那覇に進撃 / 兵力の8割を喪失 / 陸軍病院の南下 / 恩納岳の包囲 / 県庁・警察部壕の撤退
米軍の動向
首里に迫る米軍
米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。米軍が首里に着くまでに、あまりにも戦闘が長びいてしまったので、誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。
…第10軍の、ひっきりなしにもたらされる情報では、25日には、「捕獲した書類やPOW(捕虜)の供述、また空中写真からして、敵は最後まで、首里を防衛するものと推察される」と述べてあった。しかし、実際には日本軍は、かなり長いあいだ首里脱出を準備していたのだ。
米国海兵隊: This is a view of our shells exploding (phosphorus) on Jap positions at Shuri.
首里の日本軍陣地にて爆発 (発光) する米軍の砲弾 (那覇市首里) 1945年 5月24日〜25日
那覇への進軍
米軍の無血侵攻。廃墟と化した那覇は放棄されていた。
Tanks move through the streets of Naha. 【訳】那覇の通りを進む戦車
破壊しつくされ、耕やされた状態の那覇市街地。
Damaged Jap gun emplacements and fortress at Naha, Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】損壊した日本軍の砲座と要塞。那覇にて。(1945年5月25日撮影)
5月24日に偵察分隊がなんらの抵抗をうけずに那覇にはいっていったことから、第6海兵師団の偵察中隊は、25日に安里川下流から同じように那覇にはいり、市を南北に二分する流れの西側奥深く進入した。
日本軍は見当たらず、時たまそれらしい姿が見かけられただけで、狙撃兵もまったくいなかった。破壊された町のなかに、まだ逃げかくれしている沖縄の人が2、3人いたが、彼らに聞いてみても、先週5、6人の日本軍の斥候を見たにすぎないといっていた。廃墟と化した那覇は放棄されていたのだ。
《AIによるカラー処理》那覇全景 / Panprama of Naha. 撮影日記載なし
米軍偵察中隊はこうも簡単に取ってしまった那覇で、土地確保のため、そこに装具もないまま塹壕を掘ってたてこもった。那覇は米軍にとっては南部へいく時の通路として以外は、なんの戦略価値もない。市は幅広い海岸沿いの平坦地で、国場川の河口にある。南部へ通ずるところには小禄の高台があり、さらに市の周辺や国場川の河口に沿って、北東から南西へのびる平地を見降ろす丘陵地帯があった。
安里・真嘉比: クレセント (Halfmoon Hill)
一方、首里の西側に接近する米軍部隊は、依然日本軍の抵抗にあっていた。
25日の夜までに、E中隊などは、兵隊40人と将校が1人しか残らないほど、さんざんにやられたのである。
Marine sniper waiting for Jap sniper to stick his head up in the city of Naha.【訳】日本軍狙撃兵が顔を上げるのを待ち構える海兵隊狙撃兵。那覇にて
《ジェームス・H. ハラス『沖縄 シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』 光人社 (2007年) p. 413.》
5月末の数日間、われわれはハーフムーン左手の背斜面の洞窟に立てこもる日本軍から、小規模ながら痛烈な反撃を何度も食らった。そんなある朝、多数の敵兵が丘の向こうに集結しつつあるとの情報がもたらされた。集中砲撃に備えて…60ミリ迫撃砲3門の発射態勢をととのえ、左の稜線の背後に狙いを定めた。… 迫撃砲3門で一帯に大量の砲火を浴びせ、逃げ場を失った敵を殲滅しようというのだ。… われわれは撃ちに撃った。停止命令が出るまでに何百発撃ったことだろう。ひどい耳鳴りがした。疲れ果て、激しい頭痛に襲われた。三つの砲壕のわきには、砲撃の激しさを示す榴弾の空容器と弾薬箱が、うずたかく積まれていた。… 下士官の話では、われわれの砲撃網にひっかかったらしい敵兵の死体が累々と横たわり、その数は200を超えていたという。…そのあと、尾根の周囲では日本軍の戦闘行動がやんだ。
Marines take a break, after firing several 37mm shells.【訳】37ミリ砲で爆撃した後、休憩する海兵隊の兵士(1945年 5月24日〜25日撮影)
首里の東側。もはや寄せ集め部隊をいくら送り込んでも米軍の相手にはならなかった。
25日午前2時30分、日本軍は与那原の西側に陣取っている第32連隊を攻撃、この地点で米軍戦線を突破した。戦闘は夜がしらじらと明けるまでつづき、日本軍は多くの戦死者を後方に残したままついに後退した。
5月25日か26日かに、日本軍の第62師団主力は首里を後にし、与那原下方で第184連隊と一戦を交えるため、南東に迂回してきた。先にさんざん敗北を喫して再編成された部隊なので、同師団の到着は、米軍にとってはたいした脅威とならず、ただ日本軍の大里村の戦線をいくぶんか強化したい、というほどの意味しかなかった。
第32軍の動向
第32軍 - 兵力の8割を喪失
軍事的な意味において、兵力8割の喪失とは、すでに「全滅」を通り越して、「壊滅」あるいは「殲滅」の状態である。しかし、第32軍は沖縄での更なる持久戦を追求し、南部の避難民のなかに下りていこうとしていた。
アメリカ軍が沖縄戦の状況を記録した1フィートフィルムでアメリカ軍は本島上陸から5月下旬迄におよそ1万人の死者と4万人の負傷者が出たと説明。一方の日本軍は兵士のおよそ8割にあたる6万4000人をすでに失っていました。南部へと進撃する兵士を激励するため沖縄を訪れた太平洋艦隊司令官のニミッツ提督。これに対し物量で完全に劣る日本軍は板で造ったダミーの戦車を前線に配置。島田叡県知事や荒井警察部長は第32軍が首里の司令部壕を放棄する2日前にすでに南部へと撤退していました。日本軍が放棄した洞窟や塹壕にダイナマイトを仕掛け爆破する。アメリカ軍首里を取り巻く形で何重にも造られた日本軍の防御陣地は完全に破られ、凄惨な戦いはさらに激しさを増してゆきます。
徐々に始まる首里からの撤退
日本軍は、撤退あるいは敗走を「転進」と言い換える。小禄垣花台地: 陸軍独立高射砲第27大隊第1中隊、高射砲を破壊し南下を開始。砲弾のなか甚大な被害をこうむりながら具志頭に向かう。
通信班・陸軍二等兵の回想:
5月25日、この日も朝から豪雨である。首里方面はきょうもまた不気味に静まり返り、戦局の行方がはかり知れなかった。… 突然、命令が伝達された。中隊は今夜具志頭に転進する、というのである。具志頭といえば沖縄も南端に近い海岸線である。ここまで後退すればもうあとがない。いよいよ最後の決戦場となるにちがいなかった。… たとえ一時的にせよ、小禄陣地死守命令から解放されたわけである。私たちは複雑な気持ちで転進準備をはじめた。火砲分隊は残った3門の高射砲を破壊することになり、私は古巣の二分隊へ応援に行った。虎の子の兵器を破壊するのはわが手で自らの首を絞めるにひとしい。
「弾を始末しろ、とやかましくいいながらこのざまだ。歩兵経験のない俺たちに小銃や手榴弾で戦争せいといったって、出来るわけがなかろうが」
長谷川古兵たちはぼやきながら高射砲弾を土中に埋め、砲の部品を取りはずし、砲身にダイナマイトを詰めて爆破した。… 出発は20時。各班バラバラに脱出し、3日後に具志頭に集結する手はずである。(96-97頁) … 土砂ぶりの雨の中を、中隊は一列になって壕をあとにした。ひどいぬかるみの道であった。激しい雨はたちまち外被を通して体中に浸みとおり、汗と一緒になって蒸れた。間断なく落下する照明弾の中を艦砲の十字砲火が炸裂する。が、荷が重くて腹這うこちも出来ず、そのたびに私たちは難を避けて八方に散った。ふと気がついたとき、いつか通信班はバラバラになり、私と大塚曹長の二人だけになっていた。どれくらい歩いたのか、遥か海面の見える高地の一本道へ来たとき、上空で砲弾が花火のように炸裂した。… ふと見ると、照明弾の明りの下で兵隊の死体が転がっていた。上衣のボタンは一つ残らずなくなり、ビール樽のようにふくれ上がった裸の上半身にひたひたと雨が降りそそいでいる。「ガスにやられたんだろう」と、曹長がいった。(98頁)
《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 96-97、98頁より》
南風原陸軍病院の撤退命令
5月25日、沖縄陸軍病院に南部の各壕への撤退が命じられる。
5月25日、沖縄陸軍病院に撤退命令が出され、生徒たちは患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ、砲弾の中を南部へと急ぎました。沖縄陸軍病院の関係者や教師と生徒は、糸満の伊原一帯に到着後、6つの壕に分かれました。医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もない状況で、病院はその機能を失います。
5月25日、沖縄陸軍病院も南部の各壕に分散した。
- 【本部】南風原 → 山城本部壕
- 【第一外科】南風原 → 波平第一外科壕→大田壕
- 【第二外科】南風原 → 糸洲第二外科壕
- 【第三外科】南風原 → 伊原第三外科壕
- 【津嘉山経理部】津嘉山 → 伊原第一外科壕
- 【一日橋・識名分室】一日橋・識名 → 伊原第三外科壕
- 【糸数分室】糸数 → 伊原第一外科壕
5月25日、陸軍病院にも撤退命令が出され、生徒たちは歩ける患者を連れ、傷ついた友人を担架で運び、薬品や書類を背負って、砲弾の中を本島南部へと急ぎました。各病院壕では、軍は重傷患者に毒薬などを与えました。重症を負った2人の学友は動かすことができず、南風原に残さざるをえませんでした。
陸軍病院一日橋分室から伊原第三外科壕へ
少女たちに手榴弾を配る日本軍。明らかに死ぬ手段としての手榴弾だった。
県立第一高等女学校3年生だった城間さんは、ひめゆり学徒隊の一員として、南風原町の陸軍病院一日橋分室の壕へ動員。分室にはおよそ40のベッドがあり、昭和20年4月末ごろから負傷兵が次々と運び込まれ、医療品が不足する中、麻酔なしで負傷兵の足を切り落とす手術を行うこともあった。劣悪な環境のもと、負傷兵は次々と息を引き取り、城間さんは「自分もこうして死んでいくんだ」と覚悟したという。5月20日ごろ退却を命じられ、「日本の女性として恥ずかしくない死を」と、同級生たちは日本兵から1人1人手榴弾を手渡された。いちばん後にいた城間さんは最後に手榴弾を受け取った。負傷兵はどうなるのかと日本兵の1人に尋ねると、「注射を打って眠らせる」と言われ、恐ろしくなってそのまま走って壕を出た。一日橋分室に動員されたひめゆり学徒隊のうち、沖縄戦を生き延びたのは城間さんただ1人。城間さん『生き残った自分の責務として一日橋分室の出来事を多くの人に知ってもらおうと描いた』
糸数壕 (アブチラガマ) から伊原第三外科壕へ
5月25日、撤退命令でアブチラガマから重傷患者とひめゆり学徒隊が南部の伊原糸数分室壕(第一外科壕)へ移動。歩けない患者百数十名と糧秣監視兵4名が残される。
アブチラガマ、軍医中尉の証言
5月1日に大城知善先生の引率のもと、ひめゆり学徒隊14名もここへきて、その他女子看護要員も従軍し、過激の勤務に挺身しました。… その頃戦争の激化と共に、前線の死傷者はおびただしく、第一線で応急措置を終えた患者は、昼夜を分かたずどんどん運びこまれた。にわか仕立ての分室で、寝台もなく、板や木材の資材も一切無しで、自動車も無く、本部からは一切、兵員資材の補給もなかった。僅か7~8名の兵隊で、患者収容の寝台をどうして準備するか?皆大変な心配と、あせりを感じました。…
壕の中は折り悪しく、天井から落ちるしずくの為、下は泥濘となり、高熱にうなされの脳症をおこし、転々反転、又は痙攣をおこし、架設寝台からころげ落ちる者、暗がりのなか、阿鼻叫喚、そのなかを悲壮な声で、患者の臨終を知らすひめゆり女子学徒、まるで地獄絵図さながらの様相でした。壕内には薬品や手術器具類も十分にないので、壕内での手術は少なく、痛みどめや輸血等もやらなかった。私は壕内では小さい電池に豆電球をつけて歩いて負傷兵を治療していたが、薬品はほとんどもってきてないので、治療に手間どった。… 糸数壕の負傷兵は数えることができないほど多く、おそらく500~600名ぐらいはいたと思う。… 兵も看護婦もひめゆり女子学徒隊も命の限り働き、一生忘れえぬ悲惨、困難、疲労、恐怖を味わいました。しかしそこも5月25日になって、戦況の急変で南風原病院本院と共に、この方面の敵の襲来がすぐ近くまで来たため、火急に摩文仁方面へ撤退するようにと命令が下りました。
軍医中尉の証言:
…5月25日になって、戦況の急変で南風原病院本院と共に、この方面の敵の襲来がすぐ近くまで来たため、火急に摩文仁方面へ撤退するようにと命令が下りました。本院からの命令は、つぎの通りでした。
「戦況悪化のため、本院は摩文仁へ至急転進する。糸数分室も明日までに、早急に摩文仁に転進せよ。患者輸送については、輜重隊の全力であたるから、準備しておくように。」と、以上の命令が来たので私は、全員に知らせ朝から準備して、待機していた。しかし午後になっても、なんら協力の兵隊も来なかった。
とうとうしびれをきらして、地元出身の地理にくわしい高嶺一等兵と長吉一等兵を弾雨の中・南風原本院へ至急の伝令として出発させた。本院ではちょうど庶務主任が大急ぎで撤退中で部屋から外へ出る途中で、少し用件を話しただけで「お前未だ撤退しないのか?早く摩文仁へ撤退しろ、敵はすぐ来るぞ」と言われたとの報告であった。
私はそれを聞いて、戦況の急の悪化に驚いた。早速緊急に幹部を集め状況説明し、「今日中に摩文仁に撤退すべし。」との命令が下ったことを伝えた。兵員も少なく機材も輸送力もない、本院の輜重隊の協力も見込みない、分室としてどうしたらよいか?結局、自力で又は連れていける者はつとめて連れて行く。
全然連れていけない者は、残って貰って、本院の応援を得てなるべく早く連れにくるようにする。長吉一等兵は自分の親戚の伯父さんが入院し、皆と一緒に撤退出来ないから、自分は伯父を見ながら、後に残るといったので、患者の連絡や後の事を託して皆は夜の12時頃歩ける負傷兵と看護婦、衛生兵、ひめゆり学徒隊は南部へ移動したが、各自めいめい歩いて行ったので何名の重症患者が残ったかわからない。』
『… 壕だけで準備その他資材も無く、人員僅か兵10名前後そのほか、ひめゆり女子学徒だけで、沖縄戦の多数の戦傷者、数百名を収容、治療、看護せよ、とは無謀。数百人の患者の輸送手段を、協力せず、輸送資材も与えず、摩文仁に今日中に、撤退すべし。と言う命令は無謀。
無謀な戦争と思いながらも、皆抗しえず、あるだけのカを振りしぼった。たが、結局多数の貴重な人命を失った。馬鹿な結末を見た。』
62師団64旅団独立歩兵23大隊4中隊の負傷兵の証言
この頃、戦の模様は極度に悪化して、すでに、「首里」を放棄していた。しかし、このガマにまでは砲弾は届かなかった。破傷風はいよいよひどく、傷口には「うじ」がうごめき、その痛みはけいれんに加わって、死なないのが不思議に思えるほど体力は弱り果てていた。入院して数日後、「当病院は解散する。個人行動でただちに真壁に行け」と命令された。「来るべき時が来た」と観念した。ちょっとでも歩ける者ははい出して行った。生命を守るに必死の地獄は、ガマの中に繰り広げられた。これが赤裸々な人間の姿であろう。我先にと友をけとばしながら出て行く。この人たちの姿を眺めながらどうすることもできぬ私は、「看護婦さん、看護婦さん」と呼び続け、「うじを取ってくれ」とうなり続けた。隣りで退去準備中の一人は、引きつった私の顔を思いっきり、げんこつでなぐりつけた。気の立ったこの人は私の騒ぎを何と感じたか知らぬが、なぐられた時には、みじめな、情ない自分を意識せずにはおられなかった。
大半が出て行き、静かになったガマの中で、私をゆすぶる一人の看護婦さんがあった。まっ黒になった右手の包帯を丁寧にはがし、ピンセットで「うじ」を一つ一つ取ってくれた。ざくろの割れ目に似た傷口深く喰い入っている「うじ」は汚なく、若い女性でできる仕事でないはずだが、黙々として、彼女は、手を動かした。その横顔の神々しさ「地獄で仏」とは、このことを言うのであろう。学徒動員で働いている現地女学生のこの人は、解散を告げられて、最後の仕事に私を選んでくれたのであろう。明け方近く、一言の言葉も無く静かに立って行った。私に深い慰めのまなざしを残して。
「明日、全員迎えに来るまで、待っておれ」と残して行った軍医の言葉を信じて、百数十名は待ちに待ったが、二日、三日と経っても誰も迎えに来てはくれなかった。死期が刻々と迫るのを感じて、望みを失った者は、次々と自決したり、絶叫を残して死んでいったりした。私も、「地上で野ざらしになるよりはガマの奥深く眠ることをせめてもの幸せ」と考え、一切をあきらめて運命のままにまかせようと覚悟していた。」
南城市糸数アブチラガマ(糸数壕)の公式サイト。糸数アブチラガマでは沖縄戦時多くの負傷兵が置き去りにされ、故郷を想い、家族の名前を呼び 息絶えました。戦争の悲劇を今に伝え、二度と繰り返さぬよう恒久平和を願い情報公開しています。
戦場の恩納岳 - 第4遊撃隊 (第二護郷隊)
米軍は恩納岳で掃討戦を開始する。四方から追いつめられ、恩納岳周辺に避難していた2万人余りの住民は、米軍と日本軍陣地のはざまで逃げまどい多く犠牲となった。
恩納岳: 第4遊撃隊
5月20日ころ、東西両海岸道は米軍の南北移動が活発となり、米軍は国頭地区の日本軍の掃討を住民に公言し、恩納、屋嘉付近に兵力を集結すると共に、屋嘉ー屋嘉田道、金武ー安冨祖付近に陣地を構築し、恩納岳周辺に厳重な警戒態勢をとりつつあった。兵力、6千という情報であった。
5月23、4日朝から、先ず観測機が数機、恩納岳陣地上を執拗に旋回して偵察したあと、25日には両海岸方面から迫撃砲を集中し、四囲から恩納岳攻撃の火蓋を切ってきた。敵の攻撃はまるで潮がさしてくるように、尾根伝いに、あるいは谷間を深く縫って包囲網をちぢめ、登攀をこころみる。東面の護郷隊と西側のわが隊との接触がはじまり、ドドドドドーッと機関銃が全面的に火を噴いた。
おりから、沖縄にはこんど本格的な雨期がやってきた。灰色によどんだ雨雲からは、沛然と雨が降り、それが濃いガスとなって深い谷間をとざした。カビの生えた深山の腐葉土のにおいに、人間の死臭がかさなってただよい、戦いを一層陰惨なものにした。
両軍の間を逃げてくる避難民が、私のタコツボのすぐ前まできて敵弾を浴びて、悲しい最後を遂げた。なおも友軍をたよって陣地へ入ってくる住民はたえず、陣地はごった返しした。老人をかばい、子供の手をひき、食をもとめて恐怖におののきつつ、髪をふり乱し、濡れた体でさまよう住民の姿は、まさに見るにしのびない地獄絵図である。
1945年3月、16歳で第二護郷隊に召集された大宜味村の少年
護郷隊1,001人のうち160人が戦死した。生き残った隊員も、秘密部隊だったため軍人恩給などは一切なかった。「ぼくたちは操り人形だった」と何度も口にした。「どうしたら戦争が終わるかなんて考えられず、目の前のことしか考えられなかった」。ひたすら上官の命令に従うしかなく、「命令はしょっちゅう変わった」という。
そのとき、住民は・・・
シッポウジヌガマ - 県庁・警察部壕の撤退
沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)
シッポウジヌガマ (那覇市真地) から東風平へ。国の言いなりで、学徒動員や防衛隊召集など軍の片棒を担がされてきた県庁や警察には、戦争で次々と命を奪われる県民を守ることはできなかった。
小雨が降ったり止んだりの5月25日未明、荒井はまる二か月、島田はまる一か月暮らした真地の県庁・警察部壕を出発、約11キロ南に当たる東風平村志多伯の野重1連隊の壕を目指した。… 秘書官によると、各自の装備は戦闘帽に鉄カブト、手榴弾、警察官はそれに拳銃、帯剣だけ。持ち物は着替えのシャツ類や日用品を入れたふろしき包みで、島田はそこへ常備薬と博多帯、手提げカバンに愛読書…を入れると、2つのトランクを壕に残した。秘書官らの負担を出来るだけ少なくしようとの心遣いだった。島田の服装は例によって、着た切りすずめで黒光りした詰め襟の乙号国民服に軍靴、荒井ら警察官も夏の白い制服は敵の標的になりやすいので国民服や作業衣に着替えた。一行は夜間でも固まって行動するのは危険なので、三々五々分かれて行くことにした。(316-317頁)
一行は二か月間も狭い壕内に居て運動不足に陥っていたためか、気は急ぐが足の運びは遅かった。津嘉山の橋のたもとに軍用トラックが1台、横転していた。砲撃にあったらしく、首や手足をもがれた兵の死体がたくさん路上に投げ出されていた。橋を渡った土手の上では、おじいさんと孫娘らしい10歳くらいの少女が抱き合って死んでいた。疲れて休んでいるところを爆風にやられたようだ。鼻をつく異臭がすると、道端に必ず腐乱した死体が転がっていた。片付けてやりたくても警察官も歩くのが精一杯で、その余力はない。悲惨な情景に目を背けながら、一同は島田知事を守るようにして志多伯への道を急いだ。
《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 316-317、322-323頁より》
Marines of 3rd Battalion, 22nd Marines rush past bewildered citizen of Naha.【訳】途方にくれた那覇市民の横を走り去る第3海兵軍団第22部隊の海兵隊員
Dead woman in the capital city of Naha.【訳】女性の死体。那覇にて
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■