〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月21日 『米軍の勝利宣言』

米軍の勝利宣言 / 送別の宴 / シーガーアブの土 / 摩文仁の女子学徒 / 「うつろな目の少女」

 

米軍の動向

米軍「沖縄作戦」次の段階へ

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65年前のきょう、アメリカ軍は摩文仁などを占領し、「日本軍の組織的抵抗は終わった」と記録しています。

アメリカ軍が沖縄本島への攻撃を開始してから80日あまり。敗走を続けていた日本軍は真壁や摩文仁などに拠点をつくり最後の抵抗をします。「沖縄戦アメリカ軍戦時記録」によると、6月21日アメリカ軍は真栄平・摩文仁の高地を占領。6月23日ではなく、21日が「日本軍の組織的抵抗が終了」したと記してます。

また同じ日、摩文仁の32軍司令部壕にいた牛島満中将のもとに陸軍大臣参謀総長の連名で電報が届きアメリカ陸軍総司令官・バックナー中将の戦死を知ります。一緒に知らせを聞いた長勇参謀長が「敵を討ち取った」と喜んだのとは対照的に牛島はむしろ、悲しい表情でその報告を聞いていたということです。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月21日(木)

海兵隊公刊戦史

多数の民間人や兵士を投降させるため頻繁に中断されが、一連の小規模な局地攻撃と掃討作戦により、6月21日には第24師団のほとんどの部隊が占領された。抵抗は、辛く犠牲を多くともなった。敵の塹壕は敵が殲滅されるまで続いた。第32歩兵連隊は摩文仁を確保し、第89高地の上の台地まで向かった。火炎放射装甲車でもって司令部本部壕の洞窟の入り口を守ろうとした敵の守備隊を掃討し、焼き尽くすことができた。日暮れまでに摩文仁の丘は確保され、内部の敵はその巨大な墓から脱出しようとする決死の試みをせざるを得ない状態となった。

6月21日の攻撃部隊の急速な前進と主要な敵の抵抗勢力の著しい崩壊により、ガイガー将軍は、沖縄島が確保され、敵の組織的な抵抗は13時05分までに終了したと宣言した。米陸軍第10軍の各部隊は、日本の第32軍による抵抗の正式な終了を記した。

USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

 

南進する米軍 - 摩文仁の丘の攻略

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Chapter 10 | Our World War II Veterans

摩文仁の丘: (米軍呼称: 89高地)

アメリカ第7師団所属の部隊は、戦闘しながら89高地を登っていった。その著名な高地は、海面からほぼ垂直に200フィート以上の高さまで盛り上がった隆起珊瑚礁の丘である。鋸の歯のような頂上には、一面にごつごつした岩や亀裂が散在しているので、日本の狙撃兵や擲弾筒手、使用可能な機関銃をもっている少数の機関銃分隊にとっては、理想的な陣地となっていた。必死の覚悟で配置についていた彼らは頑強に抵抗した。火炎放射用戦車は、彼らを焼き払うために5千ガロン近くのナパームを使用した。そして、6月21日、ついにその頂上を奪取し、余すところは牛島の司令部を中心とする地域だけとなった。その洞窟には入口が2ヵ所あった。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336-337頁より》

地下壕への入口の1つは、およそ長さ500メートルほどもある、この丘陵の頂上の中央にあった。そして、別の入口は、海に面した高さ90メートルほどの断崖絶壁のところに、口をあけていた。米軍の前線部隊の先頭がこの入口にとどいたのは、6月21日の正午ころだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 510頁より》

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沖縄県のガマと地下壕:第三十二軍司令部 摩文仁壕

第7師団の第32連隊に捕獲となっていた1人の日本兵が、牛島に最後の降伏勧告を行うことに同意した。彼は陸地に面した入口に接近し、大声で米軍側の言葉を伝えた。すると、内側からの爆破でその入口は閉鎖された。次の爆破は、通風口を発見した米軍側が仕かけたもので、将兵10名の命を奪った。これは、4月1日以来82日間、毎日平均2500名以上の戦死者を出しながら命令を起案していた第32軍の参謀部としての最初の死傷者であった。

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336-337頁より》

摩文仁の守備軍洞窟司令部内には、まだ守備軍首脳は健在であったが、すでに摩文仁部落も司令部のある89高地もホッジ陸軍少将指揮下の米第24軍団の手中に陥ち司令部壕の入口は、火焔放射戦車と爆撃班の攻撃を受けて破壊されていた。(202-203頁)

… 第10軍司令官ガイガー中将が沖縄島は米軍によって確保されたと発表したのは6月21日午後1時5分で、沖縄本島だけに限っていえば82日間の激しい流血の戦いの末であった。(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202、202-203頁より》

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Japs captured by 6th Marine Division, Okinawa.

第6海兵師団にとらわれた日本兵。沖縄。(1945年6月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1945年6月21日午後、われわれはアメリカ軍最高司令部が沖縄作戦の勝利を宣言したことを知った。われわれにはニミッツ提督の賛辞とともに、新鮮なオレンジが2個ずつ与えられた。私はそのオレンジを食べ、パイプ煙草をふかし、美しい紺碧の海を見渡した。陽光が水面で躍っていた。81回もめぐった昼と夜を経て沖縄の戦いがようやく終わったことが、まだ信じられなかった。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 457頁より》

 

第32軍の動向

米軍に確保される摩文仁

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6月20日後の主な攻撃は青い矢印で示されている

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

日本軍の防衛戦は、包囲された真栄平村落を残して、6月21日の夜までには、ほとんどがくずれ去った。いまや、1万5千から1万8千の兵は、沖縄南部海岸の防壁となっている巨大な絶壁の裂け目や洞窟、壊れた建物、あるいは灌木やみぞ、または岩かげにかくれ、あるものは降服の機を待ち、あるものは米軍を避けて少しでも生き永らえようとしていた。そしてその他の将兵、とくに真栄平村落近くで包囲されていたものは、迫撃砲や機関銃を撃ちまくって、死に物狂いに戦っていた。また沖縄で現地召集された者の多くは、ふたたび家族とめぐりあう日の来るのをまちわびていた。』(502頁)

 … 日本軍の損害は、6月のはじめから月半ばまでは、日に平均1千人であったのが、6月19日には、約2千人にはね上がり、さらにその翌日には3千人、そして21日には4千人以上に達した。日本軍のこの恐るべき戦死者数は、日米の力の均衡が完全に破れたためであった。追いつめられ、傷ついた兵隊の多くは、持っていた手榴弾を腹にあて、自らをこっぱみじんにして死んでいった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 502、507-508頁より》

 

摩文仁軍司令部 - 最後の晩餐

第32軍司令部壕: 摩文仁

米軍は摩文仁の司令部壕に到達し壕の上部の出口で最後の降伏勧告を行うが、爆破で入り口を封じた。

八原高級参謀の回想:

21日の戦況はいよいよ混沌としてきた。夜が明けるとともに、敵戦車群は、例の稜線を越えて摩文仁部落に侵入、さらに西北進して小渡付近を西面して防御する友軍の背後をも衝くに至った。(422頁)

… 私は摩文仁高地が直接敵の攻撃を受けるのは時間の問題と思い、司令部洞窟の3つの出口のうち、最も弱点である参謀部出口の閉塞を命じた。幸い洞窟内に、爆破した岩石が堆積していたので、これを利用して通信所長の工兵中尉が、衛兵、通信手、当番兵等を動員し、深さ5メートルの阻絶を数時間を出でずして完成した。(423頁)

… この夜、参謀総長陸軍大臣連名の訣別電報を入手した。電文は、「第32軍が人格高潔なる牛島将軍の統率の下、勇戦敢闘実に3か月、敵の首将シモン・バックナーを殪し、その麾下8個師団に痛撃を加え・・」に始まり、「貴軍の奮闘により、今や本土の決戦の準備は完整せり。敵もし本土に侵冦せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」と結んである。昨夜の方面軍司令官の感状に引き続き、今夜の電報である。両将軍はもちろん洞窟内将兵ことごとく満足である。

アメリカ第10軍司令官バックナー中将の死は、我々にとっては初耳であり、驚愕すべきビッグ・ニュースであった。私は、わが軍司令官の自決に先だち、敵将を討ち取ったことに、無上の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。むろん参謀長は躍り出さんばかりであった。だが、牛島将軍はと見ると、一向に嬉しそうになく、むしろ敵将の死を悼むかの如く、私どもの喜ぶのが当惑そうである。以前我々が将軍の前面で、人の批評をした際、困ったような顔をされるのが常であったが、それと同じである。私は今更ながら、将軍は人間的には偉い人だと、襟を正さずにはおられなかった。(424-425頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 424-425頁より》

壮絶なジェノサイドのただなか、摩文仁の司令部壕では送別の宴がおこなわれていた。

その晩、生き残っていた軍の参謀と、大きな損害をこうむった歩兵および砲兵の各部隊の長とともに送別の宴が行われている洞窟の上で、アメリカ軍の手榴弾の炸裂する音が続いた。牛島は軍服の正装に威儀を正し、長は白い着物を着ていた。2人は来客一同とともに日本酒で乾杯し、みそ汁、魚肉だんご、缶詰の肉、米飯、キャベツ、ジャガイモ、パイナップルといった料理とお茶で会食した。両将軍はまた、ブラック・アンド・ホワイトの残りも賞味した。これは、依然としてスコッチ好きであった長が、首里から自分でもってきたものである。長い曲がりくねった洞窟のさらに奥の方で、司令部の部員たちが、天皇に命を捧げるという荘重な古歌のひとつで国家のようになっている「海ゆかば」を歌った。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337頁より》

投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する。

 

「死の道」と化した米須 - シーガーアブ

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Chapter 10 | Our World War II Veterans

米須は沖縄戦の最激戦地であった。糸満市教育委員会の調査によると、1945年当時、沖縄県内に在住していた米須の人口 1259人のうち735人が 亡くなり、その戦没率は58.4%という、糸満市のなかでも最悪の戦争犠牲者をだした地区である。1945年5月末から6月にかけて、米須には後退してきた日本軍兵士と避難民が押し寄せ、 米軍の攻撃が激化するなかで、住民の日常生活の場が戦場となった。米須の住民のなかでもとくに子どもと高齢者の犠牲率が高く、家族半数以上が戦没した世帯が43.2%、さらに一家全滅 は 14.1%と、7分の1の世帯はまるごと消えてしまった。1945 年の米須は、地元の身近な人 びとが数多く死者となる場と化し、米須住民の戦没者にさらに避難民と日本軍の戦没者重なり、戦後、大量の遺骨が残される場となった。

小林多寿子「オーラルヒストリーと地域における個人の<歴史化> :沖縄戦体験を語る声と沖縄県米須の場合」2010年》

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シーガーアブと有川中将以下将兵自決之壕の碑

死の道と化した米須から山城海岸一体では多くの遺骨が埋まったままである。現在、多くの反対の声にも関わらず、日本政府は戦没者の遺骨採集どころか、辺野古の新基地建設のための埋め立て土砂として、この慰霊の土地を採掘する計画が進められている。シーガーアブはその採掘所に位置する。

慰霊の日に ~ 「魂魄の塔」 - Osprey Fuan Club

第62師団歩兵第64旅団(京都)(有川主一中将)

6月21日の未明、有川主一中将は、この壕で高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に弾薬に点火し自決した。

沖縄戦では、日本軍の南部撤退で米須は軍民混在の戦場となり、多くの住民が犠牲になった。「米須字誌」によると、米須出身の男性の証言として、シーガーアブには地元の7家族ほどが避難していた。米軍の再三の呼び掛けに応じなかったため、石油を流し込んで燃やしていたとの記録が残る。

沖縄戦の住民避難壕が土砂採掘地に 識者「戦跡で保存を」と指摘 業者「影響ないよう配慮」 - 琉球新報デジタル

 

 

追いつめられる学徒たち

女子学徒隊 - 白梅学徒隊とひめゆり学徒隊

国吉: 白梅学徒隊

18日以降、国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、21日と22日に米軍は壕に馬乗り攻撃をかけた。日本兵の看護にあたった白梅学徒は、最終的に日本軍によって壕内から追われ、砲弾が当たる壕の入り口に追いやられていた。

「あんま、あんま、あんまー」1人が言ったら全員、全員みんな言うんだ、お母さんって。お母さんって言わないんだよ、「あんまー、あんまー」って。そして、来ている着物が、その沖縄の銘仙っていうか、いい着物なんだよね、つやのあるいい着物、みんな着ておった。

俺らも、いつ死ぬか分からんけども、これは軍は無責任だなと。最後は、軍で使って、最後は「おまえら好きに逝け」って言ったんだから。したから、もう女の人たちは最期の着物を着て、そして荷物をしょって、乾麺麭(かんめんぽう)や何かもらったと思うんだ。で、それを全部しょって、そして後方に下がったんだわ。そして行った歩兵の陣地で、そこで (壕に入るのを) 断られたんだから、大変だったろうと思う。そして、いろいろ話をして、何とか (入口に) 休ませてもらう。酷だったけれども、それは戦場の壕になる、壕の一部だったの。で、次の日に、敵の兵隊が壕になだれ込んできたの。

恵田 光之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

また荒崎海岸では当日、平良教頭を含む14名のひめゆり学徒隊がおいつめられ手榴弾自死している。

で一人っ子だった板良敷さんという子が、初めてですよ、大きな声で泣きながら、「お母さんにもう一度会いたい」って言ったんです。… 私も今まで堪えていたんですけど、思いっきり海に向かって「お母さん」と何度か叫びましたね。そのときにやっぱり、最後に母がしがみつくようにして「行かないで」って言ったあのことがちらっと頭に浮かんで、つらかったですね、やっぱり。思いっきり泣きました、その晩。月夜でしたから、みんなの姿がよく見えたんですよ。いまだにつらいですね。最後の、あのみんなの姿は。そして翌日、みんな亡くなったんです。今は悔しいですよ、やっぱり本音が言えたのは亡くなる前の晩です。やっと本音を言って、今考えるとつらいですし悲しいし、悔しいですね。そこまで15、16歳の女の子が追いつめられて。結局それは本当のことを知らなかったからですよね。やっぱり、アメリカ兵は鬼とか、ひどいことをする、女の子にもひどいことをするとか、それから立派な日本人は女の子だろうが手を上げておめおめと捕虜になるのは恥だと、そういうふうな、いろんな意味で思想的にも追いつめられたのかなって。今は悔しいですね。

(投降しようとする日本兵を撃つ日本兵) … そしてそのとき、初めて戦場で、日本兵同士で殺し合うの初めて、とてもショックだったんですよ。ぼう然と見ていた…。

アメリカ兵が自動小銃で撃って、3名が先輩たち、師範生。1人が日本兵。死体がどさっと倒れてきた。即死でした。安富祖さん、仲本さん、上地さん、日本兵。そばでは他に3名の師範生たちが撃たれて、大きな声で「撃たないで、やめて、痛いよ」と叫んでいました。私は前の晩から手りゅう弾持っていたんです。平良先生は、「兼城、手りゅう弾のピンは勝手に抜くんじゃないぞ」とおっしゃってました。「手りゅう弾のピンを抜くときはみんなで相談していっせいに抜くんだ」と。「あちこちで手榴弾抜くんじゃない」と。… ピンを抜こうとしたら、師範生の安富祖さん、仲本さん、上地さん、日本兵が私のそばまでもたれてこう死んでる、4名の死んだ顔ですよね。手が震えてできないんです。とうとう私は手が震えて、もうじっと震えているときに、そばで与那嶺松助先生が、「ケガ人出せ」とおっしゃったんです。で、先生はあの3名の中の大兼久さん、あの人をおんぶして私の目の前で立ったんです。立ったら、大兼久さんの血まみれの脚が私の目の前に見えた。もう血がたらたらたれて。先生は、その大兼久さんを肩に貸して引きずるようにして出て行ったら、それを見たアメリカ兵は、女の子だと分かったんでしょうね、それで撃つのを止めたんです。… あっという間に手りゅう弾取り上げられたんです。大男が飛びかかるような感じでした。取り上げた後、一斉に銃をおろして「ヘーイ、スクールガール、スクールガール」と言ったんです。そのとき私は必死になってその大男たちをかき分けて、1メートルぐらい飛び降りたんですよ。そこに10名が、手りゅう弾のピンを抜いた後でした。

宮城 喜久子さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

摩文仁: 一中鉄血勤皇隊

第5砲兵司令部に配属された学徒の体験談:

摩文仁の丘の上に50人が集まった。その中に一中の同級生が3人、一期後輩が7人いた。榴弾を4発持って身構えた。鉄カブトの穴から入る風がヒューヒューと鳴った。跳ね弾がピュンピュンとあがる。右手にかん声があがって斬り込んでゆく」

「明け方、敵の戦車が火焔放射を浴びせかけてきた。背中に火がつく。あおむけにひっくりかえって背中を地面にこすりつけて消す。壕に飛び込む。だれかが重傷兵の口に銃口を入れて『天皇陛下万歳』をいわせてとどめをさした。いま1人の重傷兵は『アンマヨー』と叫んだ。母親への最後のメッセージだ。米軍の削岩機のひびき。馬乗り攻撃をしかけてきたのだ。私は胸に爆雷の衝撃を受けてのたうちまわった。友軍の兵隊が顔、胸、腹をふんづけて出ていった」

「朝、銃声はない。体じゅうが痛い。やっと頭を上げると米兵が3人、うむをいわさず私を引きずり出した。6月21日だったか、22日だったか。生き残りは私一人だった」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 196頁より》

米軍が捕虜として記録した沖縄の少年兵

米軍の写真記録は捕虜のなかに多くの少年兵がいたことを示すが、年齢などの情報はほとんど記しておらず、一貫して「日本兵」と記録している。下の写真では、若い兵士と後ろの傷ついた少年、さらに現地召集されたと見える憔悴した中年の男性が見れる。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-03-4.jpg

第6海兵師団にとらわれた日本兵。沖縄。(1945年 6月21日撮影)

Japs captured by 6th Marine Division. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第6海兵師団にとらわれた日本兵。沖縄。(1945年 6月21日撮影)

Japs captured by 6th Marine Division. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第6海兵師団にとらわれた日本兵。沖縄。(1945年 6月21日撮影)

Japs captured by 6th Marine Division. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

多くの場合において正確に詳細を記録する米軍は、戦闘員の中に多く混じる沖縄の少年兵の存在については意図的に記述を避けた可能性があるが、映像や画像はしっかりと残している。

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第6海兵師団にとらわれた日本兵。沖縄。(1945年6月21日撮影)

Japs captured by 6th Marine Division, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

Many clad only in military ”g-strings” these are part of the record bag of 306 Japs taken prisoner by troops of 6th Marine Division during last hours of Okinawa battle. Imperial soldiers, sailors and Okinawan home guardsmen were among those who were incarcerated behind barbed wire.
多くの捕虜が軍の「ふんどし」だけを身につけている。写真は、沖縄戦の終盤に第6海兵師団に捕らえられた306人という記録的な数の日本兵捕虜の一部。有刺鉄線の囲いの中に拘束されているのは日本陸軍、海軍および沖縄防衛隊の兵士ら。
撮影日: 1945年 6月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

捕虜には通訳兵が尋問し、日本人兵士、朝鮮人軍夫、沖縄人兵士、と分けて捕虜収容所に送られた。

 

そのとき、住民は・・・

日本兵による虐殺 - 壕の追い出し

子どもから食料を奪う日本兵

日本軍の兵隊は、ガマで、小さな12歳の子どもが大切にしていたリュックの中の黒砂糖をよこせと言い、その子どもを壕の外に連れだし、殴る蹴るの暴行をくわえた。

一枚の写真が物語ること「うつろな目の少女」

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《AIによるカラー処理》A young Okinawan girl waits to receive medical treatment. The military government's doctors are treating a number of such cases at Gushikhan.

傷の手当を待つ少女。具志頭では軍医によるこのような治療が多く行われた。(1945年 6月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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軍政府が具志頭に設置した病院でうじのわいた足の傷の手当を待つ少女

(1945年 6月21日撮影)

A native girl with an injured foot crawling with maggots, awaits medical treatment at the hospital set up in Guchican, Okinawa, by the military government. A medic treats the wound.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

日本兵が追われるたびに住民が壕から追いたてられた。

1945年6月21日未明糸満市真栄平では米軍の猛攻撃で逃げ場を失った日本兵が住民の壕を奪い取ろうとして住民十余人を日本刀で虐殺したという。…2つの壕があった。(208頁)

住民2人(従兄弟同士)の証言:

「様子がおかしいので外へ出て見た。そうすると、母たちがいる壕に日本兵3人が手榴弾を投げ込んで、煙がもうもうと立ち上がっていた。壕から人を追い出すつもりだったのだろう。幸い、死者は出なかった」

「静かになったので、壕の中の者は死んだ、と3人の日本兵は思ったらしい。3人は、私たちの壕へやってきた。『アメリカ兵がそこまできている。おれたちを壕に入れろ』という。外にいた私たちも壕の中へ入ろうとすると、彼らは手榴弾を壕の中に投げ込んだ。ひたいにけがしたので、ひっくりかえってバタバタして、そこにあったゴザをかぶって死んだふりをした

「おじ…と弟…は日本兵にひっぱられて、近所ですわらされ、日本刀で斬られた

「三番目の姉とその2人の子は、隣の…ハルさん方の壕にいた。日本兵の声に、ハルさんのお母さんが返事をして顔を出すといきなり首を斬られた。首が姉のところに飛んできたらしい。姉は暗がりで何かコロコロしたものが、と思って外へ出たら、体に血のりを浴びた。ハルさんの弟と妹3人も日本兵に斬り殺された」』(208-209頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 208、208-209頁より》

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前線から負傷した地元の少年を運ぶ第32歩兵連隊ヴァンシー中尉(1945年 6月21日撮影)

1st Lt. Kenneth T. T. Vancie, 2735 Jackson St., Corvallis, Ore., Co. H, 32nd Inf. Regt., carries a wounded Okinawan boy from the front lines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

病気の夫と幼い子をかかえた母親の体験談:

6月21日二世兵士がはいってきて懐中電灯で照らしながら壕から出るように3時間くらい説得されました。壕の中では「絶対に出るなよ、顔を見られるな」という声も聞えます。「あしたはこの壕を爆破します。あなたたち死にますよ」といわれぞろぞろ出ていきました。壕の前では銃を持った米兵にとり囲まれ、男女別々にトラックに乗せられました。私は主人が殺されるのではないかと心配でした。私たちは伊良波に連れていかれ、翌日は宜野湾の野嵩に移されました。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 166頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325935.jpg

第32歩兵連隊の区域で座り込む怪我を負った子供(1945年 6月21日撮影)

The wounded child sits in a sector of the 32nd Inf. Regt.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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