〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月24日『米軍の空爆と艦砲射撃』

艦砲射撃の開始 / 沈黙 / 道に溢れる人々 / 破壊されていた橋

 

米軍、空爆2日目

空爆と艦砲射撃

前日23日から沖縄全域を対象に開始された空爆は2日目を迎え、この日からは米軍による艦砲射撃も始まった。

翌24日には、沖縄本島南部に対し、およそ30隻のアメリカ軍艦船が艦砲射撃を開始。この日の艦載機襲来は延べ600機となり、艦砲射撃は約700発に及びました。(旧・防衛研修所戦史室 編 「戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦」)

特集 沖縄戦クロニクル ~その時何が起こったのか~|NHK 戦争証言アーカイブス 

24日からは押し寄せた戦艦8隻駆逐艦27隻からの艦砲射撃が、本島南部や中城湾に叩き込まれた。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 363頁より》

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USS NORTH CAROLINA (BB-55) firing guns at Okinawa, Ryukyu Islands. In upper left hand corner can be seen 16” projectiles hurled toward Jap installations. 沖縄本島を砲撃する戦艦ノースカロライナ(BB-55)。左上隅は、日本軍の施設へ発射された16インチ弾。(1945年3月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

3月24日午前6時半ころ、沖縄本島南西沖合いに、米戦艦以下約30隻の白い姿が浮かび上がった。沖縄の海は、サンゴ礁に囲まれ、礁外は、大部分が急に深い。南部の小高いところから見ると、あんな近いところによく近寄られるものとおどろくほどの近さに、基準排水量45,000トンの「ニュージャージー」、「ウィスコンシン」、「ミズーリ」それに35,000トンの「マサチューセッツ」、「インディアナ」の巨大な最新鋭戦艦群が、駆逐艦11隻を従えて、東から西へ悠々と移動しながら、41センチの巨砲45門と、20センチ砲100門の砲口を揃えて撃ち込んできた。午前8時25分であった。この日は、東の海に雨雲がたれこめ、風が強かった。その雨雲と風をついて、朝7時ころから、米機延600機が襲いかかった。空襲は、まったく一方的であった。高射砲は射つがいっこうに命中しない。空を米機が完全に支配し、部落を狙い、地上に人を見つけると、どこどこまでも追ってきて、機銃を浴びせた。

艦砲射撃は、約700発。南東の知念半島、南西の喜屋武地区にかけ、とくに湊川地区に多く、朝8時半から夕方5時50分ころまでの間撃ちつづけた。沖縄は9時間にわたって、震撼したが、これはほんの小手調べでもあった。これから、まる三ヵ月、晴雨にかかわらず、沖縄は艦砲射撃に痛めつけられつづけるのである。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 99-100頁より》

  

嘉手納と北谷の掃海作業

沈黙する日本の「沖縄守備軍」の一方、米軍の行く手を阻んだのはむしろ島を取りまくサンゴ礁であった。

3月24日から、米軍は嘉手納、北谷沿岸の掃海作業を始め、水中の機雷を爆破すると共に、さんご礁を破壊して、上陸に備えつつあった。
《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 52頁より》

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Ships at anchor off Okinawa, 1945. This item is part of a scrapbook that details the wartime service of Rear Admiral John Dale Price. 沖縄沿岸に停泊する米軍艦艇 

Naval Aviation Museum

 

日本軍の動向

3月24日、沖縄に艦砲射撃が始まった日、日が落ちて、5航艦から捻出した「天山」艦攻7、「彗星」艦爆2が、沖縄周辺の米艦艇を攻撃した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 135頁より》

 

第32軍の基地隠匿作戦

沈黙し、沖縄島に「敵を引き寄せる」作戦の第32軍。

32軍は24日、戦闘配備令を下令、連合艦隊は沖根司令部に対し、迎撃の作戦を指示した。それは「敵艦艇の砲撃に対しては砲台を隠蔽して応戦せず、近づく艦艇は甲標的を活用して攻撃せよ。上陸用舟艇に対しても本隊の到着を待ち、陣地の擬装を強化して敵を引き付けられるだけ引き寄せよ」という基地秘匿作戦であった。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 363頁より》

軍司令部

この艦砲射撃を、首里城趾の台上から見つめていた牛島中将と幕僚たちは、大本営や五航艦の半信半疑さと違い、これは間違いなく米軍上陸の準備砲撃だと断定した。甲号戦術(敵有力部隊上陸のおそれある場合、全部隊戦闘配備に就き、いつでも戦闘を開始できる準備を整える)移行準備が時を移されず令された。同時に、62師団から独立歩兵第272大隊を抽出、知念半島の入口に陣地を移動させた。艦砲射撃の様子から見て、米軍が港川地区に上陸する気配があるのを察しての処置だった。

いったい、艦と陸との砲撃戦では艦の方がブが悪いはずである。しかし、味方砲兵は固く沈黙を守り、一発も撃たない。撃つと、砲がどこにあるかが敵にわかり、徹底的な集中攻撃を受け、結局、破壊され、もっとも必要なときに戦闘できなくなる。これには、硫黄島マリアナなどで、痛い経験があった。圧倒的な兵力差のせいであった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 100-101頁より》 

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Targets were set ablaze in Minatogawa, southeast Okinawa, Ryukyu Islands, by salvos from the 16-inch battery of the USS WASHINGTON (BB-56) and by carrier strikes. Setting new fires. 沖縄本島南東部の港川で、標的が炎上している様子。戦艦ワシントン(BB-56)の第16インチ砲による一斉射撃と空母艦載機の攻撃によって火災が生じた。新たな攻撃が行われている様子。(1945年3月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

3月24日以降、米軍は陽動作戦として南部の港川方面から激しい艦砲砲撃を加える。

八原高級参謀の回想:

明くれば24日、東天未だに紅を告げざるに、敵機は大挙来襲し、全島は再び殷々轟々銃砲爆声に圧せられ、砂塵と黒煙に掩われる。

海上の煙霧漸く霽れんとする7時ごろ、混成旅団長鈴木少将から、「知念半島沖に、敵艦隊を発見す」との電話報告がある。ほとんど時を同じくして、第24師団長雨宮中将からも「喜屋武半島南方海上に、戦艦を交える敵の大艦隊出現、徐々に西進中」との報告がきた。

… 暫くにして、爆弾のそれと異なる堅く、かつ力強い破裂音が、一弾また一弾と全島を震撼して、南方に起こる。司令官も参謀も、頭上を乱舞する敵機には不関焉と、双眼鏡を手にして首里山に登る。… 港川方面糸数高地と八重瀬岳の間、山低く南海の展けたるあたり、岸をへだてること1万ないし2万メートルの沖合い、煙霧に薄れつつ、大型艦が1、2、3・・・凡そ目指し得るもの十余隻、二線となり、西方に徐航しつつ、射光閃々、熾に火蓋を切っている。硝煙やや薄れる瞬間など、3月の陽光に、真っ白い艦体がくっきりと浮かび、なにか絵画的な感じを与える軍艦もある。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 154-155頁より》

 

慶良間列島

明くる24日空爆は終日続いた。この2日間の空爆慶良間諸島の特攻艇多数が破壊された。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 41頁より》

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慶良間上空を飛ぶTBF機。(1945年3月24日撮影)

TBF planes flying over Kerama Shima,Ryukyu Is.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄島

嘉手納飛行場 (別称: 中飛行場): 特設第1連隊第2大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

24日、東の空が白むと、もう米艦載機の空襲がはじまった。

… 繋いでも繋いでも、電話線が切れた。有線を担当しているわれわれは、爆撃で電話線が切れるたびにその都度、分担して保線にでかけなければならない。

… ダダン。

というもの凄い至近爆弾の洗礼をうけた。瞬間ランプが消え、真黒な土砂が雨のように強く身を打った。… この辺の土質は軟弱であり、それに壕の厚さも2メートルくらいだったから、直撃であれば一たまりもない。… 上空は敵機のひとり舞台だ。一瞬にして山野の地形を変える猛爆撃の中を私はふたたび、分隊員を引率して屋良通信所にとって返すと、午後になって、「敵艦隊、知念半島沖に発見、久高島に対して1分間、6発の艦砲射撃実施中」の情報が入る。… はじめてきく、ドロドロドローといった艦砲弾の音地震のように伝わってくる。… 刻々と入ってくる情報は「敵、湊川に上陸するもわが軍はこれを撃退す」と私たちを一喜一憂させたが、そのうち大機動艦隊帯は徐々に艦砲射撃を加えながら、島の南端を廻って北方に延び、午後3時頃には遂にわが嘉手納方面にも主力艦の巨弾が炸裂するようになった。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 109-110頁より》

 

そのとき、住民は・・・

女子学徒隊、野戦病院に向かう

なごらん学徒隊: 沖縄県立第三女学校 (沖縄陸軍病院北部分室)

昭和20年3月24日の夕方、沖縄陸軍病院配属の10人の氏名…が発表になり、先生や学友たちに見送られ、揚々として軍の車両で八重岳に向かった。

野戦病院に到着してみると、住民の資材や労力提供によって建設されたという、丸太を組み立てて作られた、茅ぶきの兵舎1棟と、病棟3棟、治療棟1棟、事務室1棟で病院とは名ばかりでやっと雨露を凌ぐことのできる掘建て小屋であった。去る10・10空襲の負傷者をはじめ、艦砲射撃などによる負傷兵が運ばれていた。

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 132-133頁より》

積徳学徒隊

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3月6日から、東風平国民学校で看護教育をたたき込まれた仲里ハルさん。積徳高等女学校に通う16歳の少女でした。

2週間後、ハルさんたちは25人の仲間とともに、豊見城城址にあった第二野戦病院に配属されました。3日目の朝、ハルさんは目を疑います。仲里ハルさん「豊見城は高いからずっと那覇港が見える。海の水平線を見ると大きな軍艦にいっぱい包囲されていた。あのときだけはもう何も言えないよ、もう」3月23日未明、沖縄本島はすでに海面が見えないほどの船団に取り囲まれていました。『沖縄は負けた』。この日まで必勝を信じていたハルさんたちは愕然としました。… 日本軍は、上陸を想定した渡具知海岸の沖に3000本の杭を打ち機雷を設置していましたが、アメリカはたったの3時間でこれを除去。それよりも、上陸場所など問題にならない数の船が押し寄せていたのです。

65年前のきょうは1945年3月24日 – QAB NEWS Headline

 

慶良間列島

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《AIによるカラー化》上空から見る慶良間島の地形(1945年3月24日撮影)

Aerial of patchwork terrain at Kerama Shima,Ryukyu Is.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

阿嘉島(あかじま)

3月24日の艦載機による空襲はこれまでにない激しいものだった。集落に初めて小型爆弾が投下され、相当数の民家が倒壊、あるいは焼失した。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 95頁より》

座間味島(ざまみじま)

昭和20年3月24日の未明、前日の空襲で民家や山野に焼夷弾が投下され、周りの山々は真っ赤な焔と白い煙に包まれ、燃え続けていました。集落内でも焼け落ちた茅葺の家がまだくすぶっています。10月10日の空襲のような一過性のものではない、今日もやってくるぞ、と察知した村人たちは、山の裾野に掘っていたそれぞれの防空壕へ夜明けに避難しました。家畜小屋の豚や山羊も小屋から放してやりました。空襲で焼かれてはいけないと、外に出したのです。…午前10時頃、再び空襲が始まりました。前日より激しさを増してきたようです。投下されるのが焼夷弾から爆弾に変わっていたのです。

沖縄戦体験記第21号「連行された逃亡兵」(宮城恒彦/グローバル企画印刷株式会社) 22-23頁より》

 

沖縄島 - 道路は人で溢れた

この沈黙戦術は、しかし、沖縄県民の士気を阻喪させた。はじめ高射砲は撃っていたが、間もなく計画に基く新配置に移動する。友軍機は来ず、すぐ目の前にいて、さかんに艦砲射撃をつづける敵艦には反撃せず、日本軍は、ただ、ジッと壕の中に潜んでいる。これは、県民の抱いている「皇軍」のイメージと、甚だしく隔っていた。敵艦が撃ち、敵機が襲ってきたならば、たちまち猛然と撃ち返し、敵艦を撃沈、敵機を撃墜するのが「皇軍」のあるべき雄姿であった。県民は混迷し、不安を抱いた。もういけないと、ちょうど伊江島の住民がしたように、あわただしく国頭疎開をはじめた

… いっせいに動き出したのは、24日も日が落ちてからだった。北へーー島尻から中頭を経て国頭に通ずる道路は、人で溢れた。荷車に食糧や身の廻りのものを積んで、曳いていくことのできた人は幸せだった。

荷物を頭の上に載せ、歩いた。男手を防衛召集や、現地召集でとられて、女が、すべてをしなければならなかった。灯をすべて消した夜道を、この疎開者たちの黒い集団は、ひたすら北へ北へと歩きつづけた。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 100-102頁より》

夜になって軍を信頼してなかなか腰を上げようとしない住民の強制疎開が行われ、生色を失った老幼女子が持てるかぎりの荷物を持って、身寄りのものが互いにはげまし合い、かばいながら、業火の反映する松並木の名護街道を北へ北へと戦火におびえながら移動していった。

軍の指導で彼等を戦列外で迎え入れるという、目指す国頭郡の山中には、こんなに大勢を迎え入れる住居も食糧も一体あるのだろうか

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 110-111頁より》

 

破壊されていた橋 - 護郷隊

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沖縄戦の絵】赤子を担いで渡河

昭和20年3月下旬ごろ、沖縄本島南部の南城市大里から本島北部に向けて疎開のため避難をしていたときのこと。今の金武町から更に北に向かう山の中でのある夜、あったはずの橋がなくなっていた。日本軍によって壊されていたのだ。川に行く手を阻まれ、当時23歳だった金城さんは生後1か月の長男を抱え、月明かりの下、川を歩いて渡った。胸のそばまで浸かった水は冷たく、産後間もない身体にこたえたが、『長男にかからないように』、ただそれだけを考えながら歩いた。72歳になる義母(白髪の女性)も冷たい川に入り、大勢の避難民とともに黙々と川を渡った。どの顔も不安な表情でいっぱいだった。金城さん『川を渡るとき、心は固くなり他の人を思いやる余裕はなかった。戦争は人間から人間らしさを奪う。絶対にやるべきではない

赤子を担いで渡河 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

米軍の侵攻を妨げるため橋を破壊したのは、「護郷隊」と呼ばれる、陸軍中野学校将兵に召集された少年兵だった。

中北部の橋の爆破は、ほとんど護郷隊の役割だったと言われています。そのために北部に避難する住民は、リヤカーに載せていた食料も弱ったお年寄りも置いて北上する羽目になりました。

特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ | マガジン9

15歳で第2護郷隊に入隊した金城さんの話

護郷隊はみんな橋を壊したり、松並木を倒してアメリカ軍を通さないようにしたんだが、アメリカは橋もすぐ架けるし、ブルドーザーで松の木もすぐどける。石川の橋と伊芸の橋は先輩が壊したが、アメリカはすぐに鉄橋架けてブルドーザーを通していた。結局は馬車で避難する住民を苦しめただけだった。

17歳で第2護郷隊に入隊した宮城さんの話

米軍が上陸する前に橋を壊したのは全部僕ら。橋脚に爆薬を撒いて火を点けて、導火線一cm一秒だから、泳いで逃げて行く時間を計算して。またこーんな大きな松を倒したり。

三上智恵『証言沖縄スパイ戦史』(集英社新書) (2020)

 

 

沖縄本島中南部から北部へと、住民たちは家財を馬車やリヤカーなどに積んで避難しようと押し寄せてきていた。落ちた橋を見た避難民たちは荷物を持って逃げることを諦め、身ひとつで川を越えるしかない。また、橋を壊した本来の目的だったアメリカ軍の進軍も止められなかったアメリカ軍は、工兵隊が壊れた橋の代わりに鉄板を渡し、すぐに補修してしまったという。橋の破壊は、アメリカ軍に打撃を与えられなかったばかりか、沖縄で暮らす市民たちを苦しめるものとなったのだ。橋の周辺を監視していた元少年は、そのとき目撃した光景が忘れられないという。「おじい、おばあ、子どもたちが泣いていた。車も馬も捨てて命からがら歩いていくしかなかった」

NHKスペシャル取材班「少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―」新潮社

 

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