〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月13日 『八重山の沖縄戦』

米軍の動向

掃討作戦

… きょうもアメリカ軍の掃討作戦が続けられた沖縄。当時のアメリカ軍の情報機関、G2による戦時記録にはこう記されています。「8月13日、本島。日本兵28人を殺し、日本兵3人、朝鮮人軍夫2人を捕らえる。真壁の北東で一集団9人の日本兵を殺す。全員手榴弾を持っていた。浦添城跡の東で人数不明の集団のうち8人を殺す。武富 (糸満市) 近くに狙撃兵あり。その他、各地で日本兵との接触があるが、規模は小さい。洞窟に隠れていた日本兵によって、戦果探しのアメリカ兵数人が負傷し、1人が殺される」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月13日(月)

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海兵隊: Riflemen and machine gun squad of Baker Company, First Battalion, 22 Regiment, Sixth Marine Division move down the side of a hill in southern Okinawa during mopping up operations.
掃討作戦のさなか沖縄島南部の丘を下る第6海兵師団第2連隊第1大隊ベーカー隊のライフル銃手と機関銃隊  1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

八重山諸島の日本軍

土地の強制接収と飛行場建設

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八重山列島 - Wikipedia

日本軍は土地の強制接収をおこない、住民を動員して石垣島平喜名(海軍北飛行場)、大浜(海軍南飛行場)、白保 (陸軍航空隊飛行場) の飛行場を建設、また特攻艇秘匿壕も数多く構築した。

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八重山群島には、昭和19年宮古島から配転になった独立混成第45旅団 (旅団長、宮崎武之少将、2,865名)が配置され、ほかに石垣島海軍警備隊約3,000名と地元で編成された特設警備隊(約2,000名)が警備に当たっていた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 235頁》

1943(昭和18)年末、平喜名飛行場(後に拡張されて海軍北飛行場となる)に観音寺部隊が駐在するようになった。同部隊は、南方から日本への物資輸送ルートを護るために配備されたのであったが、この頃から八重山は戦争色が急激に色濃くなっていった。

1944年2月には平得飛行場(海軍南飛行場)、6月には陸軍の白保飛行場の建設も始まった。また、8月には宮古島から独立混成第45旅団が、その後同旅団配下の各大隊が陸続と来島するようになり、八重山には約8000名もの将兵が駐留するようになった。

そのため学校や公共施設、さらには大きな民家などは軒並み軍に接収されてしまった。八重山農学校は44年8月に同旅団司令部に接収され、年末には八重山中学校までもが接収されてしまった。そして中等学校生から国民学校の児童に至るまで、飛行場の建設や陣地構築作業に動員されるようになった。

八重山農学校や八重山中学校の生徒たちは、全八重山から動員された勤労隊に混じって44年1月からは海軍北飛行場、翌2月からは海軍南飛行場をはじめ各陣地の構築作業に動員され、滑走路の整備や掩体壕掘り、タコ壺壕掘りなどの雑務作業に就いた。

こうした日本軍大部隊の駐屯で、八重山では特に食糧問題が深刻になっていった。軍への奉仕作業動員によって地元の食糧増産が進まないだけでなく、空襲が激化したために島外からの食糧移入も途絶え、食糧問題は急速に悪化していった。軍は食糧の提供を地元民に強要したのみか、軍の食糧を確保するために、住民をマラリアの猖獗地に強制移住させて多くの犠牲者を出すなど、悲惨な事件も繰り返し起きるようになった。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 215-216頁

1943年、平得飛行場の土地接収

わたしたちが全く知らないうちに軍部と役所で測量がなされ、地主が調べられ、名薄までつくられていたわけです。… (中略) … まず工事請負いの責任者には本土業者の原田組が当たった。人夫はほとんど地元から雇っていたが、やがて朝鮮人が百人程送り込まれてきた。そして1943年(昭和18年)2月頃から、国家総動員法による平得海軍飛行場建設就役のために、八重山郡下に及ぶ徴用令が発動されたのであった。ここには六十歳未満の男女がかりだされ・・・

「平得」飛行場建設の土地接収 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

1944年、白保飛行場建設の土地接収

白保飛行場として土地接収がなされない前までの、嘉手苅、東流手刈、赤嶺原、野地原、芋原、与那原、崎原等の土地は、白保部落ではもっとも肥沃な土地であった。… (中略)… このような立派な土地が強制的に日本軍によって接収されたのは、たしか昭和19年の5、6月頃だった。…(中略)…  軍は砂糖きびや芋などが植えられている畑に測量の杭をどんどん立てていった。…(中略)… 工事がすすむのに従い作物の収穫もしなければならない。たいへんいそがしかった。宮良○○ (当時四五歳ごろ) さんなども芋をたくさん植えてあり、それを収穫するまで二、三日工事を待ってくれないかと軍隊に懇願したら、できないとのことである。自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。多分、国に文句を言うのはこのようなことになるぞと、みせしめのためであったろう。実にでたらめであたった。しゃくにさわった。…(中略)…

だが戦後二十八年になってもその債券や預金証書は凍結されたままである。土地代の完全支払いも済まされないのに国有財産として登録されている。全く国は泥棒と同じではないか。そこで私たち地主は、国が強制的に接収した白保飛行場の土地を返還してほしいと今国に要請している。要請は1951年からはじめ、1973年のいまもなお続けている。私たちの要求は正しいと思う。戦後28年にもなっているのに戦後処理がいまなおなされていない。強制的に土地を接収し、その代金も未支払いのまま国有地になされている。どう考えても納得がいかない。戦争遂行のため接収した土地であるし、当然、土地は地主に返すべきではないか。

「白保飛行場の土地接収」沖縄県史 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。

泥水飲んで飛行場作業 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

 

海軍 - 特攻艇秘匿壕

1944年11月半ば、海軍は川平湾を特攻艇基地にするため、周辺の川平部落を強制移転させる軍令を出し、地域は二転三転と混乱した。

海上特攻艇基地建設のための川平部落の強制疎開騒ぎ

突然「移転するに及ばず、もとのところに戻ってよろしい」ということになった。「馬鹿をいえ、部落民を馬鹿にするにも程がある。」そのときの憤りは表現のしようがない。みんな怒った。だが軍命にそむくことはできない。また同じ道を逆に引きかえすのである。

学童、軍の使役と化す 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

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石垣島の川平湾に残る「特攻艇秘匿壕」、日本軍の特攻兵器を隠すための壕です。日本軍は、川平湾の海岸線に壕を掘り、特攻艇の出撃基地にしました。壕の入口は高さ3メートルほど、奥行きは25メートルあまりあり、昭和20年2月に完成しました。配備されたのは海軍の特攻艇震洋。ベニヤ板の船体の先に250キ口の爆薬が積みこまれ、兵士1人が乗り込み、体当たりして自爆します。1隻5メートルの船が、ひとつの壕に5、6台隠されたといいます。

海の特攻作戦では、宮古島で陸軍が、石垣島で海軍が、敵を待ち受けることになっていました。このうち川平湾には、50隻の特攻挺が配備されましたが、結局、川平湾から、特攻艇が出撃することはありませんでした。

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石垣市 特攻艇秘匿壕|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

八重山の学徒隊

1945年3月29日八重山中学校や八重山農学校の生徒を動員し鉄血勤皇八重山隊が編制さ「通信班」「対空監視班」「迫撃班」の3班に分けられた。また八重山農学校と八重山高等女学校の女学生が野戦病院従軍看護婦として各部隊に配置された。8月13日、自宅待機を命じられ事実上の解散となる。

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《 潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」南山舎 (2020年) 》

八重山農学校生徒の体験談:

5月頃であったろうか、他の隊員たちは開南に移動して特訓が続けられたようであるが、私たち数名の者は旅団本部付きとなった。小学校裏の墓地に通信機材を運びこみ、引き続き激しい特訓を受けつつ軍務についたが、成績が上がらないといっては木刀や竹刀でたたかれることがあった。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 218、221、223-224頁より》

八重山中学校生徒の体験談:

6月上旬、私たちに突然移動命令があり、開南に移動した。そこでは◯と合流して八木中隊に再編入された。直属の上官は大橋勲という東京帝国大学出の見習士官だった。その日から起床ラッパに明け、消灯ラッパに終るという完全な軍隊生活が始まり、飯盒等も支給され、給料も二等兵待遇の13円50銭であった。その次は17円50銭支給された。しかし、それは金額が記入された紙切れに過ぎず、現金を手にしたことはなかった。食事は玄米と乾燥竹の子、ひじき、こんぶの連続で、飲み水事情も最悪であった。ほとんどがマラリア、パラチフスにかかり、元気な者は於茂登の山奥へ弾薬を背負って運搬するのが日課となった。…

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 217、218、222頁より》

八重山農学校女子学徒隊の体験談

6月6日に、私たちは野戦病院の看護婦として於茂登へ行くことになった。…(中略)… 翌日から、兵隊たちといっしょになって防空壕掘り。内科用、外科用、薬剤室など数多くの壕掘り作業が続いたが、私たちは工事用材料の運搬や、途中までトラックで運ばれてきた荷物の運搬と、毎日が重労働の連続だった。看護婦として来たはずの私たちが、ある日荷物運搬に行く途中、敵機と交戦した日本軍の高射砲弾の炸裂にあい、その破片で4、5人の者が負傷をしてしまった。

…やっと落ち着いた頃から、於茂登の病院にも運び込まれるようになり、看護婦も作業班と看護班の二手に分かれての奮闘だった。

患者たちのほとんどがマラリアと下痢患者だったが、…最も気の毒なのは重傷患者であった。薬品不足のせいもあったと思うが、充分な看護もしてもらえず、ただ死を待つばかりの人たち。死亡時刻を確認するため、私たちは患者の脈はくを取り続けるのだった。死亡者が出ると軍医が確認する。あとは私たちの手で処置をし、屍室まで担架に乗せて運ぶのだが、雨の中を山の赤土はとても滑るし、…

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 222-224頁》

 

 

八重山高等女学校の学徒隊の体験談

昭和20年4月、八重山高等女学校の1期生60余名は、陸軍病院野戦病院海軍病院の3カ所に配置された。私は第28師団第3野戦病院に配置された。

野戦病院に運び込まれた患者は負傷兵より、マラリア患者が多かったマラリアは、蚊によって媒介されて高熱がつづき、脳症をおこす怖い病気である。マラリアには、三日熱、四日熱、熱帯熱があり、三日熱は三日に一度高熱が出る。四日熱は四日に一度高熱が出る。熱帯熱は毎日高熱が出ると教えられた。石垣でのマラリア患者は、ほとんどが熱帯熱であったらしい。熱が出る前は背中がぞくぞくと寒くなりブルブルと震え出し布団を2、3枚かぶせ、その上から人がおさえないと、震えは止まらなかった。そのあと高熱が出る。水も無いので井戸水を急須に入れ、ジョロジョロと頭にかけ通しであった。ようやくなおっても顔色は非常に青ざめ、頭の毛は抜け、やせこけていた。戦時中、蚊の多い原野や山中に避難したのでマラリア患者が多かった野戦病院でのマラリア患者には、投薬されたが民間人には、薬がなく死亡する人も多かった。

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 206-207頁》

 

 

八重山諸島沖縄戦と戦争マラリア

米軍機の攻撃を受ける白保飛行場。

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Two bombs from a TBM plane from USS SUWANNEE (CVE-27) whistle their destructive way toward Ishigaki Airfield on Ishigaki Islands of Sakishima Group. Aerial: T-0930-9 K-20 4000'.

護衛空母スワニー(CVE-27)所属のTBM機から投下された2つの爆弾が、石垣飛行場を破壊するため音をたてて落下する様子。先島諸島石垣島にて。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度:4000フィート(約1219メートル)。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

激しい空爆が続く。

八重山の場合、1945年正月早々に3回目の空襲を受けたが3月以降は、それが1日に十数回に及ぶほど激化した。5月に米潜水艦による初の艦砲射撃があり、そのためもあってか、6月に入ると同群島守備軍は、主島の石垣島の住民をそれぞれの居住地に隣接する山岳地帯や他の島々に強制的に避難、疎開させた

ところが多数の将兵をかかえる部隊の駐屯もわざわいして風土病のマラリアが爆発的に蔓延していたので、住民は薬不足に加えて食糧難から極度の栄養不良に陥り、敵の攻撃を待たずに死亡する者が続出した。皮肉にも沖縄本島で戦闘が終結しつつあった頃、八重山住民は、戦況もまったく知らされないまま逆に受難の道へ踏み出したのであった。

こうして住民の罹病率は、全人口の54パーセントにも達した。ちなみに昭和19年現在の八重山の人口3万4,936名のうち空襲その他による戦没者は、187名だが、マラリアによる死亡者の数は、全人口の1割強の3,647名にも及んだ。その悲惨さは、目を覆わしめるものがあり、戦場のそれと何ら異なるものではなかった。守備軍将兵のばあいも同様で、約8,000名の陣容中、戦没者は約700名だが、その大部分はマラリアが死因であった。(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)』(233-235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233-235頁より》

もう一つの戦争が始まる。八重山での戦争マラリアの死者数は3647人で、人口に対する死亡率は21.5%、実に5人に1人が亡くなった。

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《 潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」南山舎 (2020年) 》

連日のイギリス空母部隊による空爆がつづいて、有効な反撃の手段もなかった日本軍は、万一のアメリカ軍上陸に備えたつもりだろうが、それが住民にどんな厄災をもたらすかについてはまったく考えなかったといってよい。住民はしかたなく軍の命令に従ったが、その結果、飢餓はいっそうひどくなり、移転先がマラリア病を媒介する蚊の群生地であったりして、多くの住民がマラリアにかかり、つぎつぎに死んでいった。沖縄ではこうして罹病し、死んでいったマラリア戦争マラリアと呼んでいる。

戦争マラリアの典型が西表島強制移住させられた波照間島の住民である。強制移住沖縄本島の戦闘がほぼ終わりつつあったころに実行されたという。戦局の大勢を見ない、独りよがりな守備軍の強制移動命令によって、じつに全人口1,275人のうち98.7パーセントにあたる1,259人がマラリアかかり、461人(罹病者の36.6%、全人口の36.2%)が死亡したのだった。

《石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著・石原昌家監修「もうひとつの沖縄戦」》

波照間島をふくむ八重山諸島石垣島西表島与那国島波照間島、黒島、小浜島竹富島新城島鳩間島など) は人口が3万4,900人あったが、そのうち1万6,884人(48%)がマラリアにかかり、3,676人(罹病者の22%)が死亡した。死亡者の大半が、沖縄戦が収束したあと、1945年(昭和20)の7月8月9月に集中している。

《「別冊歴史読本」戦記シリーズ18「沖縄 日本軍最期の決戦」の瀬名波栄「強制疎開マラリアの惨禍」による)

この地区ではそれまでは年間で10人弱しかマラリアで死んだ者はいなかったという。死亡者のうち84パーセントにあたる3,075人が、日本軍(八重山地区列島の守備についていた独立混成第45旅団)の命令により、住んだこともない山奥や別の島に強制疎開させられた者だった。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

 

そのとき、八重山諸島の住民は・・・

石垣島

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石垣島・白水地区にある戦争遺跡群です。太平洋戦争前、石垣島では北部を中心にマラリアが蔓延していました。戦争末期、島の住民は日本軍の命令で、北部に退去させられました。避難した先ではマラリアにかかる人が出始め、2496人がマラリアで命を落としました。白水地区には、空襲の際に避難していた人たちが使用していた防空壕などの跡が残されています。

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石垣市 白水の戦争遺跡群|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

尖閣諸島「一心丸・友福丸事件」

組織的な日本軍の抵抗が終わった後も、石垣島独混第45旅団は住民疎開計画を進め、6月30日、二隻の疎開船が石垣島を出港、7月3日に米軍の機銃掃射を受け、1隻は沈没、もう1隻は魚釣島に到着。不毛の環礁で、8月18日に救助されるまで乗船者180人余のうち75人名ほどが命を奪われた。その際、救助から取り残された6名のうち2名は死亡、4名は11月に救助された。軍令による疎開にもかかわらず、戦後の補償 (恩給) はなされなかった。

8月12日、材料を寄せ集め作った小舟で「決死隊」9人が救助を求め出港する

8月13日は風が止まったため、櫂で舟を必死に漕ぐしかなかった。漕いでいる最中にも「はたして八重山にたどりつけるのか」の不安はあった。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。そう確信した決死隊の8人の目は輝き、ひもじさも苦しさも吹き飛んだ。急に元気が出て、漕ぐ腕にも力が入り、力の限り漕いだ。

尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 - Battle of Okinawa

 

 

竹富島 鳩間島

竹富島には大石隊、小浜島には旅井隊、引野隊が駐屯し、黒島、波照間島には「離島残置工作員」が配置されている。また、西表島祖納に護郷隊が編成された。ほとんどが竹富村の若者で構成され、西表9人、竹富15人、小浜22人、黒島13人、鳩間11人、波照間6人、新城2人、崎山1人、計79人によって組織された。護郷隊は御座岳、祖納岳、波照間森、ウシュク森に陣地構築し、ゲリラ戦に備えて戦闘訓練を繰り返した。護郷隊は占領された後のゲリラ戦を想定していたが、日本の降伏で、八重山の護郷隊は戦闘をせずに終わった。

総務省|一般戦災死没者の追悼|竹富町における戦災の状況(沖縄県)

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さんご礁に囲まれた八重山地方の離島・鳩間島 (はとまじま)、今は人口およそ50人のこの島も、戦争に巻き込まれました。アンヌカーは、やぶに囲まれた自然の洞窟で、戦時中、島の人たちが防空壕として利用していました。洞窟の奥には、かつて水が湧いていました。沖縄戦当時、アメリカなど連合軍は、沖縄本島周辺だけでなく、八重山地方の島々もたびたび攻撃しました。鳩間島も、空爆や機銃掃射に見舞われました。空襲が激しくなると、住民は日本軍によって、5キ口向かいにある西表島に避難させられました。しかし西表島では、当時、マラリアが蔓延していて、鳩間島にいたおよそ600人の住民のうち、59人がマラリアで犠牲となりました。

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竹富町 鳩間島の戦跡|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

波照間島

波照間 (はてるま) では陸軍中野中学出身の「山下虎雄」と名乗る離島残置諜者にマラリアが蔓延する地域に強制疎開させられていた。7月30日、識名校長は旅団長に直訴し帰島許可を得、8月2日、満場一致の決議でもって「山下」と対峙する。

 …この中野学校卒業生が、アメリカ軍の上陸が予想される沖縄に集中的に配置されました。山下虎雄もその一人であり、本名ではなく偽名でした。最初こそ物腰穏やかで、子供たちにも親切だったという山下が、その正体を現したのは沖縄戦が始まったときのことです。突如、平服から軍服姿になった山下は、島民を集めると「日本軍の命令だ!」と、島民を波照間島から西表島強制移住するように指示を出しました。

…山下は、アメリカ軍に奪われてはならないと、波照間島の牛、馬、豚、畑に至るまで、すべて処分するよう指示をしました。追われるように西表島に移住した島民に、山下は恐怖の統治を始めたといいます。』

波照間島の知られざる「戦争マラリア」の悲劇。沖縄戦で島民絶滅の危機に | ハフポスト

移住後まもなく、島内ではマラリア罹患者が続出し、死亡者は日増しに増える一方。このままでは住民が全滅してしまう......危機感を感じた波照間国民学校の識名信升(しきな・しんしょう)校長は、7月末に小舟で西表島を脱出して、石垣島の第45旅団長に惨状を"直訴"し、帰島の許可を得ます。山下は軍刀を振りかざし、帰島に反対しますが、このときには住民も"どうせ死ぬなら、波照間島へ帰って死んだ方がいい、斬るなら斬れ!"と、識名校長を中心に全員で必死に抵抗し、波照間島に帰ります。(『ハテルマ シキナ 少年長編叙事詩 よみがえりの島・波照間』より)

しかし壮絶なマラリア地獄はここからが本番でした。多くの住民がマラリアに罹患したまま帰島したので、波照間島マラリア有菌地と化してしまったのです。食料も尽き、島内に自生する「ソテツ」の幹を食べ尽くしてしまうほど、飢餓は悲惨なものだったと言います。

もう一つの沖縄戦 "戦争マラリア" を知っていますか? 〈BOOKSTAND〉|AERA dot. (アエラドット)

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戦時中、日本軍の命令で波照間島の多くの子どもたちが西表島疎開させられました。マラリアが蔓延していた西表島への疎開で、児童を含むおよそ500人の住民が犠牲となりました。

忘勿石と岩場に刻んだ、波照間国民学校の校長、識名信升氏。識名校長は、石垣島の日本軍の上官に直訴し、島民を波照聞に帰す許可を得ました。島に帰る日、人知れず「忘勿石」の文字を刻みました。

竹富町 忘勿石|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

  

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2004年8月13日、沖縄国際大学に普天間のヘリが墜落炎上 ~その時、沖縄は~

 

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  1. 石垣島の戦争(長田亮一さん) - YouTube
  2. マラリア地獄の波照間島・波照間国民学校職員(西里スミさん) - YouTube
  3. 【戦後70年】「徹底抗戦」うごめくクーデター派 1945年8月13日はこんな日だった | ハフポスト

八重山の戦争は米軍の上陸がなかったため、米軍の写真記録が存在しない。そのため本ブログでは潮平正道さんの画を引用させていただきました。

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戦後75年の節目となる今年、南山舎では潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」を発刊いたしました。少年の頃、石垣島先の大戦を経験した潮平正道氏は、将来を担う子供たちには二度と戦争など経験させるべきではないという強い思いをもって、これまで戦争の語り部としての活動をなさってきました。しかし、語りだけではなかなか現代の子供たちに伝わりにくいため、記憶の情景を絵に描き、発表することにしたのです。

Amazon.jp 潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」南山舎 (2020年)