〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月27日 『さらば、首里よ』

首里撤退

米軍の動向

首里に迫る米軍

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

5月26日の日本軍の移動が、空中からの観測で報告されたので、バックナー中将は、27日、命令を発し、両軍団(第3上陸軍団と陸軍第24師団)とも、「ただちに強力な攻撃を加え、日本軍を、支離滅裂になるまで攻撃せよ、敵をして、わずかといえども新たな陣地を確保することを、許してはならない」と指示した。この命令は明らかに、万一を予想しての措置で、米軍本部としても、実際には日本軍が首里を撤退した、などとは思ってもいなかったのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 426頁より》

27日、トラックや戦車隊の南下をみとめると、砲兵隊や海上の艦船に連絡して猛砲撃を誘導し、たちどころに500名の将兵をなぎたおした。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 150頁より》

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首里那覇線を砲撃するロケットトラック / Rocket trucks firing on Shuri-Naha line.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月27日、…強力な威力偵察部隊が、戦線全域にわたって送り出された。頑強な日本軍の抵抗にあった偵察隊からの情報で情報部は、日本軍は依然として首里防衛線を維持しているとの結論に達した。この日の偵察隊の典型的な報告は「日本軍が撤退した兆候は見られない」あるいは「抵抗はまったく衰えていない」と記されていた。』(391頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 391頁より》

 

南進する米軍

瓦礫の那覇

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米国海兵隊: Another view of the Christian Church in Naha city.
那覇にある教会 1945年 5月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

5月27日那覇市へ侵攻した第6海兵師団は、市街地が完全に放棄されているのを発見した。』(392頁)

『第22海兵連隊第2大隊の1個中隊が、5月27日安里川を渡り、偵察中隊のいる前を通って那覇西側を奥深く進んでいった。』(404頁)
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 392、404頁より》

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第6海兵師団の那覇占領後、市内に残った操車場跡。写真の車両はガソリン動力車。沖縄の鉄道は、那覇から首里や嘉手納間を運行していた。

Remains of rail yards in Naha after the conquest of the city by Marines of the Sixth Division. The car shown in the photograph was gasoline powered. A railway existed on Okinawa running from Naha to Shuri to Kadena.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

この時期、沖縄は本土より約1カ月早い梅雨入りの季節だった。平年の梅雨の総雨量は530ミリ前後で、6月中旬にもっともよく降るのが通例だが、この年は4月下旬から〝走り梅雨〟現象が現れるなど、一段と早かった。5月7日ごろから降ったり止んだりしていた雨は同21日から本格的になり、5月の最後の10日間だけで、総雨量の6割に近い約300ミリもの雨が降った。南部・島尻への撤退と避難は、そんな大雨と泥濘の中で行なわれ、敗残の将兵と県民をいっそう惨めにした。まさに涙雨であった

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318-319頁より》

沖縄守備軍将兵が、五つの小隊に分かれて首里城地下の洞窟司令部を出たのは、5月27日の午後7時半から9時にかけてであった。第一小隊から第三小隊まではまっすぐに摩文仁へ向かったが、牛島司令官と八原作戦参謀ら約50名から成る第四小隊と長参謀長ほか長野参謀らをふくむ第五小隊約50名とは、ひとまず津嘉山に戦闘指揮所を移すことにして津嘉山へ向かった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 149頁より》

 

首里撤退 - 32軍司令部の退却

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首里城の地下、旧日本軍の司令部壕内部 「沖縄戦の実相伝える」 報道公開 - YouTube

八原高級参謀の回想:

かねて、最期の地と思い定めていた首里山に、別れを告げるときはきた。

5月27日、薄暗ごろから第1ないし第5梯団に区分された司令部将兵は、梯団順序に次々と首里洞窟をあとにする。第1ないし第3梯団は、直路摩文仁へ、直接戦闘指揮に必要な人員より成る第4、第5梯団は、まず津嘉山に向かう。第4梯団は軍司令官、高級参謀その他約50名、第5梯団は参謀長、長野参謀ら同じく約50名である。

混成旅団司令部は、同時刻ごろまず識名に、第24師団司令部は、28日まず津嘉山に、それぞれ後退することになった。木村、三宅の両参謀は、残務処理のため今夜首里に残留し、明28日夜摩文仁に直行する予定だ。さしも諸施設完備した軍司令部の大洞窟も、数日来の豪雨で、すっかり水攻めにされ、深いところは膝を没するほどだ。所々に、まだ残る電灯の光で、わずかにその陰惨さが救われている。

薄暗になっても、敵の砲撃は衰えない。恰も、退却せんとするわが軍を、追い立てるかのように、巨弾は首里全山を揺るがして、炸裂している。「第4梯団は、第5坑道に集合!」の声に、軍司令官は地下足袋、巻脚絆の軽装で、扇子片手に自室を出られる。私、吉野専属副官も遅れじと続行する。参謀室に残るのは、木村、三宅の両参謀のみ。向かい側の旅団司令部は、全員引き揚げて、付近一帯がらんとしている。

両参謀は、残ったビールを処理するのも、残務処理の一つだと、盛んに飲み、かつ気焰をあげている。一切の書類を整理し、そしてアメリカ軍の手に渡った際、あまりに見苦しくては、名誉にかかわるとばかり、注意してきちんとあと始末を終わった。参謀室よ、さらば!

じゃぶじゃぶと、水浸しになった坑道を思い切って歩く。…第4、第5坑道の分岐点の所は、水脈にあたるのか、地下水が滝のように、天井から勢いよく流下している。第5坑道の階段を降りたあたりから、出発を待つ将兵が充満している。各梯団の出発は、混雑せぬよう、時間で規制してあったが、砲弾の間断を見ての出発だから、なかなか計画通りにはゆかぬ。将兵らは完全武装したうえに、弁慶の七つ道具よろしく持てるだけの物を持っている。屈強な兵士は、一人で23貫も背負っている。摩文仁では、弾薬、糧秣、日用品等すべて思うようにならぬと知らされているからである。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 344-345頁より》

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《AIによるカラー化》Former headquarters of Jap 32nd Army in cave.

壕の中の日本軍第32軍の元司令部 /

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1915(午後7時15分)出口付近に盛んに落下していた砲弾が、やや間遠になったのを機に、牛島将軍は決然として進発され、第4梯団の相当数はこれに続行した。…出口に接近する刹那、突如十数発の迫撃砲弾が、轟然至近のところに破裂した。同時に2、30名の兵が後退してきた。私の前進は、…不可能になった。時間的に考え、将軍は難を免れておられるはずだ。…さらに好機を見て出発することとし、出口に近い側室にはいった。この室には長参謀長、長野参謀、それから鈴木将軍以下混成旅団の幹部の姿が見える。皆乾パンを食いながら、雑談の真っ最中である。敵の砲撃状況を統計的に観ると、各時間の最初の15分ないし20分間は、概して緩徐である。そこで参謀長以下2010(午後8時10分出発に決めた。

とかくするうちに時間がきた。あんのじょう砲撃がやや衰える。…洞窟より直ちに左に折れ2、30メートルの緩斜面を登る。一行が登り切ろうとする瞬間、右斜面前方近く、例の耳をつんざく迫撃砲の集中爆裂音だ。…坂口副官が決然たる態度で、閣下早く!と声を励まし、参謀長を斜面の上に引きあげている。参謀長の口を引き緊めた俯向き加減の無言の顔が、つと傍を過ぎて行く。

私は、身を伏せながら、こんな密集縦隊の中で前進するのは、地形地物の利用が不便と判断し、かつ任務上1分1秒を争って、津嘉山に到着する必要もないので、縦隊をやり過ごし、例の側室に引きあげた。

2110(午後9時10分)、今回は、いささかの躊躇なく出発する。一気に先刻の斜面を駆け登る。敵の砲弾は、今首里山頂と識名の台上に落下しつつあり、繁多川台地は案外に平静である。

さらば首里城趾よ、と仰げば、雲間にもれる月影に、硝煙に黒ずんだ峯が、威厳に充ちて、聳え立っている。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁346-347頁より》

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円鑑池・龍潭(首里城付近)/ Moat around Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小禄半島 - 海軍司令部の撤退 

沖縄方面根拠地隊: 小禄(大田実海軍少将)

小禄近辺には約1万人の海軍兵がおり、現在の那覇空港豊見城の市境の地下に海軍司令部壕を構築していた。5月26日に南部への移動を開始していた。

戦闘概報:

5月27日   陸軍部隊の転進支援のため、小禄地区に有力な一部兵力を残した以外は、ほぼ転進を完了する。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 91頁より》 

護部隊は5月27日海軍記念日、羽田司令をはじめ本部の一行が伊敷に転進した。そのころから、部隊移動を察知した米軍トンボ偵察機通報で、艦砲射撃や艦載機の爆撃がひどくなったという。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 393-394頁より》

 

南部戦線の学徒隊

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物量的にも劣る沖縄守備軍が必死に守った首里司令部も、65年前の今日、本格的な南部撤退を始めました。22日に首里からの撤退を決めた沖縄守備軍ですが、牛島司令官ら主要メンバーの撤退は、今日、27日の夕方でした。この年は遅い梅雨入りで、20日ごろから激しい雨が降り始め、その為、アメリカ軍の攻撃も弱まっていました。司令部は5つに分かれて撤退を開始します。3グループは真っ直ぐに喜屋武を目指し、牛島司令官や長参謀長らはひとまず津嘉山へ戦闘指揮所を移します。

師範学校生にとっては、司令部壕と学び舎が同じ場所にあっただけに青春時代を過ごした地を見捨てることに耐え難く、いいようもない怒りと悲しみを感じたといいます。司令部を出る時は雨にも助けられ、アメリカ軍に気づかれずにすみましたが、やがて南へ移動する行列を発見したアメリカ軍は容赦ない激しい攻撃を開始。その為、兵士だけでなく、避難する多くの住民の命も奪われたのでした。

司令部壕から出る機会のなかった牛島司令官が、南部に向かう道中目にしたのは、無残な死体の山。移動中のトラックでじっと手を合わせる司令官の姿を目撃した人もいたそうです。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょう

 

鉄血勤皇師範隊: 沖縄師範学校

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上: 城下で学ぶ高揚感、一転 母を呼ぶ友の声が今も耳に 古堅実吉さん - 琉球新報デジタル

下: 沖縄県埋蔵文化財センター・浦添市教育委員会平成 30 年度 沖縄県の戦争遺跡前田高地から首里まで (2018) PDF

首里城の龍潭池畔にあった沖縄師範学校の職員と生徒は、1945年3月31日に「鉄血勤皇師範隊」として、斬込隊、千早隊、野戦築城隊、自活隊、本部等に隊編成され、第32司令部壕から300メートルほど離れた留魂壕にいた。師範学校生らが自ら掘った陣地壕の半分は沖縄新報が同居していた。

5月27日。最悪の事態がやってきた。「千早隊は全員、軍司令部の壕へ集れ。各人の装具は携行せよ」との命令が壕内に伝わった。「いよいよやるぞ」「何事だろう」・・決意と不安が相半ばして、隊員は顔を見合わせた。そして無言のうちにも私たちは、最後の決意を固め、次々と軍司令部へ急いだ。…軍司令部の壕に着くと、壕内はいつになくざわめいて何事かただならぬ気配がする。

「大いに飯を食っておけ」という下士官の言葉に、千早隊は初めて軍の炊事場でおいしいおにぎりやおかずを十分に与えられた。「いよいよやるのだ!」隊員は目と目でうなずき合った。…緊張の中に私たちは装具を整備した。

やがて準備はととのった。すっかり張り切っていた気持ちも、「作戦上、軍司令部は、摩文仁へ転進する。それで千早隊は先発隊として、今夕6時摩文仁にむかって南下せよ」との命令を聞いた時には、いっぺんに気抜けがした。「首里を下るのですか」耳を疑うように聞き返す者もいた。気負い立った気持ちの遣り場がなかった。

首里を去る・・。最後まで死守と、あれほど誓ってきた首里を放棄する。転進とはなんだ!転進とは態のいいい退却ではないか。それは沖縄の敗北を意味するのではないか。そしてそのことは、日本の本土決戦に持ち込むことではないか?〉

…がっくりとなった隊員の中にまじって、ホーっとした顔色も見られた。なぶり殺しにされずに済むというかすかな生への可能性が、その胸をよぎったのだろう。

一応南部へ下って兵力をまとめ、時機をえらんで再び攻勢に転ずるという釈明も、私たちは上の空で聞いていた。…軍命である。私たちには一片の批判も許されるものではなかった。私たちは各自の装具のほかに、電信機具や軍の機密書類が入っている巨大な木箱、そして将校行李等を運ぶよう命じられた。

…こうして出発の時刻はきた。千早隊の21名は、折から他の任務を帯びて他所へ出ていた4、5名を除いて全員、酒井曹長ほか2名の下士官の指揮で南下することになり、第4坑道入口で砲撃の間隙を待った。やがて、約5メートルの距離で縦隊に散開し、次々と壕を出た。…原形も留めぬ首里城趾には依然として砲弾が炸裂し、照明弾が古城の廃墟を冷たく照らしていた。〈さらば首里城よ、母校よ、その残骸もこれで見おさめか〉このような状況下にあっても、在りし日のその壮麗な面影を偲んで、尽きぬ想いは低徊する。私たちは、振り返り振り返り、感傷に沈む心を引きずりながら、夕闇に包まれた首里古城を後にした。

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 63-66頁より》

 

水産通信隊 (沖縄県立水産学校)

県立水産学校低学年は通信隊として首里の球部隊司令部に、高学年は水産鉄血勤皇隊としてやんばるの第四遊撃隊に配属されていた。

水産学校中学二年の通信隊 食事を終えると銃、弾、手りゅう弾と2日分の乾パンが全員に配られた。「そして私のほか何人かが呼ばれて、先発隊として南部に移動することを命令された」。壕の入り口付近に集まった12、3人は、軍服のそでが指先を隠し、ズボンのすそを何回か折り曲げていたから中学生だということは、すぐに分かった。

2人1組みでかつがされた将校の柳行李は「重要書類が入っている」と説明があった。柳行李2個を棒で通してかついだが、軍装の上で30キロほどの重さだったから、棒が肩に食い込んだ。おまけに雨がさらに柳行李を重くした。ぬかるみに幾度も足をすべらせ転倒した。水かさを増した川には腰までつかりながら柳氷だけは、しっかりと握っていた。先を行く兵隊との距離が開くと、「だらしないやつはたたき切ってやる」と軍刀を振り回しながらの怒鳴り声が響いた。南風原陸軍病院に着いた時には、すっかり疲れ果てていた。

陸軍病院には1日いたが、去る時、軍医が傷病兵に向かい、「歩ける者は南部に下がれ」と言うのを聞いた。そして女学生らは無言のまま歩けそうにない患者の間を走り回り薬品を配っている。自決用の薬品であることは分かったが、軍医に礼を言いながら受け取る兵隊の姿、不気味なほどに静まりかえっていた壕内の光景が瀬底さんの脳裏から今も離れない。

途中、墓の中に1泊して摩文仁に着いた。まだ、そこは戦場でなく、草木も生い茂り、のどかな農村の光景があった。とりあえず主のいない近くの民家で宿泊、行軍の疲れをいやした。水浴もそこではできた。

 疲れが取れた瀬底さんは雨中の行軍で苦しめられた柳行李に目をやった。「重要書類がぬれたままではまずい。乾かしておかなければ」と思い、開けて見て思わず吐き捨てた。「馬鹿にしてる!」。柳行李の中に入っているのはげたや肌着、あるいは着物など将校の私物だけだった。

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《AIによるカラー化》校舎跡。首里 / Ruins of school building in Shuri.

(投稿者註: 学校名の記載なし。2017年5月現在、リンク先に掲載された「撮影日」は、誤載と思われる)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ひめゆり学徒隊: 沖縄県師範学校女子部

津波古さんには、忘れられない恐怖の思い出がある。あれは、首里の司令部を放棄して南部の摩文仁に撤退命令が出た昭和二十年五月二十七日のことだった。もう真夜中だった。部屋にいたのは、津波古さんともう一人の“ひめゆり部隊”の看護婦だけだった。

 「そのとき、見たこともない人が三人部屋に入ってきたんです。その人たちがあっちこっち探してカンカンを見つけたんです。缶詰の缶です。最初は食事をするんじゃないかと見ていたら、どうも様子が違うんです。
 私は退屈だったものですから『手伝いましょうか』と言ったんです。するとびっくりした顔で振り向いて、『何しているか。まだそこにいるのか』と非常に恐ろしい顔で言うんです。それからしばらくして、『お前たちは人間じゃない』なんていう怒鳴り声が聞こえてきた。そこで友達の看護婦さんに『これ、ちょっと変よ。私たちも殺されるかもしれない』と言って、そこから逃げたんです。動けなくなった病人に青酸カリを入れて殺したということは、あとから聞いて知りました」

 

永岡隊 (安国寺住職・一中教諭 永岡敬淳大尉) 

県内の民間人で編成された郷土部隊「永岡隊」

沖縄県立第一高等女学校2年(15歳)で永岡隊の救護班に従軍していた女性の証言

32軍が南部撤退を始めた日が27日です。 その晩、自然の雨と弾の雨が降る中を、糸数先生が32軍の命令を伝えに来ました。永岡隊は郷土部隊だから最後まで (首里に) 残れという命令が出ました。子どもながらに「ひどいなあ」と思いました。32軍が撤退した後は、首里を守る部隊は、私が知る限り壕の中にいる30名くらい しかいません。私の担任の糸数先生は、私を見つけると頭をなでて何もおっしゃいませんでした。胸が詰まって何も言えなかったと思います。頭と肩をたたいて、雨の中を出ていかれました。「先生どこに行かれるの」と聞いたら、「うん」と何も言わずに行かれました。それが先生との今生の別れでした。この崖下の所で、出ていかれる先生を見送りました。

翁長安子さん講話 - 永岡隊での活動 -(2019年)

 

後方指導挺身隊の移動 (県庁職員) 

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

豊見城村字長堂にいた沖縄県庁職員からなる後方指導挺身隊は、前日の26日、知事命令で長堂から高嶺村与座(志多伯の南約3キロ)方面へ撤退を開始した。27日は、兼城村座波方面へと歩いていた。

後方指導挺身隊本部・企画班長の証言:

挺身隊の一行は降り続いた雨で泥の海となった農道を、ひざまで泥に浸しながら進んだが、雨と砲弾でその夜は一睡もできなかった。翌日、兼城村座波(志多伯の西南西約3キロ)へ向かったが、道中は前夜までの猛砲撃の犠牲らしい、おびただしい兵や民衆の遺体で覆われていた。それに通りかかった部隊や避難民がはねた泥がかかり、泥のてんぷらのようになっていた。中には首は吹っ飛んでいるのに、胴体と肢体とで空箱にちゃんと腰かけている奇怪な遺体もあった。だが、人々はすでに不感症になっていたのか、道中見かける遺体の群像にも平気な顔をしていた。遅かれ早かれ自分らもこのような姿に変わり果てるだろう、とのあきらめとも見えた。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 323頁より》 

 

南部を目指した負傷兵たち

『…悲惨なのは、自決も望まず、解隊した医療施設に残されたままの重傷者であった。彼らが与えられた命令は、自分の部隊に合流せよというものだったが、部隊のいる方角も位置も彼らにはわからず、実際に知ることは不可能であった。両足を負傷しているのはふつうであった。重傷者の中でもっともしっかりした者は、転がったり這ったりしながら、または両腕で身体を引きずりながら、休みなく少しずつ進んだ。しかし、多くの者は動くことができず、自分で作った松葉杖で身体を支えるにも全力を必要とした。いちばん弱っている者は、道路を短い距離進んだ後は、座ることもできず、うつ伏せになって、見逃されるのを待っていた。』(270-271頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 270-271頁より》

第5砲兵司令部指揮班にいた学徒の証言:

『「…南風原村の喜屋武では、陸軍病院壕を脱出した何百人という手足のない傷病兵が、道の両側を埋めつくしていました。病院壕に居たら〝善処〟されるから、助かりたい一心で、イモムシのように泥んこになって這っていたのです。そんな傷病兵が僕の痩せた足首にしがみつき、『連れて行ってくれーッ』と哀願しますが、ふらつく僕にはそんな体力的余裕はない。心の中で『勘弁してくれーッ』と詫びながら、足で蹴り飛ばし、振りほどかねばならなかった。辛い行軍でした。」』(327-328頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 327-328頁より》

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沖縄戦の絵】「てんぷらのように見えた死体」

『…5月下旬那覇市の真玉橋のたもとの光景。降り続く梅雨の雨でどろどろになった道に、折り重なるように倒れている死体の山。南に逃げようとして犠牲になった住民たちだった。米軍の激しい砲弾はその上にも容赦なく降り注いだ。雨でぬかるんだ泥に折り重なった死体は、まるで人間のてんぷらのようだったという。』

てんぷらのように見えた死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

そのとき、住民は・・・

辺土名収容所 - 日本兵の襲撃

那覇から国頭村へ避難、捕虜となって辺土名収容所に収容された家族

5月中旬、ついに捕虜になり、那覇から来た30人ほどの避難民は、桃原の空家に収容されました。食糧も支給され、ようやくほっとした数日後。海軍記念日の27日。悪夢が襲い掛かります。…

真夜中に山から降りてきた日本兵が、母屋に黄燐弾を投げ込みました父親はとっさに騏一さんを窓の外に逃がします。高嶺騏一さん「黄燐団投げられて。二発3発くらいじゃないですか。今度僕のうちに小銃3発。2発はおふくろに当たって一発は僕に当たった。ここに」「隣のうちはね、二人は火ダルマ。燃えてました。全身。全身で燃えてましたよ、髪の毛も」母屋にいたおじさん夫婦と騏一さんの母は即死。日本軍に家族を殺され、半狂乱になった父は日本兵を追いかけました。「父は もうなたもってね、敵打つんだと言って、こっちから山に向って走っていきよったですよこの道を」従妹の姉妹は全身やけど。騏一さんは腕をえぐられ、3人は宜野座野戦病院に運ばれました。

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やがて腕の怪我が回復した騏一さんは、孤児院に移されました。あまりのショックで、言葉の出ない子になっていました。

桃原では留守中に起きたこの虐殺事件を知る人はいません。しかし、アメリカ軍の報告書には事件の詳細が記録されています。「日本兵らは不意打ちを食らわせて逃げる、という得意の戦法でアメリカ軍に協力している住民に罰を与えているつもりなのだ」と分析しています。父はその後、この敗残兵について調べ、家族を殺したのは 運天港にいた海軍魚雷艇だったと話していました。

高嶺騏一さん「でも僕らはしかし、戦争がはじまるまでは日本兵がそういうことをするとは思ってませんでしたよ。良い兵隊さんだと。日本は戦争に勝つと思ってましたからね」

特集 島は戦場だった 敗残兵に家族を奪われ – QAB NEWS Headline

 

具志頭 (ぐしちゃん)

独立高射砲第27大隊第1中隊、通信班・陸軍二等兵の回想:

…崖に降りて具志頭の集落へ水を汲みに出かけた。集落の中ほどに共同井戸があり、冷たい水が岩の間からこんこんと湧き出していた。

…井戸のすぐ上に、タバコの葉を乾燥させるトタン屋根の小屋があった。ふと見ると、国民服を着た中年の男が建具のない窓から紐に吊した帳面を乾かしていた。私はなんだろうと思って尋ねてみた。

「これですか」と男がいった。

「私はすぐ近くの具志頭国民学校の教師ですが、卒業式前に戦争になってしまって、子どもたちに通知簿を渡すことが出来なくなってしまったんです。壕の中に入れておくと湿気で腐ってしまいますのでね、こうして天気のいい日に乾かしているんですよ」

「そうですか」といったまま私は返すことばを失い、教師の静かな作業を見つめていた。窓にヒラヒラと揺れている通知簿がもの哀しかった。

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 103-104頁より》

 

 

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