〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月13日 『八重山の沖縄戦』

終わらない特攻 / 土地の強制接収 / 供出と収奪、飢餓と戦争マラリア / 戦後の自警団「日本兵から婦女子を守れ」

 

米軍の動向

ポツダム宣言受諾後の日本軍の攻撃

日本は8月10日未明ポツダム宣言受諾を決定し、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。これをうけ、8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。当日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、日本の国民には15日の玉音放送まで伏せられた。

神風特攻隊の攻撃

喜界島飛行場から飛びたった日本の海軍神雷爆戦隊2機が中城湾に停泊中の戦艦 USS ラグランジュ (Lagrange APA-124) に突入する。

【訳】8月13日にバックナー湾に停泊中、戦争中最後の神風攻撃を受けた。正確な対空射撃にもかかわらず、500ポンドの爆弾を積んだ正体不明の特攻機ラグランジュの上部に衝突した。2機目の自爆機がキングポストの頂上に衝突し、船から20ヤードの距離まで飛び散った。輸送船は両方の攻撃でかなりの損害を受け、船員21名が死亡、89名が負傷した。

Naval History and Heritage Command - USS Lagrange

掃討作戦

… きょうもアメリカ軍の掃討作戦が続けられた沖縄。当時のアメリカ軍の情報機関、G2による戦時記録にはこう記されています。「8月13日、本島。日本兵28人を殺し、日本兵3人、朝鮮人軍夫2人を捕らえる。真壁の北東で一集団9人の日本兵を殺す。全員手榴弾を持っていた。浦添城跡の東で人数不明の集団のうち8人を殺す。武富 (糸満市) 近くに狙撃兵あり。その他、各地で日本兵との接触があるが、規模は小さい。洞窟に隠れていた日本兵によって、戦果探しのアメリカ兵数人が負傷し、1人が殺される」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月13日(月)

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海兵隊: Riflemen and machine gun squad of Baker Company, First Battalion, 22 Regiment, Sixth Marine Division move down the side of a hill in southern Okinawa during mopping up operations.
掃討作戦のさなか沖縄島南部の丘を下る第6海兵師団第2連隊第1大隊ベーカー隊のライフル銃手と機関銃隊  1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

八重山諸島の日本軍

土地の強制接収と飛行場建設

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうちの3カ所石垣島に計画された。

また日本軍は八重山に3カ所の海上特攻艇基地を建設した。

日本軍は土地の強制接収をおこない、住民を徴用して石垣島の三カ所で飛行場を建設、また特攻艇秘匿壕や宇内など、沢山の軍事施設が建設され、島に8,000人の日本兵が駐屯した。1944年、宮古島から配転になった独立混成第45旅団 (旅団長 宮崎武之少将) が駐屯した。

1943(昭和18)年末、平喜名飛行場(後に拡張されて海軍北飛行場となる)に観音寺部隊が駐在するようになった。同部隊は、南方から日本への物資輸送ルートを護るために配備されたのであったが、この頃から八重山は戦争色が急激に色濃くなっていった。翌1944年2月には平得飛行場(海軍南飛行場)、6月には陸軍の白保飛行場の建設も始まった。また、8月には宮古島から独立混成第45旅団が、その後同旅団配下の各大隊が陸続と来島するようになり、八重山には約8000名もの将兵が駐留するようになった。

そのため学校や公共施設、さらには大きな民家などは軒並み軍に接収されてしまった。八重山農学校は44年8月に同旅団司令部に接収され、年末には八重山中学校までもが接収されてしまった。そして中等学校生から国民学校の児童に至るまで、飛行場の建設や陣地構築作業に動員されるようになった。八重山農学校や八重山中学校の生徒たちは、全八重山から動員された勤労隊に混じって44年1月からは海軍北飛行場、翌2月からは海軍南飛行場をはじめ各陣地の構築作業に動員され、滑走路の整備や掩体壕掘り、タコ壺壕掘りなどの雑務作業に就いた。

こうした日本軍大部隊の駐屯で、八重山では特に食糧問題が深刻になっていった。軍への奉仕作業動員によって地元の食糧増産が進まないだけでなく、空襲が激化したために島外からの食糧移入も途絶え、食糧問題は急速に悪化していった。軍は食糧の提供を地元民に強要したのみか、軍の食糧を確保するために、住民をマラリアの猖獗地に強制移住させて多くの犠牲者を出すなど、悲惨な事件も繰り返し起きるようになった。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 215-216頁

どのように国が用地を国有化していったのか。

白保飛行場として土地接収がなされない前までの、嘉手苅、東流手刈、赤嶺原、野地原、芋原、与那原、崎原等の土地は、白保部落ではもっとも肥沃な土地であった。… (中略)… このような立派な土地が強制的に日本軍によって接収されたのは、たしか昭和19年の5、6月頃だった。… 収穫するまで二、三日工事を待ってくれないかと軍隊に懇願したら、できないとのことである。自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。多分、国に文句を言うのはこのようなことになるぞと、みせしめのためであったろう。実にでたらめであたった。… だが戦後二十八年になってもその債券や預金証書は凍結されたままである。土地代の完全支払いも済まされないのに国有財産として登録されている。全く国は泥棒と同じではないか。そこで私たち地主は、国が強制的に接収した白保飛行場の土地を返還してほしいと今国に要請している。要請は1951年からはじめ、1973年のいまもなお続けている。私たちの要求は正しいと思う。戦後28年にもなっているのに戦後処理がいまなおなされていない。強制的に土地を接収し、その代金も未支払いのまま国有地になされている。どう考えても納得がいかない。戦争遂行のため接収した土地であるし、当然、土地は地主に返すべきではないか。

「白保飛行場の土地接収」沖縄県史 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

海軍 - 特攻艇秘匿壕の建設

特攻艇とは、ベニヤ板のボートに爆弾を積んで敵戦艦に特攻するという日本軍の「秘密兵器」とされた。八重山には海軍の特攻艇「震洋」の拠点が3カ所構築された。石垣島の川平、宮良、そして1944年11月半ば、海軍は川平湾を特攻艇基地にするため、周辺の川平部落を宮崎県に強制移転させる軍令を出し、地域は二転三転と混乱した。

海上特攻艇基地建設のための川平部落の強制疎開騒ぎ

突然「移転するに及ばず、もとのところに戻ってよろしい」ということになった。「馬鹿をいえ、部落民を馬鹿にするにも程がある。」そのときの憤りは表現のしようがない。みんな怒った。だが軍命にそむくことはできない。また同じ道を逆に引きかえすのである。

学童、軍の使役と化す 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

石垣島の川平湾に残る「特攻艇秘匿壕」、日本軍の特攻兵器を隠すための壕です。… 海の特攻作戦では、宮古島で陸軍が、石垣島で海軍が、敵を待ち受けることになっていました。このうち川平湾には、50隻の特攻挺が配備されましたが、結局、川平湾から、特攻艇が出撃することはありませんでした。

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石垣市 特攻艇秘匿壕|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

総動員の強制労働

原田組の監督の厳しさにはがまんできませんでした。… 食事は、朝、昼、晩とも同じもので、おじやの小さなにぎりでした。… 少しでも時間に遅れると、監督は、めった打ちになぐるのです。

「飛行場建設のための小浜島からの徴用」沖縄県史

地元の住民だけではなく、朝鮮人軍夫も投入された。

原田組が工事を担当していたが、中に朝鮮人労働者がたくさんいて、大きな金槌を細い柄をたわませて、「サニヤー、サニャー」とかいうようなかけ声をかけて槌を振る。単調ではあるがその音が規則正しく響く。時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。

泥水飲んで飛行場作業 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

八重山の学徒隊

1945年3月29日八重山中学校や八重山農学校の生徒を動員し鉄血勤皇八重山隊が編制され、「通信班」「対空監視班」「迫撃班」の3班に分けられた。また八重山農学校と宮古高等女学校、八重山高等女学校の女学生が野戦病院従軍看護婦として各部隊に配置された。

八重山高女学徒隊 14歳の証言

1943年の半ばごろからはほとんど授業は行なわれず、毎日平得飛行場の作業に駆り出された。1945年、八重山もひんぱんに爆撃を受けるようになると、傷病兵も増え、野戦病院海軍病院陸軍病院は女学校、農学校の女生徒を看護婦として強制した。… 野戦病院は「開南」にあったが、私たちはそこへ移る前に民家を借りて更に指導を受けた。学校の教師はついていたが、もう完全に軍の指揮下にあるも同然だった。

「学窓から野戦病院へ」 沖縄県史

また、国民学校の学徒も斬り込みの訓練をさせられた。 

敵軍の戦車の下敷きになり、共に自爆する訓練をさせられた。重い爆雷を背負い、蛸壺の中から一気に飛び出し、戦車の前で腹這に伏せる。伏せると同時に、背負っている爆雷が、投げ出される状態になり、後頭部を強打する。… 。純真無垢の紅顔の少年達は、戦闘用消耗品に過ぎなかった。 

 「皇国大日本青少年隊」沖縄県史

 

供出と収奪、飢餓と戦争マラリア

こうして日本軍の拠点となっていた八重山諸島は、英国海軍と米海軍の艦隊によって毎日のように空爆が繰り返され、封じ込めが行われた。

米軍機の攻撃を受ける白保飛行場。

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Two bombs from a TBM plane from USS SUWANNEE (CVE-27) whistle their destructive way toward Ishigaki Airfield on Ishigaki Islands of Sakishima Group. Aerial: T-0930-9 K-20 4000'.

護衛空母スワニー(CVE-27)所属のTBM機から投下された2つの爆弾が、石垣飛行場を破壊するため音をたてて落下する様子。先島諸島石垣島にて。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度:4000フィート(約1219メートル)。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本軍施設を封じ込めるために無差別で行われる激しい空爆

八重山の場合、1945年正月早々に3回目の空襲を受けたが3月以降は、それが1日に十数回に及ぶほど激化した。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233頁より》

日本軍は多くの住民を徴用し建設や補修にあたらせた。また日本軍の食糧確保のための農耕作業にも人々を駆り立てた。働き盛りの男性を兵士として徴兵し、学徒も労働力として動員されているうえに、女性たちも徴用に駆り出され、また食糧から材木に至るまで供出につぐ供出を求められ、さらには家畜なども次々と収奪された。軍に土地と労働時間を奪われ、深刻な飢餓を招くのは必須であった。

疎開先でも軍の徴用に駆り出される女性

避難生活も落ち着かないうちに、また軍からの徴用である。避難地にきてまで徴用されるとは、内心おだやかではありませんでた。監視所つくるのにさんざんこき使われたのに、また今度は、隊の米や、芋をつくるための徴用である。なんでも徴用といえば、人々をかってに使ってもいいとでも軍は思っているみたいでした。

兵隊たちも気の毒でした。青白くやせていて何か食べ物はないかと避難小屋の近くを通ることにせびるのでした。彼らは、毎日箱を背おい、オモト山を往復していました。たいへん重労働のようでした。これでは戦争は勝てないと思った。でもそんなこと口にだしてはいえませんでした。

「伊原間・平久保部落の人々の生活」『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 3 )

深刻な食糧不足が戦争マラリアの被害を拡大させる。

こうして住民の罹病率は、全人口の54パーセントにも達した。ちなみに昭和19年現在の八重山の人口3万4,936名のうち空襲その他による戦没者は、187名だが、マラリアによる死亡者の数は、全人口の1割強の3,647名にも及んだ。その悲惨さは、目を覆わしめるものがあり、戦場のそれと何ら異なるものではなかった。守備軍将兵のばあいも同様で、約8,000名の陣容中、戦没者は約700名だが、その大部分はマラリアが死因であった。(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233-235頁より》

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《 潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」南山舎 (2020年) 》

 

そのとき、八重山諸島の住民は・・・

石垣島 - カンカンという音

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石垣島・白水地区にある戦争遺跡群です。太平洋戦争前、石垣島では北部を中心にマラリアが蔓延していました。戦争末期、島の住民は日本軍の命令で、北部に退去させられました。避難した先ではマラリアにかかる人が出始め、2496人がマラリアで命を落としました。白水地区には、空襲の際に避難していた人たちが使用していた防空壕などの跡が残されています。

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石垣市 白水の戦争遺跡群|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

海軍飛行場が建設された大浜の住民は、疎開先に建てた小屋すら日本軍の材木収奪にやられ、さらに北の疎開先に移住。やがてマラリアが人々を襲う。

祖母が死に、母が死に、幼い妹が、二人の弟や妹が続けて死んでいった。一月もたたない中に、家族の中から五人の者が欠けていった。これでもう沢山だ。霊魂というものがあるなら、「お母さん、不幸はこれで終らせてくれ、私たちを助けてくれ」と祈る気持ちであった。しかし、四日後には次女が、更にその二日後には長女が、また相次いで二人を残して世を去った。もう涙も出なかった。… しかし不幸はわが家だけではなった。その頃は東の家でも、西の家でもカンカンという音が連日のように聞こえた。夜になってもその音は止まなかった。夜が更けても響いてくる箱を作る音を、部落の者はみな互いに黙々として聞いていた。… マラリアは、この大浜の土地からひとりの人をも残してはおかないかのように荒れ狂い、毎日幾十人もの命を奪い去った。棺に入れられたのはまだ恵まれた方で、大方のものはムシロやカマスにくるまれ、足を露出させたまま海岸端に葬られたという。この世の出来事とは到底思えない悪夢のようなことが、現実に行なわれていたのである。

母と五人弟妹を失って『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 4 )

 

黒島 - 暁部隊と牛の骨の山

島には十二人程の暁部隊という小隊が駐しており、広井修少尉(獣医)が指揮をとっていた。… 島には当時、牛が1600頭いた。私たち挺身隊の者は昼は毎日十五、六頭から二〇頭ほどの牛の屠殺と解体の仕事をさせられた。… かれらは島民が自分で牛を処分することを命令と称して厳重に禁じていた。それでも避難地での食糧確保のために密殺を行なうこともあったが、もしそれが知れるとずい分ひどい目にあわされた。島民の面前でなぐられたり、一日中ひざまずきをさせられたりした。こういう事情から推して、部隊の黒島駐屯の任務は島民を避難と称して追い出し、牛を奪って食糧を確保することにあったと思うのである。牛は伊古部落の海岸で潰しておったが、1600頭の島の牛は三か月後には全滅して、浜には牛の骨で異様な山ができていた。

島民追い出して牛の強奪『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 2 )

陸軍中野学校「山下」の指示でマラリア有病地に強制避難させられる

暁部隊が来てからはほとんど部隊と行動をともにしていたかれが、避難命令が出ると俄然威圧的となった。まだ二十四、五歳であったが、軍人の本性をまる出しにして居丈高となり、島の人々に怒鳴り出した。

島民追い出して牛の強奪『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 2 )

 

波照間島マラリア地獄

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《 潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」南山舎 (2020年) 》

波照間 (はてるま) では陸軍中野学校出身の「山下虎雄」と名乗る離島残置諜者マラリアが蔓延する地域に強制疎開させられていた。7月30日、識名校長は旅団長に直訴し帰島許可を得、8月2日、満場一致の決議でもって「山下」と対峙し、帰村を果たす。

しかし壮絶なマラリア地獄はここからが本番でした。多くの住民がマラリアに罹患したまま帰島したので、波照間島マラリア有菌地と化してしまったのです。食料も尽き、島内に自生する「ソテツ」の幹を食べ尽くしてしまうほど、飢餓は悲惨なものだったと言います。

もう一つの沖縄戦 "戦争マラリア" を知っていますか? 〈BOOKSTAND〉|AERA dot. (アエラドット)

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戦時中、日本軍の命令で波照間島の多くの子どもたちが西表島疎開させられました。マラリアが蔓延していた西表島への疎開で、児童を含むおよそ500人の住民が犠牲となりました。忘勿石と岩場に刻んだ、波照間国民学校の校長、識名信升氏。識名校長は、石垣島の日本軍の上官に直訴し、島民を波照聞に帰す許可を得ました。島に帰る日、人知れず「忘勿石」の文字を刻みました。

竹富町 忘勿石|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

戦争マラリアの典型が西表島強制移住させられた波照間島の住民である。強制移住沖縄本島の戦闘がほぼ終わりつつあったころに実行されたという。戦局の大勢を見ない、独りよがりな守備軍の強制移動命令によって、じつに全人口1,275人のうち98.7パーセントにあたる1,259人がマラリアかかり、461人(罹病者の36.6%、全人口の36.2%)が死亡したのだった。

《石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著・石原昌家監修「もうひとつの沖縄戦」》

この戦争で波照間では疎明とマラリアで、八重山では最もひどい目にあい、1700名の人口のうち680余名の尊い人命と多くの家畜、財産を失なった。戦死した者には恩給があるがマラリアで死んだ者には何の補償もない。何と非情なことか。また戦争に徴用されて失なった私の漁船などにも何の補償もない。また戦前の郵便貯金 … が、みな水の泡になってしまい、この年(七七歳)になってこんなに苦しい思いをして生活している。…

戦争中、日本軍が人民の生命をそまつにしたように、今日の国家も人民の生命をそまつにしていないのか。強制疎開によって、罪のない住民をひどい目に合わせ、その莫大な犠牲をどのように補償するか。また現にそのために苦しんでいる人民をどのように救済するか。戦後三十年を経過する今日になってもとの問題が未だに解決されず残されていることは実に残念なことである。

「波照間の疎開で死線を越えて」沖縄県史

 

疎開船の遭難「一心丸・友福丸事件」

組織的な日本軍の抵抗が終わった後も、石垣島独混第45旅団は住民疎開計画を進め、6月30日、二隻の疎開船が石垣島を出港、7月3日に米軍の機銃掃射を受け、1隻は沈没、もう1隻は魚釣島に到着。不毛の環礁で、8月18日に救助されるまで乗船者180人余のうち75人名ほどが命を奪われた。その際、救助から取り残された6名のうち2名は死亡、4名は11月に救助された。軍令による疎開にもかかわらず、戦後の補償 (恩給) はなされなかった。

8月13日、決死隊はやっと石垣島の島影をみつける。

8月12日、材料を寄せ集め作った小舟で「決死隊」9人が救助を求め出港する

8月13日は風が止まったため、櫂で舟を必死に漕ぐしかなかった。漕いでいる最中にも「はたして八重山にたどりつけるのか」の不安はあった。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。そう確信した決死隊の8人の目は輝き、ひもじさも苦しさも吹き飛んだ。急に元気が出て、漕ぐ腕にも力が入り、力の限り漕いだ。

尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 - Battle of Okinawa

 

 

 

八重山の「戦後」

男性や学徒は日本軍にとられ、女手一つで老人たち子どもたちを連れて厳しい疎開生活を生き抜き、やっとの思いで帰村すると、島は、マラリアと飢餓というもう一つの地獄の中にあった。

こうして八重山に帰ってきたのは十月の十日過ぎだったとおもいます。船から降り立った八重山は、人の姿もみえず、栄養不良らしく頭の毛がはげおち、やせて腹だけが異状にふくれあがった子供たちがあちこちにたむろしていました。とうとう桟橋から家につくまで大人にあうことはありませんでした。家に帰ってみると (註・日本軍によって強奪され) 屋根はないし、戸も畳も壁もないし庭には雑草が背だけ伸び、足の踏み場もない。全く連絡も絶えていたのでもしやと思って隣に聞いてみると家に残っていた父や母は死んでしまったということでした。ただ位牌だけが人一人いないあばら家に放置されてありました。

私はもう茫然として立ちつくしたまま何をしてよいか見当もつきませんでした。
それでも生きて帰ることができたのだ、今からは子供たちと一緒に何とか生きぬかなければと決意しました。台湾から持参した米三升が残された今後の食糧のすべてでした。

「台湾疎開と食糧難」沖縄県史

戦争中は何でもかんでも供出供出といって住民のものをとりあげていました。材木などひどいもので、そのために戦災の復興はおくれたと思います。

『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 2 ) - Battle of Okinawa

 

自警団の設立「日本兵から婦女子と食糧を守れ」

圧倒的な数の住民や兵士が飢餓とマラリアにたおれ、一家全滅もおこるなか、供出につぐ供出で食糧確保してきた八重山守備軍「独立混成第45旅団」が解散する。

八重山防衛と称して、八重山全島を指揮していたこの旅団本部が解散したのは9月6日である。私も9月6日までそこで過した。そこは病院とはちがって、食べ物はずい分ぜいたくでめずらしい物がいろいろとあった。

「島民追い出して牛の強奪」 沖縄県史

戦後、供出と収奪で日本軍が蓄えた食糧と家畜、またキニーネ (マラリアの薬) などの横流しをちらつかせ、苦しい状況に追い込まれている女性たちをつけ狙う日本軍の荒廃ぶりが問題となり、軍から解放されたばかりの青年たちが自警団を作った。「婦女子を守れ」と郡民大会が開かれた。軍から解放された青年たちによって自警団が作られた。また、軍内の虐待とあからさまな沖縄人差別への反動もこれに拍車をかけた。

食糧を持った軍人が婦女子に飢えた狼となる「婦女子を守る」というのが自警団の第一の任務であった。何しろ、軍は三か月余の食糧をもっているし、キニーネももっている。郡外からきた兵隊は8,800人いた。その8,800人の軍から婦女子を守るということはなみたいていのことではなかった。… 中には兵役時代、よくいじめた将校等がいた。一晩中留置場に放置して、蚊のえさにした時もあった。

「八重山「自治政府」樹立の胎動」 沖縄県史

 

1945年12月28日 - 軍政布告

米海軍軍政府最高執行官チェース少佐が来島し軍政布告を公布した。

八重山自治会」とは12月15日に住民が自治機関として自主的に結成した組織です。当時の八重山は敗戦で行政機関の機能が停止していたため、食糧難、マラリヤの被害、治安の乱れなど、住民生活は不安を極め社会は混乱していました。そんな中、住民たちは郡民大会を開き、自治会長に宮良長詳さんを選出し「八重山自治会」を結成しました。

しかし、結成から8日目の23日、軍政布告が発表され活動は停止。年の瀬も押し詰まってきた28日に、アメリカ軍は自治会長の宮良さんを八重山支庁長に任命、翌年の1月に八重山支庁が発足されると八重山自治会は使命を終えたとして解散しました。

65年前のきょうは1945年12月23日(日) – QAB NEWS Headline

 

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沖縄県八重山

 

2004年8月13日、沖縄国際大学に普天間のヘリが墜落炎上 ~その時、沖縄は~

 

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  1. 【戦後70年】「徹底抗戦」うごめくクーデター派 1945年8月13日はこんな日だった | ハフポスト

八重山の戦争は米軍の上陸作戦が行われなかったため、若干の空中写真を除き、写真記録が非常に少ない。そのため本ブログでは潮平正道さんの画を引用させていただきました。

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戦後75年の節目となる今年、南山舎では潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」を発刊いたしました。少年の頃、石垣島先の大戦を経験した潮平正道氏は、将来を担う子供たちには二度と戦争など経験させるべきではないという強い思いをもって、これまで戦争の語り部としての活動をなさってきました。しかし、語りだけではなかなか現代の子供たちに伝わりにくいため、記憶の情景を絵に描き、発表することにしたのです。

Amazon.jp 潮平正道著「絵が語る八重山の戦争」南山舎 (2020年)