〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月4日 『米軍、小禄半島に上陸』

小禄の海軍と防衛隊員 / 白梅学徒隊の解散 / 戦場の老人

 

米軍の動向

米軍、小禄半島に上陸

6月3日に知念半島を分断した米軍は、4日、小禄半島に上陸する。小禄には、槍部隊同然になっていた海軍部隊が差し戻されていた。米軍は小禄半島の北端から上陸する。

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USMC Operations in WWII: Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-9]

午前4時45分、まず砲兵隊が1時間にわたる予備砲撃で、4300発の砲弾を上陸予定地の前にある高台に撃ち込んだ。

第4海兵連隊の第1大隊は、水陸両用戦車を先頭に安里川北部の集結地に上陸し、小禄半島の北端めざして進撃した。隊形はトラクターが動かなくなったりして切断されたこともあった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 459頁より》

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Amphtrac heading for the beach. Amphibious landing on Oroku Peninsula south of Naha.

海岸を目指して進む水陸両用車両。那覇の南に位置する小禄半島に上陸する水陸両用部隊(1945年6月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

最初の部隊は午前6時前に海岸についたが、日本軍からの応戦は、きわめて少なく、米兵は、後続部隊の上陸にそなえて急いで橋頭堡を確立した。上陸後1時間半もたったら、海兵隊の2個大隊は約800メートルほど進出して、24輌の戦車と4門の自動操縦砲も陸揚げされ、午前10時までには第29連隊が、「上陸して、師団戦線北端をとれ」との命令をうけた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 460頁より》

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Men and supplies come ashore on Red Beach #1 on Oroku Peninsula where Naha airfield is located.

那覇飛行場のある小禄半島に位置するレッドビーチ1の浜辺に到着した兵士と補給物資(1945年6月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第4海兵連隊は、小禄の北端に上陸し、第6偵察中隊は奥武山を占領した。奥武山は那覇港入江のほうにある小さい島で、那覇小禄を結ぶ二本の橋がかかっていたが、これは壊れていた。数人の兵が応射してきたが、撃滅され、島は上陸1時間後には米軍の手に入った。橋がこわされていたため、米軍は物資補給上、ここにかわる鉄舟橋*1を架けなければならなかったが、この架橋作業も日本軍の20ミリ機関砲に邪魔され、最後の鉄舟をはめたのは、やっと翌日のことであった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 460頁より》

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Troops of the Fourth Marines, 2nd Battalion, come in on the beach.

海岸に到着した第4海兵師団第2大隊。(1945年6月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Men moving up over ridges under light opposition. Amphibious landing on Oroku Peninsula South of Naha, area 7271 Q-R-S on target map, Red Beaches 1 and 2.さしたる反撃もない中、高台の方へ移動する兵士。水陸両用戦車が那覇の南方小禄半島に上陸。攻撃目標(戦略)地図7271Q‐R‐S地域のレッドビーチ1、2(1945年6月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

小禄半島北端と奥武山への南下の一方で、那覇での掃討戦も行われる。

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郊外の日本軍陣地を爆破すべく、那覇で105ミリ榴弾砲を設置する第6海兵師団第15連隊第2大隊砲兵D中隊。後方の廃墟と化した大きい建物に注目(1945年6月4日撮影)

”D” Battery, 15th Marines, 2nd Battalion, 6th Marine Division, setting 105mm Howitzer in city of Naha to blast Jap positions on the outskirts of Naha. Note ruins of large building in background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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南部式銃を使う狙撃兵がいると報告されている、那覇の建物に接近する第6海兵師団。この偵察中に狙撃兵を2人排除した。(1945年6月4日撮影)

Sixth Division Marines approach a building in Naha where a sniper was reported using a nambu. During this patrol, two snipers were eliminated.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

雨と泥との闘い

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米国海兵隊: Vehicles bogged down after days of heavy rainfall on the road to Naha. Photo shows one of many types of troops and equipment of 6th Marine Division.
何日も続いた大雨の後、那覇へ向かう道路でぬかるみにはまった車両。写真は第6海兵師団所属の兵士たちや車両。1945年 6月 4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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那覇の前線へ弾薬を運ぶ海兵隊の弾薬輸送トラック。深い泥にはまり、難航する水陸両用トラックに注目。(1945年6月4日撮影)

Marine Corps ammunition trucks bring ammunition to front at Naha. Note deep mud and Amphtracks bogged down in heavy mud.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南部戦線 - 与座岳と八重岳

伊波ー与座ー大里ー米須

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

最後の戦闘で、日本軍に息つくひまも与えずに攻撃するために、バックナー中将は軍団の戦線をさらに西に移動させ、八重瀬岳与座岳の全丘陵が陸軍第24軍団内で陥落するようにした。6月4日を期して、第3上陸軍団と陸軍第24軍団間の境界線は、伊波と具志頭をつなぐ道路にかわって伊波与座大里米須の線に変更された。

ホッジ少将の指揮する陸軍第24軍団は6月4日、攻撃進路を南西の方向に向け、海岸沿いの小さな水田を横切って、…丘また丘を越えて進撃した。

その日の昼さがりに、第7師団は海岸線を5500メートルほども確保し、長い雨ですっかり水びたしになっている港川の土堤まできた。…たった一つの橋が破壊されていたので水量あふれる川を、流れに足をとられぬように気をつけながらゆっくり渡っていった。

第96師団は、西のほうで第7師団と一緒になって港川から伊波への軍団の戦線に加わった。この南のほうには日本軍が、首里戦線のつぎに重要な戦線に防備陣をととのえて、米軍の侵攻を待っているのである。しかも、この一線は、彼らにとって最後の防衛戦線となるのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 455-456頁より》

 

第32軍の動向

第32軍の新防衛線 - 全戦力を傾倒して持久戦闘

1、具志頭八重瀬岳与座岳国吉真栄里の線をもって、軍の新主陣地帯の前線とする。

2、混成旅団は、具志頭付近より八重瀬岳に亘る間に陣地を占領する。

3、第24師団は、右は混成旅団に連繋し、与座岳を経て、真栄里に亘る間に陣地を占領する。

4、第62師団は、軍の背面海岸正面の守備に任じつつ、兵力の整頓、休養を行い、随時陸正面随処に、応援し得る態勢を整う。

5、軍砲兵隊は、主力をもって真栄平付近以東の地区に陣地を占領し、随時随処に、主火力を集中し得る如く準備する。戦闘準備の重点は、第24師団正面とする。

6、海軍陸戦隊は、軍主陣地内中央部に位置し、軍の総予備隊となる。』(338頁) 

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 338頁より》

八原高級参謀の回想:

防御の方針は、八重瀬、与座両高地を支撐とする主陣地帯上において、全戦力を傾倒して持久戦闘し、万一敵が海正面より上陸攻撃しきたる場合は、これを海岸地帯において撃破するにあり、防御配備上の問題点は次の通りであった。

「八重瀬岳を骨幹とする陣地」の意義について、混成旅団長鈴木少将から質疑があったのに対し、軍は、「八重瀬岳はぜひ確保しなければならぬ。これに連繋する右翼平地方面は、なるべく縦深性を付与すべきである」と回答した。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 379頁より》

 

小禄の海軍と民間人 - 最後の一兵に至るまで

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

5月28日に小禄半島に海軍司令部が差し戻されたことで、小禄にとどまっていた民間人も両軍のあいだに封じ込められることとなった。

6月4日午前5時、米第6海兵師団は遂に小禄飛行場北部に上陸してきた。小禄の沖縄方面根拠地隊はここに米軍の攻撃を直接うけることになった。米軍が嘉手納海岸に上陸して以来2ヵ月目のことである。…小禄には、老人らを抱えているため他地区へ疎開できなかった人も大勢隠れていたが、それらの住民の多くも海軍部隊と運命を共にせざるを得なくなった。当初、海軍部隊は陸軍の喜屋武一帯への後退を掩護した後、南部に撤退する予定であったが、米軍の進攻が急速であったため後退することもできず、結局、小禄地区を死守することになった。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101頁より》

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米国海兵隊:  Marines advancing up slope on Oroku Peninsula.
小禄半島の丘を上って進軍する海兵隊員。1945年 6月 4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

その間の事情を、大田司令官は4日次のように報告した。

「第32軍は、6月2日、各部隊の喜屋武半島南部への兵力集中の目的を達成した。この間、海軍部隊は小禄地区を拠点として陸軍部隊輸送の支援にあたった。

第32軍は最初の方針どおり、6月2日以降小禄地区に残存している海軍兵力の主力を喜屋武半島に合流させるつもりであり、当方もそのつもりで着々と準備していたが、2日夕刻から敵の進攻が急速になったので真玉橋嘉数根差部に予備隊(槍部隊)の大部分を参加させる情況となった。さらに、4日早朝小禄地区に海上正面からの敵上陸開始によって、激戦を展開するに至ったため、遂に陸軍部隊との合流は不可能の状態になった。右の事情により、海軍部隊は最後の一兵に至るまで小禄地区を死守するつもりである。本職は、司令部を3日小禄第951海軍航空隊戦闘指揮所に移転して、作戦を指導中である」

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101頁より》

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部隊の後方について海岸を行く海兵隊の戦車。(1945年6月4日撮影)

Marine tanks follow troops ashore.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は海と陸から砲弾の雨を注ぎこみ、その後から戦車を先頭にして歩兵部隊が突撃してきた。まず、火焔戦車爆雷等をもって日本軍のひそむ壕に攻撃をかけ、次に黄りん弾ガソリンなどを投げ入れ、日本軍の壕を一つずつつぶした。これに対し日本軍は夜間の斬り込みと、急造爆雷を抱いて戦車に体当たりすることが主なる戦法であった。

戦闘概報:

午前5時水陸両用戦車約100、兵員約600名小禄(鏡水)付近に上陸を開始する。機銃、迫撃砲、噴進砲等をもって、これに猛撃を与え、さらに明治橋を修理中の敵に対しても猛射を加える等、撃退に努めたが、敵は逐次滲透し午後6時の戦線は当間安次嶺気象台前糸満街道以西に及んでいる。夜間、各隊は全力をあげて挺身切込を決行した。なお、鏡水海岸砲台員は前10メートルにおいて、敵兵約40名と交戦し20名を殺傷した。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 101、101-102頁より》

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破壊された軍機の翼で縁取られたように見える、前線へ移動する部隊。那覇飛行場にて。(1945年6月4日撮影)

Troops moving up, framed by wing of wrecked plane, Naha airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍公刊戦史戦史から

初日の終わりには、米軍大隊は上陸地点からおよそ1700メートルのところにいたが、そこで待ちかまえていた日本軍の猛烈な砲火があった。火器は軽機関銃から40ミリ砲にいたるまで多様で、主に自動兵器だった。これはあとでわかったことだが、彼らの持っている武器の多くは、撃破された飛行機から外したもので、陸戦で使用するため、じつに苦労してカモフラージュし、谷を見降ろす丘の防衛陣地にかくしてあったのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 460頁より》

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小禄半島にある海軍の5インチ砲の砲台。“レッドビーチ1”と“2”を望む。(1945年6月4日撮影)

5” Naval gun emplacement on Oroku Peninsula, overlooking Red Beaches #1 and #2.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小禄の槍部隊 - 防衛召集された県民の運命

小禄の海軍部隊の「兵力」のうち、その多くが「防衛隊員」だった。防衛隊とは、飛行場や陣地の建設・整備のために地元の住民を戦時召集したものである。 

整備兵長の体験談:

「明け方、塹壕の中で仮眠していますと、見張りの兵隊が起こしました。変な旗が見えます、と言う。急いで彼と一緒に壕を飛び出し、小高い場所に上がって目を奪われました。岸壁に旗竿がたくさん並び、色鮮やかな旗が風に靡いてました。

アメリカ第6海兵師団の各部隊旗だったのですが、その時は分かりません。第一線の指揮官である阿部上等兵曹に報告しようと、見張りを残して壕へ下りた途端、機関銃の連射音がして、今、話を交わしたばかりの見張りが撃たれて、転がり落ちて来ました。敵は秘かに塹壕の西側の海岸に上陸し、側面から攻撃を始めたのです。敵だ、起きろ、と全員を起こし、銃撃戦を開始しました」

戦闘を指揮していた阿部上曹が、真っ先に胸を撃ち抜かれて戦死した。他に上級下士官はいない。指揮は20歳の…兵長の役割となった。

これに先立つ5月12日、同小隊も32軍の総攻撃に狩り出されたが、首里方面へ出掛けた隊員は1人も帰らなかった。…その後、補充されて来た約200人は30歳を過ぎて初めて召集された下級兵士ばかり。しかも小銃は、5人に1梃しか持たされていなかった。

「たちまち劣勢になり、その老兵たちが、どうしますか、と10歳以上も若い私に聞いて来るのです」…「私ももとをただせば戦闘員じゃなく、飛行機の整備兵ですからねえ。海兵団の訓練で小銃を50発ほど撃った経験はあるが、戦闘なんかしたことがないから分かりません。だけど、そんなことを言ってられませんから、当間の小隊本部に伝令を出しました。伝令文の作り方も何も知りませんから『敵が攻めて来た。只今、応戦中。食料と指導者を寄越して下さい』という連絡でした。

その間にも塹壕の17、8人は次々撃たれ、バタバタと死んで行く。待ちに待った伝令が持って帰った小隊本部の命令は、…『いずれはここもやられる。どこで死ぬのも一緒だ。そこを死守せよ』という内容でした。撤退を具申した訳ではないのに、そこで死ねとは・・と、無性に腹が立ちました」

分隊員は、既に半数以上が戦死していた。約300メートル後ろにも塹壕があり、1個分隊が戦っていた。…兵長は命令への反発もあって、自分の責任で「一つ下がろう」と皆を促し、弾雨の切れ目を縫って、一つ後ろの塹壕に転がり込んだ。

「振り返ると米軍は、つい今しがたまで私たちが居た塹壕を既に占領していました。それ程接近戦でした。しかも、私たちが2列目の壕からも逃げてしまったと思ったのか、銃を腰だめにしてジリッジリッと近づいて来る。30メートルの至近距離まで接近、鬼と教えられていた赤黒い米兵の顔がはっきり見えました。あの時の心境は、怖いの一言に尽きます」

引き付けるだけ引き付けての一斉射撃。米兵たちは巨体をひるがえして逃げた。相手も同じ心境と分かって幾らかホッとする間もなく、迫撃砲のお返しが雨あられ塹壕に降り注いだ。また、何人かの戦友が戦死。しかし、その日は何とか2列目の塹壕で踏み止まった。長い1日だった。(413-416頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 413-416頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/92-17-2.jpg

壕の入り口を慎重に調査する海兵隊員たち。(1945年6月4日撮影)

Marines cautiously surveying cave entrance.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

一方、陸戦隊への改編後は浜野部隊と呼ばれた佐世保海軍軍需部那覇派遣隊の…上曹は、敵の上陸地点から南西へ約2キロ、糸満街道に面した安次嶺の、標高約の20メートルの高台に作ったトーチカ陣地に潜んでいた。台地を円筒形に掘り下げ、内部にコンクリートを打ち、上に厚い鋼板をかぶせて銃眼を作った急造陣地。その背後にH型の居住壕を掘っていた。

部隊といっても、総員約50人。うち正規の軍人は9人だけで、他は軍属防衛召集の県民。武器は、那覇港外で空襲を受け、座礁していた機帆船からはずして来た12ミリ機銃と、小禄飛行場離着陸失敗して、もんどりうっている友軍機からはずして来た7ミリ機銃数梃があるだけだった。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 416頁より》

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OROKU PENINSULA--View of a Japanese Bunker and the seawall along the Western beaches of Oroku Peninsula where the 4th Marines launched their amphibious operation on June 4th.小禄半島--日本軍の掩蔽(えんぺい)壕と小禄半島西海岸沿いの防波堤。第4海兵連隊は6月4日にここから上陸作戦を開始した。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

上曹の体験談:

午前5時ごろ、敵上陸の無線が入った。僕が『敵襲ーッ』と叫んで銃眼からのぞくと、前方400メートルくらい先に、もう深い緑色の水陸両用戦車がズラッと12台も並んでおるのですよ。…徒歩の偵察隊が戦車の両側に居るのだが、高い姿勢であちこちへ散発的な小銃射撃を繰り返し、安全を確認するまでなかなか進んで来ない。地雷探査も徹底している。私たちは南部から引き返して来てから、敵が攻めて来そうな個所に地雷をいっぱい敷設したのですが、巧い具合に擬装したつもりのものを、探知機でどんどん回収していく。こっちは引きつけるだけ引きつけて一斉射撃したつもりですが、彼らには全然こたえない。それどころか猛烈に撃ち返して来る

午後遅く、後方の沖根司令部付近から、新兵器の噴進砲(ロケット砲)の掩護射撃が始まった。奇妙な発射音、煙の尾を引きながらユラユラと飛んで行く様は頼り無げだったが、それでも敵の上陸地点辺りで火の手が上がり、友軍を大いに勇気づけた。…夕方から激しい雨になった午後5時、米軍はその日の〝仕事〟を終え、さっさと後退した。

「やれやれ、何とか一日持ちこたえたと思ったら、もう弾丸が、あと30分も連射したら尽きるぐらいしか残っていないのです。ああ、明日からどうしよう、と思っていた時、司令部から今夜、挺身斬り込みを決行せよとの命令が届きました」

…「僕は…小禄半島の地形を、知り尽くしていましたから、翌日からの米軍攻撃に対応するために、本部に居ってもらわねば困る、という訳です。そこで兵曹長を指揮官にした30人くらいが、篠つく雨の中を出撃しました。浜野部隊の正面に居た米軍は、占領した小禄飛行場内に幕舎を張り、音楽を流すわ、自家発電の電灯をこうこうと灯すわ、ピクニック気分だったそうです。しかし、周囲にはピアノ線を張りめぐらし、ちょっと触れると、自動小銃や機関銃が雨霰と飛んで来る。結局、斬り込む余地はなかったと聞きました」

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 416、416-418頁より》

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This general view of Naha Airfield was photographed shortly after the U.S. Marines captured the field in 1945. Note the bomb craters around the demoloshed aircraft in the foreground.1945年に米海兵隊が攻略した直後の那覇飛行場の概観。手前に見えるのは爆撃によってできた弾孔。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

宇栄原の護部隊でも、斬り込み隊が編成された。…護部隊は約800人が出撃、数十名福生小隊も全員参加した。…大雨の中、照明弾が上がる度に伏せ、泥んこの匍匐前進で敵の歩哨線に接近、散開した。敵陣の方が高い、嫌な地形だった。…武器は爆雷榴弾である。(418頁)

… この斬り込みで護部隊全体では約6割が戦死福生小隊は7割が死んだ。(419頁)

上等機関兵の証言:

「攻撃開始で手榴弾を一斉に投げ込んだ途端、頭上から機関銃で撃ちまくられ、戦友がなぎ倒されて行きました。鉄兜を土にめり込ませて伏せたが、銃撃で持ち上げられた土砂が体にバサバサかかるのです。右側にいた小隊長は、声も上げずにうつ伏せに倒れ、戦死したのは分かったが、側へ寄りつけない。そに向うの高橋兵長も右足貫通の重傷で、敵の死角へ引きずり込むのが、やっとでした」(419頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 418、419頁より》

 

 

白梅学徒看護隊の解散命令

沖縄県立第二高等女学校の4年生56名で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第24師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦として特別集中教育を受けていた。米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。

総務省|一般戦災死没者の追悼|白梅之塔

youtu.be八重瀬町、富盛地区の「白梅学徒看護隊之壕」です。
標高163メートルの八重瀬岳に「白梅学徒看護隊之壕」の石碑があります。当時、多くの女子学徒がこの場所で看護にあたっていたことを刻んだ碑です。この壕は、陸軍の野戦病院として造られ、500人の負傷兵が収容されたともいわれます。解散命令が出る6月4日まで、白梅学徒隊は看護を続けました。動員された56人のうち22人が犠牲になりました。

 

そのとき、住民は・・・

戦場に取り残される老人、殺される老人

ハジチ(針突)をうつ沖縄の女性】

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NO REST FOR THE AWAKE - MINAGAHET CHAMORRO: Occupied Okinawa #10: Hajichi Decolonization

6月4日、われわれは篠つく雨のなか、平坦な田園地帯を足早に南進していた。敵の抵抗はまばらだったが、民家や小屋、日本軍の砲座などは、残らず確認する必要があった。ちっぽけなあばら家を捜索した際、私は1人の老婆に出会った。戸口のそばの床に座っていた老婆に、念のためトミーを構えて、表に出てくるよう身ぶりで示した。老婆は座ったまま白髪頭を下げ、節くれだった両手をこちらに差し出して、手の甲の入れ墨を見せた。このしるしは沖縄人特有のものだと聞いていた。

ノー・ニッポン」。老婆はゆっくりそう言って、かぶりを振った。私を見上げるその表情から、かなりの痛みをこらえていることがうかがえた。それから老婆はボロボロになった青いキモノの前をはだけて、左下腹部の大きな傷を指さした。かなり前に銃弾または砲弾の破片を受けたものらしい。傷の状態はひどかった。かさぶたに覆われた傷口周辺が広い範囲で変色し、壊疽を起こしていた。息が詰まる思いだった。腹部がこの状態では命も危ないだろう。

老婆がキモノをかき合わせた。それからそっと手をのばして私のトミーの銃口をつかむと、おもむろにそれを自分の眉間に向けさせた。そのうえで、銃身を手放すと盛んに身ぶりで伝えてくる。引き金を引けというのだ。なんということだ、と私は思った。この老婆は悲嘆のあまり、自分を救ってくれ、こんな苦しい思いを終わらせてくれと、私にすがっているのだ。私は銃を肩にかけ、首を横に振って、「ノー」と言った。それから外に出て、大声で衛生兵を呼んだ。

…「あのなかにかわいそうなばあさんがいる。横腹を撃たれて、ひどい怪我だ」

「処置できるかどうか、見てみよう」…そのとき、あばら家で銃声が聞こえた。私ははっと振り向き、衛生兵とともに身をかがめて警戒姿勢をとった。「M1の銃声だな」。私は言った。「確かに。どうしたんだろう」。衛生兵が応じた。

ちょうどそのとき、あばら家から1人の海兵隊員が出てきた。呑気そうにライフルの安全装置を確認している。よく知っている男で、当時は中隊本部に配属されていた。私は男の名前を呼んだ。「その小屋にニッポン人がいたろう?さっき確認したところだ」

「いいや」とこちらに向かって歩きながら、男は答えた。「薄汚いばあさんはいた。苦しいので殺してほしいというから、思いどおりにしてやったよ!」衛生兵と私は顔を見合わせ、ついで近づいてくる男を見つめた。おとなしく物腰のやわらかな若者で、民間人を冷酷に殺害できる柄ではなかった。あばら家の戸口に崩折れている色あせたキモノ姿の人影を見たとたん、私は逆上した

なんということをするんだ。おれだって撃ってくれと頼まれた。だが、衛生兵を呼んで助けにいくところだったんだ!」老婆を撃ち殺した男は、困惑の表情で私を見た。「この人でなし野郎!」と私は叫んだ。…「おれたちが殺さなきゃいけないのはニップなんだ。こんなばあさんじゃないんだ!」…下士官がやってきて何事だと尋ねた。衛生兵と私が事情を話すと、上官も烈火のごとく怒って、「この馬鹿ものめが」とどやしつけた。

…「おまえたちは出発しろ。あとはおれが引き受ける」と下士官が言った。われわれはこっぴどく叱りつけられている男を尻目に、迫撃砲班に追いつくために走りだした。この男の非情な行動に正式な懲罰が下ったかどうかは、わからずじまいだった。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 432-435頁より》

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偵察中の米兵に発見され、後方に連れて行かれる女性  (撮影日、場所不明)

Two GI's conduct Okinawa woman to the rear. She was found and brought back by a patrol of 3rd Bn., Infantry in the front lines.

Color Pictures of Soldiers in the Field during World War II, Royalty Free

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第1海兵師団第1連隊の海兵隊員によって保護された年老いた地元女性。4日間も食事をしていなかった。(1945年6月撮影)

Old native woman found by Marines of 1stReg, 1stDiv. She had been without food for four days.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

 

壕からの追い出し - ウフ壕

南下する日本兵は、次々と壕から住民を弾雨のなかに追いだした。

ウフ壕(田原屋取の壕)

糸満市真栄里集落の東側丘陵にある地元住民が避難するために整備した自然壕がウフ壕です。首里崩壊後の6月4日歩兵第32連隊の連隊長以下50名が移動して来て、住民は壕から追い出されました。8月28日、捧持していた軍隊旗を壕内で奉焼し、翌日米軍に降伏しました。

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ガイドブックに載らない史跡

 

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*1:ポンツーンのこと