〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月11日 『住民は日本兵の盾』

金武観音寺の米国移転計画 / 海軍司令部壕「玉砕」電文 / 使い捨ての兵 / 盾にされる住民

 

米軍の動向

日本軍を追う米軍

日本軍の後を追い、わずか1週間ほどの間に南風原、大里、豊見城、東風平、玉城を次々と突破し、南下を続けるアメリカ軍は、糸満から八重瀬岳を経て、具志頭へと至る線上まで迫り、包囲網を狭めます。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)

国吉丘陵 (Kunishi Ridge)

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HyperWar: USMC Operations in WWII: Vol V

第1海兵師団は沖縄の西部海岸を糸満のほうから上に攻め、さらに小禄半島を南部の戦場から隔絶するようにしてゆっくり進撃し、わずかながら抵抗はうけていた。ところが、国吉丘陵の北1500メートルほどのところまでは、それで良かった。そこから以南に進むには、与座岳の高い所から見通しがきくし、日本軍の射撃をうけるのだ。… 第7海兵連隊は、6月11日、あえてこの平坦地に進出してみたが、予想どおり、たちどことに日本軍の機関銃から猛射をうけて撃退されてしまった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 490、490-491頁より》

日本軍 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

6月11日を迎えると、敵は国吉台へ歩兵と戦車の大部隊で攻撃を開始した。これに対し、歩兵には機関銃擲弾筒小銃で猛射を浴びせ、打撃を与える。戦車には速射砲と師団砲兵の野砲それぞれ1門が有効な射撃を加えた。照屋北側高地と国吉台地の間には、幅700メートルほどの平坦地がある。そこを通過してくる敵は、あらん限りの火力で必死に反撃する伊東大隊にとって、格好の餌食となった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 238頁より》

八重瀬 (Yaeju, Yaese): Big Apple Ridge

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

6月11日の朝、…第32連隊は玻名城の山に向かって進撃していった。B中隊が先陣となって高地の北東端を攻め、戦車や砲兵隊も猛烈に砲弾をあびせたため、山の一部は砲煙でかくれ、日本軍の壕内の機関銃陣地も見えなくなり、兵は一時は進撃することさえできないほどであった。…合議の結果、高さ50メートルのこの崖の頂上にいたる通路を火炎砲戦車を使って攻撃することにした。

…玻名城の山のほうへ戦車を走らせると同時に、米軍歩兵がまず登ることになっている山腹めがけて赤い炎の河を流した。火炎は山腹の洞窟にいる日本軍を、いささかの抵抗も許さぬほど完全に撃滅した。

午前11時、…ホースの端を火炎砲戦車に連結、他の一端をほとんど垂直に近い丘陵の側面に引き上げはじめた。…45分もかかってようやく岸壁先端の真下の小さな岩棚にたどりついた。そこでしばらく観察し、それから端のほうに、転げ込むように走り、近くの日本軍に火炎をあびせたのだ。…日本軍陣地があると思われるところに火炎を浴びせながら、そのまま南へ押していった。1輌の戦車の燃料がきれると、ホースは別の戦車に連結するようにしながら・・・。

6月11日の夕方、米軍前線の部隊が塹壕を掘って、いよいよ戦闘開始の準備をしているとき、第7師団の各戦闘連隊から出た大隊は、沖縄南部で、日本軍の主要防衛線内に小さいながらも一区画を保持していた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 464頁より》

与座 (Yoza)

6月10日、第38連隊は、与座村落をめざして進撃し、翌日には着いたが、廃墟と化した村落内に入るや、石垣から別の石垣に移るときでさえ、猛烈な戦闘が展開された。そればかりでなく、村落の南端にそびえる与座岳からは流れるように弾丸が飛んできた。夜に入るにつれ、銃火はますますはげしくなり、ついに米軍は、その夜、撤退せざるを得なくなった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 477-478頁より》

 

危機に瀕する金武観音寺

金武観音寺の接収計画

海兵隊が建築中の金武飛行場 (現在のキャンプハンセン) に隣接し金武観音寺があった。沖縄戦でほとんどの寺社が焼失したが、金武の観音堂は奇跡的に戦火をまぬがれていた。またその境内にある「日秀洞」は大勢の地元民を守った。

沖縄県下の社寺建築の多くは、今次大戦で焼失しましたが、幸い観音寺は戦災を免れ、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築として今日に至っています。

観音寺 | 金武町観光ポータルサイト - ビジット金武タウン

その境内には長さ270m,地下30m の洞窟(鍾乳洞)があり,琉球王朝時代から琉球八社のひとつとして人々の信仰を集めてきた。… 第二次世界大戦中は何千人という人々がこの洞窟に避難したという。

《塩月亮子「沖縄の洞窟信仰と観光 : 民俗知活用の可能性を探る」(2010) 9-10頁》

しかし戦火を逃れてもなお、金武観音堂は存亡の危機に瀕していた。6月の時点では、この寺を解体して米国に移転し博物館とする計画が既に進行中であったようだ。

米国海兵隊: The effects of the battle of Okinawa on the Buddhist temple near the Marines' airfield are visible on this shot. The temple stands in a clearing in a mountain woodland. Its heavy tile roof is of Japanese design. The walls and beams are of cedar the aroma of which permeates the air inside the temple. Note the barbed wire fence which has been placed around the shrine to keep souvenir hunters from destroying its beauty. Plans are under way to dismantle the building and have it reconstructed in the United States as a museum.【訳】海兵隊飛行場近くにある沖縄戦の影響をうけた寺。日本風屋根瓦を持つこの寺は森林開拓地にあり、壁と梁には杉を用いているため、杉の香りが寺の中に広がる。寺の周りに張り巡らされた有刺鉄線は戦利品狙いの侵入を防ぐためのものであることに注目。建物を解体して米国で博物館として再建しようという計画が進行中。1945年6月11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米国海兵隊: Upon ascending the steps toward the main entrance of the Buddhist shrine at the second Marine Air Wing Base at Chimu Field, Okinawa, the visitor is greeted with this view.【訳】第2海兵航空団の金武飛行場にある仏寺の階段を上っていくと、正面にこれらの像が見える  金武町 1945年 7月 6日〜11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

また、当時、戦利品捜しという名での略奪はあちこちで行われていた。

米国陸軍通信隊: Pfc. Killmar and Pfc. Van Leuve looking for cached supplies inside Okinawan home.【訳】民家で貯蔵品を捜すキルマー上等兵とルーヴ上等兵  金武  1945年5月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

この後、金武観音寺の米国移転計画を変更させ、美術工芸品を盗難から守る試みは、生易しいものではなかっただろう。これには米海軍政府文教部長のウィラード・ハンナ少佐らの尽力があった。後の8月に石川に東恩納博物館を設立し、金武の仏像や首里円覚寺の前鐘などを移転させ保護する。

沖縄戦で多くの寺社建造物が消失した中、戦火を免れた金武観音寺。本堂に佇む4体の仏像は戦後しばらくの間、東恩納博物館に移されていた。

沖縄テレビ 沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…【沖縄発】

こうした危機をのりこえ、現在に至る金武観音堂と日秀洞。

沖縄県下の社寺建築の多くは、今次大戦で焼失しましたが、幸い観音寺は戦災を免れ、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築として今日に至っています。

観音寺 | 金武町観光ポータルサイト - ビジット金武タウン

 

第32軍の動向

包囲される海軍司令部壕

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

主力部隊を陸軍に抽出されたあげく、丸腰で南部から小禄に引き戻された小禄の海軍は、いまや3分の2が地元からの防衛隊員であった。

アメリ海兵隊に包囲され孤立無援のまま4日から猛攻を受け続ける小禄飛行場周辺の海軍部隊は、南部撤退に備え大砲や重火器類を破壊していたため、効果的な反撃が行えないまま、またたくまに消耗していきます。

3000人とも5000人ともいわれる兵のほとんどは戦死。兵の3分の2は現地召集された沖縄県民。そして65年前のきょう、海軍司令官・大田少将の電文を最後に通信は断絶します。

「敵戦車群はわが司令部壕を攻撃中なり 根拠地隊は11日午後11時30分玉砕す 従前の厚誼を謝し健闘を祈る」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)

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M-7 tanks of Special Weapons Co. (22nd Marines) as they shell disorganized Jap positions on Oroku Peninsula.【訳】小禄半島で混乱した日本軍陣地を砲撃する第22海兵連隊特殊兵器中隊のM-7型戦車。(1945年 6月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 午後1時30分、筆架山 (ひっかざん=がじゃんびら) の第1目標である62高地は陥落し、また日本軍の保持している他の地域も見渡せる同じく筆架山の53高地も、その後まもなく米軍の手におちた。米軍海兵3個連隊は、およそ1キロ平方の地域に固く包囲陣を保持した。日本軍の壊滅戦はその翌日に行われた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 464頁》

10日夜、小禄半島にいた沖縄方面根拠地隊は、夜間の斬り込みを送り出す。

壕内にいても、敵がわが陣地に取りついたことは判断できた。壕の出口に砲撃を加えてくるから、壕内には恐怖の大震動が伝わってくる。ときどきドリルで壕に穴を開け、ダイナマイトを仕掛ける。爆破の衝撃で壕の天井が崩落する不気味な音があちこちから聞こえてくる。入り口辺りは土の厚みが二メートルくらいしかない。

上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』(2008) - Battle of Okinawa

衛生兵長の体験談:

「壕内の通路は運び込まれる負傷兵の悲鳴や唸り声で、阿鼻叫喚でした。治療の仕様がない患者も多く、最後の一言は皆『お母さぁーん』でしたねえ」

夜更け、米軍の攻撃の止み間を見て脱出、北部へ行こうと小禄地区と那覇市を隔てている国場川の、周囲15メートルぐらいの小さな中州に這い上がった。対岸は照明で昼間のように明々と照らし出され、敵のトラックがひっきりなしに通っているので、渡れない。結局、身動き出来ぬまま夜が明けてしまう。

「民間人が作った壕があったんやけど、岩の上に板を掛け、土をかぶせて阿檀の葉で擬装しただけのものでね。そこへ兵隊や民間人が30人近くも隠れたもんやから、すぐに見つかって擲弾筒を撃ち込まれ、県民が随分亡くなりました。可哀相に赤ちゃんも含めて。12日の昼頃、私らは中州へ上がってきた米兵7、8人の捕虜になりましたが、74高地の司令部壕は見ているのも辛い程、集中砲火を浴びていました」

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」(田村洋三 / 光人社NF文庫) 444-445頁より》

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《註・AIによるカラー化では火焔の色が再現されていません》Demolition men of 3rd Bn., after having secured Oroku Peninsula, go about the arduous task of smoking out Nips from the numerous caves. If smoke doesn't prove effective caves are sealed by charge of TNT.【訳】小禄半島を攻略後、無数に点在する壕から日本兵をいぶり出すという困難な任務に取り組む第3大隊の爆破係。それでも日本兵が出てこない場合、トリニトロトルエン爆弾で壕を破壊、封印する。(1945年6月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小禄の大田実少将、最期の電文

6月11日、早朝から74高地は米軍の包囲攻撃を受け、沖縄方面根拠地隊は奮闘、弾薬がつきるまで交戦したが、どうしようもなかった。海軍部隊の最後がせまりつつあった

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 115頁より》

… 司令部壕が包囲攻撃される中で、大田司令官は6月11日が沖縄方面根拠地隊の最後の日になるのでは・・と考えたようだ。この日午後1時37分、32軍の長参謀長宛に次の作戦特別緊急電報を発した。

「敵後方を攪乱又は遊撃戦を遂行する為、相当数の将兵を残置す。右将来の為一言残す次第なり」

… 可能な限りの部下を包囲された陣地から脱出させ、後方攪乱や遊撃戦を命じたが、これらの兵士が戦線離脱や脱走などと誤解されないようにとの心遣いだった。そして同夜、牛島軍司令官宛に、6日に続いて2度目の訣別電を発信する。

「敵戦車群は我司令部洞窟を攻撃中なり。

根拠地隊は今11日2330玉砕す

従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」

戦闘部隊ではない医務隊には、いち早く後方攪乱部隊として脱出が認められた

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」(田村洋三 / 光人社NF文庫) 443、444より》

さんざん部隊を首里に供出させ、最後には陸軍の撤退を優先し丸腰で小禄に差し戻した陸軍第32軍の八原作戦参謀は、このように手記に記している。

八原高級参謀の回想:

小禄地区の戦闘は、当初すこぶる悲観的で、一挙に潰滅するのではないかと危ぶまれたが、漸次戦勢を持ち直し、金城、豊見城、75高地付近の一角でよく健闘し、その戦況報告は日々確実に軍司令部に到達した。しかし衆寡敵するはずもなく、敵の包囲圏は日々圧縮され、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は11日2330を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」の電報が11日夜遅く、我らの手にはいった。長恨限りなく、悲痛極まりなし。大田将軍、棚町、羽田、前川の各大佐に顔が目に浮かぶ。いくたびか戦いを議し、ともに飲み、談じた人々の数々の思い出こそ、哀れである。謹みて敬弔の誠を捧げるのみ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 398頁より》

 

高平野戦病院 - 見捨てられた負傷兵

日本軍は、日本の傷病兵を「処置」しながら撤退したが、米軍は日本の傷病兵を「救出」し野戦病院に送った。高平野戦病院 (大里村仲程西南)の病院関係者と歩行可能な負傷兵は、 5月25日に病院壕を脱出したが、その際、重症兵は置き去りにされていた。6月11日に米軍に発見され捕虜となった*1

米軍調書に記録された置き去りにされた重傷兵

彼は、洞窟に自分を置き去りにし、傷のせいで死ぬかそれとも餓死するかを強制した軍を痛烈に批判している

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版2015年 p. 219 》

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米国海兵隊: Captured Jap soldier getting medical aid at our station. His wounds even had maggots crawling around the flesh.【訳】救護所で治療を受ける日本兵捕虜。彼の傷にはうじがわき、肌を這い回っている。1945年 6月10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

また同日、米軍は高平で1人の兵士を捕えた。彼は、自ら進んで米軍に洞窟を案内し、そこで4人の負傷兵が救出された。

米軍調書に記録された寺石ミヨジ兵長 (26歳京都出身)

寺石兵長と数人の負傷兵らは、身を潜めていた洞窟を出て、真壁に向かおうとしたが、捕えられた。捕虜は、重傷というほどではなく、彼は、高平病院壕に遺棄された重症患者を南部へと連れて行こうとして後方に残っていた。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版2015年 p. 220》

また同日、高平野戦病院を脱出し、南部ではなく米軍のいる前線に向かって進み投降した6人の負傷兵の記録が残っている。翌日12日には同病院壕で重傷兵9人が救出された。

高平野戦病院で遺棄され、その後野戦病院を脱出し米軍の捕虜となったものは、22人に及んでいる。これは、米第24軍団捕虜尋問調書が比較的多く保存されていたために明らかになったケースであろう。これら調書記載の負傷者証言を読むと、「戦陣訓」には収斂できない多くの人生模様が見て取れる。ある兵士は、病院壕に遺棄されたことに満腔の怒りを露わにしている。また仲間を救出するため命を賭して病院壕に向かった兵士もいた。さらに、病院壕に遺棄された患者のうち何人かは、自分たちの部隊には帰らず、あえて米軍の方に向かってもいる。沖縄戦の終盤、兵士・住民の区別なく誰しもが南部を目指し退避した。その中で生死の境に置かれた負傷者に、人間的な救助の手が入ることはなかった。彼らは、死を求められはしたが、生を期待された者はいなかったであろう。大地に這いつくばってでも自らの命は自ら掴むしか術はなかった。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版2015年 p. 219 》

Japanese soldiers, captured in an enemy hospital cave where they attempted to commit suicide by using hand grenades, lie wounded Warren Hige, and 1st LT Alan beach, both of 96th Inf, Div, the Japs survived their own grenades, but succeeded in injuring【訳】手榴弾で自殺しようとして敵病院の洞窟で捕らえられた日本兵が負傷して横たわっている。日本兵は手榴弾を生きのびたが、負傷することには成功した。 1945年6月11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

「自決」という名の強制死。「自決」とは、そもそも「過失の責任をとって自分の生命を絶つこと」であるが、日本軍の戦争では、責任のない兵士や住民が口封じのために死を強制された。それを「自決」と呼ぶのは、実際には適切な言葉の使用ではない。

6月3日、およそ500人の傷病兵が強制死を強いられたヌヌマチガマ

翌朝、居残る重傷患者に自決剤が配られた。米軍の捕虜となった場合、傷病兵の口から日本軍の作戦行動が漏れるのを防ぐための口封じである。壕の外はたたきつけるような雨。やがて“安楽死”という名の悲劇が始まった。

琉球新報『戦禍を掘る』 ヌヌマチガマ ~ 白梅学徒看護隊 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

壕からの追い出し

日本軍の南下は、軍の経由する先々でおびただしい住民が壕から追われ、苛烈な弾雨のなかに投げ出されることを意味した。

攻撃から身を守るには、ガマや地下壕に逃げ込むしかない。糸満市には確認されているだけでおよそおよそ240か所のガマや壕があったが、それでも全く足りなかったという。このうち110か所は、日本軍が陣地などに使っていたが、アメリカ軍の制圧地域が南下するにしたがってガマの不足が顕著になり、住民が隠れていたガマに日本兵たちが混在する状況がさらに増えていった。

沖縄県庁職員の証言:

「日本の兵隊が来まして、おばあさん連中はみんな出ていけというんです。私が『あんた方、今来て出ろと言ってもね、外は弾が降っているじゃないか、出ろというのはその場ですぐ死ぬことになるじゃないか』と言ったらね、兵隊は『何貴様、何言ってるんだ』と言って、すぐに拳銃を出しましてね、撃とうとしたんですよ」
NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 153頁より》

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Natives of Okinawa crowd around marine truck eager to go to civilian collection point for food, clothing and shelter. They were glad to get out of battle area.【訳】食糧や衣類、避難所を確保するため民間人収容所へ向かおうと、海兵隊トラックの周りに集まる地元沖縄人。戦場から一刻もはやく逃げられることに喜んでいる(1945年6月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

海兵隊: An Okinawan child, orphaned by the war and found alone in a cave, is assisted into her small kimono by a Marine.【訳】 戦争で親を亡くし、壕で一人見つかった沖縄の子供は、米海兵隊員の手を借りて小さな着物を着けている  1945年6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

住民を盾として利用した日本兵

日本軍と住民が避難した壕では、兵士が一番安全なところを陣取り、住民は砲弾から身を守れないような壕の入り口、あるいは壕内の極めて劣悪な環境に追われた。

壕の奥深くに潜んでいた上等兵の証言:

「住民を我々の中に入れておくわけにもいかないんですよ。かといって、私らが離れて入口に住むわけにもいかないし。住民たちはアメリカ兵に見つかっても、殺されないだろうとは思っていました。兵隊は自分の身を守るだけでやっとこさ、そういうことからいくとね、わからない。案外住民を(盾として利用したかもしれない」

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 154頁より》

1945年6月、現在の糸満市真栄平。当時13歳の金城トミ子さん(88)=糸満市=は暗闇の中、母の玉城ウシさん、姉、おい、めいの9人で自宅に設けた小さな壕に身を隠していた。

 「出ろ」日本兵が穴の外から命じた。「ここは女と子どもだけ。行くところもありません」と母が答えた。すると日本兵は壕入り口を覆っていた畳をめくり、手りゅう弾を投げ入れた。手りゅう弾は入り口近くの水がめに当たり、爆発した。母はとっさにかごを盾にしたが、左薬指が吹き飛んだ。水がめの破片がおいの額に飛んだ。

 「どうせ殺されるのだから、舌をかんで死のう」。姉の言葉に金城さんも舌を必死にかんだ。住民を追い詰めたのは日本兵だった。

 45年5月下旬、第32軍は8割の兵力を失っていた。しかし、「最後の一兵まで」戦うと決め、摩文仁に撤退した。本土決戦の準備が整うまでの時間稼ぎだった。南部は軍隊と十数万人の避難民、住民が雑居状態になった。

 6月19日以降、真栄平一帯には敗残兵が多数逃げ込んだ。兵力で圧倒する米軍に包囲される状況の中、日本兵は守るべきはずの住民を壕から追い出したり、住民の食糧を強奪したりした。スパイと疑いを掛け、投降しようとした住民を殺害したこともあった。日本兵が金城さんらに手りゅう弾を投げ付けたのも、その時期だ。

 夜、日本兵らは最初、隣家の敷地に押し入り、住民に壕から出るよう指示した。隣家の女性は「フイ、フイ(はいはい何ですか)」と答えた後、日本兵に刀で首をはねられたという。

 金城さんの姉は隣家の壕にいたが、助けを求めて実家の壕に逃げてきた。追い掛けてきた日本兵が手りゅう弾2発を投げた。1発目は水がめに当たって爆発した。2発目は入り口に積まれていた荷物が防いだ。

 隣家の子ども3人が斬られ、苦しんでいた。腹から腸が出ていた。いとこも足を斬られて倒れていたが、助けられなかった。金城さんの家族は暗闇の中、必死に逃げた。(沖縄戦75年取材班)

母と姉に手りゅう弾、投げたのは日本兵だった 戦死ではない戦争死とは<「戦争死」に向き合う>① - 琉球新報

 

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沖縄の今日

1965年6月11日 読谷村米軍パラシュート落下事故

*1:高平野戦病院の軍医Sは、捕虜となった際の捕虜調書記録が残されている。彼は赤十字条約に言及し、米軍に対し軍医としての身柄の保護を求めた。高平野戦病院の撤退時に他の野戦病院のように青酸カリなどで重傷兵に死を強制しなかったのも、置き去りにすることで米軍の保護が受けられる可能性を残したためとも考えられる。1945年6月28日 『沖縄の基地化と収容所』 - 〜シリーズ沖縄戦〜