〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月7日 『日本軍の住民対策』

金武の掃討 / 海軍外科壕から轟の壕へ / 急造爆雷はいくらでも作れる / 住民避難対策とスパイ監視 /

 

米軍の動向

北部 - 金武掃討作戦

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金武掃討作戦と金武飛行場: 米軍は4月下旬から金武飛行場の建設を開始していたが、護郷隊による少年兵をつかっての襲撃や破壊行動があり、米軍は金武の避難地域に徹底した掃討作戦を行った。さらに6月20日以降は周囲の住民をギンバル、宜野座、漢那の民間人収容所に移住させる。

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金武掃討作戦と呼ばれた戦闘に参加するアメリカ兵達。連日、たくさんの雨が降り道もぬかるむ中、アメリカ軍は山の中や民間人が住む住宅地にも入り込んでいきました。合図に合わせて一斉に民家に押し入り日本兵が隠れていないか、武器などを隠していないかを確認するアメリカ兵。追い出された住民は茫然とした様子で家の方を向き座り込んでいます。住民を制圧し、日本兵がいそうな場所は全て火炎放射機で焼き払われました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日

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米陸軍: Flamethrower aimed at entrance of cave.【訳】壕の入り口に向けられた火炎放射器 金武 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

小禄半島上陸: 4日目

この頃、海兵隊の前線は4キロものび、小禄の具志村落まで達していた。

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

那覇 (Naha)

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The 15th Marine artillery Reg't, commanded by Col. R.B. Luckey, is shown set up in the rubble and chaos that once was the city of Naha on Okinawa. The 2nd Bn of this Reg't which fire 105mm Howitzers, are shown firing among the ruins of houses and stores in the heart of Naha.【訳】かつては市街地であった那覇の瓦礫や混沌としたなかに砲座を据えたラッキー大佐率いる米海兵隊第15砲兵連隊。この連隊の第2大隊が、那覇市中心部の廃墟となった住宅や商店の中から105ミリ榴弾砲を撃ちこんでいるのが見える(1945年6月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本海小禄飛行場占領。

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”B” Company Engineers Mine Disposal Team, 6th Marine Division, looking over wrecked Jap hangar, Naha airport, for mine and booby traps.【訳】那覇飛行場にある破壊された日本軍の格納庫で地雷や偽装地雷などを探す第6海兵師団工兵爆弾処理B中隊(1945年6月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

南進し、西側から豊見城にある海軍司令部壕に接近する。

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Heavy tanks of ”B” Company, Sixth Marine Division, pass wrecked large hangar at Naha Airfield on the way to the front lines.【訳】前線へ向かう途中、那覇飛行場の大破した大格納庫のそばを進む第6海兵師団B中隊の大型戦車。(1945年6月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

…頑強な日本軍の防衛線にあって、海兵隊は、6月7日、8日と2日間にわたって戦闘でわずかしか進撃できなかったのである。戦車は使用できなかった。泥の層が厚く、広い地域にわたって地雷が埋めてあり、さらにその周囲の丘には機関砲座がいっぱいあったからだ。6月7日は筆架山占領に3個小隊の戦車隊が出動したが、たいていの場合、戦車はのなかにはまって動けなくなり、また地雷地帯のかなたから飛んでくる機関砲の弾丸にあたって前進をはばまれてしまった。第4海兵連隊の第2大隊では、丘陵の頂上を攻めるのに、丘をのり越えて行くかわりに3ヵ所に大がかりなトンネルを掘って目的地に到達するという方法までとったのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》

乾燥血漿は常に前線に携帯され、負傷兵には直ちに応急措置がとられた。

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【訳】3rd Battalion, 29th Marines, Battalion Aid Station at Naha Airport. Corpsmen treating three wounded Marines, giving blood plasma.那覇飛行場にある第29連隊第3大隊の救護所。負傷した3人の海兵隊員に血漿輸血を施す衛生兵。(1945年6月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Members of the 4th Marine Regiment, 6th Marine Division are shown enjoying themselves by bathing in a bomb crater on Naha airfield shortly after taking it from the Nips. In the background a Jap plane rests after its last flight.【訳】日本軍から攻略したばかりの那覇飛行場にある砲弾跡で水浴びを楽しむ第6海兵師団第4大隊の兵士。後ろにあるのは最後の飛行を終えた日本軍機。(1945年6月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

八重瀬 (やえじゅ・やえせ)

つぎの3日間、第96師団は、砲兵隊の砲撃や爆撃で…攻撃する一方、たんねんに日本軍砲座や機関銃陣地を観測していた。熾烈きわまる戦闘が第7師団の東翼端で起こった。そこでは第184連隊のB中隊が、玻名城の95高地から北側に向かって走る峰に沿って陣地を構えている降服を知らぬ日本軍の抵抗に直面していた。この稜線は長さ約800メートルで、沖縄島では最も地形の荒いところ、スポンジのような珊瑚礁岩の塊があるかと思えば、ガラスのようにきり立った岩面をなしていた。

丘陵にはいくつかの堡塁とともに、歩兵一人一人が入れる無数の壕が掘ってあった。それにこの丘は95高地の陣地からまる見えであり、掩護射撃がきく。進撃は遅々としてはかどらず、中隊もわずかしか進撃できなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 470頁より》

 

第32軍の動向

日本軍の最高戦争指導会議は本土決戦の方針を採択。沖縄は帝都防衛の準備のための時間稼ぎに使われ、住民を巻き込んだ戦いはさらに泥沼化します。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月7日

小禄半島 - 海軍司令部壕

沖縄方面根拠地隊 (大田実海軍少将): 包囲が狭まる小禄

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

首里の防衛線に主力を供出し、さらに第32軍南下のために小禄に丸腰同然で引き戻された海軍は、南下の指示に従わず、小禄にとどまることを決意していた。

7日午後大田司令官は、指揮下の各部隊に4日以来の奮闘をたたえ、今後の健闘のため、次のような訓示をした。

小禄地区に敵来襲以来、各隊が連日肉弾特攻精神をもって勇戦敢闘しているのは、本職の最も心強さを覚えるところであり、また戦果に大なる期待をもつものである。今や当地区は決戦段階に入っており、諸子はますます強靭作戦に徹し、短兵で功をあせることなく極力敵に出血を強要し、かねてより覚悟している小禄死守に海軍伝統精神の発揚と、戦果獲得に全力をつくしてもらうことを望む。予は74高地(司令部壕のある高地)にあり」

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 109頁より》

http://kaigungou.ocvb.or.jp/img/about/shireikan.jpg

司令官室

旧海軍司令部壕 [旧海軍司令部壕について] 

玉砕を目前に控えた沖根司令部は同じく6月7日篤志看護婦として豊見城の海軍外科壕へ手伝いに来ていた県庁女子職員十余人の身柄を、県庁へ返す配慮も忘れなかった。沖根からの連絡を受けた轟の壕から、警察官2人がl迎えに来た。

県庁女子職員の回想:

身柄を県庁に返す、という話があった時、私たちは『お国のために死ぬ覚悟で来たのですから、ここで最後まで働かせて下さい』と懸命にお願いしました。しかし、根拠地隊司令部は大田司令官の意向だったのでしょう、『知事から預かった職員は、知事の元へお返しするのが海軍のやり方だ』と言って聞き入れてくれませんでした。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 372、373頁》

この時、豊見城の海軍外科壕から轟の壕にもどされた十名ほどの女性たちのなかには19歳の山里和枝さんもいた。

せいぜい私が19歳だったので、やっと今90近くで生かされておりますけれども、本当に戦争さえなければ大変のどかな静かないい島でございました。そして戦後はまた、戦争が終わったらまた今は基地。ほとんど基地があるために、いろんな事故、事件もありまして、こんな小さな島はいつも、いつまでいじめられればいいのかと思って本当に悔しゅうございます。私も19歳の時に大変親しく可愛がってくださったお姉さん方を、戦中目の前で4、5人すぐ死傷しまして、最初50人いた同僚が、最後は11人になりましたけれども、その11人がさらに南部の果てまで追われたために、7人が撃ち殺されて2人が行方不明で、今2人だけが生かされています。

… 亡くなり方も、すぐ即死だったら本当にいいんですけれども、足をもぎ取られたり、手をもぎ取られたり、喉元を切られたり、一人はまた横っ腹を二十センチメートルぐらい切られまして、そこから腸が飛び出して、消毒薬もないし医者もいないし、その腸を押し込んでタオルで巻いてやったら、六月の沖縄は暑くて豪内もすごい暑いものですから、熱い苦しいと言ってこのタオルを取って捨ててしまったら、またこの腸が飛び出しまして、それで苦しんでまたこの腸を押し込んでまたタオル二枚で今度は巻いてしっかりくびってやったら、結局は二日目に亡くなりました。治療薬も全然ないし、包帯もないし、医者も現場になんかもいませんので、ただタオルでその傷を巻いたり、足をもぎ取られた人もタオルでただくびったりでございますので、二、三日では破傷風になって亡くなったりで、最初の五十人の仲間が最後二人だけ残りまして、その一人の私がまだ今までこう生かされてます。

語り部:山里和枝さん | 沖縄市役所

軍司令部壕の北西にある「ことぶき山海軍壕」(現・田原公園) は巌部隊の司令部もおかれていた。

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カテーラムイ(寿山)旧海軍壕

海軍航空隊巌 (いわを) 部隊の本部陣地壕跡。日本軍は、この地を寿山と称した。小禄飛行場防衛のため、小禄(おろく)・豊見城(とみぐすく)一帯では、海軍少将大田実(おおたみのる)司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年(昭和19)8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。
1945年(昭和20)6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水(あざかがみず)に上陸して、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。

カテーラムイ(寿山(コトブキヤマ))旧海軍壕(キュウカイグンゴウ) : 那覇市歴史博物館

 

斬り込み - 急造爆雷に依存する日本軍

日本軍はさまざまな自爆攻撃のための「特攻」に依存した。人間に「急造爆雷を背負わせ敵地に走らせる自爆攻撃は「斬り込み」と呼ばれ、女性から少年に至るまで多くの住民の命が奪われた。日本の「死の崇拝」は、自爆攻撃を偏在化する精神的土壌を形成していたが、同時に「死」自体が目的となり、米軍をしてファナティックと言わしめるほどの絶望的な状況が各所で展開された。

戦力が落ちても「急造爆雷はどんどんいくらでも作れる」。

旅団の威力にある兵器は、108高地付近に布陣する10サンチ榴弾砲数門に過ぎない。軍砲兵隊も、この方面の戦闘に参加しているが、1日1門わずかに10発、しかも敵艦敵機の活動しない朝夕の一時、活動するだけだからあまり敵の脅威にはならない。旅団からは、「5、60輛のM4戦車の攻撃に対しては、我として対抗処置の施しようがない。さらに強力な砲兵掩護と、急造爆雷の大量補充が必要である。わが砲兵の射撃も、戦機を逸した地域射撃は効果がない。敵戦車を目視しつつ行う狙撃式射撃を実施して欲しい」との要求が喧しい。

砂野にこの旨連絡すると、「俺もその件はよく承知している。しかし軍砲兵も昔の通りと思われては困る。素質ががた落ちだ。通信も通じなくなった。観測所と砲兵陣地との連絡に2時間もかかることがある。機械的通信が頼りにならぬので、決死伝令で用を果たしているありさまだ。野戦重砲兵第1連隊長山根大佐は、自ら八重瀬岳の観測所で敵機の焼夷攻撃を物とせず、孤軍奮闘している。軍や旅団の希望には添うよう極力努力はしているが、這般の事情はご諒察を願いたい」との返事である。

急造爆雷は、10余トンの爆薬がまだ残っているから、どんどんいくらでも製造できると、軍兵器部長平岡大佐が請け合った。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 391-392頁より》

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Satchel Charge 【訳】日本軍の急造爆雷

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

若い学徒や少年兵が「斬り込み」という自爆攻撃に多く投入される。

「急造爆雷」は沖縄戦で数多く使われた。32軍の高級参謀・八原博通氏の手記「沖縄決戦」には次のように経緯を書いている。「(略)最期に大本営陸軍部参謀次長後宮将軍からじかに必勝戦法を承った。(略)貧乏人が金持ちと同じ戦法で戦えば、負けるに決まっている。そこで日本軍には『新案特許』の対戦車戦法が発案された。それは十キロの黄色薬を入れた急造爆雷を抱えて、敵戦車に体当たりして爆破するのだ。(略)もちろん、この必死攻撃に任ずる兵士は直ちに三階級特進させるのだ(略)」現実に爆薬を背負わされたのは学生たちが多かった。3階級特進の話もほとんど聞かれない。

一中鉄血勤皇隊 急造爆雷を背負わされ - Battle of Okinawa

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旧海軍司令部壕 (海軍壕公園) 展示より。急造爆雷を背負わされ戦車に迫り射殺された少年兵。

 

南部の戦況

南下し再配備されたといっても、日本軍に残存兵力はなく、ただの時間稼ぎの状態であった。

第32軍作戦参謀の回想

与那原方面を突破迫撃してきた敵第7師団は、第62師団の喜屋武陣地へ後退するに伴い、意外に早く混成旅団の陣地に肉迫してきた。時間の余裕を得んがため配置された前進部隊の抵抗も空しく、さして効果なかった

6月7、8日ごろから、具志頭波名城安里付近は漸次激戦が展開する。敵は面憎くも、港川に輸送船を入れて、軍需品の揚陸を開始した。独立重砲第100隊の破壊を免れた15サンチ加農砲2門をもって、これを撃沈しようとしたが、遺憾ながらこの虎の子砲兵も、陣地進入の折り、転覆したままで最後まで活動するに至らなかった。首里戦線で、あれほど活躍した砲兵だったのに、と思うが残念である。…

… 敵の攻撃方法は、首里戦におけるそれと大差はないが、比較的大きな戦車集団で、歩兵を随伴することなく、自由奔放にわが陣地内に挺進して攻撃するようになった。わが防御密度が疎かになり、抵抗線が弱化したので、敵が大胆に行動できるようになったものと思われる。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 390-391頁より》

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96th Infantry Division M4 Flame Thrower Tank Attack On Big Apple Ridge Okinawa【訳】M4火炎放射戦車で八重瀬岳(ビッグ・アップル)を攻撃する米第96師団

96th Infantry Division M4 Flame Thrower Tank Attack On Big Apple Ridge Okinawa | World War Photos

 

そのとき、住民は・・・

南部における第32軍「住民対策」

南部は兵士よりも避難住民であふれ、戦闘は実質「民間人の殺戮」であった。

島の南端に撤退して何日もたたないうちに、…戦闘は民間人の殺戮となった。…火力から必死で逃れる島民は、行先のあてもまったくなく、びっこを引いたり這ったりして南へ向かって歩いた。自分の村をめったに離れたこともない年老いた住民は見知らぬ土地で道に迷ってしまった。あるものはとぼとぼと歩きながら眠ってしまい、砲弾が落ちたり頭上に飛行機が近づいたりすると目を覚まし、また知らぬ間に眠りに落ちた。多くの者が飢えと渇きに苦しみ、身体が弱って、小さな包みを抱えてよろよろと歩くばかりだった。爆撃が始まると恐怖で逃げまどい、ある者は丘の上までよじ登り、やぶに引っかかって止まるまで反対側の斜面を転げ落ちた。何千もの住民が、開けた地域に横たわり、疲れきって動くことも立つこともできなかった。

泥濘の細長い道は、第二次世界大戦で民間人がこうむった犠牲の証拠でいっぱいだった。避難民の集団は、戦力がひどく低下した第32軍よりもよほど大きかった

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 267-268頁より》

作戦参謀として第32軍の南下を計画・推進した八原博通は、住民に知念半島への避難は「一応指示」したと記録しているが、それが県庁側に一方的に知らされたのは、司令部が南下を始めた5月27日よりも後の、5月29日、しかも作戦上「地方人」が邪魔なので早急に知念、玉城方面へ立ち退かせて欲しい」という要求として伝えられ、多くの住民が日本軍南下のために壕から追いたてられた。その時すでに知念半島への避難経路の確保はほぼ不可能であり、また連絡手段もなかった。ただ追い出すための口実に過ぎなかったのである。

八原高級参謀の回想:

津嘉山から摩文仁に至る途中のいたましい避難民の印象は、今なお脳裡に鮮明である。各方面の情報を統合するに、首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難してきた者多数あることは確実である。これら難民を、再びここで地獄の苦しみに陥れ、戦いの犠牲とするのは真に忍び得ない。軍が退却方針を決めたさい、戦場外になると予想される知念方面への避難は、一応指示してあるはずだった (注) 。しかし、同方面に行けば敵手にはいること明瞭だ、今やそのようなことに拘泥すべきときではない。彼らは避難民なのだ。敵の占領地域内にいる島の北半分住民と同様、目をつむって敵に委するほかはない。そして彼らへの餞けとして知念地区に残置してある混成旅団の糧秣被服の自由使用を許可すべきである。(注)

軍司令官は、この案を直ちに決裁された。司令は隷下各部隊、警察機関---荒井県警察部長は、首里戦線末期においても、なお400名の警官を掌握していた。住民の保護指導のために、特に軍への召集を免除されていた。--- 鉄血勤皇隊の宣伝班、さらに壕内隣組の手を経て一般住民に伝達された。戦場忽忙の間、この指令は各機関の努力にかかわらず、十分に徹底しなかった憾みがある。指令に従い、知念向かった人々も、潮の如く殺到する敵の追撃部隊を見ては、怖気を出し、具志頭付近から再び踵を返す始末である。かくて琉球島南端の断崖絶壁上において、多くの老幼婦女子をいたましい犠牲としたのは実に千秋の恨事である。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 369-370頁より》

摩文仁を脱出し生き残った沖縄戦の作戦参謀、八原博通の手記は、他の手記と同様、事実関係に注意して読まなければならない。「一応指示」「糧秣被服の自由使用」とあるが、その日付も記されていない。

 

警察別動隊の本来の目的

警察特別行動隊(警察別動隊)- 沖縄島からの脱出

沖縄県の荒井警察部長は5月11日、8人の部下を選抜し、警察特別行動隊(警察別動隊)を編成した。彼らの任務は、内務省沖縄県民の現状を直接報告するというものであったという。舟や食糧は、海軍が協力する手はずになっていた。翌5月12日、県庁・警察壕を出発した別動隊は、豊見城の海軍司令部へ行くが、沖縄島脱出に関し、海軍の協力を得ることができなかったため、自力で脱出を決行することにした。

「万難を排して沖縄を脱出し、沖縄戦の現況及び県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告せよ」との特命を受けた彼らは、6月7日朝、知念村知念城跡丘陵の壕に集結、陸路北上に備えて4つの班を編制した。…その時、約300メートル下の集落へ米軍部隊が近づいたので、4班は一旦、分散して退避、夕方、再びこの壕に集まって、北上を始めることにしたのだが・・。

雨になった夕方、隊員が壕へ戻ると、…隊長の姿がなかった。負傷して帰った … は「隊長は殉職されました」と涙ながらに報告した。それによると、2人は知念城跡の断崖絶壁で米兵7、8人のはさみ撃ちにあい、手榴弾戦の揚げ句、… 警部はピストルで頭部を撃って自決した。その夜から隊を指揮した… 副隊長は、… 3班に編制替え。翌8日夜、北部の集結地・久志村へ向け、それぞれ出発した。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 365-366頁より》

那覇警察署副署長だった山川泰邦によると、そもそも5月中旬に警察官8人によって組織された警察別動隊は、第32軍の要請で組織され、その目的は沖縄北部でのスパイ粛清だった。

悪化した五月中旬、警察部長の特命で、隠密行動をとる別動隊が謝花警部らによって編成された。これは実は軍の強い要求で生まれたものだった。別動隊の受けた特命は、避難民を軍の指定する地域に誘導しながら、スパイを粛清する任務であった。ある日、わたくしが彼らの一人に「君たちは、恐ろしい仕事を引き受けたじゃないか」というと、彼らは「軍はスパイを斬れと、わいわい言うが、本当に祖国を売るスパイがいるならばやむを得ないことだ。しかし果たして沖縄の人に、スパイがいるのだろうか、ぼくにはどうしても信じられない。だから、われわれの任務は、老幼婦女子を戦闘地域外に誘導することだ。ことここにいたって何をか言わんや……」と、ため息をもたらした。

山川泰邦『秘録 沖縄戦記』(1969年初版) Kindle

 

 

伊平屋島

6月3日に伊平野島に上陸した米海兵隊は、民間人を北部に強制移送し、我喜屋に米軍基地を設置した。

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Natives leaving their village, Gakiya, with all their belongings to live in the stockade, as the Marines take over Gakiya.【訳】海兵隊が我喜屋を占領したため、所有物を持って営倉へ移動しようと村を去る地元民(1945年6月7日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊平屋島では、基地建設のために人々は強制的に村から追いたてられ、収容所で軍作業を強いられ、多くの家屋が火炎放射器で破壊された。

 

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