〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月22日 『今も戦争中』

アブチラガマの投降戦時 PTSD今も続く苦しみ

米軍の動向

北部 - 掃討戦は続く

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Men of 27th Div. in mop-up campaign on island.
第27師団による沖縄本島での掃討作戦 撮影地: 安田 1945年 8月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Men of 27th Div. in mop-up campaign on island.
第27師団による沖縄本島での掃討作戦 撮影地: 安田 (1945年 8月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Men of 27th Div. in mop-up campaign on island.
第27師団による沖縄本島での掃討作戦 撮影地: 安田 (1945年 8月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

投降ビラと宣撫班

国吉: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

18日の昼間、敵の小型機が飛来して伊東大隊の陣地の上に紙片を無数にばらまいた。珍しくパトロールの米兵はいない。紙片を手に取ってみると、それは宣伝文で、次のような内容だった。「日本の天皇陛下は皇室の安泰だけを求め、無条件降伏を受諾した。日本軍は武器を捨てて湊川方面に投降してこい」にわかには信じられなかった。もとよりこんな敵の宣伝に踊らされてはならない。伊東はそう自戒しながらも、十四日夜以降の様子から、何か大きな変化があったのではないかと感じないではいられなかった。それでも、伊東たちは変わらぬ日夜を過ごしていた。

そして── ついに伊東にとって生涯忘れることのできない、8月22日がやってきた。この日の昼間、大隊本部の壕の入口で何やら叫び声がした。「大隊長殿と言っているようです」傍らにいた樫木副官が言う。耳を澄ますと、確かに甲高い声で何者かが伊東を呼んでいる。(敵か、味方か)こんな昼間に友軍がぶらぶらしているわけがない。そのうち、5月に大隊に配属になった輜重兵の近沢伍長ではないかと誰かが言いだした。なるほど近沢の声だった。

「自分は島の南端の摩文仁で17、18日頃、米軍の宣伝で日本の敗戦を知り、投降しました」近沢はそう答えてから言葉をあらためて言った。「大隊長殿のことを思い出し、日本の降伏を早くお知らせしたいと、やって来ました」「…………」次いで切り出しにくそうに言葉をつないだ。「じつは米軍の将校が来ています。会ってください」「会おう」伊東は躊躇なく応じた。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の戦い」(笹 幸恵/Gakken) 253-277頁 より抜粋、一部要約》

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JAP OFFICERS SURRENDER AT OKINAWA: A First Marine Div. officer interrogates Jap officers (Major) left, and second Lt. who surrendered recently at Okinawa. The officers identified themselves as Major Yoshikaki Masai and Second Lt. Sadami Ishido. The two reluctantly surrendered after hearing a Japanese language broadcast from Radio Tokyo which convinced them that the Emperor had ordered his forces to lay down their arms. The Major had charge of fortifying Okinawa's intricate southern defenses before the American invasion. He later was present when the commanding general and chief of staff of the Jap 32nd Army committed hari kari[hara kiri] in the campaign's final, bitter days. For 53 days the two officers hid in caves by day and traveled by night, subsisting on raw potatoes and grass.

投降したばかりの日本軍少佐(左)と少尉の二人に尋問する海兵隊第1師団将校。マサイヨシカキ少佐、イシドサダミ少尉と名乗る二人は、天皇による「武器を下ろして降伏せよ」というラジオ東京の日本語放送を聞いてしぶしぶ降伏を決めた。少佐は米軍侵攻前に沖縄での防衛強化を監督していたが、戦闘の最後の激しい攻防の中、日本陸軍第32軍の指揮官と参謀長が「ハラキリ」を行ったときに居合わせた。 53日もの間この二人は生イモや草を食べながら昼は洞穴に身を潜め、夜になって移動するという生活を続けていた。 沖縄。(1945年8月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

アブチラガマで生き残った7名の傷病兵

5月25日の撤退以降、ガマの中に毒薬と共に置き去りにされた百数十名の日本軍の傷病兵のうち、3か月後、生き残った7名が50名ほどの住民と共に米軍に収容された。

ガマの中にいた糸数 の住民は終戦も知らずに8月22日に米軍の宣撫班(日本兵)がこのガマに入ってきて、全員出るようにと言われ、住民の約50名位がガマから出て米兵に収容された。…この時ガマの中の生き残りの兵7名も一緒に出て収容されたが、トラックは住民と別々であった。糸数の住民は同日村内の百名の収容所につれて行かれ、男性はここで調べられて兵隊と防衛隊は屋嘉収容所へつれていかれた。

戦後このガマに入った人の話しによると、ガマ内に備えられた丸太の寝台2段ベッドの上下に白骨化した遺体がたくさんあったという。

《『糸数アブチラガマ(糸数壕)』玉城村 (1995年) 》

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 糸数アブチラガマ|南城市

8月22日に投降した7人の兵士の1人、日比野勝廣さん証言アブチラガマで8月22日に救出された日比野勝広さん証言

私の横には、末長君(九州出身)、吉田君(東京都出身)、吉田君(長野県出身)と三人寝ていた。痛みにうなされると東京の吉田君が、「静かにしろ」と叱りとばし私をなぐった。体には水分一滴なく、骨と皮だけで死人同様であるにもかかわらず、意識だけ明確で、すぐ下を地下水が流れているのか、水の音が聞えた。それが、頭にこびりついて、「あの水さえ飲めば、死んでも悔なし」と、一途に、思いつめていた。動けぬ体では全く罪な話で、左手で耳をふさいでも右耳から水の音は伝わり、「水、水」と、水のとりこになって気も狂わんばかりであった。今にして思えば、その一念が「生」を保つ支えとなっていたようである。全てを水に集中したことが、結果的に、死神を寄せつけなかったのだろう。こんな時、大声で怒鳴り散らす者はすべて狂っている者で、この世の声とは思えぬうめき声も聞える。声の出る者は、まだ元気のあるほうで、ひっそりといつの間にやら死んでしまう者も多数出た。まっ暗なガマに時々「大こうもり」らしい羽ばたきが静けさを破るほかは、「動」のない「死」の世界が幾日も続いた。
仰向けに寝ている背の下にムズムズしたものを感じ、それらが、やがて首筋、お尻の下にも感じられる。手さぐりでつまんだら、それは、大きな「うじ」で群をなしていた。どこからきたものか、あたりを見まわした時、ふと隣りの吉田君(東京)が、いつの間にか死んでいた。そして、すでに腐り始め、そこからはい出していることが分かる。死臭鼻をつき吐き気さえ感じていたが、まさか一番元気だったこの人が死んでいるとは意外だった。そういえば自分をなぐらなくなっていた。

数名の日本兵が、突然、抜け穴から入ってきて、一同を驚かせた。さらに、その言葉に我々は呆然とした。「日本は戦争をやめた。兵隊は、全部、家へ帰ることができる」と言った。いも畑に残された足跡から、ここを発見し、呼びに来たと言うが、「そのようなばかげたことは、絶対ない」と一同は、頑として信じない。「一度、外に出て話を聞け」と詰め寄られ、思案の末、私が代表として単身、様子を見に行くことに決定した。… (中略)
幾月ぶりかで、昼間青空の下に立ってみて、ギラギラ光る太陽を仰ぎ、緑なす山々を眺めたとき、それは、初めてカラー映画を見たときよりも美しく、鮮かさには感嘆の声も出ず、ただ目をみはるばかりであった。自然の緑が、これほどまでに印象的であったのは、生涯でこの時だけであろう。ここに至っては、どのような条件下でも良い。死ぬまでこの光の中で生きたいと、一刻も早く、ガマから出たくなり、早速引き返し一同に伝えた。通訳を通して、「皆、揃って出ます」と、直ちに、狭い入り口から光の中に、出ていった。長い光のない生活からようやく解放されたよろこびは、その後に、どのような事態が待ち受けようと問題ではなく、青白くふやけた顔のどれにも一度に生気が溢れていた。最後に歩けぬ者を背負ってガマをはい出す時の私は、感無量の涙があふれて止めようもなかった。

「屍と共に半年」日比野勝廣さんの証言 | 糸数アブチラガマ

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糸数アブチラガマ|南城市

 

「戦時PTSD」(心的外傷後ストレス障害

暗闇に潜む記憶

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沖縄戦 父の体験引き継ぐ 語り継ぐ戦争 - 沖縄:朝日新聞デジタル

アブチラガマで8月22日に救出された日比野勝広さん証言

時折、明かりをつけ、ぼんやりと辺りを照らすと、天井から無数に下る石のつららは、その先にしずくを光らせ、気味悪く私たちに迫ってくる。辺りに転がっている多くの死体と共に、死の世界をまざまざと見せつけられた思いで、非常な恐怖におそわれ、思わず、「ふっ」と明かりを消す。もとの闇にもどると、今みた地獄図が眼に残り頭を抱えこんでしまう。

「屍と共に半年」日比野勝廣さんの証言 | 糸数アブチラガマ

日比野勝広さんの家族の証言

「お父さん、なぜそんなに頻繁に、沖縄に行くの・・・?」

沖縄行きを繰り返す父の姿に、娘たちは時に反発し、時に疑問を投げかける。しかし、そんな娘たちが、年齢を重ね父と共に沖縄の戦跡をめぐるうちに、父の思い、父のこだわりが少しずつ理解できるようになっていく。

「父は戦場で心の傷を負った。それを癒すため、沖縄に通う必要があった・・・」。

自宅で寝る時も暗闇を怖がった父。家族より戦友を大事にした父。不可解だった父の姿が、次第に娘たちにも生身の人間として理解できるようになっていった。

報道の魂「父の戦場、娘たちの継承 ~ 日比野さん一家の沖縄戦」TBS

15歳で戦場に、そして

一中通信隊の元学徒

私の叔父○○○○は、県立一中2年生の15歳で学徒動員された。通信隊の一員として南部の激戦地を転戦させられたが、生きのびて帰ってきた。4人の姉たちの後に生まれた待望の男子で、一族から期待され大事に育てられた。わずか15歳で戦場へ駆り出され、地獄を体験した彼は、生きて帰ってきたものの戦争後遺症で精神の病にかかった。不眠症に悩み、突然自分を制御できず暴れだし年取った親を苦しめた。叔父の面倒をみるため、戦後の祖父と祖母の生活は悲惨であった。私たち家族は、父の転勤で東村に移り住んだが、久米島に残った○○叔母の家族は、祖父母を助け、叔父の面倒をみるための苦労は言葉では言い尽くせない。「トミはその心労で命を縮めたのではないか」と母は、心を痛めていた。その後、叔父は精神病院に入院したものの社会復帰できず、病院でその生涯をおえた

久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021) 150-151頁》

兵隊幽霊と呼ばれて

護郷隊の元学徒

すると戦争終わって2-3年ぐらいだったですかね。戦のことみんな思い起こしてしまってですね。戦争恐怖症みたいな精神異常者になって、独房にぶち込まれました、あんまり暴れすぎるちゅうことで。戦争ですから暴れるわけですよ。アメリカ兵に追われたとか、どうやるとか、みんな戦争のしぐさしますからね。そうすると、みんな相当悪い精神病になっているから。 < 中略 > 理解する人は、いないですよ。こういうことを話してもね。夢話しているんじゃないかぐらいに人は聞いてるんじゃないかぐらいに思いますよ。実際そういうことやったんですけどね。

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かつて「護郷隊」とよばれた少年兵がいた - Battle of Okinawa

「今は、もう思い出すことはないよ」と笑って迎えてくれたが、かつてPTSDに苦しんだ。「戦闘で亡くなった人たちの霊が私にとりつくんです」

1945年3月1日、16歳だった瑞慶山さんは召集された。第二護郷隊に配属、部隊の拠点となっていた恩納岳のふもとに移動した。約1カ月後、瑞慶山さんは「斬り込み隊」に選ばれた。10キロの火薬を抱え、3人一組で米軍の戦車隊に突撃する。いわば「自爆テロ」だ。「死刑宣告。生まれない方がよかったと思ったよ」(瑞慶山さん)

… こうした壮絶な体験は戦後、瑞慶山さんを苦しめることになる。夜中に家を飛び出し山に登ったり、海に飛び込んだり、意味不明の言葉を発したり。死んだ兵隊がとりついたとして、地元の人から「兵隊幽霊」と呼ばれた。 家族はやむなく瑞慶山さんを畳2枚分の座敷牢に閉じ込め、入院もさせた。その後、瑞慶山さんは52歳の時にキリスト教に入信し、心の落ち着きを取り戻したという。

戦友の数だけ桜を植えた、沖縄少年ゲリラ兵が体験した壮絶体験 (1/2) 〈AERA〉

 

第二護郷隊「今も戦争中」PTSDに苦しんだ元少年兵」 

 

こうした「戦時PTSD」(心的外傷後ストレス障害)に悩まされていた元兵士たちは少なくありません。

こうした「戦時PTSD」(心的外傷後ストレス障害) に悩まされていた元兵士たちは少なくありません。敗戦直後までに入退院した日本陸軍の兵士約2万9200人のうち、その半分にあたる約1万450人が、さまざまな精神疾患に苦しんだという研究結果もあるほどです。

「ワシは人殺しだ…」戦争体験者が流した涙、その理由とは BuzzFeed Japan 

 

そのとき、住民は・・・

沖縄戦 - 今も終わらない心の苦しみ

浦添村経塚27歳の女性の証言

子供二人が爆死して以来、この時まで私はほとんど放心状態で過ごしてきておりました。子供達から流れ出た血と糊の入り混った異様なにおいが、永い間身体にこびりついていました。身体を洗っても落ちませんでした。そのにおいは、一、二か月経っても、夕暮れ時、ぼんやりしていると漂ってきました。そしてまた子供達のことを思い浮べて、涙を流してしまうという状態が続いていたのです。

「女たちの苦しみ」1945年7月27日 『地獄から天国にきた気分』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

沖縄と福島でトラウマ治療に取り組んできた蟻塚亮二医師の話

… 私のところに来たのは体が効かなくなって8年後でした。戦争のトラウマが原因だろうと見当がついたので話を聞いたら、沖縄戦で艦砲射撃のなかを親に連れられて逃げた経験があることがわかりました。読谷村座間味村の、いまリゾートホテルが建っているあたりを、死体を踏みながらさまよって、それはそれは大変だったそうです。だいぶたってから聞いたのですが、不眠だけじゃなく、幻聴、夜中に寝ていて誰かに足を触られる幻覚、死体の匂いのフラッシュバックもありました。戦争記憶による身体化障害です。その人は1年半ぐらいで治りました。いまでもたまに顔を見せてくれますが、杖も使わずひとりで歩いてこられます。… (中略)

寝ているとき誰かに足を触られた感じがしたり死体の匂いの匂いがしたりというと、まるで心霊体験のように聞こえます。ヘンなことを言いだしたと思われるのをおそれて家族にも話せず、医者にかかることもできないで苦しんでいる人が多い気がします。

多いでしょうね。大抵の人は言えないです。さっきお話しした歩けなくなった女性の場合、「実は死体の匂いがしてきたんだ」と言ったのは、診療に来はじめて5カ月ぐらいたって関係性ができてからですよ。私がなぜ、こういう話を本に書いたり取材で喋ったりするかというと、戦争や震災のトラウマを受けた人が言う、死体の匂いがしたり(幻嗅)、夕焼けが白黒で見えたり(色覚異常)、死んだ人の顔が見えたり(幻視)、そういうことはざらにあるんだと伝えたいからなんです。2012年3月にベルリンで開かれたヨーロッパ・ストレス学会でデンマークの人たちが“非精神病性の幻覚”についての発表をしました。配偶者を亡くした高齢者の約43%の人たちに幻視や幻聴がみられたそうです。ところが日本ではそれを精神病扱いする。他人に話すと狂ったと思われるからほとんど表に出てこなかった。漫画家で広島での被爆体験のある中沢啓治さんは、『はだしのゲン』で原爆投下後の修羅場を描いているとき死体の匂いがしてきたそうです。トラウマ性の幻嗅です。そういうことってあるんですよ。

VICE 「いまなお沖縄戦のトラウマに悩まされる老人たち 蟻塚先生の診察室からの報告」

米軍基地の日常的騒音も戦争トラウマのトリガー (引き金) になる。

奥田さん「午後11時を過ぎることもあります。夜遅くヘリコプターなどが飛びますと、せっかく眠りに入る態勢が起こされまして。わじわじーして起きだすんですよ」

日常生活をもおびやかす騒音。しかし、それ以上に奥田さんを悩ませていることがあります。奥田さん「戦争のときに両親を亡くしているんです。(戦時は)小さかったですからね。戦争のことは細かくは覚えていないんですけど、潜在的に音というのに対してはすごく敏感なんです。トラウマです。要するに」

ある女性の訴え 騒音 よみがえる沖縄戦の記憶 – QAB NEWS Headline

小松知己先生「(トラウマ記憶は)実は時限爆弾のように、一応静まっているだけなんです。自分の老いだとか、自分の身近な方々が亡くなるとか、喪失の体験が出てくる。そうすると、それがひとつの引き金になって、寝ていたものが起きてくる … 日本の社会って、戦争のことにある意味ではきちんと向き合ってきていない国なんじゃないかと思うんです。そのことと(戦争トラウマ)密接に繋がっていると私は思う」

戦後70年 遠ざかる記憶近づく足音「戦争トラウマ」心の傷 今なお深く – QAB NEWS Headline

< 参照: シンポジウム「沖縄戦〈後〉の社会とトラウマ」(PDF) >

 

民間人収容所で日本兵をかくまう

首里から子供を連れ南部に、その途中で出産した27歳女性の証言

大けがをして身体には弾の破片が入っていましたが、これで死ねると思ったので割合と元気でした。上にあがる途中、友軍の兵隊が私の弟として一緒に逃れていってほしいとたのみました。海軍の兵隊というその人は民間人にみえるよう、かすりの着物などもつけていました。「ハイ」とも「イイエ」とも云わなかったが、その人も一緒に上にあがったら直ぐ目の前にアメリカ兵が銃を持って立っていました。…(中略)…

私の身体には、直撃弾をうけた時の弾の破片がまだ残っていたので、それをとる為、志喜屋にあった仲間先生の病院に通いました。そこに一緒にいっていたのが、私の弟と偽って、捕虜になった海軍の兵隊さんで、その人もけがをしていました。その人は兵隊である事をかくしていましたので、私の子供にもおじさんと呼ばせ、町内会長や婦人会長の名前も私から聞いておぼえていましたが、いっも自分の身分がばれないかとおそれていた様です。

名前も私の姓を使って、あわぐにですといっていましたが、沖縄では、あわぐにと書いてあぐにというのですよと教えていました。二日位一緒に通院していましたが、丁度その頃民間人といつわっていた日本軍の少尉がそのうそがばれ制裁にかけられるという事件があり、みせしめの為にかそれを私達にも見せていました。そんな事があってその人も制裁をおそれて「本当の事を云いますから姉さんによろしく伝えて下さい」と伝言して名乗りでたらしいですが、何という人だったか名前すら聞いていませんでした。

「首里先発隊」沖縄戦証言 首里 (2) - Battle of Okinawa

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In the village of Taira on Okinawa, Ryukyu Islands, captured Jap civilians are constructing a stockade for US Navy Military Government compound to be used for the Jap prisoners of war.
捕えられた民間人が、米海軍軍政府の収容所内に日本兵捕虜用の営倉を建設している様子。沖縄本島田井等の村にて。

首里から南部で捕虜となった30歳男性の証言

それから三、四日過ぎた頃、私が杖を片手に持って休んでる所へ見知らぬ、びっこ[ママ]の若い男が、近寄ってきて、話かけてきました。彼は内地人の兵隊で、本名は千田○○だが偽名を使って、大城重次として、「捕虜」になったそうです。当時兵隊や、郷土出身の防衛隊等は、殆んど屋嘉収容所に収容されて、ハワイに連れられていかれたそうです。後で本上召集の兵隊が、帰還できるようになったので、申し出て屋嘉収容所に移動しましたが、現在本土で養豚業を営んで、元気で過されているとのことで、年賀状も送ってきます。

そして、彼の言うには、私も怪我してみんなといっしょに作業も出られないし、他に那覇出身の方で、儀保さんという方がおりますが、三名いっしょになってくれませんか、とのことでしたので、私も承諾して、三人で食糧さがしに出かけたりして、こじき同様な共同生活に入りました。

米の配給は、二、三日に一回茶碗一杯分ぐらいしかありませんでした。その頃、大城君がなれない野生の植物等食べたせいか、胃腸をこわして下痢をして、痩せ衰えましたので、同じ仲間の苦しんでいるのを、見捨てるわけにもいけませんので、私と儀保君と二人分のわずかな配給米を二人は食べたいごはんも我慢して、彼に、おかゆを炊いて食べさせておりました。大城さんを、他の班の方に頼んで、医務室に治療を受けさせに行きましたが、怪我人が多くて受付を断られて、診てもらえなかったと言って帰ってきましたので、私は下痢患者を甘く見ている医務室の態度に憤慨いたしました。

「奇跡の生還後」沖縄戦証言 首里 (2) - Battle of Okinawa

 

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その時、沖縄は・・・

1944年8月22日 『対馬丸事件』