の攻撃の方が早かったのです。壕の入口をふさがれ、小さな穴からポコンという音とともにガスが広がりました。日ごろ親しかった朝鮮人軍夫のブンリョウさんが私の体を高く持ち上げ、窒息をしないようにしてくれました。こんなことを3、4回くりかえしたのち、兵隊の死体をふみわけ、小穴を押し広げて外へ出ました。翌日、小禄の自宅の壕へ入ったところを米兵につかまってしまいました。」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 171頁》

 

そのとき、住民は・・・

校長たちの最重要任務 - 御真影奉護隊

本来なら生徒児童を護るべき校長や教員の最重要任務は、「御真影」(天皇の写真) や「教育勅語」の書かれた紙を守ることであった。

御真影とは昭和天皇・皇后の写真のことです。全国各地では、米軍の空襲が来る度に校長先生や教員たちは、この御真影を焼失から護るため、担いで右往左往しているのです。当時の文部省からは、まずは御真影を護ること、教育勅語を護ること、これが一番の校長たちの任務でした。その次が生徒・児童を護ることだったのです。護る順序が、今考えると信じられない。当時は、真面目にそれを考えていました。

御真影奉護隊 - 校長の沖縄戦 - 95%の学徒が犠牲になった沖縄県立工業学校の通信隊 - Battle of Okinawa

沖縄戦の絵】「母に手を引かれ」

沖縄本島北部の山中で米軍の掃討作戦に巻き込まれた時の体験。…家族5人で本島北部の山中の小屋に避難していた昭和20年6月12日、米軍の部隊が小屋に迫ってきた。小学校の校長だった父は「御真影」と呼ばれた天皇陛下の写真を守るため、1人で別方向へ逃げた。…母親に手を引かれ弟と一緒に林の中に逃げ込んだ。

身を潜めた直後、銃撃が始まり、機関銃や火炎放射器の音が長い間鳴り響いた。歩くのが困難だった祖母は逃げ遅れて消息が途絶えた。銃で撃たれてしまったのではないかという。…「母が私たちの手を引っ張って逃げた時の、女親とは思えないほどの力強さを今でもはっきり覚えている。敵に見つからないよう私たちの身を隠してくれた山原(本島北部)の原生林が私の命の恩人だ」

母に手を引かれ | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

御真影奉護隊の結成

米軍上陸2ヵ月前から、沖縄戦が終了するまでの5ヵ月間、「天皇の写真」と共にさまよった一団の人達があった。

御真影。・・・その北部疎開については、10月10日の那覇の大空襲があってから、色々取沙汰されていたが、翌年1月初旬頃から、全島各中学校、国民学校の校長又は教育界の代表者達によって、名護の北方約3里、稲嶺国民学校に集結されていた。

その頃、追い立てられるような不安の中に、疎開を急ぐ避難民たちは、よく北部山中や海岸よりの道路筋で、頸から白い紐を吊し、両手で御真影を捧持している、沈痛な面持ちの人達に出会い、道を避け、うやうやしく、それを見送ったものだ。

その沈痛な面持ちの人たちは、それから5ヵ月間、その御真影を風雨から守り戦禍から救うために、その沈痛な表情から解放されることがなかった。2月上旬、県当局は御真影奉護の常任委員を任命した。御真影の保管については、県当局や軍から色々指示があったが、彼ら委員に対しては、いざという場合の処置が委されていて、戦況に応じて適切な判断をなすために、彼らはだんだん欠乏してゆく食と戦いつつ、あらゆる方法をつくして、奉護所を守らねばならなかった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 283-284頁より》

1879年、琉球は日本に強制併合されるが、それから55年後の「皇国」では、一枚の天皇の紙切れ、教育勅語の紙切れを守ることが、子どもたちたちの命をまもることより何より、学校側の最重要任務とさていた。

沖縄本島の場合は御真影奉護隊」が結成されます。9名の校長・教頭で編成され、それ以外にも志喜屋孝信さんとか、他の先生たちもいました。その家族も一緒で、総勢30数名でした。4月7日には、名護湾に米軍が到着し、早くも大湿帯には4月9日から10日にはすでに来ています。したがって、米軍が7日に上陸して10日には、この御真影奉護壕を放置します。放置する際に、明治天皇大正天皇の写真を焼いて、昭和天皇だけはまだ生きているからと、写真を抱えて山のなかを80日間さまようのです。その間の30数名分の食事をどうするかが大きな問題でした。飢餓寸前になりながらも任務を続けました。ところが、6月下旬になると、南部の情勢がわかってくる。長参謀と牛島司令官が自決して戦略的な戦いは終わったということで、御真影を山のなかで焼くことになりました。私は、仕事がら高校生たちに、よくこの話をしますが、高校生たちは、この話を聞いておかしくてゲラゲラ笑います。おかしくてしょうがないという雰囲気です。1890年、各地に御真影が来てから55年後には、そういうことになっていくわけです。だから、また55年後には笑えない状況になっているかもしれないことを、これまでの歴史の中で見ていってほしいと思います。

《『シンポジウム『沖縄戦』を語る』沖縄史料編集紀要、沖縄県教育委員会、2018年03月23日 》

校長らが後生大事に紙切れを風呂敷に入れて逃げ回っている間に、 沖縄県立工業学校の学徒の95%が戦場で命を奪われていた。

 

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2017年6月12日、元沖縄県知事 大田昌秀さん、ありがとう。 ~その時、沖縄は~