〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月26日 『大移動の意味』

首里から摩文仁

米軍の動向

雨と泥との闘い

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1st Battalion, 4th Marines Command Post, on Sugar Loaf Hill during rainy spell.

梅雨のさなか、“シュガーローフ・ヒル”にある第4海兵連隊第1大隊の司令部(1945年5月26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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那覇の前線にて食事を待つ列。6インチものぬかるみに並んで立つ戦闘部隊員(1945年5月26日撮影)
Mess line, front lines at Naha, showing combat troops standing six inches in mud.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

首里に迫る米軍

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

米軍は首里にいるはずの32軍司令部の動きを偵察機を飛ばしながら懸命に探っていた。

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砲兵隊の観測機(小型偵察機)が小型機専用滑走路から飛び立つ

Artillery observation planes (grasshoppers) taking off Okinawa cub strip.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※ 米軍は1945年1945年12月までに沖縄に11の飛行場20の小型機専用滑走路 (cub airstrip) を建設した。

米軍は、5月22日からその月の終わりまで、日本軍後方地域を観測させるため飛行機を飛ばしたが、厚い雲の層と豪雨にたたられて行動がひどく制限された。しかし、それでも飛行機は、ほとんど毎日のように、短時間ずつではあったが、戦線上空を飛び回っていた。

22日、民間人の群れと思われる集団が、夕暮れを利用して神里から南へ移動していくのがみられた。その移動はつぎの日もつづいた。この人たちは白衣を着ていたため、観測機はこれを兵隊とはみなかった。

米軍は、前に空中からビラを戦線後方地域にまき、沖縄の人に白布を着て歩いたら、空襲や爆撃をされないですむと知らせてあった。5月24日と25日にも、観測機はなお南方へ人々が移動しているのを見たが、米軍としては相変わらず、民間人の移動だとばかり思っていた。この見方が間違っているのではないか、という最初の疑問が起こったのが5月26日、その日は午後になって雲が晴れ、かなりの時間、島の南端のほうを詳しく空中観測することができた。戦線から島の南端へ延々と列をつくった大移動が発見された

『この日、まさに日も暮れようとする午後7時2分、与座岳のすぐ西にある大里の方向に頭を向け、一隊の日本軍が、はるか南のほうまで延々とつづいているのが見えた。北に向かって進んでいるのだ。15分後には、道路は北進する部隊でいっぱいとなり、真壁のすぐ上のほうで塞がっているという報告がもたらされた。これは沖縄作戦中にいまだかつて見られたこともないほどの、最も大きな部隊移動であった。』(425頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424、425頁より》

26日の空中観測からの報告は、頭を悩ますものだった。日本軍はあらゆる方向に移動していたのだ。だが、大部分は南へ向かっていた。ただ例外は、大部隊が1つ北に向かって進軍しているということであった。この部隊移動のうち最も大きなのが首里の南約7キロのところにいた砲兵隊の移動だった。この各地の大移動はいったいなにを意味するのだろう。

一つ一つ注意深く検討した結果、到達した結論が、日本軍は悪天候や、そのために空中観測もうまくいかないという条件を巧みに利用して、疲労した部隊を前線から退かせ、これにかわる新鋭の予備軍を南部から移動させ、米軍攻撃に対処しようという計画であるということだった。日本軍は、もっと大きな掩蔽壕に新しい砲座を設け、今後も首里戦線を支援させよう、という計画であるにちがいない

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424、425-426頁より》 

馬乗り攻撃

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《AIによるカラー処理では火焔の色は再現されていません》Marines in action during Battle of Okinawa. Pfc. Joseph F. Garrity fires at Jap who refused to abandon tomb he was using as sniper's nest.

沖縄戦で戦闘中の海兵隊員。ガリティ1等兵が、墓から出るのを拒んだ日本軍狙撃兵に向かって火炎放射をしているところ。狙撃兵は、この墓を隠れ家として使っていた。(1945年 5月25日〜26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は、日本軍の地下陣地を発見すると、入り口から火炎放射を浴びせ、さらに爆弾を投げ込んで内部を徹底的に破壊する「馬乗り攻撃」と呼ばれる戦術を多用した。

沖縄戦 写真特集:時事ドットコム

 

南進する米軍

那覇(なは)

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第4海兵隊L中隊ライフル部隊は弱体化し、消滅してしまった。この写真を撮影したころ、日本軍は持てるもの全てを海兵隊に投げつけていた。(注)那覇での大きな爆破は我が軍の航空機および重砲によるもの(1945年 5月24日〜26日撮影)

Fourth Marines,  ”L” Company Rifle Squad, lie low and break up while making way near river bank at Naha. At time photo was taken Japanese were putting everything they had at Marines. Note: Large explosions in Naha made by our planes and heavy artillery.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》Naha under siege by our big guns. Heavy smoke rises in background.

米軍の大砲で包囲攻撃される那覇。後方ではすさまじい砲煙が上がっている。(1945年 5月24日〜26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

与那原(よなばる)・運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

大里村の日本軍は、26日に掃討され、その後、第184連隊は、カラデーラ付近まで南進したが、別にたいした抵抗にもあわずにすんだ。偵察隊からの報告は、わずかに散在する日本兵にあっただけだという。日本軍は右翼を退いたのであって、退きながらも、ときどき銃火を交えるだけで、別に米軍指揮官たちがかねて想像していたように知念半島に撤退する計画はないらしいということがしだいに明らかになってきた。

米第7師団の首里包囲作戦で、日本軍が、そのもてるかぎりの火力を動員して、最も激しい抵抗を試みたのは、師団右翼、コニカル・ヒルの南のすそが那覇ー与那原道路と接する高台地で、ここは首里防衛陣の結集地点であった。

もし米軍がこの地点の確保に成功すれば、それは首里から南部に通ずる道を遮断することになり、包囲作戦の成功を意味する。このため、日本軍としては、米第7師団が、この地域をいささかなりとも確保することを激しく拒んだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 413-414頁より》

米軍の首里を包囲できるという明るい望みは、与那原から首里に至る線を通過しようとしたとき、すっかり消しとばされてしまった。第32連隊は、5月23日から26日にかけての戦闘で日本軍防衛線の前面でそのまま釘づけにされてしまったのだ。

日本軍は多くの対戦車砲や機関銃をもって、この戦略的に重要な丘陵地帯を奪ろうと進撃してくる米軍めがけて、通路一帯に猛烈な砲火をあびせ、迫撃砲弾は集中弾となって降ってきた。第32連隊は、もし戦車が使用できたら、おそらく日本軍陣地を殲滅できたかもしれない。だが、連日の雨のために、戦車は泥にはまって動けなくなっていたのである。

5月26日の雨は豪雨で、88ミリを記録した。その後の10日間は、毎日、平均30ミリの雨が降った。…日本軍が陣地確保のために死にもの狂いの抵抗をしたのは、喜屋武村落東方の丘陵付近である。ここでは、5月26日、第32歩兵連隊が抵抗線突破を試みたが、激しい反撃をうけて、多数の損害を出したあげく後退せざるをえなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 414頁より》

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Mud and flood increased the difficulties of fighting on Okinawa. Above, 77th Division infantrymen trudge toward the front lines past mud-clogged tanks

泥と洪水は沖縄での戦闘上の困難を増大させた。上は第77師団の歩兵が泥だらけの戦車を通り過ぎ最前線に向かって進んでいるところ。

US Army PTO 11 Okinawa: Chapter 14: Battle in the Rain

 

第32軍の動向

首里撤退・南部への移動

『電信第36連隊は26日首里を発ち、津嘉山を通過して、28日には摩文仁に到着した。残りの部隊は、もっと早目に脱出していた。』(428頁)

『戦車第27連隊の残存部隊も、26日から移動を開始し、神里を通過した。同じくその日に、第103と第105の両機関銃砲大隊は、首里と識名方面をぬけ、なかには、手で砲を運搬しながら南のほうへ下っていったものもいた。

陸軍第32軍の主な戦闘部隊では、第62師団が最初に出発した。この師団は最初の予定より2日も早く、26日首里移動を開始したが、撤退に先立って、与那原の南西で米第7師団の戦線ふかく猛烈な弾幕を張り、米軍の作戦をおくらせた。第6および第1海兵師団の左翼にいた独立混成第44旅団は、26日に前線を撤退することになっていたが、交替することになっていた海軍の陸戦隊が来れなくなったので、2日間もおくれ、28日になってはじめて、旅団としての前線撤退ができた。』(429頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 428、429頁より》

軍司令部: 沖縄県出身将校の体験談

首里を撤退したのは5月26日。「明日は海軍記念日だと言いながら出発したので間違いない」。前日に先発隊がすでに出ている。「大里などに敵が一部来ているとの情報もあり、先発隊は大里経由で1隊、小禄経由で1隊と分かれて向かった。米軍の探索と掃討をやりながら軍首脳の撤退に安全な道を開くのが目的だったと思う」

…出発した日の夜は大雨だった。70~80人ぐらいを率いて行き先も知らない出発。「とにかく山部隊の司令部へ行け」が命令。

午後9時ごろ、南向きの壕から出発、寒川から下って、右に識名高地を見ながら谷間づたいをぬかるみを踏みしめて進んだ。識名園にのぼり、一日橋―国場―津嘉山―豊見城の平良高嶺を通り、与座岳にある山部隊の司令壕へ―。一晩中歩いた。

到着した時には、すでに夜は明けていた。気がつくと兵の数は半分ほどになっていた。幾度となく続いた戦闘で兵隊たちは疲労こんぱいしている。そして大雨の中をびしょぬれになっての移動。「砲弾が激しい時は止まって気をつけながらたばこも吸ったりしたが、一晩中歩き続けた。疲れた兵隊たちにはきつかったに違いない」…。歩き続けなけらばならないが、体力は限界に来ている。途中、次々と倒れていった。戦友が抱きかかえ、ようやくたどりついたのもいるが、多くは放っておかれ、その後、消息の知らないままだ。

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 191頁より》

5月26日午後、米軍の観測機は沖縄本島南部へと移動する大勢の人の群れを確認した。

小禄半島と那覇ー与那原間のまんなかあたりにかけて、約2千からなる人の移動が発見され、午後6時には、首里のすぐ南のほうを、3千から4千の人々の群れが歩いているのも見えた。八重瀬岳の前方にある道路上には、約100台ほどのトラックが発見され、その日の正午には、2輌の戦車が大砲を引っ張っているのも見えた。さらに1時間後には、牽引者が別の大砲をひいていた。その日の午後、7輌の戦車が、南と南西の方向に移動していた。

観測機のパイロットが、この移動部隊に攻撃を加えてみた。曳光弾が当たったとみるや、数名の兵隊が爆発で吹き飛ばされた。それは明らかに彼らが、爆薬物を携行していたことを物語るものであった。観測機の指示に従って、米軍は大砲や艦砲射撃で、移動中の軍隊や車輌に一大集中砲火をあびせた。海軍の艦砲だけでも津嘉山の南側で、推定500人の日本兵を戦死させ、大砲1門と戦車5輌を破壊した。』(424-425頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424-425頁より》

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1945年5月26日、米軽巡洋艦ヴィンセンス号からの攻撃で破壊された日本軍のCDG砲。

Jap 5” CDG destroyed by fire from USS Vincennes on 26 May 1945. 7171 W3.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄方面根拠地隊(大田実少将) - 南部への移動を開始

第32軍は小禄海軍部隊の後退を6月2日以降と予定していたが、ここに連絡の行き違いから大きな誤解がおきた。すなわち、沖縄方面根拠地隊は命令(電報)を誤解*して受けとり、5月26日、第32軍を待たず、先におりからの雨をついて南部の移動を開始、真栄平に移転した。その際、携行困難な重火器は破壊した。また、重傷者には手榴弾や薬品などが手渡された。(90頁)

戦闘概報:

5月26日   第32軍が島尻半島南部地区に兵力を集約することに決定したのに策応して、海軍部隊も該地区に転進を開始、司令部を真栄平に移転する。(91頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 90、91頁より》

*伝令に「誤解」があったかどうかは不明


東風平(こちんだ)・具志頭(ぐしちゃん): 独立高射砲第27大隊第1中隊

前日25日夜に小禄飛行場付近の陣地を出発し具志頭を目指していた。

通信班・陸軍二等兵の回想:

どこをどう歩いていたのかわからなかったが、雨はいつかやみ、やがて夜が白々と明けてきた。道ばたにある集落の井戸に民間の人たちが集まって水を汲み、女の人たちが上半身裸になって髪を洗ったりしているのが、朝もやの中に浮かび上がった。集落には砲撃をまぬがれた民家が数軒残っており、砲弾の来ないひととき、どこも朝食の支度に忙しそうだった。

…とりあえず今日一日、昼間を無事に過ごせる壕を物色しなければならない。さいわい、三叉路の角に手頃な無人の壕が見つかった。…東方50メートルほどの丘の上り口に壕が見え、担架を持った兵隊が2、30名集まっていた。どうやら野戦病院らしい。

しばらくすると10名ほどの負傷兵が担架に乗せられ、私たちの方へやって来た。…兵隊たちは負傷兵を沖縄松の木陰に下ろして並べ、その上を折った木の枝で遮断した。まるでふとんを着せかけているようであった。

「病院が満員で断られたんじゃ。苦しかろうが辛抱してくれ」

兵隊たちは負傷兵にそういい残して立ち去った。負傷兵たちは身動きもせず、眼だけをうつろに見開いていた。

やがて陽が昇り、またもや砲弾の荒れ狂うころになると、集落には人影ひとつ見えなくなった。』(98-99頁)

『いつの間にか眠ってしまった。…あたりはすでに黄昏れていた。きょうも一日無事だったかと、沖縄松の木陰を見た。朝、寝かされていた負傷兵たちは、いつか木の枝とともに散乱し、一人残らず死に絶えていた

また薄暮れの行軍がはじまった。…突然うしろから、「兵隊さん」と呼ぶ声とともにモンペ姿の少女2人が駆けて来た

一緒に連れて行ってください。病院が解散になって行くところがありません

軍に動員された篤志看護婦の女学生にちがいない。2人とも薄汚れてはいるが、あどけない顔立ちの少女であった。私は曹長に聞かれないよう小声で、「兵隊について歩いてはかえって危いよ。きみたちは兵隊ではないのだから、思い切って捕虜になりなさい」といった。顔を見合わせた2人の少女はその瞬間、犬か猫の死骸でも見るような、けわしい視線で私の顔を睨みつけると、返事もせずに遠ざかって行った。』(100頁)

『…激しい雨の中、青白い閃光が走り、砲弾が収穫前の貧弱な稲穂を根こそぎ掘り起こしていた。道の真ん中に軍のサイドカーが横倒しになり、傍にはいくつかの屍体が泥にまみれて転がっていた。避難の途中でやられたのか、籔を投げ出した女、子どもまでが泥をかぶったまま埋まっていた。もはや避けて通れないほどの屍体の山であった。足の感触で屍体を踏みつけているのがわかる。屍にわいた蛆虫が編上靴を伝って胸元まで這い上がって来た。身の毛のよだつような悪寒がゾクゾクと走り、…死出の旅路を彷徨っているような心細さにおそわれた。…このときほど、天皇陛下を怨めしく思ったことはなかった。

…石門に、具志頭国民学校の門札が照明弾の明りでわかった。校舎はすでになく、石の門柱と街道にある福木だけが逞しく生き残っていた。右手の小さな製糖工場のかたわらに福木に囲まれた集落があった。そこが具志頭である。集落のはずれにあり小さな流れにそった右側に、ポッカリと口をあけた大きな洞窟があり、入口には先に着いていた戦友たちが待っていた。換気の悪い洞窟内は、梅雨酣の頃とあって息苦しかったが、一睡もしていなかった私たちは荷物を投げ出すひまもなく、そのまま眠りこけてしまった。』(101-102頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 98-99、100、101-102頁より》

 

野戦病院からの脱出

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【ワークシート付き】地域の沖縄戦知ろう! 琉球新報デジタル

 

南風原陸軍病院

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沖縄陸軍病院南風原壕 屋外戦跡案内 | 南風原町

前夜 (5月25日) の撤退に際し、青酸カリ入りのミルクが配られた。

石部隊独立歩兵第一大隊の負傷兵 (京都府出身21歳) の証言

岡氏らのいた「第23壕」では、動けない患者に対し、数日ぶりに飲み物の配給があった。皆が喜んだ。ミルクが壕の入り口付近から順番に配られていた。入り口付近が騒がしかったが、やがてしんとしてきた。やっと回ってきたミルクを舐めると飲めないほど苦い。以前に看護隊の女性からもらっていた黒砂糖の塊を削って入れて、かき混ぜては少しずつ飲んだ。最後は一気に飲み込んだが、その途端、頭と目がぐるぐる回り出した。胃が焼ける。「あかん、これは毒や」と気づいた。たまたま水筒に入れてもらっていた水をのどに流し込み、指を口に突っ込んで急いで吐き出した。「青酸カリやった。騒がした周囲が静かになったのは、こと切れたんやね。このときばかりは、死に物狂いで体を動かした」と、岡氏は言う。負傷してから一ヵ月の間ほとんど身動きできなかった体に鞭打つように、這って逃げようとした。そのとき、弾丸が耳元をかすめた。「誰じゃ、逃げるのは」と、慌てた衛生兵が拳銃を続けざまに撃って、岡氏を殺そうとしていた。必死に体を動かし何とか壕の外に逃げ出て、その場を離れた。同じ壕の北海道出身の兵士もそばにいたが、壕から数百メートルのところで、「(敵の)直撃弾をくらって、跡形も無く吹っ飛んだ」という。「恐らく唯一の生き残りだろう」。

《國森康弘『証言沖縄戦日本兵: 60年の沈黙を超えて』岩波書店(2008年12月) pp. 55-56》

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ひめゆり平和祈念資料館資料館 PDF

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ひめゆり平和祈念資料館資料館 PDF

ナゲーラ壕とずいせん学徒隊

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いよいよ首里決戦は時間の問題となった5月22日。日本軍は首里の司令部を放棄し南部撤退を決定。軍は首里周辺の非戦闘員の島尻への撤退を指導します。同じころ第62師団と共に最前線で看護にあたっていたずいせん学徒隊も移動を始めます

二人一組で負傷兵を担ぎ、首里、敷名、糸満を移動

仲西さん「死ぬのはあたりまえ死に際をどうしようか一発で死にたい、手が切れて足が切れてあんな怖い思いで死にたくない当たるなら一発であたってほしいという願いだけです。私たちが移動するのは」

一部の日本軍将校は住民に対し島田知事を通じて非戦闘地域の知念半島への脱出を指示したが、混乱の中でその指示は伝わらなかったといいます。住民の一大避難地に司令部が移ることにより住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇が生じます。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月26日

 

そのとき、住民は・・・

昭和20年5月末、沖縄守備軍は首里の司令部を放棄して沖縄南部へ撤退を開始。しかし、南部へ逃れようとする住民と撤退する部隊が混在、そこが米軍の攻撃の標的となり、住民に多数の犠牲者が出た。

沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス

日本軍が密かに南部へと移動を始めた翌日、5月26日の無線記録。

「南へ向かう日本軍部隊を発見」
「位置は7867BCD」
「至急攻撃せよ」

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作戦報告書を詳しく分析すると、南部へと向かう交通の要衝「山川橋」の周辺を、アメリカ軍は集中的に攻撃していた。棒グラフの高さは、撃ち込まれた砲弾の数を表している。「山川橋」(やまがわばし)の周辺は、5時間に500発を超える砲弾が撃ち込まれていた。

データでたどる沖縄戦 最後の1か月 | NスペPlus

歩兵第32連隊 (山形県出身) 兵士の証言

 「兵隊さん、助けてくれ、連れてってくれ」と言われたけど、本当に、かわいそうだよな。だけど、おれらは部隊で動いてるから、列から離れて、助けるわけにいかない。そういうことはもう、日常茶飯事だ。そんなのに関わったら、戦争されなくなるから。おれらは、戦闘員だから。だから非常にね、日本兵は無情だと、言われるかも知れない。それは連隊の組を知らないから、言えるのであって。だから関係ない。…だから、無益なことをしちゃいかんのだ。だから、みんな一つの任務で考えて、することなんだけれども、われわれはただ駒のひと駒として、動かされているだけだから… ちょうど雨期に入ったからね。雨。ちょうど沖縄の雨期に入ったの。だから戦車のなんかも、あまり来なかったんだけれども、やっぱり戦死した人は天ぷら。泥でみな天ぷら揚げしたみたいに。人の格好してるんだけれども、男だか女だか分からない。あと子供を背負ってるのは、分かるんだ、こう背負ってるからね。
Q:子供を背負ってる?
うん、女。住民。沖縄の人。子供、背負って一緒に並んでたから。泥でみな天ぷらの衣を付けたように。泥で揚げたのと同じ。人の格好してるけれども、子供もおぶったのは、女と分かるけれども、あとは、男か女か分からない。本当に路傍にいっぱい。真ん中のは邪魔になるから、みな片づけてるんだ。路面いっぱい。というのは、日本の戦では、片づけられないから。みな最初は、土かぶせて。土かぶせても雨が降ると、みんなはがれて、取れちゃって、骨だけが出てるんだ。目の眼窩(がんか)、骸骨の眼窩が、天井をにらんで。だから、次のがあると、次の人で。骸骨が天井向いて、ずっと骸骨だけ出てんの。それでも、そうしている人は、まだ体のいい方。土かけてやるから。

大場 惣次郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

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