〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月23日『米軍による沖縄攻略戦の開始』

沖縄攻略戦の開始 / 女子学徒隊の動員

 

米軍、沖縄全域への空爆

1945年3月1日以降途絶えていた米軍の空爆が、再び始まった。

1945年3月23日、沖縄本島は朝から夕方まで延べ355機の艦載機による空襲を受けました。米軍による沖縄攻略戦の開始でした。翌24日には、沖縄本島南部に対し、およそ30隻のアメリカ軍艦船が艦砲射撃を開始。この日の艦載機襲来は延べ600機となり、艦砲射撃は約700発に及びました。(旧・防衛研修所戦史室 編 「戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦」)

特集 沖縄戦クロニクル ~その時何が起こったのか~|NHK 戦争証言アーカイブス

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沖縄と周辺諸島への先行爆撃は上陸の数ヶ月前から始まった。上の写真の那覇はその港湾施設のために主要な攻撃目標であり、侵攻前から狙いを定めていた。

PRELIMINARY BOMBARDMENT of Okinawa and supporting islands began months in advance of the landings. Naha (above) was a prize target because of its port installations and was leveled long before the invasion.

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-2.html

『…沖合に浮かぶ艦船の群れは、海軍大将R.A.スプルーアンスが率いる中部太平洋部隊所属の8個の機動部隊を中心とするもので、空母から掃海艇まで大小合わせて1300隻であった。』(82頁)《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社) 82頁より》

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米軍艦チャンドラー(AV-10)に搭載されている40ミリ機関砲の砲撃訓練。水上機母艦団はサイパンを離れて琉球列島慶良間諸島を目指して航行中である。(1945年3月23日撮影)40mm gun aboard USS CHANDELEUR (AV 10) in action during firing practice as Seaplane Tender Group leaves Saipan, headed for Kerama Is.. Ryukyu Group. 23 March 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

3月23日、ついに、ヘルキャット(F6F Hellcat)を中心とする米艦載機が大挙し沖縄諸島を襲った。この日の空襲の特徴は、特に慶良間諸島では、飛来機数がこれまでになく多く、銃爆撃の目標が船舶や日本軍の基地だけではなく、集落にまで及んだことである。(41頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 41頁より》

 

第32軍「打つべき手は打ってある」

昭和20年3月23日の夜明け、首里城に置かれた第5砲兵司令部の清水徹也少尉は首里城頂上に設けられた観測所から、15倍の双眼鏡で西南西方向の海上に照準をあわせた。海上一面に黒い固まりが見えた。さらに照準をあわせると、無数の艦船が海面に所狭しと静かに居住まいを整えていた。』(82頁)《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社) 82頁より》

『本島では午前7時15分から終日、米艦載機延べ千数百機による激烈、かつ執拗な大空襲が全島を覆った。宮古八重山など先島方面には46機、大東島に49機奄美大島にも27機が襲来した。第32軍司令部は午前10時30分、索敵機により本島南東90キロ付近の洋上に空母を含む敵機動部隊を発見、上陸は必至の情勢となった。(115-116頁)『しつこい攻撃を終日繰り返した敵機は夕方、ようやく姿を消したが、空襲警報は解除されなかった。敵の機動部隊は、沖縄本島に密着して離れなかったからである。』(116頁)《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 115-116、116頁より》

 

軍司令部

沖縄戦 作戦参謀の「予定」

八原高級参謀の回想:アメリカ機動艦隊近接の報、頻々たる裡に、23日の夜は明けた。…すでに敵機は首里上空を乱舞している。小禄飛行場や北、中飛行場方面のわが防衛軍が一斉に咆え始め、があんがあんと大型爆弾の破裂音が腹にこたえてくる。毎度の空襲と同じ調子だ。』(152頁)『アメリカ機の来襲は終日続いた。延べ数千数百機、かつてない激烈さである。しかしその攻撃目標は、従来と同様飛行場、船舶、港湾に限られ、上陸の前提をなす陣地爆撃をしない。軍の電探情報で、アメリカ機動艦隊の数群が、沖縄島の東方および南方海上に行動しつつあることは明瞭である。大東島守備隊から「敵艦見ゆ」との報告があったがこの艦隊が機動部隊なのか、上陸掩護艦隊なのか、判断するには報告があまりに簡単である。本日の空襲が上陸の序曲だとは上下覚悟したが、ついにその確証を握らないまま春日は八重瀬岳の彼方に没し、アメリカ機も退散し、惨として23日の夜幕は降りた。洞窟を出て四周を展望すれば、各飛行場や、至る所の村落は焔々たる業火に夜空を焦がし那覇港内外には大小幾多の船舶が断末魔の火の手をあげている。』(153頁)『アメリカ軍が上陸して来ても打つべき手は打ってある。あすにでも上陸企図が明瞭となれば、予定の如く、まず防空部隊を地上戦闘配置に転換させ、主陣地帯内の残存非戦闘員を国頭方面へ疎開させる。戦闘準備を完整して、戦闘に臨まんとする心境は淡々として平静である。夜空を仰げば、今度は小禄飛行場を飛び立ったわが海軍偵察機が、一機、二機星の間をかすめて南飛するのが見える。』(154頁)《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 152、153、154頁より》

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煙が上がっている沖縄島の那覇の町の様子。機動部隊の航空機による攻撃のため、火災が発生した。空母ヨークタウン(CV-10)の艦載機から撮影。那覇市と、後方には飛行場。この地域の砲座は、3月23日、24日に実行された爆撃と機関銃掃射において我々の攻撃目標となった。(1945年3月23日-24日撮影)Naha Town, Okinawa Shima in Ryukyus. Smoke rising from fires set by planes from US Task Force. Taken from plane from USS YORKTOWN (CV-10).Airfield in background. Naha Town and airfield, Okinawa. Gun positions in this area were the target of our bombing and strafing attacks on the 23rd and 24th of March.写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

慶良間列島

阿嘉島(あかじま)・慶留間島(げるまじま): 海上挺進第2戦隊

『…3月23日の午後始まった米艦載機の銃爆撃により、阿嘉島駐屯第2戦隊の特攻艇多数が被害を受けた。』(42頁)《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 42頁より》

 

沖縄島

小禄飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:3月23日、怖れていたものが遂に来た。この日、突然襲って来た艦載機は、小禄飛行場にふたたび爆弾の雨を降らせ、廃墟の那覇港に入港していた日本軍輸送船を一日中爆撃したが、これが沖縄上陸の前ぶれであることは誰の目にも明らかであった。大隊指揮班の命令で、台上の高射砲はその夜のうちに準備された地下壕に据えつけを終え、私たちは予定どおり高射歩兵として戦車攻撃の任務が与えられることになった。高射砲のなくなった台上の陣地あとには、敵をあざむくためか、松の木を6本上空に向けて立てた。』(66頁)《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 66頁より》

嘉手納飛行場 (別称: 中飛行場): 特設第1連隊第2大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:3月23日、…米機動艦隊の百雷の一時に落ちるような艦載機の大空襲がはじまった。もはや夢でも幻でもない。大空の限りをおおう大編隊の来襲は、かの十、十空襲のものすごさも、いまはその比ではない。ダーン、グワーン、グワグワン。地は裂け、山は割れて鳴動し、橋は飛び、部落が猛火に包まれた。乱舞する敵機は無慮幾千であろう。われわれは、ただ壕内に潜んで大空襲のすぎるのを、じっと待つより仕方がなかった。地軸を揺るがすような轟音はもの凄く、早や読谷飛行場ではガソリンタンクに引火したのだろう。巨大な火柱を吹きあげ、黒煙がもうもうと天に沖している。その黒煙の中に、なおも応戦をつづける友軍高射砲の弾幕のなかを米機がのしかかるように爆弾をたたきつける。射つ、射たれる。瞬間、目もくらむ閃光が天に走った。米艦載機は、わが屋良の上空をまるで川の流れのように、あとからあとから、轟々と那覇首里の方向に向った。そしてそのうちの何機かは、海上の船でもなんでも、目ぼしいものを見つけては攻撃した。わが通信壕や、兵舎群の上空をふれんばかりに、機銃掃射しながらかすめたグラマンに、飛行眼鏡をかけた搭乗員がありありとみえた。「来るぞ!」と思って身を縮めた瞬間、轟音すさまじく頭上を通過した機の中から、こんどは何んと思ったのか米兵が体をのりだしてハンカチを振っている。耐えられないほどの屈辱感とはげしい怒りが私の全身を震わせた。…通信壕の上にはキーンと鋭く米機がよぎり、一斉に吠える対空砲火、ズシーンと腹にこたえる大形爆弾の炸裂はもの凄く、洞窟外はみるみるうちに地形が変っていった。…一瞬にして山野を変形し去るこの大爆撃の猛威にさらされては、背筋が凍りつき、身がこわばった。』(105-106頁)『…陽が落ちて、さしも猛威をきわめた米艦載機の攻撃も終った。洞窟から這いだして丘上に立てば、はるか北方の読谷飛行場をはじめ、東方の勝連半島から、南方の那覇方面に至るまで全島ことごとく、業火に包まれて、断末魔の火の手が夜空を紅く染めていた。』(107頁)《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 105-106、107頁より》

束辺名 (つかへな): 第24師団第32歩兵連隊第2大隊

重機関銃中隊指揮班・二等兵の回想:『3月の半ばに硫黄島が玉砕した頃から米軍の沖縄上陸は必至とされ、前線の空気はいっそう緊迫感を増した。事実、この時には本土からの海上輸送は完全に途絶し、前年の秋に台湾へ転出した第9師団、武部隊の代わりとなる師団の派遣も中止されていた。敵の偵察機日課のように飛来し、傍若無人に飛行機雲を撒き散らしては去っていった。3月23日にはとうとう甲号戦備が下令された。甲号戦備というのは臨戦態勢ということである。急遽、陣地配備につく隊内は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
…空一面を覆って来襲した敵機の大編隊に地は裂け、山は割れんばかりであった。縦断無尽に空を飛び交い、息もつかせぬ猛襲をかけてきた。南飛行場の辺りはガゾリンタンクでもやられたのか巨大な火柱が吹き上げ、黒煙がもうもうと天に昇っている。それは10月10日の空襲など比ぶべくもない凄まじさであった。…この屈辱的かつ猛烈をきわめた爆撃は夜になってやっと止んだが、たった一日で四囲の様子はすっかり変わってしまった。喜屋武、束辺名、上里、山城、福地、名城、米須と見渡す限りの集落は炎をあげ、家を焼かれた村人たちは陣地わきの洞窟に充満した。』(45-46頁)《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 45-46頁より》

 

そのとき、住民は・・・

女子学徒隊、看護要員として動員される

正規の法令ではなく、軍令によって動員された沖縄の学徒隊

戦前、沖縄には21の師範学校・男女中等学校がありました。沖縄戦では、これらすべての学校の生徒たちが戦場に動員されました。男子生徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆雷で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。

総務省|一般戦災死没者の追悼|沖縄県における戦災の状況(沖縄県)

『空襲による沖縄戦開幕の1945年3月23日女子学徒隊が看護要員として動員された根拠となる法令がないまま、実施を施行した。動員対象学年は、沖縄師範学校女子部が全学年(15歳〜19歳)、県立第一高等女学校が3年生(15歳)および4年生(16歳)、他校は4年生で、合計514人を数えた。』(80頁)《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 80頁より》

積徳学徒隊: 私立積徳高等女学校

3月23日戦況が激しくなったので実習を打ち切り、山部隊第2野戦病院豊見城城址)へ従軍看護婦として入隊した。部隊長は小池勇助少佐で、一見厳しい感じの方であった。入隊式が終わると学徒隊には三角兵舎が割り当てられ、その日から軍規に従って生活することになった。(178頁)《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 178頁より》

ひめゆり学徒隊: 沖縄師範学校女子部・ 沖縄県立第一高等女学校

『学校周辺に再び空襲があったのは、昭和20年の3月23日でした。私はその日は識名の高射砲陣地での作業日で、救急カバンと弁当を持ち、防空頭巾をかぶって寮の部屋を出ようとすると、空襲警報が鳴り響いたので、ひばりヶ丘めざして一目散に走り、壕の中に隠れました。』(76頁)《「私のひめゆり戦記」(宮良ルリ/ニライ社) 76頁より》

f:id:neverforget1945:20190304235341p:plain国は戦争一色となり、生徒の戦場動員は当然という雰囲気に包まれていました。宮城喜久子さん「父は教師をしていて、いつも子どもたちに教育しているのは“戦場に行け”ということですよね、そのときの教師は。それが、私が“戦場動員があります、許可して下さい”と言ったら突然怒り出したんです。“お前を16歳まで育てたのは死なせるためじゃない、行くな”と言ったんです」

当時、第一高等女学校に通っていた宮城さんは父の言葉に反発し、学校に戻りました。その数カ月後の3月23日、一高女と女子師範学校に動員命令が下ります。夜道をいく生徒たちはむしろ溌溂とさえしていました。宮城さん「お互いに“兵隊さん頑張ってください”とか、向こうも“学生さんがんばろうね”とか、そう声を掛け合いながら南風原に行ったんです。途中『従軍看護婦の歌』とかを歌いながら歩きました」宮城さん「戦争というものがどんなに恐ろしいものか、戦場がどんなに厳しいものなのか、全く知らないんです。生徒も教師も」向かった行先は、南風原にあった沖縄陸軍病院。暗い壕に次々と運び込まれる重症患者たちの世話や手術の手伝い、死体の埋葬にいたる過酷な日々を、そして何よりも、死と隣り合わせという想像を絶する戦場に放り出されることを動員のその日、誰も知りませんでした。 

琉球朝日放送 報道制作部 Qプラス » 65年前のきょうは1945年3月23日

宮古高女学徒隊: 沖縄県宮古高等女学校

『昭和20年3月23日は、私たちの晴れの卒業式が催されるはずだった。しかし、当日未明、校舎は直撃弾を受けて影も形もなく消えていた。卒業証書は受け持ちの仲田先生より防空壕の中で授与された。その後陸軍省より、軍属の一員として拝命するとの辞令も交付された。』(198頁)《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 198頁より》

 

慶良間列島

阿嘉島 (あかじま)

阿嘉島では、3月23日の空襲をきっかけに人々は三々五々、島中央の谷あいシジヤマに避難していた。』(16頁)《「証言 沖縄「集団自決」ー慶良間諸島で何が起きたか」(謝花直美 / 岩波新書) 16頁より》

座間味島 (ざまみじま)

昭和20年3月23日、座間味は米機の空襲を受け、部隊が全滅するほどの被害をこうむり、住民からも23人の死者を出した。村民は焼け跡に立ってぼう然としていた。さっそく、避難の壕生活が始まった。』(155-156頁)《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 155-156頁より》

『午前10時頃、遠くの方で飛行機のエンジンの音と機関銃の発射のような音がします。ところが、突然一陣の風が押し寄せてきたように轟音を立てて4機のグラマン艦載機が一列になってウフガーラの山の稜線に沿って急降下して機銃を掃射し、爆音を残して屋嘉比島の上空へ飛び去っていったかと思ったら、また旋回してきては、同じ掃射を繰り返していきます。盛義はその場で、手の親指は耳にあて、あとの4本で目を押さえ、地面に腹をつけないように両肘で支えて伏せました。そのやり方は学校で何度も訓練されていたので、すぐ実行に移せました。その姿勢をすることによって爆風によって目が飛び出したり、鼓膜が破損したり、内臓が破裂したりするのを防ぐことができると教えられていたのです。4機の飛行機は縦一列になって降下し、攻撃を繰り返してきます。先頭の飛行機が攻撃を終え上昇しかけたとき、2番機が降下してきて機銃を発射します。最後の4機目が上昇する頃には、すでに最初の機が後を追うてくるのです。攻撃が途絶える時間はほんの数秒ぐらいしかありませんでした。』(18-19頁)『夕方になると米軍機は引き上げ、辺りには元の静けさに戻ったので、壕を出て家路へと急ぎました。屋嘉比島海上に空襲にやられた船舶が夕日に映えて傾いていました。むなしいような、うら悲しいような情景でした。』(21-22頁)沖縄戦体験記第21号「連行された逃亡兵」(宮城恒彦/グローバル企画印刷株式会社) 18-19、21-22頁より》

 

沖縄島

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那覇市首里赤田町に住んでいた新里さんは、昭和20年3月末ごろ、空襲が激しくなってきたため、沖縄本島南部へ避難した。絵にはさまざまな場面が描かれている。上空を米軍機が旋回すると必ず、沖合の軍艦から砲弾が雨のように降り注いだ。新里さんたちは遺体の間を縫うように逃げ惑った。命からがらたどりついた壕。中に入れてほしいと父親は懇願したが、日本兵が刀を振り上げた。「出て行かなければ殺す」。家族は再び、砲弾の雨の中に放り出された。身を隠す場所を失った新里さん家族。母親が砲弾の破片の直撃を受けて亡くなった。新里さん『あの当時住民は米兵とも戦い、友軍(日本軍)ともトラブルがあった。極限状態の中では、誰もが理性を失ってしまう』

日本兵に壕に入るのを拒まれる 【新里浩】|沖縄戦の絵|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

1945年3月23日沖縄本島に対してアメリカ軍の空襲が始まると、住民はパニックに陥り、北部への疎開を見合わせていた住民が、次々に避難を始めた。無秩序に北へ北へと逃れる住民を警察や県関係職員は必死に誘導した。住民の避難によって道路がふさがると軍の活動が妨害されるとして、軍が住民の避難を妨げるといった事態まで生まれた。』(51頁)NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班 / 新日本出版社) 51頁より》

今帰仁 (なきじん)

ある母親の体験談:『…昭和20年3月23日沖縄本島に米軍の艦砲射撃が始まり湧川の海や運天港から上陸するとの噂話で一ぱいでした。また空の飛行機雲を見ると毒ガスをまいて住民を皆殺しにするとの事で早くタオルを水にぬらして口をふさいで子供は寝かせておくようにとの事でした。ぬれたタオルを口に当てると、子供は泣いてしまいます。すると、飛行機から無線で泣き声を聞き爆弾を落とすとの事でした。だから赤ちゃんは生まなかったと思って殺してしまいなさいと云う人もいて私と姑は思わず泣きくずれました。』(70頁)《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 70頁より》

名護 (なご)

ある少年の体験:『…小学校では卒業式の予行演習を3月22日に済ませ、卒業式を明日に控えた3月23日に空襲は始まった。当日もいつもの通り、早朝から読谷飛行場と伊江島飛行場の方面から爆撃の音がした。家族は取りあえず庭の防空壕に避難した。父も兄もいない不安はあったが、住民地区には攻撃しないことが分かっていたので、母たちは庭の防空壕に避難し、私とスマ子は空襲の合間を縫って、仲上原の避難小屋へと急いだ。祖母、伯母、妹を安心させるためである。いつもの2人で走って屋部寺まで来ると、もう米軍機が海上を飛行し始めていたので、近くの防空壕に駆け込んだ。幸いに壕には道端屋の盛こう兄(18歳)と妹の茂子(15歳)兄妹がいた。彼らも2人では不安だったのであろう、私たちを歓迎してくれた。しかし、茂子さんは絶えず「今日は私たちの楽しい卒業式だったのによう」となげいていた。4人とも飲まず食わずで、一日中膝を抱えてすわったままでいた。空襲が終わったので明日の学校準備のため家へ帰った。灯火管制で真っ暗夜であった。』(42-43頁)《「軍国少年がみたやんばるの沖縄戦 --イクサの記憶 --」(宜保栄治郎/榕樹書林) 42-43頁より》

北谷 (ちゃたん)

北谷村屋良国民学校の教員だった女性の体験談:  『昭和20年3月23日、晴れの卒業式とあって早めに家を出て学校へ向った、途中、B29がものすごい爆音で低空飛行しているのを見て、私は畑のあぜ道に立ちつくしてしまった。屋良国民学校は飛行場のそばにあるので進むことができず引き返した。爆音はますます激しくなり10・10空襲の時のように読谷飛行場や嘉手納飛行場に総攻撃をかけてきそうな予感がした。』(97頁)《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 97頁より》

南風原 (はえばる)

左足に弾があたり切断することになった女性の体験談:『昭和20年3月23日は、米機動部隊が沖縄本島に対して本格的な爆撃を開始した日である。沖縄戦の初日ともいうべき日に、私は左足首に敵弾を受けて切断され、思いもよらぬ不具[ママ]の身となって生涯を送ることになった。…当時、木造二階建て60坪のわが家には斉藤誠隊長と当番兵の青木四郎上等兵が駐屯しておられた。お二人は1月10日天妃国民学校の宿舎から移ってこられて、既に2ヵ月余、子どもたちもすっかりなついていた。その日も早朝から爆音が聞えてきたがなんとなくいつもと異った不気味な響きであった。「米機のお見舞いですかな、たいしたことはないでしょう」と隊長さんはいつもより遅い洗面しておられた。私は落ちつかないので平松隊本部まで駆けていった。すると当番の方が「7時20分空襲警報発令です」といわれた。…父が二番座の戸袋に身を寄せて空を見上げている。「お父さん、危ない」と後ろから父の肩に手をかけた時、字金良の方向からわが家に突っ込むのかと思うほど低空してきた米機3機から、ばらばらと弾が撃ちこまれた。とたんに、私は左足にじりじりと電気が通じたような強い衝撃を感じた。見ると足首ははねとばされ僅かの皮膚にぶら下がっていた。』(211-213頁)《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 211-213頁より》

 

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その時本土は

1945年3月23日、政府は「国民義勇隊組織ニ関スル件」を閣議決定。軍が沖縄で既に行っていた15歳からの少年兵の召集を本土で法的に可能にさせる第一歩だった。

  1. 国民義勇隊 - Wikipedia

  2. 資料『沖縄戦に動員された21の学徒隊』 - Battle of Okinawa

 

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